「申し訳ないですけど、お母さんは他人ですから。」
この冷たい言葉が、えり子の心に深く突き刺さった。目の前には湯気の立つカップ麺。その隣では、息子夫婦と孫が豪華な手作り料理を囲んで楽しそうに笑っている。今日は愛する孫・陸君の3歳の誕生日。朝6時に起きて3時間かけて地方から都心のマンションまでやってきたのに、なぜ自分だけがカップ麺なのか。震える手で蓋を開けながら、えり子の胸には悲しみと怒りが渦巻いていた。
夫が亡くなってから15年。一人で息子の巧を支えてきた。息子の結婚の際には、祝いとして1000万円を渡した。それは亡き夫が残してくれた大切な遺産の一部だったが、息子の幸せのためなら惜しくなかった。この事実は巧夫婦には内緒にしていた。地方都市で一人暮らしをするえり子にとって、月一回の面会が何よりの生きがいだった。「おばあちゃん」と呼んでくれる孫の声、無邪気な笑顔、一緒に過ごす温かい時間。それらすべてがえり子の宝物だった。
マンションに到着したのは午前11時頃。インターホンを押すと、リナの声は明らかに素っ気なかった。玄関で迎え入れられても、歓迎の色は微塵も感じられない。いつもなら「遠いところありがとうございます」と言ってくれるのに、今日は一切ない。えり子は違和感を覚えながらも、特別な日だからと自分に言い聞かせた。
「リク君は別の部屋で遊んでいます。今は遊びに集中している時間なんです。」
リナの答えは事務的で冷たかった。少しだけでも顔を見せてもらえないかと頼むと、「時間は短めでお願いします」と迷惑そうな表情を浮かべた。やがて陸君が部屋から出てきた。3歳になったばかりの小さな体で「おばあちゃん」と駆け寄ってくる。えり子が抱き上げようとした瞬間、リナが慌てて止めた。
「すみません、あまりベタベタ触らないでください。風邪でも移したら困りますので。」
朝からしっかり手を清潔にしていたのに、まるで病原菌のように扱われた。仕方なく少し離れた場所から孫と話すことになった。わずか15分ほどの面会時間だったが、リナは何度も時計を確認し、早く終わらせたがっているのが明らかだった。
その後の光景にえり子は言葉を失った。テーブルには手作りのローストビーフ、彩りの良いサラダ、陸君の好きな唐揚げ、美しくデコレーションされた誕生日ケーキが並べられた。一方、えり子の前に置かれたのは一個のカップ麺。
「申し訳ないですけど、お母さんは他人ですから。家族の食事と他人の食事は分けて考えています。」
リナは何の悪気もないような表情で言い切った。豪華な料理とカップ麺の残酷な対比。えり子は言葉を失った。そして追い打ちをかけるようにリナは続けた。
「陸の写真撮影は遠慮してください。家族だけの記念日ですから。」
何か言おうとすると、今度は巧が口を開いた。
「母さん、空気読んでよ。せっかく家族水入らずで祝えると思ったのに。」
自分の育ててくれた母親に向かって「空気を読め」とは。えり子の心は深く傷ついた。静かにカップ麺を啜りながら、えり子は言葉を失っていた。
食事が終わると、リナは露骨に時計を確認した。帰って欲しいという意味だった。えり子は仕方なく立ち上がり、帰り支度を始めた。3時間かけてきたのに、滞在時間はわずか1時間。これが孫の誕生日の現実だった。
玄関で靴を履いていると、巧がやってきた。リナがいないのを確認すると、小声で本音を漏らした。
「正直、来てもらっても迷惑なんだ。」
えり子は耳を疑った。自分の実の母親が孫の誕生日を祝いに来ることが迷惑だというのか。
「どういう意味かしら?」
「嫁の親とは違って、母さんは本当の家族じゃないって認識だから。」
えり子の血の気が引いた。「本当の家族じゃない」。自分を生み育て、15年間支え続けてきた息子の口から出た言葉とは思えなかった。その時、リナが玄関に現れた。
「お母さん、もう来るのは控えてもらえませんか? 他人に家族の時間を邪魔されたくないんです。」
「今後の連絡も最小限にしてください。陸の成長に関わって欲しくありません。」
リナの容赦ない言葉に、巧も同意するように頷いた。「じゃ、そういうことで」と冷たく言い放ち、玄関のドアが静かに閉まった。
えり子は一人取り残され、呆然と立ち尽くした。15年間尽くしてきたのは何だったのか。1000万円の援助も、月一回の長距離移動も、すべてが無意味だったのだろうか。エレベーターに乗りながら、えり子の心には静かな怒りが湧き上がってきた。彼らはまだ知らない。えり子が抱える大きな秘密を。「他人として扱われるなら、他人として対応させていただきましょう。」えり子の心に静かな決意が芽生えていた。
自宅に着くと、えり子は仏壇の前に座り、亡き夫の写真に話しかけた。「お父さん、今日は本当にひどい目に遭いました。でも、もう我慢はしません。」奥の部屋から厳重に保管していた書類を取り出した。遺言書、そして不動産の権利書。その中に、巧夫婦が住んでいるマンションの登記があった。所有者の欄には、はっきりと「大谷えり子」の名前が記されていた。
実はあのマンションは、亡き夫が巧の将来を思って購入し、えり子が相続したものだった。巧夫婦は「家族だから」という理由で、月額5万円という破格の家賃で住んでいたのだ。えり子は不動産会社のパンフレットを取り出し、同じエリアの賃料相場を確認した。3LDK、駅徒歩5分、市場価格は月額22万円が相場だった。
「私はもう他人なのだから、きちんと清算しなくちゃね。」
翌朝一番に、えり子は信頼できる不動産会社に電話をかけた。状況を説明すると、担当者は驚いた。「月額5万円ですか? それは確かに市場価格とはかけ離れていますね。正規の家賃なら22万円は妥当な金額です。」えり子は「家族だから安くしていたのですが、もう他人だと言われてしまいまして」と説明した。担当者は「それでしたら、正規の賃貸契約に変更するのが適切でしょう。法的にも何の問題もありません」と答えた。
次に、えり子は弁護士事務所に向かった。亡き夫が生前お世話になっていた山田弁護士は、えり子の話を真剣に聞いてくれた。「なるほど。家族として優遇していた賃料を市場価格に変更したいということですね。法的には全く問題ありません。ただし、適切な手続きを踏む必要があります。内容証明郵便で正式に通知し、契約変更の意思を明確に示しましょう。」山田弁護士は賃料改定の法的手続きについて詳しく説明してくれた。
「家族関係の変化により、今後は一般的な賃貸契約として対応させていただきます、という文言を入れましょう。」
「ええ、他人だと言われましたので、それなりの対応をさせていただきます。」
書類が完成すると、えり子は深く息を吐いた。これで準備は整った。15年間の献身と1000万円の援助、そしてあの日の屈辱。すべての報いを受けてもらう時が来たのだ。
内容証明郵便がマンションに配達されたのは、3日後の午前中だった。封筒を受け取った巧は首をかしげた。「山田法律事務所? なんだろうこれ。」封筒を開けた巧の顔が、みるみる青ざめていった。「賃貸借契約変更通知書? 何これ?」書類には正式な法律用語で賃料改定の通知が記されていた。現行の月額5万円から市場価格である月額22万円への変更。理由として「家族関係の変化により、今後は一般的な賃貸契約として対応」と明記されていた。
「22万円? 嘘でしょう!」リナが書類を奪い取るように読み返した。「所有者、大谷えり子…… 母さんが大家だったの?」巧は言葉を失った。母親がマンションの所有者だったという事実に完全に動揺していた。
慌てた巧はすぐにえり子に電話をかけた。電話は3回目のコールで繋がった。
「母さん、これは何の冗談だよ。」
「冗談ではありません。正式な手続きです。」
「急に22万円なんて払えるわけないだろう! 母さんが大家だったなんて聞いてないよ!」
「元々、私が所有しているマンションだったでしょう。家賃が安すぎるとは思わなかったのかしら。」
「それは母さんがこのマンションの持ち主と知り合いとかだと思ってて……」
「他人に家族価格は適用できません。当然でしょう。」
えり子の冷静な声に、巧は困惑した。これは本当にあの優しかった母親の声なのだろうか。
「母さん、何を言ってるんだよ。俺たち家族じゃないか?」
「あら、この前『本当の家族じゃない』とおっしゃったのは、あなたたちですよね。」
巧は息を飲んだ。あの時の自分の言葉が、そのまま返ってきたのだ。
「彼らはその時の気分で家族関係を決めるのですか? それなら私も気分で賃料を決めさせていただきます。」
電話の向こうで、リナが慌てた声で「何て言ってるの?」と尋ねている。巧は受話器をリナに渡した。
「お母さん、この通知は何ですか? 聞いてません!」
「リナさん、『他人』とおっしゃったのはあなたですよね。他人には他人の対応をします。これがあるべき形なんですよね。」
えり子の声は驚くほど冷静だった。リナは喰い下がった。
「でも、急に22万円なんて無理です!」
「それは、他人である私には関係ありません。支払いができないのでしたら、退去していただくしかないですね。」
「ひどい…… そんな、家族に戻ってください。お願いします。これまでのことは謝りますから。」
「もう遅いです。あなたたちが決めたことですから。」
巧が再び電話を変わった。
「母さん、頼むよ。俺たちが悪かった。許してくれよ。」
「家族だったら許したかもしれませんね。でも、私たちは他人ですから。」
えり子はリナが使った言葉を、そのまま返した。
「俺たちは家族だよ! 母さんの息子だろ!」
「『嫁の親とは違って、母さんは本当の家族じゃない』とおっしゃったのを忘れたのですか?」
巧は自分の発言を正確に覚えられ返されていることに愕然とした。
「それは、その時は動揺していて……」
「動揺していたから、母親を否定したのですか? それなら私も動揺しているので、賃料を改定させていただきます。」
えり子の論理的な反論に、巧は言葉を失った。リナが再び電話を奪い取った。
「お母さん、私たちに22万円も払える余裕はありません!」
「それは他人である私の知ったことではありません。払えないなら、出て行ってください。」
「そんな無茶な!」
「無茶ですか? 『他人に家族の時間を邪魔されたくない』とおっしゃったのはリナさんですよね。でしたら、他人の私から家族の住居を借りるのもおかしいのではないですか。」
リナは自分の発言がそのまま返されていることに気づき、言葉に詰まった。
「お母さん、お願いです。陸のことを考えてください!」
「陸君の成長に関わって欲しくないとおっしゃったのは、リナさんですよね。関わらない方が良いなら、住居のことも関わらない方が良いでしょう。」
えり子の完璧な論理に、二人は反論できなかった。巧が最後のお願いをした。
「母さん、俺たちが間違ってた。もう一度、家族としてやり直そう。」
「やり直し? 『今後の連絡も最小限にしてください』とおっしゃったのに、やり直すのですか? 私はあなたたちの言葉通りに行動しているだけです。他人として距離を保ち、きちんと対応しています。」
巧とリナの慌てふためく声が電話の向こうから聞こえてきた。えり子は静かに続けた。
「支払い能力がないのでしたら、来月から22万円をお支払いください。無理でしたら、3ヶ月以内に退去してください。」
「3ヶ月って…… そんな短期間で引っ越し先なんて見つからないよ!」
「それは他人である私には関係のないことです。契約は契約ですから。」
「お母さん、本当にそんなひどいことをするんですか?」
「ひどい? カップ麺を出されて『他人だから』と言われた時の私の気持ちは、考えてくださらなかったのに。今更『ひどい』とおっしゃるのですか? これが『他人として扱う』ということです。勉強になりましたか?」
えり子の最後の言葉を残して、電話は静かに切れた。
巧夫婦は呆然と受話器を見つめていた。月額22万円の家賃は、彼らの収入では到底支払えない金額だった。引っ越しを探すにも、資金繰りを考えると100万円近い費用が必要になる。
「どうしよう…… 本当にどうしよう。」
リナが震え声でつぶやいた。巧も信じられない様子だった。彼らは知らなかった。15年間差し伸べ続けた母親の愛情を一瞬で踏みにじった報いが、こんなにも重いものだということ。
賃料改定通知から1ヶ月が経過した。巧夫婦からの支払いは一切なかった。代わりに毎日のように謝罪の電話がかかってきたが、えり子は一切取り合わなかった。「もう他人ですから。」えり子の冷静な対応は一貫していた。
正規の家賃収入が入るようになったえり子の生活は、経済的に大きく改善された。月額22万円の収入は、地方で一人暮らしをするえり子にとって十分すぎるほどの余裕をもたらした。「私は本当に自由で幸せです。」誰に遠慮することもなく自分のペースで過ごせる日々。これほど解放感を味わったのは久しぶりだった。
一方、巧夫婦の状況は悲惨だった。22万円の家賃を支払う能力がない二人は、結局退去を余儀なくされた。しかし引っ越し先を見つけることも困難で、リナの実家に身を寄せることになった。3歳の陸君も住み慣れたマンションから突然引っ越すことになり、環境の変化についていけずにいた。リナの両親も、突然娘家族が転がり込んできて困惑していた。「あの時、お母さんにもっと優しくしていれば。」リナは後悔の念に駆られていた。カップ麺を出した時のえり子の表情、「他人ですから」と言い放った自分の言葉。すべてが脳裏に蘇ってくる。巧も同様だった。母親を「本当の家族じゃない」と言った自分の発言が、今になって重くのしかかっている。
そんなある日、えり子の元に一通の手紙が届いた。差出人は「リク君」だった。まだ字は書けないが、リナが代筆したようだ。「おばあちゃんへ また一緒に遊びたいです。陸より」手紙には陸君の似顔絵も添えられていた。しかし、えり子の心はすでに決まっていた。「孫に会えなくても構いません。他人ですから。」えり子は手紙を静かに引き出しにしまった。孫への愛情は確かにあったが、息子夫婦の行為は許せるものではなかった。
えり子の新しい生活は想像以上に充実していた。近所の友人たちとの交流も増え、趣味の演芸にも時間をかけられるようになった。経済的な余裕ができたことで、長年行きたかった温泉旅行にも出かけるようになった。「因果応報とはまさにこのことね。」えり子は庭で育てているバラを見つめながらつぶやいた。
数ヶ月後、山田弁護士から連絡があった。
「大谷さん、息子さん夫婦から調停の申し立てがあったようです。」
「調停ですか?」
「家賃減額を求めるものです。しかし、法的根拠は全くありません。市場価格での契約は完全に適正ですから。」
「それでは、調停でもお話しさせていただきましょう。他人同士として、適正に。」
巧は最後の手段として法的手続きに訴えたが、結果は明らかだった。所有者が市場価格で賃料を設定することに、何の問題もない。調停の場で巧は訴えた。
「母さん、俺が悪かった。もう一度、家族として……」
しかし、えり子の答えは冷静だった。
「家族関係の修復と契約関係は別問題です。『他人として距離を保つ』とおっしゃったのですから、契約も他人同士として適正に行います。」
調停委員も、えり子の主張が完全に正当であることを認めた。「これで少しは分かったでしょう。」
えり子の勝利は完全だった。夫婦に屈することなく正当な権利を行使した結果が、この圧倒的な逆転劇だった。えり子の人生は71歳にして、新たな輝きを見せていた。誰にも軽視されず、正当に扱われる生活。これが本当の自由というものだった。



