「その汚れた手で、俺の車に触るなと言っただろう。」…

「その汚れた手で、俺の車に触るなと言っただろう。」...

「その汚れた手で俺の車に触るなと言っただろう。」

岐阜の病院から帰宅した夜、夫は車のキーをテーブルに投げつけながら、私にそう言った。香水と煙草の匂いが混ざったスーツ。夫は、私をまるでゴミでも見るかのような冷たい目で見下ろしていた。

私は怒鳴らなかった。泣き叫びもしなかった。ただ、エプロンのポケットの中にある1枚の下着を、静かに握りしめていた。夫は自分が完全に私を支配していると勝手に思い込んでいた。けれど、この時の夫はまだ知らなかった。私が今日の午後、夫の車の助手席の下から、ある女性の下着を見つけていたことを。そして、それがすでに、最も残酷な宛先へ発送されていることを。

私は何も言い返さず、テーブルの上に落ちた車のキーを拾い上げた。
「お義父さんの着替えが多かったので、少しだけ車を使わせてもらいました」
私がそう言うと、夫は鼻で笑った。
「親父の着替えなんて、タクシーで行けばいいだろう。でも、着替えや日用品もたくさんあったので、言い訳をするな。俺の車に病院の匂いを持ち込むなと言ってるんだ」

結婚して25年、私はずっとこの家のために尽くしてきた。特にここ数年は、義父の介護で自分の時間など全くなかった。義父は半年前から重い病気で入院している。私は毎日、バスと電車を乗り継いで義父の病院へ通っていた。しかし、実の息子である夫は、仕事が忙しいという理由で、月に一度しか見舞いに行かない。それどころか、私が義父の世話をすることすら、どこか邪魔に思っているようだった。

「親父も、もう長くないんだ。お前が毎日通ったところで、遺産が増えるわけじゃないぞ」
数日前、夫は冷たいお茶を飲みながら、そんなことを言った。私はその言葉を聞いた時、手が震えた。実の父親の命をお金としか考えていない夫。私は悲しみよりも、深い怒りを感じた。それでも私が耐えていたのは、義父のためだった。義父は私を、実の娘のように大切にしてくれていた。義父の細くなった手を握るたび、私はこの人の最後の時間を守りたいと思っていた。

今日の昼間、私は義父の退院手続きの準備のため、どうしても車が必要だった。夫は昨日から出張だと言って、車を家に置いたまま新幹線で出かけていた。私は夫にLINEでメッセージを送ったが、返事はなかった。迷ったが、大量の荷物を運ぶため、予備のキーで車を出した。夫の車は、1ヶ月前に買い換えたばかりの高級車だ。ドアを開けた瞬間、私は小さな違和感を覚えた。新車の匂いの中に、甘い香りが混ざっていたのだ。これは私が決して使わない、若い女性が好むような香水だった。

気のせいかもしれない。私はそう自分に言い聞かせ、エンジンをかけた。しかし、助手席のシートに座った時、さらに妙なことに気づいた。シートの位置が私の背丈に合っていなかったのだ。私よりも少し背が高い人が、背もたれを倒してくつろいでいたような角度。そして足元のマットには、小さなラメのようなものが落ちていた。夫は会社役員だ。仕事で誰かを乗せることはあるかもしれない。しかし、この甘い香りとシートの角度は、明らかにプライベートなものだった。

病院の駐車場に車を止め、荷物を下ろそうとした時、助手席のシートの下に、何かピンク色の布が落ちているのを見つけた。タオルだろうか。そう思って手を伸ばした瞬間、私は息を飲んだ。それは、高級なシルクの女性用下着だった。新品ではない。明らかに誰かが着用して、脱ぎ捨てたものだった。なぜ夫の車の助手席の下に、こんなものが落ちているのか。答えは一つしかなかった。出張だと言っていた日、夫は誰かと密会し、この車の中で、いや、どこかの場所で過ごしていたのだ。そして慌てて着替えた女性が、下着を一つ落としていった。

私はその下着を指先でつまみ上げた。タグの裏には、小さな文字でイニシャルが記されていた。「M」。そのアルファベットを見た瞬間、私の中に一人の女性の顔が浮かんだ。夫の秘書をしているミホさんだ。彼女は30代半ばで、いつもブランド物の服を着ていた。以前、会社の創立記念パーティーで挨拶した時のことを思い出した。彼女はそう言いながら、私を値踏みするような目で見ていた。そして彼女から漂っていた香水の匂いは、今この車内に充満している匂いと、全く同じものだった。

私は下着をジップロックに入れ、バッグの底に隠した。病室に行くと、義父は静かに眠っていた。私は義父の寝顔を見ながら、心の中で謝った。夫の裏切りは、これが初めてではなかった。過去にも怪しいことはあったが、その度に私は目をつぶってきた。けれど、もう限界だった。私の尊厳をここまで踏みにじる人を、これ以上夫と呼ぶことはできない。私は病院の帰り道、コンビニに寄った。そして茶色の小さな封筒を買い、その下着を入れた。宛先はミホさんの自宅ではなく、彼女の夫である、タダオ先生に宛てた。

タダオ先生は、義父が入院している病院の医師だった。何度か病室で挨拶をしたこともある、とても真面目で患者思いの優しい先生だ。私は差出人を書かず、中に1枚だけメモを入れた。「あなたの妻が、車に忘れていったものです」。私はそれを宅配便の窓口に差し出した。受付の女性が配達指定日を尋ねた。
「明日の朝一番でお願いします」
私は静かな声でそう答えた。

そして今、夫は私の目の前で車のキーをいじくりながら、不機嫌そうにため息をついている。私はエプロンのポケットから、宅配便の控えを取り出した。明日の朝、あの封筒がタダオ先生の手に渡る。夫の嘘が崩れ去るまで、あと数時間。私はただ、明日の朝が来るのを静かに待っていた。けれど、その翌朝、病院で私を待ち受けていたのは、想像を絶する光景だった。

夫のいびきが薄暗い寝室に響いていた。私はベッドの中で静かに目を閉じていた。明日の朝になれば、全てが壊れる。その恐怖よりも、私の中には不思議な安堵感があった。なぜ私は今まで、この冷たい夫に耐えてきたのか。理由はただ一つ、義父の存在だった。私がこの家に嫁いできたのは、25年前のことだ。当時の夫は、今ほど自己中心的な人間ではなかった。でも会社で出世し、役員に手が届く頃から、少しずつ変わっていった。家事を手伝うことはなくなり、私を見下す言葉が増えた。
「誰の稼ぎで飯を食っていると思っているんだ」
それが夫の口癖になった。心が折れそうになった私を救ってくれたのは、いつも義父だった。5年前に亡くなった義母も、本当に優しい人だった。義母が息を引き取る直前、私はその手を握って約束した。
「お義母さんのことは、私がしっかり守りますから」

義父が倒れたのは、半年前の冬の朝だった。庭の掃除中に突然倒れ、私はパニックになりながら救急車を呼んだ。夫はゴルフ旅行中で、何度電話しても連絡がつかなかった。一人で手術室の前で待つ時間は、生きた心地がしなかった。幸い命は取り留めたが、義父には重い後遺症が残った。病院の面談室で開かれた家族会議の時、今でも覚えている。
「施設なんて金がかかるだけだ。弓子が毎日通って世話をすればいい」
夫は義父の前で平然とそう言った。医師や看護師がいる前で、まるで私を下働きのように扱ったのだ。義父は申し訳なさそうに、深く俯いていた。私は義父の震える手を握り、「私が通いますから、大丈夫です」と答えた。それから私の生活は、介護一色になった。朝早く起きて夫の食事を作り、昼は病院へ通い、夜は家の掃除をする毎日。それでも夫から感謝の言葉をかけられたことは、一度もない。

私の我慢にも限界が近づく出来事があった。それは3ヶ月前のことだ。近所のスーパーで買い物をしていた時、町内会の奥さんに声をかけられた。
「弓子さん、ご主人、最近忙しそうね。週末もゴルフバッグ持って出かけてたわよ」
私は少し戸惑った。その週末、夫は会社の急なトラブルで出勤すると言っていたからだ。その小さな違和感は、家計簿をつけている時に確信に変わった。毎月夫の口座から生活費が振り込まれる通帳がある。しかし、その月は振り込みが10万円も少なかった。私は夫に控えめに尋ねた。すると夫は、あからさまに不機嫌な顔をした。
「親父の医療費や見舞いの品で金がかかるんだ。俺の裁量で使う」
「でも、お義父さんの医療費はお義父さんの年金から払っていますよ」
「うるさいな。俺が稼いだ金だぞ。いちいち詮索するな」
夫はそう言って、飲んでいたビールの缶をテーブルに叩きつけた。

私は、ある日、夫のスーツのポケットから、高級レストランのレシートを見つけていた。私には節約しろというくせに、何万円もするコース料理を食べている。そのレシートの裏には、いつもあの甘い香水の匂いが染みついていた。

先週、義父が急に私の手を強く握ってきたことがあった。
「弓子さん、あの引き出しを開けてくれないか? 」
義父が指さしたのは、病室にある小さな床頭台の奥だった。私は言われた通りに一番下の引き出しを開けた。そこには古びた茶色の封筒が入っていた。
「それは弓子さんが持っていてくれ。これは浩司には内緒だよ。あいつは最近、俺の財産を探しているみたいだからね」
封筒の中には、義父の別の通帳と古い印鑑が入っていた。そして、走り書きされた短い手紙が添えられていた。「弓子さんへ。自分の人生を大切に生きなさい。本当にありがとう」。その震える文字を見た時、私は病室で声を殺して泣いた。義父は夫の異変に、ずっと前から気づいていたのだ。この通帳にあるお金は、義父が私のためだけに残してくれたものだった。

時計の針が朝の6時を回った。私はベッドから起き上がり、静かに朝食の準備を始めた。夫は7時過ぎに起きてきて、不機嫌そうにネクタイを締めた。
「今日は昼から親父の病院に行ってやる。ミホも一緒に行くからな」
その名前が出た瞬間、私はコーヒーを注ぐ手を一瞬止めた。夫は、どんな神経で愛人を義父の病室に連れてくるつもりなのか。
「分かりました。病室でお待ちしています」
私は感情を押し殺してそう答えた。夫は満足そうに頷き、足早に家を出ていった。ドアが閉まる音がした瞬間、エプロンのポケットの携帯を見た。画面には、宅配便の配達完了通知が表示されていた。時刻は午前8時10分。タダオ先生の自宅に、あの下着が入った封筒が届いた時間だ。

夫が家を出た後、私は再び車庫に向かった。昨日運びきれなかった義父の荷物を、今日も病院へ届けるためだ。夫は昨夜、「その汚れた手で俺の車に触るな」と冷たく言い放ったが、今日は電車で会社へ行った。私は予備のキーを使い、静かに運転席のドアを開けた。車内にはまだ、あの甘い香水の匂いが僅かに残っている。私は息を止めながらシートに座ってエンジンをかけた。パネルに光が灯り、カーナビの画面が自動的に立ち上がった。画面の端には「目的地履歴」という小さなボタンがある。普段なら夫のプライバシーを探るような真似はしない。けれど、昨日の下着のことがあり、私は無意識にそのボタンに指を伸ばしていた。

画面が切り替わり、ずらりと過去の目的地が並んだ。一番上にあるのは、昨日私が使った病院の住所だ。問題はその下だった。日付は、夫が「急な出張」だと言って家を開けた先週末のものだ。そこに残されていた目的地を見て、私はハンドルを握る手に力を込めた。表示されていたのは、県外の有名な高級温泉旅館の住所だった。さらに驚かせたのは、その次の履歴だった。「○○公証役場」。それは、遺言書や任意後見契約などの公的な書類を作成する場所だ。温泉旅行の帰り道に、わざわざ立ち寄ったのだろうか。その瞬間、義父が病室で怯えたように言っていた言葉が蘇った。
「あいつは最近、俺の財産を探しているみたいだからね」

点と点が、私の中で確かな形になって繋がった。夫は単にミホさんと不倫をしているだけではない。義父の財産を自分だけのものにするため、法的な準備を進めているのだ。私はスマートフォンを取り出し、カーナビの履歴を全て撮影した。1枚、また1枚とシャッターを切るたび、私の心は静かに冷えていった。もうあの男に情けをかける必要は、一切ない。

午前10時、いつものように病院の駐車場に車を止め、ロビーへと歩いて行った。私が病棟へ続くエレベーターを待っていた時だった。
「佐藤さん」
背後から低く落ち着いた声で名前を呼ばれた。振り返ると、白衣を着た男性が立っていた。ミホさんの夫であり、この病院の勤務医であるタダオ先生だった。いつもの穏やかな笑顔はなかった。彼の目の下にはうっすらと隈ができていた。
「お義父さんの容体は、今は安定しています。ただ…」
先生は言葉を濁し、声を潜めた。
「ご主人は、今日もいらっしゃいますか? 」
「はい。昼から、秘書の方を連れてくると言っていました」
その言葉を聞いた瞬間、タダオ先生の表情が僅かに強張った。今朝届いたあの封筒は、間違いなく彼の元に届いている。先生はそれ以上深くは語らず、別々の方向へ歩いていった。

病室に入ると、義父は窓の外をじっと見つめていた。
「お義父さん、おはようございます。今日の午後、浩司さんが来るそうです」
私がそう伝えると、義父の笑顔がすっと消えた。
「会社の秘書の方も、一緒に来るそうです」
その言葉を聞いた瞬間、義父は小さくため息をついた。
「弓子さん、あいつが来る前に、一つだけ教えておきたいことがあるんだ」
義父は枕元の引き出しから、1枚の紙切れを取り出した。それは病院の売店で売られているメモ帳の切れ端だった。そこには震える字で、いくつかの数字が書かれていた。
「浩司が、その秘書の女を連れてきた時、私が寝ていると思って話していたんだ。あいつらは、私の預金残高と、この家の土地の価値を計算していたんだよ」
義父の言葉に、私は言葉を失った。やはり、夫の目的は遺産だった。
「弓子さん、あいつらは今日、私に何か書類を書かせるつもりだ」
義父の震える声が、静かな病室に響いた。私はメモ帳の切れ端をしっかりと握りしめた。そして同時に、今日の午後、この病室で何かが起こることを予感した。

時計の針は午後1時を少し回ったところだ。夫がミホさんを連れてくるまで、あと少し時間があった。私は深呼吸をして、バッグの中からスマートフォンを取り出した。画面を操作し、音声の録音アプリを立ち上げる。私は録音ボタンを静かに押し、画面を暗くして、床頭台のティッシュボックスの裏に隠した。
「お義父さん、大丈夫です。私が必ず守りますからね」
私がそう言うと、義父は安心したように小さく頷き、目を閉じた。

午後1時半、廊下からコツコツという高いヒールの音が近づいてきた。それに続いて、夫の傲慢な低い話し声が聞こえてくる。私は立ち上がり、姿勢を正して病室のドアを見つめた。ガラリとドアが開き、夫が胸を張った態度で入ってきた。その後ろから、ミホさんが姿を現した。ベージュの高級なスーツを着て、ブランド物のバッグを腕にかけている。病室に入ってきた瞬間、あの甘い香水の匂いが広がった。昨日の昼間、夫の車の中に充満していた、あの嫌な匂いと全く同じだ。
「親父、調子はどうだ? 今日は少し顔色がいいじゃないか」
夫は私を完全に無視して、義父のベッドに近づいた。声のトーンだけは優しいものの、その目は全く笑っていない。
「今日はわざわざ、会社の書類を持ってきたんだ。親父にも確認してもらおうと思ってな」
夫はそう言いながら、私をちらりと横目で睨んだ。
「弓子、お前は外に出ているか?

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下の売店でコーヒーでも買ってこい」

以前までなら、夫にそう言われれば私は黙って病室を出ていた。しかし、今日の私は違う。
「いいえ。私はここにいます。お義父さんが急に咳込むといけませんから、私が静かにしています」
私ははっきりとそう答えた。夫は驚いたような顔をしたが、すぐに下卑た笑みを浮かべ、ミホさんに軽く目配せをした。ミホさんは慣れた手付きでバッグから茶色い封筒を取り出し、中から分厚い書類を取り出した。
「親父、今後の病院の支払いとか、実家の管理のことで書類を作ったんだ。ここに名前を書いて、印鑑を押すだけでいいから」
私は少しだけ身を乗り出し、その書類の一番上にある文字を見た。そこには「財産管理委任契約」と書かれていた。やはり、夫の目的はこれだった。義父の意識がはっきりしているうちに、全財産の管理権を自分に移すつもりなのだ。
「さあ、社長、こちらにサインをお願いいたします」
ミホさんが金色の高級なボールペンを義父に差し出した。義父はそのボールペンを見つめたまま、布団の中で手を動かさなかった。
「どうした? 親父、手が痛いのか」
夫が苛立ったように声を少し荒げた。
「今日は目がよく見えないんだ。老眼鏡がないと、字が書けない」
義父の震える小さな声に、夫は露骨に嫌な顔をした。
「弓子、親父の眼鏡はどこにあるんだ? 早く出せ」
夫が私に向かって怒鳴りつけた。私は静かに立ち上がり、夫の目をまっすぐに見返した。
「お義父さんの老眼鏡は、昨日私が家に持ち帰りました。フレームが少し歪んでいたので、修理に出すためです」
もちろん、それは嘘だった。義父の老眼鏡は、今も私のバッグの奥深くに隠してある。夫の顔が一気に怒りで赤くなった。
「お前、本当に気が利かないな。今すぐ家に取りに帰れ! 」
「それに、主治医のタダオ先生からも、今日は無理をさせないようにと言われています」
私がタダオ先生という名前を口にした瞬間、ミホさんの体が、微かに揺れた。彼女は自分に気づかれないよう、不自然に目をそらし、ボールペンを持つ手を下ろした。
「医者が何だって言うんだ。親父、明日必ずサインしてもらうからな」
夫は書類を乱暴に封筒に突っ込み、足早に病室を出ていった。ミホさんは私と目を合わせることなく、逃げるようにその後を追った。残されたのは、きつい香水の匂いだけだった。

ドアが完全に閉まったのを確認し、私は息を吐き出した。ティッシュボックスの裏からスマートフォンを取り出し、録音アプリの停止ボタンを押した。財産を狙って、無理やりサインをさせようとした音声が、しっかりと残っている。
「弓子さん、ありがとう。助かったよ」
義父が心底安堵したような声で言った。
「お義父さん、もう大丈夫ですよ。あの書類には、絶対にサインさせませんから」
私は義父の手を優しく握った。小さな反撃だったが、夫の計画を一つ止めることができたのだ。

その時、病室のドアを控えめにノックする音が聞こえた。入ってきたのは、若い看護師だった。
「佐藤さん、少しよろしいですか?

1階の家族面談に、お客様がいらっしゃっています。佐藤さんに、どうしてもお会いしたいと」
看護師は、1枚の名刺を私に手渡した。その名刺に書かれた名前を見た瞬間、私は心臓が冷たくなるのを感じた。そこには「○○不動産鑑定事務所」と書かれており、裏面には見慣れた字で走り書きがあった。『義父の妹のケイ子です。待っています』。ケイ子さんは夫の妹で、夫と同じように見栄っ張りで、昔から私を見下していた。私は嫌な予感を抱えながら、1階の家族面談室へと向かった。

部屋のドアを開けると、ケイ子さんが腕を組んで座っていた。
「遅いわね、弓子さん。人を待たせるのが平気なのね」
ケイ子さんは冷たい声で言い放ち、テーブルの上に1枚の書類を投げ出した。それは、私たちが住んでいる実家の土地と建物の査定書だった。金額の欄には、数千万円という大きな数字が書かれている。
「兄から聞いたわよ。お父さん、もう長くないんでしょう。だから今のうちに、この家を売る準備をしているの」
「お義父さんはまだ生きています。勝手なことはしないでください」
「勝手じゃないわよ。兄が正当に相続するんだから。それにね、兄はもうすぐ新しい人生を始めるの。あなたみたいな、病院の匂いが染みついたおばさんじゃ、隣を歩けないの」
その一言は、短く鋭く、私の心を深く刺した。25年、私がこの家のために尽くしてきた時間は、一体何だったのだろうか。
「弓子さんは、ただの便利な無料の下働きだったのよ。お父さんが亡くなったら、もうあなたの居場所はこの家にはないわ。だから、少しでも若いうちに、自分から出て行ってくれない? 」
彼女はまるで、不用品でも片付けるかのような口調でそう言った。私は膝の上で、自分の荒れた手をしっかりと握りしめた。悲しくて、悔しくて、涙が出そうになった。夫だけでなく、義妹までもが私と義父を、物のように扱っている。私は一度、深く息を吸い込んだ。ここで私が感情的になれば、相手の思うつぼだ。義父がこっそり渡してくれた通帳の存在を思い出し、私は顔を上げ、ケイ子さんの目をまっすぐに見つめた。
「ケイ子さん、お義父さんはまだ生きています。それに、この家はお義父さんのものです。あなたたちのものではありません」
「何よ? 強がっちゃって。遺言書だって、どうせ兄の思い通りになるわよ」
「それはどうでしょうか。私にも、妻として、そしてお義父さんの家族として、考えがあります」
私はそれだけ言うと、静かに立ち上がり、面談室を出た。

ドアを閉めた瞬間、少しだけ足が震えた。しかし、私の中にはかつてないほど強い覚悟が生まれていた。もう、ただ黙って耐えるだけの自分は終わりにしよう。法律の知識がない私一人では、彼らの悪意に対抗できない。専門家の力が必要だ。私は廊下の隅に立ち、スマートフォンを取り出した。そして、数ヶ月前に市の無料法律相談で出会った、女性弁護士の番号に電話をかけた。
「はい、○○法律事務所でございます」
「以前相談させていただいた佐藤と申します。先生にお会いしたいのですが」
私は震えを抑え、はっきりとした声で予約を取った。明日の午後、私は弁護士事務所へ向かうことになる。反撃のための準備が、いよいよ本格的に始まった。

病室へ戻ろうとした時のことだ。私のスマートフォンの画面が明るくなり、着信を知らせた。画面に表示されたのは、登録されていない見知らぬ番号だ。普段なら出ないのだが、なぜかこの時は胸騒ぎがした。私は通話ボタンを押した。
「もしもし」
電話の向こうから、しばらく沈黙が続いた。そして、低く押し殺したような男性の声が聞こえてきた。
「佐藤さんの奥様ですね」
その声を聞いた瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。声の主は、タダオ先生だった。
「今朝、私の自宅に、荷物が届きました」
タダオ先生の声は静かだったが、僅かに震えているように聞こえた。彼はあの封筒の中身を見て、全てを悟ったのだろう。そして、差出し人が私であることにも。
「あれは、間違いなく妻のものです」
「突然あのようなものをお送りして、申し訳ありませんでした。ただ、私にはもう、あのような形でしか真実をお伝えすることができませんでした」
「いいえ、感謝しています。ずっと違和感がありました。妻が残業と言って遅くなる日が増え、休日に出かけることも多くなっていたのです。佐藤さん、あなたのご主人は、妻といつからそのような関係だったのでしょうか? 」
「半年前、お義父さんが倒れた頃からだと思います。先週末も、会社の出張と偽って、二人で県外の温泉へ行っていたようです」
私はカーナビの履歴で知った事実を、冷静に伝えた。電話の向こうで、先生が深く息を吐く気配がした。
「佐藤さん、病院でのご主人の態度や、お義父さんへの強引なやり取りも、看護師から聞いております。お義父さんの安全と尊厳を守るためなら、私は全面的にあなたに協力します。私自身も、妻とご主人に対して、相応の対処をするつもりです」
その言葉は、暗闇の中で途方に暮れていた私にとって、初めての大きな光だった。一人で戦わなくてもいい。自分を信じてくれる味方ができたという実感が、私の背中を強く押してくれた。

翌日の午後、私は事前に予約していた法律事務所を訪ねた。私を迎えてくれたのは、50代半ばの落ち着いた女性弁護士、高橋先生だった。私は昨日の病室で録音した音声データを再生し、タダオ先生への下着の発送、カーナビの履歴の写真、ケイ子さんに突きつけられた査定書、そして義父が書いてくれた手書きのメモも見せた。高橋先生は録音を聞き終えると、眼鏡の奥の目を光らせた。
「佐藤さん、よくぞここまで冷静に証拠を集められましたね。この録音は非常に価値が高いです。意識がもうろうとしている患者に対し、無理やり財産管理の契約を結ばせようとする行為は、明白な詐欺罪の共犯にあたります。そして、この下着の件は、不貞行為の証拠としても申し分ありません。相手の秘書の夫側とも連携が取れているのであれば、慰謝料請求は極めて有利に進められます」
高橋先生は手帳を開き、具体的な対策を書き込み始めた。
「今、私たちが優先すべきことは二つあります。一つは、お義父さんの財産を完全に守ること。もう一つは、佐藤さん自身の今後の生活を保証することです。お義父さんの意思がはっきりしているうちに、公正証書遺言を正しく作成することです。そして、成年後見人の申し立てを行い、ご主人が勝手に口座からお金を引き出せないように、凍結の手続きを取りましょう。すぐに、お義父さんの主治医に診断書を書いてもらい、公証人に病院まで出張してもらいましょう」
先生の迅速で明確なアドバイスに、私の心から不安が消えていった。長年夫の支配で、自分は何もできないと思い込まされていたが、正しい知識と専門家がいてくれれば、私にもできることがあるのだと実感した。
「佐藤さん、これまでのご苦労は、本当に大変なものだったでしょう。でも、我慢する必要はありませんよ。あなたは何も悪くないのですから」
高橋先生の優しい一言に、私の目から静かに涙がこぼれた。

法律事務所を出た後、私はその足で、義父がメインで使っている地元の銀行へ向かった。窓口で事情を説明し、義父から預かっていた通帳と印鑑を提示した。
「佐藤様、お義父様の口座ですが、念のため、代理人以外の引き出しに制限をかける手続きをお取りしますね」
銀行員さんは丁寧に対応してくれた。夫が勝手に口座から大金を下ろせないように、講じてくれたのだ。夕方自宅に戻ると、夫からのLINEが表示されていた。
「おい、親父の保険証はどこだ?

明日手続きで使うから出しておけ」
私はそのメッセージを読んでも、以前のようにビクビクすることはなかった。
「保険証は私が管理しています。必要な手続きは全て私が済ませました」
そう返信を送ると、すぐに夫から着信があった。私は画面を見つめたまま、電話には出なかった。夫は今頃、自分の思い通りにならない苛立ちを募らせているだろう。けれど、自分が頼りにしているミホさんの家庭がすでに崩壊しかけていることも、義父の財産を手に入れる道が完全に閉ざされたことも、そして、見下していた妻が静かに自分を追い詰める網を広げていることも、夫はまだ何も気づいていない。

翌日の午前中、私はいつもより少し早く病院に到着した。病棟へ続く廊下を歩いていた時だった。階段の重い鉄の扉の向こうから、聞き覚えのある声が漏れてきた。夫とミホさんだった。
「ちょっと、浩司さん、話が違うじゃない。早くしてくれないと困るわ。あの土地とお金が手に入らないと、都内のマンション買えないわよ」
「分かってる。親父も最近ボケてきてるからな。今のうちに、無理やりでも判を押させるさ。財産の管理権を手に入れれば、後はどうでもなる。あの家を売って、親父は一番安い県外の施設にでも放り込めばいい」
私はバッグからスマートフォンを取り出し、静かに録音ボタンを押した。
「でも、奥さんはどうするの? あの人、最近なんだか生意気じゃない? 」
「弓子か。あいつは1円も渡さずに追い出すよ。元々、取るに足らないただの家政婦だ。離婚届を突きつけて、サインしなければ親父の世話を一人でやらせると脅せばいい。あいつは親父を見捨てられないからな。結局、泣き寝入りして出ていくさ」
夫は、私の義父への思いやりを、自分の都合のいいように利用しようとしていた。
「それよりミホ、お前の旦那は大丈夫なのか? 」
「タダオのこと?

大丈夫よ。あんな真面目なだけのつまらない男、何も気づいてないわ」
「早く離婚して来いよ。俺の金が手に入ったら、すぐに結婚しよう」
「もちろんよ。でも、タダオの財産も半分はしっかりもらうわ。医者の貯金、馬鹿にならないもの」
ミホさんは、自分の夫を裏切りながら、その財産まで奪おうとしている。足音が遠ざかっていくのを確認し、私は録音を停止した。手は震えていたが、それは悲しみからではない。この冷酷な二人に、絶対に義父の財産を渡してはいけないという、強い決意の震えだった。

午後2時、病院の面談室に、高橋弁護士と、白髪の公証人の先生が到着した。そして、白衣を来たタダオ先生も同席してくれた。私たちは一緒に義父の病室へと向かった。公証人の先生が義父のベッドの横に座り、優しく声をかけた。
「正尾さん、今日は、あなたの財産をどうしたいか、ご自身の口からお聞かせください」
義父は一度私の方を見て、そして、ゆっくりと、しかしはっきりとした声で答えた。
「私の家と、全ての預金は、息子の嫁である弓子さんに譲ります」
「実の息子さんである浩司さんではなく、弓子さんでよろしいのですね」
「はい。間違いありません。息子は、私の命よりお金が大事なようです。ですが、弓子さんは違います。私の人生の最後を、人間らしく扱ってくれたのは、弓子さんだけです。弓子さんには、私の財産で新しい自分の人生を生きて欲しい。それが、私の最後の願いです」
義父の言葉を聞いて、私は声を殺して泣いた。

手続きが終わり、弁護士と公証人が帰った後、廊下に出た私に、タダオ先生が声をかけてきた。
「佐藤さん、ご主人は今日、病院には来ていませんね。おそらく、何か企んでいるのでしょう。もし明日、また来るようでしたら、私に知らせてください。医師として、そして一人の人間として、責任を持って対応させていただきます」
「先生、ありがとうございます。お互い、負けないようにしましょう」
私たちは廊下で、小さく頭を下げ合った。

夕方、義父の夕食の手伝いを終えて、私は自宅に帰った。リビングでは、夫がソファに深く腰かけ、腕を組んでいた。その顔には、勝ち誇った笑みが浮かんでいた。
「遅かったな。病院で油でも売っていたのか。まあいい。これを書け」
テーブルの上に、一枚の書類が置かれていた。それは、緑色の縁取りがされた離婚届だった。夫の署名と印鑑は、すでに済まされている。
「お前みたいな気の利かない女とは、もう終わりだ。さっさと判を押して、明日にはこの家から出ていけ」
私はテーブルに近づき、その紙を見下ろした。
「どうした? 声も出ないか? 25年間、お前はこの家に置いてやっていただけだ。感謝して、大人しくサインしろ。お前には、慰謝料も財産分与も1円も払わないからな」
夫は鼻で笑いながら、追い打ちをかけるように言った。

その時、テーブルの上の夫のスマートフォンが震えた。夫はスピーカー通話にして、楽しそうに電話に出た。
「おお、ケイ子か。今、あの女に離婚届を突きつけたところだ」
「あら、本当? お兄ちゃん、さすがね。あの女、どんな顔してるの?

泣いて許しを乞うの? 」
「いや、声も出ないみたいだぞ。あまりのことにショックを受けて固まってるよ」
「当然よね。今まで無料で住まわせてもらって、食べさせてもらっていたんだから。出ていく時は、手ぶらのままよ。ねえ、お兄ちゃん。あの家が私の分の新築マンションの頭金になるんだから、忘れないでね」
「分かっているよ。親父の財産を動かせるようにするからな。お前にも、ちゃんと分け前をやるさ」
二人は、生きている義父の財産をどう分け合うか、楽しそうに話し合っていた。

私は、エプロンのポケットの奥にある、録音機能が起動したスマートフォンを握りしめた。夫と義妹の卑劣な会話は、全て録音データとして記録されていた。夫は電話を切ると、ビールを一口飲み、私に冷たい視線を向けた。
「聞こえただろう。これが現実だ。お前に残された道は、今すぐサインをして、明日には荷物をまとめて出ていくことだけだ」
私は差し出されたペンを見つめ、それからゆっくりと夫の顔を見た。
「分かりました」
私は静かにそう答え、テーブルの上の離婚届を手に取り、自分のバッグへとしまった。
「おい、なんでバッグに入れるんだ? 今、ここでサインしろと言っているんだ」
「私にも準備があります。この書類は、明日、お返しします」
私の声には、何の迷いも怯えもなかった。
「一つだけ確認させてください。お義父さんの介護は、これからどうするつもりですか? 」
夫は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「そんなもの、どこかの安い施設に放り込めばいいと言っただろう。俺たちが世話をするわけがない」
「お義父さんは、あなたのお父さんですよ」
「うるさい。金にならない老人なんて、生きていても意味がないんだよ」
その瞬間、私は心の中で、夫との関係を完全に断ち切った。もう、この男にどんな情けをかける必要もない。

一人薄暗い部屋の中に立ち尽くし、私は静かに自分の部屋へ戻った。高橋弁護士から預かった、正式な書類の束がある。そこには、夫に対する慰謝料請求と不当な財産要求に対する拒絶、そして不貞相手であるミホさんへの慰謝料請求の書類が同封されていた。私はそれを、大切に抱きしめた。長年耐え続けてきた屈辱と悲しみが、静かな決意へと変わっていく。

私はクローゼットからボストンバッグを取り出し、自分の衣服や大切な思い出の品を詰め始めた。義父から預かった通帳と印鑑、そして実家の権利書も、しっかりと奥にしまった。夫は明日には出ていけと言った。その言葉通り、私はこの家を出るつもりだ。しかし、それは追い出されるのではない。私自身の意志で、この家と夫という存在を完全に切り捨てるためだ。

荷造りを終えると、窓の外がうっすらと白み始めていた。冷たい朝の空気が、部屋の中に流れ込んでくる。私はボストンバッグをかつぎ、クリアファイルをしっかりと抱えた。この家に戻ってくることは、もう二度とない。静かに玄関のドアを開けると、冷たい朝の風が頬を撫でた。25年間暮らしたこの家に、私は一度だけ深く頭を下げた。義母が残してくれた温かい思い出と、義父が守ってくれた時間に、感謝を込めて。そして、私は前を向いて歩き出した。向かう先は、義父の病院。全ての嘘を終わらせるための、新しい一日が始まった。

午前8時半、朝日が眩しく差し込む病院のロビーに、私はボストンバッグを抱えて立っていた。手に握りしめたクリアファイルには、彼らの悪事を証明する全ての証拠が収まっている。ロビーの自動ドアが開き、カツカツと軽快なヒールの音が響き渡った。現れたのは、ミホさん。そしてその隣には、胸を張った夫の浩司。さらに後ろからは、派手なバッグを肩にかけたケイ子さんが続いていた。悪役たちが、まるで勝利のパレードでも行うかのように、三人揃って歩いてきたのだ。
「あら、弓子さん、本当に大きなバッグを持って、出ていく準備をしてきたのね。身の程知りじゃない。素直で助かるわ」
「離婚届は、ちゃんと書いてきたんだろうな。判を押していないなんて言ったら、ただじゃ済まさないぞ」
「奥様、長年の介護、本当にご苦労様でした。社長のお仕事やご家庭のことは、これから私が責任を持って支えて行きますわ。どうぞ、安心してお引き取りくださいね」
三人は顔を見合わせ、満足そうにクスクスと笑い合った。私は怒鳴らなかった。取り乱すことも、泣いて許しを乞うこともなかった。ただ静かに三人を見つめ、短い言葉を返した。
「準備は、全て整っています」

夫は勝ち誇った足取りで、義父の病室のドアに手をかけた。
「親父、迎えに来てやったぞ。さあ、昨日の書類に判を押…」
その時だった。ガチャリと音がして、ドアはビクともしなかった。鍵がかかっていたのだ。
「なんだ、なんで鍵がかかっているんだ。おい、親父、開けろ!


夫がイライラしながらドアノブをガチャガチャと回していると、廊下の奥から足音が近づいてきた。白衣を着た、背筋の伸びた男性。ミホさんの夫であり、義父の主治医である、タダオ先生だった。
「騒がしいですね。ここは病院です。静かにしてください」
「医者か。おい、なんで親父の病室に鍵がかかっているんだ。面会に来たんだから、早く開けろ」
夫は上から目線でタダオ先生につっかかった。タダオ先生は夫の言葉を聞いても、表情を変えなかった。その視線は、ゆっくりと夫の隣に立つミホさんへと向けられた。ミホさんは、タダオ先生と目が合った瞬間、急に体を強張らせた。
「みほ、なぜ君がここにいるんだ? 」
「え、ええ。あ、それは…社長のお父様のお見舞いで、秘書として付き添ってきたのよ。あなたには関係ないでしょう」
「秘書の仕事か。休日に二人で温泉へ行くのも、車の中で下着を脱ぎ捨てるのも、全て秘書の仕事なのか」
タダオ先生の口から飛び出した言葉に、廊下の空気が一瞬で凍りついた。夫は驚いたように目を見開いたが、すぐに顔を真っ赤にして言い返した。
「ふ、ふざけるな。証拠もないのに適当なことを言うな。俺は会社の役員だぞ。名誉棄損で訴えてやる」
その時、私のスマートフォンが静かに振動した。高橋弁護士からの着信だった。
「佐藤さん、準備が整いました。特別面談室で、皆さんをお待ちしております」
私は深呼吸をし、タダオ先生に向かって頷いた。そして、勝ち誇っていた三人に向き直り、静かに言った。
「浩司さん、ケイ子さん、ミホさん。お義父さんを苦しめるのは、もう終わりにしましょう。話なら、あちらの特別面談室で伺います。弁護士の先生も、お待ちですので」

案内された特別面談室には、グレーの長机といくつかのパイプ椅子が並べられていた。高橋弁護士はすでに上座に静かに座っていた。夫は苛立ちを隠せない様子で、乱暴に椅子を引いて座った。
「ただの離婚話に、弁護士なんか必要ないだろうが。俺は昨日、こいつに離婚届を渡したんだ。判を押して出ていけば、それで終わる話だ」
私は無言のままバッグから緑色の用紙を取り出した。昨日、夫が勝ち誇った顔で私に押し付けてきた離婚届だ。私はそれを、高橋先生の前のテーブルに静かに置いた。
「浩司さん、弓子さんは、離婚という結論自体には同意しておられます」
その言葉を聞いた瞬間、夫の口元に歪んだ笑みが浮かんだ。
「ほら見ろ。弁護士なんか連れてきても、結局俺の言う通りにするしかないんだよ」
「ただし…」
高橋先生の声が、一段と低く重くなった。
「あなたが提示した、この条件では、決して応じることはできません」
「条件だと? ふざけるな。慰謝料も財産分与も1円も払わないと、昨日もはっきり言ったはずだぞ」
「あなたが先ほどから『遺産』とおっしゃっていますが、お義父様の財産は、あなたのものではありません。まだお義父様はご存命です。そして、お義父様の口座は、現在、全て凍結の手続きに入っています」
「凍結だって? 勝手なことをするな!

俺は実の息子だぞ! 」
「長男であっても、本人の同意のない引き出しは、横領に当たります。昨日、あなたが銀行の窓口で引き出しを断られたのは、すでに防犯措置が取られていたからです」
夫の顔から、さっと血の気が引くのが分かった。昨日、夫が早く帰宅して不機嫌だったのは、仕事が早く終わったからではない。義父の口座からお金を下ろそうとして、銀行で拒否されたからだったのだ。
「親父の金がすぐに使えないなら、俺名義で家を売る手続きを進めるだけだ。遺言書なんてないんだから、俺が相続するに決まってる」
夫はまだ、自分が有利だと信じて疑わない。一方、隣に座るミホさんは、夫の計画が狂い始めているのを察知し、顔色を悪くしていた。
「あの、浩司さん、私、そろそろ会社に戻らないと。これは佐藤さんのご家族の問題ですよね。部外者の私は、これで失礼させていただきますわ」
ミホさんが立ち上がろうとした瞬間、ドアの前にずっと立っていたタダオ先生が、静かに一歩前に出た。
「君は、部外者じゃない。むしろ、ここからが君の本題だ」
タダオ先生は白衣のポケットから、一通の茶色い封筒を取り出した。それは昨日、私がタダオ先生の自宅に送った封筒だった。先生はそれを、ミホさんの目の前に静かに置いた。
「開けなさい。みほ」
ミホさんの顔が一瞬にして真っ白になった。彼女は力なく首を横に振ったが、タダオ先生は許さなかった。
「佐藤浩司さん」
タダオ先生は鋭い視線を夫に向けた。
「これは、私の妻が、あなたの車の助手席に忘れていった下着です」
その言葉が面談室に落ちた瞬間、夫の顔から全ての表情が抜け落ちた。夫は、自分が不倫相手の夫が働く病院で、偉そうに怒鳴り散らしていたことに、ようやく気づいたのだ。ミホさんは、すがるような声で言い訳を始めた。
「違うの、タダオ。これは誤解なのよ。私はただ、社長に無理やり付き合わされて、断れなかっただけで…」
自分の保身のために、あっさりと夫を売るミホさん。夫は信じられないという顔で、ミホさんを睨みつけた。
「おい、みほ、お前、何を言ってるんだ? お前の方から誘ってきたんだろうが! 」
つい数分前まで勝ち誇ったように笑い合っていた二人が、今は見苦しい責任の押し付け合いをしている。
「先週末、実家の母の具合が悪いと言って出かけたよな。そう、それは温泉旅館の履歴も、全てこちらに証拠として揃っている。君の嘘は、もう一つも通用しないんだよ」
ミホさんは言葉を失い、パイプ椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。

夫は、開き直ったようにテーブルを叩いた。
「不倫がバレたくらいで、ガタガタ騒ぐな。俺はどうせ弓子とは離婚するんだ。慰謝料くらい払ってやるよ。親父の遺産が入れば、お前らに払う小銭くらい、痛くも痒くもない。俺には、実家の土地と親父の預金があるんだからな」
夫はまだ、義父のお金にすがりついていた。私は深くため息をついた。
「浩司さん、あなたは本当に、お義父さんを何だと思っているのですか?


「親父はもう長くない。俺が財産をもらって、有効に使ってやるのが、一番の親孝行だ」
その言葉を聞いて、私は高橋弁護士に小さく頷いた。高橋弁護士はスマートフォンを操作し、テーブルの中央に置いた。再生ボタンが押されると、昨日、病院の非常階段で録音した夫とミホさんの声が、静かな面談室に響き渡った。
「親父のやつ、急に検査が入ったとかで、病室に入れてもらえなかったんだよ」
「早くしてくれないと困るわ。あの土地とお金が手に入らないと、都内のマンション買えないわよ」
「今のうちに、無理やりでも判を押させるさ。あの家を売って、親父は一番安い県外の施設にでも放り込めばいい。あんな匂いのきつい老人、俺たちの新しい生活には邪魔なだけだ」

実の父親をゴミのように扱う、あまりにも残酷で冷たい会話。義妹のケイ子さんは、信じられないという顔で夫を見つめた。
「お兄ちゃん、お父さんを、安い施設に捨てるつもりだったの? それに、私にマンションの頭金をくれるって言ったのも、全部嘘だったの? 」
「ち、違う。これは言葉の綾だ。適当に話を合わせていただけだ」
「最低! 私、もう帰るわ。こんな話、巻き込まれたくない」
ケイ子さんは顔を真っ赤にして、逃げるように面談室から出ていった。録音はまだ止まらない。
「タダオのこと?

大丈夫よ。あんな真面目なだけのつまらない男、何も気づいてないわ。タダオの財産も半分はしっかりもらうわ。医者の貯金、馬鹿にならないもの」
その言葉が流れた時、ミホさんは短い悲鳴を上げた。
「違うの、タダオ、許して。あれは、彼に話を合わせていただけで、本心じゃないの! 」
「君の本当の顔が、よく分かったよ。私はすでに、弁護士を通じて離婚の準備を進めている。君の不貞行為に対する慰謝料請求も、同時に行う。君の居場所は、もう私の家にはない」
タダオ先生の冷徹な一言が、ミホさんの全ての希望を打ち砕いた。

自分の不倫相手が完全に崩れ去ったのを見て、夫は一人でパニックに陥っていた。
「お、お前ら、勝手に録音するなんて犯罪だぞ! プライバシーの侵害だ! 」
「浩司さん、この録音は、あなたがお義父様に対して、無理やり契約を結ばせようとしていた明確な証拠です。そして、あなたがどれだけ騒ごうと、お義父様の財産があなたの手に渡ることは、永遠にありません」
高橋弁護士は、分厚い資料の中から一枚の書類を取り出した。
「これは、昨日公証人によって作成された、公正証書遺言の写しです。お義父様の全ての預金並びに、現在お住まいの実家の土地及び建物は、全て佐藤弓子さんに遺贈すると、明確に記されています」
「そんなバカな!

俺は実の息子だぞ! 長男なんだぞ! 親父はボケてるんだ! 病院のベッドで頭が狂ってたんだ!

この女が騙して、無理やり書かせたんだよ! これは詐欺だ! 認知症の老人を言いくるめて作った偽物の遺言書だ! 裁判を起こして無効にしてやる!


夫が狂ったように叫ぶと、静かに壁にもたれかかっていたタダオ先生が、ゆっくりと歩み出てきた。
「佐藤浩司さん、医師である私の前で、その主張を通せると思っているのですか? 私は昨日、公証人と弁護士が立ち会った際、お義父様の認知機能テスト及び精神状態の診断を行いました。お義父様の記憶力、判断能力、意識状態は全て正常であり、完全に健全な意思決定ができる状態であることを、医師として正式に診断書として証明しております。認知症の症状など、一切ありません」
医師による完璧な診断書。それがある限り、「ボケていた」「騙された」という言い訳は、一切通用しない。夫はさらに逆切れした。
「お前は医者のくせに、俺を嵌めたのか! 」
「嵌めたのではありません。私は、患者様の意思と尊厳を守っただけです。そして、妻と不倫をし、私の家庭を壊したあなたに対して、法的な責任を追求する準備をしたまでです。これは私からの内容証明郵便です。あなたと私の妻であるみほに対し、不貞行為による精神的苦痛の慰謝料として、それぞれ500万円の支払いを請求します」
「500万円? ふざけるな!

そんな大金、払えるわけがないだろう! 」
「払っていただきます。あなた方が、どれほど卑劣な理由で私を裏切り、傷つけたか。裁判で争うつもりなら、結構です。あの温泉旅行の記録も、下着の証拠も、全て提出いたします」

夫は助けを求めるように、床に座り込んでいるミホさんを見た。しかし、ミホさんは自分のことで精一杯だった。
「あ、お願い、許して。私、浩司さんに騙されていたのよ。『妻とはもうすぐ離婚する。会社のお金も土地も手に入る』って言われて…」
ついさっきまで「社長」と呼んで甘えていた男を、あっさりと「嘘つきの悪者」として切り捨てたのだ。
「おい、みほ! どの口がそれを言うんだ! 奥さんを追い出して二人で暮らそうって言ったのは、お前だろうが!

マンションの頭金が欲しいってねだったのも、お前だろうが! 」
「私はそんなこと言ってない! あなたが無理やり私を車に乗せたんじゃない! 」
「嘘をつくな!

この泥棒猫が! 」
狭い面談室で、かつて愛し合っていたはずの二人が、見苦しく罵り合っていた。自分の欲のために他人を踏みにじってきた二人が、最後にはお互いを食い荒らし始めたのだ。

「もう、おやめなさい」
私が静かに口を開くと、部屋の中が一瞬で静まり返った。私は席から立ち上がり、クリアファイルを手に取った。
「浩司さん。あなたが昨日、勝ち誇った顔で私に渡してきた離婚届です。覚えていますか? あなたが言った通り、私はこの家を出ていきます。けれど、追い出されるのではありません。私が、あなたという人間を捨てるのです」
私は、高橋弁護士から受け取った書類を、夫の前に置いた。
「これは、私からの離婚条件です。慰謝料の請求。そして、長年のDVやモラハラに対する賠償請求です。お義父さんの遺産は、1円たりともあなたには渡りません。そして、今私たちが住んでいる実家からも、あなたに出て行ってもらいます」
「な、何だと? 俺に出ていけだと?

あの家は、俺の実家だぞ! 」
「お義父様があの家を全て弓子さんに譲ると、遺言書に残されたからです。土地も建物も、所有権は全て弓子さんに移ります。あなたは不法占拠者となりますので、来月末までに退去していただきます」
夫の顔から、完全に色が失われた。自分の家だと思っていた場所。自分が相続するはずだった土地。その全てが、見下していた妻のものになり、自分は家を追い出される立場になったのだ。夫は、ガタガタと震える手で頭を抱え、パイプ椅子に崩れ落ちた。
「そんな、そんなこと、あるわけがない…」
私はクリアファイルをしっかりと抱きしめ、夫に最後の言葉をかけた。
「お義父さんの介護を『金にならない』と言い捨てたあなたに、あの家を継ぐ資格はありません。さようなら、浩司さん」
私は背筋を伸ばし、一度も振り返ることなく、面談室のドアへと向かった。

「待ってくれ、弓子! 嘘だろう! 」
面談室のドアに手をかけた私の背中に、夫の震える声がすがりついてきた。それは、先ほどまでの傲慢な男の声ではなかった。全てを失う現実に直面し、怯えきった、ひどく惨めな声だった。私は静かに立ち止まり、ゆっくりと振り返った。夫は、ガタガタと震える手で、必死に長机の端にしがみついている。
「25年だぞ。俺たちは、25年も一緒に夫婦としてやってきたじゃないか。俺が悪かった。少し、舞い上がっていただけなんだ。お前を追い出すなんて、本気じゃなかった」
「その25年間、あなたは一度でも、私を大切な家族として見てくれましたか?

お義父さんが倒れた日も、あなたは不倫相手と旅行をしていました。私が毎日病院へ通い、見えない不安に押しつぶされそうになっていた時も、あなたはこの人を連れて、財産をどう奪うか計算していました」
私は、床に座り込んで泣いているミホさんに視線を移した。
「あなたが、私を見捨てたのです、浩司さん。自分の父親の命を『金にならない』と言い捨てたその瞬間、あなたは人間として最も大切なものを捨てたのです。来月末までに、家の中にあるあなたの荷物を、全て出してください。もし残っていたら、業者に頼んで処分します」
私はそれだけを言い残し、今度こそ完全に背を向けた。重い扉を閉めると、後ろから夫が何か叫ぶ声が聞こえたが、ドアが閉まると同時に、その声は完全に遮断された。

廊下に出ると、病院の白い蛍光灯の光が、眩しく感じられた。私は手にしたクリアファイルを胸に抱きしめ、深く、ゆっくりと息を吐き出した。肺の奥底に溜まっていた、長年の我慢という重い空気が、全て抜け出ていくような感覚だった。数分後、面談室のドアが再び開き、高橋弁護士とタダオ先生が出てきた。
「佐藤さん、お疲れ様でした。とても立派でしたよ。これで、法的な手続きは全て、滞りなく進めることができます」
「先生、本当にありがとうございました。先生のおかげで、私は最後まで立っていることができました」
「佐藤さん」
タダオ先生が低い声で私を呼んだ。
「私の妻が、あなたとご家族に多大なご迷惑をおかけしました。本当に、申し訳ありませんでした」
「やめてください、タダオ先生。先生は何も悪くありません。むしろ、先生がいてくださったから、お義父さんの遺言書も守られたのです」
「ご主人が、お義父様の病室に二度と近づけないよう、病院側としても正式に面会禁止の措置を取らせていただきました」
その言葉に、私は胸がいっぱいになった。
「ありがとうございます。これで、お義父さんも、やっと安心して眠ることができます」
「お互いに、ここからが本当の人生の再出発ですね」
タダオ先生の言葉に、私は強く頷いた。

私は高橋弁護士と別れ、一人で義父の待つ病室へと向かった。エレベーターを降り、静かな病棟の廊下を歩く私の足取りは、昨日までとは全く違っていた。一歩踏み出すごとに、自分自身の足でしっかりと地面を踏みしめている実感があった。病室のドアの前に立ち、小さく深呼吸をして、ノックした。義父はベッドを起こし、窓の外に広がる青空を静かに見つめていた。
「お義父さん」
私が声をかけると、義父はゆっくりと顔を向け、優しく目を細めた。
「弓子さん、終わったのか? 」
「はい。全て終わりました。浩司さんは、もうここへは来ません。お義父さんの大切なものは、全て守り抜きました。お義父さんが書いてくださった、あの遺言書のおかげです」
私の言葉を聞いて、義父は静かに目を閉じた。その目尻から、一筋の涙がすっと流れ落ち、白い枕に吸い込まれていった。
「弓子さん、辛い思いをさせて、本当に済まなかったね。そして、ありがとう。私の人生の最後に、弓子さんという本当の家族がいてくれて、私は幸せだ」
「お義父さん、『最後』だなんて、言わないでください。これからは、私のための人生が始まります。だから、お義父さんも、私の新しい人生を、一番近くで見ていてくださいね」
義父は何度も何度も頷き、私の手を強く握り返してくれた。

あの日から、1ヶ月が過ぎた。高橋弁護士の手によって、離婚手続きは滞りなく進められた。浩司さんは、最後まで見苦しく抵抗を続けたそうだ。自分が悪かった、やり直したいと、何度も身勝手な連絡をしてきたが、私の決意が変わることは一度もなかった。私は弁護士を通じて全ての連絡を遮断し、一度も会うことなく離婚届を提出した。タダオ先生からの高額な慰謝料請求を受け、さらに不倫の事実が会社内に知れ渡ったことで、浩司さんは役員の立場を失い、自主退職に追い込まれた。実家からの退去命令に従い、狭い賃貸アパートへ一人で引っ越していった。一方、ミホさんも、タダオ先生との離婚が成立し、多額の慰謝料を抱え、会社での立場も失った。二人が、再び会うことは二度となかったそうだ。

そして、もう一つ、嬉しい出来事があった。義父の病状が、奇跡的に回復したのだ。タダオ先生をはじめとする病院の方々の丁寧なリハビリと治療のおかげで、義父は車椅子を使って自分で動けるまでになった。退院の日、私は車椅子を押して、義父と一緒に我が家の玄関をくぐった。
「ただいま、弓子さん」
義父は感無量の面持ちで、明るくなった家を見渡した。
「お帰りなさい、お義父さん」

数日後、義父は箪笥の引き出しから、古い一冊の通帳を取り出した。病室で私に預けてくれた、義父の隠し通帳だ。
「弓子さん、この通帳の残高を、もう一度見ておくれ」
私は通帳の最後のページを開いた。そこには、数千万円という大きな金額が記されていた。
「これはね、私が若い頃から、万が一の時のために少しずつ貯めてきたお金なんだ。浩司がまともな人間に育っていれば、あいつに残すつもりだった。けれど、あいつはお金に目がくらみ、優しさを忘れてしまった」
義父は、私の両手をしっかりと握りしめた。
「弓子さん、お前はこの25年、自分の時間を全て私たち家族のために使ってくれた。旅行に行くこともなく、欲しいものを買うこともなく、ただひたすら尽くしてくれた。このお金は、お前が自分の人生を取り戻すためのものだ。好きなものを買いなさい。美味しいものを食べなさい。自分のために時間を使いなさい。弓子さん、お前はもう、誰の顔色も伺う必要はないんだよ。堂々と、自分らしく生きなさい」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で長年固まっていた最後の硬い結び目が、すっと溶けていくのが分かった。夫から「無料の下働き」「価値のない女」と貶められ、傷ついていた私の魂が、義父の深い愛情によって、完全に救われた瞬間だった。私は通帳を抱きしめ、義父の膝に顔を埋めて、子供のように泣いた。それは、悲しみの涙ではなく、感謝と安堵の涙だった。

私は今年で52歳になる。世間から見れば、決して若くはない年齢かもしれない。けれど、私の人生は、今ここから新しく始まるのだ。私は、ずっと興味があった地域のボランティア活動に参加し始めた。長年の介護経験を生かして、近所の高齢者の方々とお話をしたり、手助けをしたりする活動だ。また、今まで諦めていた自分の趣味も始めた。週に一度、料理教室に通い、季節の美味しい料理を学ぶようになった。家で新しいレシピを試すと、義父はいつも嬉しそうに食べてくれた。

晴れた日の午後、私と義父は、新しく作られた庭の縁側に座って、お茶を飲んでいた。庭には、私が植えた季節の花が綺麗に咲き誇っている。
「良い天気ですね、お義父さん」
私が入れたてのお茶を差し出すと、義父は嬉しそうに湯飲みを受け取った。
「そうだね。弓子さん。空が、本当に綺麗だ」
二人の間に、心地よい沈黙が流れた。以前のように夫の顔色を伺ったり、冷たい視線に怯えたりする日常は、もうどこにもない。ここにあるのは、穏やかな時間と、互いを思いやる温かい絆だけだった。私は自分の手を見つめた。かつては「下働きの手」と貶められた手。けれど、今のこの手は、義父の命を守り抜き、自分自身の未来を切り開いた、大切な手だ。人生に、遅すぎるということはない。私は湯飲みを持ち、青く晴れた空を仰いだ。長かった遠回りの末に、私はようやく、自分だけの本当の人生と、かけがえのない温かな家族を見つけることができたのだ。