あの日の冷たい英語のアナウンスが、今でも耳の奥に残っている。成田空港の国際線ターミナルで、私、水野彩子はその言葉の意味を飲み込むのに数秒かかった。朝5時に起きて、タクシーで2時間かけてここまで来た。新品のスーツケースには、初めての海外旅行のために買い揃えた服が詰まっている。
「どういうこと? 私、400万円振り込んだでしょう。」
震える声で聞き返すと、息子の敬語が困ったような顔で口を開いた。
「ごめん母さん。実は忘れてたんだ。チケット、4人分しか取ってなくて。」
3ヶ月前から計画していた家族旅行。私が退職金から400万円も出したハワイ旅行。「4人分」とは、私たち夫婦と私の両親の分だと、当然のように言い放つ。その隣で、義理の両親が優雅に微笑んでいる。
「彩子さん、お見送りに来てくださったの? 」
義母の言葉に、私は言葉を失った。周囲の旅行客たちの視線が痛い。みんな、哀れな老女を見るような目で私を見ている。胸の奥で何かが音を立てて崩れていく感覚がした。40年間、看護師として必死に働いて貯めたお金。息子のためならしみなく使ってきた。私の人生そのものが否定されたような気がした。
* * *
3ヶ月前のことだった。
「母さん、結婚10周年記念に家族旅行がしたいんだ。」
敬語が珍しく実家に顔を出して、そう切り出した。隣で冴子も嬉しそうに微笑んでいる。
「ハワイはどう? 7泊8日の豪華プラン。みんなで行けたら最高だと思わない?

」
私は心から嬉しかった。息子家族と初めての海外旅行。看護師として40年間、必死に働き続けてきた私へのご褒美だと思った。
「費用は全部で400万円くらいかな。」
敬語が遠慮がちに言うと、私は即座に答えた。
「いいわよ。私の退職金から出すわ。あなたたちと旅行できるなんて、夢みたい。」
思えば私は息子のために全てを捧げてきた。夫を早くに亡くし、女手一つで医大まで進学させた。教育費だけで1200万円。結婚時には新居の頭金800万円も援助した。
「本当ありがとう、母さん。」
敬語が子供のように喜ぶ姿を見て、私は全てが報われた気がした。すぐに銀行へ行き、400万円を振り込んだ。その日から私の生活は一変した。パスポートを取得し、ガイドブックを買い込み、英会話教室にまで通い始めた。
「うちの息子家族とハワイに行くのよ。」
病院の同僚たちに自慢げに話す私を、みんな温かく見守ってくれた。
「彩子さん、本当に嬉しそうね。」
「息子さん、優しくていいわね。羨ましいわ。」
あの時の幸せな気持ちが、今は残酷な記憶として胸を締めつける。
* * *
「お母さん、まさか本当に自分も行けると思ってたの? 」
冴子の笑うような声が耳に突き刺さる。義理の両親、つまり冴子の実の両親である田中夫妻が、上品に微笑みながら近づいてきた。
「あら、彩子さん、朝早くからお見送りだなんて、お優しいこと。」
義母の言葉に、私は言葉を詰まらせた。
「見送りじゃありません。私も一緒に行くはずだったんです。」
「あれ、そんな話は聞いてませんけど。」
義父が鼻で笑う。元大学教授だという義父は、いつも私を見下すような視線を向けてくる。
「だって、私が旅行代金を全額…」
「母さん、その話はもういいから。」
敬語が慌てたように私の言葉を遮った。周囲の旅行客たちがざわめき始める。
「敬語、どういうこと? 」
「母さんは高齢だし、体力的に海外旅行は無理でしょう。それに英語もできないし。」
息子の言葉が信じられなかった。確かに63歳だが、看護師として現役で働いている。夜勤明けでも元気に動き回れる体力がある。
「でも冴子さんのご両親は違うの。お義父さんは元大学教授で英語もペラペラだし、お義母さんも医者として海外学会に何度も行ってるから。」
義理の娘が誇らしげに言う。そして、とどめの一言を放った。
「正直に言うと、お母さんと一緒だと恥ずかしいのよ。だって、ただの看護師でしょう。私の両親の前でどう紹介すればいいの? 」
「ただの看護師」。その言葉が私の心臓を鋭く貫いた。40年間、患者さんのために身を粉にして働いてきた。深夜の休日対応、感染症の最前線での看護。数えきれない命を支えてきた。それが「ただの看護師」?
これまでも似たような扱いを受けてきた。去年の正月、息子の家に行った時のこと。冴子の両親も同席していたが、私だけ台所の手伝いをさせられた。
「お義母さんは慣れてるでしょうから。」
そう言われて、朝から晩まで料理を作り続けた。義理の両親は客間に座って、ゆったりとおせちを楽しんでいたのに。結婚記念日のパーティーの時もそうだった。高級ホテルでの食事会に、私だけが呼ばれなかった。
「お義母さんはああいう場所は苦手でしょう。」
後から写真を見せられ、冴子の両親が上座に座っている姿を見て、私は自分の立場を思い知らされた。病院の表彰式で看護功労者を受賞した時も、息子夫婦は来なかった。
「仕事の表彰なんて、大したことじゃないでしょう。」
40年の功績を称えられた栄誉も、息子にとっては価値のないものだった。今思えば、全てが計画的だったのだろう。3ヶ月前、旅行の話を持ちかけてきた時から、私を除外することは決まっていたのだ。
* * *
「母さん、本当にごめん。でも、これが現実なんだ。」
敬語は申し訳なさそうに言うが、その目は冷たかった。
「現実って何? 私があなたを医大まで行かせたことは、現実じゃないの? 」
「それは母さんの義務でしょう。」
息子の言葉に、私は息を飲んだ。義務。愛情からの行為が、当然の義務として片付けられる。
「じゃあ、400万円は返してもらえるわよね。」
「それはもう、ホテルも飛行機も予約しちゃったし。でも、私の分はないんでしょう。」
「キャンセル料がかかるから、無理だよ。」
敬語が逃げるように視線をそらす。ふと気づくと、周囲の人々が私たちのやり取りを見ていた。中にはスマートフォンを向けている人もいる。
「みっともないから、やめて。こんなところで騒がれても困るのよ。お義母さんはもう、うちの外の人なんだから。」
「外の人」。家族ではない、他人だという宣告。
「じゃあ、外の人に400万円も出させたの? 」
「それはお母さんが勝手に出したいって言ったんでしょう。」
義理の娘の無知な言葉に、私は言葉を失った。出発ゲートへ向かう4人の後ろ姿を見送りながら、私は空港のベンチに座り込んだ。周囲の視線が痛い。哀れな老女を見る目、嘲笑、そして好奇心の視線。
* * *
ふと、苦手にしていたスマートフォンが気になった。さっき冴子がLINEを確認している時、画面が一瞬見えた。何か重要なやり取りがあったような。その時、隣のベンチに座っていた若い女性が声をかけてきた。
「あの、大丈夫ですか?
さっきから一部始終を見ていて。」
「ありがとう。でも、大丈夫よ。」
力なく答える私に、彼女はためらった後、続けた。
「実は、あの奥さんのスマホ画面、私からも見えちゃって。ひどい内容でした。」
「え? 」
「3ヶ月前の日付で『お母さんからお金だけもらって、当日ドタキャンさせましょう』って。旦那さんも『それ天才。母さんなら絶対気づかない』って返信してました。」
私の血の気が引いていく。まさか、最初から。
「それに『看護師の母親なんて恥ずかしくて、義両親に合わせられない』とも書いてありました。」
若い女性は申し訳なさそうに続けた。
「動画も撮っちゃいました。証拠になるかもしれないので、連絡先を教えていただければ送ります。」
震える手で連絡先を交換した。すぐに送られてきた動画を見て、私は愕然とした。画面には、冴子と敬語のLINEのやり取りがはっきりと映っていた。
「計画通りね。」
「お母さん、まだ気づいてない。」
「400万円ゲットできて最高。」
「これで義両親にいいところ見せられる。」
「母さんのこと、使用人だと紹介しておいたから。」
「看護師なんて誰でもできる職よね。」
一つ一つのメッセージが、私の心を切り刻んでいく。さらにスクロールすると、もっとひどい内容が続いていた。
「お母さんの退職金、まだ2000万円は残ってるはず。次は同居を口実に、全額巻き上げましょう。」
「どうせ認知症になったら施設に放り込めばいいし。」
「その前に、生命保険の受け取り人も変更させないと。」
私の存在は、ただの金づる。いや、それ以下の存在として扱われていた。
思い返せば、敬語の態度が変わったのは冴子と結婚してからだった。それまでは「母さん、ありがとう」「母さんのおかげだよ」と感謝の言葉を口にしていた息子が、結婚後は冷たくなった。去年の母の日、私は敬語からの連絡を待っていた。せめて電話一本でも、元気かどうか知りたいと期待していたが、何もなかった。後日、義理の娘に「マザコンみたいで気持ち悪い」と言われたと聞き、その程度の理由で母親を切り捨てる息子に育ててしまったのかと、自分を責めた。でも、今わかった。これは冴子の入れ知恵ではない。敬語自身が望んでいたことなのだ。
動画の続きを見ると、さらに衝撃的な事実が判明した。
「母さんには悪いけど、会社の経営で新規の契約が取れてないんだ。だから余計に義父のコネが必要。」
「元医者の推薦があれば、契約も楽勝。」
「お母さんのお金でいい顔して、義理の両親に取り入るのね。」
「母さんの金で母さんを捨てる。皮肉だけど、これが現実。」
手が震えて、スマートフォンを落としそうになった。息子は私の金で私を裏切り、私の存在を否定しながら、さらに私から搾取しようとしている。これが、私が命をかけて育てた息子の本性。
「お姉さん、大丈夫ですか? 顔が真っ青ですよ。」
先ほどの若い女性が、心配そうに覗き込む。
「あの人たち、許せません。私、さっき動画をSNSにあげようかと思ったくらい。」
「いいえ、それは…」
「でも、お姉さんが望まないなら、しません。ただ、こんな仕打ちを受けて黙っている必要はないと思います。」
彼女の言葉に、私の中で何かが変わった。そうだ。なぜ私が黙って耐えなければならないのか。なぜ夫婦の都合のいいように扱われなければならないのか。40年間、看護師として多くの患者を助けてきた。その手で息子を医者にまで育てあげた。それなのに「ただの看護師」と貶され、金づるとして搾取されていない。
さらに動画を見返すと、最後の方に恐ろしい計画が書かれていた。
「旅行から帰ったら、すぐに同居を迫る。拒否したら、今回の旅行代金を返せと脅す。」
「どうせ証拠もないし、お袋は泣き寝入りするしかない。」
「施設に入れる時は、財産管理も全部こっちで。」
証拠がない。私は若い女性に向き直った。
「この動画、保存させていただいてもいいですか? 」
「もちろんです。こんなひどい息子さん、訴えてもいいくらいですよ。」
もう終わりにしよう。私は立ち上がり、出発ゲートの方を振り返った。もう、あの4人の姿は見えない。ハワイへ向かう飛行機が轟音を立てて離陸していく。あの中に、私の400万円で優雅な旅行を楽しむ息子夫婦がいる。
「お義母さんの名前はない。」
冴子の言葉が脳裏に響く。そう、確かに旅行のチケットに私の名前はない。でも、他のところには私の名前がたくさんある。息子の家の連帯保証人、会社への出資者名簿、そして、病院の理事会での発言力。私はスマートフォンを取り出した。復讐の時が来た。
* * *
空港のカフェに移動した私は、冷静さを取り戻していた。熱いコーヒーを一口飲み、スマートフォンを取り出す。まず、銀行のアプリを開いた。全ての自動引き落としを、今すぐ停止。
画面を操作しながら、私は心の中で呟いた。息子の家のローン。月々15万円。私が連帯保証人になっているからこそ、敬語は35年ローンを組めた。その引き落とし口座は、私の口座だった。来月から、一円も払わない。
次にクレジットカードの管理画面を開く。敬語の家族カード、限度額は1000万円。これも私が本会員だからこそ作れたもの。利用停止。カード解約。
淡々と手続きを進める私の手は、もう震えていなかった。電話が鳴った。病院の理事長からだった。
「水野さん、今お時間よろしいですか?
」
「はい、理事長。実は、あなたの息子さんの会社との医療機器納入契約の件ですが。」
敬語の会社は医療機器の販売会社だった。私の病院との取引は年間3億円。それは私が看護部長として理事会で推薦したからこそ実現した契約だった。
「理事長、その件でご相談があります。実は、息子の会社の経営状態に不安を感じておりまして。」
「そうですか? 」
「水野さんがそうおっしゃるなら、他の業者への切り替えをご検討いただけませんか? 」
理事長は少し驚いたようだったが、すぐに理解してくれた。
「わかりました。水野さんの40年の功績を考えれば、あなたの判断を尊重します。」
電話を切ると、次は敬語の会社への出資金の件だ。私は500万円を出資していた。敬語が独立する時の資金だった。顧問弁護士に電話をかける。
「先生、出資金の引き揚げは可能でしょうか? 」
「契約書を確認しますが、正当な理由があれば可能です。どういった理由で?
」
「息子が私を騙して400万円を詐取しました。証拠もあります。」
「それは立派な背信行為ですね。すぐに手続きを開始しましょう。」
次々と手を打っていく。全ては、息子夫婦が計画していた通りにはいかないことを教えるために。
ふと、昔のことを思い出した。敬語が医大に合格した時、私は泣いて喜んだ。夜勤明けで疲れ果てていても、息子の夢のために働き続けた。学費だけで6年間で1200万円。生活費も含めれば、2000万円近く。
「母さんのおかげで医者になれるよ。」
あの時の敬語の笑顔を信じていた。結婚式の時も、私は全面的に援助した。式場代300万円。新居の頭金800万円。冴子の両親は一円も出さなかった。
「お義母さんは、本当に息子思い。私たちも、そんなお義母さんがいて幸せです。」
冴子の母はそう言って微笑んだ。今思えば、あれは嘲笑だったのだろう。「息子思いの愚かな女」だと。でも、もう終わりだ。
私は病院の同僚たちのグループラインを開いた。
「実は、息子夫婦に騙されて、ハワイ旅行において行かれました。」
すぐに反応が返ってきた。
「え、彩子さんが400万円出したんでしょう。ひどすぎる。」
「許せない。」
看護師仲間たちの怒りが、私に力を与えてくれた。
「実は、もっとひどいことがあって。私は証拠の動画のスクリーンショットを共有した。」
「看護師を底辺職だって侮辱してる? 」
「彩子さん、私たちにできることだったら、何でも言って。」
私には仲間がいる。40年間、共に戦ってきた戦友たちが。最後にもう一つ、やるべきことがあった。敬語の会社のホームページを開く。取引先を確認する。私の病院以外にも、看護師仲間が務める病院が5つもあった。
「みんな、お願いがあるの。息子の会社との取引、見直してもらえないかしら? 」
「もちろん。うちの事務方に話してみる。」
「看護師を侮辱する会社とは、取引できないわ。」
仲間たちの温かい支援に、涙が溢れそうになった。空港のアナウンスが響く。息子たちの乗った飛行機は、もうすぐハワイに到着する頃だろう。
楽しんでらっしゃい。それが最後の贅沢になるから。私は立ち上がり、空港を後にした。復讐は始まったばかりだ。
* * *
ハワイ時間の午後2時。現地は快晴だっただろう。日本時間では翌日の朝9時。私は自宅でゆっくりとコーヒーを飲んでいた。スマートフォンが鳴った。国際電話だ。
「母さん、大変なんだ! 」
敬語の慌てふためく声が聞こえてきた。
「あら、どうしたの?
ハワイ楽しんでる? 」
「それどころじゃない。ホテルでクレジットカードが使えないって言われて。」
「あら、そう。」
私は他人事のように答えた。
「家族カードの限度額、1000万円あったはずだろ。なんで使えないんだよ! 」
「さあ、私には分からないわ。カード会社に聞いてみたら? 」
「もう聞いた。解約されてるって言われた。」
「あら、不思議ね。」
電話の向こうで冴子の金切り声が聞こえる。
「どうするのよ!
支払いできないじゃない! 私の両親の前で恥をかかせるつもり! 」
敬語が取り乱している。
「母さん、お願いだ。今すぐカードを復活させてくれ! 」
「できないわ。」
「なんでだ!
」
「だって、私は外の人なんでしょう。外の人に頼むのはおかしいんじゃない? 」
一瞬の沈黙の後、敬語が声を荒げた。
「今はそんなこと言ってる場合じゃない! 」
「『そんなこと』って、あなたたちが言ったのよ。『お義母さんの名前はない』って。400万円も払った私を空港に置き去りにして、楽しい旅行ができて良かったわね。」
電話を切った。すぐにまたかかってきたが、着信拒否にした。
翌日、また国際電話が鳴った。今度は冴子からだった。
「お義母さん、ホテルから追い出されそうなんです。」
「あら、大変ね。」
「どうにかしてください。」
「どうにかって、何を? 」
「お金を送ってください。」
「お金?
私は『ただの看護師』で『底辺職』なんでしょう。そんな人間にお金なんてあるわけないじゃない。」
「そんな意地悪ないわないでください! 」
「意地悪? 計画的に騙したあなたたちが言うこと? 」
「計画的って…」
「全部知ってるのよ。LINEのやり取りも見たわ。最初から私を除外するつもりだったんでしょう。」
冴子が黙り込んだ。
「お義母さんの退職金を全部巻き上げる計画も知ってるわよ。認知症になったら施設に放り込むって書いてあったわね。」
「それは…」
「もういいわ。勝手になさい。」
* * *
3日後、息子たちは予定を切り上げて帰国した。成田空港から直接私の家に来た。玄関のチャイムが鳴り続ける。
「母さん、開けてくれ。話がある。」
ドアを開けると、疲れ果てた顔の4人が立っていた。全員、日焼けもしていない。高級リゾートのはずが、まるで監獄から出てきたような顔をしている。
「どうしたの?
せっかくのハワイだったのに、全然楽しそうじゃない? 」
「ホテル代が払えなくて、ずっと部屋に缶詰だった。食事もコンビニのカップ麺だけで。」
敬語が悔しそうに言う。
「あら、もったいない。400万円も使ったのに。」
「母さん、なんでカード解約したんだ! 」
冴子が前に出てきた。顔は怒りで真っ赤だ。
「お義母さん、ひどいじゃないですか! 私の両親の前で大恥かかせて!
」
「私のカードを、私が解約して、何か問題でも? 」
「私たちを困らせて! 」
「あなたたちは、私を困らせなかった? 空港に一人置き去りにして。」
冴子の父、義父も口を開いた。
「彩子さん、息子夫婦にこんな仕打ちをするなんて、人としてどうかと思いますよ。」
「あなた方には関係ないことです。それに、人としてどうかと思うのは、400万円を騙し取った息子夫婦の方では?
」
義父が鼻で笑った。
「言いすぎでしょう。家族間のことですし。」
「家族? でも、冴子さんは私を『外の人』だと言いましたよ。」
私は冷たく続けた。
「それよりも、っと大変なことがあるわよ。」
「なんだよ。」
「家のローン、来月から払えないから。」
敬語の顔が青ざめた。
「え、なんで? 」
「私が連帯保証人を降りたの。もう自動引き落としも止めたし。」
「そんな! 家を失うじゃないか!
」
「知らないわ。自分たちで何とかしたら? 」
「母さんが保証人じゃないと、ローンが組めない。銀行が認めてくれない。」
「そう? じゃあ、冴子さんのご両親に頼んだら? 元大学教授と医者なんでしょう?
きっと資産もたくさんあるでしょうし。」
冴子の両親が慌てた。
「私たちは、そんな年金生活ですし…無理です。」
「あら、おかしいわね。さっきは『家族間のこと』だとおっしゃってたのに。」
敬語が突然、土下座した。
「母さん、お願いだ。謝るから。」
「何を謝るの? 」
「旅行に連れて行かなかったこと。」
「それだけ? 」
私はスマートフォンを取り出し、例の動画を見せた。敬語の顔が真っ青になった。
「最初から騙すつもりだったのね。『看護師は底辺職』だとも書いてあるわ。」
「それは…冴子が…! 」
「私じゃない!
敬語さんが言い出したんでしょう! 」
見苦しい責任のなすり付け合いが始まった。
「もういい。あなたたちとは、もう関わりたくない。」
「待って! 会社が潰れそうなんだ! 」
敬語が必死にすがりついてきた。
「母さんの病院との契約が切られて、他の病院からも取引停止されて。」
「あら、大変ね。」
「母さんが理事会で何か言ったんだろう!
」
「私は事実を伝えただけよ。息子の会社は信用できないって。」
「それに、出資金500万円も引き上げるって通知が来た! 」
「当然でしょう。詐欺師に出資する理由はないもの。」
冴子が泣き崩れた。化粧が崩れて、見苦しい顔になっている。
「お義母さん、お願いします。私たち、破産してしまいます。」
「知らないわ。」
「もうすぐ、子供が生まれるかもしれないのに! 」
「あら、おめでとう。でも、私には関係ないわね。だって、私は外の人なんでしょう。」
冴子の母が割って入った。
「彩子さん、孫ができるかもしれないのよ。それでも冷たくできるの? 」
「孫?
私には、孫なんていませんよ。だって、私は家族じゃないんですから。」
敬語が最後の手段に出た。
「母さん、俺が悪かった。全部、俺が悪かった。だから、助けてくれ。」
「助ける? どうやって? 」
「ローンの保証人に戻って、会社にも口を利いて、出資金も戻して。」
「嫌よ。」
「なんでだ! 親子だろう!
」
「親子? 」私は冷笑した。「お金が必要な時だけ親子なの? 都合がいいわね。」
「母さん…」
「敬語。あなたは私を裏切った。計画的に騙し、侮辱し、金づるとしか見ていなかった。」
「違う! 」
「違わないわ。証拠があるもの。それに、認知症になったら施設に放り込むつもりだったんでしょう?
」
敬語は何も言えなくなった。私は立ち上がった。
「もう二度と、私の前に現れないで。」
「お母さん! 」
「出ていきなさい。」
「せめて、当面の生活費だけでも…」
「渡すお金はありません。あなたが言った言葉よ。」
4人を玄関から追い出し、ドアを閉めた。鍵もかけた。その後もしつこく尋ねてきたり、電話をかけてきたりしたが、私は一切応じなかった。
* * *
あれから半年が経った。私は今、都心の高級マンションの最上階で、東京の街並みを見下ろしながらワインを飲んでいる。窓から見える夕焼けが美しい。息子夫婦との縁を切ってから、私の人生は180度変わった。
まず、経済的な負担が完全になくなった。月15万円の住宅ローン。年間180万円。敬語への様々な援助を含めると、年間500万円以上も使っていたことが分かった。そのお金が、全て自分のために使えるようになったのだ。
病院では私の40年の功績が改めて評価され、特別顧問として週3日の勤務で年収800万円を頂いている。若い看護師たちの指導と、病院経営への助言が主な仕事だ。
「水野顧問、今日もお疲れ様でした。」
若い看護師たちが慕ってくれる。私を「ただの看護師」と貶んだ息子夫婦とは大違いだ。
先月、ついに夢だった海外旅行に行った。行き先はハワイではなくヨーロッパ。パリ、ローマ、ロンドンを2週間かけて回った。ファーストクラスの座席でシャンパンを飲みながら、ふと思った。人を金づるとしか見ない人間の末路。それは自らが金づるにされることなのだと。
息子夫婦のその後を、風の噂で聞いた。敬語の会社は完全に倒産。取引先を全て失い、多額の負債を抱えて自己破産申請中だという。家も差し押さえられ、今は安アパートに住んでいるらしい。冴子とは離婚調停中。あれだけ自慢していた実家も、両親が娘夫婦の詐欺行為に愛想を尽かし、縁を切ったという。元大学教授と医者のプライドが、詐欺まがいの行為をした娘を許さなかったのだろう。
ある日、病院の帰りに偶然、敬語を見かけた。コンビニで深夜のアルバイトをしていた。やつれた顔でレジ打ちをしている姿は、かつての面影もなかった。目があった。敬語は一瞬何か言いかけたが、私は無言で去った。もう親子ではないのだから。
* * *
私の新しい生活は充実している。看護師仲間たちとの食事会、趣味の書道教室、月に一度の美術館巡り。自分のためだけに時間とお金を使える幸せを、今更ながら実感している。
「彩子さん、本当に若返ったわね。」
戦友たちがよく言う。確かに、鏡を見ると肌艶も良くなり、表情も明るくなった。呪縛から解放されるということが、これほど人を変えるとは思わなかった。
先日、病院の理事長と話をした。
「水野さん、あなたの決断は正しかったと思います。家族だからと言って、理不尽な扱いを受け入れる必要はない。あなたは40年間、社会に貢献してきた立派な女性です。」
理事長の言葉に、涙が出そうになった。そう、私は立派な仕事をしてきたのだ。看護師として数えきれない命を救い、支えてきた。その誇りを、息子夫婦に踏みにじられる必要はなかった。
私は今、人生で一番自由で、一番幸せだ。朝起きる時間も自由。食事も自分の好きなものを好きなだけ。買い物も、息子夫婦の顔色を伺うことなく楽しめる。この前、自分へのご褒美として100万円のダイヤモンドのネックレスを買った。敬語の結婚式で冴子が「お義母さんのアクセサリーは安っぽい」と言ったことを思い出しながら。
最近始めた習い事もある。フランス語教室だ。次の旅行では、パリのレストランでフランス語で注文したい。63歳からの挑戦だが、毎日が新鮮で楽しい。
「Bonjour, madame. 」
クラスメイトは20代から70代まで様々。年齢なんて関係ない。みんな自分の人生を楽しんでいる。
人生は本当に皮肉なものだ。家族のために全てを捧げた時は報われず、自分のために生きることを選んだら、こんなにも幸せになれた。よく考えてみれば、私たちの世代の女性は、あまりにも我慢しすぎてきたのかもしれない。家族のため、子供のためと言いながら、自分を犠牲にすることが美徳だと信じてきた。でも、それは間違いだった。自分を大切にできない人間は、他人からも大切にされない。自分の価値を自分で認めない限り、誰も認めてはくれない。
私は63歳で、やっとそのことに気づいた。遅すぎたかもしれない。でも、気づけただけでも幸運だったと思う。
今の私には、新しい夢がある。65歳になったら、看護師としての経験を本にまとめたい。40年間の現場での体験、患者さんとの思い出、そして医療の最前線で戦い続けた日々。「ただの看護師」と貶された仕事の、本当の価値を伝えたい。
もう一つの夢は、世界一周クルーズ。3ヶ月かけてゆっくりと世界を回る。スイートルームを予約して、優雅な船旅を楽しむ。息子に使うはずだった老後資金で、自分の夢を叶える。
これから先の人生、私は自分のために生きる。誰かの期待に答えるためでもなく、誰かの都合に合わせるためでもなく、ただ自分が幸せになるために。それが、40年間、看護師として働き社会に貢献してきた私への、最高のご褒美だと思うから。
理不尽な扱いを受けている全ての人に伝えたい。我慢する必要はない。自分を犠牲にする必要もない。あなたには幸せになる権利がある。誰に遠慮することもなく、堂々と幸せを掴む権利が。
窓の外を見ると、東京の夜景がキラキラと輝いている。さあ、明日はどこへ行こうかしら。私は微笑み、ワイングラスを傾けた。人生は、まだまだこれからだ。


