夫の借金を七年かけて返し終えたとき、貯金はゼロだった。それでも小田桐ひさえは六十八歳まで働き続けて、やっと七十二万円をためた。それが彼女の人生で唯一の希望だった。
家賃五万五千円の木造アパートの一室。設備は古く、台所の排水溝は半年前からつまっていた。それでも彼女にはここを出て行く選択肢がなかった。
「老後」と呼ぶにはあまりにも少ない貯金だったが、七十歳まで体がもてば月六万円弱の年金とパート収入で暮らしていけるかもしれない。彼女は毎晩布団の中で同じ計算を繰り返していた。
それが崩れたのは、六月の月曜日の朝だった。郵便受けに入っていたのは管理会社からの封書。物価上昇を理由に、七月から家賃を二万円引き上げるという通知だった。
五万五千円が七万五千円になる。月収八万五千円の彼女には、その二万円が重すぎた。
食費をさらに削るとして月九千円。薬代は削れない。一日三百円で食べることはぎりぎりできていたが、それ以上となると、体が工場の仕事に耐えられるか怪しくなる。
体が動かなくなれば収入が途絶える。収入が途絶えれば、すべてが崩れる。
その夜、胃の痛みが前より強くなった。
値上げ通知から十日後の夜、携帯に見知らぬ番号から着信があった。仕事関係かもしれないと思って出ると、電話の向こうからしゃがれた声が言った。
「お母さん」
十年近く連絡を取っていなかった息子の達也だった。彼は泣きながら話した。投資に失敗して全財産を失い、名義を貸したローンの保証人にされ、三百万円の取り立てが来ていると言う。
「お母さんしかいない。百万円だけでもいい。いや、七十万でもいい。今月分だけ何とかなれば」
ひさえは考えた。十年も連絡を絶っていた息子が、金の話だけで電話をかけてきた。理屈の上では断るべきだった。
でも、息子が泣いている。その事実だけが彼女の心を動かした。
翌朝、ひさえは郵便局で四十万円を振り込んだ。貯金の半分以上だった。残りは三十一万円。
その日の夕方、達也に電話をかけた。繋がらない。翌日も、その翌日も。三日目の夜にメッセージを送っても既読はつかない。四日目の朝、電話をかけると「おかけになった電話番号は現在使われておりません」という機械音声が流れた。
四十万円は戻ってこなかった。
六月の末、管理会社の男が訪ねてきた。七月から家賃について対応してもらえないなら、七月末までに退去してほしいと言われた。ひさえは「七月末で出ます」と答えた。
一ヶ月間で、ひさえは新たな住まいを探した。ウィークリーマンションは高すぎる。シェアハウスは保証人が必要だった。最終的に見つけたのは、歌舞伎町の外れにある古いカプセルホテル。一泊千五百円、月換算で四万五千円。身分証明書があれば入れ、女性専用フロアがあった。
七月の末、三年住んだアパートを出た。荷物はスーツケース一つに収まった。使い古した鍋と茶碗は大きすぎて入れられず、廊下に置いた。誰かが使うかもしれない。
カプセルホテルの一室は幅九十センチ、奥行き二メートル、天井まで八十センチ。薄いカーテンを引けば、外との繋がりが切れた。
隣の人のいびき、どこかで咳き込む声、外の喧騒。眠れない夜が続いた。
八月の第二週、朝の五時。ひさえはロッカーの扉が少し開いていることに気づいた。鍵の部分が曲がっていた。強引にこじ開けられた後だった。
中の配置が変わっていた。財布が消えていた。中には一万円。今月の最後の現金だった。
そして、ノートも消えていた。三年以上毎日書き続けてきた記録。一円単位で書き留めてきた数字の積み重ね。財布よりも、ノートの喪失が彼女の胸を刺した。
受付に届け出たが、何かが変わるわけでもなかった。
昼休み、ひさえは水だけで過ごした。田辺さんがチョコレートを一粒くれた。甘さが口の中に広がって、なぜか涙が出そうになった。
「こんなことで泣きそうになるとは」
九月の初め、ひさえはカプセルホテルからも出ることになった。今月分の支払いが確認できないと言われたのだ。貯金は五万円を切っていた。
行き先は決まっていなかった。スーツケースを引いて歩き続け、新宿中央公園のベンチに腰を下ろした。
そこで出会ったのが楠本リナだった。四十代半ばのきれいな女性で「お引っ越しですか」と声をかけてきた。自分も住むところを探していると言い、買い過ぎたとハンバーグ弁当を分けてくれた。
温かい食事は何週間ぶりだった。一口食べた瞬間、喉の奥が締めつけられた。
「もしよかったら、知り合いから安く借りられる部屋があるんです。一部屋で二人で済めば家賃も折半できるし、よかったら一緒にどうですか?」
警戒心はあった。知らない人間と部屋をシェアすることへの不安。しかし、今夜の宿もなかった。ひさえは「お世話になっていいですか」と答えた。
リナが案内したのは、新宿から電車で二駅ほどの古い雑居ビルの一室だった。六畳一間、窓は曇りガラス、家具はほとんどなかった。
その夜、リナは言った。
「お仕事、もう一つ紹介できますよ。夜間の電話対応で時給がいいんです。コールセンターみたいなもので、体への負担も少ないし」
そして「手続きの都合で身分証のコピーが必要」と言われた。ひさえは保険証を渡し、リナはそれを写真に撮った。
それから三日間、リナは朝遅くまで寝て、夜はいないこともあった。二日目の夜、リナは「書類の確認に時間がかかってるみたいで、もう少し待ってください」と言った。
三日目の朝、ひさえが「行ってきます」と言うと、リナは寝ぼけた声で「行ってらっしゃい」と返した。
それが最後だった。
その日の夜、部屋に帰ると、リナの荷物はすべて消えていた。トートバッグも、布団の片方も、洗面道具も。電話をかけても「現在使われておりません」。
知っていた。家賃を払うと言ったのに、誰がこの部屋の契約者なのか一度も確認していなかった。仕事を紹介すると言ったのに、会社名も連絡先も知らなかった。そして、保険証はリナの手に渡ったまま戻ってこなかった。
達也の時と同じだった。信じたかった。誰かが自分に親切にしてくれているという事実を。
三日後の夜、部屋の扉の前に二人の男が立っていた。三十代と四十代くらい。スーツ姿だが、どこか着崩れていた。
「織田桐ひさえさんですね。これ見てもらえますか」
差し出された書類には、個人間融資の契約書があった。借入人の欄に「織田桐ひさえ」の名前。署名欄には、彼女が見たこともない筆跡で自分の名前が書かれていた。
金額は三百万円。
「これは私が書いたものではありません」
「それはこちらが知ったことではないんですよ。本人確認書類のコピーも揃ってますし、保証人の署名もあります」
保証人の欄に、自分の名前があった。リナが持ち去った保険証のコピーから、誰かが彼女の名前で契約を結んだのだ。
男たちは「今日は下にとは言いません。また連絡させてもらいます」と言い残して去った。
ひさえは、部屋に戻れなかった。荷物をまとめ、スーツケースを引いて、夜の街へ出た。
それからひさえは寝る場所を毎晩変えていた。公園のベンチ、二十四時間営業のファストフード店、カプセルの加眠室。同じ場所に長く止まれば見つかるかもしれないという恐怖があった。
十月、工場に取り立ての男が現れた。中山に「今日でシフトを終わりにしてもらえますか」と言われた。
「久木さんが悪いわけじゃないとは思ってます。でも会社としては、ああいう人たちが出入りするようになるのは困るんです」
ひさえは「分かりました」と小さく答えた。反論する言葉も、抗議する力も残っていなかった。
工場の門を出るとき、一度も振り返らなかった。振り返れば何かが崩れる気がした。田辺さんが追いかけてきて「体に気をつけてくださいね」と言い、小さな包みを握らせてくれた。中身はお菓子だった。
収入を失い、貯金は底をついた。食事は一日一食、それも廃棄寸前の値引き商品ばかり。胃の痛みは慢性的になり、痛みがない時間のほうが珍しくなっていった。
十二月のはじめ、ひさえは達也の妻に電話をかけた。達也の番号はもう使われていなかったが、以前聞いたことのある固定電話の番号を覚えていた。
女性の声が出た。ひさえが「達也の母です」と名乗ると、電話の向こうで一瞬の沈黙があった。
「もうやめてください。うちにはもう関わらないでください。達也も私も、久木さんのことでこれ以上振り回されたくないんです」
「達は、元気にしていますか」
女性ははっきりとした声で言った。
「達也はもう十年前に死んだって聞いてます。それでいいじゃないですか。今更何の用ですか?」
ひさえは言葉を失った。先月、四十万円を受け取った人間は確かに達也のはずだった。しかしその息子は、母親を「死んだ」と言って妻に伝えていた。
どちらにせよ、達也はひさえを切り捨てた。
十二月二十四日の夜、東京には雪が降っていた。ひさえは体力の限界を感じ、二十四時間営業のコインランドリーに逃げ込んだ。乾燥機の熱が全身を包んだ。
洗濯機のガラス扉に映った自分の姿は、知っている小田桐ひさえとは別人だった。頬はこけ、目は落ちくぼみ、髪はもつれていた。トレンチコートは薄汚れ、ところどころ破れていた。
ひさえは考えた。夫の借金を返し、息子のために自分を犠牲にしてきた。それなのに息子は離れていった。最後にすがった電話は金を奪うだけのものだった。住まいを失い、騙され、覚えのない三百万円の借金を背負わされ、仕事を失い、今ここに一人で座っている。
自分の人生の中で、何か一つでも自分のために選んだことがあっただろうか。答えは出てこなかった。
コインランドリーの外では雪が降り続いていた。ひさえはスーツケースをその場に残し、扉を開けて外に出た。どこに向かっているのかも分からず、ただ足が動くままに歩いた。
川沿いの道に出たとき、足を止めた。雪が水面に音もなく落ちては消えていった。これ以上進む先も、戻る場所も、自分にはないように思えた。
その時、足音が近づいてきた。
「お母さん」
背後から声がかかった。振り返ると、防寒着を着た中年の女性が息を切らしながら立っていた。夜間の見回りをしていると名乗り、「こんな時間にこんな格好で一人で大丈夫ですか」と尋ねた。
彼女は自分のことを中里と名乗った。路上生活者や生活困窮者を支援するNPOのスタッフで、冬場は夜間の見回りを強化しているのだという。
「織田桐ひさえさんですか? 織田桐高明さんの奥様の」
ひさえはその名前を聞いて初めて顔を上げた。中里は続けた。
「私、昔、高明さんにお世話になったことがあるんです。中学生の頃、家に居場所がなくて、夜遅くまで公園にいたら、高明さんが声をかけてくれて、何度もご飯を食べさせてもらいました」
夫の名前を他人の口から聞くのは何年ぶりだった。中里はひさえの腕に手をかけようとしたが、ひさえは弱々しく振り払った。
「結構です。私のことは放っておいてください」
「放っておけません。こんな雪の中で、こんな時間に、一人でいる人を」
「私にはもう行くところがないんです。三百万の借金があって、息子にも見捨てられて、仕事もなくて。生きていても何もいいことがないんです」
中里は最後まで黙って聞いていた。それから静かに言った。
「どれだけ辛い思いをしてきたか、全部は分かりません。でも、『生きていても何もいいことがない』って決めるのは、今のこの瞬間のひさえさんじゃなくていいと思うんです」
ひさえは何も言えなかった。
「借金も息子さんのことも仕事のことも、全部今すぐどうにかしろとは言いません。ただ今夜だけは、温かい場所で休んでください。それだけでいいんです」
ひさえの中で何かが緩んだ。抵抗する力ももう残っていなかった。その場に崩れるように座り込んだ。中里は隣にしゃがみ込み、「大丈夫です」と繰り返しながら毛布をひさえの肩にかけた。
ひさえは声を出さずに泣いた。涙が頬を伝い、雪の積もった地面に落ちていった。
その夜、ひさえは中里に付き添われ、NPOが運営する一時保護施設に向かった。暖房の効いた空気が体を包み、スタッフが温かいおかゆを作ってくれた。久しぶりに食べる温かい食事だった。
翌朝、施設の連携病院で診察を受けた。医師は胃の状態を見て、すぐに精密検査が必要だと言った。検査の結果、胃に腫瘍が見つかった。長期間の栄養不足とストレスが原因だろうと説明された。
「入院が必要です」
「お金がありません」
付き添っていた中里が言った。
「それについては心配しなくて大丈夫です。生活保護の申請と並行して進めますので」
生活保護。ひさえはその言葉に複雑な思いを抱えた。自分の人生が完全に失敗したことを公的に認めるように感じられた。
入院初日の夜、ひさえは中里に言った。
「生活保護を受けるくらいなら、このまま誰にも迷惑をかけずに消えてしまいたいです」
中里は少し間を置いてから、静かに言った。
「ひさえさんは『迷惑をかけたくない』ってずっと言いますね。でも、私が中学生の時、高明さんに何度もご飯を食べさせてもらった時、私は『迷惑をかけてる』なんて一度も言われたことがありません。むしろ『いつでもおいで』って言われました。誰かに助けてもらうことは、迷惑をかけることとは違うと思うんです。ひさえさんが高明さんから受け取ったもの。私が今、誰かに返そうとしているだけなんです。だからひさえさんが今、私から何かを受け取ることも、同じことなんじゃないでしょうか」
ひさえは何も言えなかった。ただ涙がこぼれた。
退院後、ひさえは中里の紹介で法律相談を受けた。担当の弁護士は言った。
「これは典型的な名義悪用です。ひさえさんが署名していないことが証明できれば、債務は無効にできる可能性が高いです」
二月の終わり、ひさえは裁判所で破産の手続きを正式に申し立てた。署名するとき、手はわずかに震えていた。
弁護士は言った。
「これはひさえさんの失敗ではありません。ひさえさんを利用しようとした人間たちの責任です。法律はそのために存在しているんです」
三月の初め、生活保護の受給が決定した。ひさえは、区が斡旋する福祉住宅の一室に入居することになった。六畳ほどの広さで、古いが清潔に保たれていた。鍵のかかる自分の部屋。それだけのことが、これほど大きな意味を持つとは思わなかった。
ある日、福祉の帰り道、ひさえは百円ショップに立ち寄った。文房具の棚の前で足を止め、以前使っていたものに似た方眼の入ったノートを選んだ。
その夜、新しい部屋の小さな台所で、ひさえは鍋に水を入れ、インスタントラーメンを作った。湯気が狭い台所に立ちのぼった。どんぶりに移して、座卓の前に座った。隣に新しいノートを置いた。
ひさえはどんぶりの中を見つめ、それからノートを開いて、今日の日付とラーメンの値段を書き込んだ。
三百円。ペンを置いてから箸を取った。一口麺をすすった。
味は以前と同じインスタントラーメンの味だった。しかし、それが意味するものは少し変わっていた。これはもう、誰にも見られないように隠れて食べる食事ではなかった。鍵のかかる自分の部屋で、自分のために作った食事だった。
それでも、涙がこぼれた。麺をすする音と、涙がどんぶりに落ちる小さな音が、静かな部屋に響いた。ひさえは拭おうとはしなかった。ただ箸を動かし続けた。
達也のことを完全に許せているわけではなかった。リナが今どこで何をしているのかも分からなかった。三百万円の契約が完全に無効になるまでまだ時間がかかると弁護士から聞いていた。体も完全には回復しておらず、月に一度の通院が必要だった。
それでも、ひさえは今夜、温かい食事を自分の部屋で自分のために食べていた。
どんぶりの中身が空になる頃、箸を置いた。ノートを閉じて棚にしまった。窓の外では三月の夜風がまだ少し冷たく吹いていた。
布団を敷きながら、明日もまたこの部屋で目を覚ますだろうことを漠然と思った。それが幸福と呼べるものかどうかは、まだ分からなかった。ただ今夜はここにいる。それだけが確かなことだった。


