廊下を走る小さな足音が聞こえた。5歳くらいの男の子が看護師の手をすり抜けて駆けてくる。
「先生、今日の注射、痛くないやつ?」
俺は思わず笑って椅子を回転させた。
「痛くないかは、頑張る君次第だな。先生はちゃんと優しくするって約束するよ」
男の子が頬を膨らませて頷いた。その後ろから藤崎が小走りでやってくる。
「先生、すみません。診察前に逃げ出されてしまって」
「いいんだ。元気が一番だよ」
俺の名前は山田弘樹。45歳。この総合病院の小児科医だ。医者になって14年、ここに勤めて8年になる。
朝の回診を終え、ナースステーションに戻る。カルテを並べ、指示を出し、母親の不安に答える。昨日と同じ景色だ。明日もきっと同じ景色だろう。
俺は窓の外を見た。病院の庭に植えられた桜がもうすぐ咲きそうになっている。藤崎が湯気の立つマグカップを差し出した。
「先生、コーヒーです。今朝、顔色が悪いですよ」
「ありがとう。いや、別に体調は悪くないんだけどな」
「ならいいんですけど。最近、先生なんだか遠くを見てる感じがします」
俺は曖昧に笑ってコーヒーを口に運んだ。遠くを見ているか。そう言われて、心のどこかが少し痛んだ。俺は別に不満があるわけじゃない。給料も安定している。家族と呼べる存在はもう久しく身近にいないが、それにも慣れた。患者は俺を頼ってくれるし、看護師たちもよく動いてくれる。
ただ、何だろう。朝起きて白衣を着て病院に来る。その一連の動作に、もう何の感情も湧かなくなっている。
「藤崎さん、看護師になりたての頃って覚えてる?」
「私はまだ看護師7年目ですけど、でも最初の患者さんの顔は今でも覚えています」
「そうか。俺もなあ、覚えてるよ。最初の患者は肺炎の女の子だった」
「先生、それ初めて聞きました」
俺は少し笑った。最初の患者の名前までまだ覚えている。でも、その熱はどこに置いてきたんだろう。
電子カルテの画面に午前の予約が並んでいる。日常がまた始まる。
昼休みに少し早く出て医局に戻ろうとした時だった。内科病棟の前で声が聞こえた。
「だから、もう少しだけお話を聞かせてください。痛みの場所、もう一度教えてもらえますか?」
覗き込むと、白衣の女性が車椅子の女性の前にしゃがみ込んでいる。背中を丸め、目線を合わせて話していた。俺はその場で足を止めた。
診察の流れとしては明らかに遅い。すぐ後ろには次の患者が並び、看護師がチラチラと時計を見ている。それでも、その医師は急がなかった。
「先生、なんかこう胸がね、シクシクして」
「シクシクですね。じゃあおばあちゃん、こっちの手握ってもらっていいですか?ぎゅっと」
女性が小さな手で医師の手を握った。医師は嬉しそうに微笑んだ。
その時、後ろから低い声がした。
「白石先生」
振り返ると、外科部長の黒川がいた。腕を組み、明らかに不機嫌な顔をしている。
「もう30分押してる。次の患者が何人待ってると思ってるんだ」
「すみません。でも、このおばあちゃんの胸の症状、もう少し詳しく聞かないと」
「判断は早くして検査に回す。それが効率というものだ」
「はい。すみません」
白石と呼ばれた女性医師は頭を下げた。それでも、女性の手はまだ離さなかった。そのことに、俺は妙に胸を打たれた。
黒川は俺に気づいて軽く頷いた。
「山田先生、悪いね。お見苦しいところを」
「いえ、お疲れ様です」
黒川が立ち去ってから、俺はゆっくりと白石の方へ歩いた。
「白石先生、でしたか?」
「あ、はい。小児科の山田先生ですよね」
「大したことはないですよ」
「いえ。子供たちが先生のことを大好きだって、看護師さんから聞いてます」
「子供は正直なだけですよ。さっきの、聞こえてしまってすみません」
「お恥ずかしいところを。私、手際が悪くて、黒川先生にはいつも叱られてばかりで」
白石の頬が少し赤くなっていた。でも、目は落ち込んでいない。むしろまっすぐだった。
「さっきの診察、丁寧でしたね」
「丁寧というか、ただ遅いだけです。でも、おばあちゃんのシクシクが、何のシクシクなのか、私には大事なんです」
「なるほど」
若い頃の自分がふと頭をよぎった。あの頃の俺も、確かそんなことを言っていた気がする。
「あ、すみません。山田先生、お忙しいですよね。お引き止めして」
「いえ、こちらこそ」
白石は丁寧に頭を下げて、次の診察室へ消えていった。不思議な人だなと思った。不器用なのか、信念があるのか、その両方なのか。
その日の夕方、幹部会議が開かれた。病院長の佐藤が立ち、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。
「皆さん、お疲れ様です。今日は皆さんに一つお知らせがあります」
俺は後ろの席でぼんやりと聞いていた。
「来月、病院主催で地域医療フェアを開催することになりました。子供から高齢者まで、地域の皆さんに医療をもっと身近に感じてもらう機会にしたいと思っています」
ざわめきが起きた。イベントと聞いて医師たちの顔が曇る。通常業務に加えての準備となれば、誰だって気が重い。
「院長、その時期はうちの外科も人手が足りないんです。正直、厳しい」
「分かっています。だからこそ、各科から1人ずつ実行委員を出していただきたい。負担は分担で」
黒川の視線がちらりと白石に向いた。白石は少し肩をすくめ、何か言いかけて口を閉じた。
「小児科からは山田先生にお願いしたい」
俺は思わず顔を上げた。
「私ですか?」
「ええ。山田先生のお人柄が、こういう場には一番合うと思っていまして」
断る理由は特に思いつかなかった。
「分かりました。お引き受けします」
佐藤が満足そうに頷いた。
「内科は白石先生にお願いしたい」
「委員長、白石先生は通常業務でも遅れがちで…」
「だからこそです。彼女のような視点が地域には必要だと思いますよ」
白石は驚いた顔で何度も頭を下げた。
「あ、はい。一所懸命やらせていただきます」
会議が終わり、俺は白石に声をかけた。
「白石先生、これからしばらくよろしくお願いします」
「こちらこそ、山田先生とご一緒できるなんて心強いです」
白石は嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、俺はなぜかもう一度若い頃の自分を思い出した。
地域医療フェアの準備室は、元々使われていなかった旧資料室を片付けた狭い部屋だった。俺は午後の診察を終えてから、その部屋に足を運んだ。
ドアを開けると、白石がすでに座っていた。ノートを広げ、何かを書きつけている。顔を上げると、ぱっと笑顔になった。
「山田先生、お疲れ様です。お忙しいところすみません」
「いや、こちらこそ遅くなりました。何から手をつけましょうか?」
「えっと、私なりに案を書いてきたんですけど、見てもらえますか?」
差し出されたノートにはびっしりと文字が並んでいた。子供向けの聴診体験コーナー、地域の保健師との連携、早期発見セミナー。ページの端には来場者の動線まで小さく描かれている。
俺は目を丸めた。
「これ、いつから準備してたんですか?」
「昨日、委員長から話を受けてからです。夜、ちょっと眠れなくて」
「ちょっとですか?」
白石は照れたように笑った。
「正直に言うと、ほとんど寝てません。こういう機会、初めてなので嬉しくて」
嬉しくて、と彼女は言った。俺は自分の手元の資料も思わず隠したくなった。そこには必要最低限の業務スケジュールしか書かれていない。
「白石先生は、こういうイベント好きなんですか?」
「好きというか…憧れていて。私、かねてから海外で医療支援をしたいと思っているんです」
「海外ですか?」
「アフリカでも東南アジアでも、医療が届かない場所に行きたくて。でも、その前に自分の足元の地域すらちゃんと見られないようじゃダメだと思っていて」
白石の目はまっすぐだった。
「立派ですね。俺なんか、ここの病院から出ようと思ったことも、もう何年もない」
「立派じゃないですよ。ただ、置いていきたくないだけです」
「置いていきたくない、というのは?」
「医者になった時の自分の気持ちを、です。あの頃の自分に嘘をつきたくないんです」
短い言葉だった。
「白石先生は、なぜここで働いてるんですか?もっと大きな病院にだって行けたでしょう」
「学生の頃、佐伯先生という指導医がいて、その人に言われたんです。『君は聞くことができる医者になりなさい』って。それで、聞ける場所を選んだら、ここに来ました」
「いい先生に出会ったんですね」
「はい。今でも私の道しるべです」
俺たちはその日、夜の9時近くまで企画を練った。白石は何度も同じ箇所を書き直し、俺はその度に口を挟んだ。
帰り道、駐車場で別れる時、白石は深く頭を下げた。
「先生、今日はありがとうございました。明日もよろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ」
数日後の朝、外科の前を通りかかった時、また聞き覚えのある声がした。
「白石先生、昨日の検査はどうなってる。これでは順番が逆だ。今日中にCTを優先するべきだろう」
「すみません。患者さんがCTの音が怖いとおっしゃって、まず採血からと思って」
「患者の希望をいちいち聞いてたら、こっちの予定が崩れる」
俺は思わず立ち止まった。廊下の角から二人の様子が見えていた。反論したいことがあるのは、後ろから見ても分かった。それでも、白石は頭を下げて立ち去った。
黒川が振り返り、俺の姿を見つけた。
「山田先生、聞かれてたか?」
「ええ、少しだけ」
「あの先生はね、いい人なんだよ。でも、いい人だけじゃ病院は回らない。判断が早いことだけが医療なんでしょうか」
黒川は目を細めた。
「山田先生らしくないな、その言い方は」
「すみません。余計なことを言いました」
「いや、いい。あんたが何か考えてるなら、それでいい。ただ、俺は結果で患者を守る。それだけだ」
黒川は背を向け、外科病棟へ消えていった。
午後、ナースステーションで藤崎が隣に座った。
「先生、白石先生のこと、ちょっと聞いてもいいですか?」
「ああ、どうした?」
「白石先生って、夜遅くまで残ってるの、ご存知ですか?」
「先日、9時頃まで一緒にいましたよ」
「あれ、毎日なんです。私、勤務の入りでよく見るんですけど、患者さんのご家族と待合室で長く話されてること、何度もあって」
俺はキーボードを打つ手を止めた。
「先週も病気のおばあちゃんの娘さんと、2時間くらいお話されてました。誰にも頼まれていないのに」
「それは知らなかったな」
「黒川先生は遅いって言いますけど、白石先生が遅いんじゃなくて、多分向き合っている時間が長いだけなんですよ」
藤崎の言葉が、ゆっくりと胸に落ちてきた。
「藤崎さん、どうして今、その話を俺に?」
「先生、最近変わりましたよね。前よりなんか、目に光がある気がして」
「光ですか?」
「私、嬉しいんです。山田先生がまた医者の顔をしてるみたいで」
俺は何も言えなかった。医者の顔というのが、自分の中でどんな顔だったか、もう随分思い出していなかった。藤崎はそれだけ言うと立ち上がり、持ち場へ戻っていった。
その晩、準備室で白石と二人になった。ホワイトボードにフェアの当日の流れが書き込まれている。
「山田先生、一つ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「先生って、医者の仕事、好きですか?」
不意打ちのような問いだった。
「好きというか…長くやってきたので、もう体に染みついています」
「私、ずっと先生のことすごいなって思ってたんです。穏やかで、患者さんに信頼されてて。でも、最近分かったんです。先生、ちょっと寂しそうな顔をされる時があって」
「そうですか」
「すみません。失礼でした。私、思ったことすぐ口に出してしまって」
俺は小さく首を振った。
「いや、当たってるかもしれない。最近、自分でもそう思うんです。どこかで何かを諦めたんだろうなと」
「諦めたって、何をですか?」
「分からないんですよ。それが、子供の頃に医者になりたいと思った理由も、もう浮かんでしまっていて。でも、消えていないと思います。先生が今ここに座ってる。それが答えじゃないですか」
俺は顔を上げた。白石は微笑んでいた。まっすぐな微笑みだった。
「私も怖いんですよ。実は。海外に行きたいって言いながら、ずっと踏み出せていなくて。怖いんです。自分が役に立てなかったらどうしようって」
「怖いですか?」
「はい。だから、フェアでちゃんとやり遂げたら決めようと思ってるんです。次の場所に行くかどうか」
俺は息を吸った。胸の奥で何かが揺れているのが、はっきり分かった。
「白石先生、俺でよければ、最後まで一緒にやらせてください」
「もちろんです。一緒にやり遂げましょう」
二人で笑った。窓の外で、最後の桜の花びらが夜風に舞っていた。
地域医療フェアの当日は、よく晴れていた。駐車場には白いテントがいくつも並び、受付の机にはパンフレットが積まれている。
朝の7時、俺は会場に着いた。すでに白石がそこにいた。ジャージの上に白衣を羽織り、テントの足を一本ずつ確認している。
「白石先生、何時から来てたんですか?」
「5時半くらいです。ちょっと落ち着かなくて」
「そんなに早くですか?」
白石は照れたように笑った。目の下に薄く隈ができている。それでも、顔は晴れやかだった。
9時の開場と同時に、地域の人々が次々と入ってきた。ベビーカーを押す若い母親、老夫婦、近所の小学生たち。俺は子供向けの聴診体験ブースに立ち、5歳の女の子に自分の心臓の音を聞かせた。
「先生、どくんどくんって言ってる」
「そうだろう。先生もちゃんと生きてるんだよ」
女の子が大きな目で笑った。その笑顔を見ながら、俺はふと最初に見た肺炎の女の子の顔を思い出していた。あの頃の俺も、こんな風に子供の笑顔一つで救われていた気がする。
隣のテントから白石の明るい声が聞こえた。
「おばあちゃん、血圧ばっちりですよ。お薬、ちゃんと飲んでいらっしゃいますね」
「先生、若いのにちゃんと聞いてくれて、嬉しいわ」
「私、聞くしかできないんで」
笑い声が広がった。列に並ぶ人は途切れない。
昼前、黒川が会場に顔を出した。腕を組み、テントを順に見て回り、白石のブースの前で足を止めた。黒川は何も言わず、ただしばらく白石の診察を見つめていた。やがて、ふっと息を吐き、引き返した。その背中が、いつもより少しだけ丸く見えた。
午後1時を過ぎた頃だった。血圧測定の列に並んでいた一人の女性が、突然その場に崩れ落ちた。
「誰か!先生!」
若い女性の声が響き、テントの中の空気が一瞬で張り詰めた。俺はとっさに駆け寄った。女性は顔色が土色で、呼吸が浅い。
「意識レベル低下。呼吸あり。誰かAEDと担架を!」
すぐに藤崎が走った。俺は脈を確認した。弱い。明らかにただの脱水ではない。そこへ白石が飛び込んできた。膝をつき、女性の手を握り、すぐに胸に耳を当てた。
「山田先生、心音もつれています。心タンポナーデの可能性があります」
「タンポナーデ?判断は?」
「すぐに外科に運んで、緊急で処置を。時間がありません」
俺は一瞬迷った。搬送先は院内の救急で、そこからの判断は外科部長の黒川になる。白石は迷わず自分の携帯を握った。
「黒川先生、白石です。地域医療フェアの会場で、心タンポナーデ疑いの患者さんが出ました。すぐに処置をお願いします」
白石は短く「お願いします」とだけ言って切った。
「山田先生、搬送、一緒にお願いします」
「ああ、行きましょう」
担架で女性が運ばれていく。白石は走りながら、付き添いの女性に状況を説明していた。息を切らしながらも、声はまっすぐでぶれていなかった。
救急処置室の前で、黒川が白衣を羽織りながら待っていた。
「白石先生、君の見立てで動く。それでいいな」
「はい。お願いします」
「責任は取る。お前は家族の説明を頼む」
白石は深く頭を下げた。俺は廊下のベンチで、家族に説明する白石の背中を見ていた。女性の娘は何度も頷きながら涙をこぼしていた。白石は彼女の手をそっと握り、ゆっくり、ゆっくり話していた。あの日、車椅子のおばあちゃんにしたのと同じやり方だった。
藤崎がそっと俺の隣に来た。
「先生、白石先生、すごいですね」
「ああ、すごいよ。本当に」
「先生も、すごい顔してますよ」
「俺が?」
「はい。今朝とも昨日とも違う顔」
俺は廊下の窓ガラスに自分の顔を映してみた。そこに、医者の顔をした男が一人立っていた。
2時間後、処置室から黒川が出てきた。
「成功した。あと一歩遅れてたら危なかった」
白石は壁に寄りかかったまま、深く息を吐いた。その目に、涙がうっすら浮かんでいた。
「白石先生」
「はい」
「君の『聞く』という姿勢は、遅いんじゃない。深いんだな」
白石は何度も頭を下げた。
フェアが終わり、片付けが一段落した夕方だった。受付の前に見慣れない50代くらいの男性が立っていた。白石がそれに気づき、息を飲んだ。
「佐伯先生……どうして」
「委員長から招待をもらってね。君の働きぶりを見に来たんだ」
白石の指導医。白石が口にしていた、あの道しるべの人だった。俺は少し離れて、その光景を見ていた。
「立派になったな。さっきの処置の場面を見ていたよ」
「私、まだまだです。今日だって、先生たちに助けられてばかりで」
「白石、お前に一つ話しておきたいことがある」
佐伯は俺の方に体を向けた。俺は思わず姿勢を正した。
「あなたが山田先生ですね」
「はい、山田です」
「私の名前を白石から聞いていますか?」
「ええ、指導医の方だと」
「実はね。私の指導医が、山田先生でした。14年前、研修1年目の頃に」
俺は一瞬、言葉を失った。
「覚えておられないでしょう。たった3ヶ月、私はあなたの下で勉強させてもらった研修医の一人です。あの時、山田先生が言ったんです。『患者の言葉を最後まで聞ける医者になりなさい』って」
「俺が、そんなことを」
「ええ。私はそれを白石にそのまま伝えました。だから、白石は今日ここに立っています」
言葉が出なかった。白石は驚いた顔で、俺と佐伯を交互に見ていた。
「先生、ありがとうございました。あの時の3ヶ月が、私の医者人生を作りました」
「いえ、こちらこそ」
佐伯は深く頭を下げ、白石の肩を軽く叩いて去っていった。その後ろ姿を、白石はずっと見送っていた。
「山田先生、知りませんでした。佐伯先生の先生が、山田先生だったなんて」
「俺も知らなかった。本当に、今初めて」
「私、決めました。来年、海外に行こうと思います」
「そうですか。応援します」
「先生は、どうされますか?」
「俺はここに残ります。次に誰かに渡せる言葉を、もう一度ちゃんと持てるように」
白石は微笑んで、深く頭を下げた。夕暮れの中庭の桜の木は、もう葉桜になっていた。来年も同じ場所で同じように咲くだろう。ただ、その下を歩く俺の足音は、もう昨日までとは違うものになっている気がした。
藤崎が遠くから手を振っていた。



