「あんた、あんたが行きなさいよ。あんな陰気な農家の男、私にふさわしくないわ」…

「あんた、あんたが行きなさいよ。あんな陰気な農家の男、私にふさわしくないわ」...

「買い物代、千円もらえる?」

野菜を並べていた夫の背中に、私は恐る恐る声をかけた。返事は、何気ない調子だった。

「店の金庫から持っていって」

頷いて金庫を開けた途端、私は思わず息を飲んだ。なんと中にあったのは、嘘のように綺麗な札束の山だった。意外な夫の正体に驚きつつ、幸せな結婚生活が始まる。優しい愛がひび割れた心を満たして、私の人生は大きく変わった。

数ヶ月後、私は自分を支配し続けてきた家族に、思わぬ復讐を果たすのだった。

私は佐川さや。年齢は34歳で、今は独身の会社員だ。家族は両親と、妹のかの三人。もうすぐ私は、かの代わりにお見合いをする。

子供の頃から、両親に褒められた記憶がなかった。どれだけ家の手伝いをしても当たり前と扱われ、失敗した時は強く叱られる。三歳年下の妹であるかとの扱いの差は、幼心にも違和感を抱くほど露骨だった。

アニメや漫画を楽しんでいるかを横目に、私は食器を洗い、洗濯物を取り込む。

「まま、私もあそびたい」
「何言ってんの?お姉ちゃんなんだから働きなさい。さぼったらご飯抜きだからね」

おやつのプリンも、用意されたのは妹の分だけだ。欲しくても与えられるどころか、太るのを心配した実の母から窘められる。

「だめでしょ。さやは可愛くないんだから、太ったらもっと困るでしょ」

幼い私はどうすることもできず、いつも黙って引き下がった。
顔立ちの愛らしいかは甘やかされているのに、私は家に居場所がない。服にしても、私に与えられたのは親戚の男の子のお下がりだ。可愛らしいワンピースや靴を買ってもらえるかが、羨ましかった。しかし、反抗すれば怒られるし、両親に見捨てられるのは怖かった。耐える以外の道が見つけられないまま、月日だけが過ぎていく。

恵まれているはずのかは、私の持ち物を欲しがる癖がある。友人がくれた鉛筆や消しゴムなど、何でも奪われた。

「お姉ちゃんの方がいい。欲しい」
「ほら、かよにあげなさい。グズグズ言わないの。お姉ちゃんなんだから」

両親は私の意思など確認せず、何もかもかへ渡す。念願のものを手に入れたかは、途端に興味を失って数日後には放置した。ゴミのように放り出されていても、私が取り返すと泣き喚くので何もできなかった。

時が過ぎ、私は十五歳になった。高校進学を控えても、父は最初から私に金を使う気がゼロだった。

「私立なんて論外だ。公立だけ受けろ。それ以外は認めん」

家より学校が好きだったおかげで成績が良かった私は、難関と言われる公立校に合格した。だが、進学後も制服代や教材費の相談をすると嫌な顔をされる。必要な費用すら簡単には出してもらえず、私は何度も親に土下座をし続けた。

「金が欲しいなら奨学金でも借りればいいんだ。それより今月のバイト代はどうした?早く家に金を入れろ」
「本当に金食い虫だよね。さやは何のために産んだのかわかんないわ」

必死に奨学金について調べ、親のサイン以外は全て自力で手続きを済ませた。申請が通った時は安堵したが、両親は奨学金の一部を当然のように取り上げる。

「ただで金をもらってるんだろう。お前の生活費の分を家に返せ」

高校卒業後は、就職を余儀なくされる。本当は大学に行きたかったが、認めてもらえなかったからだ。

「大学なんて無駄よ。女なんだから。どうせ結婚すれば主婦でしょ。働きなさい」

両親は勝手に就職先まで決め、父の知人がいるという会社に押し込まれた。仕方がないと割り切ろうとした数年後、かよが大学へ進学した。裕福な家庭の子女も多く通う私立大学だ。数年前の私には大学進学は無駄だと言った両親が、今回は惜しみなく学費を注ぐ。

「お姉ちゃんみたいに高卒で働くだけの人生じゃなくて良かった」

そう笑うかよを、私はただ見つめることしかできなかった。

就職から四年、二十二歳の私は相変わらず会社員として働いていた。高卒の事務員ではあるが、真面目な働きぶりを認められている。早く社会人になるのも悪くないと思うほど仕事は楽しかった。だが、給料を自由に使えたことは一度もない。いつも両親が勝手に引き出して、お金を持っていってしまうからだ。初任給の時からこの状況は続いている。就職に合わせて自分名義の通帳を作った時、私はまだ十八歳だった。未成年の口座には親の同意が必要だという母の嘘を疑わなかったのが悪い。当時の私は、珍しくにこやかに付き添ってくれたことに感謝までしていた。だが、母の目的はカードと暗証番号だったと後で気づく。銀行のカードは自宅に郵送され、両親が受け取ったきり私の手には渡らなかった。

給料日になるたび、憂鬱な気持ちになる。今回もまた残金二、三万程度にまで減らされているに違いないからだ。昼間は会社で働く私を知りつつ、専業主婦の母は勝手に口座からお金を引き出す。手元に残るのはわずかだけだった。

「ちゃんと生活費でしょ。家に住まわせてやってるんだから当然。かよの学費もきついんだから、協力するのは長女の務めだからね」

仕事を終えて帰宅すると、着替える間もなく台所に立たされる。夕飯を作り、洗濯機を回し、掃除を済まさねばならなかった。家事に追われている間、大学生になったかは友人と遊び歩いている。不公平だと思っても、口に出す勇気はない。悲しみや辛さを訴えるたびに強く叱られるだけだった記憶が、私に口を閉ざさせた。

ある休日、母に命じられた用事から戻った私は自分の部屋に入って目を見張った。昼食を切り詰めて買った化粧品や服が消えている。慌てて家族に問い詰めると、犯人はかだった。

「勝手に持っていかないで!すっごく苦労して買ったのに。早く返してよ」
「嫌味ったらしいなあ。姉妹なんだから貸してくれてもいいでしょ」

かよは両親に告げ口し、私が責められた。

「化粧品?お前、いい加減色気づくな。そんなものに金を使うお前の方が悪い」
「いちいち騒ぐなんて、本当に心が狭いわね」

そう言われ続け、最後には謝るしかない状態に追い詰められていた。声を殺してベッドの中で泣いていると、隣の部屋からかよの笑い声が聞こえた。電話中だったようだ。

「旅行行く行く。大丈夫。お姉ちゃんが稼ぐもん。お姉ちゃん就職してお小遣い倍になったよ」

全身から血の気が引いた。生活費だと言われて奪われた私の給料は、かよの遊ぶ資金にもなっていたのか。欲しいものを全部諦めて、私は家にお金を入れ続けてきたのに。ショックで頭の中が真っ白になった。怒りより先に押し寄せてきたのは、深い絶望だった。

忘れもしない、給料日前の昼休み。財布の中にはわずかな小銭しか残っていない。会社近くのスーパーで買った割引シール付きのおにぎりを、恥ずかしさをこらえて食べていると、通りかかった五十代の女性社員が足を止めた。

「何それ?ダイエット?十分痩せてるのに食べなきゃ元気出ないよ」
「ダイエットじゃないんです。給料日前で、お金がなくて」

答えた瞬間、相手の表情が変わった。事情を話すと、周りにいた同僚たちは全員真顔になっていた。

「普通じゃないわ。これは…経済的DVよ」

生まれて初めて、自分の暮らしぶりの異常さにはっきりと気づいた。実家暮らしで家にお金を入れている人は他にもいる。だが、大半を奪われるのはやはり異常らしい。みんな当たり前のように自分の人生を生きていた。自分が惨めになった。

「自分のお金を全部自分で使って暮らせたらいいのに。どんなに貧乏でもいいから、自由になりたい」

二十五歳になった年、私は本気でこの家を出ようと試みた。引っ越し先を探したが、最大の難関は保証人だった。頼れる親戚もおらず、保証会社を使うにしても先立つものがない。給料の大半を取られているため、少しずつしか貯金できない。改善策を探してたどり着いたのが資格取得だった。経理関係の資格を取れば給与が増えるし、転職にも役立つ。

必死に勉強を始めたが、隠していたテキストを母が見つけた。

「勝手に無駄なものを買って、何考えてるの?」
「仕事のためだよ。資格が取れたら給料が上がるのに」
「くだらん。そんな余裕があるならもっと家に金を入れろ」

大切にしていたテキストは、目の前で破られゴミ箱へ捨てられた。新しく作った自分だけの口座も、かよが私の鞄から通帳とカードを勝手に持ち出したことで露見した。

「こんなのあったよ。お姉ちゃん、へそくりなんて生意気だな」
「家族に隠れて金を貯めるなんて、何様だ」

通帳もカードも、あっさりと両親に取り上げられた。溜まっていたのは十万円足らずだったが、私にとっては貴重な軍資金だ。取り上げられてなるものかと必死に訴えたが、無駄だった。自分で作った口座を、自分で守ることすらできない自分が情けなかった。
その後も数年間、私は懸命に働いた。資格を取るために勉強を続け、会社でも責任を持って仕事をするよう努力した。次第に評価を得て給料は少しずつ上がったが、手元に残るお金は相変わらずわずかだった。両親は当然のように、私の口座からお金を持っていく。結局、家を出るための貯金すらままならないまま、時が過ぎた。

二十九歳の頃、そんな私に転機が訪れる。上司から、思いがけずお見合いの話を頂いたのだ。恋愛や結婚への期待より先に、家を出られる可能性への希望が胸を満たした。紹介された男性は、穏やかで優しそうな人で、年齢は私より一つ年下だった。緊張で声がかれる私の話を、彼は一度も遮らずに聞いてくれた。

もし両親やかよなら、すぐ話を遮って自分のことばかり喋り出すだろう。世間で言う当たり前が、私には新鮮に感じられた。

地味で仕事しか取り柄がないと思っていた私を気に入ってくれたのか、お見合いを終えた私はすぐに返事を出した。是非前向きにお付き合いしたいと。幸いなことに、相手からも良い返事をもらうことができた。

帰宅して、両親に報告する。すると、両親は私と相手が会ってきたことに驚いたような顔をした。そして、翌日、両親に呼ばれて食卓に座らされた。

「意外といい相手だったんだって。稼ぎもありそうだ。この話、かよに譲れ。お前よりかよの方が向いているだろう。すぐ仲人さんに連絡して」

突然の言葉が理解できなかった。言語としては意味が分かるはずなのに、脳が理解を拒んでいるようだった。

「どうして?私が紹介されたのに。私だって結婚を真剣に考えてるのよ」

声を上げたが、両親の反応は変わらない。柱の影で、ニヤニヤしているかよが目に入った。幼い頃、お気に入りの消しゴムや服を奪っていった時と同じ表情をしていた。昔からかよは、私が手に入れたものを何でも欲しがった。今回の縁談だけは簡単に諦められなかった。

「お願いだから、こっちの気持ちも考えてよ。私だってお父さんとお母さんの娘じゃないの」

必死に訴えると、両親は聞こうともせず、うるさそうに私を睨んだ。

「わがまま言うんじゃないの!かよの方がうまくいくでしょう。私たちの老後がかかってるんだから。お前なんかじゃ、気に入られるはずがない。鏡で顔見てこい」

冷たい言葉が、私を深く傷つけた。同時に、何もかも諦めていた今までとは違う感情も生まれた。悲しみと悔しさの奥で、心の限界を感じていた。
週明け、両親は私の気持ちを聞くことなく仲人に連絡を入れた。伴侶となるかもしれなかった相手は、かよのお見合い相手になってしまう。しかし、お見合いの結果は破談に終わる。

「なんなのよ、あんな男。こっちからお断りよ」

怒ったかよは、自分が断った側だと言わんばかりに相手を悪く言い続ける。だが、仲人から聞いた話は全く違った。相手の方から、断りの連絡が来たらしい。

「大変魅力的なお嬢様ですが、価値観が合わないとのことでして」

実は本人から明確な拒絶も届いている。収入について質問攻めにしたのが主な原因だろうと言われた。かよは、金目当ての本性が隠せていなかったのだ。さらに、相手の男性が母親と同居していると聞いたかよは、露骨に嫌な顔をしたという。両親は、毎日私に八つ当たりをした。

「お前が余計なことをしたんだろう。先にお前が会ったりしたから、話がダメになったんだ。この役立たず」

聞き流すうちに、違和感に気づいた。怒り狂う両親は、少しもかよの幸せを願う言葉を吐かない。疑問を感じ始めた私の耳に、母の決定的なつぶやきが飛び込んできた。

「玉の輿に乗れなきゃ、何のために育てたかわからないわ。せっかく安定した旦那候補だったのに」

はっと息を飲んだ。両親がかよを甘やかすのは、愛しているからだと思い込んできた。厳しい扱いを受ける私は、可愛がられていないせいだと思っていた。だが、全ての前提が違っていた。顔立ちが整っていて男性受けのいいかよを、裕福な相手と結婚させるために育てる。我慢強くて従順な私は、収入源だ。接し方は違えど、二人とも両親が豊かに過ごすためのコマに過ぎない。まさか、両親が愛していたのは自分たち自身だけだなんて、考えてもみなかった。
かよ宛てのもてなしに、今度はかよ本人がいい顔をしなくなった。

そして、私の元に、新たなお見合いの話が舞い込んだ。本来は妹のかよに向けて持ち込まれた縁談だったらしい。見合いの相手が田舎の農家を営む男性だと知った両親は、露骨に嫌な顔をした。

「陰気なおっさんを押し付けて。その人、最悪じゃない?私、行かないからね」
「がっかりだわ、こんな相手。でも、取引先の人の紹介じゃ断りにくいのよね」

不満を口にする母とかよを見て、父はにやりと笑ってこう言った。

「だからかよじゃなくて、さやの方で受けてきたんだ」

思いがけず、お茶を拭くところだった。目の前に、見合い写真が投げ出される。相手は広田靖人さんという名前で、年齢は三十六歳だそうだ。

「お父さん、ナイス。お姉ちゃんにはちょうどいいんじゃない?良かったね。私のおこぼれで、お幸せに」

かよが、手を叩いて笑った。

「分かった。行くよ。その人と結婚してもいいわ」

結婚できるなら、渡りに船だ。一筋の希望にすがるように、私は見合いを受け入れた。相手がどんな人でも、このまま搾取され続ける人生よりはましだ。そして今日、私は再びお見合いの席へ向かう。最後のチャンスだと心に決め、精一杯、愛想よくしてなんとか結婚したいと願う。

見合いの場所はホテルのラウンジだった。大きな窓から差し込む光が床に反射して、眩しいほど美しい。柔らかな音楽が流れる室内には、甘いお菓子と紅茶の香りが漂っていた。古いスカートを履き、仕事で着ているブラウス姿の自分が場違いに思えた。

約束の時間に現れた靖人さんは、穏やかな雰囲気の男性だった。仕事や普段の生活について興味を持って質問してくれるので、話は弾んだ。

「結婚後も、お互い無理をせずに支え合える関係が理想です。仕事を続けたいなら、応援します」

都合を押し付けられない会話が心地よくて、時間を忘れた。彼となら、普通の暮らしができるかもしれない。期待に胸が膨らんだ。

見合いを終えた私は、すぐに気持ちを伝えた。相手からも良い返事をもらい、二ヶ月の交際の末に、私たちは結婚を決めた。実家に報告に行くと、両親は見合い自体をすっかり忘れていた様子で、上の空だった。結婚式をすると言っても、かよは面倒そうに嫌がった。

「別に行かなくてもいいでしょ。私は欠席で」
「農家の小僧なんかじゃ、上の家とのいい縁も見込めないだろうしな」

目の前で繰り広げられる会話は、私への侮辱でしかなかったが、反応せずに流した。期待するだけ無駄だ。心を動かさない方が楽でいられる。

結婚式当日。優しい義両親は、純白の花嫁姿を大いに褒めてくれた。白いタキシード姿の靖人さんも、目を細めて私の手を取る。外面を気にする私の両親も一応出席はしたが、祝う気持ちは感じられなかった。家で高い酒が楽しみだと宣言していた父は、ワインやシャンパンを飲み続け、開始から二十分も経たないうちに酔っ払ってベロベロだ。背筋を伸ばし感動の涙を抑えている義父とは、その差は歴然としていた。一方の母は、引き出物の袋を多く取って帰ろうとしてスタッフと揉めていた。かよは最後まで姿を見せず、祝電もない。同じ家族でも、ここまで違うものだろうか。

だが、結婚式自体は、幸せな時間だった。何せ、今日からは帰る家が違うのだ。実家ではなく、靖人さんの家に帰る。念願の二人暮らしが、本格的に始まる。

翌朝目覚めた私は、ぼんやりと部屋を見回した。見慣れた自分の部屋ではないと理解し、隣で眠る人の気配に驚いた。

「そっか。結婚したんだ」

胸に、泣きたいほどの喜びと不安が押し寄せた。まだ、実の家族に仕返しをしようなどとは考えてもみなかった。生まれた時から手ひどく扱われてきた心は、実家を離れても歪んだままだ。だが、生まれ変わる瞬間は、確かに近づいていた。

農家の店舗が併設された自宅で、靖人さんとの暮らしが始まった。私の仕事は、家事と店の手伝いだ。家事は実家でいつも任されていたから、新婚とは思えないほど慣れている。店については、経理の知識が役立ちそうだと意気込んだ。

ある日の夕方、店で使っているペンのインクが切れた。補充ついでに備品のストックを確認し、いくつかの事務用品が足りないことに気づく。必要なものを書き出していると、靖人さんが声をかけてきた。

「確認ありがとう。悪いんだけど、それ買ってきてもらえる?今、ちょうどお客さん少ないから、そこの文房具屋で」

頷いたものの、すぐには動けない。結婚する前に持っていた通帳は両親に奪われたままで、専業主婦の私は無一文だ。店で使うものだから経費で買ってもいいのだろうか。暮らし始めた初日から、お金を無心していいものか分からずためらってしまった。緊張で縮む心臓を励まし、野菜を並べる靖人さんの背中に、恐る恐る声をかける。

「買い物代、千円もらえる?」

どんな返事が返ってくるかと待つ数秒は、永遠のように長い。振り向いた靖人さんは、何でもないことのように口を開いた。

「店の金庫から持っていって」

え?金庫?自分の給料すら自由にできなかった私には、信じられない指示だ。店の金庫を開けてもいいほど、信頼してもらえているのだろうか。動揺しながらも、教えられた手順で金庫を開ける。中を見た途端、私は思わずのけぞった。

「え、何この札束?農家さんって、こんなにすごいの?」

中には、領収書や納品書、そして一万円札の束が、地層のように並んでいた。驚く私に、靖人さんは穏やかに微笑む。

「農家の分だけじゃないんだ。他の店の分も、集金したばかりなんだよね」

農家だけじゃない?どういうことだ。想像以上の現金に圧倒され、じわりと汗が滲んだ。だが、私が震えた最大の理由は、札束の量ではなかった。金庫を開ける際、靖人さんは私に鍵のありかとダイヤルの番号を迷わず教えたからだ。実家では便利な道具扱いだった私が、こんなに大切な場所を任されるとは。対等なパートナーとして信頼された。そう感じて、心の底から嬉しかった。

「全部、使っていいっていう意味じゃないからね。仕事関係なら領収書が欲しいし、家計に回すなら…、えっと、事業主貸、だっけ?」

首をひねる靖人さんに、簿記の知識がある私が教えてあげる。

「そうだった。ありがとう。頼りになるなあ。さやさんと結婚してよかった」

太陽のような笑顔が返ってきた。幸せな家庭とは、きっとこんなものだろう。込み上げてきた熱い涙をこらし、私も笑顔で買い物に出かけた。

結婚して初めてのお盆、靖人さんの提案で、私の実家を訪ねることになった。顔だけの帰省だ。手土産として持参したのは、義両親が作った野菜や果物をふんだんに使った商品だ。色鮮やかな瓶に詰められたジャムに、焼き菓子。どれも上品な箱に入れられ、一目で高級品だと分かる品だった。

実家に到着すると、両親とかよは、つんと澄まして私を出迎えた。一応室内には通されたが、お茶の一つも出てこない。仕方がなくお土産を渡すと、母は箱を見るなり嫌そうな顔をした。

「変わった店ね。どこの商品なの?」

母の問いに、靖人さんはいつもと同じ優しい表情のまま答えた。

「うちの系列店で作った商品なんですよ。物産展にも出してて、好評なんです。よかったらパンフレットをどうぞ」

どこか見下した雰囲気だった家族の表情が、一瞬にして固まる。渡されたパンフレットをめくると、そこには農業法人の名前が記載されている。代表として紹介されているのは、他でもない靖人さん本人だった。農家レストラン、加工品工房など、複数の店舗情報が続く。広い畑や、笑顔で働く人たちの写真も掲載されている。新しくしたばかりのパンフレットだから、隣で微笑む私も載っていた。

「ちょっと、どういうこと?農家じゃないの?」
「農家でもありますよ。全部の会社の社長なので」

平然と言う靖人さんを、両親は信じられないものを見る目つきで眺めている。薄給で学もない農家の男だと決めつけて、私に押し付けた相手が、手広く事業を行う実業家だった。金目当ての結婚を避けたかった靖人さんが、あえて伝えなかった可能性もある。

「一昨日、さやさんと話をしてね。今日は、それもお伝えしなきゃと思って、こちらに来たんです」

まるで痴漢扱いだ。でも、私はもう、振り返らない。

「私も靖人さんと同じことを思ってた。父さん母さんは、ずっと私のことを、家の道具みたいにしか見てなかった。でも、私はもう、あなたたちの道具じゃない」

両親とかよが、何か言おうと口を開く。私はそれを遮って、言い放った。

「私、靖人さんと出会えて、本当に幸せです。今度こそ、自分の人生を生きられる」

背筋を伸ばして言い切ると、両親は何も言い返せずにいた。私は、パンフレットを机の上に置いた。

「靖人さん、もう帰ろう。顔は見せたんだから、十分でしょ」

車に乗り込むと、靖人さんが私の手を握った。

「さやさん、よく言えたね」
「うん…。靖人さんが一緒だったから、言えたんだと思う」

「これからは、さやさんの味方は僕だよ。何があっても、必ず守るから」

その言葉に、長年抑え込んできた感情が、涙となって溢れ出した。やっと、自分の居場所が見つかった気がした。

あれから数ヶ月。私は、靖人さんと義両親に囲まれて、穏やかな毎日を過ごしている。店では経理の仕事を任され、充実感に満たされている。実の両親とは、縁を切った。電話も、着信拒否にした。あの日、実家で私が言ったことは、全て本心だ。私は、もう二度と、あの場所には戻らない。

好きな人と、好きなことをして、好きなだけ笑う。そんな、ごく普通の幸せが、今の私の隣にある。

今は、新しい命を授かっている。予定日までは、あと数ヶ月だ。子供が何人増えても、私は決して差をつけない。愛情も、安心できる居場所も、平等に与えると心に誓った。自分が欲しかった温かい家庭を、この子たちと一緒に作っていく。

今日も、店先に並べる新鮮な野菜を、靖人さんと一緒に箱から出す。

「さやさん、このナス、すごくいい色だね」
「うん。きっと美味しいよ。今日は、何を作ろうか」

愛する人と手を取り合い、温かな日々を大切に守ることが、私の新たな夢だ。

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