「掃除なんて誰でもできるじゃん。やってるふりだけは一丁前。」
私は掃除のおばさんだ。いくら綺麗に掃除しても、社長は決して認めてくれない。悔しくて完璧な掃除を心がけたけれども、結果は同じだった。
「くっ、いつ見てもお前はボケっと邪魔なところに突っ立っててさ。もっと頭使っておけよ。」
そんな中、親切にしてくれる人もいる。営業部の竹中だ。
「佐藤さんが毎朝こうして掃除してくれるから、私も仕事のやる気が出るんです。本当に感謝していますよ。今日もありがとう。いつも綺麗で助かります。」
気持ちのいい、完璧な感謝の言葉をかけてくれる。私はにっこりと穏やかに満面の笑みを浮かべた。
「竹中さん、君、今日で終わりね。」
――私は掃除が得意だ。どんなに些細な汚れも見逃さない。この会社にこびりついた汚れを、今、落としてみせる。
私の名前は佐藤み子。今年で51歳になる。毎日の仕事は、とある企業のビル清掃だ。大きな会社というわけではない。それでも地上3階建ての建物を、私1人で隅々まで掃除して回るとなると、結構な労働だ。朝早くから夕方まで、腰をかがめて床を磨き、ゴミを集める。体力的にきついけれど、私はこの仕事にささやかな誇りを持っていた。
午後になり、3階の男性トイレの掃除に取りかかった。覚悟を決めてトイレのドアを開ける。
「あら」
思わず小さな声が漏れた。汚れているだろうと身構えていたのだが、驚くほど綺麗なのだ。便器の周りも個室の床も、ほとんど汚れていない。
実は数日前、男性トイレの便器の正面に小さなステッカーを貼っておいたのだ。「いつも綺麗に使っていただきありがとうございます。もう一歩前へ、ご協力をお願いします」と、目を引くように目立つ色でデザインした。効果があったのかもしれない。私の小さな工夫が、誰かの行動をほんの少し変え、この場所を綺麗に保つことにつながったのだ。
「よかった。ちゃんと見てくれている人がいるんだ」
嬉しくなり、普段よりもっと丁寧にモップを動かした。今日このトイレを使った社員たちは、私が掃除している姿に気にかけることもないだろう。いつの間にか綺麗になっている、そんな感覚だと思う。それでも、自分の仕事が誰かの快適な1日につながっていると思えば、十分に報われる気がした。
トイレの掃除を終えて廊下に出る。ピンク色のゴム手袋を外し、清掃用カートにぶら下げた。次の場所へ進もう。歩き始めたその時、背後から調子を含んだ声が響いた。
「なんか臭い。」
振り返ると、そこには手触りのいい高級なスーツに身を包んだが、今にも嫌そうに私を睨みつけて立っている。この会社の現社長である創一だ。私の夫でもある。創一はわざとらしく鼻をつまみ、顔をこれでもかと歪めた。私に対するあからさまな侮辱だ。
「トイレはたった今清掃を終えたところです。とても綺麗よ。使うのならどうぞ」
努めて冷静にそう告げても、創一は子供のようにからかうのをやめない。
「いや、なんか臭いって。トイレおばちゃんのカレー? それとも、そのモップがどぶの?」
仮にもここは創一がトップを務める会社だ。自分が経営するビルの廊下で大声をあげて臭い臭いと騒ぎ立てる。それが自分の会社の価値や品性をどれだけ貶めることになるのか。彼は微塵も考えていないようだ。
創一は今年で53歳。私より2つ年上だ。それなりの人生経験を積んできたはずの男がやっていることは、まるで小学生の悪乗りである。私は心の底から呆れ果て、ただ黙って彼の言葉を受け流した。
すると創一は思い出したようにトイレのドアの方を指差す。
「そういえばさ、トイレに貼ってあるステッカー、何なんだよ。『綺麗に使ってくれてありがとう』ってやつ。あれすげえ嫌みったらしくて気分悪いんだけど」
「綺麗な方が使う人にとっても気持ちがいいでしょ。みんなの心がけ1つでこの美しさを保てると思ったから」
「は? 何言ってんの?」
創一は腰に手を当て、胸を大きく反らせた。
「あのさ、みんなが綺麗に使い始めたら、あんたが掃除する意味なくなるよね。仕事がなくなって困るのは誰? 俺はあんたに仕事を与えてるわけよ。俺って本当に従業員の雇用を守る天才社長だな」
えっへんと誇らしげなのが聞こえてきそうなほど、創一は満足に鼻を鳴らした。自分は素晴らしい。そんな全能感に酔いしれているのが丸分かりで、なぜか私が恥ずかしくなる。
そこへ廊下の向こうから小気味よい音が響いてきた。カツカツとハイヒールが床を叩く音だ。廊下の角を曲がって現れたのは若い女性。体にぴったりとフィットしたタイトスカートを履いている。豊かな胸元を強調するようにブラウスのボタンを少し開け、歩く度に揺れる艶やかな長い髪から甘い香りが広がった。
女性らしさを全身からこれでもかと放ちながら近づいてきたのは、社長秘書のユナだ。彼女はまだ20代後半。創一からは以前かなり有能で優秀な人材だと聞かされた。元々は一般の事務として採用されたが、彼女には光るものがあると創一自ら自分の秘書に引き抜いたのだ。
「若さや艶も立派な才能なんだよ。ユナちゃんが隣にいるだけで、みんなが俺に一目置く。俺の社長としてのステータスがさらに際立つんだ」
以前、彼が鼻高々にそう語っていたのを覚えている。確かにユナは少し釣り目でシャープな顔立ちが特徴的。黙っていれば凛としたクールな美女だ。しかし彼女が口を開いた瞬間、その凛としたイメージは一瞬で崩れ去る。
「社長、何? 奥さんとラブラブしてるんですか? 次の予定、遅れちゃいますよ」
馴れ馴れしく余裕たっぷりの猫なで声。ユナはその腕に自分の胸を押し付けるようにして上目遣いで甘えた。可愛らしい態度とは対象的に、じろりと私を一瞥する。哀れむような見下すような、冷たい視線を向けた。
そしてこれ見よがしに自分の手帳を開き、私はこんなに忙しくて有能なんですと言わんばかりのアピールを始める。
「社長、次はSS運送さんとリモートで打ち合わせです」
「え、今日ってリモートで良かったんだっけ?」
創一が間抜けな声を出すと、ユナはクスクスと笑って彼の肩を叩いた。
「です。社長はお忙しいから、私がリモートに変更しておいてあげたんですよ。私、気が利く秘書ですから」
「ああ、さすがユナちゃん。天才だな。助かるよ」
二人は私など最初から存在しなかったかのように、仲睦まじく言葉を交わしつつ廊下の奥にある社長室へと歩いていく。べったりとくっつく二人の後ろ姿を見送りながら、私は小さくため息をつき、再びモップを硬く握りしめた。
翌日、会社に重要な取引先を迎えた。創一には「お客様の前に出るな。お客様の目につかないように作業の手を止め、見えないところで気配を消していろ」と厳しく言われている。エレベーターホールのある場所から創一とユナ、そして初老の男性が笑顔で降りてきたので、私はさっと物陰に隠れた。
お客様のお見送りで、創一は大げさに自分の胸をドンと叩く。
「次のプロジェクトも是非、我が社にお任せください。完璧な遂行を約束します」
ユナも深く頷いた。口を開けば余裕たっぷりだけれど、美しい微笑みを浮かべているだけの彼女は有能なキャリアウーマンに見える。若くて美しい秘書を従え、さも自分が最先端の敏腕経営者であるかのように振る舞う創一の顔は満足感で満ちていた。
取引先の男性は感心して周囲を見回す。
「頼もしい限りです。それにしても御社はいつも社内が美しいですね。部屋の乱れは心の乱れ、社内の乱れは経営の乱れと言いますが、これだけ隅々まで整理整頓が行き届いている会社なら、信頼して仕事を預けられます」
その言葉を聞いた瞬間、柱の影で息を潜めていた私の胸がドキンと高鳴った。毎日腰の痛みに耐えながら床を磨き上げてきた苦労が、一瞬で吹き飛ぶようだ。
「よくぞ気づいてくださいました」
誇らしげに創一は顎を突き出す。
「我が社では全社員を挙げてクリーンアップ運動に取り組んでおりましてね。環境美こそがいい仕事を生む基本だと、私は考えているんです。社長の私自ら、管理の重要性を常々社員に説いています」
ユナは創一の隣で上品に深く頷いている。
「素晴らしい教育ですね。特に、先ほどお借りしたトイレが本当に気持ちよくて、いつも感動しているんですよ」
「いやあ、綺麗なトイレは我が社の名物ですから。またいつでもお越しください」
まるで自分が毎日便器を磨いているかのような口ぶりで、創一は取引先の男性とがっちり握手を交わした。輝かしい雰囲気のまま、二人はお客様を丁寧に見送っている。物陰でそれを聞いていた私は嬉しくてたまらなかった。毎日誰も見ていないところで黙々と続けてきた掃除が、会社の信頼につながった。社外の人から褒めてもらえるなんて、清掃員として冥利に尽きる。今までの辛さが報われたような気がした。
社用車を乗せた車が見えなくなり、創一というのがエントランスからエレベーターホールへと戻ってくる。ちょうど私もバケツを持って移動しようとしたところで、タイミング悪く二人と鉢合わせしてしまった。胸に残る達成感を抑え切れず、つい素直な気持ちを口にした。
「あの、社長。今のお客様のお言葉、すごく嬉しかったですね。毎日心を込めて掃除してきた甲斐がありました」
私の言葉を聞いた瞬間、創一の顔から笑顔が消えた。彼は信じられないほど冷たい、ゴミを見るような目で私を見下ろし、真面目腐った口調で言う。
「は、あんなのただの社交辞令に決まってるだろう。ビジネスの場での決まり文句。それを真に受けて嬉しいとか、よく恥ずかしげもなく言えるね。え、清掃員が掃除するのは当たり前。綺麗で当たり前なの。あんたは当たり前のことをしただけで、何天狗になってるわけ?」
創一は腕を組み、周囲にいる他の社員たちにも聞こえるような大声で私を叱責し始めた。
「例えばさ、契約取れました。俺すごいでしょって。営業が自慢しに来たりしないよね。仕事なんだからやって当然。自分の仕事をこなしただけで褒めてもらおうなんて、子供じゃないんだからね」
「社長の言う通りです。自分のやるべきことをやっただけで偉そうにするなんて、お粗末ですよね」
ユナは口元に意地の悪い笑みを浮かべ、創一に同調した。
「すみません」
私は俯いて、握りしめた手を強く握りしめることしかできない。二人はそんな私の目の前を嘲るかのように通り過ぎ、到着したエレベーターに乗り込んだ。ドアが閉まるその直前、創一とユナがぷはっと耐え切れずに吹き出す。お腹を抱え、声をあげて笑い合う姿がほんの一、二秒の合間に見えた。真面目な顔で注意していたけれど、私を全社員の前で晒し物にして楽しんでいただけなのかもしれない。
エレベーターホールには私の他にもたくさんの社員たちがいた。みんな気まずそうに目をそらしている。意地の悪い子供のように叱り飛ばされた恥ずかしさと情けなさで、全身がカーッと熱くなった。けれど必死に首を振って、自分を納得させた。
――私は社長の身内だ。会社という公の場で、身内にだけ甘い対応することなんてできない。そう、きっと示しをつけるために敢えて厳しくしたのだ。そういう気持ちは理解できる。でも、社外の人が見ていないところで褒めてもらったことはただの1度もない。「いつも綺麗にしてくれてありがとう」と、嘘でもいいので言ってもらえたら救われたのに。
――うん。人に求めすぎちゃだめね。
私はまた首を振って、心の中に湧き出た甘えを打ち消した。掃除が私の仕事。仕事をしているだけ。「ありがとう」の言葉が欲しかったなんて、やはりお粗末だ。私は深くため息をつくと、次の掃除するフロアへと向かうために歩き出した。
清掃は全体を1度やれば終わりというわけではない。特に多くの社員が利用するトイレは日に何度も掃除に入る必要がある。朝一番に磨き上げ、昼休みの終わりに見回り、そして夕方にもう1度念入りに清掃をこなすのが私の日課だ。
夕方、1階の男性トイレに入った。今回も床を磨き、鏡を吹き、便器をピカピカに仕上げる。途中でリフォームしたとはいえ、それなりの年月が経っている建物のトイレとは思えない清潔さだ。これでみんなに気持ちよく使ってもらえると、自信満々に頷いた。
バケツを手に外へ出たところで、1人の若い男性社員とばったりと鉢合わせする。営業部の若きエース、竹中英太だ。細身のスーツをスマートに着こなし、いつも爽やかな笑顔を絶やさない。社内でも評判の高い青年である。
「あ、竹中さん。ちょうど今掃除が済んだところです。どうぞ」
私が声をかけると、竹中は足を止め、丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。いつも本当に助かります。早速使わせてもらいますね」
そう言って彼は屈託のない笑顔を残してトイレへと入っていった。私は廊下で清掃カートの雑巾を整えたり、ゴミ袋をまとめたりして次のフロアへ行く準備をする。すると竹中がトイレから出てきた。彼は私を見つけて、また嬉しそうに近寄ってくる。
「いや、本当にあなたの掃除は完璧ですね。トイレだっていつもピカピカで、入るたびに気持ちがシャキッとします。うちの会社の隠れたMVPは、絶対にあなたですよ」
「そんな、私はただ自分の仕事をこなしているだけですから」
謙遜する私に、竹中はそんなことないですよと優しく微笑みかけた。
「誰もが見て見ぬふりをする場所に、先回りして手を尽くしてくれる。そのおかげで僕たちがどれだけ救われているか。本当にいつも感謝しています」
彼の言葉が私の心に、じんわりと染み渡る。つい先ほどまで「お前が掃除をするのは当たり前だ」「勘違いするな」と大声で罵られたばかりだ。傷つき縮こまっていた私の心が、竹中の温かい言葉によって解きほぐされていく。
社内で、清掃員である私にこんな風に屈託なく、1人の人間として対等に話しかけてくれるのは彼だけだ。そういえば朝に廊下ですれ違う時も、彼はいつも「おはようございます」と誰よりも気持ちのいい挨拶をしてくれる。
「じゃあ、僕はこれから外回りに行ってきます」
「はい。行ってらっしゃい。お気をつけて」
竹中はもう一度爽やかに微笑むと、長い足でひょいひょいと廊下を歩いていった。彼はすれ違う社員たちにも「あ、山田さん先日はどうも」「鈴木さん、その荷物重くない? 3階まで一緒に運ぶよ」と次々に声をかけていく。声をかけられた社員たちは、みんな嬉しそうに顔を綻ばせていた。誰に対しても分け隔てなく親切で優しく、本当にいい人だ。私への感謝の言葉も、もしかしたら彼にとっては周囲に振る舞っているいつもの親切の1つに過ぎないのかもしれない。創一の言うようにただの社交辞令だとしても、きちんと言葉にして「綺麗で嬉しい」と伝えてくれることが、私には何よりもありがたかった。
竹中は本当にこの会社で唯一の、心の綺麗な人だ。私は温かい気持ちのまま清掃カートを押した。歩き始めたその時、ふとカートのホルダーに洗剤のボトルがないことに気がつく。
「あら、さっきのトイレに忘れてきちゃったかしら」
私は呟きながら、今出てきたばかりの1階の男性トイレへと引き返した。洗剤ボトルを回収するだけなのですぐに済む。軽い気持ちでドアを開け、一歩中に入った瞬間、私はその場に足を竦んだ。
――え。
水滴1つなく磨き上げていたはずの洗面台が、信じられないほどにびしょ濡れになっている。まるでわざと水を跳ね散らかしたかのように、鏡にまで水滴が飛んでいる。なんとなく嫌な予感がして胸がざわついた。恐る恐る、奥の便器の方へと視線を向ける。心臓の辺りが冷たくなった。便器の周りの床に、黄色い液体の水溜まりができていたのだ。
私はずっとこのトイレのすぐ前の廊下にいた。掃除を終えてからこのトイレを使ったのは、もう、竹中さんだけだ。竹中さんはあんなに優しくて、丁寧で気持ちがいいと褒めてくれたばかりではないか。きっとものすごく急いでいたのだろう。営業の仕事が詰まっていて時間がなくて慌てていたから、手元が狂ってしまっただけだ。私はそれ以上考えるのをやめ、バケツから新しい雑巾を取り出す。先ほどよりも少しだけ重い足取りで、もう一度掃除をやり直した。
数日後の昼下がり、私は3階の廊下で集めたゴミを大きな袋にまとめていた。そこへ昼食から戻ってきたらしい創一とユナが、またしてもハイヒールの音を響かせて歩いてくる。私の姿を見つけた創一の顔に、意地の悪い笑みが浮かんだ。
「おいおい、邪魔だな。せっかく飯食ってきたのに、悪臭を漂わせないでよ。ゴミとか見たくないんだけど。もっと配慮を持って働けよな」
彼は革靴の先で、今まさに結ぼうとしていたゴミ袋をわざとコツンと蹴った。
「社長の言う通りです。手前、廊下にそんな汚いゴミを広げられたら、私のお気に入りの靴が汚れちゃうじゃないですか。早くどこかへ持っていってください」
ユナが鼻をつまみながら、私を邪魔者扱いして嘲笑う。公の場である会社の廊下で、二人から浴びせられる要のない言葉。私はただ小さく「すみません」と頭を下げるしかなかった。
そこへ意外な救世主が現れる。
「社長、そこまでにしてあげてください」
低く穏やかな声が響いた。振り返ると、資料を抱えた竹中が困ったような、それでいて毅然とした表情で立っている。彼は私と創一の間にすっと割って入った。私を背中で庇うようにして守ってくれたのだ。
「なんだよ、竹中。お前、このおばさんの味方をする気か? え? まさかおばさんに惚れてるの?」
創一が面白くなさそうに声を潜めると、竹中はいかにも仕事のできる男らしく、爽やかな苦笑いを浮かべて首を横に振った。
「滅相もありません。ただ、社長。まあ、その辺にしておいてあげましょう。彼女も悪気があってやっているわけではないんですからね」
竹中は創一の目をまっすぐ見つめ、その場を収めるために言葉を続ける。
「だって、ただの掃除のおばちゃんなんですよ。若くて有能な秘書のユナさんや、経営の天才である社長とは違って、社会の仕組みも難しいビジネスのルールも何1つ分からないんです。そんな知識のない人に高いプロ意識を期待したところで、意味があるのでしょうか?」
「ふん」
創一は鼻を鳴らす。
「まあ、それもそうか。時間の無駄だな」
「です。竹中さんって本当に話が分かりますよね」
創一というのは竹中の言葉を素直に受け入れて、「じゃあ行こうか」と社長室へ消えていった。
嵐が去った廊下で、私はようやく呼吸ができるようになる。竹中が間に入ってくれなければ、あの執拗ないやがらせはいつまで続いていたかわからない。
「大丈夫でしたか? 社長って、あなたをなぜか目の敵にしていますよね」
床に落ちていたゴミを拾って、彼は袋に入れてくれた。竹中の瞳はいつものようにどこまでも優しく、私を心配してくれている。
「ありがとうございます。竹中さん。庇っていただいて、本当に助かりました」
「気にしないでください。困ったことがあれば、いつでも相談してくださいね」
爽やかに微笑み、彼はその場を去っていった。竹中は本当にいい人だ。私のために、あの傲慢な社長に意見までしてくれた。人がいなくなった静かな廊下で、私は自分の古びた作業着の裾をぎゅっと握りしめる。
これほどまでに創一の理不尽に従い、どれほど貶められても言い返せないのには理由があった。――私の実の父親の存在だ。父は昔ながらの亭主関白な男。「男は外で働き、女は家庭を守るものだ。男が偉く、女は一歩引いて従うのが美徳である」という強い信念を持って生きていた。実際、数年前に亡くなった私の母は生涯ずっと専業主婦。私が学校から帰ると、いつも笑顔で迎えてくれて手作りのおやつを用意してくれているような優しい人だった。
母の口癖は「お父さんが一生懸命働いていてくれるから、私たちはこうして不自由なく暮らせるのよ」だった。常に夫を立て、影から支え続ける、絵に描いたような良妻賢母だ。
そんな両親を見て育った私は、無意識のうちに「女は男に従うものだ」という価値観をすり込まれていたのだと思う。父の生き方は、令和の現代では受け入れられないような偏ったものだ。けれど決して悪い人ではなかった。仕事仕事でいつも不在だったが、家族を大切にする気持ちは伝わってきた。
今でも鮮明に覚えているのは、9歳の誕生日。
「出かけるぞ。学校なんか休めばいい」
朝突然車に押し込まれ、わけもわからないまま連れて行かれたのはテーマパークだった。開業して間もない話題のテーマパークへ行ってみたいと母に常々ねだっていた。そんな夢の国に私は立っている。不思議な感覚と最高のサプライズに、飛び上がって喜んだ。家族で過ごしたあの特別な1日は、40年以上経った今でも鮮明に覚えている。
不器用で頑固で、どこまでも男らしくあろうとした人だ。正直に言えば幼い頃から私は父が苦手だった。褒められた記憶はほとんどない。いい意味でも悪い意味でも「お前は女だから」と言われる度、胸の奥がキュッと痛んだ。
創一と私が結婚した際には、このような言葉をかけられた。
「これからは創一君がこの家の主だ。お前は妻として、創一君をしっかり支えなさい」
素直に「はい」と返事をした私が想像していたのは、実の両親のような関係だ。外で忙しく働く夫。献身的に家庭を支える妻。――違う。いつの間にか、私は清掃の仕事を強制され、社内でも家庭でも惨めな思いをしている。本当は苦しかった。しかし父の言葉が呪縛のように私を縛りつけ、どうしても創一に強く反抗できない。「妻は夫を立てるもの」という理想が私にしつこくこびりつき、いつも足を引いてくる。
そんな父が危篤だと、入院先の病院から連絡が入ったのはある日の夕方のことだ。電話を切り、スマホの画面を見つめたまま、私の目から大粒の涙がポロポロと溢れ落ちてくる。父が苦手だった。怖かった。けれど私と母の生活を必死に支え、守り抜いてくれた唯一の存在だった。ここが会社であることも忘れ、私は休憩室の片隅で声を詰まらせる。
「おいおい、おばさんが何泣いてんだよ。みっともないなあ」
背後から馴れ馴れしい声が聞こえた。振り返ると、缶コーヒーを手にした創一が軽佻そうにこちらを見ていた。
「父が危篤だって。今、病院から連絡があって」
涙を拭いながら伝えると、創一は悲しむどころかふっと鼻で笑った。
「マジか。危篤か」
あまりにも軽い言葉で。更に続けた。
「お前、何泣いてんの? それ、悲しいふり? ただのパフォーマンスだろ」
「パフォーマンスって、そんなわけないでしょ。そ、だって、お前の父親、怖かったじゃん。どうせ泣くなら葬式で泣きなよ。今誰も見てないんだから。涙の無駄遣い」
創一はそう言うとコーヒーをごくっと飲み干し、空き缶をシンクの脇に放り投げた。仕事人間の父ではあったけれど、あの人はあの人なりに家族を愛してくれていたはずだ。しかし、私の涙を演技だと切り捨てた創一の顔には、隠しきれない快哉の色が浮かんでいる。彼にとって父は、頭の上がらない唯一の存在だったのだ。
「さ、バカバカしい泣きまねを終わりにして、早く仕事戻れよ。2階のトイレ、びちょびちょに汚れてたんだけど、しっかりしろよな」
創一は私の肩を乱暴に押しのけ、上機嫌で休憩室を出ていった。冷たくなった部屋に1人取り残され、私は涙を拭うことすら忘れて立ち尽くした。防波堤のような父が、もしいなくなったら。創一の暴走はどこまで加速していくだろう。底知れない恐怖が襲ってきた。
「佐藤さん、早くお父さんのところへ行ってあげてください」
立ち尽くす私の前に、竹中が息を切らせて飛び込んできた。彼は私の怯えた表情を見て、すぐに事態を察してくれたらしい。
「すみません。立ち聞きするつもりはなかったのですが、聞こえてしまいました。さ、早く。お父さんが危篤なんでしょ?」
「あ、ああ、でも、社長に今すぐ仕事に戻れと言われてますから、勝手に勤務を離れるわけには」
仕事を放棄すれば、後で創一に叱られるのが分かっている。父の元へ駆けつけたい気持ちはあるものの、足が竦んで動かない。そんな情けない私に向かって、竹中は強く真っ直ぐな声で言い放った。
「仕事なんて後回しでいいんです。今、佐藤さんがいるべきなのは、お父さんのところへ駆けつけることでしょ。迷っている時間なんてありません。早く」
力強い言葉が、私の凍りついていた心を激しく揺さぶった。そうだ。私はなぜ創一の顔色ばかり窺っているんだろう。彼に遠慮して怯えて、実の父親の最期にすら立ち会わないつもりなのか。今やらなければならないのはトイレ掃除ではない。父の元へ行くことだ。
「竹中さん、ありがとう」
私は涙を拭い、作業着のまま走り出した。背後から「気をつけて」という竹中の大きな声が追いかけてくる。
「掃除なんか、ぶっちゃけ誰がやってもやらなくても同じですから。あとは私がうまく言っておきます。早く行って」
竹中が味方になってくれたことで、私は決心できた。息を切らせて病室に駆け込むと、そこには何台もの医療機器に囲まれ、ベッドに横たわる父の姿がある。慌ただしく動く医師や看護師たちの中心で、父は酸素マスクをつけ、意識を失っているようだ。生死の境にあってもなお、父の眉間にはいつもの深い皴が刻まれている。その頑固な横顔を見ただけで、私は子供の頃に戻ったように体を縮こませた。
恐る恐る、ベッドの脇に歩み寄る。
「お父さん」
掠れるような声で呼びかけると、奇跡が起きた。びくりと、父の細い指先が動いたのだ。私は思わず、その冷たくなりかけた大きな手を両手でギュッと握りしめた。
「お父さん、お父さん」
何度も何度も名前を呼ぶ。すると、あんなに深く刻まれていた爺の眉間の皺が嘘のように、ゆっくりと柔らいでいく。父の瞼が開き、その瞳がまっすぐに私を捉えた。
「ああ、みちこ。そう泣くなよ。お前は可愛いんだから、笑っていなさい。なあ、みち子」
掠れているけれど温かい声だ。私の人生で1度も見せたことのないような、穏やかで優しい微笑みを父は口元に浮かべている。父に促されて、私は笑みを作った。
「うん。みち子、いい子だね。笑っていなさい」
これが父の最後の言葉だった。繋がれた手の力がふっと抜け、心電図の警報音が病室に響き渡る。医師たちが慌ただしく動き出す中、私は父の手を握ったまま微笑み続けていた。厳しくて怖いと思っていた父親。けれど、最後に私を「みち子」と何度も呼び、微笑んでくれた。「可愛い」なんて父に言われたのは初めてだ。私はもう51歳のおばさんだけれど、父にとってはいつまでも可愛い娘だったのかなと思うと、胸が苦しくなる。
さて、父の葬儀は、生前の広い交流関係を反映して非常に盛大に取り行われた。
「ああ、めんどくさい。俺は大事な仕事を動かすので忙しいってのに、なんでこんな古い人間のために時間を割かなきゃいけないんだよ」
ぶつくさと不謹慎な文句を垂れ流していた創一だったが、いざとなれば驚くほど現金な男だ。喪主の席の前に立つと、いかにも遺憾そうな面持ちで涙を誘うような立派な弔辞挨拶を演じ切って見せる。その徹底した二面性に、私は寒気を感じずにはいられなかった。
葬儀が終わり、日常に戻る。久々に出勤すると、創一の態度はさらに傲慢なものへと変わっていた。昼下がり、廊下のモップ掛けをしている私の前に、彼はわざとらしく立ち塞がる。
「へえ、戻ってきたんだ。お前が掃除しなくても、そんなに汚れなかったな。トイレはちょっと汚いけど、いつも掃除やってるふりだったわけか」
小学生並みのくだらない嫌がらせだ。いつもの私なら、ただ俯いて嵐が過ぎ去るのを待っていただろう。けれど今は違った。「みち子、いい子だね。笑っていなさい」頑固だった父が、最後に私を全肯定してくれたのだ。私は可哀想な人間でも、無能なおばさんでもない。胸の奥で長年眠っていた自我が、目を覚ました。
私はモップを握る手に力を込め、顔をあげる。創一の目をまっすぐに、きっと強く睨みつけた。一瞬、彼は私の強い眼差しに気圧されたように目を見開く。だが、すぐに下品な笑い声をあげて、わざとらしく両手を上げて脅かしてみせた。
「あーっ、ごめんごめん。そんな怖い顔で睨まないでよ。そんなに怒って、あの怖いお父さんに告げ口でもするつもり? あ、忘れてた。告げ口したくても、もうあの世に行っちゃったんだっけ?」
創一は腹を抱え、響き渡るような大声で笑い転げた。人の命をここまで冒涜できる人間がこの世にいるなんて、信じられない。私の胸の中で、何かがツンと弾ける音がした。悲しみではない。激しい怒りが私の体を支配していく。ギリギリと奥歯を噛み締める私に、創一は「怖い」と体を揺らした。
「あ、やば。もうすぐ会議の時間じゃん。俺は忙しいんだよね。はあ。掃除のおばさんは暇でいいなあ」
スキップに近い軽い足取りで彼は去っていく。握りしめたモップの柄が、軋りと音を立てた。
休んだ分を取り戻し、創一にこれ以上文句を言わせないためにも、私は社員たちがほとんど退社した夜の会社に残って熱心に掃除を続けた。役員フロアの奥、社長室の前に差しかかった時のことだ。ドアが少しだけ開いており、中から楽しげな話し声が漏れている。
「いやあ、竹中のおかげで色々とうまくいってるよ。本当に感謝している」
喋っているのは創一だ。いつになく上機嫌で、他人を褒めちぎっている。室内は見えないけれど、おそらく竹中もそばにいるのだろう。
「いえいえ、私は何も。全ては社長のご決断の結果です。社長のお役に立てたのなら、これ以上の光栄はありません」
次に聞こえてきたのは、やはり竹中の声だ。いつも通り爽やかで丁寧な雰囲気だが、どこか社長の懐に深く入り込んでいるような独特の親密さがあった。
「おかげで会社も俺の個人の懐も潤って、笑いが止まらないね。いや、いいパートナーを得たよ」
二人は笑い合う。「個人の懐」に「潤う」。一体何の話をしているのだろう。不穏な空気を感じて耳を澄ましていると、話はふと私の話題へと移った。
「でもさ、どんなに儲けても、あの嫁を食わせなきゃならないってのがな。あれが無駄なんだよ、本当に」
外まで聞こえるほど、創一は深くため息をついている。
「まあまあ、社長。奥様も毎日頑張って掃除してくれていますから」
竹中が宥めるのはいつものことだ。やっぱり彼は優しい人だと一瞬安心したのも束の間、創一は鼻で笑う。
「掃除なんか誰でもできるじゃん。やってるふりだけは一丁前だけどさ。あいつ、いつも暇してるんだよ。大した仕事もしてないくせに、俺の稼いだ金で飯を食ってると思うとイライラするんだよね」
「まあ、そうですね。社長のお気持ちも分かります。掃除したくらいで1日3食しっかり食べられたら、割に合いませんよね」
竹中は否定しなかった。それどころか、創一の言葉に同意したのだ。再び二人の笑い声が社長室に響く。私は冷たい水を浴びせられたような衝撃を受け、よろめきながらその場を離れた。竹中さんまで、あんな風に言うなんて。胸の奥がズキズキと痛んでたまらない。
いや、違う。彼はきっとワンマンな社長に話を合わせているだけだ。サラリーマンとして生き残るために、賢い夜郎自大に過ぎない。そう自分に言い聞かせようとしても、一度芽生えたモヤモヤとした不信感は、どうしても消えてくれなかった。
だったら、見せつけてやるわ。私は自分の古びた作業着の袖を大きくまくり上げた。掃除を誰でもできる仕事だと馬鹿にされるのが、どうしても許せない。この気持ちを晴らすため、そして掃除という仕事の本当の価値を思い知らせるために。私は竹中が普段使っている営業部のオフィスを、文字通り完璧に磨き上げてやろうと決めた。
誰もいない営業部に入り、無心でモップや雑巾を動かした。窓はガラスがないと勘違いするほど曇り1つなく吹き上げ、床は滑りそうなくらいに磨く。棚の上の見えない埃までも、全て吹き取った。最後に、竹中のデスクの前に立つ。いつも仕事に追われている彼のデスクは、少しだけ書類やペンが散らかっている。普段は社員個人のデスクには手を触れないのがルールだったが、今日だけはほんの少し整えてあげようと思った。場所が分からなくなったら困るだろうから、乱れた書類を両手で挟み、トントンと叩いて綺麗に揃える。散らばったボールペンを拾い、ペン立てに1本ずつ戻した。
その時、誰もいない静かなオフィスに、ピコンと軽快な電子音が響いた。竹中のデスクの上で、パソコンの画面が明るくなっている。
「やだ、パソコンをつけっぱなし。竹中さんって意外とだらしないのね」
シャットダウンしておこうとマウスに手を伸ばしたけれど、画面が目に入って、ぴたりと動きを止める。
――これは。
パソコンの画面から発せられる青白い光が、私の顔を照らしていた。静まり返った夜のオフィスで、私は冷たい息を1つ吐く。パソコンの画面をそっと閉じると、モップの柄を今までにないほど力強く握りしめた。それから数ヶ月、私は毎日の清掃作業を淡々とこなしている。黙々と床を磨き、ゴミを集めた。たまに鏡や窓に自分の姿が映ると、いかにも清掃員らしい掃除のおばさんそのもので、つい苦笑してしまう。
ある日の午後、廊下で竹中の姿を見つけ、おずおずした足取りで近づいていった。
「あの、竹中さん。ちょっとよろしいでしょうか?」
「はい。どうしました? 何か困り事ですか?」
竹中は非の打ち所のない爽やかな笑顔を私に向け、足を止めてくれた。清掃カートから数枚の書類を取り出し、私は周囲を気にしながら声を潜めて彼に手渡す。
「これ、さっき3階の会議室を掃除していたら、椅子の隙間に落ちていたんです。『社外秘』って書いてあって、なんだかすごく重要そうな新しいプロジェクトの資料みたいで、私どうしていいか分からなくて」
竹中は一瞬目を見開いた。手渡された書類のタイトルを見た彼の指先が、微かに震えたように感じる。ちらりと覗いたところ、新技術の開発計画らしい。現段階で外に漏らすわけにはいかない事項だと、部外者の私でも直感した。
「これは……うん、確かに。私が上部に届けておきますよ」
「ありがとうございます。本当は私が直接社長やユナさんに渡すべきなんでしょうけど、勝手に社長室の書類を漁ったなんて怒られてしまいそうで。情けない話ですけど、怖くて」
俯いて消え入りそうにそう打ち明けると、竹中は心底同調したような顔になり、私の肩を優しくポンと叩いた。
「分かりますよ。私からユナさんに、自然な形で渡しておきます。安心してください」
「すみません。いつも頼ってばかりで。竹中さんがいてくれて本当に良かった」
消えるような声で頭を下げる。竹中は「いいんですよ」と頼もしく微笑み、書類を大事そうに鞄へとしまい込んだ。
その日の午後、廊下の掃除をしていると、ドタドタと品のない足音が近づいてきた。
「おい、お前さ、いい加減にしろよ」
現れたのは近眼の創一と、その斜め後ろで香水をきつく漂わせているユナだ。
「また3階のトイレが汚れてたぞ。床がびちょびちょ。お前、本当にちゃんと掃除してんのか?」
創一は私を見つけるなり、周囲の社員たちの目も憚らずに指を突きつけてくる。
「すみません。お昼休みの後にも確認したのですが」
「やだ、言い訳? 掃除くらい小学生でもできるんですよ。本当に使えないおばさんですね。給料泥棒ってレベルじゃないですか?」
ユナがこれ見よがしに馴れ馴れしい口調で罵った。酷く汚れているのはいつも男性トイレ。女性トイレが目を覆いたくなるような惨状になっていたことは、ただの1度もない。私を困らせるために創一がわざと汚しているか、あるいはただの言いがかりだと実は思っていた。けれど私は本音を口にせず、肩を竦め、素直そうに頭を下げる。
「全く、いつ見てもお前はボケーっと邪魔なところに突っ立って。ずっと暇そうにしてるよな。ただ突っ立ってるだけで金がもらえると思ったら大間違いなんだよ。もっと頭使って動けよな」
「社長、こんな暇婆さんを構ってたら、私たちの時間がもったいなくないですか? 行きましょう」
創一とユナは、周囲の社員たちに聞こえるようにケラケラと下品に笑い声をあげて、エレベーターへと乗り込んでいった。言われっぱなしの私を、周りの社員たちは気の毒そうな目で遠巻きに見ている。私はただ静かに嵐が過ぎ去るのを待っていた。彼らの傲慢な言葉の数々が、胸の中にしっかりと蓄積されていく。肩、腰の痛み、胃の不調、口回りのヘルペス。ストレスは目に見える形で、体に直接現れていた。
翌朝、私はいつものように1階の男性トイレの掃除をする。いつもよりも念入りに丁寧に、便器の裏側まで雑巾で磨き上げた。洗面台の鏡を吹き、床の水滴や一本の髪の毛すら残さない。完璧だ。
「おはようございます。佐藤さん」
トイレを出たところで、前から歩いてきた竹中が、それはそれは爽やかな笑顔で声をかけてきた。何かいいことでもあったのか、彼の表情はいつも以上に輝いている。
「佐藤さんが毎朝こうして掃除してくれるから、私も仕事のやる気が出るんです。本当に感謝していますよ。今日もありがとう。いつも綺麗で助かります」
気持ちのいい、完璧な感謝の言葉だ。社内の誰もが彼を素晴らしい青年だと絶賛する。私はにっこりと穏やかに満面の笑みを浮かべた。さらに目を冷たく細め、静かに言い放つ。
「竹中さん、君、今日で終わりね」
竹中は爽やかな笑顔を浮かべたまま、一瞬思考が停止したように動きを止めた。
「は?」
彼の喉から、間抜けな声が漏れる。私は掃除が得意だ。どんなに些細な汚れも見逃さない。この会社にこびりついた汚れを、今、落としてみせる。
「終わりって、一体どういう意味ですか?」
竹中は相変わらず爽やかな笑顔を浮かべたまま、首をかしげた。黒い瞳の奥には、この掃除のババアは何を言っているんだという明らかな嘲りが透けて見える。私も彼と同じく、優しく穏やかな微笑みを崩さない。
「言葉通りの意味ですよ。平たく言えば、首ですね」
「またまたご冗談を。朝から随分と質の悪いジョークですね。これから大事な営業の準備があるので、失礼しますよ」
竹中は声をあげて笑った。何事もなかったかのように、私の横を通り過ぎる。穏やかな雰囲気を崩さないまま、私は彼の背中に向かって声をあげた。
「場所が場所ですから、少し移動しましょうか。3階の会議室が空いています。そこでゆっくりお話ししましょう」
竹中さん。これまでにない奇妙な圧力を感じたのだろう。ぴたりと足を止めると、ゆっくり振り返った。その顔にはまだ爽やかな笑顔が張り付いていたが、眉間にわずかな皴が寄っていた。
3階の会議室に移動し、ドアを閉める。静まり返った室内で、私と竹中は机を挟んで向かい合った。お互い口元には笑みを浮かべたままだ。しかし空気は凍りつきそうなほど張り詰めている。
「それで、私に一体何のご用ですか? 営業を首にして、掃除のおじさんにスカウトでもしてくれるのでしょうか?」
小馬鹿にしたように竹中は言葉を受け流し、首をかしげて問いかけた。
「竹中さん、今朝は随分とご機嫌ですね。何かいいことでもあったんですか?」
「いえ、別にいつも通りですよ」
竹中は肩を竦めて笑って見せた。
「へえ、そうなんですか。例えば、一夜にして懐が転がり込んでくるような、そんな素敵なことでも起きたのかと思いまして」
「何ですかそれ? そんな夢みたいな話、あるわけないでしょ」
竹中の目が、ほんの一瞬だけ泳いだ。
「夢なら良かったんですけどね。竹中さん、あなたが一番よくご存知のはずでしょ」
私はそんな彼から一切目をそらさない。微笑んだまま、さらに深く切り込む。
「昨日、私が竹中さんにお渡しした社外秘の重要書類。あれ? どうしましたか? その情報をライバル企業のJP工業に高値で売り飛ばしたのでは?」
「な、まさか」
竹中の顔から、一瞬で笑顔が剥がれ落ちる。
「何を根も葉もない妄想を言っているんですか? 私がそんなことをするわけがないでしょう」
声を荒らげる竹中に対し、私はにっこりと微笑み続けた。
「妄想ではありませんよ。実は昨夜、JP工業の方から妙な連絡を受けたの。うちの社員から怪しい取引を持ちかけられたってね」
「え、嘘? なんで?」
「ライバル企業であったとしても、敵対関係ではない。相手の衰退を願い、足を引っ張るような不誠実な取引をする企業はごく稀だ。美味しい話が舞い込んできたとしてすぐに飛びつくのは、考えなしのおバカさんだけ。竹中さんがJP工業の役員と交わしたチャットの履歴は、そっくりそのままこちらに情報提供されたわ。あの社外秘の書類を見た時、もしも社外に漏らすならJP工業あたりかなと思ってたの。予想が当たっちゃった。まさか本当に情報を漏らされるとは思ってもいなかったんですけどね」
JP工業側は竹中の話を突っぱねることなく、かなり強い興味を示していた。けれどそれは仕掛けられた罠。社外秘の書類が会議室に落ちていたとなれば、すでに社員の誰かの目に留まっているかもしれない。まさか勤めている会社を売るような社員はいないと信じている。だが、万が一を考えて、私から事前にJPへ相談をしておいたのだ。
「ああ、言っておいてよかった。私、ついつい考えすぎてしまうんです。ああ、そんなこと言ったらまた社長に『余計なことばっかり考えて暇そうだな』って怒られちゃいますね」
えへっと苦笑いした。竹中は信じられないものを見る目で、私を凝視している。自分の裏取引が、掃除のおばさんなんかに暴かれた。その恐怖と屈辱に、握った拳が震えている。
コンコンと、会議室のドアが雑に叩かれた。軽佻そうな顔をした創一が、ユナを連れて部屋に入ってくる。役者は揃った。ここからが、本当の地獄の始まりだ。
「おい、暇なお前と違って、俺もユナちゃんも分刻みのスケジュールで動いてるんだよ。会議室に呼び出して、何の嫌がらせだ。掃除のおばさんが何の会議すんだよ。議題はトイレの使い方ってか」
不機嫌な創一はポケットに手を突っ込んだまま、傲慢な態度で私を睨みつけた。その後ろではユナが鼻を鳴らしている。
「やだ、この部屋、なんかトイレ臭いかも」
ユナはポケットから香水の小瓶を取り出し、殺虫剤のようにシュッと空間に匂いを振り撒く。仰々しい表情で立っていたのも束の間、創一はニヤリと笑って首をかしげた。
「あれ? 何? 竹中いたの? 密室の会議室で、営業部のエースと掃除のおばさんの、あやしい関係が発覚か。ああ、きついわ」
「やだ社長。おばさんが男を騙せるわけないでしょ。そういうのはドラマの中だけです。リアルだとおばさんは相手にされないですよ」
ギャハハと笑い合う創一とユナ。いつも低俗な妄想で盛り上がれる彼らは、人生が楽しくてたまらないだろう。楽観的な性格がある意味羨ましくもある。けれど創一は仮にも社長という立場だ。脳天気に笑っているだけでは、会社は成り立たない。
「社長、ご報告があります。この会社にとって、見過ごせない重大な問題が起こりました」
私が淡々と告げると、創一は「はあ?」と馬鹿にしたように鼻を鳴らした。一方、机の向こうにいる竹中は、自分の罪をこの場で社長に直接暴露されるのではないかと恐怖し、額から嫌な汗をだらだらと流して身を固くしている。私はそんな竹中の視線を痛いほど感じながら、創一に向かって言葉を続けた。
「我が社を挙げて進めている未公開の新プロジェクトに関する極秘データが、昨夜、最大のライバル企業であるJP工業に売り渡されました。明らかな機密漏洩、及びインサイダー取引です」
「何?」
創一の顔から、一瞬で余裕が消えた。掃除のおばさんの頭の中は空っぽで、トイレがピカピカになったとくだらないことで喜んでいる。――らしい。創一は私に対してそのようなイメージしか抱いていない。真面目な顔をしていきなり何を言い出すのかと、彼は身を引き警戒している様子だ。
「漏洩させたのは、彼、営業部の竹中さんです」
名前を指すと、創一は目を見張って竹中を振り返った。彼は爽やかな営業部のエース。自分の太鼓持ちとしても優秀だ。信頼に厚い彼が、まさか裏でライバル会社と通じて自分を裏切っていたなど、夢にも思っていなかったのだろう。衝撃のあまり、創一は目を血走らせ、竹中に掴みかからんばかりの勢いで一歩踏み出した。
「竹中! こいつの言っていることは本当か? 俺を、この天才社長の俺を裏切って、他所に情報を売ったっていうのか?」
「し、社長、それは……」
言い訳の言葉を探して視線を彷徨わせる竹中を見て、それが真実だと確信したのだろう。創一の横にいたユナが、これ見よがしに高い声で竹中を罵倒し始めた。
「信じらんない。竹中さんって、最低。社長裏切るなんて、ひどすぎるんですけど」
「そうだ。この泥棒め! お前なんか即効首だ。お前じゃ払いきれないくらいの損害賠償請求するからな。親兄弟もただで済むと思うなよ。お前の一族、一生迷惑するようにしてやる」
創一というのは、自分たちの正義を信じて疑わない。容赦のない侮辱の言葉を、これでもかと竹中に浴びせかけた。社内でちやほやされるプライドの高い竹中にとっては、あまりにも屈辱的だったのだろう。激しい罵倒に晒され続け、限界を迎えた彼の顔が、今度は怒りで真っ赤に変わっていった。血管が浮かぶほど拳を固く握りしめると、ついに狂ったように笑い出し、創一に向かって逆切れした。
「泥棒、首? どんな口がそんなこと言っているんだ。バカじゃないの、お前」
「お前、社長をお前と呼べるか!」
高慢な青年の仮面を完全に投げ捨てた竹中に、創一は気圧されて声を詰まらせる。
「お前だって、会社を使って悪どいことしてんじゃん。親の名前を使って実態のないペーパーカンパニーを作ったの、誰だ? 経営コンサルタント料って名目で、会社の金を毎月裏口座に流しているの、誰だ?」
上半身をゆらゆらと揺らした竹中は、楽しそうに創一に詰め寄った。
「会社を財布にして私服を肥やしているお前に、俺を責める資格なんてありません」
竹中の口から飛び出した決定的な衝撃の事実。部屋の中に、重苦しい沈黙が広がった。ユナはぎくりとした表情で、創一の顔を見上げる。創一は一瞬だけ激しく動揺したものの、すぐにいつもの自己顕示欲の強い調子を取り戻し、鼻で笑って見せた。
「へ、何を言い出すかと思えば。そんなのただの言いがかりだろ。証拠もないのに、負け犬が苦し紛れにでっち上げた妄想に付き合ってられるか」
彼は白を切り通せる確信を持って、顎を突き出した。証拠がなければ悪事もなかったことにできる。例えば、誰の目についていはいけない都合の悪い書類は、すぐにシュレッダーにかけて完全に消滅させればいい。
「ええ、そうね。証拠がなければ、ただの妄想よね」
静かに、私は口を開いた。すぐ脇に置いていた清掃用カートから、クリアファイルに無理やり納めた分厚い書類を取り出す。ばさりと重い音を響かせて机の上に置いた。それは細切れになった無数の紙片を、透明なセロハンテープでつなぎ合わせている。執念深いほどに、1枚1枚几帳面に復元された、奇妙な書類の束だ。そこには創一の親の名義の会社への送金記録が、言い逃れできないほどはっきりと記されていた。
「な、なんだこれは?」
本物の化け物でも見るかのような目で、継ぎ接ぎの書類と私の顔を交互に見つめる創一は、唇を震わせている。
「お前、正気か?」
「私は普段から掃除は徹底的に完璧にしてるの。シュレッダーの中にゴミがいつまでも溜まったままなんて、気持ち悪くて嫌でしょ。だから毎日こまめに回収して、丁寧につなぎ合わせたのよ」
私はこれまで彼らから浴びせられてきた全ての侮辱を思い返しながら、満面の笑みを浮かべて言い放った。
「あなた、私のことをいつも『暇な掃除のおばさん』って馬鹿にして笑ってくれたよね。だから、あなたがシュレッダーにかけた裏帳簿のゴミ、全部元通りにできたんだ。暇でごめんね」
静まり返った会議室の中で、私の穏やかな声だけが霊験に響き渡っていた。創一とユナ、そして竹中の3人は、目の前の「暇そうな掃除のおばさん」が仕掛けた底知れない罠の前に、ただ震え、息を呑むことしかできない。
青ざめた創一だったが、徐々にその顔を真っ赤にさせ、机を激しく叩いて逆上した。
「親の名前を使って何が悪い! 人の悪口を言うな!」
彼の呼吸は荒く、額にはベットリと脂汗が浮かんでいる。明らかな動揺を隠し、声を荒らげて自分の正当性を誇示した。
「俺が親に毎月いくらか仕送りしてやってると思ってるんだ。俺がこの会社を必死に回して、うまく金の流れを作ってやってるからこそ、あの年寄りがのんびり暮らせてんだよ。名前くらい使って当然だろ」
義両親は80代と高齢だ。お互い支え合いながら、田舎で夫婦2人暮らしをしている。創一の必死な供述を、私は冷ややかに聞いていた。両親は創一の会社の「経営コンサルタント」となっている。毎月数十万もの不労所得を得ているペーパーカンパニーの代表だ。その事実を、二人はおそらく微塵も知らない。あの真面目で控えめな義両親が、不正に加担するはずがないのだ。勝手に親の名義を使ったのだろう。創一の親孝行と防衛本能を剥き出しにして叫ぶ様が、何よりの証拠だ。
「大体、お前は昔から俺の実家の親のことが嫌いだったもんな」
創一はさらに勢いづき、私に向かって汚い言葉を投げつけ始めた。
「俺が前に親と同居しようって提案した時、お前は何て言った? 『うちの親が住み慣れた家にいたいから』って遠慮してきた。それをいいことに、お前もそれに便乗して同居の話を握りつぶしただろう」
その時のことはよく覚えている。確か20年ほど前、義父がぎっくり腰になったと聞いて、創一はなぜか変なスイッチが入った。「長男として親の面倒を見なくてはいけない」と、いきなり強い使命感に襲われたようだ。車で2時間程度の距離に住みながら、これまで彼一人で実家へ帰ったことはない。私から「家族みんなで顔を出そうか」と声をかけると、「行きたいなら勝手に行っていいよ」とズレた答えが返ってきていた。義両親を大切に思っていないのかと思いきや、ぎっくり腰というピンチに意外なほど慌てふためく。「少し痛いくらいで、なんとか歩けるよ」と義父が説明しても、「やばいだろう」と聞く耳を持たない。そして「親を呼び寄せて同居しないと」と自分勝手に話を進めた。
あの時、結婚して5年ほど。彼は今の会社に中途入社してビシバシ鍛えられていたところなので、ストレスが溜まっていたのかもしれない。心の拠り所として親を呼び寄せたくなった気持ちは理解できる。
「お父さんたちも、本当に同居は遠慮したいって困っていたでしょ。長く住んでた土地に愛着もあるでしょうし、知り合いだって大勢いるんだから」
「はいはい。親の言うことを鵜呑みにするのね。これだから、人の心が分からないバカとは話にならない。結局、同居もせずに仕送りだけで済ませてさ。本当に冷たい嫁だよ、お前は」
20年経ってもなお、彼の中にわだかまりが残っていたことを初めて知った。
「うわあ、ひどい。奥さん最低」
部外者のユナが、過剰に怒ったふりをして私を指差す。
「社長はいつもご実家のことを心配されてるんです。なのに奥さんがお父さんお母さんを田舎に放置するから、社長可哀想。こっそりした親まで攻められるなんて、本当ひどい」
二人は口を揃えて、私を冷酷な嫁に仕立て上げようとした。自分たちこそが正義であり、親思いの善人なのだと熱弁を振る。親の名前を勝手に語って会社の金を引き出していた。その本の一部を仕送りと称して実家に送ったところで、割に合わない。あまりの独善的な思考回路に、私は怒りを通り越して深い呆れを感じていた。
「なるほど。それが、あなたたちの言う親なのね」
冷酷なトーンで呟いた。感情の波を一切見せない私の態度に、創一の言い訳の言葉がぴたりと止まる。彼の脂ぎった額から、1筋の汗が流れ落ちた。
「社長、あなた、いつからこんなことをしていたの?」
「あ、いつからって? いつからこのペーパーカンパニーを使って会社のお金を私的にしていたのかと聞いてるの」
冷たい問いかけに突き刺されて、創一は押し潰されたようにボソボソと口を開く。
「1年と少し前からだよ。ま、大した金額じゃない」
私は乾いたため息をついた。彼が社長に就任したのは、今からちょうど2年前のことだ。前社長から重責と責任を託された。それなのにこの男は、社長としての責務を全うするどころか、就任してわずか数ヶ月で真っ先に会社を裏切る不正に手を染めていたらしい。
「1年と少しね。で、仮にもご両親はそのコンサル会社の代表取締役になっているわけでしょ。まさかとは思うけれど、その会社の確定申告は毎年ちゃんとしているの? 税金は納めているの?」
私の問いかけに、創一の顔から血の気が引いていくのが目に見えてわかった。
「お前なんかに、税金の何が分かるんだよ」
また私を馬鹿にして話を逸らそうとしている。掃除のおばさんでも、大人なら簡単な税金の知識くらい持ち合わせていて当然だ。もし分からなくても、調べる術がある。強欲な創一は、どうやって会社の金を自分の懐に入れるか、その利益計算しか頭になかったようだ。自分の親の名義を使ったペーパーカンパニーが所得を隠蔽し、一切の申告を行っていないということが何を意味するか、彼は分かっていない。
「税務署に、1度も申告なんて出していないんでしょう」
「な、何が悪いんだよ。家族の会社だぞ。大した額じゃない。ただの身内の小遣い稼ぎみたいなもんだ」
創一の声は、明らかに震え始めていた。隣にいるユナは、不安そうに創一の服の袖を引っ張っている。
「大した額じゃない? 所得隠しがただの小遣い稼ぎで済むと思っているの。税務署が入れは、当然名義人であるあなたのご両親に調査が入るよ」
私は一歩、彼らに近づいた。
「でも、実態のない会社で、親の許可なく息子が勝手に名義を悪用して私的流用をしていたとなれば、責められるのは高齢のご両親じゃないかもしれないわね。あなたよ、社長」
「ひっ」
創一の喉から、短い悲鳴が漏れた。高齢の親を盾にして親孝行だと言い張っていたけれど、もちろん自分のことしか考えていない。犯した罪の重さと、それが全て自分の身に降りかかってくるという恐怖に、今初めて気がついたようだ。
しかし、尋常ではない重苦しい空気すら理解できない人が1人。ユナは創一のスーツの袖を引っ張り、いつもの余裕たっぷりの甘え声で彼の顔を覗き込む。
「ねえ、社長。大丈夫? なんか難しいそうな話してるけど、ちょっとやばいかも」
創一は先ほどの勢いを完全に失い、蒼白な顔で額の汗を拭った。自分の首が徐々に絞まっていることに気づき、パニックに陥っているんだろう。そんな彼を主として支えるどころか、ユナの口から飛び出したのはあまりにも呆れた一言だった。
「え、じゃあ来月のグアム旅行は、ちゃんと行けますよね」
「うるさいな。今、それどころじゃないから」
創一が適当に払いのけると、ユナは不満そうに口を尖らせ、足を踏み鳴らす。
「だってもう旅行用に新しい水着を買っちゃったんですよ。楽しみにしてたのに。ねえ、グアム行けますよね」
「旅行なら先月も北海道に連れてってやっただろう。少しは我慢しろ」
不安に震えていた創一も、怒りを露わにした。
「だって、北海道はまだ寒かったし、買い物もあまりできなかったし」
ユナは心の中でほうほうと嘆く。先月、創一は確かに「重要な新規開拓のための北海道出張」だと言って3日間を空けていた。あれはただの道楽だったわけだ。そして来月のグアム。それも「海外の市場調査」という名目で、どうせ会社の経費を私的流用してバカンスに行く計画だったのだろう。会社の金を親の口座へ横流しするだけでは飽き足らず、若い秘書と計費に負うところまで、どこまでも浅ましい男たちだ。私は深く呆れ果て、静かな笑みを浮かべる。二人の修羅場に割って入った。
「グアムの出張は、何としてでも行きたいですよね。国内旅行と比べちゃだめよ」
私の突然の言葉に、ユナは嬉しそうにパッと顔を輝かせ、大きく何度も頷いた。
「です! 海外出張は多くても半年に1回くらいなんですから、絶対に行かないとです!」
「お前、余計なことを言うな! 会社のみんなには内緒だって言ってただろう!」
創一が泡を飛ばしてユナを睨みつける。そこでようやく、彼女も自分が会社の経費で旅行していた事実を私の前で白状してしまったことに気づいたらしい。しかし、彼女の怒りの矛先は、なぜか私ではなく創一へと向かった。
「何よ社長、ひどい。私のこと、アホって言った。私、アホじゃないもん!」
ユナは顔を真っ赤にし、子供のように足を踏み鳴らした。いつものおっとりした猫なで声に、地声のきつい鼻声が少し混じっている。
「だからもう喋るな。お前はアホだから黙ってろ。お前がグアムだのなんだの言い出すから、みちこに全部バレただろ」
「バレたからって何? 奥さんが怖いの? かっこ悪い。ふん。何でも買ってあげる、贅沢させてあげるって社長が言うから、私、付き合ってあげたのに。なんか全然ケチじゃないですか」
「は? 俺がケチ?」
創一の目が釣り上がった。自分が貢いできた金額を全否定されたショックで、彼の顔中の毛穴から油が溢れ出しそうだ。
「お前、誰のおかげで都心のマンションに住めてると思ってるんだ。毎月の家賃を誰が払ってやってるんだよ」
「え、」
その言葉が響き渡る中、私は腕を組んだまま、冷やかな視線を二人に送っていた。都心のマンションを借りて、北海道やグアムへ旅行放題。黙って見ているだけで、彼らは勝手に罪を暴露してくれる。ふと横を見ると、竹中は今にもこの場から消え去りたいというような顔で壁に張り付いていた。自分の罪がバレて青ざめていた彼は、目の前でいきなり始まった社長と秘書のあまりにも低レベルで生々しい暴露合戦に、言葉を失っている。
「マンション、マンションって偉そうに言わないでよ。3階じゃん。賃貸だし。威張るんなら、マンションの最上階を買ったよね。それに欲しかった指輪は結局買ってくれなかったじゃん。国産の誰でも持ってるコンパクトカーで、マジがっかりしたから」
さらにヒステリックにユナが叫んだ。
「なんだと? ただの事務だったお前が、普通に働いて都心のマンションに住めるわけないだろ。車だって新車で買ってやったのに、文句があるのか」
「3階のマンションなんて、全然ステータスにならないもん。友達に自慢できないし。社長のケチ、嘘つき!」
胸を張って自分たちは有能だと他者を見下していたくせに、極限状態に追い詰められた結果、理性を完全に手放して互いを罵り合っている。惨めで見苦しい生き物が2匹、互いを罵じり合う。私はただ静かに、その劇を俯瞰していた。
「あーあ、互いに本音をさらけ出して、本当にすっきりしたね」
飛び交う言葉の合間に、私の声がすっと通り抜けた。創一とユナがはっと息を飲んで、動きを止める。
「すぐに周りが見えなくなって、自分の欲しいものだけに飛びつくところが、二人ともよく似ている。お似合いのカップルなんじゃない?」
私は思わず、小さく声をあげて笑ってしまった。すると、ユナは信じられないほど汚いものを見る目で創一を一瞥した。
「は? 誰がこんなおじさんとお似合いよ。本気で言ってるの?」
悪びれもせず吐き出されたユナの本音に、今度は創一が「えっ」と硬直した。どうやらこの哀れな男は、自分とユナの間に愛があると信じ込んでいたらしい。恋人の想定外の拒絶に、創一はひどく落ち込み、項垂れた。ポカンと口を開けて、彼はユナの美しい横顔を凝視している。その様子がまたおかしくて、私は笑みを崩さないまま話を続けた。
「これほど仲違いしている様子を見せつけられてはね。創一さんは私の主人です、なんてもう主張できないわ。私は身を引きますから。どうぞ、あとは二人でよくしてお話し合いなさい」
身を引くという私の言葉を聞いた瞬間、ユナの表情が変わった。視線を右上へと向け、何かを必死に考え始める。彼女は非常に華奢でスタイルがいいけれど、その小さな頭蓋骨の中に収まっている脳みそも、きっとそれ相当に小さいのだろう。今、彼女はその脳みそをフル回転させて、どう動けば自分に1番利益があるかを必死に計算しているのだ。そして10秒後、ユナの顔に笑みが戻った。
「え、じゃあ、私が社長夫人になれるってこと?」
ユナは先ほどまでのヒステリックな様子をかなぐり捨て、またいつもの甘ったるい甘え声で創一を見つめた。喋り方も、馴れ馴れしい猫なで声に戻っている。あまりの変わり身の速さに、私は感心した。創一も創一だ。ユナの甘い声に、今受けたばかりのショックがすぐに癒える。鼻の下を伸ばして、ニヤニヤと笑い始めた。50を過ぎた冴えない妻よりも、20代の若い女の子を隣に連れている方が自分の株が上がる。そう本気で思っている顔だ。
「おいおい、ユナちゃん。社長の座なんてお前に勤まるのか?」
「勤まりますよ。私、旦那さんよりも上手に、奥さんの掃除もできるかもよ。私の方がまだ若いから、体もよく動くし」
「バカだな。普通は社長夫人に掃除なんかさせないから。ユナちゃんはこれまで通り綺麗に着飾って、俺の隣でニコニコ笑っているだけでいいんだよ」
早くも社長夫人になった気でいるユナと、彼女を抱き寄せる創一。目の前で、あまりにもおめでたい茶番劇が繰り広げられる。
「あら、誰が社長夫人になるって? 創一さん、あなた、まだこの会社の社長を続けるつもりでいるの?」
「お前、正面から喧嘩売る気か? おばさん。私を脅したって、社長夫人の座は譲りませんよ!」
突然水を刺された二人は、一斉に私を罵倒し、ヒステリックに文句を言い立てた。彼らの剣幕を完全に無視し、静かに壁際の方へ向く。よく目を凝らすと、竹中がすっかり壁と同化していた。
「先ほど、竹中さんには『今日で終わり』、つまり首を言い渡したんですよ」
「何を勝手なこと!」
創一は反射的に私に怒鳴り散らしたが、そのあと竹中の方をギロリと睨みつけた。
「まあでも、あいつも善人みたいな顔して、裏ではライバル会社と通じていた悪いやつだからな。自分の横領という罪を擦り付けるように吐き捨てる。ていうか『親の名義でコンサル会社を作ればいい』って最初に言い出したのも、この竹中だ。もう信用ならん。ま、首にするっていう判断は妥当だな」
それを聞いた竹中が、今度は形相を変えて机にすがりついた。
「そんな! 私は確かに間違いを犯しました。ですが、それ以上に、私はこれまで営業部のエースとして、社長の役に立ってきたはずです!」
「うるさい! 他社に機密を流すようなスパイが、どの口が『役に立った』なんて言ってるんだ。許せるわけないだろう!」
創一は冷酷に突き放す。味方を失った竹中は、必死の形相で今度は私に視線を向けてきた。
「さ、佐藤さん! 今回は相手方から連絡があり、我が社に実際の損害はなかったんですよね? つまり未遂なんですよ! なのに首なんて!」
確かに竹中の言う通り、実質的な損害は未遂に終わった。しかし未遂だからと言って、会社を裏切った事実が消えるわけではない。それに、私から彼に重要書類を渡したのには理由がある。実は夜遅くまで営業部のオフィスを掃除していた時、竹中のパソコンにライバル企業からのメールが届いていたのだ。なぜ個人的にライバル企業とメッセージのやり取りをする必要があるのか。疑問を感じた私は、罠を仕掛けたのだ。それに彼はまんまと引っかかった。
「はっ」
私は鼻で笑い、彼を完全に無視した。
「え、そんなつもりじゃなかったのに」
自分の手のひらの上でうまく社長を転がしているつもりだったのだろう。竹中はついに悔し涙をポロポロと流しながら、その場に崩れ落ちる。
「うわ、キモ。なんか泣いてるんですけど」
「泣くくらいなら、初めから悪事なんかするなよな。詰めが甘いんだよ」
「だね」
そんな竹中を、創一たちは容赦なく侮辱した。他人を落とすことで自分の経営者としての株を保っているのかもしれないが、私から見れば竹中も創一も同じように愚かだ。自分だけは特別だと信じて疑わない創一に向かって、決定的な現実を突きつけることにした。
「竹中さんだけじゃない。あなたも首よ」
「は?」
余裕の様子で、彼は薄ら笑いを浮かべる。
「俺を首にする? 一体誰に向かって言ってるんだ、お前。もしかして、お父さんに泣きつくつもり? 残念だったな。あの怖いお父さんは、もうこの世にいないんだよ」
死のことを持ち出せば私が確実に傷つくと分かっている表情だ。まだ癒えない傷口をぐりぐりと押しながら、彼は腹を抱えて下品に大笑いする。
「お前のお父さんがいなくなって、この会社は俺だけのものになったんだ。誰にも邪魔はさせない。いつまでも突っかかってくるなら、お前の方こそ首にしてやるぞ」
実は、この会社は私の父親がゼロから起こした。その社長の座を、「娘」という理由だけで掃除が引き継いでいる。社長たるもの男でなければならないという、古く凝り固まった考え方を持っていた父。そのため、当時女である私には会社を継がせなかった。「女の私は必死になって会社で働く必要はない」――それが父の考える娘への愛でもあったのだろう。だから私は若い頃に少しだけ父の会社で働いたのを最後に、結婚してからはずっと専業主婦だ。子を育て、快適な家庭を守る。亡くなった母のように、穏やかに暮らしてきた。
全てが変わってしまったのは、2年前に父が突然倒れてからだ。父は病で社長の座を創一に託した。そのまま長い入院生活に入る。創一が社内を荒らし、私に清掃員をやらせて苦しめていることを一切知らないまま、先日息を引き取った。
「どうすんだよ。告げ口するにしても、怖いお父さんはもういないぞ。あのお父さんが生きていれば、俺、めちゃくちゃ怒られていただろうね」
ニヤニヤと笑う創一は、父までも冒涜する言葉を並べ立てる。
「あの人、いつも偉そうでうざかったからさ。本当に亡くなってくれて助かったよ。入院して弱ってても、口出してきそうで嫌だった。さすがにあの世からは、もう手出しできないね」
「あなたに、お父さんの会社は任せられない」
私は一歩も引かず、明確な意思を込めて言い放った。
「あははっ」
創一は笑い飛ばす。
「お前に許されなくても、別に構わないよ。掃除のおばさん」
「いいえ。私が決めることよ。私があなたをこの会社から追放する」
私は組んでいた腕をほどき、まっすぐにその濁った瞳を見据えた。
「だって、お父さんが亡くなった。今、この会社の株式は100%、私が持っているんだから」
「は?」
彼のみっともない笑顔が、瞬間、冷凍されたように止まった。ユナも、涙を流していた竹中も、全員が私に注目する。父が亡くなり、その全ての遺産を実の娘である私が相続した。つまり、この会社の本当の所有者は、目の前にいる「掃除のおばさん」――私なのだ。冷酷な事実を、彼らは今、ようやく理解した。
「株のことなんて聞いてないぞ。お前、俺に隠してたのか」
創一は顔を引きつらせ、絞り出すような声で呟く。彼は社長という立場に相応しい立派なスーツを着ているが、その中身はただの凡庸な男だ。一応は大人として社長らしく体裁を取り繕おうとはしているものの、株式の本質をまるで理解していないことが、その狼狽した表情から透けて見えていた。
「でも、だからなんだよ。お前が株を持ってるからって、何が変わる? ああ、配当金が欲しいのか。だったら、社長である俺の裁量で、いくらかお前に回してやれよ」
検討違いも甚だしい。株主という存在が会社そのものを支配する権利を持っていることすら、彼は分かっていないのだ。未だに「社長である自分の方がこの会社で最も偉い権力者なのだ」と思い込みたいらしい。虚勢を張って、顎を突き出している。そんな彼の哀れな姿を見つめながら、私はこれまでの経緯を冷静に思い出していた。
確かに、私は自ら進んで株の話をしていない。聞かれなかったからだ。父が亡くなった直後、創一は通夜の席ですら私の横にぴったりと張り付いて、「遺産はどれくらいあるんだ」としつこくお金のことばかり聞いてきた。一応は夫婦である。だから私は預貯金の額について包み隠さず、きちんと伝えた。まとまった金額を耳にした瞬間、創一の顔には隠しきれない快哉の色が浮かぶ。「よし、これで将来は安泰だな」と両手を上げて大喜びしたかと思いきや、その日の夜には私に向かって偉そうに釘を刺してきた。
「おい、みち子。大金が入ったからって、勝手に無駄遣いするなよ。お父さんの金をな。言ってみれば、この会社の金であり、社長である俺の金でもあるんだから」
私は元々、父が残してくれたお金を無駄遣いする気など微塵もなかった。だから大金を相続したからと言って、生活を変えることもなければ、大きな買い物も一切していない。しかし、私に「使うな」と牽制してきた当の本人はどうか。創一は遺産の話を聞いたわずか数日後、見たこともないようなゴツい外車の高級車を特段に買ってきた。そして我が家のガレージに我が物顔でその車を停め、毎朝満足そうに車体を眺めては悦に浸っていたのだ。それだけではない。「社長の家に相応しい邸宅にする」と言い出し、自宅の全面リフォームの計画まで進め始めている。今はいくつかのリフォーム業者を選定している段階で、毎日のようにパンフレットを広げては大理石の床やジャグジー、自宅用のサウナについて語っていた。他にも手触りのいいスーツ、海外の高級時計、靴。父が亡くなってからの短い期間で、彼のこまごまとした買い物は誰の目にも明らかなほど劇的に増えていた。父の遺産という大金が転がり込んで、完全に気が大きくなっている。私には「使うな」と偉そうに命令しておきながら、無駄遣いを繰り返していたのだ。
まだ父がいなくなったことを受け止めきれず、喪失感を抱えている私は、とても楽しそうな創一を冷めた目で見ていた。でも、彼の暴走もここまでだ。私は深いため息をつく。
「私が100%の株を持っているということは、この会社の経営も、土地も、もちろんあなたが勝手に引き出そうとしている会社の資産も、全て私の意思1つでどうにでもできる。株主っていうのはね、その会社の全ての決定権を持つのよ。つまり、私はあなたを社長の座から引きずり下ろすこともできるってこと」
自惚れの強い創一に向けて、中学生でも分かるほど簡単に権限の説明をしてあげた。創一は、ようやくことの重大さに気づいたらしい。彼の顔から、完全に血の気が引いていく。
「あ、でも、現に今この会社を動かしている社長はこの俺だぞ」
「ただの雇われ社長でしょ」
私は彼の言葉を冷たく遮った。
「勘違いしないで。あなたは自分で会社を興したわけでもなければ、自分の実力で会社を拡大させたわけでもない。私の父が作った会社のトップの座に、『娘の婿だから』という理由で座らせてもらっただけよ」
反論の言葉を失った創一は、その場に立ち尽くす。与えられた身分不相応な場所で株を上げ、会社のお金を女や贅沢に注ぎ込んでいた。実力もないくせに、社長でいられるわけがないでしょう。自分の愚かさを理解し始め、創一は顔を伏せて小刻みに震える。
その時、竹中が突然、歪んだ笑い声を漏らして、ゆっくりと立ち上がった。しくしくと涙を流していた彼は、もう自分の首が確定して吹っ切れたのだろう。先ほどまで社長とすっかり同調していた男への激しい憎悪に火がついていた。
「はっ、社長さんよ。なんだよ、そのザマは。お前、本当にただのお飾りだったんだな」
「な、なんだと、竹中!」
創一が怒りで顔を震わせるが、竹中は社長の顔色などこれっぽっちも気にしていない。
「奥さんの言う通りだよ。お前なんか、最初から社長の器じゃなかったんだ」
傷口に塩を擦り込むように、吐き捨てた。
「あんたのこと、めちゃくちゃカスだなって、心の底から見下してたんだよ。実力のない馬鹿を適当に持ち上げておけば、俺の出世も早いと思ったから近づいたんだ」
「お前!」
「親の名義を使って金を稼ぐ方法を教えたのも、お前が欲深くて頭の悪い男だって分かってたから。まさか、あんまりにもカスすぎて、俺にまで被害が及ぶとは思わなかったけどね」
竹中から容赦のない本音が浴びせられる。営業部の頼れるエースだと思っていた部下に、バカだと見下され、利用されていただけだったという残酷な真実。創一は頭を殴られたような衝撃を受けた顔で、言葉もなくガタガタと震える。竹中と私を見つめたまま、ただただ惨めに絶望の底へと叩き落とされていった。
会議室に広がる重苦しい沈黙。しかし、その張り詰めた大人の空気を、またしてもあの空気の読めない女が容赦なくぶち壊した。
「ねえ、社長。なんでおばさんなんかが偉そうにしてるの? 社長は社長だよね。この会社で1番偉いんだよね」
株主の権限などという難しい話は、彼女の頭のキャパをはるかに超えていたのだろう。自分が乗っかるはずだった「社長夫人」という泥舟がグラグラと揺れていることだけは気がついているようだ。
「今は静かにしてて」
怒鳴りつける気力すら、創一には残っていない。小虫でも追い払うように、弱々しく手を振り払おうとする。しかし、憧れの社長夫人の座が目の前で消えそうなのだ。ユナもまた必死だった。
「ちょっと社長、首とかなんとか言われてるけど、そんなのないよね? あのおばさんが勝手なこと言えてるだけだよね? ねえ、なんとか言ってよ、社長」
創一にすがりつき、激しく揺さぶる。ユナの口調から、今までの作り物っぽい甘い猫なで声が剥がれ落ちていく。妙に低い、ぶっきらぼうな地声に変わっていた。
「うるさい! 静かにしろって言ってるだろ! 今、お前に構ってる余裕なんかないんだよ!」
すでに理性を喪失し、どん底まで落ちていた創一は、耳元でギャーギャーと騒ぎ立てるユナの余りの癇癪についに限界を迎える。彼は逆上した口調で、怒鳴りつけた。ユナの顔が、一瞬で醜く引きつった。理性が吹っ飛んだことをきっかけに、彼女も完全にブチ切れたのだ。
「あんたが社長、首とか言われてるからさ、マジどういう意味? あんたが社長じゃなくなったら、私どうすんのよ!」
「お前のことなんか知るかよ! 勝手にしろ!」
「何それ? 無責任! そう言って、私は社長夫人だって言ったじゃん!」
悲劇の第二幕が開演した。もはや私の存在すら忘れたかのように、二人は顔を近づけて低レベルな言い争いを始めた。
「だったら、今まで俺が買い与えてやったブランドバッグも洋服も車も、全部返せ! 会社の金で買ったんだ。お前のもんじゃねえぞ!」
「はあ? ケチくさい! 大体さ、先月二人で中華を食べに行った時も、私が高い料理を頼んだくらいであんた、めちゃくちゃ不機嫌になったじゃん。小さい男!」
さっきまで涙を流していた竹中は、あまりの泥仕合ぶりに呆然としている。涙を引っ込め、いかにも常識人のような顔をして、二人に呆れ半分で言葉をかけた。
「あの、本当に今、何やってるんですか……」
「うるさい! お前に言われたくないわ!」
「一体、何が楽しくてこんな男の肩を持って……」
どうやら火に油を注いだようだ。もはや収拾がつかない。私はただ、冷え切った目でその痴態を眺めていた。父は、この様を天国から見ているだろうか。これが、信頼して会社を任せた男と、その可愛い秘書の正体だ。
一通り言い争ったユナは、ふんと鼻を鳴らして髪を掻き上げた。今度は私の方を、まっすぐに睨みつけてきた。
「ねえ、おばさん。結局、このおっさんは首ってこと? 社長じゃなくなるのね?」
図々しいまでの自己中心的な態度だ。私はしっかり頷いた。
「ええ、そうよ。今日の夕方には臨時の株主総会の手続きを終えて、創一さんを社長の座から正式に解任します。この人はもう、社長でも何でもない、ただの無職の男になるの」
私が言い終わる前から、ユナはその場でくるりと振り返った。冷酷なゴミを見るような目を創一に向け、吐き捨てるように言った。
「うわ、無理。じゃあ、バイバイ」
「は?」
何の躊躇もなく、ユナは歩き出す。
「社長のくせにケチ臭くて、なんだかなって感じだったけど、首になったなら、もう何の価値もないよね。3階建てのマンションも、3回しか借りられないような男だもん。今まで付き合ってあげて、損しちゃった」
「あ、ユナちゃん! ユナ!」
創一が情けない声で呼びかけるが、ユナは1度も振り返ることなく、会議室を出ていった。パタンと音を立ててドアが閉まり、二人の浅ましい関係が終わる。残されたのは、完全に抜け殻となった創一と、竹中だ。
「臨時株主総会の招集通知は、もうすぐあなたの手元に届くはずです。明日付けで、あなたを社長の座から正式に解任します。それと、竹中さん。あなたも、首ね。お二人とも、速やかに私物をまとめて出ていってちょうだい」
言うべきことを完結に伝えた。私は会議室の出入り口に手をかけ、振り返って創一に微笑みかけた。
「自宅のリフォーム計画は、全て白紙に戻します。勝手に買ったやたら大きな外車は、売却して会社への返還に充てますね。あなたは、強制的に家からも出ていってください」
「みちこ、よ、俺が悪かった! 悪かったから!」
すがりつく創一の声を背中で聞きながら、私は部屋の外へと踏み出した。出ると、驚くべき光景が広がった。いつの間にか、大勢の社員たちが廊下に集まっていたのだ。誰もが、潜んでいた会議室の中から漏れ聞こえていた、あの真実を聞いていたらしい。私が姿を現すと、社員たちが一斉に頭を下げる。
そして、1人の年配男性が私の前に進み出てきた。元営業部のベテランであり、今は総務で管理職を務めている。父の代からこの会社を支えてくれていた、小田原だ。
「みち子さん。今まで、本当に申し訳ありませんでした」
小田原は、深く深く私に頭を下げた。彼の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。それに続くように、周囲の若い社員たちも次々と私に向かって頭を下げ、涙を流し始めた。
「小田原さん。え、どうして皆さんが謝るんですか?」
私が戸惑って問いかけると、小田原は顔をあげ、悔しさに唇を震わせながら語り出した。
「社長から通達があったんです。『清掃業務の邪魔になるため、清掃員との会話や個人的な接触を一切禁止する。違反したものは、減給または解雇処分とする』と」
え。その命令があったから、私が清掃員としてこの会社に出入りするようになった時、社内の雰囲気がひどく重苦しかったことを、私は覚えている。「おはようございます」と挨拶しても、帰ってくるのは軽い会釈のみ。また、社長の権限を利用した暴挙はそれだけではない。
「先代の残したベテラン勢を、創一さんは『老害』と呼んで、次々と退職に追い込みました。残された私たちも、いつ首を切られるかと怯える恐怖政治の毎日だったんです」
確かに、数十年前の若い頃、新人社員の私がお世話になった社員の方たちは、ほとんどいなかった。すっかり出世していてもおかしくない年齢なのに、なぜか小田原のように留まった役職や専門職の人も多い。異変を感じつつも、誰かに声をかける勇気がなかった。
「みち子さんのことを、誰もがお助けしたいと思っていました。でも、声をかければ創一さんに目をつけられる。私はこの会社に骨をうめるつもりで働いてきたのに、怖くて声を上げられませんでした。申し訳ありません」
小田原の言葉に、深い葛藤と優しさが滲んでいる。若い社員たちが私とすれ違うたび、申し訳なさそうに目を逸していた理由が、ようやくわかった。彼らは私を馬鹿にしていたのではない。創一の理不尽なルールを守り、ずっと耐えていたのだ。
「先代にはよくしていただいたのに、みち子さんを孤立させてしまいました。本当に、本当に申し訳ありません」
「小田原さん、もう顔をあげてください。皆さんも」
私の胸の奥に、温かいものがじんわりと広がっていく。
「小田原さん。私、この会社を、元の父が愛した温かい会社に戻したいんです」
挨拶も返されない。みんなにいないものとして扱われていると思っていたけれど、本当は孤独ではない。父が残してくれたこの会社の人々は、誰も魂までは売っていなかったのだ。
「経営の素人である私に、社長は務まりません。この2年間、創一さんの暴挙に耐えて会社を守ってくれたあなたこそ、ふさわしいと思っています。次の社長、引き受けていただけますか?」
突然の申し出に、小田原は目を見開いた。周囲の社員たちから、「小田原さん、お願いします!」と地を震わせるような歓声と拍手が湧き起こる。
「はい。みち子さん。そして、先代の残してくれたこの会社を、命がけで守り抜きます!」
小田原は力強く頷き、私の手をしっかりと握りしめてくれた。背後に妙な視線を感じてはいたけれど、わざわざ振り返る必要もない。再出発を図ろうとしているこの時に、落ちぶれた犯罪者など不要だ。ギャーギャー吠えたり、ネチネチ攻めたりする気力もなくなった男二人は、会議室の前から人がいなくなるまで、かなり長い時間潜んでいたようだ。
その日の夕方、創一の解任と小田原の新社長就任の噂は、またたく間に業界内を駆け巡った。すると、信じられないことが起きる。
「佐藤さん! 小田原さん!」
オフィスの入り口に、懐かしい顔が立っていた。創一のいやがらせに耐えかねて、ここ1年の間に涙を飲んで会社を去っていった元社員たちだ。彼らはニュースを聞きつけ、いても立ってもいられずに駆けつけてくれたらしい。
「あのワンマン社長がいなくなったって、本当ですか?」
中には、またこの会社に戻りたいという人までいる。
「小田原さんが社長になるなら、俺、またこの会社で働きたいです!」
「もちろんだよ。よく戻ってきてくれたね」
小田原が彼らと握手を交わし、オフィスは歓喜の渦に包まれた。かつて父が築き上げていた温かい活気が、戻りつつある。私はその光景を、心からの笑顔で見つめていた。
その日の夜、我が家のリビングには、まるで夜逃げでもするかのような異様な光景が広がっていた。
「ちっこい会社にしがみつくのも馬鹿らしい。お言葉通り出ていってやるよ。こんな泥船、こっちから願い下げだっての」
創一は顔を真っ赤にして悪態をつき散らしながら、クローゼットからこれでもかと衣類を引きずり出す。「早く出ていって」と冷たく告げたのにも関わらず、彼の荷造りは捗々しく進まない。高価なものを少しでもこの家から持ち出そうと必死になって、家具の引き出しを漁っているからだ。結局、数時間かけてパンパンに膨れ上がった大きなボストンバッグが3つと、ファスナーがなかなか閉まらないほど荷物を詰め込んだ大型のキャリーケースが、彼の足元に転がった。無職になるというのに、ブランド物のスーツや靴だけは人一倍抱え込んでいる姿が、たまらなく滑稽だ。
荷物を両手に抱え、玄関に向かう創一。最後の最後になんとか私を精神的に凹まそうと、ギラついた目を向けてきた。
「いいか、みちこ。俺がお前みたいな冴えない女と結婚してやったのはな、社長になれると分かっていたからだよ。それだけだ。そうじゃなきゃ、お前なんか誰も選ばないっての」
「はいはい。お疲れ様でした。早く行ってちょうだい」
私はため息交じりに聞き流す。創一の顔が怒りで引きつった。どんなに声を荒らげても、ひどい言葉を投げつけても、私は眉1つ動かさない。冷静に構えていることが、彼のちっぽけなプライドを逆撫でしたのだろう。
「お前、その態度が気に入らねえんだよ! 今更、お嬢様気取りか!」
激高した創一は、言葉の代わりに恐怖で私を支配しようとした。おどすように、右手の拳を大きく振り上げる。今にも私を殴りつけるかのような脅しの仕草だ。すると、ジャラジャラと、金属の擦れ合う重たい音が、玄関に鳴り響いた。
あら。振り上げられた彼の右腕の袖がまくれ上がり、そこには驚くべき光景が広がっている。金色に輝く高級腕時計が一つや二つではない。ジャラジャラと隙間なく、手首から腕全体にびっしりと巻きつけられていたのだ。父の遺産が入ったからと気が大きくなり、彼が買い漁ったであろう数百万円はする超高級品の数々。バッグに入れると傷がつきそうで嫌だったのか、あるいはこれだけは絶対に手放さないという強欲さか。彼は複数の時計を全て自分の腕に装着して、この家を出て行こうとしていた。
拳を振り上げたことで、高級腕時計はお祭りの鈴のようにジャラジャラと鳴る。これ以上ないほど彼の浅ましさと愚かさが凝縮された、あまりにも間抜けなポーズだ。私は怒る気すら失せ、深い深い嘲笑と哀れみの眼差しを、その腕に向けた。
しばらく沈黙した。創一は振り上げた拳を止めたまま、私の視線を追って、自分の右腕を見る。そして、自分が今どれほど格好悪くて恥ずかしい姿を晒しているかに、ようやく気づいたらしい。
「あ、や、これは、俺の時計」
怒りで赤だった創一の顔が、また別の原因の赤さに染まっていく。慌てて袖を引っ張って時計を隠そうとするけれど、数個もついているせいで、袖が不自然に膨らんでしまう。
「俺はこんな家、捨ててやる! せいぜい後悔するんだな!」
真っ赤になった顔をごまかすように、創一は裏返った声で吐いた。ボストンバッグを引きずり、大股で玄関を飛び出していく。ようやく静かになった我が家で、私はふと、天井を見上げて深いため息をついた。父の会社を食い荒らし、私を苦しめていた男の、それが哀れな末路だ。
その翌日、私は新社長に就任した小田原と共に、会社の応接室にいた。机の上にはあのセロハンテープで復元した裏帳簿、そして竹中が残していったパソコンの裏取引のデータが並んでいる。それらを入念に確認した会社の顧問弁護士は、あっさりとした笑顔で私たちに告げた。
「元社長の創一氏は、会社の金を個人的に使い込んでいた業務上横領。そして竹中氏は、社内の情報を勝手に売ろうとした。すでに警察と税務署には連絡を入れました。二人とも、言い逃れは100%不可能ですね」
弁護士が明るい口調で言うには、竹中は刑務所は免れるかもしれないそうだけれど、莫大な罰金を国から請求されるとのこと。そして元社長の創一は、動かした金額が大きすぎる。初犯であっても言い訳の余地はなく、確実に刑務所行きの実刑判決だろうということだった。
「今頃、お二人の元には警察の手が伸びているはずですよ」
「そうですか。引き続き、よろしくお願いいたします」
法律の難しいあれこれなんて、私が考える必要はない。証拠さえあれば、あとは法が悪人たちを裁いてくれる。
その数日後、警察に連行された創一と竹中は、それぞれの取り調べで、文字通り「こんなはずじゃなかった」と頭を抱えて喚いていたそうだ。
まず、営業部のエースを気取っていた竹中。
「そんなに損害は出てないって、あのおばさんも言っていたじゃないか。今回は未遂なんだから、多めに見てくれたっていいだろう」
自分が大金を手に入れて勝ち組になるはずだった未来が、一瞬にして消え去った現実を受け入れられずにいる。
「会社も首になったし、借金だけが残るなんて。あんな掃除のおばさんのせいで、俺の人生がめちゃくちゃにされるなんて、ふざけんなよ!」
竹中は取調室の机に額を何度も叩きつけ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫び続けていたそうだ。しかし、彼に同情するものは誰もいない。
そして、最も無様な姿を晒していたのは、もちろん創一だ。手錠をかけられて、ようやく刑務所という自由のない場所に閉じ込められるのだと理解した。尊大だったプライドは、こっぱみじんに吹き飛ぶ。
「待って! 誤解ですよ! 俺は社長です! 親孝行のために、お金をちょっと使っただけなんですよ! 親孝行! 親孝行!」
いくら喚いても、警察官たちは冷ややかな目で彼を見下ろすだけだった。腕に複数の高級時計をジャラジャラと巻きつけて、勝ち誇ったように出ていったけれど、残念ながら刑務所に時計は持ち込めない。
もちろん、創一には執行猶予なしの実刑判決が下り、彼は全てを奪い去られた。長く暮らした我が家という居場所を失い、新しい生活の場、刑務所への入所が保証されていて、路頭に迷うより逆に恵まれているのではあるまいかと思う。こうして、我が社の清掃は完了した。
それから数年後、我が家の前に不審者が現れた。息子の直樹が帰宅したところ、顔中にしわだらけの老人が声をかけてきたのだ。
「ああ、久しぶりだね。でかくなったじゃん。俺より身長高くなって、生意気だな」
直樹は少し戸惑ったものの、よく見ればその不審者が父親の創一だと気がついたらしい。
「なんだよ、お前の親父じゃん。そんなツンツンすんなよ」
ニタニタとした笑みを浮かべ、すり寄ってくる。かつて高級スーツに身を包んで傲慢にふんぞり返っていた某社長の面影など、微塵もない。疲れ果て、薄汚れた老人だ。刑期を終えて社会に戻ってきたものの、金も家も仕事も全て失った創一。結局、頼りにしたのは、家族と暮らした家だった。
騒動の頃、大学生だった直樹は海外に留学していた。現在は帰国し、社会人となっている。我が家の門の前で待ち伏せていた創一と、たまたま鉢合わせしてしまったのだ。
直樹が一歩下がり、不審者のような男を冷静に見据えた。
「今更、何のご用ですか?」
「何? 冷たいな。いくら離婚したからって、お前と俺の血の繋がりは消えないんだぞ。お前は俺のたった1人の子供なんだからさ。とりあえず、家の中に入れてよ。喉乾いたな」
馴れ馴れしく肩を叩こうとする創一の手を、直樹は冷たく叩き落とした。強い拒絶に、創一は「なんだよ」と口を尖らせた。
「昔から、あなたに父親らしいことをしてもらった記憶など、ただの1度もありません。私にとっての父親は、学費を出してくれた祖父であり、私を育ててくれたのは母です」
言葉を区切り、直樹は力強く言う。
「私に、父親はおりません」
直樹の一括に、創一はちっと小さく舌打ちをした。今度は開き直ったように、声を荒らげる。
「おいおい、そりゃねえだろ。確かに俺は間違いを犯したよ。でもな、もう刑務所に入って、きっちり罪を償ってきたんだ。お前にそこまで責められる言われはねえぞ」
創一がどれだけ被害者面しようとも、直樹の表情はピクリとも動かない。氷のように冷たい視線を送る直樹の態度に、創一は苛立ちを募らせた。
「ああ、分かった。お前、あの女に、あることないこと吹き込まれたんだろ。俺が若い女と浮気したとか、そういう悪口、聞かされたんだな」
ふんと鼻で笑うと、創一は直樹の顔を覗き込む。それから、男同士の謎の連帯感を求めてきた。
「だけどな、男ってのは、つまみ食いしたくなるもんなんだよ。お前も男なら、そういう本能みたいなもん、分かるだろ? 男のサガってやつだよ」
下品に笑う創一。直樹は心底軽蔑しきった目で見つめ、静かになった。
「最低ですね。同じ人間とは思いません。猿ですか?」
「なんだと?」
実の息子から放たれたという強烈な言葉に、創一の笑顔が凍りつく。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。刑務所を出された彼には、もう行く当てなどないのだ。創一はめげず、今度は直樹の現状にターゲットを絞ってアタックを再開した。
「ま、まあ、そんな昔の話はどうでもいいんだけど。それより、お前、今何やってんだ? 大学は卒業したのか? もう、どこかで働いてんの?」
「ええ、幼い頃からの夢を叶えて、働いています」
直樹の言葉に、創一はパッと顔を輝かせた。
「へえ、そりゃすごいな! 一体、何になったんだ? 医者か、パイロットか? あ、それか、プロの野球選手にでもなったか?」
小中学生が憧れそうな職業を並べ立てる。実際は、普通の会社員だ。小田原が社長になり、以前の温かさを取り戻したあの会社に務めている。「おじいちゃんの会社で働く」と幼い直樹が夢見ていたことを、父親の創一は知らなかったのだ。直樹は深く呆れ果て、これ以上相手にするのも時間の無駄だとばかりに視線を逸らす。
「直樹、何してるの?」
そこへ、買い出しを終えて帰宅した私は、買い物袋を投げ出す勢いで駆け寄った。我が家の前で直樹にすがりつこうとしている創一の姿を捉えたからだ。彼から受けた理不尽な仕打ちが蘇り、全身にゾワリとした嫌悪感が走る。
私の姿を見るや、創一は狡そうな笑みを浮かべた。
「もう、私たちに関わらないで」
「お前に構ってる気なんか、こっちだってないよ。だけどな、直樹は俺の子供だ。離婚したって、親子の縁は切れないんだよ」
子供の夢も知らなかったくせに、なおも父親としての権利を主張しようとする。しかし、深い溜め息をついた直樹が、創一に向かって冷たく言い放った。
「戸籍上、親子関係があるだけですよね。実際は、あなたとの間に絆は1ミリもありません。これ以上、突きまとうなら、警察を呼びます」
実の息子から、他人以下として切り捨てられた創一。彼がこれまでの人生でどれほど薄っぺらい人間関係しか築いてこなかったか。因果応報の結末が、彼に深く突き刺さった。創一は返す言葉もなく、絶望の表情でその場に立ち尽くしていた。この男のための居場所など、私たちの家には残っていない。私は創一を無視して、家の中に入る。数分後にモニターで玄関先を確かめたら、小汚い姿は消えていた。
私の元には、いくつかの風の噂が届いている。まず、営業部の竹中。刑務所こそ免れたが、彼はその後もプライドにしがみつき、同業他社への再就職を必死に試みていたそうだ。けれど、社内に情報漏洩をやらかしたスパイの悪名が届いている男を雇う賢明な企業など、あるはずもない。結局、アルバイトでその日暮らしの生活を送っているとのこと。つい先日、私は地元の新聞の小さな事件欄に、彼の名前を見つけた。「コンビニや公園の公衆トイレを連続的に汚し続けた器物損壊の疑いで、男を逮捕」。記事には、竹中の名前がはっきりと載っていた。
そして、若さと愛嬌だけで生きていた秘書のユナ。彼女はあの後、シレッと別の会社に再就職を果たしたそうだ。しかし、1度覚えた贅沢がどうしても忘れられなかったのだろう。彼女はまたしても可愛い顔と法外なボディを生かして、新しい会社の役員に取り入ったらしい。けれど、世の中そんなに甘くはなかった。すぐに役員の奥さんにバレて大騒動。逆に慰謝料を請求され、会社も解雇された。あれほど「3階建てのマンションしか借りられないケチ」と創一を馬鹿にしていたというのに。今の彼女にとって、その3階建ての部屋すら、一生かかっても手の届かない夢のまた夢。もう2度と、キラキラした場所に住むことは叶わないだろう。
最後に創一。刑務所から出てきて、息子にまで他人と切り捨てられた。他に当てもなく、田舎で暮らす80代の両親を頼った。あの創一と血が繋がっているとは信じられないほど、義両親は常識的な人たちだ。だからこそ、犯罪者となった息子でも見放すことはしなかった。「ここで突き離せば、私や直樹のところにまた嫌がらせを仕掛けて迷惑をかけるだろう」と、最後まで私たちのことを案じてくれたのだ。
「家には住まわせてやる。ただし、しっかり働いて、自分の食い扶持は自分で稼ぎなさい」
それが、年老いた両親が提示した唯一の条件。田舎の小さな福祉施設で、創一は働いているそうだ。朝早くから作業着に身を包み、腰を曲げて床を一心不乱に磨く。――そう、清掃員だ。
「掃除なんか誰でもできる」「お前は暇そうだな」。散々、私に言ってきたことだ。創一はさぞ完璧な仕事をしているのだろう。
さて、ゴミは全て綺麗に片付けた。私は今も、清掃の仕事を続けている。新社長の小田原からは「管理職の仕事に移ってはどうか」と勧められたけれど、私はやっぱり掃除が性に合っている。ある日、1階の女性トイレに入ると、若い女性社員が洗面台に垂れた水滴を、ペーパータオルでさっと拭き取ってくれていた。
「あ、こんにちは。お掃除ですか? お願いします」
「こんにちは。いつも綺麗に使ってくれて、ありがとう」
当たり前の挨拶を、笑顔で交わせることが、たまらなく嬉しい。そういえば、創一や竹中が去ってから、トイレがひどく汚されることもなくなった。誰かのさりげない気遣いが、みんなの幸せにつながっていく。そんな温かい空気が、今のこの会社には満ちている。
トイレの清掃を終えて廊下に出ると、小田原と直樹が肩を並べて歩いていた。熱心に、仕事の話をしている。頼もしくなった息子の後ろ姿を見つめながら、私は思わず目を細めた。父が私をいつまでも可愛い娘だと思っていた気持ちが、よく分かる。いくつになっても、子供は大切な存在だ。彼が歩くこの床をもっとピカピカに輝かせよう。私はモップの柄に、力を込めた。



