あの日、二十年間勤めた病院を辞める決心をして、医局で荷物をまとめていた。二十年分の思い出やプライドを段ボールに詰めながら、ようやく肩の荷が下りたと思っていた。そこへ突然、救急外来が騒がしくなり、緊急の処置が必要な患者が搬送されてきたと看護師が叫んだ。脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血。一刻を争う状況だった。ところが、その患者は、私を「首にしてやる」と脅した山本院長の妻だった。そして、担当の翼医師…

あの日、二十年間勤めた病院を辞める決心をして、医局で荷物をまとめていた。二十年分の思い出やプライドを段ボールに詰めながら、ようやく肩の荷が下りたと思っていた。そこへ突然、救急外来が騒がしくなり、緊急の処置が必要な患者が搬送されてきたと看護師が叫んだ。脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血。一刻を争う状況だった。ところが、その患者は、私を「首にしてやる」と脅した山本院長の妻だった。そして、担当の翼医師...

「お前、何様のつもりだ? 俺に指図するなんて」

山本院長は激昂して、そう叫んだ。いつも逆らうお前なんか、首にしてやる——まるで理不尽この上ない理由だが、自己中心的な彼は、大真面目に言っているようだった。自分に逆らう歯車は、徹底的に排除したいのだ。

この一件で、私は悟った。これ以上、山本院長に何を言っても、彼がよい方向に変わることはない、と。

私は黒田大輔。この地域の基幹病院である総合病院で、脳血管治療の専門医として長年勤めてきた。緊急の処置が必要な患者も多く、日々、患者の命を救うために尽力してきた。そんな日常を送るうちに、気づけば二十年が経ち、私もベテランと呼ばれる年代に入っていた。

長年同じ場所で働いていると、いろいろなものが見えてくるものだ。この病院は、いわゆる家族経営で、山本院長が自分の知り合いや利益のために、院内の出来事を決めている。患者を守るために必要な医療倫理や福祉は、そっちのけで、そもそも関心すら持っていない。このままでは、病院として成り立たないばかりか、患者が報われない。私もさすがに気になり、状況について山本院長と何度か話し合いの機会を持ったが、都度、怒りを買うだけで、問題解決どころか、話し合いは虚しく終わった。

彼は自分中心で傲慢な性格なのだ。自分に逆らう者を決して許さない。そんな人物だった。

そして、その山本院長には一人息子がいる。彼も同じ病院で医師として働いている。そう、私の部下である。二十九歳という若さで、経験が必要な分野では、まだ技術は乏しい。加えて、やはり親子なのか、上司である私の言うことを全く聞かず、山本院長同様、自己中心的に振る舞っていた。さらに、家族経営の病院だから、将来この病院は自分のものになるという意識があるのか、父親の地位を利用して好き勝手な行動を取る節もあった。

私と山本院長はもともと良好な関係ではなかったが、彼の息子である翼医師が私の部下になったことで、さらに悪化していた。しかし、私も二十年勤めたベテラン医師だ。翼医師の態度など、多少のことは目をつぶるようにして、患者の安心と安全が守られているなら仕方ないか、と自分に言い聞かせていた。

ところが、この優しさが仇となり、一人の事件が起きてしまった。

ある日、翼医師の横柄な態度に、患者の家族が激怒し、クレームになる出来事が起こった。私は患者の家族のもとへ話を聞きに行ったが、収拾がつかず、家族は「本人を出せ」の一点張りだった。どうやら、手術前の高齢の患者の家族に対して、「手術してもしなくても年なんだし、寿命なんて変わりませんよ」と、心ない一言を放ったらしい。呆れて物も言えないが、大事な患者のご家族だ。そんなことを言われては、怒るのも無理はない。

激怒する家族に対して、私は「よく言って聞かせますから」と謝罪し、なんとかその場をなだめた。

ついに、翼医師の自己中心的で横柄な態度が、患者や家族に大きな影響を与えてしまった。さすがの私も、このままでは悪い噂が広まり、いずれ患者がいなくなってしまう。そう問題視した。

その日のうちに、私は翼医師を呼び出した。将来、この病院を背負っていくであろう若者のためにも、説教をすることにした。

最初は誰でも不慣れだし、できないことや失敗も多い。私にも、そんな苦い経験はたくさんある。少しずつ医師としての心構えを伝えていけば、次第に患者や家族の気持ちに誠実に向き合い、立派な医師になってくれるだろう。そう願って、私は言った。

「患者や家族を第一に考えないと、いつまで経ってもいい医者にはなれないぞ」

たった一言だが、いろいろな意味が込められている。医者として、人として成長してほしいという、私の思いが込められた言葉だった。

「はっ、俺は将来の院長だぞ。部下のお前なんかに言われてもな」

翼医師の返答に、開いた口が塞がらなかった。

山本院長もそうだが、自己中心的で、患者や家族のことを全く考えていない。何か間違いをしても、反省もしない。私の言うことを聞かなくても、父親の言うことならば受け入れられるかもしれない。私は、やっとの思いで、今回の出来事を山本院長に伝えに行った。

「翼医師に、ご家族からクレームがありました。本人に伝えても聞く耳を持たず、解決しないので、山本院長から態度を改めるように伝えてもらえませんか?」

「お前、何様のつもりだ? 俺に指図するなんて」

山本院長は激昂して、そう言った。

「いつも逆らいやがって。お前なんか、やめさせてやる」

まったく理不尽な理由だが、自己中心的な彼は大真面目に言っているようだった。自分に逆らう歯車は排除したい人なのだ。

今回のことでもう、これ以上山本院長に何を言っても、彼がよい方に変わることはないと悟った。そして、彼が率いるこの病院の未来は、そう明るくはないだろうとも感じた。

「今までありがとうございました。その通り、やめさせていただきます」

今まで長年勤めてきたプライドもあったが、むしろ毎回山本院長と交わす無意味なやり取りに嫌気が差していた。私は、この長年勤めた病院を去る決心をした。

やめる決心をした翌日、私は医局で荷物をまとめていた。二十年も勤めた病院だ。それなりに思い入れもある。外来や病棟へ行き、同僚の医師やスタッフにも最後の挨拶をして回った。皆、突然の出来事に驚き、この病院の将来は大丈夫なのかと不安がっていた。

廊下を歩いていると、突然、救急車が搬入口に到着した。救急外来のほうで、人が慌ただしそうに動き回っている。患者の状態は深刻で、脳動脈瘤が破裂し、くも膜下出血を起こしている。一刻も早い処置が必要な状況であると、救急外来の看護師が早口に話しているのが聞こえた。

くも膜下出血は緊急で手術をする必要があるが、この日の緊急患者の担当は翼医師となっていた。彼の技術では、困難な案件だった。しかも、運ばれてきた患者が山本院長夫人だと聞いた時には、腰を抜かしそうになった。

院長夫人は全身合併症があり、なおかつ検査の結果、開頭手術では届きにくい場所に破裂した脳動脈瘤があったため、低侵襲のカテーテル手術による血管内治療が第一選択となった。しかし、カテーテル手術には専門的な技術が必要で、翼医師にはこの手術の経験があまりなく、一人では対応できなかった。翼医師は父親である山本院長に助けを求めたが、山本院長もこの症例の手術に対して何もすることができなかった。

そこで山本院長は、脳血管治療の専門医である私を見つけ出し、妻である山本院長夫人の手術を行うように命じた。

私は専門医であり、二十年もこの分野で働いてきたという自信があった。この手術は成功できる、と実感していた。私を探し出して手術を命じた山本院長に対して、「やめろと言っていたのに、不謹慎だ」と反感も抱いたが、目の前の患者の命を救うことだけを考え、山本院長の命令に従うことにした。

私は翼医師から必要な情報だけを聞き、山本院長夫人の状態を見て迅速に判断し、急いで手術に必要な準備を終えた。もちろん、今後に生かしてもらうために、翼医師にはこのカテーテル手術に助手として入ってもらうことにした。

私は、山本夫人の命を救うために全力を尽くした。くも膜下出血は発症してから迅速に治療しなければならない。だが、緊急で運ばれてきてから、私が手術を開始するまでにやや時間が経過してしまっていたため、予想以上に困難を伴った。それでも、二十年の専門医としての技術を駆使し、無事に手術を成功させることができた。

山本院長夫人は、手術が成功したことで一命を取り留めた。

山本院長も夫人のことはとても大事にしているようで、あんなに自己中心的だった彼が、私と翼医師に感謝の意を示した。

「黒田君、本当に今回の件は感謝している」

山本院長は今回の血管内カテーテル手術を目の当たりにし、私の技術や病院への貢献を認めざるを得なくなり、今までの態度を軟化させたようだった。そして、自身の態度と、病院と息子に対しての過ちを反省し、私に謝罪してきた。

「今まで本当にすまなかった。今回、妻を救えなかったことで、自分の力量が身に染みたよ」

そう言って謝罪するとともに、私の力が必要だ。これからも病院、そして患者のために働いてほしいと懇願された。

翼医師も、実際に手術に立ち会ったことで、自分の未熟さと非礼を詫び、今後とも指導を受けたいと懇願してきた。

一度は見限ったこの病院の運営も、山本親子の言葉を信じてもう一度だけ協力することにして、その決意を院長に伝えた。こうして私は、再びこの病院で働き始めたのである。

すっかり悪化してしまっていた山本院長との関係修復のために、私は話し合いを重ねていった。山本院長は、今までの態度を改め、これからは患者のために医療に携わることの重要性を感じ、院内で倫理と院長としての使命を守り続けるという覚悟を固めたようだった。

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