「お前みたいな無能は首だ。仕事はさせない。」
係長にそう言い放たれた瞬間、俺の世界は音を立てて崩れ落ちた。
俺の名前は大原翔太。27歳。地元で有名な貿易会社に勤めて今年で5年目になる。新人の頃は苦労したけど、仕事も一通り覚え、任される部下も増え、部長から大きな仕事を任されるまでになった。やりがいを感じ、充実した毎日を送っていた。ただ、直属の上司である中谷係長だけは、俺のことを面白く思っていないようだった。
「部長の目は節穴だな。こんな大きな案件、お前にはまだ早いと思うがね。」
何かにつけて俺を目の敵にし、嫌味を言ってくる。面倒だったけど、我慢して受け流していた。
そんなある日、重要な商談へ向かう途中のことだった。偶然、交通事故の現場に遭遇してしまった。トラックと高級乗用車の接触事故で、乗用車に乗っている若い男性が怪我をしている。俺はすぐに駆け寄り、大声で呼びかけた。
「大丈夫ですか?しっかりしてください!」
呼吸と脈は確認できたが、頭を強く打ったのか意識がない。最悪の事態が頭をよぎる。俺はすぐに119番通報し、救急車が来るまで応急処置を施した。救急車が到着し、男性を運び込んだ。意識はまだ戻らない。心配だったので、俺も一緒に救急車に乗り込んだ。救急車の中で、中谷係長に事情を説明し、商談に遅れる旨を連絡した。今日の商談は、係長と一緒に相手先企業へ向かうことになっていたからだ。
病院に到着し、少し待った後、担当医が病室から出てきた。
「もう大丈夫ですよ。命に別状はありません。処置が早かったおかげで、後遺症もなさそうです」
俺はほっと安心し、自分の処置で人の命を救えたことに深い感動を覚えた。だが、いつまでも浸ってはいられない。男性の無事が確認できたのだから、早く仕事に戻らなければ。俺は担当医に名刺を渡し、何かあったら連絡してもらうよう伝えて病院を後にした。
タクシーを拾い、大急ぎで取引先に向かった。命がけと言っても過言ではない大切な商談。祈るような気持ちでオフィスに駆け込んだが、祈りも虚しく、俺が到着したちょうどその時、商談はほぼ終わってしまっていた。俺は土下座する勢いで頭を下げ、必死に事情を説明した。相手先の担当者は、優しい言葉をかけてくれた。
「気にすることはないよ。今まで君が頑張ってくれたおかげで、ほとんど内容も変更なかったからね。いつも真面目に誠実に頑張ってくれて、私たちは感謝している。それに、人命救助は何より大切なことなんだから、胸を張って」
優しい言葉に涙がこぼれそうになった。会社を出た後、俺は迷惑をかけた中谷係長にも頭を下げた。すると係長は、鋭い目つきで俺を睨みつけ、こう言った。
「お前さ、人命と仕事とどっちが大事なんだよ。仕事舐めてんのか?」
俺は言葉を失った。そんなの、人命が一番大事に決まっているじゃないか。だが係長は、次から次へとひどい言葉を並べたてた。
「お前マジで社会人失格だからな。商談に遅れるとか、こんな責任感のない奴だとは思わなかったわ。お前が今回の商談をすっぽかしたことと、俺がうまくまとめたってことは、上に報告しとくから覚悟しとけよ」
人命救助を優先しただけですっぽかしたつもりはこれっぽっちもない。それはさっき必死で説明したはずだ。しかも、今までほとんど商談に関わっていなかったくせに、手柄まで横取りするなんて。怒りで目の前が真っ赤になったが、今回係長に迷惑をかけたのは紛れもない事実だ。そう思い、俺はぐっとこらえることにした。
係長は大きな仕事を成功させたとして、会社で表彰されることになった。皆に褒められてヘラヘラ笑っている係長の顔を見た時は、本当にやるせない気持ちになった。一方、俺は今回の件が原因で、しばらく雑用ばかりやらされるようになった。まともな仕事は一切与えられない。まるで空気のように扱われ、自分がこの会社にいる意味を見出せなかった。
「お前みたいなのに任せられる仕事なんてあるわけないだろう。無能はお茶でもしてろ」
部長に相談することも考えたが、元は自分の不始末だと思うと気が進まない。これも修行だ。いつか終わるはずだと信じて、俺は辛い日々を耐え忍んだ。
そんなある日のことだった。事故にあったあの若者が、俺の会社に挨拶にやってきたんだ。彼の名前は山内湊、25歳。あの事故でそのまま入院し、今回病院から無事退院したばかりだった。担当医から俺の名刺をもらい、わざわざ挨拶に来てくれたらしい。対応したのは偶然にも部長だった。部長は山内さんを連れて俺の部署にやってきて、係長と俺を呼び出した。
「どういうことだ?中谷。大原君が人命救助をして商談に遅れたなんて話、俺は聞いていないぞ」
部長が大声で係長を叱ると、係長は罰の悪そうな顔で言い訳を並べ立てた。
「大原は普段から態度が悪いとか…どんな理由にせよ、時間に遅れるのは社会人失格だ」
「そうか」部長は係長を「この大バカ者」と怒鳴りつけた。普段は温厚な部長だが、怒ると誰よりも怖いのは社内でも有名な話だった。怒られて泣きそうになっている係長を横目に、山内さんは俺に感謝の意を伝えてくれた。ただ、係長の俺への当たりがかなり強いことを感じ、どこか責任を感じているらしい。
「俺のせいで色々大変だったみたいで。すみません。今回の件でまた何か問題が起きたら、教えていただけるとありがたいです」
そう言って、俺に連絡先を渡してくれた。優しい心遣いに、心がほっと温かくなった。
係長は部長に促され、しぶしぶ俺に謝罪してくれた。まあ、本意ではないことは明らかだったけど、一応自分の非を認めてくれた。これで明日からは気持ちよく仕事ができる。この時の俺はそう思っていた。でも現実は違った。中谷係長は納得も反省も全然していなかった。むしろ、それまで以上に俺に強く当たるようになった。
「本当に目障りなんだよ、お前。いいか?お前が仕事を過った事実なんだからな。仕事を過る無能は首だ。首」
部長が見ていないところで、係長は陰湿に俺に絡んできた。もちろん仕事はもらえない。無能だからとトイレ掃除やお茶汲みばかり命じられ、部下の前でもひたすらコケにされる地獄のような日々。終わることのない嫌がらせに、俺はほとほと嫌気がさしていった。いっそ会社をやめてしまおうか。他の会社に転職して一からやり直そうか。そんな考えも頭をよぎった。けれど、どうしても退職届を書く気にはなれなかった。俺はこの会社の仕事が大好きだ。中谷係長のせいでこの仕事を諦めるなんて、絶対に嫌だ。
そんなある夜、一人でとぼとぼと帰宅していると、山内さんから連絡が来た。
「その後どうですか?お変わりないですか?」
優しい言葉に、俺はつい愚痴をこぼしてしまった。全然仕事を回してもらえないこと。毎日辛く当たられていること。山内さんが会社の人間じゃないから、素直に心の内を吐き出せたんだと思う。
「口ばかりですみません。自分の実力不足だと思うので、少しずつ認めてもらえるように頑張ります」
「大原さんは何も悪くないですよ。それにしても許せないですね。よし、俺に任せてください」
山内さんはそう言ってくれたけど、あの係長をどうにかできるとは思えなかった。それに、部長も長期出張に出ていなかったし。でも、山内さんの気持ちはありがたくて、俺は「気遣ってくれてありがとうございます」とお礼を伝えた。
その翌日のことだった。会社に黒づめのスーツを着た集団がやってきたのは。小太りでガタイが良くて、明らかにサラリーマンの雰囲気じゃない。そんな連中がゾロゾロと受付に向かっていき、対応することになった女性社員は今にも泣き出しそうになっている。一体何があったんだと、誰もが固唾を飲んで彼らの動向を見守った。彼らが向かった先は、なんと社長室。しばらくすると、黒づめの集団の一人が俺に気づいて駆け寄ってきた。何かしでかしたのかと焦っていると、彼はサングラスを外した。
「もう大丈夫です。恩返しに来ましたよ」
見覚えのある、ニコニコとした人懐っこい笑顔。そこにいたのは、なんと山内さんだったんだ。驚いている俺に、「任せてくださいって言ったでしょ」と彼はいたずらっぽい笑みを浮かべた。一体何者なんですか、という俺の問いには答えず、彼は俺の手を掴み社長室に連れて行く。社長室なんて、俺みたいな平社員は今まで一度も入ったことのない場所だ。何が何だかわからず、まごまご緊張していると、そのうち中谷係長も社長室に連れてこられた。係長も何が何だか分からず、挙動不審な顔をしている。そんな係長に、社長と、それから黒づめの集団の中で一番威厳に満ちた怖い顔の男性が同時に顔を向ける。係長の肩がビクッと跳ね上がった。
「今日はあなたとゆっくり話がしたいと思ってきたんですよ。山内組と言えば、分かりますかね?私は山内組の組長、山内孝志と申します」
山内組?俺でも聞いたことがある。ここにいるのは極道の連中ってことだ。係長は顎が外れそうなほど驚いて、言葉も出なかった。それを見て組長は満足な顔をした後、俺に向かって頭を下げた。
「大原さん、息子が大変お世話になりました。あなたのおかげで息子は後遺症もなく一命を取り止めたのだと医者から聞きました。本当はすぐにでも挨拶をしたかったのですが、大勢で行くと怖がらせてしまうかと思いまして、控えていたんです」
まさか山内さんがヤクザの息子さんだったなんて。そういえば、あの事故の時、山内さんは滅多に見ないような高級車に乗っていた。あの時は焦っていて何とも思わなかったけど、今思えば普通、山内さんのような若い人が乗れるようなものじゃない。組長は俺に心から感謝していること、そして、あの件のせいで俺が困っていることを聞いて、いても立ってもいられなかったのだと説明してくれた。説明を聞きながら、中谷係長の顔色はますます真っ青になっていく。
ただ一つだけ、分からないことがあった。こんなに大勢で会社に乗り込んで、こんなにすんなり社長室に通されたことだ。社長は一体どう思っているんだろうと、恐る恐る様子を伺うと、彼は至って冷静な顔つきで成り行きを見守っている。
係長は今にも泣きそうになりながら、社長にすがりついた。
「助けてください!俺は何も知りません!」
そんな彼に、社長はにっこりと恐ろしい笑みを向けた。
「実はね、中谷君。俺と組長は昔から一緒に喧嘩をした仲なんだよ」
へ?
そして社長と組長は、唖然とする係長を前に、楽しそうに昔話を始めた。家が隣同士で毎日のように遊んでいたこと。社長はもちろんサラリーマンだけど、ヤクザとかサラリーマンとか関係なく、今もずっと親友であること。そして、社長はあらかじめ組長から今回の件を詳細に聞いており、係長の態度は大いに憤慨していること。
「まさか我が社にこんなとんでもない人間が紛れ込んでいるとは思わなかったよ。人命救助した部下を罵り、仕事の手柄まで横取りしたらしいじゃないか。そんな最低なことをするなんて。社会人失格なのは君の方だ。言い逃れしようとしても無駄だからな」
社長にビシッと言われて、係長はへなとその場に崩れ落ちた。ここには自分の味方は一人もいない。それをようやく悟ったんだろう。恐ろしい顔の黒づめの男たちと社長に睨まれ続け、やがて中谷係長はボロボロと泣き出した。泣きながらお得意の言い訳を必死で並べ立てたけど、残念ながらそれで味方になる人間はいない。中谷係長は観念し、俺に向かって床に額を擦りつけながら土下座した。
「大原さん!本当に申し訳なかった!もうやらないから、どうか許してくれないか!頼む!彼らをなんとかしてくれ!」
子供のように泣きじゃくる係長を見て、正直胸がスカッとした。かわいそうだとは思わない。部長に叱られた時にちゃんと反省していれば、こんなことにはならなかったんだから。
社長は、係長の態度は社内のコンプライアンスに反するとして、処分の対象にすると約束してくれた。中谷係長はずっと泣き喚いて謝罪していて、山内さんたちが帰った後もひどく落ち込んでいた。結局、仕事する気にはなれなかったのか、早退していった。
出張から帰った部長は、ことの顛末を聞いてびっくり仰天。同時に、係長の行いが以前より悪くなっていたことを知り、俺に謝罪してくれた。
「気づいてやれなかった。俺の責任だ。辛い思いをさせて済まなかったな、大原君」
社長は部長とも相談し、中谷係長の処遇を決定することに。普段から係長の態度なども考慮して、我が社の社員にはふさわしくないと判断を下した。その結果、中谷係長は30日間の出勤停止。係長がいない代わりに、その能力に似合った人物として係長代理に抜擢されたのは、大原君しかいない。
「社長も君の働きぶりには期待しているんだ。これからも会社のために、どうか頑張ってほしい」
まさか俺が係長代理になるなんて。こんな幸運が舞い降りてくるなんて、思いもしなかった。俺は思いきり自分の能力を発揮できる環境となり、前よりバリバリ働けるよう、より会社に貢献できる人材へと成長できるように必死で努力した。そして30日後、係長が復帰した後も、係長より皆に頼られるようになった。係長は今回のことが原因で、皆から白い目で見られるようになった。それで居づらくなったのか、ほどなくして退職を提出。係長がいなくなった後は、俺が正式な係長となった。
部長も山内さんも、俺のことを心からお祝いしてくれた。あの地獄のような日々が嘘みたいな、幸せな毎日だ。仕事って、こんなに楽しいものだったんだな。これからももっともっと会社に貢献できるように、世のため人のために頑張っていきたいと思う。



