「夫のふりをしてくれませんか?」
その言葉を聞いた瞬間、手にしていたコーヒーカップを落としそうになった。朝倉ゆい。大手朝倉グループ創業家の令嬢であり、営業部副部長。俺にとってはテレビの中の人物のように遠い存在だ。
その彼女が、俺に向かって「夫のふりをしてほしい」と言ってきたのだ。
冗談かと思った。だが違った。ゆいの瞳には揺るぎない真剣さが宿っていた。とても冗談で浮かべられる目ではなかった。
昼休みのカフェスペースは人で賑わっているはずなのに、俺の周囲だけが音を失っていた。
「待て。なぜ俺なんだ? 夫のふりだなんて依頼を」
「あなたなら信頼できると思ったの。余計な計算をしない誠実な人だから」
その言葉に、胸の奥で何かが静かに揺れた気がした。
俺の名前は村上かや。朝倉グループの経理部で働くごく平凡な社員だ。誇れる学歴もなければ出世欲もない。ただ目の前の仕事を地道にこなし、7歳になる娘のリカを守って生きているだけの男。
けれどこの瞬間から、俺の人生は大きく動き始めた。
朝の光が差し込み始めた頃、廊下を駆ける小さな足音が響いた。
「パパ、今日の給食、みかんゼリーが出る日なんだよ」
寝ぼけていた視界に、満面の笑顔を浮かべたリカが飛び込んできた。俺は思わず目を細め、頬が緩む。
「おはよう。ゼリーの日か。それは気合いを入れていかないとな」
「うん。それでね、今日のリボンもオレンジにしたんだよ」
小さな頭につけられた鮮やかなリボンが朝の光を受けてきらりと揺れる。リカは7歳。もうすぐ小学2年生になる。母親譲りの大きな瞳と、くるんとした髪がよく似合う元気な娘だ。
俺は台所に立ち、味噌汁を温めながら卵を焼く。手慣れているように見えるかもしれないが、実際は毎朝がぶっつけ本番だ。料理なんて、妻の彩佳が亡くなるまでろくにやったことがなかった。
けれどあの日からは、俺がやらなければ誰もやってくれない。ただそれだけで、3年間必死に台所に立ち続けてきた。
「パパ、今日の卵焼きは甘いのがいいな」
「甘めか。よし、じゃあ今日は蜂蜜ちょっぴり作戦で行こうか」
「やった。パパ天才」
その声と笑顔に、どれだけ救われてきただろう。この子がいたから、俺は生きてこられたんだ。
妻の彩佳を失ってから、俺の人生は大きく変わってしまった。彩佳は病を抱えながらも、最後まで弱音を吐かなかった。むしろ心配ばかりしていたのは、俺やリカのことだった気がする。
それなのに俺にできたのは、その手を握ることだけだった。細くなっていく指先を、ただ強く握り返すことしかできなかった。
「あなたならきっと、誰かをまた幸せにできる人だから」
その言葉が今も胸の奥に深く残っている。あの日以来、俺はリカと二人で静かに生きてきた。恋愛なんてもう二度と、自分には関係のないものだと思っていた。
フライパンを手にしていると、背後から元気な声が飛んできた。
「ねえ、ママが夢に出てきて言ってたよ。パパはちゃんと頑張ってるねって。私を笑わせてくれてありがとうって」
その言葉に思わず手が止まった。胸の奥に熱いものが込み上げ、視界が滲みそうになる。
「やめてくれよ。そういうことを言われると、朝から泣きたくなるだろう」
テーブルに朝食を並べながら、俺はそっと彩佳の写真へ視線をやった。そこには病気になる前と変わらない明るい笑顔の彩佳がいた。
「彩佳、俺ちゃんとやれてるか? お前の代わりなんてできないけど。俺なりに頑張ってるつもりだよ」
洗い物を済ませ、ランドセルを手渡す。
「リボンよし、宿題よし、忘れ物なし。あ、でもお守りは?」
「あ、忘れてた」
慌てて筆箱から折り紙で作った小さなお守りを取り出し、リカは嬉しそうに胸ポケットへしまった。
「だって今日はパパも頑張る日でしょ。だからこれ、パパにあげる」
「そうか。ありがとう」
小さな笑顔に見送られながら、この日の俺は人生で一番奇妙で大切な依頼を引き受けることになる。
会社のエントランスでゆいに声をかけられた。
「すみません。少しお時間いいですか?」
そう言ってゆいは俺を近くのカフェへと連れて行った。テーブルに並ぶカップから白い湯気が静かに立ち上る。彼女はナプキンの端を指先でいじりながら、何度も言葉を探しては口を閉じた。
やがて俺を見据え、小さく深呼吸をする。
「今度の週末、創業記念パーティーがあるんです。そこでお願いがあるんです」
「大丈夫です。ゆっくりで」
「ありがとうございます。突然驚かせちゃって」
一度深呼吸をすると、ゆいはまっすぐ俺を見据えた。
「今度の週末、朝倉家の創業記念パーティーがあります。創業家全員が集まる年に一度の行事で、夫婦同伴が慣わしなんです」
そこでゆいは言葉を切り、再び視線を落とす。指先でナプキンをぎゅっと握りしめながら、小さな声で続けた。
「実は去年まで、婚約していた人がいました。でも彼は私の地位や肩書きだけが目的で、裏では別の女性と関係を持っていたんです」
その声には微かな震えが混じっていた。
「結婚式の数ヶ月前に全て知って、婚約を破棄しました。私の人を見る目がなかったせいです。こんなこともあって、家の中では肩身が狭くて。お父様からは、結婚しないなら役員の席を譲れと迫られています。しかも叔父は経営の実権を狙っていて、私をその道具にしようとしているんです」
「この叔父さん、まさか朝倉孝志ですか?」
朝倉孝志。朝倉グループの役員の一人で、権力欲が強く傲慢な人物。社内でも有名な存在で、俺ですら顔を知っている。
ゆいは小さく頷いた。
「はい。彼は経営の実権を握りたがっていて、私を戦略の道具にしようとしています。でも私は、もう誰かに操られていたくないんです」
吐き出された言葉には強さともろさが入り混じっていた。
「創業家の人間として、結婚の予定くらいは進んでいるように見せなければならない立場です。でも相手はいない。周囲はその事実を知っている。だから今回のパーティーでは、交際相手がいて結婚を視野に入れているという形で出席することにしました」
ゆいは再び俺を見つめる。その瞳には切実な光が宿っていた。
「だからお願いです。今回だけ、一晩だけでいい。私の夫として隣に立ってもらえませんか?」
ゆいの言葉は誠実さと震えを帯びていた。テーブルの上で彼女の手が小さく震えているのが、俺の目に移る。
「そんなに苦しいんですか?」
「はい。でも誰にも頼れなくて」
その姿に、俺は彩佳の最後を思い出してしまった。人に弱さを見せず、最後まで非常に振る舞ったあの姿を。本当は誰かに頼りたかったのかもしれない。
しばし沈黙の後、俺は小さく頷いた。
「わかりました。一晩だけでいいなら協力します。ただし条件が一つ」
ゆいがわずかに息を飲む。
「条件?」
「俺の娘には何も知らせたくないんです。リカを混乱させたくないから」
ゆいは驚いたように目をまたたかせ、すぐに静かに頷いた。
「はい、もちろんです。よろしくお願いします。本当にありがとうございます」
その瞳に宿っていた緊張が、ほんの少しだけ解けたように見えた。
数日後、パーティーまで残りわずか3日。指定されたセレクトショップは、俺が普段なら絶対に足を踏み入れないような高級店だった。扉を押し開けると、重厚な木の香りとほのかに漂うレザーの匂いが鼻をかすめる。
「間違いにも程がある。俺みたいな人間が来ていい場所じゃない」
立ちすくんでいると、奥からゆいが現れた。
「村上さん、お待たせしました」
「今はまだ役じゃないから、緊張しないでくれよ」
冗談めかして言うと、ゆいはふっと笑みをこぼした。けれどその笑顔の奥には、張り詰めた緊張が隠れているのが見えた。
「まずは形から整えましょう。今夜中に仕立てれば、パーティーに間に合います」
スタッフが現れ、慣れた手付きでメジャーを体に沿わせていく。選ばれたのは深い紺のスーツだった。袖を通され、ネクタイを締められ、鏡の前に立った瞬間、思わず息を飲む。
「うわ、誰だこれ?」
「本当はこういうのが似合う方なんですね」
「褒めすぎだろ」
口ではそう返しながらも、胸の奥が少しだけ騒めいた。妻をなくしてからずっと、日陰者のままでいようと決めてきた。目立たず、波風立てず、ただ娘を守るためにだけ。
けれど鏡の中の自分は、その決意を裏切るかのように堂々と立っていた。
「大丈夫です。あなたならきっと、誰よりも本物の夫に見えます」
その言葉が胸に静かに残り続けた。
打ち合わせを終えて帰ろうとした時、ラウンジの扉を出る直前にゆいがふと振り返った。
「あの、本当にありがとうございます。村上さんが引き受けてくれて、本当に助かりました」
そこに浮かんでいたのは完璧な笑顔。礼儀正しく、隙がなく、誰が見ても気品に溢れたお嬢様の顔。けれど、その笑顔がどこか苦しそうに見えた。
きっと彼女は本音さえ見せることを許されない世界を歩いてきたのだ。
思わず言葉が口をついた。
「なあ、無理してないか」
ゆいが一瞬目を見開く。
「俺、演技は下手だからな。うまく夫のふりなんてできるかわからない。でも、その笑顔の方がよっぽど演技に見える」
ゆいは数秒黙ったまま俺をじっと見つめ、やがてふっと力を抜いたように微笑んだ。
「驚きました。そんな風に言ってくれる人、今までいなかったから」
その笑顔はさっきまでの仮面とは違う。ほんの少しだけだが、彼女自身の素顔が覗き見えた気がした。
この人、ずっと無理をしてきたんだな。たった一晩の嘘でも、誰かに気づいて欲しかったんだ。
俺は黙って小さく頷いた。その瞬間、演技のはずの関係が静かに動き出した気がした。
そして迎えた当日。指定されたホテルの最上階は、普段の俺には一生縁のない世界だった。足を踏み入れた瞬間、絨毯はシンクに染まり、天井にはいくつもの豪華なシャンデリアが光を放っていた。グラスが触れ合う音、ピアノの生演奏。まるで映画のワンシーンのようだ。
「うわあ、間違いにも程がある」
その時、隣から小さな声がした。
「緊張してますか?」
振り向いた瞬間、思わず息を飲む。そこにいたのは純白のドレスをまとい、髪をアップにまとめ、耳元に真珠のピアスを揺らすゆいだった。その姿はまるで別人のようで、俺は言葉を失った。
「まさかここまで絵になる人だとは思ってませんでした」
ゆいは少し照れたように、くすぐったそうな表情で微笑む。
「今日はあなたの奥さんですから。ちゃんとそれらしく見えますか?」
「ああ、びっくりするくらい」
自然と口から出た言葉に、自分でも驚く。ゆいが差し出した手に、一瞬戸惑いながらも俺はそっと重ねた。
「手、冷えてますよ」
「緊張してるのは私も同じですから」
この笑顔は完璧なお嬢様の仮面ではなく、どこか肩の力が抜けた柔らかさを帯びていた。
できればこの笑顔が演技じゃなければいいのに。そんな考えが頭をよぎり、自分でも驚いた。
案内係が扉を開ける。二人並んで会場へと足を踏み入れると、スポットライトが交差し、背筋を伸ばした紳士淑女たちの視線が一斉に注がれた。
ああ、息が詰まる。背中が焼けるようだ。
そんな俺に、ゆいが小さくささやく。
「どうとでもなります。あなたは私の夫なんですから」
その言葉に俺は深呼吸を一つして、ゆいの隣に立った。その瞬間、偽りの夫として、人生で最も華やかな舞台に足を踏み入れた。
グラスを片手に笑顔を作りながら来賓たちへ挨拶をして回る。ゆいが会話を巧みにリードしてくれるおかげで、俺の出番は最小限に抑えられていた。それでも居心地の悪さは消えない。
そんな時だった。背筋を凍らせるような視線を背後から感じたのは。
「ほう。随分と華やかだな、ゆい。その男が夫か」
その声に、ゆいの表情が一瞬だけ固まった。
「おじ様、ご機嫌いかがですか?」
穏やかな口調の奥に、緊張が滲んでいる。現れたのは叔父の孝志。朝倉家の中でも最も冷徹で、経営の実権を握ろうとしている人物だ。目元には笑みを浮かべていたが、それは決して柔らかさを含んだものではなかった。獲物をじっと観察する虎のような視線だった。
「ふん。なるほど。確か村上かやと言ったな」
「はい。経理部に所属しております」
「ふん。経理部か。随分地味な選択だな」
言葉こそ柔らかいが、露骨に含みを持たせている。横でゆいが微笑みながらも、わずかに広角を引き締めていた。
「私が選んだ方です。信頼できる人ですから」
「信頼か。便利な言葉だな。肩書きも家柄も関係ない。それは理想だが、現実はどうだ? 本当に夫婦らしく見えるかどうか。それが問題だろう」
まるで仮面をはぎ取ろうとするように、鋭い言葉が突き刺さる。
「まあ、いずれ分かることだ、ゆい。前にはもっとふさわしい男がいたはずだがな」
そう吐き捨てると、グラスを傾けながら会場の奥へと歩き去っていった。俺はその後ろ姿を見送りながら、ようやく長く息を吐いた。
「すごい人ですね、あの方」
「ええ、でも今のはまだ穏やかな部類です」
「え、あれで?」
ゆいは小さく首を振る。
「本気で怒っている時は、あの笑みさえ消えます」
この人はこんな環境で育ってきたのか。味方もなく、感情さえ隠して歩いてきたのだろう。そして今、そんな彼女の唯一の味方として俺がここに立っている。
パーティーも終盤に差しかかり、司会者がマイクを手に軽く場を締めにかかったその時。再び孝志の姿が視界に入った。グラスを片手に、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「せっかくだから、ご主人との絆をもう少し見せてもらおうじゃないか」
「え、おじ様、それは」
「親戚としての好奇心だよ。パーティーのおまけだ。みんなも興味があるだろう」
にやりと笑みを浮かべながら放たれた言葉は、刃のように冷たかった。
「例えばそうだな。夫婦の思い出話を一つ、聞かせてもらえるか」
うわ、来た。これは俺たちが本物か偽物かを暴くためだな。逃げられない。
俺はゆいと視線を合わせ、そっと彼女の左手に触れた。その瞬間、彼女の指先がわずかに震え、そしてほんの少しだけ握り返してきた。
「では、僕から」
自然な声色を保ちながら、慎重に言葉を選ぶ。
「初めて一緒に出かけたのは箱根でした。僕の手配ミスで宿は民宿、部屋は狭くて布団はペッタンコ。さらに温泉もぬるくて」
会場から小さな笑いが漏れる。だがその視線の中には、俺を試すように真剣な目を向けてくるものもいた。
「でも彼女は文句一つ言わず笑ってくれたんです。『あなたとならどこでも大冒険になるのよ』って」
ゆいが小さく微笑み続けた。
「その時、あなたスーツケース忘れて、宿のパジャマを借りたんですよね。ブカブカで袖がずるずるしてて、今でも忘れられません」
「あ、あれは忘れて欲しかったな」
二人で顔を見合わせ、自然と笑い合う。すると会場のあちこちから拍手が湧き起こった。
「うん。どうやら私の取り越し苦労だったようだな。すまない。不粋なことをした」
柔らかな笑みを浮かべつつも、その瞳だけは細められていた。なかなかやるな、と言っているかのように。
その瞬間、確かに何かが変わった。演技という仮面をかぶったままなのに、俺の胸にはこの人を守りたいという本当の感情が芽生え始めていた。
パーティーが終わり、用意された高級ホテルの部屋へ戻る。さっきまでの幻想が嘘のように、窓の外には静かな都会の夜景が広がっていた。
「すごいな。これが嘘のために用意された場所か」
身にまとったスーツも、手にするカードキーも、全てが俺には異世界のものに感じられる。けれど隣には、さっきまでと同じようにゆいがいる。
「お疲れ様でした」
「そっちもな。女優賞をあげたいくらいだ」
ゆいは少し笑って首を振る。
「あなたも主演男優賞ですよ」
髪を解き、メイクを落としたゆいの横顔は、年相応の女性に見えた。いや、それ以上に、張り詰めていたものが溶けて、少し疲れが滲んでいた。その時の彼女は令嬢でも副部長でもなかった。ただ一人の女性、朝倉ゆいだった。
ソファーに腰を下ろす彼女を前に、俺はスマホを取り出した。
「あの、ちょっと見てくれませんか? うちの娘なんです。リカって言うんですけど」
画面に映った小さな笑顔に、ゆいの目がふわっと柔らかくなる。
「可愛い。本当に目がお父さんにそっくり」
「そうかな。たまにママみたいだって言うんですよ」
「でも俺には、ママを超えるような相手はもう現れないと思ってた」
俺の言葉に、ゆいは静かに目を伏せた。沈黙の中、彼女の表情がわずかに揺れる。
「妻は病気で。リカが3歳の時だった」
言葉にすると、何度でも痛みが蘇る。けれど今、その話をちゃんと聞いてくれる人が目の前にいる。
「妻の彩佳は、迷惑をかけたくないって病気のことも黙ってて。気づいた時にはもう手遅れで。俺には何もできなかった」
しばしの沈黙の後、ゆいがぽつりと呟いた。
「自分を責めているんですね。ずっと、俺のせいだと」
ゆいがそっと視線を落とし、俺の手元へ目を向ける。
「でもリカちゃんは、そんな風に思ってませんよ。あなたにいっぱい愛されてるって、きっと分かってる」
その言葉に胸が熱くなった。何年も、誰からもそんな風に言われた記憶がなかったから。
ゆいはカップを両手で包みながら、小さな声で続けた。
「ねえ、村上さん。あなたって、誰かを大切に思うのがすごく上手なんですね。だから、ちょっとだけ羨ましい」
その声は小さくても、確かに震えていた。完璧なお嬢様の仮面を脱ぎ捨てた彼女の姿が、そこにあった。
ゆいは俯いたまま、カップの縁を指でなぞっていた。沈黙が重くのしかかり、空気が違う色を帯び始める。やがて小さな声がこぼれた。
「本当はね、誰かに『無理しなくていい』って言ってもらいたい時もあるんです。でも、そんなの甘えだって思われるから」
その声は微かに震えていた。
「数字だけが私の評価でした。泣くことも、弱さを見せることも許されなくて。ずっと笑っていなきゃいけないって」
膝の上で重ねられた指先が、小刻みに震えているのが見えた。彼女はずっと自分を保ち続けてきたのだ。頼ることも許されず、孤独の中で立ち続けてきた。
その肩が微かに揺れた時、俺の胸が締めつけられる。
「もう、無理に笑わなくてもいいよ」
ふと口にした言葉に、ゆいの指先がぴたりと止まった。やがて顔を上げた彼女の瞳には、光るものが滲んでいた。
「あ、ごめんなさい。なんだか急に涙が出てきちゃって」
普段のゆいからは想像もできないほど、その声はか細く揺れていた。
「辛かったんだな、ずっと」
彼女は誰にも言えないまま、笑顔の仮面を被り続けてきたのだ。俺はそっと息をつく。
「俺もさ、ずっと泣いちゃいけないって思い込んでた。誰かの前で弱さを見せるなんてダメだって。でも今日、君を見て思ったんだ。泣いてもいいんだって。誰かの前で」
ゆいが目を見開く。濡れた瞳がまっすぐに俺を見つめてきた。
「村上さん、あなたの言葉、ずるいです。演技だって聞き流せない」
「演技じゃない。俺は今、君の涙を見て本気で守りたいって思ってる」
その瞬間、ゆいの表情が大きく崩れた。そして、絞り出すような声で呟く。
「演技のはずなのに。なのに。私、あなたのこと少しずつ好きになってる」
彼女の両手が、俺の手をぎゅっと握りしめる。さっきまでパーティーで見せていた令嬢の仮面は、もうどこにもなかった。
パーティーから数日後、指定された会議室に足を踏み入れた瞬間、空気が一変した。背後でドアが閉まると、そこは静かな緊張に包まれていた。テーブルの正面に並ぶのは取締役たち。その中央には、ゆいの叔父、朝倉孝志がいた。
ゆいは背筋を伸ばし、俺の腕を強く握った。
「もう座れ。形式ばった話をするつもりはない。ただ、確認しておきたいことがあってな」
穏やかな口調に反して、その目は鋭く光っている。テーブルに並べられたクリアファイルの中には、俺の経歴、家族構成、住民票、そして戸籍謄本。
「村上かや君。経理部所属であることは確認した。だが戸籍には配偶者なしとある。それどころか、3年前には死亡届けも出ている。どういうことか、説明してもらおう」
言葉一つ一つが鋭く突き刺さる。ゆいが口を開こうとした瞬間、俺は一歩前に出て彼女をかばった。
「その通りです。3年前に妻を病で亡くしました。そしてゆいさんとは、偽りの関係ではありません。今回の同伴は彼女の頼みに応じたものです」
会議室の空気が一層張り詰める。
「おじ様、これは私がお願いしたことです。村上さんに罪はありません」
「罪ではない。問題は創業家の信用だ。あの場で君たちを本物の夫婦と信じた人間が、何人いたと思ってるんだ」
追求は止まらない。それでも俺は静かに言葉を返した。
「確かに俺は夫のふりをしました。でも、あの場で交わした言葉も、彼女の手を取った思いも、全部が嘘だったわけじゃない」
孝志の視線が俺を射抜く。
「最初は頼まれたから引き受けただけです。でも彼女の涙を見て、笑顔に触れて気づいたんです。俺はもう一度、誰かを守りたいと思っている。彼女の隣に立ちたいと」
一瞬、空気が動いた。ゆいが俺の隣で深く息を吸い込み、静かに言葉を重ねる。
「私は家の中で自分の意思を持つことを許されず、ずっと器のように扱われてきました。でも村上さん、いえ、かやさんは違いました。ちゃんと私を人として見てくれた。だから私が彼を選んだんです」
ゆいの瞳にはもう迷いはなかった。
「妻をなくしてから、誰かを愛するなんてもう無理だと思っていました。でもゆいさんと出会って、もう一度大切にしたいと思えた。リカと一緒に、彼女の隣に立ちたいと」
ゆいがそっと俺の手を握る。その指は震えていたが、その力は確かなものだった。
「だからもう、ふりじゃありません。本当の意味で、この人と向き合いたいと思っています」
会議室に重たい沈黙が流れる。やがて孝志が深く息を吐き、目を閉じた。
「そうか。君たちなりの誠意は分かった。だが選択には責任が伴う。ゆい、お前はその覚悟があるのか?」
「はい。私の責任です。だからもう逃げません」
その言葉を聞いた瞬間、確かに嘘の関係は終わった。俺たちはようやく、本当の意味で前に進み始めたのだ。
週末。俺とリカは小さな花束を手に、静かな墓地を訪れていた。空は澄み渡る青さで、柔らかな風が頬を撫でていく。墓の前に立つと、リカは慣れた様子で花を添え、小さな手を合わせた。
「ママ、今日もパパ頑張ってるよ。私もいっぱい勉強してるよ」
その声に胸が熱くなる。俺も膝をつき、静かに手を合わせた。
「なあ、彩佳。最近になってようやく、ちゃんと話せた気がするよ」
目を閉じると、あの日の笑顔が浮かぶ。強く優しく、最後まで俺の背中を押し続けてくれた人。
「ずっと、もう誰かの隣に立つ資格なんてないって思ってた。リカを育てるだけで精一杯で。誰かを好きになるなんて、裏切りだって」
風がふわりと吹き抜け、木々を揺らす。まるで彩佳が黙って聞いてくれているように感じられた。
「でもゆいさんに出会って変わった。あの人は強がりで、でも本当はすごく弱くて。守りたいって思ったんだ。リカのことも、彼女のことも。両方、俺が守りたい」
その時、隣で手を合わせていたリカが、俺の袖を小さく引っ張った。
「パパ、ママ嬉しそうに見えるよ」
思わず顔を上げると、日の光が墓前の花に差し込み、キラキラと輝いていた。まるで彩佳が微笑んでいるように。
「ありがとう、彩佳。俺、もう一度歩き出すよ」
帰り道。リカは俺の手をぎゅっと握りながら、夜空を見上げていた。
「どうした? 何か言いたそうだな」
リカは少し顔を上げ、まっすぐに俺を見つめた。
「ねえ、パパ。ゆいさんってさ、パパのことを大事に思ってるよ。なんかわかる」
「どうしてそう思う?」
「だって、パパゆいさんといる時、すっごくパパらしいんだもん。私それ見るの結構好き」
その言葉に思わず胸が熱くなる。娘にそんな風に見られていたなんて、少し照れくさいが、どこか温かかった。
「ありがとう、リカ」
リカは照れ臭そうに口を尖らせ、それでも小さな声で続けた。
「ねえ、パパ。ゆいさん、ママになってくれるの?」
その言葉は優しくてまっすぐで、俺の心の奥にストンと落ちた。
「そうだな。まだこれからだけど、きっとママになってくれるよ。ゆっくりだけど、そうなれるように一緒に歩いて行こうって話してる」
「うん。私それがいい」
小さな手が、ぎゅっと強く握り返してきた。
彩佳、見てるか? リカはもうしっかり前を向いてる。俺よりずっと強く。だったら俺も、もう過去に縛られるのはやめよう。そして、また誰かの隣に立とう。
季節は少しずつ春へ向かい、風の冷たさも和らぎ始めていた。俺とゆいは、かつて夫婦のふりを演じたあのホテルのラウンジを再び訪れていた。今日はもう演技でも取り繕いでもない。ただ自然な関係として、二人並んで腰を下ろしている。
「覚えてますか? ここで、夫婦らしく振る舞ったことを」
「忘れるわけないよ。緊張で背中が汗びっしょりだった」
苦笑すると、ゆいも小さく笑みをこぼす。その笑顔はあの日の仮面のようなものではなく、素直で柔らかいものだった。
ゆいの視線が、俺の左手に向けられる。そこにはあの日のペアリングではなく、ゆいと一緒に選んだ新しい指輪が光っていた。
「ねえ。今度はふりじゃなくて、私を」
その言葉を最後まで言わせる前に、俺はそっと彼女の手を取った。そしてまっすぐに見つめながら、言葉を重ねる。
「もう答えは決まってる。俺は、ゆいさん。いや、ゆい。君と本当の家族になりたい」
ゆいの目に、潤んだ光が差し込む。
「ありがとう。あなたとなら、誰かのふりじゃなくて、自分のままでいられる気がする」
過去を忘れることはできない。彩佳と過ごした日々も、リカと二人で乗り越えてきた時間も、全部が俺の人生の一部だ。でもこれからの未来には、ゆいと歩いていく覚悟がある。
数日後、小さなダイニングのテーブルを温かな料理の香りが包んでいた。ゆいはエプロン姿でキッチンから料理を運んでくる。その手にはリカの大好物、チーズを乗せたハンバーグ。
「ちょっと焦げてないかな? リカちゃん、味はどう?」
リカはスプーンを手に、目を輝かせながら一口。
「うん。美味しい。ママの味って感じ」
その言葉に、ゆいの手がぴたりと止まった。驚いて目を見開き、そして少し照れ臭そうに笑う。
「え、今、ママって呼んでくれたの?」
「うん。だってママでしょ」
ゆいの目に涙がじわりとにじむ。俺は何も言わず、そっと彼女の背中に手を添えた。
あの日、ふりから始まった関係は、今こうして現実になっている。愛した人を失う痛みが再び訪れるのが怖かった。誰かを信じることが怖かった。それでも俺は、もう一度家族を作ることを選んだ。
夕食の後、リカが絵本を抱えてゆいの元へ駆け寄る。
「ねえ、ママ、これ読んで」
ゆいは少し照れながらも優しく微笑み、リカの隣に座って本を読み始めた。その声は柔らかく、どこか母のぬくもりに似ていた。
ソファーに腰を下ろし、その光景を眺めていると、ふと彩佳の言葉が蘇る。
「あなたはきっと、誰かをまた守れる人だから」
ありがとう、彩佳。俺はちゃんともう一度、愛する人を見つけたよ。リカと一緒に歩いていける人を。
ふりから始まった物語は、今、新しい家族の形として確かに紡いでいる。これから先のページには、きっとたくさんの本物の思い出が書き加えられていくのだろう。



