「お母さんって本当に何の価値もないわね。まともに家事もできないなんて。」
朝食の準備を終えて、私が家族を待っていた時のことです。息子の嫁であるリエさんが、冷たい視線を向けながらそう言い放ちました。
私は藤沢ケイコ、66歳になります。10年前に夫を亡くしてから、息子の公平と二人で歩んできました。教師として38年間働き、定年後は息子夫婦と同居して、家の世話や家事を手伝う日々を送っています。
「そうだな。母さんは確かに何の役にも立たないな。」
追い打ちをかけるように、息子の公平まで同調したのです。私が女手一つで大学まで出してあげた息子が。
しかし不思議なことに、その瞬間、私の心に怒りではなく、ある種の静かな決意が芽生えました。そして気づけば、私はかすかに微笑んでいたのです。
「そうね。役立たず。本当にその通りかもしれませんね。」
私のその反応に、二人は少し戸惑ったような表情を見せました。でもすぐに、いつもの朝食風景に戻っていきました。
二人は知らなかったのです。この日を境に、全てが変わることを。
あの朝の出来事を思い返しながら、私は自分の人生を振り返っていました。夫の正尾が亡くなったのは、公平がまだ大学生の時でした。突然の病で、あっという間にいってしまいました。悲しみに暮れる暇もなく、私は息子の学費と生活費を工面するため、必死で働き続けました。
教師としての給料だけでは足りず、夏休みや冬休みには塾講師のアルバイトもしました。公平の大学4年間で学費だけで600万円。仕送りを含めると総額で1000万円以上。さらに就職してからも車の購入資金に100万円、結婚資金として500万円を援助しました。
「おばあちゃんと一緒に暮らせて嬉しい。」
3年前、同居を始めた時の孫の言葉が、今でも心に残っています。あの頃は本当に幸せでした。公平もリエさんも、私を家族として温かく迎えてくれると信じていました。
しかし現実は違いました。私の年金は月12万円ですが、そのうち10万円を家計に入れています。残りの2万円で自分の医療費や身の回りのものをやりくりしているのです。朝は5時に起きて朝食の準備。日中は掃除、洗濯、買い物、夕食の支度。まるで無給の使用人のような毎日です。
それでも家族のためならと思って、頑張ってきました。でもリエさんの態度は日に日に冷たくなっていきました。そして今朝、ついに「役立たず」という言葉が飛び出したのです。
私は静かに立ち上がり、自室に向かいました。タンスの奥にしまってある重要な書類のことを思い出しながら。
思えば、リエさんの態度が変わり始めたのは半年ほど前からでした。
「お母さん、この味噌汁、また薄いんじゃないですか?年を取ると味覚が鈍くなるって聞きますけど。」
朝食の席でリエさんが眉をひそめながら言いました。私は教師時代に栄養士の資格も取得していて、塩分控えめの健康的な料理を心がけていたのですが。
「そうですか。では、もう少し濃くしますね。」
私は穏やかに答えました。家族の平和を保つためなら、このくらいの我慢は必要だと思っていたのです。
しかしリエさんの要求は次第にエスカレートしていきました。
「お母さん、掃除のときのかけ方が雑ですね。ほら、ここに誇りが残ってるじゃないですか。」
リビングの隅を指差しながら、リエさんは大げさにため息をつきました。
「申し訳ありません。もう一度かけ直しますね。」
「いいです。私がやります。お母さんのやり方じゃ、いつまで経っても終わりませんから。」
そう言って掃除機を取り上げるリエさん。でも結局は疲れたと言って途中で投げ出し、私が最後までやることになるのです。
ある日、リエさんの両親が遊びに来ました。その時の対応の違いに、私は愕然としました。
「お母様、今日もお綺麗ですね。この置き物、とても素敵です。」
リエさんは自分の母親には満面の笑顔で接していました。高級な菓子とお茶でもてなし、あれやこれやと世話を焼きます。一方、私に対しては「お母さん、台所で皿洗いをお願いします。お客様の前ですから」と、まるで使用人のような扱いでした。
食事の時も露骨な差別がありました。リエさんの両親には新鮮な刺身や高級な肉料理、私には前日の残りを温め直したものが出されることも珍しくありませんでした。
「お母さんは粗食な方がお好きでしょう。」
リエさんはそう言って自分を正当化していました。
公平も妻の態度をとめるどころか、むしろ同調するようになっていきました。
「母さん、最近物忘れが多いんじゃないか。さっきも同じこと聞いてたよ。認知症の検査受けた方がいいんじゃない?」
私が少しでも同じ質問をすると、すぐに認知症扱いです。66歳という年齢だけで、まるで判断力のない老人のように扱われました。
最も傷ついたのは、リエさんが友人と電話で話しているのを偶然聞いてしまった時のことです。
「うちの義母ね、本当に困ってるの。元教師だったらしいけど、今じゃ何の役にも立たないのよ。」
リエさんの声は軽蔑に満ちていました。
「家事もろくにできないし。お風呂の掃除なんてカビだらけにしちゃって。やっぱり施設の方がいいのかもね。」
私は廊下で立ち尽くしました。毎日必死で家事をこなし、家族のために尽くしているつもりでした。それなのに、こんな風に言われていたなんて。
「でもね、お金があるうちは我慢するわ。年金もらってるし、貯金もあるみたいだから。」
その本音が、容赦なく私の心を切り裂いていきました。
ある朝、いつものように朝食の準備をしていると、公平が言いました。
「母さん、俺たちももう少しプライベートな時間が欲しいんだ。」
「どういう意味ですか?」
「リビングにいる時間を減らしてもらえないかな?リエも気を使うって言ってるし。」
私は言葉を失いました。この家で、私の居場所がどんどん狭くなっていくのを感じました。
そして昨日、決定的な出来事がありました。夕食後、公平とリエさんがこっそりと話しているのが聞こえてきました。
「やっぱり母さんとはもう一緒に暮らせないよ。」
「そうよね。私の両親の方がまだ若いし、頼りになるわ。」
「母さんは確かに俺を育ててくれたけど、それはもう過去の話だ。恩返しは十分したでしょう。」
「これ以上は無理よ。」
私は自室のドアの前で、静かに涙を流しました。息子のために人生を捧げてきた私が、今では邪魔者扱いされているのです。
そして今朝の「役立たず」発言に至ったのです。
私は改めて自分の置かれた状況を整理しました。月10万円を家計に入れ、朝から晩まで家事に追われ、それでも感謝されるどころか「役立たず」呼ばわり。もう限界でした。
その日の午後、私は買い物から帰ってきました。玄関を開けると、リビングから公平とリエさんの声が聞こえてきます。いつもなら声をかけるところですが、なぜかその時は足が止まりました。
「リエの両親を養子縁組するのはどうかな。」
公平の言葉に、私は凍りつきました。
「いいアイデアね。そうすれば法的にも本当の親子になれるし。」
リエさんの嬉しそうな声が続きます。
「母さんとはもう戸籍上の関係だけだからな。心の繋がりなんてゼロに等しい。」
「そうよ。血が繋がってるだけで、本当の家族じゃないもの。」
私は胸が締めつけられる思いでした。「戸籍上の関係だけ」と言い切った息子の言葉が、鋭い刃物のように心に突き刺さります。
「でも相続の問題があるでしょう。」
リエさんが心配そうに尋ねました。
「大丈夫。俺は母さんからの相続は全部放棄するつもりだ。どうせ大した財産もないだろうし。」
「あら、でも家があるんじゃないの?」
「あの古い家、売っても二束三文だよ。それより、リエの両親の財産の方が魅力的だ。」
二人の会話を聞きながら、私は静かに怒りが込み上げてくるのを感じました。公平は知らないのです。私が密かに所有している不動産や、亡き夫が残してくれた財産のことを。
「お母さんの貯金なんて、へそくり程度じゃないか。元教師の年金なんて高が知れてる。」
公平の軽蔑したような口調に、私は拳を握りしめました。
「じゃあ、早めに養子縁組の手続きを進めましょう。お母さんには後から報告すればいいわ。」
「そうだな。どうせ反対されるだろうから、事後報告でいい。俺たちの人生を、あの役立たずに口出しされる筋合いはない。」
リエさんの「役立たず」という言葉が、また飛び出しました。
「母さんには悪いけど、俺たちにも選ぶ権利がある。血の繋がりだけで縛られる時代じゃない。」
「本当にそうね。私の両親の方が、よっぽどやらしいことをしてくれてるもの。」
私はそっとその場を離れ、自室に向かいました。廊下を歩きながら、不思議と静かな自分がいることに気づきました。悲しみや怒りを通り越して、ある種の悟りのような境地に達していたのかもしれません。
部屋に入ると、私は鏡の前に立ちました。そこには66年間生きてきた一人の女性が映っています。夫を亡くし、必死で息子を育て、全てを捧げてきた人生。その結果が「戸籍上の関係だけ」「役立たず」という評価でした。
「戸籍上の関係ね。」
私は静かにつぶやきました。そしてふと微笑みました。それは悲しみの微笑みではなく、何かを決意した時の、静かで強い微笑みでした。
そう、戸籍上の関係。なるほど。それなら、それで結構です。
私は机の引き出しから一冊の手帳を取り出しました。そこには私の本当の財産状況が記されています。亡き夫が残してくれた都内の不動産3件。評価額は合わせて8000万円。そしてコツコツと貯めてきた預金5000万円。
公平は何も知らないのです。私がどれだけの資産を持っているか。そして、それを全て息子に残すつもりでいたことも。
「ここから消してあげましょう。お望み通りに。」
私は手帳を閉じ、携帯電話を手に取りました。長年の友人で、今は弁護士をしている峰田さんの番号を押します。
電話に出た峰田さんに、私は落ち着いた声で用件を伝えました。
「養子縁組の解消。そして、私の戸籍から息子を除外する手続きについて。」
「本当にいいんですか?ケイコさん。」
峰田さんの心配そうな声に、私は静かに答えました。
「ええ、もう決めました。向こうが望んでいることですから。」
通話を終えると、私は窓の外を眺めました。夕日が沈もうとしています。新しい人生の始まりを告げる夕日のように思えました。
翌朝、公平とリエさんが仕事に出かけた後、私は行動を開始しました。まず向かったのは、峰田弁護士の事務所です。
「ケイコさん。本当にこの決断でよろしいんですね。」
峰田さんは私の顔を心配そうに見つめました。
「ええ、もう迷いはありません。息子が私を『戸籍上の関係だけ』だと言うなら、その通りにしてあげたいんです。」
私は持参した書類を机の上に並べました。戸籍謄本、不動産の権利書、預金通帳。
峰田さんは一つ一つ確認しながら、驚きの表情を隠せませんでした。
「これだけの資産があるんですか?息子さんはご存知なんですか?」
「いいえ、知りません。主人が亡くなった時、息子にはまだ若すぎると思って、私が全て相続しました。いずれは息子にと思っていましたが。」
峰田さんは深くため息をつきました。
「養子縁組の解消は可能です。ただし、一度解消すると、ケイコさんの財産の相続権も完全に失われます。」
「それで結構です。むしろ、それが目的です。」
私の決意の硬さに、峰田さんは頷きました。
「わかりました。では手続きを進めましょう。まず養子縁組解消の申し立て書を作成します。」
峰田さんは手際よく書類を作成していきます。私はその様子を冷静に見守っていました。
「これからケイコさんの財産についてですが、今のうちに遺言作成されることをお勧めします。」
「そうですね。息子以外の相続人を指定したいと思います。」
「どなたに?」
「まだ決めていませんが、恵まれない子供たちのための施設や教育支援の団体などを考えています。」
峰田さんは優しく微笑みました。
「ケイコさんらしいですね。では、その方向で準備を進めましょう。」
事務所を出た後、私は銀行に向かいました。資産の整理と新しい口座の開設が必要だったのです。
「藤沢様、本日はどのようなご要件でしょうか?」
長年お世話になっている担当者が笑顔で迎えてくれました。
「実は資産の整理をしたいんです。それと、定期預金の一部を解約して別口座に移したいのですが。」
手続きを進めながら、私は自分の資産の多さに改めて驚きました。教師として働き続け、無駄遣いをせずコツコツと貯めてきた結果です。そして亡き夫が残してくれた不動産の価値も、年々上がっていました。
「合計で1億3000万円ほどの資産になりますね。」
担当者の言葉に、私は静かに頷きました。公平は、私がへそくり程度しか持っていないと思っているのです。
銀行を出ると、次は不動産会社に向かいました。所有している物件の現在の評価額を確認するためです。
「藤沢様の物件でしたら、今なら8500万円ほどで売却可能です。都内の物件は需要が高いですから。」
不動産会社の査定に、私は満足しました。
夕方、家に戻るとまだ誰も帰っていませんでした。私は静かにリビングに座り、これまでのことを振り返りました。38年間教師として、多くの子供たちを育ててきました。そして自分の息子も立派に育てたつもりでした。でも結果はこうです。血の繋がりがあっても、心が離れてしまえば、もう家族ではないのかもしれません。
私は立ち上がり、自室に戻りました。机の上には峰田弁護士から渡された書類が並んでいます。養子縁組解消の申し立て書、財産分与に関する書類、そして遺言書の下書き。全ての準備は整いました。後は実行するだけです。
「さようなら、公平。」
私は小さくつぶやきました。それは母親としての最後の言葉でした。
明日、全ての手続きを開始します。公平とリエさんが養子縁組を進める前に、私の方から縁を切るのです。彼らが望んだ通り、完全な他人になるために。
窓の外では夜のとばりが降りていました。新しい人生への期待と、わずかな寂しさを胸に、私は静かに書類を整理し始めました。
それから一週間後の朝、いつものように朝食の準備をしていると、玄関のチャイムが鳴りました。
「こんな朝早くに、誰かしら?」
リエさんが不審そうにつぶやきながら玄関に向かいます。
「特別送達です。藤沢公平様と、藤沢リエ様宛てです。」
配達員の声が聞こえてきました。
「特別送達?何それ?」
リエさんが受け取った封筒を持って、リビングに戻ってきました。公平も不審な顔で封を開けます。中から出てきたのは、家庭裁判所からの正式な書類でした。
養子縁組解消通知書。
公平の顔がみるみる青ざめていきました。そして、財産分与請求確定通知書。
「これ、どういうこと?」
リエさんも書類を覗き込み、顔面蒼白になりました。
私は落ち着いて味噌汁をよそいながら、静かに口を開きました。
「おはようございます。朝食の準備ができていますよ。」
「母さん、これは一体どういうことだ?」
公平が書類を握りしめて立ち上がりました。
「どういうことって?書いてある通りですよ。あなたたちが望んでいた通り、戸籍上の関係を解消させていただきました。」
「何を勝手なことを!俺は母さんの息子だろう!」
公平の怒鳴り声に、私は首をかしげました。
「あら、『戸籍上の関係だけで、心の繋がりはゼロ』とおっしゃっていたじゃないですか。」
公平が言葉に詰まります。
「『血が繋がってるだけで、本当の家族じゃない』とも言っていましたね。リエさん。」
リエは真っ青な顔で書類を見つめています。
「相続権も放棄?」
「ああ、へそくり程度だと思っていらしたようですが。実は少しばかり貯めていたもので。」
私は用意していた資産リストを二人の前に置きました。
「不動産が3件で評価額8500万円。預金が5000万円。合わせて1億3500万円ほどになります。」
「1億…」
公平とリエさんは目を見開いて、資産リストを見つめました。
「嘘だ。母さんがそんな財産を…」
「お父さんが残してくれたものと、私が教師として働いて貯めたものです。全てあなたに残すつもりでしたが…もう必要ないようですね。」
リエさんが声を震わせて尋ねました。
「じゃあ、この財産は誰が…」
「恵まれない子供たちのための教育基金に寄付することにしました。もう手続きは済んでいます。」
「そんな!取り消してください!お母さん、お願いします!」
リエさんが初めて私に頭を下げました。
「取り消す?どうしてですか?私は『役立たず』なんでしょう?」
「違います!私が間違っていました!家事もろくにできないと言っていましたけど…」
「ごめんなさい!本当にごめんなさい!」
リエさんは床に膝をついて謝り始めました。しかし、私の心は少しも動きませんでした。
「母さん、お願いだ。俺が悪かった。」
公平も必死に訴えてきます。
「リエさんのご両親を養子縁組するんでしょう?もう私は関係ありませんから。」
「しません!そんなことしません!母さんが俺の本当の母さんだ!」
「本当の母親?昨日まで『戸籍上の関係だけ』と言っていたのは誰ですか?」
私は淡々と朝食を食べ始めました。
「お母さん、私たちこれからどうすれば…」
リエさんが泣きながら尋ねます。
「知りません。他人の生活なんて、私には関係ありませんから。」
「他人じゃない!家族です!家族!」
私は静かに立ち上がりました。
「家族なら、どうして私を『役立たず』呼ばわりしたんですか?家族なら、どうして邪魔者扱いしたんですか?」
二人は何も答えられませんでした。
「ところで、来月からこの家の家賃をいただきます。」
「家賃?」
「ええ。この家も土地も私の名義ですから。月15万円でお願いします。」
「15万円?そんな払えるわけない!」
公平が叫びました。
「払えないなら、出て行ってください。もう親子じゃないんですから、ただで済ませる理由はありません。」
「母さん、お願いだ。考え直してくれ。」
公平が私の手を取ろうとしましたが、私はさっと身を引きました。
「どちら様ですか?私に息子はいませんので。」
「母さん…」
「ああ、それと。私の荷物は今日中に運び出します。もう一緒に暮らす必要もありませんから。」
私は部屋に戻り、荷造りを始めました。リビングからは公平とリエさんの泣き声が聞こえてきます。
数時間後、引っ越し業者が到着しました。
「お待たせしました。藤沢様のお荷物を運ばせていただきます。」
「お願いします。新しいマンションの方に運んでください。」
私の荷物が次々と運び出されていきます。公平とリエさんは、呆然とその様子を見ているだけでした。
「母さん、行かないで!」
公平が最後の訴えをしてきました。
「もう『母さん』じゃありませんよ。ここから消してあげたんですから。お望み通りでしょう。」
「違う!俺は母さんが必要なんだ!」
「必要?『役立たず』が必要ですか?」
私は振り返ることなく、家を出ました。玄関のドアを閉める時、公平の嗚咽が聞こえてきましたが、もう私には関係のないことでした。
新しいマンションに引っ越してから、一ヶ月が経ちました。朝の光が差し込む広々としたリビングで、私は優雅にコーヒーを飲んでいます。誰に気を使うこともなく、自分のペースで過ごせる朝の時間が、こんなにも心地よいものだとは思いませんでした。
「おはようございます。藤沢様。」
マンションのコンシェルジュの方が笑顔で挨拶してくださいます。ここはセキュリティも万全で、同年代の方も多く住んでいる高級マンションです。家賃は月に10万円しますが、私の資産からすれば何の問題もありません。
午前中は、近所のカルチャーセンターで絵画教室に通っています。教師時代は忙しくて諦めていた趣味を、今は心ゆくまで楽しむことができます。
「藤沢さん、今日の作品も素敵ですね。」
同じ教室の友人が声をかけてくれました。
「ありがとうございます。自由な時間があるって、本当に幸せですね。」
私は心からそう思いました。誰からも「役立たず」と言われることなく、自分の価値を認めてくれる人たちに囲まれて過ごす日々。これが本当の人生だったのです。
一方、公平とリエさんの生活は一変していました。私からの月10万円の援助がなくなり、さらに家賃15万円の支払いに追われるようになって、家計は火の車になっていたのです。
ある日、公平から電話がかかってきました。
「もしもし。どちら様ですか?」
私は事務的に応答しました。
「母さん…いや、ケイコさん。俺だよ。公平だ。」
「元息子さんですか?何かご用ですか?」
「家賃のことなんだけど、少し待ってもらえないか?」
公平の声は、以前の威勢の良さはなく、疲れきっていました。
「申し訳ありませんが、家賃の支払いは契約通りにお願いします。払えないなら、退去していただくしかありません。」
「そんな…どこに行けばいいんだ?」
「それは私の知るところではありません。他人の住居の心配までする義理はありませんから。」
電話を切った後、私は少し考えました。冷たすぎるでしょうか?いいえ、これは彼らが望んだことです。私を「役立たず」扱いし、「戸籍上の関係だけ」と言い切った報いです。
その後、リエさんからも連絡がありました。
「お母さん…お願いです。もう一度だけ会ってください。」
「お母さん?私はあなたの義母ではありません。ケイコさん、お願いします。」
結局、喫茶店で会うことになりました。現れたリエさんは、以前の派手な装いもなく、やつれた顔をしていました。
「ケイコさん。本当に申し訳ありませんでした。」
リエさんは深々と頭を下げました。
「何が申し訳ないんですか?」
「全てです。ケイコさんを『役立たず』呼ばわりしたこと。邪魔者扱いしたこと。本当にごめんなさい。」
「今更ですね。」
私は冷静に答えました。
「お願いです。もう一度家族に戻してください。」
「家族?あなたは私のことを、家族だと思ったことがあるんですか?」
リエさんは顔をあげられませんでした。
「私の両親ももう援助してくれません。あなたを粗末に扱ったことを知って、激怒して…」
「そうですか。」
「生活が本当に苦しいんです。公平の給料だけじゃ…」
「働けばいいじゃないですか。私は66歳まで働きましたよ。」
リエさんは泣き崩れました。
「ケイコさんがいなくなって、初めてわかったんです。どれだけ助けてもらっていたか、どれだけ甘えていたか。」
「わかったなら、それでいいじゃないですか。良い勉強になったでしょう。」
私は席を立ちました。
「これで最後にします。もう連絡しないでください。」
喫茶店を出ると、秋の爽やかな風が吹いていました。重い荷物を下ろしたような、清々しい気持ちでした。
その後、私は遺言を正式に作成しました。全財産は、恵まれない子供たちのための教育基金と児童養護施設に寄付することにしました。弁護士の峰田さんが言いました。
「ケイコさん、後悔はありませんか?」
「全くありません。血の繋がりだけで家族だというなら、私には新しい家族がたくさんできましたから。」
私は寄付先の施設を訪問し、子供たちと交流するようになりました。彼らは私を「ケイコ先生」と呼んで慕ってくれます。誰も私を「役立たず」とは言いません。
ある日、施設の園長先生が言いました。
「ケイコ先生のおかげで、子供たちに希望を与えることができます。本当にありがとうございます。」
「いいえ、私の方こそ、生きがいをもらっています。これが本当の家族なのかもしれません。血の繋がりではなく、心の繋がり。お互いを大切に思い、支え合う関係。」
夕方、マンションに戻ると、郵便受けに公平からの手紙が入っていました。
「ケイコさん。お元気ですか?私たちは今、小さなアパートに引っ越しました。リエも働き始めました。今更ですが、母さんの大切さが身に染みてわかりました。本当の親不孝者は、私でした。いつか許してもらえる日が来ることを願っています。公平」
手紙を読み終えて、私は静かに微笑みました。許す許さないの問題ではないのです。私は前を向いて生きているのですから。
夜、お風呂にゆっくりと浸かりながら、これまでの人生を振り返りました。確かに息子を失いました。でも、自分自身を取り戻すことができました。「役立たず」と言われ続けた私が、今は多くの人に必要とされ、感謝されています。
「正尾さん、見ていますか?私、やっと自由になれました。」
亡き夫に語りかけると、不思議と温かい気持ちになりました。
翌朝、施設の子供たちから手作りのカードが届きました。
「ケイコ先生、いつもありがとう。先生は、私たちの大切な家族です。」
涙が溢れてきました。嬉し涙でした。私は今、本当に幸せです。誰からも「役立たず」と言われることなく、自分の価値を認めてもらえる。これ以上の幸せがあるでしょうか?
理不尽な扱いを受けている方へ。我慢する必要はありません。あなたには、自分を守る権利があります。「家族」という言葉に縛られて、支配されることはないのです。本当の家族とは、お互いを尊重し、大切にし合う関係です。勇気を出して一歩踏み出してください。きっと、新しい幸せが待っています。私がそうだったように。



