営業部のフロアに、鬼頭部長の罵声が響き渡った。彼の手には、徹夜で仕上げた企画書が握られていた。それを、同僚や部下たちの目の前で、思い切り投げつけられた。書類が紙吹雪のように舞い散る。田中健一は、ただ頭を下げることしかできなかった。
「すいませんで済むと思ったら大間違いだぞ、この無能が。お前みたいな中高年が、この一流企業で働かせてもらってるだけで感謝しろってんだよ。お前の代わりなんて、その辺の野良犬より安いんだからな」
五十代でこの会社に拾ってもらった契約社員の健一には、言い返すことができなかった。長年連れ添った妻の房子が重い病を患い、治療費がかさむ。この仕事を失うわけにはいかないのだ。彼は蓄積された悔しさを飲み込み、唇を噛みしめるしかなかった。
鬼頭はさらに追い打ちをかけるように、床に散らばった書類を高級な革靴で踏みにじった。「お前、明日から来なくていいわ。首だ」
土下座して懇願しても、「ハローワークに行けば、お前の代わりなんていくらでも転がってるんだよ」と鼻で笑われるだけだった。周囲の社員たちは、誰一人として助けようとしない。逆らえば自分が危ないことを、皆が知っていた。
その時、入り口の自動ドアが開く音が、異様なほど大きく響いた。傘を手にした、見知らぬ老人が立っていた。鬼頭は苛立たしげに近づき、「ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ、じじい」と怒鳴り散らす。健一は、ハッとした。今朝、駅前の雨の中で傘を貸した老人だったのだ。
今朝、健一は土砂降りの雨の中、傘も持たずに震えている老人を見つけ、迷わず自分の傘を差し出した。「私はすぐそこのトーコーポレーションで働いていますから、走れば1分で着きます。おじいさんが風邪を引いてしまいますよ」そう言って、傘を握らせたのだ。そして、自分はずぶ濡れになりながら出社し、その後、鬼頭に貧乏臭いと罵られる原因になったのだった。
鬼頭はその老人に対しても、「薄汚いじじい」と唾を吐きかけるような暴言を浴びせた。健一は、たまらなかった。自分が侮辱されるのは我慢できても、純粋な善意で来てくれた老人を、これ以上傷つけさせるわけにはいかない。彼は立ち上がり、無言のまま老人を背中でかばうようにして立った。
「なんだ田中、その目は。俺に逆らう気か? 病気の嫁さんがいるんだろう。俺のコネを使えば、お前なんかこの業界のどこにも雇われないようにしてやれるんだぞ。路頭に迷って夫婦揃って野垂れ死になんだな」
その言葉に、健一は絶望と怒りで拳を握りしめたが、一歩も引かなかった。その時、背後から低く、しかし力強い声が響いた。「己の身が破滅するかもしれないというのに、私のような無知な老人を守ろうというのか。今の時代に、まだこのような男がいたとはな」
老人は鬼頭の腕を、驚くほどの力で掴んだ。「君は、さっき『自分の代わりはいくらでもいる』と言って、この男を切り捨てたな。ならば、君の代わりは、果たしているのかな?」
その言葉と同時に、フロアの奥にある役員専用エレベーターが開き、トーコーポレーションの頂点に君臨する大鳥社長が、息を切らせて駆け込んできた。そして、鬼頭ではなく、その老人の姿を見るなり、立ちすくんでしまったのだ。
「この方は…」社長の震える声に、老人は静かに右手を上げ、人差し指を口元に当てた。「黙っていろ」という無言の圧力だった。
「ああ、社長もこんな薄汚いじいさんに驚いてるんですね。すぐに私が追い出しますから」と、鬼頭は状況を完全に勘違いしている。健一の背中をコーヒーで汚しても、妻の手作りのお守りを床に落として踏みつけても、鬼頭の暴走は止まらない。
ついに老人が動いた。踏みにじられたお守りを拾い集め、泣き崩れる健一を見下ろし、そして鬼頭に視線を向けた。「君の器は、よく見えた」と静かにつぶやくと、老人はスーツの内ポケットから、一枚の名刺入れを取り出した。金で縁取られた、特別な社員証だった。
それを見た瞬間、大鳥社長は失神しそうになりながらも、声を振り絞った。「このお方は、我がトーグループ全150社を束ねる絶対的トップ、代表取締役会長、東郷統一郎様でいらっしゃられるぞ」
フロア中から悲鳴のようなため息が漏れ、社員たちは一斉に土下座した。鬼頭だけは、現実を拒否するように叫び続ける。だが、健一は会長の顔を見つめるので精一杯だった。「私が傘を貸した、あの老人が…この会社のトップ?」
会長は鬼頭の父親である専務に電話をかけた。スピーカーから聞こえてくるのは、息子を必死に叱りつける、専務の恐慌した声だった。さらに会長は、鬼頭親子が裏金工作を行っていたことを暴露する。すべては、会長が病気を偽って療養しているふりをしながら、内部監査チームを動かして証拠を掴んでいた罠だったのだ。健一が提出した企画書も、実はこの不正を見抜いて、会社を救うための完璧な修正が施されたものだったと明かされた。
鬼頭は逃走を図るが、エレベーターの前で内部監査室長の佐藤に阻まれ、取締役会で解雇が決議されたと告げられる。佐藤は礼儀正しく、しかし鬼頭を嘲笑うように言った。「もはやあなたを助ける者は、この世界のどこにもいません」
しかし、佐藤は鬼頭を睨むのをやめると、今度は健一の前に歩み寄り、深々と頭を下げた。「田中さん、お久しぶりです」かつて、健一が大道商事で部下として育てた男だったのだ。健一はすべてを失い、この会社で契約社員として身を隠しながらも、佐藤たちかつての部下は、いつか恩返しをしようと結束していたのだった。
鬼頭が連行された後、会長は健一に言った。「君の奥さんの治療費。あれは、すべて私が個人的に負担していたのだ。君が毎月振り込んでいたお金は、預かって積み立てておいた。君がどんな逆境にあっても腐らず、自分の力で妻を救おうとする姿を見たかったのだ」
さらに、「もう一つ伝えなければならないことがある。君の奥さんは、回復した。今、このビルの下で君を待っている」と。
健一は、エレベーターでロビーへと急いだ。そこに立っていたのは、自分の足で立つ、かつてのように血色の良い顔をした妻、房子の姿だった。「けんちゃん、ただいま」
五年来の苦労が、この言葉で報われた。鬼頭は、健一と再会した房子を見て、最後にヘドロのような悪態をつくだろうとしたが、会長が現れ、「本日付けで田中健一君を、トーグループ全体の海外戦略顧問、そして来月からはトーコーポレーションの専務取締役として迎え入れることを決定した」と宣言した。
鬼頭は蒼白になり、その場に崩れ落ちて連行されていった。雨は上がり、窓の外には虹がかかっていた。
数日後、専務となった健一は、かつての職場である営業部のフロアを訪れた。副部長だった佐々木が、怯えた表情で出向いてくる。「あ、あの時は鬼頭の野郎が怖くて…」と言い訳をするが、健一は静かに、しかし断固として言い放つ。「君も、鬼頭と一緒に甘い蜜を吸っていたんだろう。その言葉、そのまま君にお返しする。『お前の代わりは、いくらでもいる』と。君のような人間は、我が社には必要ない」
佐々木は、その場で解雇を言い渡され、連れ出されていった。若手社員たちから、大きな拍手が沸き起こった。
それからさらに数日後、健一はあの運命の朝、雨の中で老人と出会った駅前の交差点に立っていた。そこへ、東郷会長がやってくる。「返さなければならないものがあってね」と、健一があの日差し出した黒い傘を手渡した。「この傘のおかげで、私は人生で一番温かな気持ちになれた。ありがとう」
「いいえ、私の方こそ。この傘が、私と妻の命を救ってくれたんです」会長は、こう付け加えた。「大切なのは、数字じゃない。君があの雨の日に見せたような、見返りを求めない優しさだよ。それは、今の世の中では一番難しいことなんだ。君は、それをやってのけた。私は君を誇りに思う」
その日の夕方、健一が家のドアを開けると、エプロン姿の房子が笑顔で出迎えてくれた。かつては夢でしかなかった、当たり前の日常が、そこにはあった。


