その夜の静まり返った廊下で、私は最愛の息子の声を聞いてしまった。
「正直、母さんなんていなくなればいいと思ってるんだよね。目障りだし、生きてるだけでコストがかかるし」
手に持っていたお茶のトレーを落としそうになりながら、私は必死に息を殺した。指先が震え、心臓の音が耳元でやかましく響く。
リビングのドアの隙間から漏れてくるのは、息子・健二とその妻・美香の、私を切り捨てるような冷酷な言葉の数々だった。
私は夫を早くに亡くし、女手一つで健二を育て上げ、この家を守り抜いてきた。定年後も、共働きの二人を支えるために家事の一切を引き受け、食費も光熱費も全て私の年金から出していた。
それなのに、彼らにとっての私は、ただの便利な家政婦か、あるいは場所を取るだけのゴミのような存在だったのか。
暗い廊下で立ち尽くす私の背中に、得体の知れない悪寒が走る。何かが決定的に壊れる音が、胸の奥で聞こえた。
でも、この時の彼らはまだ気づいていなかった。自分たちがどれほど愚かな発言をしたのか。そして、1週間後、自分の平穏な生活が跡形もなく消え去るということを。
私は暗闇の中で静かに決意を固めた。そこには、悲しみを超えた冷徹なまでの怒りが宿っていた。
「お望み通りにしてあげるわ」私は声に出さず、ただ唇を噛みしめた。
リビングからは、二人が温泉旅行の計画を立てている楽しげな声が聞こえてくる。私の存在など、最初からそこにはないかのように。
私は用意していたお茶をキッチンに戻し、足音を立てないように自室へ引き返した。
古びたタンスの奥に隠してある一通の書類。それを取り出しても、不思議と手はもう震えていなかった。
この家は私の名義だ。そして、亡き夫が残してくれたこの一等地の土地も。
彼らは、私が「家族だから」という理由で、死ぬまでこの場所を無償で提供し続けると信じて疑っていないのだろう。
その甘えが、彼らをどん底に突き落とすことになるとも知らずに。
私は机に向かい、ペンを走らせ始めた。1週間。それだけで十分だった。
翌朝、私はいつものように朝食を作り、いつものように笑顔で二人を送り出した。
「お母さん、今日の夕飯はハンバーグがいいな。あ、肉は高いやつにしてよね。美香が疲れてるからさ」
健二は、あんなに冷たい言葉を吐いた口で、平然とそんな要求をしてくる。
「ええ、分かったわ」私は短く答えた。これが、この家で交わす最後の日常の会話になるとは、彼らは夢にも思っていない。
健二の背中を、私はただ静かに見送った。私の反撃は、もう始まっているのだ。
私はスマートフォンを取り出し、ある番号を呼び出した。以前から熱心にこの土地を譲ってほしいと打診してきていた、地元の不動産会社の担当者・田中さんだ。
「もしもし、田中さんですか?佐藤です。ええ、以前お話ししていた件ですが…はい。売却の手続きを進めたいと思いまして。条件は1つ、1週間以内に全ての契約を完了させ、代金の決済まで済ませること」
電話の向こうで、田中さんが息を飲むのが分かった。
「え?あ、本当ですか?以前はあんなに固く拒まれていたのに…。1週間ですね。承知いたしました。上物と調整し、最高条件の買い手を見つけます。今日これから伺ってもよろしいでしょうか?」
「お願いします。私は本気です」
電話を切り、私は深く息を吐いた。もう後戻りはできない。でも、不思議と体は軽くなっていた。思いかせが外れたような、そんな爽快感さえ感じていた。
夕方、スーツ姿の田中さんと、もう一人眼鏡をかけた初老の男性が家を訪ねてきた。
「佐藤様、急なご連絡に驚きましたが、こちらが提携している不動産鑑定士の者です。今回の物件ですが、既に買い手が決まる見込みとなりました」
話は、私の想像をはるかに超えるスピードで動き出そうとしていた。
夕闇が迫る頃、玄関の鍵が開く音がした。
「ただいまー。ああ、疲れた。母さん、ハンバーグ焼けてる?腹減ったんだけど」
土足同然の勢いでリビングに入ってきた健二は、鞄をソファに放り投げると、そのままどっかりと座り込んだ。続いて入ってきた美香も、手洗いうがいもそこそこに、「ふう。今日も残業で最悪」と独り言のようにこぼしながら自室へ着替えに行ってしまった。
私はキッチンで、じゅうじゅうと音を立てるハンバーグを見つめていた。健二がリクエストした通り、近所の精肉店で一番高い黒毛和牛の挽肉を買ってきた。もちろん、この肉代だって私の財布から出たものだ。
「はい、お待たせ。熱いうちに食べてね」私がテーブルに並べると、健二は箸を手に取り、一口食べて露骨に顔をしかめた。
「なんだよ、これ。ソースがデミグラスじゃないの?照り焼きって、今日はそんな気分じゃないんだけど」
「ごめんなさい。デミグラスの材料が足りなくて」
「足りないなら買ってくればいいだろ。専業主婦なんだから、時間は腐るほどあるんだし。美香も楽しみにしてたんだぞ」
美香も席につくなり、ハンバーグをツンツンと突き刺しながらため息をついた。
「母さん、私、昨日も言いましたよね。夜は炭水化物を控えてるから、付け合わせはポテトじゃなくてブロッコリーにしてほしいって。また太っちゃうじゃないですか」
以前の私なら、「ごめんね。次は気をつけるわね」と平身低頭に謝っていただろう。でも、今の私には、彼らの言葉が遠い世界の雑音のようにしか聞こえなかった。
「ねえ、聞いてるの?母さんって、最近時々ぼーっとしてますよね。やっぱり年齢的なものかしら。健二さん、今のうちに真剣に考えた方がいいんじゃない?」
美香が健二に目くばせをした。その視線の先にある意味を、私は痛いほど理解していた。
「あ、母さん、明日から少し片付けを始めてくれないか?2階の奥の部屋、あそこを美香の趣味の部屋にしたいんだ。母さんの荷物、もう何年も使ってないものばかりだろう。全部捨てていいからさ」
「あそこはお父さんの書斎だった場所よ。まだ整理が終わっていなくて」
私が静かに答えると、健二は鼻で笑った。
「親父はもう死んで10年だぞ。死んだ人間の部屋をいつまでも取っておいてどうするんだよ。土地の無駄、スペースの無駄だ。俺たちがこの家をもっと有効活用してやるって言ってるんだから、ありがたく思えよ」
「そうですよ。母さん。私たちは将来この家をリフォームして子供部屋も作りたいんです。お義母さんが1人で広い部屋を占領しているのは、正直言って効率が悪いわ。あ、もしかして、どこか別の場所を探し始めた方がいいのかしら。老人ホームとか、最近は手頃なところも多いみたいですし」
美香の言葉は、刃物のように鋭く私の心を切り裂いた。まるで、私がこの家にいること自体が、彼らの明るい未来を邪魔している悪魔であるかのような言い様だ。
「分かったわ。部屋の片付けね。進めておくわ」私はただそれだけを言った。
その従順な態度に、健二は満足に頷いた。
「そうそう。最初からそう言えばいいんだよ。母さんは黙って俺たちの言うことを聞いてればいいんだ。料理も掃除も洗濯も、それが母さんの役割なんだからさ。余計な意見はいらないんだよ」
私は黙って席を立ち、キッチンの奥で洗い物を始めた。水の音に紛れて、二人の笑い声が聞こえてくる。
「いいわよ。そこまで言うのなら、望み通りにしてあげる」
田中さんは言っていた。「佐藤様、この物件ならすぐにでもキャッシュで買い取りたいという個人投資家の方がいらっしゃいます。その方は、この建物を壊して新しい事業を始めたいと考えているそうです」
私は喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。今ここで言えば、彼らはきっと全力で阻止してくるだろう。私の年金やこの無料のホテルを失いたくないからだ。彼らが求めているのは私の幸せではなく、私の利用価値だけなのだから。
その週末、彼らは結婚記念日の温泉旅行に出かける予定だった。
「ちょっと母さん、寒いじゃないですか。何考えてるのよ。空気を入れ替えようと思って窓を開けたの?冷えは美容の敵だって、何度も言ってるじゃないですか」
美香は、昨夜から少しずつ荷物を運び出している私の行動に気づきもせず、いつものように文句を言い、いつものように私をこき使った。
「あ、健二さん。週末の温泉旅行、もう1ランク上の部屋にアップグレードしない?さっき母さんの部屋の引き出しを掃除してたら、古い封筒に結構な額の現金が入ってたのを見つけたの」
私の心臓がドクンと跳ねた。それは、いざという時のため、そして夫の法事のためにコツコツと貯めていた現金だった。
「え、マジで?いくらあったんだ?」
「数えたら15万もあったわよ。母さん、こんなに隠し持ってたなんてずるいですよね。どうせ使い道なんてないんだから、私たちが有効に使ってあげた方がいいわ」
「それはお父さんの法事のための大切なお金なの。返してちょうだい」
私が珍しく声を強めると、健二がテーブルをドンと叩いた。
「うるさいな。法事なんて、坊主に金を払うだけの無駄遣いだろう。親父だって、死んだ後まで金がかかるなんて思ってないよ。それより、今生きてる俺たちが楽しく過ごす方がよっぽど供養になるんだ。分かったらガタガタ言うな。これは俺たちが預かっておく」
私はこれ以上言葉を重ねるのをやめた。何を言っても彼らには届かない。それどころか、反論すればするほど、彼らは私を物分かりの悪い老人として攻撃する口実にするだけだ。
出発の朝、家の中は騒がしい物音で溢れていた。
「ちょっと、私の水色のワンピースどこにやったのよ。ちゃんとクリーニング出しておいてって言ったじゃない」
美香の金切り声が、まだ眠りの中にいた私の耳を突き刺す。
「それは昨日、クローゼットの右側にかけておいたわよ」
私が這うようにして部屋を出ると、美香は顔を真っ赤にして私を睨みつけた。
「右側って言ったって、見当たらないから言ってるのよ。もう、これだから年寄りは。自分の都合のいいようにしか言わないんだから」
ワンピースは、言った通り一番目立つ場所にかかっていた。美香はただ、自分の不注意で見落としていただけなのだ。
「あったわよ。これでしょう」差し出した私に対し、美香はお礼を言うどころか、ひったくるようにそれを受け取った。
「紛らわしいところにかけないでよね。嫌がらせのつもり?性格悪いわね、本当」
朝食を食べる間も、二人の暴言は止まらなかった。
「ねえ、健二さん、母さんの年金、今月分はもう入ってるわよね。旅行先でちょっといいバッグ見つけたら買いたいから、カード貸しておいてよ」
「ああ、いいよ。母さん、あの引き出しにあるカード貸せよ。どうせお前は買い物なんていかないだろう。家でじっとしてるんだから、金なんて必要ないはずだ」
健二は私の返事も聞かず、勝手に私の財布からクレジットカードを抜き取った。それは、将来病気になった時のため、そして夫との思い出の品を整理するための資金としてコツコツと貯めてきた口座に紐づいたカードだった。
「よし、準備万端。1週間、最高の贅沢をしてくるからさ。母さんはせいぜい、この古臭い家の掃除でもして待ってろよ」
健二が重いスーツケースを玄関まで運び、私に命じた。
「おい、これ、車まで運べよ。腰が痛いんだ」
「私も今日は少し体調が悪くて…」
「はあ?甘えるなよ。毎日家でゴロゴロしてるくせに、何が体調不良だ。ほら、早くしろ。時間が遅れるだろう」
私は震える手で、二人分の重いスーツケースを玄関の外まで運んだ。
車に荷物を積み込み、二人は後部座席にふんぞり返るように座った。
「じゃあね、母さん。帰ってきた時に家が汚かったら、本当に追い出すからね。覚悟しておいてよ」美香が窓を下げて、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「あ、母さん、最後にもう1度言っておくけどさ」健二がニヤリと笑った。「お前がこの家にいられるのは、俺たちが許してやってるからだってことを忘れるなよ。もし俺たちがいらないって言ったら、お前には行く場所なんてどこにもないんだからな」
車のエンジン音が響き、二人は砂埃を上げて去っていった。彼らを乗せた車が角を曲がり、完全に見えなくなるまで、私は門の前に立ち尽くしていた。
心の中には、もう怒りも悲しみも残っていなかった。ただ、深い深い虚無感だけが広がっていた。
「そうね、健二。あなたの言う通りだわ。精々、後悔するわね」
私は家の中に戻り、電話機を手に取って田中さんに最後の連絡を入れた。
「ええ、今、二人とも出発しました。はい、よろしくお願いします」
電話を切り、私は自室へと戻った。そこには、小さなボストンバッグ一つだけが残されていた。中身は数日の着替えと夫の遺影、そして一通の手紙。他には何もいらない。この家にある高価な家具も家電も、全てはあの二人への「遺品」として置いていくことにした。それが、どうせ数日後にはゴミ同然になる運命だとしても。
私は家の鍵を締め、玄関のドアの枠をそっと撫でた。
「週一さん、今まで守ってくれてありがとう。さようなら」
私は一度も振り返ることなく家の門を出た。そして、あらかじめ呼んでおいたタクシーに乗り込み、駅へとは向かわず、都心から1時間半ほど離れた、海を見下ろす高台へと向かった。
タクシーが到着したのは、白い漆喰の壁が特徴的な、こぢんまりとしたモダンな建物の前だった。ここは、夫が生前、私に内緒で設計し、残してくれた別荘だった。
「里子さん、お待ちしておりました。ようやくここを使う決心をされたのですね」
玄関から出てきたのは、白髪の混じった髪を綺麗に整え、仕立ての良いスーツを着た初老の男性。夫の親友であり、長年私たちの事務所の顧問弁護士を務めてくれた、鍛冶原さんだった。
「鍛冶原さん、お久しぶりです。急なお願いをしてしまって、申し訳ありません」
「何を言っているんですか。週一さんが亡くなってから10年。あなたはずっとあの子たちのために自分を押し殺して生きてきた。私はいつあなたがここへ来ると言ってくれるか、首を長くして待っていたんですよ」
リビングに入ると、そこは夫のこだわりが詰まった、木の温もりに溢れる空間だった。大きな窓からは、青く輝く海が一望できる。あの息苦しい家とは、正反対の世界だった。
「健二や美香さんは、私のことを何も知らない価値のない老人だと思い込んでいる。『中卒の世間知らずだ』『生きてるだけでコストがかかる』と、好き勝手なことを言ってくれた。でも、彼らは本当の私を何も知らない」
実は、私は夫と一緒に建築事務所を立ち上げ、その経営の全てを支えてきた元・専務だった。夫は設計に没頭する天才肌だったが、数字や法律には滅法弱かった。対外交渉、資金繰り、契約書の作成。事務所が業界でも有数の成功を収めたのは、私の徹底した管理があったからこそだと、夫はいつも私を「最高のパートナー」と呼んで感謝してくれていた。
健二が生まれた時、私は現役を退き、彼には「ただの主婦」として接してきた。息子には仕事の殺伐とした空気を感じさせたくなかった。穏やかで優しい母親として育てたかった。その私の配慮が、健二を傲慢で無知な怪物に変えてしまったのかもしれない。
「里子さん、準備は整っています。あの家の売却手続き、そして健二さん夫婦に対する法的措置、全て私の方で引き受けました」
鍛冶原さんがテーブルの上に、分厚い書類の束を置いた。
そこには、健二と美香がこの3年間で私の口座から勝手に引き出した金の記録、私に浴びせてきた暴言の録音データ、そして彼女たちが私を侮辱していた実態を証言する近所の人たちの陳述書が揃っていた。実は私は、耐えながらも全てを記録していたのだ。
その時、私のスマートフォンが激しく震えた。画面を見ると、健二からの着信だ。私はそれを無視した。続いて、メッセージの通知が目に入った。
『おい、ふざけるなよ。カードが止まってるぞ。ホテルのチェックアウトで支払いができなかったじゃないか。今すぐ使えるようにしろ。それと、さっき警察から連絡があった。お前、俺たちのお金を盗んだって通報したのか?』
私は思わず、冷たい笑みを漏らした。私が止めたのは、私の名義のカードだ。そして通報したのは、私ではない。不動産会社が家の明け渡し準備のために立ち入った際、隠し金庫がこじ開けられているのを発見し、警察に届け出たのだ。もちろん、その金庫をこじ開けたのは、旅行前に私の法事用の金を盗んだ健二と美香だ。自業自得だ。
「鍛冶原さん、私はもう母親であることをやめました。あの子たちが望んだ、私のいない世界を完璧な形で提供してあげたいんです。一切の援助を断ち切り、自分たちの足で立つことがどれほど過酷なことか、骨身に染みて理解してもらうために」
1週間後、無一文に近い状態でなんとかレンタカーを借りて家に帰ってきた健二と美香を待っていたのは、門扉に掲げられた『売却済み』の看板と、自分たちがかつて「泥棒」と呼んで追い出した男だった。
「佐藤さん、お久しぶりですね。ここはあなたの家ですか?何をおっしゃっているんですか?この家は、先ほど正式に私の所有物となりました。登記も完了しています」
一之瀬君は、かつて夫の事務所で一番弟子として働いていた優秀な建築家。才能を妬んだ健二の陰湿な嫌がらせで事務所を追われた男だ。
「嘘をつけ!母さんがそんなことするはずがない。認知症なんだよ!母さんはボケてるんだ!老人が勝手に結んだ契約なんて無効だ!」
二人がわめき散らしていると、1台の高級セダンが静かに家の前に止まった。後部座席から降りてきたのは、背筋をピンと伸ばし、1週間前とは比べものにならないほど凛とした空気を纏った私だった。
「母さん!」健二が呆然とつぶやいた。
「お母様、どういうことですか?冗談はやめてよ。早く鍵を返しなさいよ」
美香が私に掴みかかろうとした瞬間、運転席から降りてきた鍛冶原さんが制止した。
「これ以上の狼藉はやめていただきたい。私は佐藤里子様の代理人を務める弁護士の鍛冶原です。健二さん、美香さん、あなた方が『ボケた老人』という言葉は、法的にも倫理的にも許しがたい侮辱です。里子さんは極めて正常な判断能力をお持ちであり、その上でこの家を売却することを決断されました。正当な対価を支払い、正当な手続きを経て、現在は一之瀬様がこの土地と建物の所有者です。あなた方にここに立ち入る権利は、一片もありません」
「許す?健二、あなた今、なんて言ったの?」私は一歩前に出て、息子の目をまっすぐに見つめた。
「あなたたちは私に言ったわね。『母さんなんていなくなればいい』『生きてるだけでコストがかかる』って。私はその望みを叶えてあげたのよ。コストである私が消え、コストがかかっていたこの家も手放した。これであなたたちは、私の年金や私の労働という重荷から解放されたわけだ。喜ばしいことじゃない?それなのに、あなたたちは私の大切な貯金を盗み、お父さんの遺品をゴミ扱いし、毎日毎日、罵り続けた」
「じ、じゃあ、私たちの荷物はどうなるの?明日からどこに住めばいいのよ!」美香が震える声で喚いた。
「荷物は美香さんの実家へ、着払いで送っておいたわよ。住む場所については、あなたたちの稼ぎでどこなりと借りればいいじゃない。エリート夫婦なんですもの。簡単でしょう?」
「実家に?嘘でしょう!そこは今…」美香が言いかけた言葉を、私は遮らなかった。彼女の実家が借金まみれで、娘からの仕送りを当てにしていたことは、百も承知だ。その仕送りも、元を辿れば私の貯金から出ていたのだから。
「待ってくれ、母さん!頼むよ!俺は会社も首になりそうなんだ!この家まで失ったら、本当に路頭に迷うんだよ!」
健二が地面に膝をつき、必死の形相で私の靴にすがりつこうとした。
「あら、おかしいわね。優秀なあなたが、そんなことになるなんて。あなたがこれまで私のコネクションを利用して取ってきた仕事も、不透明な経理処理も、全て会社側に報告済みよ。ああ、そうそう。警察の方からも連絡が来るはずだから。金庫のお金についても、しっかり説明してきてね」
その時、健二のスマートフォンに、彼の勤務先の上司から電話が入った。
『佐藤君か。今どこにいる?警察が会社に来ているぞ。お前、身の母親に対して不当な財産侵害を行っているという疑いで、弁護士を通じた通告書が届いている。どういうことだ?』
『え?あ、いいや。それは家庭内の誤解で…』
『誤解で済む話か!会社の名誉を著しく傷つけたとして、役員会でも問題になっている。明日からの出勤は停止だ。それから、お前が担当していたプロジェクトの予算に、不透明な金の流れがあるという指摘も入っている。すぐに説明に戻れ!』
電話は一方的に切られた。健二の顔から血の気が引いていく。
続いて、警察からは、ホテルの金庫破りについての任意同行の要請。彼らは、私が住んでいた家の「隠し金庫」をこじ開けた容疑で、その場で警察に連行されていった。
プライドも名誉も住む場所も、全てが砂のように指の間からこぼれ落ちていく。彼らにとって私は、いつでも金を引き出せるATMであり、不平不満を飲み込むゴミ箱だった。そのゴミ箱が消えた瞬間、自分たちの人生がいかに脆弱な台の上に立っていたかを、ようやく思い知らされたのだ。
一方、その頃、私は鍛冶原さんと共に、一通の古い茶封筒を見つめていた。中には、10年前、夫が亡くなった日の救急搬送記録と、健二の当時の銀行口座の振り込み履歴が入っていた。
「これは…」鍛冶原さんが息を飲んだ。
10年前。夫は自宅の書斎で心筋梗塞を起こした。発見したのは健二だった。当時の記録によれば、夫が倒れてから救急車が呼ばれるまで、実に4時間の空白がある。その4時間の間に、健二は何をしていたのか。この振り込み履歴が、全てを物語っていた。
倒れている父親を放置し、夫のパソコンから暗証番号を割り出し、事務所の運転資金を自分の口座に移し替えていたのだ。
「あの子は言ったわ。『親父を見つけた時は、もう冷たくなっていた』って。でも、検視の結果では、早く処置していれば助かった可能性があると書かれていた。私はずっとあの子を信じようとして、この疑惑を心の奥底に封印してきたの」
「健二さんは、この事実をあなたが知っているとは、夢にも思っていないでしょうね」
「ええ。だからこそ、一番残酷なタイミングで突きつけてあげるわ。それが、週一さんへのせめてもの供養になるから」
私は、一之瀬君に連絡を取り、あの家の書斎を再度詳しく調べるように依頼した。すると、すぐに彼からメールが届いた。
『先生、例のものを発見しました。書斎の壁の裏から、健二さんが必死に隠そうとしていた痕跡がありました。これは、あまりにひどすぎます』
添付されていた写真を見て、私は思わず口を覆った。そこには、健二が隠していたさらなる罪の証拠が映し出されていたのだ。それは、彼らがこの家を「自分たちのものだ」と言い張っていた理由の根幹を揺るがす事実だった。
「鍛冶原さん、計画を変更しましょう。明日、あの子たちを一度だけ、この別荘に呼び出してください」
「呼び出すのですか?せっかく切り捨てたのに」
「ええ。彼らに最後の希望を見せてあげるの。そして、その希望が自分たちの手で粉々に砕かれる瞬間を味わってもらうために」
地獄へ落とすのなら、一度は生還できると思わせてから突き落とすのが一番の絶望だということを、私はかつての経営者としての経験から知っていた。
借金取りの山田たちに追い詰められ、一晩中町を逃げ回った健二と美香は、翌朝、私が送った迎えの車にすがりつくような勢いで乗り込んできた。二人の姿は、もはや見る影もなかった。
車が海沿いの別荘に到着すると、二人はその豪華な佇まいに息を飲んだ。
「何よ、これ!母さん、こんな隠し財産を持ってたの?ずるいわよ!」美香の目に、一瞬で醜い強欲な光が戻った。「健二さん、見た?ここを売れば、借金どころかまた贅沢ができるわよ!やっぱり母さんは、最後は私たちに頼るしかないのよ」
二人は自分たちが今置かれている立場を忘れたかのように、玄関をくぐった。
リビングで彼らを待っていたのは、私と鍛冶原さん、そして険しい表情をした一之瀬君だった。
「母さん、遅いよ。心配したんだからな。ほら、早くあの山田って連中に金を払ってやってくれ。俺たち、ひどい目にあったんだぞ」
「お義母さん、この別荘、素敵じゃない。私たちも今日からここに住ませてもらうわね。部屋は一番広いところにして。塩風は肌に悪いから、高級な空気清浄機も買ってもらわないと」
美香に至っては、すでに自分の家であるかのようにソファにふんぞり返っている。
私はゆっくりと手元のティーカップをソーサーに置いた。
「借金を片付ける条件は、伝えてあるはずよ。健二、美香さん」
「ああ、分かってるよ。何でも言う通りにするからさ。書類にサインすればいいんだろう。早くしてくれよ」
「その前に、あなたたちに見せたいものがあるの」
私は一之瀬君に目くばせをした。彼は重苦しい足取りで、テーブルの上に1つの古い木箱を置いた。
「佐藤さん、昨日、あの家の書斎、週一先生が一番大切にしていた壁の裏から、これが見つかりました」
一之瀬君が箱の中から取り出したのは、夫の直筆の日記と、一通の封筒だった。
「これは、週一先生が亡くなる直前まで書いていた日記です。そこには、信じられない事実が記されていました。佐藤さん、あなたは10年前、先生が倒れているのを見つけた後、何をしましたか?」
健二の顔が、一瞬にして土色に変わった。
「な、何言ってるんだよ!救急車を呼んだだろ!」
一之瀬君の声が、リビングに響き渡った。
「日記には、こう書いてある。『健二が私のパソコンを操作している。私が苦しんでいるのを目の前で見ながら、あいつは会社の口座から金を移している。ああ、これが私の育てた息子の正体か。もう、意識が朦朧として…』」
部屋の中が、凍りついたような静寂に包まれた。健二の額から、滝のような汗が流れ落ちる。
「そ、それは親父の被害妄想だ!倒れて意識が混濁してたんだろう!」
「いいえ。証拠はそれだけじゃないわ」
私は鍛冶原さんから渡された別の書類を、健二の前に叩きつけた。
「あなたが移し替えた金額と、その直後にあなたの借金が完済された記録。そして、一之瀬君が壁の裏で見つけた、週一さんの本当の遺言書よ」
健二の目が、その遺言書に釘付けになった。そこには、夫の震える文字で、はっきりとこう記されていた。
『全財産は妻・里子に譲る。息子・健二には、一切の相続権も与えない。彼は私を見殺しにし、自らの欲望のために親を捨てた。彼を佐藤家から追放する』
「そんなの、認められるわけないだろう!俺は息子なんだぞ!」
「いいえ。認められます。民法では、被相続人を殺害しようとしたり、見殺しにして刑に処せられたりしたものは、もちろん、著しい非行があった場合、相続欠格あるいは排除の対象となります。この日記と当時の救急搬送の遅延の証拠があれば、里子様があなたを相続人から排除することは十分に可能です。というか、すでに手続きは完了しています」
「うそだ…嘘だろ…」
健二はその場に崩れ落ちた。美香は事の重大さをようやく理解したのか、ガタガタと震えながら健二から距離を置こうとしている。
「ちょっと、健二さん、あなた、お義父さんを見殺しにしたの?最低!最低だわ!私、そんなの知らないわよ!全部この人が勝手にやったことなんです!お義母さん、私は被害者なんです!」
その時、別荘の玄関のチャイムが、地獄の鐘の音のように鳴り響いた。外には、しびれを切らした山田たちが、鉄パイプを弄びながら待ち構えていた。
チャイムの音が鳴り響くたび、健二と美香はビクッと肩を震わせた。
「ひ、嫌だ。助けて。殺される。本当に殺されるわ!」美香は床に這いつくばり、ガタガタと震えている。
「母さん、お願いだ!金だ!金を払ってくれ!山田たちは待ってくれないんだよ!」
私は、そんな息子の姿を冷めた目で見下ろしていた。1週間前、この男は私を「コスト」と呼び、「いなくなればいい」と言い放った。今目の前にいるのは、ただ自分の身を守るためだけに親に泣きつく、醜い塊でしかない。
「健二、あなたは勘違いしているわね。私があなたを助けるのは、母親としての情けからじゃないわ。夫の命を奪い、その遺産を食い潰したあなたに、相応の地獄を味わわせるためよ」
「地獄?労働施設って何なんだよ!どこへ連れて行くつもりだ?」
「私が長年建築事務所の専務として築いてきた人脈は、あなたたちが想像しているよりずっと広いの。四国の山奥に、限界集落を再生するための開拓地があるわ。そこを運営しているのは、かつて週一さんに命を救われた、元自衛官の男性よ。非常に規律に厳しく、手抜きは一切許されない場所。そこで、あなたは借金が完済されるまで、朝から晩まで泥にまみれて働くのよ」
「山奥の開拓…?嘘だろ?俺は大手の会社員なんだぞ!そんな…」
「できるかできないかじゃない。やるのよ。それとも、今すぐあの山田たちの車に乗る?」
そこへ、これまで沈黙を守っていた美香が、すがるような声で私に話しかけてきた。
「お義母さん、私は関係ないわよね?健二さんが勝手にやったことだもの。私は実家に帰るわ。だから、私の分だけでも、少しだけお金を…」
美香は、自分のことだけを考えて健二を切り捨てようとした。
「美香さん、実家に帰るなんて無理よ。あなた、まだ気づいていないの?あなたの実家が経営していた建設会社、多額の負債を抱えて倒産寸前だったわね。昨日の午前中、ある投資会社が全ての債権を買い取って、完全に買収したわよ。そして、その投資会社の筆頭株主は、私よ」
美香の動きが、ピタリと止まった。
「あなた、いつも自分の実家が高級な昆布を使ってるとか、お嬢様だとか自慢していたけれど、これからはその実家も私の管理下に入るの。あなたのご両親は、私の指示通り、地方の清掃工場での仕事を斡旋してもらったわ。もちろん、贅沢なんて二度とできない生活よ。あなたに帰る場所なんて、もうどこにもないの」
「そんな嘘よ!嘘!」
「嘘だと思うなら、お父様に電話してみたら?おそらく今は工場の宿舎へ移動している最中で、繋がらないでしょうけど」
リビングに、美香の絶望的な叫びが響きわたった。
「母さん、どうして!どうして、こんな残酷なことができるんだ!お前は、俺の母親だろう!」
「母親?そうね。私はあなたを愛していたわ。でも、あなたは私の愛を、ただの無料のサービスだと思い込んだ。そして、週一さんの命まで奪った。母親としての私は、あの日、あなたが週一さんを見捨てた瞬間に死んだのよ」
私は立ち上がり、玄関の方へ向かった。
「さあ、決断の時よ。健二。あなたは警察で横領と見殺しの件について事情を聞かれるか。それとも、私の用意した施設へ行くか。どちらにせよ、もうこれまでの人生には戻れないわ」
その時、再びチャイムが鳴った。今度は山田たちの乱暴な鳴らし方ではない。どこか落ち着いた、規則正しい音。
私がドアを開けると、そこには数人の警察官と、一人の貫禄のある男性が立っていた。その男性の顔を見た瞬間、健二が今日一番の絶叫をあげた。
「あ、あなた…!どうして、ここに?」
そこに立っていたのは、健二が務める大手メーカーの社長だった。
「佐藤君に話がある。いや、話はもう警察の方でするんだったね」
社長の言葉に、健二は完全に腰を抜かした。彼が必死に隠してきた会社でのさらなる不正。それは、単なる横領では済まされない、大規模な企業背任事件にまで発展していたのだ。
「小母さん、助けて!健二さんが悪いの!私は何もしてない!」
美香が私のスカートにすがりつこうとしたが、私はそれを冷たく避けた。
「美香さん、あなたにも聞きたいことがあるの。あなたが亡くなった週一さんの生命保険金の受け取り人を、勝手に書き換えようとした件についてね」
「社長、どうしてあなたがここに?私の不祥事の件でしたら、後ほど会社へ伺うつもりで…」
「佐藤君、君はまだ自分が置かれている状況が分かっていないようだね」社長は深いため息をつき、私の方を向いて深々と頭を下げた。「里子先生、この度は弊社の社員が多大なるご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません」
「里…先生?社長、どういうことだよ!俺の母さんは、ただの主婦で…!あんた、母さんの知り合いなのか?」
「失礼なことを言うな!佐藤里子先生は、我が社の創業期において、亡き週一先生と共に技術の基盤を築いてくださった、御仁中の御仁だ。現在も我が社が保有する主要特許のいくつかは、里子先生の名義になっている。君が今、営業で使っているあの看板製品も、先生の助言がなければ完成しなかったものだ」
健二の顔が、驚愕で引きつった。彼が鼻にかけていた「エリート社員」としての称号。それを支えていた製品も、全てはその見下していた母親の手のひらの上にあったのだ。
「お、母さんが特許…?嘘だ…そんなの聞いたことない…!」
「当然だ。先生は『息子には自分の力で歩んでほしい。私の影は隠しておいてくれ』と強く希望されていたからね。だが、まさかその恩に泥を塗るどころか、会社の金を横領し、さらに御仁である母親を虐げていたとは。君という人間を信じて採用したことが、私の人生最大の汚点だ」
「そして、美香さん。あなたについても、重大な報告があります」鍛冶原さんが、一冊のファイルを開いた。「あなたが健二さんのパソコンを使い、里子様の生命保険の受け取り人を自分に変更しようとした形跡が見つかりました。さらに、里子様の署名を偽造し、この別荘までも自分たちの名義に書き換えようとする書類を作成していましたね」
「そ、それは、私はただ将来の管理をスムーズにしようと思っただけで…!窃盗じゃありません!」
「窃盗と詐欺罪です。この書類に使われた印鑑は、里子様が大切にされていた週一先生の遺品の印鑑を、勝手に持ち出したものでしょう。すでに筆跡鑑定と指紋調査の結果が出ています。逃げ隠れはできませんよ」
美香は、もはや言葉も出ないようで、魚のように口をパクパクとさせていた。彼女が夜な夜な私の部屋を漁っていたのは、単なる嫌がらせではなく、私の財産を根こそぎ奪うための狩だったのだ。
「健二、美香さん。あなたたちが触れてはならなかったのは、お金や家だけじゃないわ」
私は、テーブルの中央に置かれた小さな箱を指差した。一之瀬君が静かにその箱を開けた。中に入っていたのは、数枚のSDカードと、夫の直筆の手紙だった。
「これは、週一先生が設計したこの家とあの本宅に組み込まれていた、見守りシステムのバックアップデータです。先生は建築士として常に家族の安全を考えていた。だからこそ、最新の防犯センサーと記録装置を、誰にも分からない場所に設置していたんです」
一之瀬君がタブレットを操作し、動画を再生した。そこには、10年前のあの日、リビングで苦しそうに胸を抑えて倒れ込む夫の姿が映し出されていた。そして、数分後、帰宅した若い健二が、その場に立ち尽くす姿も。
「親父!親父、大丈夫か?」
動画の中の健二は、一度はスマートフォンを手に取る。しかし、次の瞬間、彼の視線はテーブルの上に置かれた夫の銀行の通帳に釘付けになった。健二は、苦しむ父親の横で、震える手でパソコンを立ち上げ、画面に映る数字を凝視し、自分の口座への送金手続きを始めた。
夫が「健二…助けてくれ…」とかすれた声で右手を伸ばしたその時、健二はその手を冷たく振り払った。
「悪いな、親父。あんたが死んだら、この金も家も全部俺のものなんだ。死ぬなら、今死んでくれよ」
動画の音声が、静かなリビングに響きわたった。健二は、自分が放った10年前の残酷な言葉を、再び耳にすることになった。
「あ…ああ…」健二は耳を塞ぎ、狂ったように叫んだ。「消せ!今すぐ消せ!それは捏造だ!俺じゃない!」
「捏造なものですか。これが、あなたの真実よ」
私は震える声を必死に抑えて告げた。
「私は、週一さんがあなたを最後まで信じようとしていたことを知っていた。だからこそ、この映像を見るまでは、あなたの4時間の空白を『ショックで動けなかったのだ』と思い込もうとしていた。でも、現実は違った。あなたは自分の借金を清算するために、身の父親を見殺しにしたのよ」
美香も、動画の内容に戦慄し、這うようにして健二から離れた。
「化け物!あなた、本当に化け物だわ!」
「お前に言われたくない!お前だって、この金で宝石やバッグを買って喜んでただろうが!」
二人は、どん底の状況でなお、互いを罵り合い、責任をなすりつけ合った。
「佐藤健二さんには、刑事罰を受けてもらう。会社としても、訴訟を提出した」社長が冷たく言い放った。
外では、山田たちが待ち構える車のエンジン音が不気味に響いている。一方、別荘の敷地内には、警察の赤い灯が近づいてくるのが見えた。
「借金取りに捕まるか。警察に捕まるか。あるいは、私が用意した極寒の開拓地で死ぬまで働くか。さあ、選びなさい。どれを選んでも、あなたたちが夢見ていた華やかな生活は、今この瞬間に完全に終わったのよ」
私は夫の遺影を胸に抱き、彼らを冷たく見つめた。二人の顔は恐怖と絶望で土色に染まり、もはや言葉を紡ぐこともできなくなっていた。
しかし、この時、一之瀬君がもう一つ、箱の底から見つけたある鍵を取り出した時、健二の顔が、この世の終わりを見たかのように歪んだのだ。
一之瀬君の手のひらで鈍い光を放つ、小さな銀色の鍵。それを見た瞬間、絶望に打ちひしがれていたはずの健二の瞳に、ギラリと醜い光が宿った。
「そ、そうだ!その鍵だ!それだ!親父が死ぬ間際、俺に何か言いたげに指さしていた場所!書斎の床下にある、隠し金庫の鍵だろ!母さん!これさえあれば、これさえあれば全部解決するんだ!」
健二は膝立ちのまま、まるで獲物を見つけた獣のように一之瀬君に詰め寄ろうとした。
「あの家には、親父が隠した裏金が数億はあるはずなんだ!建築家なんて、裏でいくらでも金を動かせるだろう!この金があれば、横領の穴埋めも借金の返済も、全部チャラにできる!母さん、早くその鍵をよこせ!俺は佐藤家の長男なんだ!その金を受け取る権利がある!」
美香も、それまでの涙を一瞬で拭い、醜い笑みを浮かべて立ち上がった。
「そうよ!お義母さん!やっぱり隠してたのね!お義母さんには内緒で、私たちに残してくれたんだわ!あんな古臭い家を売ったお金なんてどうでもいいわよ!数億の現金があれば、また港区のマンションに住めるし、ブランド品だって買い直せる!早く、早く鍵を貸しなさいよ!」
二人のあまりの強欲さと、死んだ夫を利用しようとする浅ましさに、私は言葉を失うのを通り越して、乾いた笑いが込み上げてきた。
「健二、あなたは本当に、お父さんのことを何も分かっていないのね。週一さんは、あなたたちが思うような卑怯な人じゃなかった。裏金なんて、1円も持っていなかったわ」
「嘘だ!貧乏人の強がりなんて言うんだ!鍵があるってことは、そこに何かがあるってことだろう!見せしめないで、さっさと渡せよ、このババア!」
私は健二の罵倒を冷たく受け流し、ゆっくりと首を振った。
「ええ。確かに、この鍵は本宅の地下室へ続く扉のものよ。でも、そこに眠っているのは、あなたたちが夢見ているような金銀財宝ではないわ」
私は鍛冶原さんに目くばせをした。彼は頷き、リビングの大きなモニターに、本宅と繋がっているリアルタイムの映像を映し出した。そこには、一之瀬君のスタッフたちが、本宅の書斎の床下を慎重に開けている様子が映っていた。扉が開かれ、隠された地下の小部屋が現れる。
「ほら、見ろよ!部屋があるじゃないか!宝の山だ!大金だ!」
健二と美香は、画面に食い入るように顔を近づけた。しかし、ライトに照らされたその部屋の中にあったのは、整然と並べられた大量のファイルと、使い古された模型の数々だった。
「何だよ、これ!書類とゴミじゃないか!金はどこだ!札束はどこに隠してあるんだよ!」
一之瀬君が、静かに説明を始めた。
「佐藤さん、ここにあるのは、週一先生が一生をかけて設計してきた全ての建築物の点検記録と、将来の修繕費を無償で賄うために設立された財団の権利書です。先生は、自分が建てた家で暮らす人々が将来困らないようにと、自分の報酬のほとんどをこの財団の維持に当てていたんです」
「財団?何だよ、それ!他人のために金を使ってたってことか!ふざけるなよ!自分の息子がこんなに苦労してるのに、水臭い他人の家の修繕費のために金を溜め込んでたのかよ!」
健二はあまりの衝撃に言葉を失い、その場にへなへなと座り込んだ。
「じゃあ、1円も残ってないの!?私たちの生活はどうなるのよ!お義母さん、これ、何かの間違いでしょう!実家に仕送りしなきゃいけないのよ、今月も!」
私はモニターに映る夫の仕事の跡を見つめながら、誇らしい気持ちでいっぱいだった。夫は、形に残る金よりも、人との繋がりと、自分が作った作品への責任を大事にする人だった。
「そして、この鍵には、もう1つの役割があるのよ」
私は手元のタブレットを操作した。すると、地下室の棚の奥から、一通の赤い封筒が取り出された。
「それは、週一さんが弁護士に預けていた、ある特約事項です。鍛冶原さん、読み上げてください」
「承知いたしました。『本特約に基づき、佐藤健二が本宅の隠し財産を不当に要求した場合、あるいは里子を害した場合、佐藤健二に対する全ての生活支援及び住居提供の権利を即座に消滅させる。同時に、佐藤健二が過去に犯した不祥事に関する全ての調査報告書を、関係当局及び債権者に開示するものとする』」
部屋の中の空気が、さらに一層凍りついた。健二の顔は、もはや正気を感じさせないほどの青白色に染まっていた。
「週一さんはね、健二。あなたが自分を見殺しにしたことも、会社の金を使い込んでいたことも、本当は薄々気づいていたのよ。それでも、あなたがいつか改心してくれることを信じて、この書類が使われないことを願っていた。でも、あなたは最後まで、週一さんの期待を裏切ったのよ」
私は銀色の鍵を、テーブルに置いた。
「この鍵で開いたのは、宝箱ではなく、あなたたちの罪の記録庫の扉だったの」
その時、別荘の外で待機していた警察官たちが、ついにリビングへと入ってきた。
「佐藤健二さん、及び美香さん。先ほどの横領、証拠隠滅の疑いに加え、生命保険金詐欺未遂及び私文書偽造容疑で、所まで同行願います。それと、外にいる債権者の山田という人物からも、あなたたちの居場所についての通報が、別ルートで受理されています」
「嫌だ!捕まりたくない!母さん、助けて!借金は払ってくれるんだろう!約束したじゃないか!」
健二が警察官に腕を掴まれながら、私に向かって醜く叫び続けた。
「ええ、払ってあげるわよ。条件通りにね。ただし、これからあなたが行く場所は、あなたが想像しているよりもずっと厳しいわよ。警察での取り調べが終わった後、あなたの身柄は私の管理下に入る。そこで、死ぬ気で働いて返してもらうわ。美香さんも同じよ。あなたの実家が私の会社の一部になった以上、あなたはそこで最底辺の清掃業務から始めてもらう」
「そんなの耐えられないわ!私はお嬢様なのよ!泥臭い仕事なんて、できるわけないじゃない!」
美香の絶叫も、警察官によって遮られた。二人は引きずられるようにして、別荘の玄関を出された。外では、パトカーの赤色灯が激しく回転し、夜の闇を切り裂いている。そのすぐ後ろには、山田たちの黒い車が、逃げ場を塞ぐようにして止まっていた。
静まり返ったリビングで、私は深く椅子に座り直した。
「里子先生、これで全て終わりましたね」一之瀬君が、優しく声をかけてくれた。
「ええ。週一さんの残したものを、ようやく守りきれた気がするわ。ありがとう、一之瀬君。鍛冶原さんも」
私は、窓の外に広がる穏やかな海を見つめた。明日からは、もう「母さんなんていなくなればいい」という言葉に怯えることも、理不尽な侮辱に耐える必要もない。私の新しい人生が、ようやく始まろうとしていた。
あの嵐のような出来事から、3年の月日が流れた。海沿いの別荘に差し込む朝日は、今日も変わらず穏やかで、部屋全体を黄金色に染め上げる。私はバルコニーに出て、大きく深呼吸をした。潮風の香りと、庭に植えたハーブの爽やかな香りが混ざり合い、心の中をゆっくりと浄化してくれるようだ。
「週一さん、おはよう。今日もいい天気ね」
リビングに飾られた夫の写真に声をかけるのが、私の新しい日課になった。
3年前、私はあの本宅があった土地を、一之瀬君と共に新しい形へと生まれ変わらせた。かつての家は一度解体され、そこには今、「佐藤建築コミュニティハウス」という小さな建物が立っている。そこは、週一さんの設計思想を継承する若手建築家たちの拠点であり、同時に、親を亡くしたり家庭環境に恵まれなかったりする子供たちが、自由に第二の家として過ごせる居場所になっている。
私はそこで、週に数回、子供たちに簡単な料理を教えたり、人生の相談に乗ったりして過ごしている。
「里子おばあちゃんのハンバーグ、世界で一番大好き!」
そう言って笑う子供たちの顔を見ていると、かつて私が健二に注いできた愛情が、決して無駄ではなかったのだと思えるようになった。愛情は、受け取る側がそれを拒絶したとしても、別の誰かの心を温めるものとして、巡り巡っていくものなのだ。
そんなある日、私の元に一通の手紙が届いた。差出人の名前を見て、私の指先がわずかに止まった。佐藤健二。あの子からの手紙だった。
健二は現在、私が指定した四国の開拓地にある厚生施設で、今もなお労働に従事している。そこでの生活は、彼がかつて享受していた贅沢とは無縁の、朝から晩まで土を耕し、自分たちが食べるものを自分たちで作るという、文字通りの自給自足の毎日だ。
私は震える手で封を切った。
『母さんへ
元気ですか?急に手紙を書いて、ごめんなさい。ここに来て3年が経ちました。最初は母さんを恨んでばかりいました。どうして俺をこんな地獄に送ったんだ。どうして親なのに助けてくれないんだと、毎日壁を叩いて泣いていました。でも、1年が過ぎ、2年が過ぎ、毎日泥にまみれて働くうちに、少しずつ自分の指先が硬くなっていくのを見て、ふと思ったんです。俺が『生きてるだけでコストがかかる』と言った母さんの手は、いつもこんな風に荒れていた。冬でも水仕事をして、俺のために温かい食事を作り、俺が脱ぎ散らかした服を洗濯してくれていた母さんの苦労を、俺は無料のサービスだと思い込んでいた。これだけ働いても1円も給料が出ない過酷な労働。それを何十年も続けてくれた母さんの愛情が、どれほどの重みを持っていたか。この施設で自分の服を自分で洗い、自分の食べる野菜を1から育てるようになって、ようやく分かりました。
母さん、ごめんなさい。俺は最低の息子でした。親父を見捨てたあの日のことも、思い出すたびに足が震えます。親父が俺を信じて残してくれたシステムが俺の罪を暴いた時、ようやく俺は父親に叱られたんだと感じました。
今更、許してくれなんて言えません。俺はここで、自分の命が終わるまで、自分の犯した罪を償い続けます。母さんは俺のことなんて忘れて、どうか自分のために生きてください。
最後にお願いがあります。もし親父の墓参りに行くことがあれば、俺の代わりに一度だけ、手を合わせてもらえませんか?
本当にすみませんでした。
健二より』
手紙を読み終えた時、私の目からは温かい涙が溢れて止まらなかった。あの子が、ようやく一人の人間に戻った。エリートというメッキを剥がされ、親の財産という甘えを奪われ、たった一人で土と向き合ったことで、ようやく彼は、かつての私が愛した小さな頃の健二のような、純粋な心を取り戻したのかもしれない。
私は返事を書かなかった。それが、彼に対する今の私の誠実な答えだと思ったからだ。許すことだけが愛ではない。彼が自分の足で立ち、自分の罪と向き合い続けること。それを遠くから見守ることが、今の私にできる最後の母親としての仕事なのだから。
夕方、私は夫の墓を訪れた。新しく備えたばかりの白い菊の花が、夕日に輝いている。私は健二の言葉通り、夫に手を合わせ、報告した。
「週一さん、あの子、ようやく自分の間違いに気づいたみたいよ。あなたのおかげね。あなたが残してくれた勇気と愛が、私を救い、そして最後には、あの子の心をも救ってくれたのね」
風が吹き抜け、木々がざわざわと音を立てた。まるで、夫が「よく頑張ったね」と優しく声をかけてくれたような気がして、私は微笑んだ。
今、私の周りには、一之瀬君という素晴らしい後継者がいて、鍛冶原さんという頼れる友人がいて、そしてコミュニティハウスで笑い合う子供たちがいる。血の繋がりを超えた、新しい家族の形。私はもう、独りではない。
あの夜、暗い廊下で「いなくなればいい」と言われた時に感じた絶望。あの痛みがあったからこそ、今の私は本当の意味で自由になれた。失ったものは大きかったけれど、手に入れたものはそれ以上に尊いものだった。
「お母さん、今日の夕飯、一緒に作ってもいい?」
コミュニティハウスから、子供たちの元気な声が聞こえてくる。
「ええ、もちろんよ。今日は最高に美味しいハンバーグを作りましょうね」
私は空を仰ぎ、最高の笑顔で答えた。私の新しい人生は、今始まったばかりなのだから。



