あの瞬間、七十二歳の祖母は、私の顔を見た瞬間、凍りついたように硬くなった。「申し訳ありませんが、別の先生にお願いできませんか?二十年前、院長先生の判断で、私は家族を失いました。」処置を待つ幼い命の前で、私は父の影として拒絶された。病院を継ぐと決まっている男として、初めて自分の名前では信用されない現実を突きつけられた。彼女の孫を救うために、私は処置を続けたが、胸の奥では父の手帳の一節が疼いてい…

あの瞬間、七十二歳の祖母は、私の顔を見た瞬間、凍りついたように硬くなった。「申し訳ありませんが、別の先生にお願いできませんか?二十年前、院長先生の判断で、私は家族を失いました。」処置を待つ幼い命の前で、私は父の影として拒絶された。病院を継ぐと決まっている男として、初めて自分の名前では信用されない現実を突きつけられた。彼女の孫を救うために、私は処置を続けたが、胸の奥では父の手帳の一節が疼いてい...

理事會の窓から午後の光が斜めに差し込んでいる。俺は副院長として救急体制の見直しについて口を開いていた。

「現在の編成では、複数の患者が同時に搬送された際の対応が後手に回る恐れがあります。人員を増やし、体制を組み直すべきです。」

理事たちは静かに頷いた。頷いたが、それだけだった。

俺の名前は大森悟。三十八歳。大森総合病院の副院長だ。祖父が創設し、父が育てたこの病院で、俺は次の院長になることが決まっている。もう、ほとんど決まっている。

函谷が手元の資料を閉じながら、ゆっくりと口を開いた。

「副院長のご提案は、理屈としては結構です。ただ、人員を増やせば解決するという話ではないでしょう。現場の人間のバランス、長年積み上げてきた連携。そういうものを崩しかねない。」

そう言って函谷は父の方を見た。理事たちの視線も、自然に父へと流れていく。父は資料に目を落としたまま、低い声で言った。

「救急体制の強化そのものは必要だ。ただし、増員より先に配置の見直しから入る。それが順序だろう。」

一言、それだけ。それだけで議論は収束した。俺の提案は父の言葉の中に吸い込まれて消えた。俺は黙って資料の角を折った。

会議が終わり、理事たちが立ち上がる。俺が資料をまとめていると、函谷が横に立った。

「悟先生、先ほどの提案、悪くはなかった。悪くはなかったですが、院長と同じ目線で物事を見るには、まだ時間が必要だ。私はそう思いますよ。」

穏やかな言い方だったが、言葉の端々に棘があった。俺は資料を抱え直して、軽く頭を下げた。

「ご指摘、ありがとうございます。ただ、現場が回らなくなってからでは遅いとも思っています。」

函谷は薄く笑って、部屋を出ていった。俺は、誰もいなくなった理事会室で、しばらく立ち尽くしていた。窓の外で救急車のサイレンが、遠く近く聞こえている。後継という言葉だけが先に歩いていく。俺自身が置いていかれているような気がした。

夕方のナースステーションは、いつも独特の空気が流れている。俺はカルテを返しに来たついでに、入院患者の様子を看護師長の東野に確認した。東野はパソコンの画面から目を離さずに答えた。

「七〇三号室の高橋さん、今夜も声かけを多めにします。あと、午後に運ばれてきた患者さんのご家族から、説明をもう一度してほしいと連絡が入っています。」

「説明は、午前中に主治医が一度しているはずだが。」

「ええ、しています。でも、ご家族にはちゃんと届いていないんです。」

東野は、そこで初めて顔を上げた。四十五歳、現場一筋。その目はいつもまっすぐに人を見る。

「副院長、一つだけ言わせてください。立場では患者は救えません。病院を継ぐとか、後を継がせるとか、そういう話の前に、目の前の人にどう向き合うか。それを見せていただかないと、現場はついていけません。」

俺は何も言えなかった。言い返す言葉が出てこなかったわけではない。ただ、口にすれば全部言い訳になる気がした。

「すみません。出過ぎたことを。」

「いや、肝に銘じる。」

東野は短く頭を下げて、また電話を取った。俺はステーションを離れ、廊下を歩いた。

その夜、俺は父の書斎に呼ばれていた。来週の理事会の議題について、二人で詰めておきたいと言われていたからだ。父はまだ戻っていなかった。机の上は、いつものように整然としていた。書棚の前に立ち、何気なく医学書の背表紙を眺めていると、書棚の奥に古い手帳が一冊、本の間に挟まれているのが見えた。黒い皮の表紙が、すっかり色あせている。

抜き出すつもりはなかった。ただ、本を取ろうとした時、手帳がパサリと床に落ちた。拾い上げると、表紙に小さく「H」と書かれている。父のイニシャルだ。落ちた拍子に開いたページに、走り書きの文字が見えた。

「私の判断は、本当に正しかったのか。」

震えるほど強く沈んだ筆跡だった。日付は二十年前の夏。俺がまだ医学生だった頃。俺はそのページを、しばらく見つめていた。父の字を、こんな風に見たのは初めてだった。診察室で書く父の字は、いつももっと冷静で、迷いがない。

廊下に足音が聞こえた。俺は手帳を元の場所に戻し、書棚から離れた。扉が開き、父が入ってくる。

「待たせたな。」

「いや、今来たところだ。」

父は何も気づかず、いつもの椅子に腰を下ろした。俺は向かいに座りながら、まだ胸の中に、あの一節が残っていた。

翌日の午後だった。救急の受け入れ要請が入った。十二歳の男の子、加木悠人。持病があり、今朝から呼吸状態が急激に悪化したという。俺は当直ではなかったが、状況を聞いてすぐ、救急外来に降りた。

ストレッチャーが運び込まれてくる。小柄な少年が、酸素マスクの下で必死に息をしていた。俺は手早くバイタルを取り、検査と処置の指示を出した。頭の中で治療方針を組み立てる。緊急対応が必要だが、対応できる範囲の状態だ。

少年の後ろから、白髪の女性が小走りで入ってきた。息を切らして、ストレッチャーの脇に立つ。祖母だと名乗った。加木みさ子、七十二歳。俺はみさ子の方を向いて、できるだけ落ち着いた声で言った。

「お孫さんの主治医は、私、副院長の大森悟が務めます。今から検査と処置を進めますので、外でお待ちいただけますか?」

その瞬間、みさ子の顔色が変わった。驚きでも、安心でもなかった。怒りに近い、硬い表情だった。

「大森先生、あなたは、院長先生のご子息ですか?」

「はい、父が現院長です。」

みさ子は一歩後ろに下がった。俺をまっすぐ見て、声を絞り出すように言った。

「申し訳ありませんが、別の先生にお願いできませんか?二十年前、院長先生の判断で、私は家族を失いました。あの病院の、あの家の人に、この子を任せることはできません。」

救急外来の喧騒が、一瞬遠のいた気がした。看護師たちが、手を止めかける。

「お気持ちは伺いました。ただ、今この時間、お孫さんの状態は待てません。担当の交代は、処置の後で必ずご相談します。それまでは、私に見させてください。」

みさ子は何か言いかけて、口を噤んだ。酸素マスクの下で、悠人が小さく祖母を呼んだ。

俺は処置室に向き直り、指示を続けた。手は動いていた。頭も働いていた。だが胸の奥では、昨夜見た手帳の一節が、まだ静かに疼いていた。

「私の判断は、本当に正しかったのか。」

悠人の処置は、ひとまず山を越えた。集中治療室に移すまでの段取りを看護師に伝え、俺は処置室を出た。廊下の長椅子に、みさ子の姿はもうなかった。受付に聞くと、付き添いの親族が来たので、一度自宅に着替えを取りに戻ったという。

俺は深く息を吐き、医局へ向かった。医局のドアを開けると、函谷周一が机に向かっていた。分厚いカルテを広げ、老眼鏡をずらして、俺を見上げる。

「悠人君の容態、聞きました。ひとまず安定したそうで。」

「ええ。ただ、ご家族のことで、少しお話を伺いたいんです。」

函谷の手が止まった。俺は静かに切り出した。

「二十年前、加木さんのご家族のことで、何があったんですか?院長は、当時どんな判断をされたんでしょうか?」

函谷はしばらく黙っていた。やがて、眼鏡を外して置いた。

「悟先生、あの時、院長は最善を尽くされた。それだけは、私が保証します。最善というのは、言葉通りの意味です。あの状況で、あれ以上のことはできなかった。私はそう見ていました。」

函谷には、それ以上語らなかった。口を閉じ、再びカルテに目を落とす。聞いてはいけない話だという空気が、その背中から漂っていた。

俺は引き下がるしかなかった。医局を出て、もう一度ナースステーションへ向かう。夜勤への申し送りが始まる前の、ほんのわずかな空白の時間。東野がパソコンの前で書類を整えていた。

「東野さん、少しだけいいか?」

東野は手を止め、顔を上げた。俺の表情を見て、何かを察したように小さく頷いた。

「二十年前、加木さんのご家族のことを、覚えていることがあれば、教えてほしい。」

東野はしばらく沈黙してから、低い声で語り出した。

「あの日のことは、忘れません。私はまだ三年目で、夜勤に入っていました。バイクと車の多重衝突、それから自動車事故の搬送が、ほぼ同時に重なったんです。」

「同時に?」

「ええ、重傷者が三件、ほぼ同じ時間に運び込まれてきました。当時はうちのスタッフも今より少なくて、院長が一人で全体を采配していました。加木さんのご家族の方は、その中のお一人で、どうしても後回しになる順番だったんです。」

俺は何も言えなかった。

「院長は選ばざるを得なかった。誰を先に見るか、誰を後にするか。それを決めるのは、いつも院長でした。あの夜は、特に地獄のような時間でした。」

東野の声が、わずかに震えた。

「ただ、ご家族には、その経緯が十分には伝わらなかったと思います。説明する余裕すら、誰にもなかったんです。」

俺は静かに頭を下げた。

「ありがとう。話してくれて。」

「悟先生、院長を攻めないであげてください。あの方は、あの夜の選択を、今もずっと背負っておられます。」

その言葉は、昨夜見た手帳の一節と、はっきり重なった。父はあの夜から二十年、その問いを抱えて歩いてきたのだろう。

その夜、俺は院長室の扉を叩いた。父はデスクライトの下で、書類に目を通していた。顔を上げ、俺を見て、わずかに眉を動かす。

「どうした、こんな時間に。」

「加木さんのことです。二十年前の話を、聞かせてください。」

父は万年筆を置いた。

「加木悠人君の祖母から、家族を失ったと言われました。父さんの判断で、と。」

父はしばらく黙っていた。壁の時計の秒針の音が、夜の静けさにはっきりと響く。

「あの夜、救急に三件の重傷者が同時に入った。一人は若い母親、一人は男性、もう一人が加木さんのご主人だった。」

「ええ、少し聞きました。」

「私は、守れる可能性が高い命を優先した。意識レベル、出血量、年齢、既往歴。全てを天秤にかけて、順番を決めた。加木さんのご主人は、その中で最も今後の見通しが厳しいと判断した。」

父の言葉の重みが伝わってきた。

「結果として、ご主人は助けられなかった。残りの二人は助かった。医療としては間違っていなかったと、今も思っている。」

「では、何が悔まれるんですか?」

父はゆっくりと目を伏せた。

「説明だ。ご家族に、なぜその順番だったのか。私の口から、十分に伝える時間が、どうしても取れなかった。落ち着いた頃には、ご家族はもう、私の顔を見ることを拒んでおられた。」

俺は、父の机の上に置かれた万年筆を見ていた。

「父さん、書斎の手帳を見ました。偶然です。落ちて、開いてしまったんです。」

父は驚かなかった。ただ静かに笑った。

「そうか。見たのか。」

「『私の判断は、本当に正しかったのか』と書いてありました。」

「医学的には正しかった。だが、人として正しかったのかは、今もわからん。あの判断そのものより、説明を後回しにしたことが、私の中でずっと棘になっている。」

院長室の空気は、静かに沈んでいた。一人の医師として、二十年前の夜から逃げずに立っている、一人の男。

「悟。お前が今、加木さんのご家族と向き合っているなら、私の二の前だけは踏むな。技術より先に、言葉を尽くしなさい。」

俺は何も言えず、ただ深く頷いた。

翌朝、俺は集中治療室の前で、みさ子を待った。面会時間の少し前に、みさ子は静かに現れた。昨日とは違い、少し落ち着いた表情だったが、目の奥には、変わらぬ硬さがあった。

「加木さん、少しだけお時間をいただけませんか?」

みさ子は何も言わず、待合いの長椅子に腰を下ろした。俺はその隣ではなく、向かいの椅子に座った。頭を下げ、ゆっくりと話し始めた。

「昨夜、父から二十年前のことを聞きました。あの夜、複数の重症患者が同時に運び込まれ、父は順番を決めなければならなかったこと。ご主人は、その中で最も厳しい状態にあったこと。父は医学的な判断として、守れる可能性の高い命を優先したと話しました。」

みさ子の手が、膝の上で硬く握られた。

「ただ、父はもう一つ言いました。説明する時間を、十分に取れなかった。それがずっと悔まれていると。父の手帳に、当時の迷いが一節だけ残されていました。」

みさ子は、ふっと顔を上げた。目に薄く涙が浮かんでいる。

「今更、そんなことを聞いて、どうしろと言うんですか?私は二十年、この病院を恨んできたんですよ。」

「分かっています。すぐに受け入れていただけるとは、思っていません。」

みさ子は唇を噛んだ。俺はそれ以上の言葉を重ねなかった。押し付ければ、二十年前と同じことになる。

その時、看護師に呼ばれて、面会時間が始まった。俺とみさ子は、悠人のベッドの脇に立った。悠人はうっすらと目を開け、小さな声で言った。

「先生、昨日、僕の手、ずっと握ってくれたよね。怖くなかったよ。」

俺は思わず息を飲んだ。処置の合間、脈を探りながら、無意識に握っていたのかもしれない。

「先生は、おじいちゃんみたいに、ちゃんと見てくれる人だね。」

みさ子の肩が、小さく揺れた。彼女は何も言わず、ただ孫の頭に手を当てた。俺はベッドの脇で静かに決めていた。一人の医師として、この少年と、この祖母の前に、立ち続けるのだと。

悠人の状態は、日を追うごとに落ち着いていった。五日目には、一般病棟に移ることができた。

俺は朝の回診の度に、必ず悠人のベッドサイドで足を止めた。検査の結果、投薬の意図、これからの見通し。専門用語を避け、悠人にも分かる言葉で説明する。みさ子が同席している時は、一つ一つの処置について、必ず彼女の顔を見てから話した。

「今日のお薬は、気管支を広げるものを少し増やしました。眠気が出るかもしれませんので、無理に起きていなくて大丈夫です。何か変わったことがあれば、すぐにナースコールを押してください。」

みさ子は最初の頃、俺の説明をじっと黙って聞いているだけだった。頷きもしない、質問もしない。ただ目だけは、まっすぐ俺を見ていた。

四日目の夕方だった。回診を終えて部屋を出ようとした俺を、みさ子が呼び止めた。

「先生、お薬の量を増やすと、肝臓に負担が出ると、前の病院で言われたことがあるんです。この子、検査の数値は大丈夫なんでしょうか?」

俺はベッドのそばに戻り、椅子を引いて腰を下ろした。カルテを開き、数値を一つずつ指で示しながら説明した。これまでの推移、今後注意すべき項目。

「ご心配の通り、長期で使えば負担が出るお薬です。今は基準値の中に収まっていますが、一週間ごとに採血で確認します。少しでも数値が動けば、必ずご相談します。」

みさ子はじっと数値を見つめていた。それから、初めて小さく頷いた。

その夜、ナースステーションで東野が俺に声をかけてきた。

「悟先生、加木さんのおばあ様、さっき廊下で私におっしゃってましたよ。」

「何と?」

「『あの先生は、面倒くさがらずに、何度でも同じことを説明してくださる』と。東野は珍しく、あの方が先生のことを褒めるなんて、最初の日からは想像もできませんでした。」

俺は黙って頷いた。胸の奥が、わずかに熱くなる。だが、まだ浮かれてはいけないと、自分に言い聞かせた。

一週間が過ぎた頃、悠人が退院前のリハビリで歩行訓練を始めた。廊下を一歩ずつ歩く孫の後ろを、みさ子はゆっくりとついて歩いていた。俺が様子を見に行くと、みさ子は壁際で足を止め、振り返った。

「先生、一つだけ聞かせてください。」

「はい、何でしょう?」

「あなたはなぜ、あの日、私から拒まれても、引かなかったんですか?」

俺はしばらく考えてから、ゆっくりと答えた。

「その時の悠人君の状態が、待てる状態ではなかったからです。それともう一つ。私自身が、逃げる人間になりたくなかった。それだけです。」

みさ子は静かに目を伏せた。そして、ぽつりと言った。

「あなたは、逃げないのね。」

その一言が、ふっと胸に落ちた。一人の医師としての評価だった。俺は深く頭を下げた。

悠人が退院してから、半月が経った。理事会の議題に、院長交代の正式な日程が上がっていた。父の退任、そして俺の就任。形の上では、もう何年も前から決まっていた話だった。

会議室の長机に、いつものように資料が並んだ。

「就任にあたって、二つお願いしたいことがあります。」

函谷が老眼鏡をずらして、俺を見た。他の理事たちの視線も集まる。父は静かに目を伏せ、何も言わなかった。

「一つは、家族説明の専門体制の整備です。重症患者の搬送時、医師が処置に集中せざるを得ない場面で、ご家族への説明が後回しになることがあります。それを防ぐため、説明を専任で担う医師と看護師のチームを置きたい。」

函谷の眉が動いた。

「もう一つは、治療選択の透明化です。複数の選択肢がある場合、なぜその治療を選んだのか、なぜ他を選ばなかったのかを、ご家族と共有する書面の運用を始めたい。判断の根拠を残すこと、それを当院の標準にしたいんです。」

しばらくの沈黙の後、函谷が口を開いた。

「悟先生、お考えは分かります。ただ、人員の負担も、書類の負担も増える。現場が回らなくなる恐れはありませんか?理想は理想として、現実の話をしなければならない。」

「ご指摘の通りです。最初から完成系でやるつもりはありません。救急と重症病棟から始め、一年かけて他の科に広げます。人員配置の見直しも、同時に進めます。」

函谷は資料を閉じ、俺を正面から見た。

「悟先生、あなたに、この病院を守る覚悟が、本当にありますか?」

俺は迷わず頷いた。

「あります。ここに来る人たちが、納得して帰れる場所にすることだと思っています。父の代で足りなかったものを、私の代で足していきたい。」

函谷は、長く息を吐いた。

「分かりました。私は反対しません。」

父は、ずっと黙っていた。理事会の最後、議長として一言だけ、低く言った。

「次の院長の方針です。私は賛成します。」

それだけだった。だが、その一言の重みを、俺はよく知っていた。

会議が終わり、理事たちが立ち上がる。函谷が俺の横を通る時、足を止めた。

「悟先生、先ほどの提案、悪くなかった。いや、良かったと言い直しておきます。」

「ありがとうございます。」

函谷は薄く笑い、部屋を出ていった。

その夜、俺は父の書斎に呼ばれた。机の上には、あの黒い皮の手帳が置かれていた。

「悟。」

俺は向かいの椅子に腰を下ろした。父は手帳に手を置き、ゆっくりとこちらに押し出した。

「これをお前に渡しておく。」

「父さん…」

「中身は、見ても見なくてもいい。私の二十年だ。判断したこと、判断できなかったこと、書き切れなかったことが、断片で残っている。」

父はそこで一度言葉を切った。

「悟、私に足りなかったのは、説明する勇気だった。医学的な判断は、迷いながらでも下せた。だが、その判断をご家族の目を見て伝える勇気が、あの夜の私にはなかった。」

俺は手帳をそっと手に取った。

「お前は、お前のやり方でそれをやれ。私を超える必要はない。私と同じである必要もない。お前自身の信頼の積み方を見つけなさい。」

「父さん、あなたを超えようとは思いません。ただ、父さんが背負ってきたものを、私のやり方でもう一度、信頼に変えていきます。」

父は何も言わなかった。ただ、ほんのわずかに、目元が緩んだ。そんな父の顔を見るのは、初めてだった気がした。

書斎を出て、廊下を歩く。明日からも、誰かが運ばれてくる。誰かが待合いで、家族の名前を呼ばれるのを待っている。俺は、その一人一人の前に、逃げずに立つ。一人の医師として。

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