「お前、自分が何様のつもりだ?稼ぎもない専業主婦のくせに、俺に意見するなよ。」
その言葉が放たれた瞬間、リビングの空気が凍りついた。結婚して18年。これまで一度も声を荒げたことのなかった夫・健一の口から飛び出したのは、私という存在を根底から否定する残酷な言葉だった。
テーブルの上には、私が数時間かけて作った料理と、数枚の決定的な証拠写真が並んでいる。夫の浮気現場の写真だ。それを突きつけた私に対し、夫は謝罪するどころか、獣のような目で私を睨みつけていた。
だが、この時の健一はまだ気づいていなかった。その傲慢な言葉が、自分自身の人生をこれから先、ゆっくりと、そして確実に地獄へと引きずり込んでいく合図になったということを。
「わかりました、健一さん。あなたの考えはよく理解できました。」
私は震える手で茶碗を置き、静かに立ち上がった。怒りもしない。泣きもしない。ただ、底の見えない無表情で夫を見つめ返した。私の胸の奥で、何かが音を立てて壊れ、そして同時に、鋼のような冷たい決意が生まれた瞬間だった。
外では冷たい雨が窓を叩き始めている。この雨が上がる頃には、私たちの夫婦という形は、二度と元に戻らない異形の仮面へと姿を変えることになるだろう。
私は黙って寝室へ向かい、クローゼットの奥に隠しておいた一冊のノートを取り出した。それは、今日この日から始まる、長く静かで残酷な復讐の記録。
「18年。あなたが私を蔑ろにした時間と同じ分だけ、あなたは後悔することになるわ。」
暗い部屋の中で、私は誰にも聞こえない声でそう呟いた。健一はリビングでまだ勝ち誇ったように鼻で笑いながらビールを煽っている。自分が手放したものの大きさに、彼が気づくのはずっとずっと先のことになる。
そして、この時私はまだ知らなかった。この復讐の果てに、あんなにも残酷で、呆れるほどに衝撃的な真実が待ち受けているなんて。物語の歯車は、今、最悪の音を立てて回り始めた。
翌朝、目が覚めた時、夫はいつものように私を顎で使い、信じられない要求を突きつけてきた。
「おい、飯はまだか?それと、これから俺の生活に口出しするのは一切禁止だ。」
その言葉に対する私の反応は、夫の想像を絶するものだった。窓の外からは登校する小学生たちの元気な声が聞こえてくる。いつもと変わらない穏やかな朝の風景。しかし、我が家のダイニングルームに流れる空気は、まるで真冬の海のように冷たく、重苦しく停滞していた。
「おい、昨日の話、分かったんだろうな。これからは俺のすることに一切口出しするな。飯と洗濯、掃除さえ完璧にこなしていれば、お前の生活は保証してやる。文句があるなら今すぐ出ていけ。ああ、お前みたいなスキルのない中高年の女が、一人で生きていけるわけがないがな。」
健一は私が焼いた厚切りトーストにたっぷりと蜂蜜をかけながら、吐き捨てるように言った。その口調には、長年連れ添った妻への敬意など微塵も感じられない。あるのはただ、圧倒的な支配と、私を家畜とみなす傲慢な優越感だけだった。
私は何も答えず、ただ静かに夫のコーヒーをカップに注いだ。湯気が立ち上り、香ばしい香りが鼻をくすぐる。かつては、この香りにささやかな幸せを感じていた時期もあった。
私たち夫婦は結婚して18年になる。20代後半で結婚し、娘の七海を授かった。健一は中堅メーカーに務めるサラリーマンで、私は結婚と同時に家庭に入り、専業主婦として家を守ってきた。若い頃の健一は、不器用ながらも優しかったはずだ。給料日にはケーキを買ってきてくれたし、七海が熱を出した夜は、一緒にオロオロしながら見守ってくれた。
そんな思い出があるからこそ、私は彼を信じ、この18年間を支えてきたのだ。しかし、健一が部長に昇進し、年収が大きくなった辺りから、少しずつ歯車が狂い始めた。
「俺がこの家を支えているんだ。お前は俺のおかげで不自由のない生活ができているんだ。」
そんな言葉が日常的に飛び出すようになり、私を家畜か何かのように扱うようになっていった。
そして1週間前、私は見てしまったのだ。健一がリビングで寛いでいる際、テーブルの上に置きっぱなしになっていたスマホに届いた一通のメッセージを。
「昨日は楽しかったね。次はいつ会える?健君に会えないと寂しいよ。」
健君なんて。私が一度も呼んだことのない呼び方。添えられたハートマークの絵文字が、私の視界を真っ赤に染め上げた。
それからの数日間、私は狂ったように夫の持ち物を調べた。クローゼットに隠されたクレジットカードの明細。鞄の奥に押し込まれた高級レストランの領収書。そして、夫と若い女が腕を組んでホテルに入っていく姿を収めた、探偵に依頼して撮らせた決定的な写真。
18年間尽くしてきた結果がこれなのか。怒りと悲しみで血の気が引いていくのを感じながら、私は昨夜ついに夫を問い詰めた。だが、帰ってきたのは謝罪の言葉ではなかった。
「不倫?ああ、そうだよ。それがどうした?お前が最近、女として魅力的じゃなくなったのが悪いんだろ?いいか?嫌なら離婚してもいいんだぞ。ただし、家を出る時は身一つだ。慰謝料?専業主婦のお前に、そんなものを請求する権利があると思っているのか?」
健一はそう言って私を嘲笑った。彼は知っているのだ。私が娘の学費やこれからの生活を考え、離婚という選択肢を簡単には選べないことを。私の弱みを完全に握っていると確信しているからこそ、これほどまでに残酷になれるのだ。
健一はコーヒーを一口すると、まずそうに顔をしかめた。
「なんだ、このコーヒーは?ぬるいな。お前はこんな簡単なこともできなくなったのか。本当に役立たずだな。」
ガチャンと、乱暴にカップをソーサーに戻す音が響く。私はその音を聞きながら、心の中で静かにカウントダウンを始めた。
「申し訳ございません。以後、気をつけます。」
私は感情を一切排除した声でそう言った。健一は私が従順に謝ったことに満足したのか、鼻を鳴らして新聞を広げた。
「ふん。分かればいいんだよ。お前は黙って俺に従っていればいい。それがこの家で生きていくための唯一のルールだ。」
健一は知らない。私がこの瞬間に、彼を夫としてではなく、ただの排除すべき害虫として認識したことを。そして、私が選んだのは単なる離婚ではないということ。健一が私に敷いた18年間の支配を、今度は私が18年間の拒絶として返してやる。彼がこの家でどれほど孤独に、どれほど惨めに朽ちていくか。私はこの目でじっくりと見届けることに決めたのだ。
「健一さん、今日は帰りが遅くなるのよね。」
私の問いかけに、健一は新聞から目を離さずに答えた。
「ああ、そうだ。夕飯は要らない。お前は適当に残りでも食べてろ。」
「わかりました。お気をつけて。」
私は深々と頭を下げた。健一が玄関を出て、車のエンジン音が遠ざかっていくのを確認すると、私はそれまで維持していた仮面を脱ぎ捨てた。キッチンのシンクに、健一が残したぬるいコーヒーをぶちまける。黒い液体が排水溝に吸い込まれていくのを眺めながら、私はスマホを取り出し、ある番号に電話をかけた。
「もしもし、私です。昨日お話しした件、進めていただけますか?ええ、徹底的に。彼が逃げ場を失うまで、一歩も引くつもりはありません。」
電話の相手は私の旧友であり、現在は辣腕の弁護士として活躍する女性だった。18年前、私が家庭に入るために捨てたキャリアと資格。それを今、私は再び取り戻そうとしていた。
健一は私が何も持たない無力な主婦だと思い込んでいるが、それは大きな間違いだ。私は彼が寝静まった深夜、クローゼットの奥から一冊の古びた手帳を取り出した。そこには、健一が隠していると思っていたある秘密についてのメモがびっしりと書き込まれていた。
「あなただけが秘密を抱えていると思ったら、大間違いよ。」
私は手帳を強く握りしめた。それは健一の不倫以上に、この家族の根幹を揺るがすような恐ろしい真実への入り口だった。
その時、玄関のチャイムが鳴った。健一が忘れ物でもしたのかと思い、私は警戒しながらドアを開けた。しかし、そこに立っていたのは予想外の人物だった。
「お母さん、私、全部知っちゃった。」
ここにいるはずのない、大学に通うために一人暮らしをしているはずの娘、七海だった。彼女の目には大粒の涙が溜まっていた。物語は、私の想像もしなかった方向へと急速に加速し始めた。
玄関先に立ち尽くす娘。七海の肩は小刻みに震えていた。彼女の大きな瞳から溢れ出した涙が頬を伝って、コンクリートの床に点々と染みを作っていく。
「どうしてここに?大学の講義はどうしたの?」
私は動揺を隠し、娘の肩を抱き寄せようとした。しかし七海はその手をすり抜け、絞り出すような声で言った。
「お母さん、ごまかさないで。私、見たんだよ。先週の日曜日、お父さんが新宿のデパートで、私より少し上くらいの女の人と腕を組んで歩いているのを。プレゼントを買ってあげて、二人ですごく幸せそうに笑って」
七海の言葉に、私の心臓がドクンと大きく跳ねた。彼女もまた、あの地獄のような光景を目撃していたのだ。まだ二十歳の多感な時期の娘にとって、それはどれほどの衝撃だっただろうか。
「そう、あなたも見てしまったのね。」
私はため息と共に言葉を漏らした。隠し通せるものではないと分かってはいたが、せめて七海が大学を卒業するまでは、平穏な家庭のふりをしていたかった。
その時だった。
「なんだ、七海。連絡もなしにいきなり帰ってきて。騒々しいぞ。」
家の奥から、不機嫌な健一の声が響いた。忘れ物をしたのか、それともまだ出かけていなかったのか。七海はネグリジェ姿のまま、面倒くさそうに玄関に姿を表した。七海は父親の姿を見るなり、激しい怒りを露わにした。
「お父さん、私、見たんだよ。あの女の人は誰?お母さんに隠れてあんなことして、恥ずかしくないの?」
震える声で叫ぶ娘に対し、健一は謝るどころか鼻で笑って見せた。その表情には、罪悪感のかけらも、娘への申し訳なさも存在しなかった。
「ふん。見たのか。なら話が早い。お前ももう子供じゃないんだ。大人の事情ってものを理解しろ。男が外で少し息抜きをするくらい、当然の権利だ。お前が大学に行けているのも、俺がこうして外で稼いでいるからだろうが。」
「そんなの言い訳だよ。お母さんがどれだけ一生懸命この家を守ってきたか。お父さんは分かってない!」
七海の叫びは虚しく廊下に響いていった。健一は嘲笑を浮かべ、今度は私に矛先を向けた。
「おい、里。お前、娘に余計なことを吹き込んだんじゃないだろうな。自分の立場が危うくなったからって、子供を味方につけて俺を攻撃しようだなんて、卑怯な真似をするなよ。これだから専業主婦は暇で困る。家庭内の不和をわざわざ煽って、何が楽しいんだ?」
私は何も言わなかった。ただまっすぐに夫の目を見つめ返した。ここで私が言い返せば、事態はさらに泥沼化する。健一は自分の正当性を主張するために、さらに私を、そして七海を傷つける言葉を並べてくるだろう。
私の沈黙を、健一は反論できない弱さだと誤解したようだ。彼はさらに畳みかけるように残酷な言葉を吐いた。
「お前がそんな暗い顔をしているから、七海までこんなにヒステリックになるんだ。母親としての教育がなってない証拠だな。お前はただの家畜なんだから、余計な感情を捨てて、俺たちの生活を支えることだけ考えていろ。分かったか?中卒並の知能しかない専業主婦が。」
「お父さん、言いすぎだよ!お母さんに謝って!」
七海が叫ぶが、健一はそれを無視して私を指さした。
「里。後で一つ忠告しておく。もし俺の不倫を理由に離婚だなんだと騒ぎ立てるなら、七海の学費は一切出さない。大学も中退させることになるが、それでもいいんだな。自分のプライドと、娘の将来、どっちが大事かよく考えろ。」
それは親として、そして人間として最低の脅しだった。健一は自分がどれほど優位に立っているかを誇示するように、勝ち誇った顔で私を見下ろしている。私は唇を強く噛みしめた。怒りで体が震えそうになるのを必死で抑え込む。今ここで爆発してはいけない。健一の土俵に乗ってしまえば、彼の思う壺だ。
「わかりました。健一さんのおっしゃる通りです。七海の将来が一番大切ですから。」
私は消え入りそうな声でそう言った。その瞬間、健一の顔に醜い笑みが浮かんだ。
「わかればいいんだ。そうだ、それでいいんだよ。最初からそうやって従っていればいいんだ。おい、七海。お前も分かっただろう。お母さんもこう言ってるんだ。余計な首を突っ込むのはやめて、大人しく大学に戻れ。」
健一はそう言い捨てると、乱暴に靴を履き、家を出ていった。バタンという大きなドアの閉まる音が、私たちの絶縁を象徴しているかのようだった。
「お母さん、どうして?どうしてあんな言いなりになるの?悔しくないの?」
七海が私の腕を掴み、泣きながら問い詰めてくる。私は娘の涙を優しく指で拭った。
「七海、ごめんね。辛い思いをさせて。でも、大丈夫よ。お母さんはね、決して負けたわけじゃないの。」
私の声は、自分でも驚くほど冷静だった。健一は私が彼に服従したと思っているだろう。学費という人質を取られ、完全に沈黙したと。だが、それは大きな間違いだ。私は彼に18年間の拒絶を突きつける準備を、着実に進めている。彼が私を侮辱し、私の存在を否定したその瞬間から、私の中の妻としての愛は一滴も残らず消え去った。
「七海、あなたに一つお願いがあるの。しばらくの間、お父さんの前では今まで通りに接して。お母さんが何かを企んでいるなんて、絶対に悟らせないで。」
「え、お母さん、何を考えてるの?」
「復讐よ。でも、血を流すような復讐じゃない。あの人が自分がいかに空っぽで、誰からも必要とされていないかを、時間をかけて理解してもらうための、最高の復讐。」
私はリビングの棚の奥に隠しておいたある封筒を取り出した。そこには、健一がひた隠しにしてきた会社の裏帳簿のコピーが入っていた。彼が「俺が稼いでいる」と誇示していた金の中には、到底許されない方法で得たものが含まれている。それを知ったのは半年前、偶然彼の古いパソコンのデータを整理していた時だった。
「お父さんは自分が完璧だと思っている。でも、罠はもう張り始めているのよ。」
私は冷たい微笑を浮かべた。健一が不倫にうつつを抜かしている間に、彼の足元はすでに崩れ始めている。
「さあ、七海。夕飯の準備をしましょう。お父さんの大好きな特別なメニューにするわ。今日が彼にとって地獄への入り口になることも知らずに、帰ってくるのでしょうから。」
私はキッチンへ向かった。私の心は凍てつくような静寂に包まれていた。かつての優しかった夫はもうどこにもいない。今ここにいるのは、私の人生を台無しにしようとした、憎むべき敵だ。敵を倒すには、力任せに殴る必要はない。ただ、彼が寄り所にしているものを、一つずつ、丁寧に、気づかれないように取り除いていけばいい。
そして、その日の夜、健一が帰宅した時、家の中には彼が予想もしなかった変化が起きていた。リビングの照明は落とされ、食卓には一輪の白い菊の花が飾られていた。
「おい、里。なんだ、この花は?まるで葬式みたいじゃないか。」
健一の不快そうな声が響く。私は影の中から音もなく姿を現した。
「ええ、そうですよ。今日はお葬式ですもの。私たちの、夫婦という関係のね。」
私の言葉に、健一の顔が引きつった。しかし、本当の恐怖はまだ始まったばかりだった。
「葬式だとは、笑わせるな。」
健一は鼻を鳴らし、上着を脱ぐとソファに投げ出した。白い菊の花を見つめる彼の目は、軽蔑と苛立ちに満ちている。
「里、お前、最近ちょっと頭がおかしいんじゃないか。浮気くらいで悲劇のヒロイン気取りか?そんな不気味な演出をして。気分が悪いんだよ。そんな暇があるなら、さっさと俺の酒のつまみでも作ってこい。冷えたビールと枝豆、それから刺身だ。分かったか?」
私は何も答えず、ただ静かに夫の顔を見つめていた。その無表情な視線が気に入らなかったのか、健一はさらに声を荒げた。
「おい、聞いてるのか?無視するな。お前が今こうして屋根のある家で、まともな服を着て暮らしていられるのは、誰のおかげだと思っているんだ?俺という稼ぎ頭がいるからだろうが。お前みたいな中高年の女が、社会に出て何ができる?せいぜいスーパーの品出しくらいが関の山だ。俺がいなければ、お前は路頭に迷うだけの無能なんだよ。」
健一の言葉は、鋭いナイフのように私に突き刺さる。かつては、この言葉に傷つき、涙を流し、彼に許しを乞うていただろう。自分が至らないから彼を怒らせてしまったのだと、自分を責めて。しかし、今の私は違った。彼の暴言は、もはや私の心に届くことはない。ただの不快な音として、右の耳から左の耳へと通り抜けていく。
「刺身は冷蔵庫に入ってます。」
私は感情を一切込めない、機械的な声で答えた。
「なんだ、その態度は?少しは申し訳なさそうな顔をしたらどうだ?俺は外で神経をすり減らして働いているんだぞ。若い女と遊ぶくらい、当然の権利だ。彼女はな、お前と違って俺を立ててくれるし、いつも綺麗にしている。お前みたいに生活感の漂う、色気も何もない女とは大違いだ。」
健一はわざとらしくため息をついた。
「18年?18年も一緒にいてやったんだ。感謝して欲しいくらいだな。お前のような平凡で取り柄もない女を、今日まで養ってやったんだから。お前はただの付属品なんだよ。俺という立派な本体があって初めて、価値が出る。自分に価値があるなんて勘違いするなよ。」
彼はキッチンへ向かい、自分でビールを取り出した。プシュッという小さな音が、静まり返ったリビングに響く。
「そう、私は付属品、あなたは本体。」
私はその言葉を反芻するように呟いた。健一はビールを一口飲むと、満足そうに頷いた。
「そうだ。分かればいいんだ。これからも俺を不快にさせないように、完璧に家事をこなせ。それがお前の唯一の存在理由だ。ああ、それから七海に変な口聞かせるなよ。あいつは俺の金で大学に行っているんだ。俺に逆らえばどうなるか、よく言い聞かせておけ。」
健一はソファに深く腰かけ、テレビのリモコンを操作し始めた。彼は完全に勝利したつもりでいるのだ。私が彼の言いなりになり、これまで通りの物分りの良い妻に戻ったと。しかし、私は彼の背中を見つめながら、心の中で静かに笑っていた。
健一は気づいていない。私が彼のために用意した刺身がスーパーの半額品であることも、そして彼が飲んでいるビールが、賞味期限がわずかに切れた、私がわざと隠し持っていた古い在庫であることも。これは、ほんの序の口に過ぎない。
私は黙ってキッチンに入り、夕飯の片付けを始めた。ガチャン、ガチャンと皿を洗う音が規則正しく響く。
「おい、里。うるさいぞ。テレビの音が聞こえないだろうが。もっと静かにやれ。」
健一の罵声が飛んでくる。私はそれにも答えず、手を動かし続けた。沈黙。それは私が手に入れた最強の武器だった。言葉で反論すれば、彼はさらに言葉を重ねてくる。しかし、私が何も言わず、ただ彼に従うふりをしながら、感情を一切見せなくなれば、彼は次第に苛立ち、そして不安になるはずだ。
「おい、無視するなと言っただろうが。」
健一が立ち上がり、キッチンまでやってきた。彼は私の肩を乱暴に掴み、自分の方へ向かせた。
「何だ、その目は?何か言いたいことがあるなら、言ってみろよ。どうせ、惨めな泣き言しか出てこないんだろうが。」
私は至近距離で夫の顔を見つめた。酒の匂いと、かすかに香る安っぽい香水の匂い。かつて愛した人の顔が、今はただの醜い肉の塊にしか見えなかった。
「健一さん、あなたは本当に素晴らしい方ですね。」
「あ?」
予想外の言葉に、健一の動きが止まった。
「仕事もできて、お金も稼いで、若い愛人もいて。あなたは全てを手に入れている。私のような無能な女があなたの隣にいるなんて、本当に罰が当たりそうです。」
私はうっすらと微笑んで見せた。その微笑みは、自嘲に満ちたものではなく、むしろ死人を悼むような、冷たく虚無的なものだった。
「ふん。ようやく自覚したか。なら、明日からもっと努めろ。」
健一は毒気を抜かれたのか、私の肩から手を離しながらリビングに戻っていった。彼の背中には、かすかな戸惑いが見え隠れしていた。自分の支配下に置いているはずの獲物が、突然理解不能な反応を示したことへの、本能的な恐怖。
その時、私のスマホがバイブレーションした。画面を見ると、登録のない番号からの着信だった。私は健一に気づかれないよう、静かに洗面所へ移動し、電話に出た。
「はい、里です。」
「お忙しいところ失礼いたします。佐藤里さんのお電話でよろしいでしょうか?私、商事の監査役を務めております、山崎と申します。」
山崎。その名を聞いた瞬間、私の全身に緊張が走った。商事。それは健一が務めている会社だ。そして監査役といえば、会社の不正を暴く、最も恐れられている存在。
「はい。どのようなご要件でしょうか?」
「奥様に、是非お話ししたいことがございます。ご主人には決して知られないように。例の、裏帳簿の件についてです。」
心臓が早鐘を打つように激しく鼓動し始めた。私が隠し持っていたあのデータ。まだ誰にも見せていないはずの、健一の不正の証拠。なぜ会社側がそれを知っているのか。なぜ、私に?
「奥様もご存知のはずです。ご主人のやっていることは、単なる背信行為では済まされない。私たちは、内側から確実に彼を排除するための協力者を探しているのです。奥様、あなたも、彼に地獄を見せたいと考えてはいませんか?」
電話越しの声は冷徹で、それでいて抗いがたい誘惑を帯びていた。私は洗面所の鏡に映る自分の顔を見た。そこには、18年間の我慢を捨て、復讐に燃えた一人の女が立っていた。
「わかりました。お会いしましょう。」
電話を切ると、私は深く息を吐いた。意外な人物からの接触。それは私の復讐劇を、より完璧なものにするための最後のピースかもしれない。リビングからは、健一の呑気な笑い声が聞こえてくる。彼はまだ知らない。自分の務める会社そのものが、自分を破滅させようとしていることを。そして、その片棒を担ぐのが、らくだと思っていた妻であるということを。
「18年間の拒絶は、まだ始まったばかりよ、健一さん。」
鏡の中の私は、自分でも見たことがないような残酷な笑みを浮かべていた。
そして翌日、私は指定された場所でその意外な人物と対面することになる。そこで語られた真実は、健一の不倫や横領をはるかに上回る、我が家の残酷な真実だった。私は震える足で待ち合わせ場所のカフェへと向かった。そこに座っていたのは、私と同年代くらいの、上品なスーツを着こなした女性だった。
「初めまして、里子さん。お待ちしておりました。」
彼女が口を開いた瞬間、私は自分の運命が、今日この日から完全に塗り替えられることを確信した。
「あなたが山崎さん。」
「ええ。そして、あなたに一番最初にお伝えしなければならないことがあります。実は、あなたの夫である健一さんが不倫している相手、リナという女性ですが…」
彼女が語り始めた言葉に、私は息を飲んだ。それは、私の想像を絶する裏切りの連鎖だった。カフェの喧騒が、遠くの方で鳴っているノイズのように感じられた。目の前に座る山崎と名乗った女性は、冷めた紅茶のカップを見つめたまま、淡々と、しかし残酷な事実を口にした。
「里子さん、驚かないで聞いてください。ご主人の不倫相手であるリナという女性。彼女はただの愛人ではありません。彼女は我が社の代表取締役、つまり社長の隠し子なのです。」
その瞬間、私の思考は真っ白になった。社長の隠し子を、健一が?付き合っている相手が?
「ご主人はそれを知った上で、彼女に近づきました。会社の乗っ取りとまでは言いませんが、リナさんを利用して社長に取り入り、役員の椅子を確実に手に入れようとしているのです。裏帳簿を作成し、会社の金を横領しているのも、全てはリナさんとの豪華な生活を維持し、彼女の関心を買うための資金。彼はあなたという妻を切り捨て、社長の娘として新しい人生を歩もうと画策しています。」
山崎さんの言葉一つ一つが、私の胸に鋭い楔となって打ち込まれる。18年間、私が信じ、支え続けてきた男は、不倫という裏切りだけでなく、私の存在そのものを消し去り、別の権力構造の中に自分を組み込もうとしていたのだ。
「そんな。じゃあ、私がどれだけ尽くしても、最初から…」
「ええ。彼は最初から、あなたを捨て駒としか思っていなかったのでしょう。里子さん、彼は今、非常に焦っています。監査が入り始めていることを察知している。だからこそ、早急にあなたとの関係を清算し、全ての罪を、場合によってはあなたに着せつけようとする可能性すらあります。」
背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走った。私が彼の横領の片棒を担がされる?何も知らない専業主婦で、何も知らないことを逆手に取られて?
「彼を追い詰めるための証拠は、まだ足りません。里子さん、あなたにしかできないことがあります。彼が自宅に隠しているはずの、さらに詳細な裏の記録。それを見つけ出していただきたいのです。ですが、気をつけて。今の彼は、追い詰められた獣と同じです。」
山崎さんと別れ、私はフラフラとした足取りで家路についた。夕暮れの街並みが、まるで歪んだ鏡の中の世界のように見える。家に着くと、そこにはすでに健一の車が止まっていた。いつもより早い帰宅。嫌な予感が心臓を強く締めつける。
玄関を開けると、そこに靴が散乱し、リビングからは怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい、里!どこに行っていたんだ?」
リビングに足を踏み入れた瞬間、健一がものすごい勢いで詰め寄ってきた。その顔は怒りで赤黒く充血し、目は見開かれている。
「買い物よ。それが、どうかしたの?」
私は必死で声を震わせないように答えた。しかし、健一は私の手首を乱暴に掴み、壁際に押し付けた。
「嘘をつけ。お前、今日、変な女と会っていただろう。報告が入っているんだよ。会社の人間か?それとも探偵か?白状しろ。」
健一の腕力に、骨が軋むような痛みを感じる。彼は会社での立場が危なくなっていることを察し、極度の被害妄想に陥っているようだった。
「離して、痛いわ、健一さん。」
「痛いのは俺の方だ。お前みたいな無能な女を養ってやって、挙句の果てに後ろから刺そうとするなんて。恩知らずにも程がある。いいか、里。お前が余計なことをすればするほど、七海の人生もめちゃくちゃになるんだぞ。俺が会社を追われれば、学費どころか、この家も明日にはなくなるんだ。」
健一は私の顔のすぐそばまで顔を寄せ、唾を飛ばしながら罵倒を続けた。
「お前は黙って、俺の言うことだけを聞いていればいいんだ。最近妙に静かだと思っていたが、裏でこそこそ動いていたとはな。お前のような価値のない女に、何ができると思っているんだ。社会の仕組みも知らない。ただ飯を食うだけの寄生虫のくせに。」
彼は私を突き離すと、ダイニングテーブルの上にあった一通の書類を叩きつけた。
「これにサインしろ。今すぐだ。」
それは離婚届だった。しかし、ただの離婚届ではない。表面にはびっしりと細かい文字で条件が書き込まれていた。財産分与は一切なし。慰謝料の請求権を放棄する。今後一切、夫の氏名及び仕事について公言しない。それは私を無一文で放り出し、同時に彼の罪を隠蔽するための、奴隷契約のような内容だった。
「こんなの、書けるわけがないわ。」
私は絞り出すような声で言った。健一は嘲笑を浮かべて私を見下ろした。
「書かないなら、力づくでも書かせてやる。それとも何か?七海が明日から大学に行けなくなっても、いいのか?お前の実家の両親にも、お前が浮気をして家を出ていったと吹き込んでやる。お前に味方する人間なんて、この世に一人もいなくなるんだよ。」
健一の言葉は、逃げ場のない檻のように私を囲い込んでいく。山崎さんの言った通りだ。彼は私を、自分の罪を被せるためのスケープゴートにしようとしている。
「どうした?言葉に詰まって、やっぱり何も言い返せないんだろう。お前はそうやって一生、俺の影で怯えて暮らすのがお似合いなんだよ。さあ、ペンを持て。さっさとかけ。」
健一が私の髪を掴もうと手を伸ばした、その時だった。
「お父さん、やめて!」
二階から駆け降りてきたのは、七海だった。彼女は私の前に立ち塞がり、鋭い目で父親を睨みつけた。
「二階にいたの。お父さん、今の言葉、全部録音したから。お母さんを脅して無理やり離婚させようとしたこと。全部、証拠に残したよ。」
七海の手には、スマートフォンの録音画面が光っていた。健一の顔が一瞬で青ざめた。しかし、彼はすぐに鼻で笑った。
「録音?そんなものが何の役に立つ?ガキの遊びに付き合っている暇はないんだ。里、お前が七海をけしかけたな。どこまで腐った女なんだ。」
健一は七海の手からスマホを奪い取ろうと、腕を振り上げた。私は無意識に七海を庇い、健一の前に立ち塞がった。
「私をこれ以上侮辱するのは好きにしろ。でも、娘にだけは指一本触れさせない。」
私の声は低く、血が滴るような冷たさを帯びていた。健一は私の目を見て、一瞬怯んだ。これまでの従順な妻とは、明らかに違う何かが滲み出た人間の目。
「な、なんだ、その目は。俺に逆らうつもりか?」
「逆らう?いいえ、健一さん。私はただ、あなたが望んだ通りに、あなたへの一切の情を断ち切っただけよ。今日から、私はあなたの妻であることを完全にやめるわ。」
「はっ、笑わせるな。お前に何ができる?金も、仕事も、頼れる人間もいないくせに。」
健一は怒鳴り散らしながら、リビングの棚を蹴り上げた。ガシャンと、大切にしていた飾り皿が床に落ちて粉々に砕け散る。それは、私たちの18年間の思い出が崩れ去った音のようだった。
「いいだろう。そこまで言うなら、勝手にしろ。ただし、今日からこの家での食事も、洗濯も、一切俺は関知しない。お前ら二人で衒えがいい。俺はリナのところへ行く。彼女は俺を理解してくれるし、お前たちとは住む世界が違うんだ。」
健一は乱暴に上着を掴むと、玄関へと向かった。ドアを閉める直前、彼は振り返り、吐き捨てるように言った。
「一週間だ。一週間以内にその書類にサインして、ここから出ていけ。従わなければ、俺にも考えがあるからな。」
大きな音を立ててドアが閉まり、家の中に重苦しい静寂が戻った。私はその場に膝から崩れ落ちた。全身の震えが止まらない。恐怖、怒り、そして絶望。
「お母さん、大丈夫?」
七海が私を抱きしめてくれる。その温かさに、ようやく涙が溢れ出した。
「ごめんね、七海。お母さんのせいで、あなたまで巻き込んで。」
「お母さん。悪いのは全部、お父さんだ。私、絶対に許さない。お父さんが隠してること、私も一緒に探すから。」
七海の力強い言葉に、私は少しだけ顔を上げた。そうだ。負けてはいられない。健一は私を無力だと思い込んでいる。しかし、彼は決定的なミスを犯している。健一は、私があの手帳の中身をすでに全て解読していることを知らないのだ。そして、彼がリナという女性に抱いている幻想が、いかに脆く、残酷な罠であるかということにも。
「七海、ありがとう。でも、大丈夫よ。お母さんには、まだ切り札がある。」
私は涙を拭い、壊れた皿の破片を見つめた。健一が去った一週間。それが、私の復讐を完成させるための、最後の執行猶予。
翌朝、私は健一が出勤した後、ある場所へと向かった。ここは健一が決して近づかない、私の実家の古い蔵。そこには、健一が不倫相手のリナにさえ教えていない、彼の出生の秘密と、この家に隠された残酷な真実を告げる一通の古い手紙が眠っていた。その手紙を開いた時、私はこの復讐劇の本当の意味を知ることになる。そして、健一の背後に潜む、さらなる真実の正体が明らかになろうとしていた。物語は、誰にも予測できない衝撃の展開へと、一気に加速していく。
実家の裏手にある古い土蔵。湿った土の匂いと、長い年月が作り出した静寂が私を包み込む。かつて父が大切にしていたこの場所には、我が家の歴史が眠っている。私は懐中電灯を手に、奥の棚に置かれた箱を取り出した。父が亡くなる間際、「もしどうしても困ったことが起きたら、これを開けなさい」と言い残したものだ。
箱を開けると、中には数枚の古い書類と一通の手紙、そして一冊の重厚な手帳が入っていた。
「お父さん、今、その時が来てしまったみたいよ。」
私は手帳をめくった。ここには、健一が一度も目にしたことのない、私の別の顔が記録されている。健一は私を、スキルも能力もない、中卒並の知能しか持たない専業主婦だと蔑んだ。しかし、事実はその真逆だ。私は結婚前、国内最大手の監査法人で、企業の不正を暴くプロの公認会計士として働いていた。当時、業界では「沈黙のハンター」と呼ばれ、数々の大型粉飾決算を暴き出してきた。
健一と出会ったのも、彼の務めるメーカーの外部監査を担当したことがきっかけだった。当時、健一はまだ平社員で、仕事に悩み、空回りしていた。私は彼の不器用な情熱に惹かれ、彼を支えたいという一心で、キャリアを捨てる決意をした。私の実家が資産家であることを知れば、彼のプライドを傷つけると思い、身分を隠して平凡な主婦として振る舞うことを選んだのだ。
健一は、私が実家の遺産を相続していることも、私がかつて企業の運命を左右するほどの力を持っていたことも、何ひとつ知らない。私が無知な主婦のふりをしていたのは、偏に彼のプライドを守り、彼を一家の大黒柱として輝かせるための、私なりの愛情だった。
だが、箱の中に入っていた手紙の内容は、私のそんな献身さえも踏みにじるものだった。私は震える手で、父が残した手紙を読み進めた。
「里子へ。お前がこの手紙を読んでいるということは、健一君との間に、取り返しのつかない何かが起きたのだろう。すまない。お前には隠していたが、健一君の父親、つまりあなたの義父は、かつて私の会社で巨額の横領事件を起こした人物なのだ。」
衝撃で、手紙を持つ手が激しく震えた。健一の父が、私の父の会社で横領を。私は彼を警察に突き出すこともできた。だが、当時まだ学生だった健一君の将来を思い、私は事件を闇に葬った。そして、健一君が現在のメーカーに入社できたのも、実は私が密かに役員に手を回したからなのだ。健一君本人は、自分の実力で内定を勝ち取ったと思い込んでいるだろうが。
涙が手紙の上にポタリと落ちた。健一が「俺の実力だ。俺のおかげで生活できているんだ」と誇示していた。今の地位も名誉も、全ては私の父が、彼の父親の罪を隠し、裏から手を引いて与えたものだった。
さらに、手紙には驚愕の事実が記されていた。
「今お前たちが住んでいるあの家と土地。あれは健一君がローンを組んで買ったものではない。私が生前、お前の将来のために買い取り、信託銀行を通じて、健一君が返済しているという形を取らせていただけなのだ。実際には、彼が支払っているつもりのローン代金は、全てお前の個人口座に積み立てられている。」
そんな。じゃあ、あの家は最初から。健一が「俺の家だ。嫌なら出ていけ」と私を脅していた、あの場所は、法的にも実質的にも、最初から私の所有物だったのだ。健一は、自分が奪われる側だとは露ほども思っていない。彼は不倫相手のリナと一緒に、私の父が用意した土地の上で、私の父が与えた地位を享受し、私の父が買い与えた家で、私を侮辱し続けていたのだ。
私は手帳を強く握りしめた。私の中の「沈黙のハンター」が、18年の眠りから完全に目覚めたのを感じた。
「健一さん。あなたは言ったわね。私を付属品だって。でも、本当の付属品は、あなたの方だったのよ。」
私は土蔵を出て、青白い月光の下に立った。冷たい夜風が私の頬を叩く。もはや迷いはなかった。健一が会社で進めている裏帳簿の作成。山崎さんが言っていた、社長の隠し子であるリナとの不適切な関係。それら全てを、プロの会計士としての私の知見と、父が残してくれたこの証拠を組み合わせれば、彼を社会的に抹殺することなど造作もないことだ。
だが、一気に破滅させるだけでは足りない。彼が私に敷いた18年間の支配。それを、最も残酷な形で自覚させる必要がある。私はスマホを取り出し、弁護士の友人にメッセージを送った。
「準備が整ったわ。まずは、あの家から始めましょう。」
翌朝、私は何事もなかったかのように朝食を作った。起きてきた健一は、昨夜の非道が嘘のように、不気味なほど落ち着いていた。
「おい、離婚届の件、考えたか?潔くサインすれば、七海の学費だけは出してやってもいいぞ。」
健一は私の所有物である椅子にふんぞり返り、私が父の金で用意したコーヒーを啜りながら言った。私は彼の顔をじっと見つめた。そのあまりの滑稽さに、思わず笑い出しそうになるのを必死で堪える。
「ええ、健一さん。あなたのおっしゃる通り、全てを清算しましょう。ただ、その前に、今日はお客様がいらっしゃるの。」
「客?誰だ?朝っぱらから。」
その時、玄関のチャイムが鳴った。健一が不機嫌そうにドアを開けると、そこには数人のスーツ姿の男女と、警察官の姿があった。
「商事の佐藤健一さんですね。私たちは、あなたが管理していた特別口座の件で伺いました。」
健一の顔から、一気に血の気が引いていく。しかし、本当の絶望は、彼らの後ろから現れた意外な人物の言葉によって完成することになる。
「健一さん、残念だわ。あなた、私を騙していたのね。」
そこに立っていたのは、不倫相手のリナだった。だが、彼女の隣には、健一が最も恐れているあの人物が寄り添っていた。
朝の住宅街の空気が一転し、我が家の玄関先は騒乱の渦に飲み込まれた。健一の背後で、私は一歩も動かずにその光景を見つめていた。
「な、なんだ、これは?鬼塚社長。それに、なんで、どうしてあなたがここに?」
健一の声は裏返り、膝が目に見えて震えている。ドアの前に立っていたのは、商事の絶対的権力者、鬼塚社長だった。そして、その隣には、昨日まで健一と睦まじく腕を組んでいたはずのリナが、冷徹な仮面を被って立っている。
「佐藤君が私の娘と不適切な関係を持とうとしていたことは、すでに把握している。だが、問題はそこではない。」
鬼塚社長の声は重く、低く響いた。彼は健一の顔を見るのも汚らわしいといった様子で、傍らに立つ山崎監査役に目配せをした。
「佐藤健一さん。あなたが過去3年に渡り、架空の取引先を利用して、計2億円以上の資金を横領していた疑いが強まりました。本日、私たちは会社としての正式な調査及び、警察への告発を前提とした証拠保全に伺いました。」
「2億?何を言っているんですか?そんなの、何かの間違いだ。私は会社のために粉骨砕身、働いてきた。これは、誰かの陰謀だ。」
健一は必死に叫び、助けを求めるようにリナを見た。
「リナ、リナ、何か言ってくれ。俺たち、結婚する約束だっただろう。君のお父さんに説明してくれよ。俺がそんなことするはずがないって。」
しかし、リナの反応は健一の期待を無惨に打ち砕くものだった。彼女は唇の端を持ち上げ、嘲笑うような笑みを浮かべた。
「結婚?冗談はやめて。あなたみたいな勘違いの中年の横領犯と、誰が本気で結婚なんてするわけ?私はお父様に頼まれて、あなたの尻尾を掴むために近づいただけよ。あなたが自分を特別な存在だと勘違いして、自慢げに裏帳簿の隠し場所を漏らした時は、笑いを堪えるのが大変だったわ。」
「な、なんだって?」
健一の顔が、血色を通り越して真っ白になる。
「佐藤君。リナが私の隠し子だという噂を信じて、彼女を利用しようとしたようだが、それは大きな間違いだ。リナは私の実の娘であり、我が社のコンプライアンス部門の精鋭だ。君のような小物の器を見極めるためのテストだったんだよ。そして君は、見事に欲望に負けて、自滅した。」
鬼塚社長の言葉は、健一のプライドを粉々に粉砕した。健一は絶望の淵に立たされながらも、なおも悪あがきを続けた。彼は突然、背後にいる私を指さした。
「里だ!里がやったんだ!この女が、俺が稼いできた金を使い込んでいたんだ!横領なんて、俺は知らない!全部、この無能な専業主婦が勝手にやったことに違いないんだ!こいつは中卒並の知能しかない寄生虫だ!金に目がくらんで、俺の名前を語ったんだ!」
あまりの言い草に、横で聞いていた七海が怒鳴ろうとしたが、私は静かに彼女の腕を制した。私は一歩前へ出た。健一は私を盾にしようと、私の肩を乱暴に掴んだ。
「おい、里!何か、お前がやったと言え!そうすれば、七海の学費だけは、何とかしてやる。俺を助けるのが、妻の役目だろうが!」
私は健一の手を静かに振り払った。そして、初めてその場にいる全員の前で、静かに、しかし明瞭に口を開いた。
「健一さん、見苦しいわよ。あなたが私に隠れて作成していた特別口座の暗証番号。あれ、リナさんの誕生日でも、私の誕生日でもなく、あなたの隠し子である、もう一人の子供の誕生日だったわね。」
健一の動きが止まった。その場にいた鬼塚社長や山崎監査役さえも、驚きに目を見開いた。
「な、何を、何を言っているんだ?」
「リナさん以外にも、あなたには10年以上前から囲っている女性がいる。そして、その間には、現在10歳になる息子さんがいるわ。あなたが横領した金の大半は、その女性の生活費、そして将来のための蓄えとして、別口座に流されていた。違いますか?」
私は懐から、昨日土蔵で見つけた父の手帳と、独自に調査して集めた証拠のコピーを取り出した。
「あなたは私を無能な主婦と呼んで侮辱し続けたけれど、公認会計士の私から見れば、あなたの資金操作のやり方は、あまりにも稚拙で、素人同然だったわ。あなたが私に隠しているつもりだった、あの手帳の数字。全て、整合性を合わせ直しておいたから、警察の方には、それをお渡しするつもりよ。」
「公認会計士?里、お前、何を言っているんだ?お前は、ただの、ただの…」
健一は理解不能な事態に直面し、頭を抱えてその場に座り込んだ。
「私はあなたのために、キャリアを捨てたのよ。あなたが自信を持って働けるように、わざと無知なふりをしていた。でも、あなたは私のその思いを踏みにじり、侮辱し、あろうことか、別の家庭まで作っていた。18年。私があなたに捧げた時間は、全て、嘘だったのね。」
私の目から、一筋の涙がこぼれた。それは彼への未練ではなく、自分自身の過去への決別と、後悔の涙だった。
「お父さん、最低。本当の寄生虫は、お父さんの方だったんだね。」
七海の静かな言葉が、健一の心に最後の一撃を加えた。
「佐藤健一さん。これ以上の言い逃れは無用のようです。ご同行願います。」
警察官が健一の両脇を固めた。健一は狂ったように叫び始めた。
「離せ!離せよ!ここは俺の家だ!誰の許可を得て入ってきているんだ!里、お前、この家から叩き出してやる!今すぐ出ていけ!ホームレスにでもなって衒え!」
警察官に引きずられながらも、健一は私への罵倒を止めなかった。彼は、この家という最後の砦が、まだ自分のものであると信じきっていた。しかし、その時、鬼塚社長が哀れみの混じった目で健一を見つめ、口を開いた。
「佐藤君。まだ気づいていないのか?この家も、この土地も。そして、君の銀行口座の残高さえも、最初から君のものではなかった、ということに。」
「は?」
健一の動きが止まる。
「君の義父、里子さんの父親は、君の父親の罪を償うために、全てを里子さんの名義で完備していたんだ。君が毎月支払っていたローン代金。あれはローンではなく、里子さんへの返済金として、彼女の個人口座に積み立てられていたんだよ。」
健一の顔から、全ての表情が消えた。彼は自分が18年間積み上げてきたものが、砂の城であり、最初から自分の手の中には一片のかけらも存在しなかったことを、ついに突きつけられたのだ。
「そ、そんな。じゃあ、俺は、俺は何のために…」
「あなたはただ、私の家で、私の父の庇護の下に生かされていた、居候に過ぎなかったのよ、健一さん。」
私は最後に、そう言い放った。健一は警察車両に押し込まれ、遠ざかっていく。サイレンの音が朝の静寂を切り裂き、近所の人々が何事かと窓から顔を出している。
だが、物語はこれで終わりではなかった。健一が連行された直後、山崎監査役が私に、さらに一枚の古い写真を見せてきた。
「里子さん。実は、今回の横領事件を調べている過程で、もう一つ信じがたい事実が判明しました。これを見ていただけますか?」
その写真に映っていたのは、20年前の私の父と、若き日の健一。そして、その二人の間に立つ、一人の女性の姿。お母さん。写真に映っていたのは、私が幼い頃に病死したと聞かされていた、私の実の母親だった。なぜ彼女が健一と一緒に写っているのか。そして、山崎さんが口にした次の言葉が、私のこれまでの人生の全てを、根底から覆すことになる。
「あなたの本当の敵は、夫だけではなかったのかもしれません。」
それは、健一の破滅という結末を超え、我が家の血塗られた歴史へと踏み込んでいく、始まりだった。
パトカーのサイレンが遠ざかり、静まり返ったリビングに、山崎監査役が差し出した一枚の古い写真が、重く横たわっている。20年前の色褪せたスナップ写真。ここには、私の父と、まだ若く野望に満ちた表情の健一。そして、私が幼い頃に病死したと聞かされていた母、よしえが映っていた。
私の指先は、写真の縁をなぞるだけで激しく震えた。母の穏やかな微笑みが、今の惨状を予見していたかのように、悲しげに見える。
「山崎さん。これは、どういうことですか?なぜ母が、健一さんと一緒に?」
健一さんは20年前は、まだ学生だったはずよ。私は震える声で問いかけた。山崎さんは深くため息をつき、静かに口を開いた。
「里子さん。あなたが知らされていた母の死は、作られた物語でした。よしえさんは病気で亡くなったのではありません。彼女は、当時この会社で起きていた大規模な粉飾決算と、それを主導していた人物、つまり健一さんの父親を告発しようとして、命を落としたのです。」
心臓の鼓動が、耳元でうるさいほどに鳴り響いた。視界が歪み、足元のフローリングが揺れているような錯覚に陥る。
「告発?母が、あの人の父親を?」
「よしえさんは、当時、お父様の会社の経理部長を務めていました。彼女は正義感の強い女性だった。健一さんの父親が会社の金を私物化し、それを隠蔽するために、組織的な改ざんを行っていることを突き止めたのです。しかし、告発の直前、彼女は不審な交通事故で、帰らぬ人となった。警察は事故として処理しましたが、お父様はずっと疑っておられたのです。あの日、よしえさんが持っていたはずの決定的な証拠データが、現場から消えていたことを。」
山崎さんの言葉の一つ一つが、私の脳内で爆発するように響く。私は写真の裏面を確認するようにひっくり返した。そこには、父の震える筆跡で、短い言葉が記されていた。
「この秘密だけは、墓場まで持っていくつもりだった。里の母親を死に追いやったのは、健一の父、肖三だ。そして、その証拠を握り潰したのは、当時の警察官と通じていた商事の重役。私は里子の安全を守るために、沈黙を選んだ。だが、肖三の息子である健一が里子に近づいた時、私は運命の残酷さに打ちひしがれた。」
私はその場に、力なく崩れ落ちた。18年間。私は、自分の母を非道に死に追いやった男の息子を、愛し、支え続けてきたのか。健一が私に近づいたのは、純粋な愛からではなかったのかもしれない。私の父が持つ資産や、過去の罪の隠蔽。あるいは、復讐を恐れた肖三が、息子を送り込んだのではないか。
「じゃあ、私の結婚生活そのものが、仕組まれたものだったというの?」
「お父様は、健一さんが何も知らないことを信じたかったのでしょう。だからこそ、あえて彼を近くに置き、里子さんのそばで監視しようとした。健一さんの父親に対する温情ではなく、彼自身を人質として手元に置いていたのです。ですが、皮肉なことに、健一さんは父親と同じ道を歩んでしまった。横領、不倫、そして妻への侮辱。彼は、血の呪縛から逃れられなかったのです。」
七海が私の肩を強く抱きしめてくれた。彼女のぬくもりだけが、今この瞬間、私が正気でいられる唯一の支えだった。
「お母さん、ひどすぎるよ。おじいちゃんも、お母さんも、ずっとそんな重いものを背負って、あの人に尽くしてきたなんて。」
七海の涙が、私のブラウスに染みていく。その冷たさが、私の中で凍りついていた怒りを、一気に燃え上がらせた。これまでは、単なる不倫の復讐だった。彼を家から追い出し、社会的な地位を奪い、18年間の無視という罰を与える。それで十分だと思っていた。
しかし、事実は、そんな生易しいものではなかった。健一の一族は、私の家族を壊し、母を奪い、さらには私という女の人生を、18年もの間、虚偽の中に閉じ込めていたのだ。
「許さない。」
私の口から漏れたのは、自分でも驚くほど低く、地獄の底から響くような声だった。
「山崎さん。健一さんは、今、警察に連れて行かれましたね。でも、それだけじゃ足りない。彼が隠している、10歳の息子と、その母親。彼らは今、どこにいますか?」
山崎さんは、少し驚いた表情を見せたが、すぐに手元のタブレットを操作し始めた。
「東京都内の高級マンションに住んでいます。生活費の出所は、全て健一さんが横領した金です。そして、その女性の名は…。驚かないでください。健一さんが不倫していた、リナさんの母親。つまり、鬼塚社長の愛人だった女性です。」
私は思わず、乾いた笑い声をあげた。なんという皮肉。なんという、因果な連鎖だろう。健一は社長の娘であるリナに近づきながら、その一方で、社長の愛人と関係を持ち、子供まで作っていた。彼は自分の欲望を満たすために関わる全ての人間を裏切り、食い物にしていたのだ。
「彼は、自分が一番賢いと思っていたのね。誰もが、自分の手のひらの上で踊っていると。でも、踊らされていたのは、彼の方よ。」
私は立ち上がり、乱れた髪を整えた。目に宿っていた悲しみの色は消え、代わりに冷徹な光が宿っていた。
「山崎さん、鬼塚社長に伝えてください。今回の横領事件、そして20年前の真相、全てを白日のもとにさらす準備があると。ただし、条件があります。」
「条件、ですか?」
「ええ。健一さんには、単なる刑務所暮らし以上の地獄を味わってもらいます。彼が最も恐れ、最も執着しているものを、全て目の前で、粉々に壊してあげるわ。」
私はキッチンへ向かい、健一がいつも使っていた高価なワイングラスを手に取った。それは、彼が横領した金で、自分の出世祝いに買ったものだ。私はそのグラスを床に向かって、力いっぱい叩きつけた。パリンッと鋭い音が響き、破片が飛び散る。
「何を…?」
「18年よ、山崎さん。私は18年間、彼の言葉一つ一つに傷つき、自分を殺して生きてきた。寄生虫だ、価値がないだと罵られながら、それでも家族のためにと耐えてきた。その対価を、今から一円残らず、血の一滴まで回収するわ。」
私の復讐は、ここから第二段階へと移行する。これまでは、静かな拒絶だった。しかし、これからは、容赦のない剥奪。彼が愛人と過ごした時間、息子に注いだ愛情、会社で築いた地位、そして彼自身のアイデンティティ。それら全てを、私がこの手で、徹底的にはぎ取っていく。
「七海、明日から少し忙しくなるわよ。あなたには、お母さんの手伝いをしてもらいたいことがあるの。」
「お母さん、今の顔、すごくかっこいい。私、どこまでもついていくよ。」
娘の力強い言葉に、私は深く頷いた。健一は今頃、取り調べで、自分がいかに不運かを訴えているだろう。だが、彼はまだ知らない。警察の取り調べなど、これから私が彼に仕掛ける罠に比べれば、天国のようなものだということを。
「まずは、あのマンションから始めましょう。彼の大切な『もう一つの家族』に、本当の主人が誰か、教えてあげなきゃいけないものね。」
私は、母の写真にそっと触れた。
「お母さん、見ていて。あなたの無念、私が必ず晴らして見せるから。」
窓の外では、いつの間にか雨が上がり、不気味なほどに赤い夕焼けが町を染めていた。それは、これから始まる壮絶な復讐劇の幕開けを告げる色のようだった。
翌日、私は健一の愛人たちが住むマンションを訪れた。そこで私を待っていたのは、さらなる敵の焦りと、醜い本性の露呈だった。都内の一等地に立つ白亜の高級マンション。エントランスには重厚な大理石が敷き詰められ、そこに立つだけで自分の生活レベルの差を突きつけられるような、威圧感のある建物だ。
私は娘の七海と山崎監査役を伴い、一室の前に立っていた。健一が横領した金で買い与え、私の母を死に追いやった男の血縁者たちが、ぬくぬくと贅沢に浸っている場所。インターホンを押すと、数秒の静寂の後、画面に一人の女性が映し出された。
「どなた?健一さんは、今手が離せないの。用があるなら、後にして。」
その声には、部外者を寄せつけない高慢さと、隠しきれない苛立ちが混じっていた。彼女は、健一の不倫相手であるリナの母親、京子。そして、かつて私の父が経営していた会社で、母を追い詰めた組織の一端を担っていた女だ。
「佐藤健一の妻です。お話ししたいことがあって、伺いました。」
私の言葉に、画面越しの京子が目に見えて動揺した。
「妻?違うわ!あいつは、もうすぐ離婚するって言ってたわよ!帰ってちょうだい!警備員を呼ぶわよ!」
「呼んでいただいて構いません。ただ、その前に、これを見ていただけますか?」
私は、このマンションの所有権移転登記の写しをカメラにかざした。
「この部屋の所有者は、本日付けで、私、佐藤里子に変更されました。不法占拠で訴えられたくなければ、今すぐドアを開けなさい。」
沈黙が流れた。やがて、カチリという電子音が響き、重厚なドアがゆっくりと開いた。中から現れた京子は、シルクのガウンを羽織り、派手なメイクを崩したままの姿だった。
「何の真似よ。健一さんはどこ?朝から連絡がつかないのよ。」
「彼は今、警察にいます。横領と背信。それに、過去の事件に関する重要参考人としてね。もう二度と、ここには戻ってきません。」
私の言葉に、京子の顔から血の気が引いていく。
「嘘よ!あんなに良い夫で、会社でも信頼されている人が、捕まるはずがない!リナは?どうしたの?鬼塚社長は?」
「鬼塚社長も、そしてリナさんも、全てを知った上で、彼を切り捨てました。あなたは、もう、誰にも守られていないのよ。」
私が一歩中へ踏み込むと、リビングの奥から、一人の男性がふらりと姿を現した。昨日、警察に連行されたはずの健一ではない。その男は、健一をさらに老けさせ、邪悪な欲望を煮詰めたような顔をしていた。
「お前が、あの里子か。」
その男の声を聞いた瞬間、私の背筋に震えが走った。健一の父親、肖三。20年前、私の母を嵌め、命を奪った張本人だ。
「警察に捕まったのは、息子の健一だけだ。あいつは、爪が甘かった。だが、私まで引きずり込めるとは思うなよ。」
肖三はソファに深く腰掛け、不敵な笑みを浮かべた。
「里子よ。お前が公認会計士だか何だか知らんが、20年前の事件は、すでに時効だ。証拠など、どこにもない。この部屋だって、健一が私に贈与した形になっている。お前が勝手に名義を変えることなど、不可能なはずだ。」
私は肖三の正面に立ち、静かに言い放った。
「ええ、刑事罰については、そうかもしれませんね。でも、民事の賠償責任は別。それに、あなたが保有しているその贈与の書類。それ、健一さんが横領した金であることを知っていて受け取ったのなら、収益等の隠匿罪、つまり、組織的な犯罪収益の収受に当たるわ。」
肖三の眉がピクリと跳ねた。
「黙れ!小娘が、知ったような口を叩くな!お前は18年間、健一の言いなりになって、家畜のように生きてきた無能な女だろうが!今更プロのふりをしたところで、誰が信じるものか!」
肖三の罵倒は、健一のそれと酷似していた。自分より下の人間を見下し、言葉で屈服させることで優越感に浸る。それが、この一族の性なのだ。
「家畜。そうね。あなたは私を、そう見ていたのでしょう。でも、家畜だと思っていた相手が、実は自分たちの首を絞めるための罠を、18年間かけて編み続けていたとしたら、どうかしら?」
私は鞄から、一冊の黒い手帳を取り出した。それは、健一の裏帳簿ではない。私の父が残し、私が18年間書き足し続けた、この一族の全資産と、全負債の記録だ。
「肖三さん。あなたが海外口座に隠している5億円。そして、京子さんがリナさんの名前で所有している3つの不動産。それら全て、出資元を突き止めました。健一さんの横領だけでなく、20年前の粉飾決算で消えた金が、どこをどう流れて、現在のあなたの資産になったか。そのフロー図は、すでに検察と国税局に提出済みです。」
肖三の顔が、瞬時に真っ青に変わった。
「な、なんだと?お前、そんなことをして、自分も無傷でいられると思っているのか?お前の実家の資産だって、調べればボロが出るはずだ!」
「どうぞ、お調べになって。私の父は、あなたたちの罪を償うために、全ての資産を、公益団体への寄付という形で、すでに信託に入れています。私が今持っているのは、自分の力で稼いだ金と、正当な報酬だけよ。」
私は、狂ったようにわめき散らす肖三と、その横で震えながら泣き出した京子を、冷たく見下ろした。敵の焦りは、心地よい音楽のように私の耳に響いた。
「健一さんに伝えておいたわ。18年間の拒絶を、あなたたち一族全員にプレゼントするって。」
「里子さん、お願い。待ってくれ!悪いのは、全部、死んだはずの肖三の台の上の因縁なんだ!私は、何も知らなかった!健一に無理やり手伝わされていただけなのよ!」
京子が、私の足元にすがりついてきた。昨夜までの傲慢な態度は、どこへ行ったのか。彼女のプライドなど、金という盾を失えば、これほどまでにもろく、見すぼらしいものだった。
「何も知らなかった?あなたが、母が死んだあの日、事故現場にいたことも、目撃証言から明らかになっているわよ。証拠がないと思ったら、大間違い。」
私の言葉に、京子の動きが止まった。その目は恐怖で見開かれ、言葉を失っている。
「お母さん、もう行こう。こんな人たちの相手をしてても、時間の無駄だよ。」
七海が、私の手を引いた。娘の清らかな瞳に、この醜い光景を、これ以上見せたくはなかった。
「そうね。肖三さん、京子さん。一時間以内に出ていきなさい。一分でも過ぎたら、強制執行の手続きを開始します。あと、これは忠告よ。あなたたちの銀行口座は、すでに差し押さえの手続きに入っているわ。一円も引き出すことは、できないから。そのつもりで。」
私は振り返ることなく、玄関へと向かった。背後からは、肖三の怒鳴り声と、京子の泣き叫ぶ声、そして、家具を投げ散らかす激しい音が聞こえてきた。
エレベーターに乗り込むと、七海が私の手をギュッと握りしめた。
「お母さん、すごかった。でも、まだ終わりじゃないんでしょう。」
「ええ。健一さんの、最大の秘密がまだ残っているわ。彼が、自分自身さえも気づいていなかった、本当の絶望がね。」
私はスマホの画面を見つめた。そこには、山崎監査役から届いた最新のDNA鑑定の結果が表示されていた。健一さんは、自分の息子だと信じ込んでいたあの子を、何よりも大切にしていたけれど…。私は画面を七海にも見せた。そこには「血縁関係なし」という、無慈悲な文字が並んでいた。
物語は、いよいよ核心へと迫る。健一が守ろうとしていたもの、信じていたもの。その全てが偽物だったことを、彼が知った時、どんな顔をするだろうか。
私は次なる目的地へと、車を走らせた。そこは、健一が拘束されている警察署の面会室。彼に、最後にして最大のとどめを刺すために。
警察署の面会室。アクリル板の向こう側で、夫だった男、健一は憔悴しきって震えていた。かつての傲慢な面影は、どこにもない。高級スーツは皺だらけになり、整えられていた髪は乱れ、目の下には深い隈が刻まれている。
私を見るなり、彼はアクリル板を激しく叩いた。
「里!里じゃないか!遅いぞ!何をやっていたんだ!今すぐ、腕のいい弁護士を呼んでくれ!俺は、嵌められたんだ!あの横領だって、全部、上からの指示で、俺はただ会社のために動いただけなんだよ!お前からも警察に行ってくれ!俺は真面目な社員だったって!」
私はパイプ椅子に静かに腰を下ろし、狂ったように叫ぶ男を、冷ややかな目で見つめた。この男は、まだ自分が置かれている状況を理解していない。自分の言葉が、どれほど空しく響いているかも、分かっていないのだ。
「健一さん。そんなに大声を出すと、喉を痛めますよ。それより、頼まれていた差し入れを持ってきたわ。あなたが何よりも大切にしていた、あの『秘密の答え』よ。」
私は鞄から一通の封筒を取り出し、アクリル板に押し当てた。健一の動きが止まる。彼は吸い寄せられるように、封筒の中身を凝視した。そこには、昨日私が手に入れた、DNA鑑定の結果が記されていた。
「これは、何だ?」
「あなたの愛する息子さんと、あなたの鑑定結果よ。リナさんのお母さん、京子さんは、あなたを騙していたの。あの子は、あなたの子じゃない。鬼塚社長の愛人だった京子さんが、万一の時の保険として、あなたに自分の子だと思い込ませていただけ。あの子の本当の父親は、あなたが最も恐れていた人物。肖三さんよ。」
「あ、何を、何を言っているんだ?肖三は、俺の親父だろう。じゃあ、あの子は、俺の弟だっていうのか?そんな、バカなことが…。」
健一は頭を抱えて絶叫した。自分が人生をかけて、横領という罪を犯してまで守ろうとした息子が、実は自分の父親が不倫相手に産ませた子供だった。つまり、彼は自分の腹違いの弟を、我が子だと信じて養っていたのだ。
「信じたくないわよね。でも、これが真実よ。肖三さんは、最初から知っていたわ。あなたが横領した金が、自分の愛人と子供に流れるように、仕向けていたのよ。あなたは、実の父親だと思っていた男に、18年間、都合のいい金蔓として利用されていただけなの。」
私は言葉のナイフで、健一の心を一突きにした。彼はガタガタと音を立てて震え、口から泡を飛ばしながら呻き始めた。
「嘘だ!親父が、そんなことをするはずがない!俺は、親父の背中を見て育ったんだ!親父を尊敬して、親父の期待に答えたくて、必死に働いて…!」
「尊敬?期待?健一さん、まだ気づかないの?あなたは、一度でも肖三さんに愛された記憶がある?彼は、いつもあなたに冷たかったはずよ。失敗すれば罵倒し、成功しても、当然だという顔をする。なぜなら、彼にとってあなたは、憎い男の息子でしかなかったからよ。」
私はさらに、深い傷を突きつけた。これが、山崎監査役と共に突き止めた、我が家の残酷な真実の核心だった。
「憎い男の息子?」
「ええ。健一さん。あなたの本当の父親は、肖三さんじゃないわ。20年前、私の母と一緒に事故で亡くなった、当時の常務、安藤さんよ。」
健一の顔が、見たこともないほどに歪んだ。
「私の母と、安藤さんは、肖三さんの不正を暴こうとしていた。二人は、同志だったわ。でも、肖三さんはそれを察知し、二人を消した。そして、安藤さんの妻だったあなたの母親を脅し、自分の妻として手元に置いた。あの日、安藤さんの血を引くあなたを、あえて自分の息子として育てたのは、安藤さんに対する最大の復讐のためだったのよ。かつてのライバルの息子を、自分の手で腐らせてみせる。それが、肖三さんの描いた筋書きだったの。」
面会室に、健一の絶叫が響き渡った。自分のアイデンティティが、足元から音を立てて崩れていく。愛していた息子は弟であり、尊敬していた父親は、実の父親を殺した仇だった。そして、無能だと罵っていた妻は、その全てを知った上で、自分を地獄へ突き落とした。
「そ、そんなことが、あっていいのか?じゃあ、俺の18年は?俺が頑張ってきたことは、全部、全部、ゴミだったのか?」
「ええ、ゴミよ。それも、取り返しのつかない、生ゴミだわ。あなたは私を寄生虫と呼んだけれど、本当の寄生虫は、あなただった。私の父の資産に寄生し、肖三さんの復讐計画に寄生し、偽りの家族ごっこに寄生していた。健一さん。あなたの人生には、最初から、自分というものなんて、存在しなかったのよ。」
私は立ち上がり、コートの襟を正した。健一はアクリル板に顔を押し付け、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、私にすがりつこうとした。
「里子、お願いだ!行かないでくれ!俺が悪かった!全部、俺が間違っていたんだ!だから、もう一度だけ、チャンスをくれ!俺たちは、夫婦だろう!18年も一緒にいたじゃないか!」
「夫婦。ああ、そういえば、そうだったわね。でも、残念ながら、その18年も、今この瞬間に終わるわ。ああ、言い忘れていたけれど。あなたの戸籍上の母親、つまり、私の母を死に追いやる手伝いをした女性。彼女も、今、警察に向かっているわ。あなたの、実の母親よ。」
「母さんが?どうして?」
「彼女は、肖三さんの命令で、安藤さんの車に細工をした。自分の夫を殺す手伝いをしたのよ。血は争えないわね。健一さん。あなたの一族は、全員が、裏切りと殺意で繋がっているの。」
私は一歩も振り返らず、面会室のドアへ向かった。背後からは、もはや言葉にならない、獣の咆哮のような絶叫が聞こえてきた。それは、全てを失った男の、魂の断末魔だった。
出ると、夜の空気が冷たく、しかし、驚くほど清々しかった。山崎監査役が、私の隣に立った。
「里子さん。これで、良かったのですか?」
「ええ。彼が自分のルーツを知り、自分が守ろうとしたものが、全て毒であったことを理解した。これ以上の刑罰はないわ。」
「ですが、まだ一つ、解決していないことがあります。肖三が隠している、最後の資産。それが、意外な場所に流れていることが分かりました。」
山崎さんが提示した資料を見て、私は目を見開いた。その送金先は、健一でも、京子でもなかった。それは、私が最も信頼していた、ある人物の名前だった。
「どうして、この人が…。」
私の手は、今日一番の激しさで震えた。逆転の劇は、まだ終わっていなかった。真実の光は、私の背後にいた、守護神の影さえも、暴き出そうとしていた。
夜の静寂に包まれた高級料亭。日本庭園を望む個室で、私は一人の男と対峙していた。松永。父が亡くなってから、我が家の顧問弁護士を務め、私が今回の復讐を決意した際も、一番に相談し、全てを委ねた人物。私にとっては、亡き父の代わりとも言える、最も信頼すべき守護神だったはずの男だ。
しかし、目の前に座る松永は、私が知っている温厚な彼ではなかった。座敷の薄明かりに照らされた彼の顔には、これまで一度も見せたことのない、冷徹で計算高い笑みが浮かんでいる。
「里子君は、賢くなりすぎたね。いや、賢いのは分かっていたが、余計なところまで、目が回りすぎた、と言った方が正しいか。」
松永は、高価な日本酒を猪口に注ぎ、一気に飲み干した。その態度には、長年隠し続けてきた本性が滲み出ている。
「松永さん。どうしてですか?あなたは、父の親友で、私の味方だと信じていた。それなのに、なぜ、肖三さんと繋がっていたんですか?あの隠し資産、5億円もの資金が、あなたの関連会社に流れていた。これは、一体どういう説明をされるつもりですか?」
私は震える声を必死に抑え、テーブルの下で拳を握りしめた。裏切りの連鎖。夫、義父、そして実の母親までもが、血塗られた秘密を抱えていた中で、唯一の光だと思っていた松永までもが、闇に染まっていた。
松永は鼻で笑いながら、新しい酒を注いだ。
「味方?ああ、そうだよ。私は君の味方だ。だがね、里子君。正義や信念だけで飯が食えるほど、この世界は甘くないんだよ。君のお父さんは、立派な人だった。だが、お人好しすぎた。肖三が横領を繰り返しているのを知りながら、君の母親の事件を疑いながら、それでも決定的な証拠を突きつけずに、泳がせていた。」
「それは、私を守るため…。父の手紙には、そう書いてあった。」
「違うな。」松永は断言した。「君の父親は、肖三を追い詰めれば、自分自身の会社にも火の粉が降りかかることを恐れたんだ。私はね、そんな中途半端なやり方が、我慢ならなかった。だから、肖三に持ちかけたのさ。君の不正を隠してやる代わりに、上がりの半分をこちらに回せ、と。20年前から、私は肖三の『金庫番』として動いていたんだよ。」
背筋が凍るような衝撃が、私を襲った。私が父から受け継いだと思っていた資産の一部。そして、健一が横領し、肖三に流れていた金。それら全ては、松永という巨大なフィルターを通して、洗浄され、分配されていたのだ。
「じゃあ、今回の不祥事発覚も、健一さんが警察に連行されたのも…」
「そう。全て、私の演出だ。肖三は、もう使い物にならない。健一も、あの通り、ただの操り人形だ。あの一族を一度リセットし、全ての罪を健一に着せて葬り去る。そうすることで、私は肖三が海外に隠していた莫大な資産を、正当な顧問料として、完全に自分のものにできる。里子君は、そのための、最高の隠れ蓑だったんだよ。被害者の妻が、プロの会計士として不正を暴く。これほど説得力のあるシナリオは、ないだろう。」
松永の声は、まるで冷たい泥のように、私の耳にまとわりついた。私は、自分が正義の復讐を果たしているつもりで、実はこの男の欲望のために、踊らされていたのだ。
「私の18年間も、あなたの計画の一部だったの?」
「いや、それは違うな。君が健一を選んだのは、あくまで偶然だ。だが、私はその偶然を利用した。君が苦しめば苦しむほど、復讐の炎は激しく燃える。その炎が肖三たちを焼き尽くす時、私は安全な場所で、利権を回収する。君は、実によくやってくれたよ。里子君。感謝しているくらいだ。」
松永は立ち上がって、私のそばに歩み寄った。そして、優しく私の肩に手を置いた。その手の感触が、今はただ、ただ、不快だった。
「もう、いいじゃないか。里子君。健一は刑務所だ。肖三も、京子も、破滅した。君は、名義上の家と、いくらかの慰謝料を手に入れ、娘と静かに暮らせばいい。これ以上、深い闇を穿り返す必要はないんだ。私の邪魔をしなければ、君たちの将来は、私が保証してやろう。分かったね。」
それは、明らかな脅迫だった。もし、ここで私が彼に逆らえば、次は私と七海が消される番だ。松永には、それだけの力と、冷酷さがある。
私は沈黙した。唇を噛みしめ、俯いたまま、何も答えなかった。松永は、私のその様子を、承諾だと受け取ったのだろう。彼は満足そうに頷き、部屋の出口へと向かった。
「賢い選択だ。明日、今回の件を締めくくるための書類を持ってくる。それにサインをすれば、全ては終わる。お休み、里子君。良い夢を、見なさい。」
バタンと扉が閉まる音が響く。部屋に残されたのは、私一人の呼吸音と、庭を流れる水の音だけだった。私はゆっくりと顔を上げた。鏡に映った自分の顔は、青白く、まるで亡霊のようだった。しかし、その瞳の奥には、まだ燃えていない小さな火が灯っていた。
「終わらせる?ええ、終わらせるわ。でも、あなたの思い通りの形には、させない。」
私は、着物の袖の中に隠しておいたボイスレコーダーを取り出した。松永の今の告白は、全て記録されている。だが、これだけでは足りない。彼は、百戦錬磨の弁護士だ。これくらいの証拠なら、いくらでも揉み消すことができるだろう。
私はスマホを手に取り、山崎監査役に連絡を入れた。
「山崎さん、松永さんの件、確認できました。彼は、最後の駒を動かすつもりです。彼が資産を洗浄するために使っている、非公開のネットワーク。そこが、彼の心臓部です。」
「里子さん、危険すぎます。松永は、これまでの連中とは、桁が違います。もし失敗すれば、あなたの命が危ない。」
「母を殺し、父を欺き、私の18年を持て遊んだ。この男だけは、絶対に許せない。山崎さん、私には確信があるの。松永さんが唯一、計算に入れていない変数があるわ。」
「変数?それは、一体何ですか?」
「健一さんよ。」
私は、面会室での健一の絶望した顔を思い出した。彼は確かに、クズで、救いのない男だ。しかし、彼は最後に、ある重要な情報を私に残していったのだ。
「里子、俺、松永先生に言われたんだ。もし警察に捕まったら、この番号に電話しろって。でも、その番号、どこかで見たことがあるんだ。親父が昔、大切にしていた古い写真の裏に、書いてあった番号と同じだった。」
健一は、松永と肖三が、20年以上前から繋がっていることを、無意識のうちに察していた。そして、彼が私に託したその番号こそ、松永が海外の口座をコントロールし、資産を横領するために使っていた、専用のホットラインだったのだ。
翌朝、松永は勝ち誇ったような顔で、私の自宅を訪れた。手には、私を沈黙させ、全ての罪を健一と肖三に押し付けるための、最終的な合意書が握られていた。
「おはよう、里子。昨夜は、よく眠れたかな。さあ、これを終わらせようじゃないか。」
松永はダイニングテーブルに書類を広げ、万年筆を私に差し出した。七海は、隣の部屋に隠れ、息を潜めている。私は書類に目を落とすことなく、松永の目をまっすぐに見据えた。
「松永さん。サインをする前に、一つだけ確認させてください。この電話番号、見覚えがありますよね。」
私は、スマホの画面に表示された、あの番号を、松永に見せた。松永の表情が、一瞬で凍りついた。
「な、何を?どこで、それを?」
「健一さんから聞いたのよ。彼は、あなたに騙されていることに、最後まで気づいていなかったけれど、あなたの癖は覚えていたわ。この番号は、あなたが管理している、東南アジアのペーパーカンパニーの緊急連絡先でしょう。」
松永の手が、わずかに震え始めた。
「それが、どうした?そんなもの、何の証拠にもならない。ただの電話番号だ。」
「いえ、この番号に紐付けられている口座。ここから、鬼塚社長の愛人である京子さんへ、定期的に送金がされていましたね。そして、その送金の名目は『20年前の口止め料』。松永さん。あなたは、肖三さんを脅して金を取っていただけじゃない。あなた自身が、母の事故を手配した黒幕だったんじゃないの?」
部屋の空気が、爆発寸前の緊張に包まれた。松永の顔から余裕が消え、額に嫌な汗が滲み出る。
「ふ、ふざけるな!証拠があるのか!妄想を口にするのも、いい加減にしろ!」
「証拠なら、今、あなたの後ろにいるわよ。」
松永が慌てて振り返った。そこには、警察官を伴った山崎監査役。そして、病院の車椅子に乗った、衰弱しきった一人の老婆の姿があった。松永の顔が、恐怖で引きつった。
「バカな…。彼女は、死んだはずだ。」
「彼女は、あなたが口封じのために、海外の施設に幽閉していた、20年前の事故の唯一の目撃者よ。山崎さんが、昨夜のうちに保護してくれたわ。」
その老婆は、震える指で松永を指さした。
「この人よ。この人が、私に金を渡して、さち子様のお母様の車のブレーキを…。」
松永は、椅子の足を派手に鳴らしながら、後ずさりした。彼の完璧だったはずの計画が、ドミノのように崩れ始めていた。
「松永さん。これが、私の18年間の拒絶の、本当の頂点よ。」
私は震える手で万年筆を握り、彼が持ってきた合意書を、ビリビリに引き裂いた。
「あなたは私を隠れ蓑だと言ったけれど、私は、あなたを地獄へ引きずり込むための、死神だったのよ。」
松永の狂乱は、もはや収集がつかないところまで達していた。彼は狂ったように笑い出し、窓から飛び降りようとしたが、警察官に取り押さえられた。しかし、この混乱の最中、私は見てしまった。変更されていく松永のポケットから、一通の封筒が落ちるのを。そこには、私の父の本当の死因に関する、さらに残酷な真実が隠されていた。
警察車両の赤い警光灯が、夜の住宅街を不気味に染め上げている。連行される松永の足元から落ちた一通の封筒。私はまるで吸い寄せられるように、その封筒を拾い上げた。指先の震えが、感触が、ひどく冷たく感じられる。
「お母さん、それ…?」
七海が不安そうに、私の顔を覗き込む。私は何も答えず、封筒の中から現れた、古びた書類を広げた。それは、私が18年間、誰よりも尊敬し、信じてきた父の、自筆の遺言状だった。そこには、これまでの全ての真実を上書きする、あまりにも過酷な一文が記されていた。
「里子へ。許してくれ。健一を君の夫に選んだのは、復讐のためではない。彼こそが、私の実の息子。君の、腹違いの兄なのだから。」
目の前の景色が、音を立てて崩れ去った。脳が理解を拒否し、視界が急激に狭まっていく。呼吸の仕方を忘れたかのように、胸が苦しい。
「嘘…。そんなはず、ないわ。」
私は、絞り出すような声で呟いた。だが、遺言状には、さらに残酷な詳細が綴られていた。20数年前、父は肖三の妻、つまり健一の母親と、一度だけ関係を持った。彼女は肖三の虐待に耐えかね、父に助けを求めた。その時に宿った命が、健一だったのだ。
父は、肖三がその事実を知れば、健一の命が危ないと直感した。だからこそ、あえて沈黙を守り、健一が肖三の息子として育つのを、影から見守った。そして、健一が大人になった時、彼を私のそばに置くことで、何があっても自分の資産を受け継がせ、守ろうとしたのだ。
つまり、私たちの18年間の結婚生活は、父が自分の息子を守るために、実の娘である私を犠牲にして作り上げた、歪な形の家族ごっこだった。
「お父さん…。どうして…。私を愛していると言いながら、どうして、こんな…。」
涙さえ出なかった。あまりの絶望に、心は石のように冷たく固まっていく。健一と私は、血の繋がった兄妹。そんな近親相姦の上に、私たちの家庭は築かれていた。七海という、新しい命さえも、その呪われた血の流れの中にあったのだ。
「お母さん、しっかりして!何が書いてあるの?」
七海が、私の肩を激しく揺さぶる。私は娘の顔を見ることができなかった。この子に、自分たちの出生の秘密を、どう説明すればいいのか。この清らかな魂を、大人の身勝手な欲望と罪で、汚してしまうのか。
その時、連行されようとしていた松永が、歪んだ笑みを浮かべて、こちらを振り返った。
「見つけたようだな、里子君。そうだよ。それが、この家の最大の真実。君の父親は、聖人君子のような顔をしながら、実の娘と息子を結婚させるという、神をも恐れぬ所業を犯したんだ。私はそれを知っていた。だからこそ、君の父親を脅し、資産を思いのままに操ることができたのさ。」
「松永、貴様!」
山崎監査役が松永を静止するが、彼の独白は止まらない。
「里子君。君の18年間は、ただの近親相姦の歴史だったんだよ。君がどれだけ誇り高く生きようとしても、その事実は消えない。君も、その娘も、一生、その呪いから逃れることはできないんだ!」
松永の罵声が、夜空に響き渡る。警察官たちが、慌てて彼を車に押し込んだ。私は遺言状を握りしめたまま、その場に佇んでいた。沈黙。世界から音が消えたかのような、深い沈黙が、私を支配した。
これまで、健一を敵として戦ってきた。彼を破滅させることこそが、私の正義だと思っていた。だが、彼もまた、父の罪の被害者だったのではないか。自分の出生を知らされず、偽りの父親に虐待され、実の父親には道具として利用され、そして最後は、実の妹に地獄へ突き落とされた。
「なんてこと…。私たちは、最初から、誰も救われない迷路の中にいたのね。」
私は天を仰いだ。暗闇の向こうに、亡き父の顔が浮かぶ。なぜ、これほどまでに残酷な選択をしたのか。なぜ、私に真実を告げなかったのか。
その時だった。私のスマホが震えた。発信者は、警察署に拘束されているはずの健一ではなく、彼を担当している若手弁護士からだった。
「佐藤里子さんですか?至急、病院へ向かってください。ご主人の健一さんが、留置場で意識不明の重体で見つかりました。自ら命を絶とうとしたようです。」
心臓が跳ね上がった。憎んでいたはずの男。私の人生をめちゃくちゃにした男。だが、その非道に近い知らせを聞いた瞬間、私の中で凍りついていた復讐の壁が、ガラガラと崩れ落ちた。
「お母さん!」
「七海、行くわよ。病院へ。」
「え、だって、お父さんは…。」
「彼は、あなたの父親よ。そして…。」
私の言葉が詰まる。兄だとは、まだ言えなかった。だが、このまま彼を死なせるわけにはいかない。彼には、まだ知らなければならないことがある。そして、謝らなければならないこともある。
私たちはタクシーを飛ばして、病院へ向かった。深夜の廊下は、消毒液の匂いと、死の気配に満ちていた。集中治療室の前で待っていたのは、意外な人物だった。
「里子さん…。お待ちしていました。」
そこに立っていたのは、健一の本当の母親。肖三の元妻であり、父との過ちの末に健一を産んだ、あの女性だった。彼女は、ボロボロになった遺言状の写しを手に、私の前に膝をついた。
「申し訳ございませんでした。全ては、私の弱さが招いたことです。里子さん、あなたにだけは、全てをお話ししなければなりません。健一が、命をかけて守ろうとした、もう一つの真実を。」
彼女の口から語られたのは、父の遺言状にさえ記されていなかった、衝撃の事実だった。
「健一は、知っていたのです。自分が、あなたの兄であることを。そして、あなたを守るために、あえて悪役を演じ続けていたことを。」
私の鼓動が、今までで一番激しく脈打った。
「嘘だ…。そんなはずはない。あんなに私を侮辱し、不倫までしていた彼が、私を守っていた?」
「彼が横領した金は、愛人のためではありません。全ては、松永という怪物から、里子さんと七海さんの将来を、買い取るための身代金だったのです。」
事実が、反転する。悪魔だと思っていた夫が、実は私を救うための最大の嘘をつき続けていた。そして、その代償として、彼は今、死の淵に立っている。
私は震える手で、集中治療室のドアを開けた。そこには、無数の管につながれ、今にも消え入りそうな灯を宿した健一が、横たわっていた。
「健一さん…。」
私は、彼の冷たい手を握りしめた。18年間、拒絶し続けたその手は、驚くほど細く、もろかった。
物語は、いよいよ逆転の頂点へと向かう。健一が隠そうとした、本当の愛の形。そして、私が下すべき、最後の決断とは。
「先生!血圧低下!除細動器の準備を!」
院内に、医師や看護師たちの緊迫した叫びが飛び交う。ピピピピ、という電子音が鼓膜を突き刺し、心電図の波形が、残酷なまでに平坦な一本の線を描き出す。私の目の前で、健一さんの命の灯が、今まさに消えようとしていた。
「健一さん!健一さん!死なないで!」
私は看護師に押し出されそうになりながらも、必死で彼の名前を呼び続けた。絶望、後悔、そして怒り。あらゆる感情が混ざり合い、胸が引き裂かれそうになる。彼が、私を守るために、わざと憎まれ役を演じていたなんて。私の実の兄として、血の呪縛から私を救い出すために、たった一人で地獄を歩いていたなんて。
廊下に放り出された私は、その場に崩れ落ちた。
「そんな…。あんまりだわ。こんな終わり方、認めない。」
「お母さん、しっかりして!お父さんは、まだ戦ってるよ!」
七海が、私の肩を抱き、必死に励ましてくれる。その時だった。廊下の向こうから、複数の足音が近づいてきた。病院の静寂を破る、規則正しく、それでいて暴力的な響き。顔を上げると、そこには黒いスーツを着た五人の男たちが立っていた。彼らの中心にいるのは、松永の秘書を務めていた男だ。
「佐藤里子さんですね。松永先生から預かっていた書類、及び、健一氏が管理していた海外口座のアクセスキー。今すぐ、こちらに渡していただきましょうか。」
男の目は、刃のように冷たく、その手には、警察の介入さえ恐れないような、不気味な迫力があった。松永は逮捕されたが、彼の張り巡らせた闇のネットワークは、まだ生きていたのだ。彼らは、証拠を隠滅し、健一が命がけで守り抜いた最後の資産を、強奪しにやってきた。
「何のことかしら?私には、そんなもの、心当たりはないわ。」
私は立ち上がり、涙を拭った。声はまだ震えていたが、瞳の奥には、冷徹な光が戻りつつあった。男の一人が、鼻で笑って、私を嘲り始めた。
「とぼけても無駄だ。無能な主婦のふりをして、時間を稼ぐつもりか?お前のような女が、松永先生の築いた帝国に、逆らえると思っているのか?お前は、ただの血塗られた操り人形なんだよ。健一の死と一緒に、全てを闇に葬ってやるのが、慈悲というものだ。」
男は、私に詰め寄った。
「さあ、出せ。出さなければ、隣にいるお前の娘がどうなるか、分かっているんだろうな。」
七海が、私の背中に隠れ、怯えながらも、私の服を強く握りしめる。その瞬間、私の中で何かが、完全に結晶した。私は一切の感情を排した無表情で、男の目をまっすぐに見据えた。沈黙。その場の空気が、真空になったかのように凍りつく。男たちは、私の豹変ぶりに一瞬怯んだ。
「操り人形ですって。あなたたちは、大きな勘違いをしているわ。」
私は静かに口を開いた。その声は低く、血が滴るような重圧を帯びていた。
「松永さんが築いたのは、帝国なんかじゃない。ただの、他人の不幸の上に築かれた砂の城よ。そして、その城の土台を支えていたのは、私の父と、ここに眠る健一さんだった。あなたたちは、もう、誰も頼れないんだよ。」
私は鞄から、健一さんが最後に私の耳元で囁いた、「これを…山崎さんに…」という言葉と共に、私の手に握らせた小さなUSBメモリを取り出した。
「これが何だか、分かるかしら?」
男の顔色が、一瞬で変わった。
「まさか、それが…!」
「ええ。松永さんがこれまで10年に渡って行ってきた、政治家や警察官へのワイロ、そして企業恐喝の全記録よ。健一さんは、松永さんの下で働きながら、いつか私と七海を自由にするために、この決定的な証拠を、命がけで集めていたの。」
「返せ!それを今すぐ渡せ!」
男たちが、私に掴みかかろうとした、その時。
「動かないでください。これ以上、罪を重ねるおつもりですか?」
背後から、凛とした声が響いた。振り返ると、そこには山崎監査役。そして、十数名の制服警官と、さらに複数の意外な人物が立っていた。
「鬼塚社長…。なぜ、ここに…。」
松永の部下たちが、絶望的な声をあげた。商事のトップである鬼塚社長が、なぜ警察を伴って現れたのか。
「佐藤里子さんから、全てを聞きました。松永、あの男は、私の会社を隠れ蓑にして、とんでもない犯罪を繰り返していた。そして、佐藤健一君。彼が私に当てた手紙も、今日、里子さんから届きました。」
鬼塚社長の顔には、激しい怒りと、それ以上の後悔が滲み出ていた。
「佐藤君は、自分が松永の共犯者として泥を被ることで、私に真実を伝え、君たち家族を守ろうとした。彼は、本物の英雄だった。」
警察官たちが一斉に動き、松永の部下たちを取り押さえた。
「離せ!俺たちは、ただ仕事をしただけだ!里子、お前、ただで済むと思うなよ!」
男たちの罵声が響く中、私は静かにUSBメモリを、鬼塚社長に託した。
「これで、全て終わります。健一さんが望んでいた、本当の自由が、今、訪れました。」
その時、ICUの扉が静かに開いた。中から出てきた医師が、深く一礼をして、私に告げた。
「奇跡です。心停止から数分、脳へのダメージも懸念されましたが、先ほど、自発呼吸が戻りました。意識も、回復の兆しが見えます。」
私の膝から、力が抜けた。七海と一緒に、私たちはその場に泣き崩れた。18年間の拒絶、18年間の誤解、そして、血の繋がった兄妹という、あまりにも過酷な真実。全てを受け入れた上で、私たちは、生き抜いたのだ。
「健一さん…。生きててくれたのね。」
一週間後、健一さんの容体は安定し、彼は一般病棟に移された。松永とその一味は、一網打尽にされ、連日のようにニュースでその余罪が報じられている。肖三の不正も全て明るみになり、鬼塚社長は退任を発表したが、里子と七海の将来のために、多額の慰謝料と賠償金を個人的に支払うことを約束した。
私は病院のベッドの横で、健一さんの手を握っていた。彼はまだ言葉を交わすことはできなかったが、私の顔を見ると、かすかに微笑んでくれた。
「お兄ちゃん。」
私が初めてそう呼んだ時、健一さんの目から、大粒の涙が溢れた。
「ああ…。もう、無理して悪役を演じなくていいのよ。これからは、本当の家族として、一緒に歩いて行きましょう。七海も、あなたのことを待っているわ。」
七海は、照れ臭そうに、でも誇らしげに、健一さんの手を握った。だが、物語の逆転は、これだけでは終わらなかった。退院を控えたある日、山崎監査役が、私に一枚の書類を持ってきた。
「里子さん。信じられないことが分かりました。例のDNA鑑定の結果ですが…。」
私の心臓が、再び鼓動を早めた。
「実は、松永があなたに見せた、あの遺言状。そして、鑑定結果。全て、偽造されたものだったのです。彼は、あなたに絶望を与え、健一さんとの絆を断ち切るために、ありもしない『兄妹』という設定を作り上げたのです。」
私は、言葉を失った。
「じゃあ、私たちは…?」
「ええ。あなたと健一さんに、血縁関係はありません。健一さんは、紛れもなく肖三の息子であり、あなたは、あなたのお父様の娘です。お父様が健一さんを選んだのは、純粋に、彼が優秀で、誰よりもあなたを愛していることを、見抜いていたからです。松永は、お父様のその愛を、最も残酷な毒に書き換えて、あなたにぶつけたのです。」
涙が、止まらなかった。私たちの18年は、毒に犯されていたわけではなかった。ただ、あまりにも不器用で、あまりにも深い、無償の愛の物語だったのだ。
「健一さん、聞いた?私たち、兄妹じゃなかったのよ。最初から、本当の夫婦だったの。」
健一さんは、震える手で、私の手を握り返した。
「里子…。愛してる。ずっと、ずっと、愛してたんだ。」
18年目の、本当の結婚記念日が、今、ここから始まろうとしていた。
しかし、最後の最後で、私は思い出した。健一が不倫していたリナの正体。彼女が去り際に、私に残したある贈り物のことを。
リナからの手紙を握りしめ、私は一人、かつて父が隠れ家として使っていた古い山荘へと向かった。そこは、健一さんですら場所を知らない、地図にも載っていないような静かな場所にあった。手紙には、こう書かれていた。
「里子さん。私は、あなたの強さに賭けることにしたわ。あの山荘の暖炉の裏に、お父様があなたにだけ残した、本当の希望が隠されている。これがあれば、あなたは二度と、誰にも脅かされることはない。」
リナ。彼女は、最後まで不思議な女性だった。健一さんに近づいたのは、任務だったのかもしれない。しかし、彼女もまた、この血塗られた一族の嘘に、嫌気がさしていたのかもしれない。
山荘の扉を開けると、誇りの舞う光の中に、父の気配が残っているような気がした。私は夢中で暖炉の石組みを探り、リナの指示通り、特定の石を強く押し込んだ。ガチリという重厚な音が響き、壁の一部がスライドして、小さな金属製のボックスが現れた。中に入っていたのは、一本の古いビデオテープと、膨大な量の証拠書類。そして、私への最後の手紙だった。
「愛する里子へ。君がこれを見ているということは、私はもうこの世にはいないだろう。そして、松永や肖三が牙を向いた、ということだ。すまない。私は、君の母親を死に追いやった彼らを、打ち倒すための準備を、20年かけて進めてきた。健一君を君の夫に選んだのは、彼が肖三の息子でありながら、誰よりも純粋で、正義感の強い少年だったからだ。彼は、自ら志願して、私のスパイとして、肖三の懐に飛び込んだのだよ。」
私は、その場で泣き崩れた。全てが、繋がったのだ。健一さんが不倫を演じ、横領を装い、私を侮辱する言葉を吐き続けたのは、全ては、松永や肖三を欺き、彼らの決定的な不正の証拠を、内側から掴むための潜入捜査だった。
私を寄生虫と呼び、中卒並の知能のことを馬鹿にしたのは、私が怒って、自分から離れ、安全な場所に避難するように仕向けるための、彼なりの、不器用で、あまりにも悲しい愛情表現だった。彼は、私が彼を憎み、拒絶することで、この泥沼から救い出そうとしていたのだ。
「健一さん…。どうして…。どうして、そんなに、一人で背負ったの…。」
ビデオテープを再生すると、そこには、若き日の父と、まだ十代の、目に決意を宿した健一さんが映っていた。
「さち子さんのことは、命に代えても守ります。たとえ、彼女に一生恨まれることになっても。」
画面の中の健一さんは、真っ直ぐな瞳で、そう宣言していた。
私は、その証拠資料一式を抱え、弁護士と警察を伴って、最後の一撃を与えるために動き出した。ターゲットは、釈放を画策し、未だに裏で糸を引こうとしていた肖三。そして、病院でひっそりと逃亡の準備を進めていた京子です。
翌日、私は銀行の貸金庫室に、彼らを呼び出しました。彼らは、私がまだ何も知らない、騙されやすい主婦だと信じ込み、最後の金をむしり取ろうと、傲慢な態度で現れました。
「里子。ようやく、観念したか。さあ、健一の海外口座のパスワードを教えろ。そうすれば、お前の命だけは、助けてやると、肖三さんがおっしゃっているんだ。」
京子が、安っぽい毛皮を羽織り、勝ち誇った顔で言いました。肖三も、ふんぞり返って葉巻を燻らしています。
「里子。お前は、最初から、誰かの庇護がなければ生きられない女だ。健一はもう終わった人間だ。これからは、私の命令に従え。それが、お前の唯一の生きる道だ。」
私は一言も発さず、ただ静かに、彼らの前に一冊のファイルを置きました。そこには、20年前の事故の真相、松永との癒着。そして、彼らが最も恐れていた、資産の全額没収を証明する、裁判所の命令書が挟まれていました。
「な、なんだ、これは?」
肖三がファイルを開き、ページをめくるごとに、その顔が見る見るうちに真っ青に変わっていきました。
「これは…。なぜ、お前が、この場所を…。なぜ、この書類を…。」
「肖三さん、京子さん。あなたたちが18年間、私と健一さんを虐げて楽しんでいた時間は、今この瞬間に終わりました。あなたたちが『隠し資産』だと思っていたものは、全て、父が生前に設立した基金に組み込まれ、本日付けで、全額、差し押さえられました。」
私は椅子に深く腰掛け、凛とした声で言い放ちました。かつて、夫の暴言に震えていた私は、もうどこにもいません。
「お、お前、よくも、そんな真似を!誰のおかげで、この暮らしができていると思っているんだ!恩知らずの寄生虫が!」
肖三が立ち上がり、私を殴ろうと手を振り上げました。しかし、その手は空を切りました。待機していた警察官たちが、一斉に踏み込んできたのです。
「肖三さん!殺人容疑、及び組織的犯罪処罰法違反の疑いで、逮捕します!京子さん!あなたも、共犯です!ご同行願います!」
「離せ!離せよ!俺は、商事の影のオーナーだぞ!お前ら、ただで済むと思うな!」
肖三の醜い叫び声が、貸金庫室に響き渡ります。京子は腰を抜かし、床に這いつくばって、泣き叫んでいました。
「いやよ!刑務所なんて嫌!里子さん、助けて!私は、ただ、あの人に従っていただけなのよ!」
私は、足元にすがりつく京子を、冷たい目で見下ろしました。
「助けて?おかしいわね。数日前まで、あなたは私に『のれじね』と言っていたじゃない。京子さん、あなたには、18年間の拒絶どころか、一生分の後悔を、刑務所の中で味わってもらうわ。母の命を奪った罪は、そんなに軽くはないのよ。」
警察官に引きずられていく二人を見送りながら、私は深く息を吐きました。これ以上ないほどの、透き通った解放感が、全身を駆け巡ります。18年間。私は、奪われ続けてきたと思っていました。愛を、時間を、誇りを。でも、違ったのです。私は、守られていた。不器用で、残酷で、でも、世界で一番温かい嘘によって。
私は、病院へ急ぎました。健一さんの意識が、完全に戻ったという知らせが入ったのです。病室に入ると、健一さんは窓の外を見ていました。私が近づくと、彼はゆっくりと振り返り、弱々しく、でも、今までで一番優しい声で、私を呼びました。
「里子…。すまなかった。」
「いいえ、謝らないで。健一さん、全て、分かったわ。あなたが、どれほど私を愛してくれたか、もう、お芝居は終わり。これからは、本当の私たちを、始めましょう。」
私たちは、手を取り合いました。18年間の沈黙と仮面の裏に隠されていた真実。その全てがほどけ合い、新しい朝が訪れようとしていました。
「里子。俺、ずっと言いたかったことがあるんだ。」
健一さんは、震える手で、私の指をなぞりました。
「なに?健一さん。」
「愛してる。18年前、君と出会ったあの日から、一度も、忘れたことはなかった。」
その言葉を聞いた瞬間、私の18年間の戦いは、最高の結末を迎えました。
しかし、物語は、まだ終わっていませんでした。退院した私たちが、空になった自宅に戻った時、そこには私たちを待っていた、最後の訪問者が立っていたのです。夕暮れの淡い光がリビングの窓から差し込み、長い影を床に落としていました。玄関先に立つ、スーツ姿の女性。沢田と名乗る彼女は、父の生前、最も信頼されていた秘書の一人でした。彼女の手にある、銀色の小さな鍵と、厚みのある封筒。それが、私のこれまでの人生の全てを完結させる、最後のピースでした。
「さち子様。お父様は、いつかこの日が来ることを、信じておられました。復讐ではなく、愛が勝つ日が来ることを。この鍵は、横浜にある古い海辺の教会の裏手にある、小さな納骨堂のものです。そして、この封筒には、その場所に隠された、真実への地図が入っています。」
私は、震える手で鍵を受け取りました。健一さんは、まだ車椅子に乗ったままでしたが、私の手をしっかりと握りしめてくれました。
「里子。行こう。俺も、一緒に行く。そこに何があるのか、俺も、見届けたいんだ。」
私たちは、翌朝、七海も連れて、その教会へと向かいました。潮騒の音が聞こえる、静かな丘の上に、その教会は佇んでいました。教会の裏手に回ると、蔦に覆われた古い小さな石造りの納骨堂がありました。鍵を差し込み、重い扉を開けると、そこには、花が絶えることなく、備えられていました。そして、奥の祭壇には、一通の手紙と、一枚の新しい写真が置かれていたのです。私は、その写真を見た瞬間、膝から崩れ落ちました。そこには、白髪混じりではあるけれど、穏やかに、幸せそうに微笑む、私の母、よしえの姿がありました。背景には、見たこともない南の島の、美しい海が映っていました。
「お母さん…。嘘…。生きていたの?」
手紙を開くと、父の温かい筆跡が、飛び込んできました。
「里子へ。驚かせて、すまない。あの事故の日、お前の母さんは、確かに重症だった。だが、命を取り留めたのだ。しかし、松永や肖三の手が、病院にまで及んでいることを知り、私は決断した。母さんを『死んだ』ことにし、海外の信頼できる施設へ、密かに移したのだ。お前を守るため。そしていつか、悪を全て根絶やしにした後で、本当の再会を果たすために。」
涙が、止まりませんでした。母は、生きていた。父は、母を守るために、そして、私を守るために、孤独な戦いを続けていたのです。
「里子。健一君を信じてくれて、ありがとう。彼は、お前にとっての騎士だった。彼が不倫や暴言という泥を被ったのは、全ては、この計画を完結させるための時間稼ぎだったのだ。彼を許してやってほしい。そして、これからは、二人で、失った18年を取り戻すのだ。」
手紙の最後には、現在母が暮らしている場所の住所が記されていました。彼女は、今、静かな療養所で、娘と夫の帰りを待ち続けているというのです。私は顔を上げ、隣に立つ健一さんを見つめました。彼は、申し訳なさそうに、でも、愛おしそうに、私を見つめ返していました。
「健一さん…。知ってたのね。お母さんが、生きていることを。」
「ああ。小父さんから、命がけで守れと言われていたんだ。君が真実を知れば、きっと、肖三たちに悟られてしまう。だから、君に憎まれることが、君を守る唯一の方法だった。18年間、君を傷つけて、本当にごめん。君の沈黙に、君の涙に、俺の心は、何度も張り裂けそうだったんだ。」
健一さんは、車椅子から身を乗り出すようにして、私を抱きしめました。
「お父さん、お母さん。」
七海が、私たちの肩に手を置き、一緒に泣いてくれました。18年。長すぎる時間でした。仮面夫婦として、お互いに背を向け、冷たい言葉を投げ合い、拒絶し続けてきた日々。でも、その拒絶の裏側には、これほどまでに深く、強い愛情が流れていたのです。
一ヶ月後、私たちは南の島へと向かいました。青い空と、透き通るような海に囲まれた、小さな療養所。その庭のベンチに、一人の女性が座っていました。
「お母さん。」
私が声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを振り返りました。20年前の面影を残したまま、優しく微笑む、その瞳。
「里子…。大きくなったわね。健一さんも、七海ちゃんも。」
母の声は、記憶の中にある通り、柔らかくて、温かいものでした。私たちは駆け寄り、母を抱きしめました。20年間の空白が、その一瞬で埋まっていくのを、感じました。
日本に戻った私たちは、あの因縁の過去が詰まった家を、売り払いました。松永や肖三たちは、法の下で裁かれ、二度と私たちの前に現れることはありません。新しい家は、郊外の小さな、でも日当たりの良い一軒家です。私は、再び公認会計士としてのキャリアを歩み始め、健一さんは、鬼塚社長の計らいで、関連会社の再建を任されることになりました。
ある日曜日の昼下がり。庭で七海が犬と走り回り、キッチンでは、健一さんが不器用ながらも、昼食を作っています。
「里子、今日のお昼は、特製パスタだよ。今度は、ぬるくないから、安心して。」
健一さんが、茶目っ気たっぷりに笑いながら言いました。かつて、彼が私を寄生虫と罵った、あの傲慢な空気は、もうどこにもありません。
「ええ、楽しみにしてるわね。健一さん、何?」
「18年間の拒絶は、今日で終わりだな。これからは、18年分、いや、それ以上に、大好きって、毎日伝えるよ。」
私の言葉に、健一さんは顔を赤らめ、幸せそうに頷きました。私たちは、一度は壊れかけた夫婦でした。嘘と裏切り、そして残酷な真実。でも、それを乗り越えたからこそ、今の私たちは、どんな鋼よりも強い絆で結ばれています。
人生には、どうしても避けられない悲しみや苦しみがあります。でも、それをどう受け止め、どう乗り越えるか。私たちは、18年という歳月をかけて、その答えを見つけました。
「お母さん、お父さん、早く食べようよ!お腹空いちゃった!」
七海の元気な声が響きます。窓から差し込む光は、私たちの新しい人生を祝福するように、キラキラと輝いていました。仮面夫婦の残酷な真実は、今、最高に幸せな家族の物語へと、書き換えられたのです。18年前のあの日、冷たい雨の中で誓った復讐。それは、今日、温かな愛となって、私たちの心を満たしてくれました。
「愛してるわ、健一さん。」
「俺もだよ、里子。」
重なり合う手と手。そこには、もう何の偽りもありません。私たちの本当の人生は、今、ここから始まったばかりなのです。



