実家のリビングは午後の光で満たされていた。母は湯呑みを置くと、まっすぐに俺を見た。冷静なのに、どこか人生を急かすような目つきだった。
俺は読みかけの新聞から目を上げる。返す言葉が見つからなかった。
俺の名前は佐山慎司。42歳。心臓外科医で、成功率99%と呼ばれている。患者の鼓動を安定させることにかけては、誰にも負けないつもりだ。ただ、自分の鼓動だけはどうにもならない。特に女性を前にすると、脈が勝手に早まる。学生時代からの情けない弱点で、40を過ぎた今も治っていない。
母は俺の沈黙を了承と受け取ったらしい。静かに切り出した。
「来週の土曜日、開けておきなさい。お見合いの席を用意したから」
「母さん、急にそんなことを言われても困るよ。仕事もあるし、心の準備というものが」
「準備? あなた、いつまで準備するつもりなの? 準備しているうちに人生の方が終わってしまうわよ」
俺は黙った。反論の材料は山ほどあるはずなのに、口から出てこない。手術室では即断即決ができるのに、母の前ではいつもこうだ。
「相手の方はね、弁護士さんよ。とても聡明な方だと聞いてるわ」
「弁護士?」
「あなた、頭のいい女性の方がいいでしょ。バカな相手じゃすぐに退屈するもの」
俺はため息をついて新聞を畳んだ。
「いいこと申し上げるわ。手術と同じよ。タイミングを逃したら大変なことになるのよ」
母の言葉はいつも妙に医学的だった。そして、大抵正しい。
指定された料亭は都心の路地裏にひっそりと建っていた。案内された座敷のふすまが開いた瞬間、俺は息を吞む。座敷に座っていた女性は黒のシンプルなワンピース姿だった。背筋を伸ばして座る姿に、隙のない知性が宿っていた。
俺はぎこちなく腰を下ろした。
「柊さやと申します。本日はお時間をいただきまして、ありがとうございます」
「こちらこそ、わざわざ足を運んでいただいて恐縮です」
声を出した瞬間、俺の心拍が静かに上がり始めた。脈拍90、いや95くらいか。医師として身体反応を観察するのは慣れているが、こういう時は逆に困る。
仲居が料理を運んできた。さやは箸を取る前に軽く頭を下げてから手を合わせた。所作の一つ一つに品格があった。
「佐山先生は心臓がご専門と伺いました」
「ええ、もう15年ほどメスを握っています」
「手術の成功率が99%だとか」
「数字はあくまで結果論ですから」
さやは微かに笑った。笑い方も控えめで美しかった。
「成功率99%とのことですが、残り1%についてはどうお考えですか?」
その一言で俺は箸を止めた。攻める口調ではなかった。ただ本質を見極めようとする、真っすぐな視線だった。俺は答えに詰まる。普段、患者の家族に対しても、こういう質問は受け流すための台詞がある。だが、この人の前では嘘くさく聞こえる気がした。
「残り1%は、私がこの仕事を続ける限り抱え続ける重さです。忘れたことは一度もありません」
さやは少しだけ目を見開いた。そしてゆっくりと頷いた。
「失礼な質問だったかもしれません。でも、安心しました」
「安心ですか?」
「数字で語る方なのか、人で語る方なのか、気になりましたので」
俺は何と返していいか分からず、湯呑みに手を伸ばした。会話はその後も続いた。仕事のこと、家族のこと、休日の過ごし方。気づけば、俺は普段なら口にしない些細な話まで喋っていた。
結論めいた話は最後まで出なかった。別れ際、玄関先でさやは深く頭を下げた。
「今日はありがとうございました。お話できてよかったです」
「こちらこそ」
「あの、また機会があれば」
「ええ、ご縁があれば」
タクシーに乗り込む彼女の後ろ姿を見送りながら、俺は妙な感覚に包まれていた。もっと自分のことを知ってほしい。そう思っている自分がそこにいた。
それから4日後の夜だった。同僚の鈴木が書類を抱えてやってきた。
「佐山、見合いはどうだった? おふくろさんから電話があったぞ」
「お前のところまで連絡が行くのか」
「あの人、人脈の使い方が外科より大胆だからな」
鈴木は笑いながら椅子に腰を下ろした。鈴木は冷静で、物の見方に偏りがない。こういう男が一人いると、医局の空気が締まる。
「で、相手はどんな人だ?」
「弁護士だ。聡明な人だった」
「お前がそう言うってことは、相当だな」
俺は曖昧に笑ってカップに口をつけた。その時、内線が鳴った。救急外来からだった。
「佐山先生、20代男性です。意識は戻っていますが、脈拍に乱れがあります。ご家族が先生をご指名でして」
俺は受話器を握り直す。指名というのが引っかかった。白衣を羽織り直して、救急外来へ向かった。
処置室のカーテンを開けた瞬間、俺は足を止めた。ベッドの脇に立っていたのは、柊さやだった。
「佐山先生」
「柊さん、どうしてここに?」
「弟です。柊孝太。先ほど駅で倒れたと連絡があって」
俺は反射的にカルテに目を落とした。洞性不整脈、失神の気配。ベッドの上の男性がゆっくりと目を開けた。
「あ、姉ちゃんが言ってた先生ですか。佐山です。少し検査をさせてください」
検査の結果は思いがけないものだった。自律性の心拍リズム不安定症候群。珍しい体質で、命に関わるものではない。だが、強い緊張や感情の動きで脈が乱れ、失神してしまう。根治は難しく、うまく付き合っていくしかない種類のものだ。
俺は廊下でさやに説明した。言葉を選びながら、できるだけ穏やかに伝えた。
「命に直結するものではありません。生活習慣の見直しと、必要に応じた投薬で十分にコントロールできます。まずは様子を見ながら」
「先生」
さやの目はまっすぐに俺を見ていた。
「様子を見るでは困ります。弟はもう何年もこの体質で苦しんできました。職場でも何度も倒れて、その度に肩身の狭い思いをしているんです」
俺は背筋が伸びるのを感じた。医師として軽い言葉を選んだ自分が恥ずかしかった。
「失礼しました。様子を見るという言い方は撤回します。明日から具体的な治療計画を立てます。孝太さんの生活に合わせて、最善の方法を一緒に考えさせてください」
さやはしばらく俺を見つめていた。それから深く頭を下げた。
「先生、よろしくお願いします」
蛍光灯の白い光の下で、俺の心拍はまた静かに上がっていた。医師としてだけではない。一人の男として、この人に答えたい。
孝太の治療方針は翌週から本格的に始まった。しばらく入院することになった。この病気は大きな手術で根治させるような病ではない。微細な電気的調整と生活習慣の指導を組み合わせて、ゆっくりと安定を取り戻していく。派手さはないが、一つ一つの判断が患者の日常を左右する繊細な治療だ。
孝太は姉とは対照的に明るい性格だった。診察室に入ってくるなり、いつも軽口を叩いた。
「先生、今週も生きてますよ。一回も倒れませんでした」
「それは何よりです。ただ、もう少し別の指標で報告してもらえますか?」
「厳しいな。姉ちゃんと同じこと言うんだから」
さやは弟の隣でじっと静かに座っていた。診察の度に同席し、こちらの説明を一言も聞き漏らすまいという姿勢でメモを取る。時々、鋭い質問が飛んでくる。
「先生、このお薬は長期服用での副作用について、どの程度のデータが蓄積されていますか?」
「国内では10年、海外では20年以上の症例があります。重篤な副作用の報告はほとんどありません」
「『ほとんど』というのは具体的には」
「腎機能への影響が千人に一人程度。定期的な血液検査で管理可能な範囲です」
さやは頷きながらメモに数字を書き留めた。弁護士としての職業性なのか、曖昧な言葉を許さない。こちらも気を抜けない。医師として、毎回が真剣勝負だった。弟を守りたい。その一心が、彼女の質問の根底にあった。
ある日の診察後、孝太が会計に向かっている隙に、さやが小さく頭を下げた。
「いつも細かい質問ばかりして申し訳ありません」
「いえ、助かっています。家族の方がそれだけ理解してくださると、治療もやりやすいです」
「弟は、私が大学生の頃に両親を続けざまに亡くしてから、二人で生きてきたんです。あの子が倒れるたびに、私は自分の無力さを思い知らされて」
そこで彼女は言葉を切った。
「すみません。こんな話」
「いえ、聞かせてもらえてよかったです」
俺はそれ以上何も言えなかった。ただ彼女の横顔を見ながら、心拍はまた少し上がっていた。
医局に戻ると、看護師の相澤が書類を運んできた。相澤はいつもニヤニヤしながら話しかけてくる。
「先生、柊さんの妹さん。いえ、お姉さんでしたっけ? 今日も真剣でしたね」
「家族として当然のことだ」
「先生の方も随分真剣でしたけど」
「医師として当然のことだ」
「ふうん。そうですか」
相澤は意味深に笑って出ていった。
治療が始まって一ヶ月ほどが経った日のことだ。孝太の経過は順調で、その日の心電図にも大きな乱れはなかった。
「電気的変動のばらつきが、当初より明らかに小さくなっています。この調子なら、来月からお薬の量を少し減らしてみましょう」
「お、ついに卒業か」
孝太は無邪気に笑った。それから、ふと思いついたように俺の顔を覗き込んだ。
「先生、聞いていいですか?」
「何でしょう?」
「先生も緊張すると脈が早くなりますよね。なんか分かるんですよ。同類の匂いというか」
俺は思わず手を止めた。さやがこちらに視線を向けるのが分かった。
「正直に言うと、その通りです。私は人前で、特に大事な場面でよく脈が上がります」
「ほら、やっぱり先生でもそうなんだ」
「ええ。だから私は慎重すぎるんです。何度もデータを確かめて、迷いがなくなるまで動けない。完璧じゃないとメスを握れない。そういう不器用なところがあります」
言ってから、やってしまったと思った。患者の前で口にすることではなかった。医師の弱さを見せることは、患者の不安につながる。
ところがさやは意外なことを口にした。
「迷う人の方が信頼できます。私の仕事でも同じです。即断する弁護士より、何度も資料を読み返す弁護士の方が、結局は依頼人を救います」
その声は穏やかだった。だが、芯のある言葉だった。
「ほら、姉ちゃんが珍しく褒めてる。先生、貴重な瞬間ですよ」
「ありがとうございます。励まされました」
そう言うのが精一杯だった。胸の奥に温かいものが残った。癒された。こんな経験は42年生きてきて初めてのことだった。
その日の診察は夜の7時を過ぎていた。最後の治療説明を終えて、孝太は先に帰っていた。夜勤が早いからと言って、さやは追加の書類にサインをするために残っていた。
病院の正面玄関を出ると、雨が降っていた。昼間は晴れていたのに、突然の通り雨だ。俺たちは並んで軒先に立ち止まった。
「傘、持ってきませんでした」
「私もです。天気を見る癖がなくて」
「お医者様なのに、案外うっかりされるんですね」
「人体のことは詳しいんですが、空のことは専門外でして」
さやは小さく笑った。雨の音が二人の間の沈黙を埋めてくれた。しばらくどちらも何も言わなかった。ただ雨を見ていた。不思議とその沈黙は苦しくなかった。
やがてさやがぽつりと言った。
「先生は、本当は優しい人ですね」
「どうしてそう思うんですか?」
「弟への説明も、丁寧すぎるくらい丁寧です。患者の年齢や職業に合わせて言葉を選んでらっしゃる。あれは相手のことを考えていないとできないです」
俺は返事に詰まった。褒められ慣れていない。特に、こういう静かな褒め方には。
「正直に言いますと、あなたの前だとどうも平常心でいられないんです」
言ってから、自分の言葉に驚いた。こんなことを口にする予定は全くなかった。さやはしばらく黙っていた。そしてゆっくりとこちらを向いた。雨の明かりに彼女の顔が照らされていた。小さな、本当に小さな笑みが口元に浮かんだ。
「光栄です」
それだけだった。ただそれだけの一言が、俺の胸の奥で深く響いた。心拍は激しく打っていた。やがてタクシーが来て、彼女は会釈をして乗り込んだ。
それから一週間が経った。孝太の通院も随分回数を重ねた。心電図のグラフは診察の度に穏やかな波形を描くようになっていた。発作はもうほとんど起きていない。定期通院への移行。それが今日の診察で正式に決まった。
「いや、長かったような、短かったような。先生には本当に世話になりました」
「世話というほどのことはしていません。孝太さんが生活習慣をきちんと守ってくれたからです」
「いやいや、それだけじゃないですよ。先生、いつも本当に丁寧でしたから」
さやは隣で静かに微笑んでいた。弟の回復を姉として心から喜んでいるのが、横顔から伝わってきた。
「今後は月に一度、経過観察に来てください。何か気になることがあれば、気兼ねなく連絡を」
「ありがとうございます。本当にお世話になりました」
さやはそう言って深く頭を下げた。その姿は、最初に料亭で会った日と同じだった。
孝太が立ち上がりかけて、ふと足を止めた。それから悪戯っぽい顔でこちらを見た。
「先生、最後に一つだけお願いがあるんですけど」
「何でしょう?」
「俺の心臓は安定したんで、今度は姉のも見てあげてください」
診察室が静まり返った。
「ちょっと、孝太」
孝太はニヤニヤと笑ったままだ。俺は苦笑するしかなかった。顔が赤くなっているのが自分でも分かった。胸の奥では鼓動が早くなっていた。
二人を送り出してから、俺は診察室の椅子に深く腰を下ろした。鈴木が書類を持って入ってきた。
「いい顔してるな」
「そうか?」
「ああ。患者を一人、ちゃんと送り出した顔だ。それともう一つ、何かありそうな顔だ」
俺は答えなかった。
その夜、俺は珍しく早く帰宅した。実家に立ち寄ったのは、特に用事があったわけではない。玄関を開けると、母が台所から顔を出した。
「あら、珍しいわね。連絡もなしに」
「たまには母さんの顔でも見ようかと思って」
「気持ち悪いことを言うのね。何かあったでしょう」
母は手早く茶を入れて、俺の前に湯呑みを置いた。湯気が立ち上る。
「柊さんね」
「なんで分かるんだ?」
「あなたが何も言わずに来る時は、大抵自分でも整理がついてない時よ。そして、今のあなたの整理がつかない理由なんて、一つしかないでしょう」
俺は苦笑してお茶を一口飲んだ。母にはいつまで経っても叶わない。
「あの人ならね、あなたをちゃんと叱ってくれるわね」
「叱るか」
「そう。あなたに必要なのは、守る相手じゃないの。対等に向き合って、時には言いにくいことも言ってくれる相手よ。あなた、自分一人だとすぐに慎重になりすぎて立ち止まってしまうから」
俺は黙って母の言葉を聞いていた。その通りだった。
「で、どうするの?」
「まだ決めかねている」
「ほら、また様子見なの?」
母は呆れたように笑った。
「いいこと申し上げるわ。手術と同じよ。タイミングを逃したらだめよ」
二度目の同じ言葉だった。最初に聞いた時よりも、ずっと重く、ずっと優しく俺の胸に落ちた。
週末の夕方、俺はさやを呼び出した。小さな喫茶店。さやは約束の時間より少し早く来ていた。
「孝太のことなら、電話でも済みましたのに」
「いえ、孝太さんのことではないんです」
俺は一度深く息を吸った。
「私は心臓は治せます。患者の不整脈なら、原因を見つけて整えることができます。15年、それをやってきました」
「ええ、知っています」
「でも、自分の鼓動だけはどうにもならないんです。あなたの前だと、42歳にもなって未だに脈が乱れる。データも取れない。何も分からない。手のつけようがないんです」
さやは目を見開いていた。俺は椅子から立ち上がって、深く頭を下げた。
「結婚してください」
頭を下げたまま、しばらく動けなかった。時計の針がいつもよりゆっくり進んでいる気がした。
長い沈黙の後、さやの静かな声が聞こえた。
「顔を上げてください、先生」
俺は顔を上げた。彼女は何かを考えるように、テーブルの上の茶碗を見つめていた。やがて目を上げて、まっすぐにこちらを見た。
「成功率はどのくらいですか?」
その問いに、俺は微かに笑った。最初に料亭で会った日、彼女が同じように問いかけてきたことを思い出した。あの時は答えに詰まった。だが、今度は違った。
「正直に言います。今の私には分かりません。結婚というものを私は経験したことがない。データもない。前例もない。ただ、これだけは言えます。あなたとなら、100%を目指します」
さやは口元に小さな笑みを浮かべた。
「では、長期的に見ましょう」
この言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥で何かが弾けた。聞き間違いようのない、確かな鼓動だった。42年生きてきて、これほど力強く、これほど穏やかな鼓動を俺は知らなかった。
窓の外では、該当の光が少しずつ夜に滲んでいた。彼女のカップから湯気が静かに立ち上っていた。
成功率99%の医師が、人生で初めて残りの1%に向き合おうとしていた。



