廊下に出た瞬間、藤堂さんが待ち構えていた。50歳のベテランで、この病院で唯一俺の手術に文句をつけられる男だ。
「相変わらず見事なもんだ。だが、患者家族のことを思う気持ちはお前にはないのか?」
「血管を見ている時に、家族のことは考えません」
藤堂さんは苦笑して、俺の肩を軽く叩いた。その日の午後、異曲の机の上にカルテが積まれていた。一番上の封筒を手に取ると、理事長室からの紹介だった。破裂脳動脈瘤の精査依頼。希望医師は神崎。
封筒の中のカルテを開き、患者の名前を見て、俺は息を飲んだ。白石はるか。30歳。その文字が、12年ぶりに俺の前に現れた。
理事長室に呼ばれたのは、その日の夕方だった。重厚な扉の向こうで、最寺公平が窓辺に立っていた。65歳。この病院の頂点に座る男だ。
「神崎君、来てくれたか。座りたまえ」
俺はソファに腰を下ろした。最寺さんは机の上のカルテに視線を落とし、それからゆっくりと俺を見た。
「白石はるかさんの件は、もう目を通してくれたかね?」
「はい。動脈瘤の位置と大きさ、画像も確認しました」
「君は引き受けてくれるかね?」
「症例としては、こちらでお引き受けする範囲のものです」
最寺さんはそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
「君は彼女のことを知っているね」
「カルテに、紹介として白石洋二先生の名前がありましたので」
俺の答えに、最寺さんは静かに頷いた。全てを知っているという顔だった。俺がこの病院の脳神経外科を志望した理由も、12年前のことも、おそらくこの人は知っている。
「腕は申し分ない。今や君の右に出る者はいない。だが、私はずっと君の手術を見ていて思うことがある。君の手は人を救う。だが、君の目は人を見ていない」
俺は黙っていた。反論する気にもならなかった。言われていることが当たっているからだ。
「白石さんの件は任せる。ただし、医師としてだけではなく、一人の人間として彼女の前に立ちなさい」
「理事長、私は感情で判断する医師ではありません。今までもそうしてきました」
「だから言っているんだ。今回ばかりは、それでは足りん」
最寺さんは机に戻り、万年筆を取って書類にサインをした。話は終わりだという合図だった。
翌朝の外来診察室。俺は朝からカルテに目を通し、午前10時の予約欄に並んだ名前を何度も見ていた。ノックの音がし、看護師が扉を開けて患者を促す。
「白石さん、どうぞ」
ゆっくりと彼女が入ってきた。肩までの黒い髪。ワンピース。記憶の中の18歳より、当然大人になっていた。俺はカルテから顔を上げ、彼女を見た。彼女もまた、俺を見た。ほんの一瞬、空気が止まる。心臓の音が、自分の耳の中で響いた気がした。
その後ろから白石洋二さんが入ってきた。父親。58歳。記憶よりも白いものが増えている。洋二さんは俺と目が合うと驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな表情に戻した。
「神崎です。本日担当させていただきます。どうぞおかけください」
「初めまして、白石はるかです」
彼女はそう言った。俺はその言葉を静かに受け止めた。事前に聞いていた通りだった。彼女には高校3年間の記憶がない。事故の後遺症で、俺と過ごした日々は彼女の中から消えている。
俺はカルテを開き、画像を画面に映した。
「白石さん、こちらが先日撮影されたMRIの画像です。分岐部に5ミリほどの動脈瘤が見つかっています」
「先生、これはすぐ手術が必要なものですか?」
「サイズと位置から、破裂のリスクは決して低くありません。早めの治療をお勧めします」
俺は淡々と説明を続けた。手術の方法、リスク、入院期間。いつもの順序、いつもの口調。ただ、画面に映る血管をマウスで指す自分の手元を、俺は何度か見直していた。
「先生、一つだけ伺ってもいいですか?」
「はい、どうぞ」
「先生は、私のような患者さんを何人くらい手術されたことがありますか?」
「同じ部位の動脈瘤であれば、50例以上は経験しています。結果は良好です」
「そうですか。ありがとうございます。なんだか不思議です」
「不思議、というのは?」
「初対面のはずなのに、先生のお声を知っている気がして」
俺は口の中が乾くのを感じた。気のせいです、と言うのは簡単だった。俺はそう言おうとした。
「人の声というのは、似ていることがありますから」
「ええ、そうですよね。すみません、変なことを」
彼女は笑った。昔と同じ、目尻が少し下がる笑い方だった。俺はそれを見て、自分の中の何かがほんの数ミリだけ動いた気がした。説明を終え、洋二さんが口を開いた。
「神崎先生、娘のことをよろしくお願いします」
「全力を尽くします」
「君にお願いできて良かったと、私は思っています」
洋二さんの声は12年前と同じではなかった。あの日、玄関先で「もう二度と来ないでくれ」と言った声とは、まるで違った。俺は短く頭を下げた。それ以上、何も言わなかった。
二人が診察室を出ていった後、俺はしばらく椅子から動けなかった。画面に映ったままの脳の画像。その奥の小さな膨らみ。俺の手で取り除かなければならない爆弾のようなもの。机の引き出しを開け、奥に押し込んだままの古い手帳を、俺はゆっくりと取り出した。高校3年の時に使っていた、表紙のすり切れた手帳だった。開く勇気はなかった。ただ、指の腹で表紙をなぞった。
ノックの音がして、藤堂さんが顔を覗かせた。
「神崎、次の患者が待ってるぞ。どうした? 顔色が悪いな」
「いえ、大丈夫です。すぐ行きます」
「お前が『大丈夫』と言う時は、大抵大丈夫じゃないんだがな」
昼休み、俺は屋上にいた。コンビニで買ったサンドイッチは半分ほど食べて、袋に戻した。食欲は朝からなかった。フェンスの向こうに街並みが広がっている。背中で扉の開く音がした。振り返ると、三咲が立っていた。元同級生で、今は救急の医者だ。
「やっぱりここか。異曲にいないと思った」
「なんだ、わざわざ探したのか」
「探したよ。お前、今朝から顔色がひどい。聞いたぞ、白石のこと」
俺は黙ってフェンスに肘をついた。三咲は隣に並んで、同じように町を見た。高校からの付き合いだ。こいつには隠しても、すぐに見抜かれる。
「白石、本当に何も覚えてないのか?」
「ああ。高校3年間が丸ごと抜けてる」
「お前のこともか」
「初対面の挨拶をされた」
三咲は短く息を吐いた。
「お前、引き受けて大丈夫なのか? 医師として」
「症例として問題はない。腕も落ちていない」
「俺が聞いているのは、腕の話じゃない」
俺は答えなかった。三咲は俺の横顔をじっと見ていた。
「あの事故の日、お前は雨の中ずっと病院の前に立ってた。覚えてるか? 3日間、飯も食わずに」
「忘れたよ。そんな昔の話は」
「忘れてないだろう。だから今も、そんな顔してる」
俺は何も言えなかった。風がフェンスを鳴らした。三咲はポケットから缶コーヒーを2本取り出し、片方を俺に渡した。冷たい感触が指先に染みた。
「お前は腕のいい医者だよ。それは認める。でもな、かける。あいつの前では、医者である前にお前自身でいてやれよ」
「俺自身、というのがもう分からないんだ」
「分からなくてもいい。分からないまま、隣にいてやればいい」
三咲はそう言うと、缶コーヒーを一気に飲み干し、ゴミ箱に放り込んで扉の方へ歩いていった。途中で立ち止まり、振り返る。
「逃げるなよ、かける。今度は」
扉が閉まる音がした。俺は一人、屋上に残された。「今度は」という言葉が耳の奥に残っていた。俺はあの日、確かに逃げたのだ。はるかに「来ないでくれ」と言われ、それを受け入れて、二度と病室に近づかなかった。医者になると決めたのは、その逃げた自分への、せめてもの言い訳だった気がする。
手術前の最終検査のため、はるかは入院していた。俺は夕方の回診の最後に、彼女の病室へ向かった。4階の個室。扉の前で一度立ち止まり、白衣の襟を正した。ノックをして中に入ると、はるかはベッドの上で本を読んでいた。
「失礼します。神崎です。お加減はいかがですか?」
「神崎先生、今日はもう大丈夫です。検査も、痛くなかったですし」
「それは何よりです。手術は3日後の朝9時から予定しています」
「はい、よろしくお願いします」
俺はカルテに目を落とし、必要な確認事項を読み上げた。食事、内服薬、アレルギーの有無。彼女は一つ一つ丁寧に答えた。落ち着いた声だった。確認を終えて、俺は立ち去ろうとした。その時、はるかが小さく俺を呼び止めた。
「先生、少しだけお話してもいいですか?」
「はい、構いません」
俺はベッドの脇の丸椅子に腰を下ろした。はるかは本を閉じ、膝の上に置いた。表紙には見覚えのあるタイトルがあった。高校の図書室で、彼女がよく借りていた本だった。
「先生に、おかしなことを伺うかもしれません」
「どうぞ」
「私、高校の3年間の記憶がないんです。事故のせいで」
「カルテで拝見しています」
「家族や友達から当時の話を聞くことはあるんです。写真も見せてもらいます。でも、どうしても思い出せない人が一人だけいて」
はるかは窓の外を見ながら、ゆっくりと続けた。
「卒業アルバムの集合写真の中に、私の隣に立っている男の子がいるんです。父に聞いても母に聞いても、はっきり教えてくれなくて。みんな、どこか言葉を濁すんです」
俺は黙って話を聞いた。
「変ですよね。隣に写っているのに、誰も教えてくれないんです」
俺は何と答えるべきか分からなかった。本当のことを言えば、それは治療に影響するかもしれない。言わなければ、俺はまた逃げることになる。
「ご家族には、ご家族なりの考えがあるのだと思います」
「ええ、そうだと思います。だから、無理に聞きません」
彼女はそう言って少し笑った。笑った後、目を伏せて本の表紙を撫でた。
「ただ、不思議なんです。先生にお会いしてから、なんだかその忘れている人のことをよく考えるようになって。先生のお声と似ているのかもしれません。あ、ごめんなさい。こんな話、手術の前なのに」
「いえ、構いません。話したいことは話してください。手術の前は、誰でも不安になります」
はるかは嬉しそうに頷いた。俺は立ち上がり、病室を出た。胸の奥が鈍く痛んだ。痛みの正体は、自分でも分かっていた。
その夜、異曲には俺一人だった。照明を半分落とした部屋で、机の上にカルテと画像を広げていた。何度も確認した内容を、また確認していた。扉が開いて、藤堂さんが入ってきた。
「神崎、お前、白石さんの手術、本当に自分でやるつもりか?」
「はい」
「最寺さんから話は聞いた。お前と彼女のこと」
「藤堂先生」
「責めてるんじゃない。確認してるんだ」
藤堂さんは机の上の画像に目をやった。5ミリの動脈瘤。位置は決して悪くないが、決して楽でもない場所だった。
「みんな、この手術が楽ではないことくらい分かってる。だが、お前の心の状態は別問題だ。手が1ミリ狂えば、彼女は植物状態になる。最悪、死ぬ」
「分かってます」
「分かっていて、なぜ自分でやる?」
「他に誰が、彼女の命を背負えるんですか?」
俺は自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。冷静な答えではなかった。藤堂さんも、少し目を見開いた。
「ようやく、お前の口からそういう言葉が出たな」
藤堂さんはそう言って立ち上がった。
「俺は第一助手で入る。何かあれば、俺が変わる。だからお前は、思い切ってやれ」
「ありがとうございます」
「礼はいい。手術が終わってからにしろ」
扉が閉まり、また異局は静かになった。俺は引き出しから古い手帳を取り出した。今度は開いた。最初のページに、18歳の自分の字で彼女の名前が書いてあった。その下に、「卒業したら言う」とだけ。俺は手帳を閉じ、深く息を吐いた。12年止まっていた時間が、確かに動き始めていた。
手術当日の朝、外は薄曇りだった。俺は高圧室で手術着に着替え、いつもより念入りに手を洗った。手術室に入ると、無影灯の下にすでにはるかが横たわっていた。頭部を固定され、目を閉じている。昨日病室で最後にかわした言葉が、まだ耳に残っていた。
「先生、よろしくお願いします」
「ええ。終わったら、また顔を見せに行きます」
俺は一度だけ目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。藤堂さんが向かい側に立ち、俺を見て小さく頷いた。
「でもいいぞ、神崎」
「では、始めます」
メスを入れる瞬間、俺の指先はいつもと同じ温度だった。震えはない。脈も乱れない。ただ、いつもと違うのは、頭の奥に一つの声が響いていたことだった。「かけるん」という、12年前の彼女の声だった。顕微鏡を覗き込む。細い血管の編み目の奥に、小さな膨らみが見えた。5ミリの動脈瘤。壁が薄く、いつ破れてもおかしくない爆弾だ。俺はピンセットの先で慎重に剥離を進めた。
「血圧は安定してる。続けろ」
「分岐部を残して、奥側からいきます」
時間の感覚が消えていった。ただ、指先の感触と顕微鏡の中の景色だけがあった。その時だった。動脈瘤の壁から、ごく細い出血が滲んだ。俺の心臓が大きく跳ねた。
「神崎」
「分かっています。吸引してください。クリップを用意して」
俺は息を整え、もう一度顕微鏡に集中した。ここで焦れば、彼女は戻ってこない。俺の手の中に、彼女の30年が乗っている。吸引で視野が確保された瞬間、俺はクリップをかけた。かちり、と小さな音がした。動脈瘤の膨らみが、すっと萎んでいく。出血は止まった。
「完璧だ」
「閉創に入ります」
俺はそこでようやく、一度だけ長く息を吐いた。手術が始まって4時間。手技室の外、家族控室から少し離れた廊下のベンチに、白石洋二が座っていた。その隣に、三咲が腰を下ろしていた。救急当番の合間に、様子を見に来たらしい。
「白石さん、コーヒーでも飲みますか?」
「いえ、結構です。喉が通る気がしなくて」
「ですよね」
二人は黙って、廊下の奥の手術室のランプを見つめていた。赤いランプが、まだついている。洋二の顔は白く乾いていた。
「大丈夫ですよ。あいつ、必ず終わらせて出てきますから」
「はい」
「あいつは12年間ずっと、この日のために走ってきたようなものですから」
三咲は前を向いたまま、静かに続けた。
「事故の後、かけるは雨の中3日間、病院の前に立ってました。あなたに『来ないでくれ』と言われた後も。声をかけても、何も食わずに、ただ立っていた」
「知りませんでした」
「言うつもりはなかったんです。あいつが嫌がるから。でも、今日くらいは知っておいてほしくて」
洋二の手が震えた。
「私は……彼から居場所を奪ってしまったんですね」
「奪ったとは思ってませんよ。あいつはただ、はるかさんを守るために、自分が消える方を選んだだけです。それは、あの頃のあいつにできる精一杯だった」
洋二は目頭を押さえた。刻まれた指の隙間から、一筋の涙が落ちた。
「三咲先生に。いや、かける君に。謝らなければなりません」
「謝らなくていいんです。あいつが今ここでメスを握ってる。それが答えですよ」
赤いランプがふっと消えた。洋二が立ち上がった。手術室の扉が開き、藤堂が先に出てきた。マスクを下ろし、洋二に向かってゆっくりと頷いた。
「無事に終わりました。完全に処置できています。意識の戻りも、問題ないでしょう」
「ありがとうございます。ありがとうございます」
洋二はその場で深く頭を下げた。少し遅れて、俺が出てきた。手術着のまま、額に汗を浮かべていた。洋二は顔を上げ、目を合わせた。洋二の口元が震えた。
「かける君……すまなかった。本当にすまなかった」
「顔を上げてください。洋二さん。はるかさんは無事です。それで十分です」
廊下の窓から、雲の切れ間の光が差し込んでいた。
3日後の午後、はるかは一般病棟に移っていた。俺は回診の最後に、彼女の病室を訪れた。はるかはベッドを少し起こして座っていた。頭には包帯が巻かれていたが、顔色は随分戻っていた。俺を見て、彼女は静かに微笑んだ。
「白石さん、経過は順調です。来週には退院できるでしょう」
「先生、ありがとうございました。父から、たくさん聞きました」
俺は丸椅子に腰を下ろした。
「先生、私、手術の前の晩に夢を見たんです」
「夢ですか?」
「公園を、誰かと歩いている夢でした。顔は見えないんです。でも、その人が私を呼ぶ声だけは、はっきり聞こえて。『はるか』って。優しい声でした。目が覚めて、なぜか涙が出ていて」
俺は答えなかった。
「先生、あの卒業アルバムの隣の男の子のこと、私、もう無理に思い出さなくていいって思えたんです」
「それは、どうしてですか?」
「思い出せなくても。その人が私のこと、ずっと覚えていてくれたなら、それでいいんだって」
俺は彼女の顔を見た。彼女もまた、俺をまっすぐ見ていた。昔と同じ、目尻が少し下がる目だった。
「白石さん。退院されたら、また公園を歩いてみてください」
「先生も、一緒に歩いてくださいますか?」
「ええ。ご家族とご一緒に」
はるかは嬉しそうに頷いた。俺は立ち上がり、もう一度だけ頭を下げて、病室を出た。扉を閉めた廊下で、俺は引き出しに入れたままにしてきた古い手帳のことを思った。異曲に戻り、俺は手帳を取り出した。最初のページを開き、18歳の自分の字の下に、新しい一行を書き足した。
「彼女は生きている」
それだけ書いて、手帳を閉じた。12年止まっていた時間は、もう止まってはいなかった。



