「お前は親に教わらなかったのか?今日は親族との食事会だぞ。嫁は立っておくのが常識だろうが。」…

「お前は親に教わらなかったのか?今日は親族との食事会だぞ。嫁は立っておくのが常識だろうが。」...

夫、友彦からの電話は、いつものように冷たい口調だった。
「リカ、何度言えばわかる?出張中に電話してくるなと言っただろう。」
「でも、大事な話があるの。お義母さんがね——」
「ストップ。もういいから黙れ。俺の許可なく喋るな。今から大事なんだ。嫁のくせに夫の足を引っ張るなよ。」

私は静かに告げた。
「じゃあ、二度と電話しない。後で後悔しないでね。」
「すでに後悔してる。お前みたいな役立たずと結婚したことをな。俺以外のことで俺が後悔することなんてない。じゃあな。」

夫は電話を切った。かけ直しても、電源が切れているのか繋がらない。
もう、私の我慢も限界だった。頭の中で、この夫を哀れんだ。彼は何も分かっていない。私は全てを知っているのに。

一週間後、私は念入りに身支度を整えていた。今日は夫が帰ってくる日だ。妻として最高の状態で出迎えなければならない。だって、今日は一生に一度しかない大切な日なのだから。
玄関の扉が開き、夫が戻ってきた。
「ただいま。」
「お帰りなさい。出張はどうだった?」
「いつも通り順調だったさ。母さんは?」
「奥にいるわよ。」

夫は荷物を私に放り投げ、リビングへと向かった。しかし、その足はすぐに止まる。中には、義弟の京太君や義母の兄である大蔵さんを含めた親族が全員、真っ黒な喪服を着て揃っていた。大蔵さんの手には、義母の遺影が握られていた。
「京太、これは一体何事だ?なぜ突然親族が集まっている?それにその服装は何だ?母さんの写真まで持って、まるで葬式じゃないか。」
「ドッキリにしてはさすがに度が過ぎているぞ。」
「この状況でドッキリって選択肢を口に出せる兄さんに失望だよ。母さんは本当に亡くなったんだ。もう通夜も葬式も済んで、今日は初七日だよ。兄さんにとっては、母さんがいなくなった最初の日だろうけどね。」
「は?何言ってるんだ?」
「まだ分からない?まあ、仕方ないよね。兄さんにとっては、どうでもいいことだったみたいだし。俺も何度も連絡したんだ。リカさんだって電話したはずだ。それなのに、兄さんは一度も出ることなく、折り返すことさえしなかった。ちゃんと大事な連絡があるって留守電に吹き込んだのに、一体どこで何をしていたんだ?」

京太君は、口調こそ穏やかだったが、明らかに夫に対して怒っていた。さすがの夫も突然の事態に困惑しながらも、すぐに優等生の対応をした。
「そうか。それは大変な出来事だったな。父さんがすでに亡くなっている以上、本来長男である俺が様々な手続きを進めなければならなかったのにお前に負担をかけてしまって、すまなかった。でも、俺もずっと出張中だったんだ。あの羽根商事との大きな商談を抱えていてな。それがどれほど大事なことなのか、お前なら分かるだろう。」
「兄さんが普段から忙しくしているのは知っているし、なかなか電話に出られなかったのは理解できる。でも、リカさんの電話は、出張だって分かった上で妻から電話がかかってくるなんて、普通気にならない?俺だったら、手が空いた時にメールでも何でもいいから、とりあえず確認するけどね。」
「確かに、羽根商事はかなりの大手企業で、兄が契約を決めた相手だから重要視するのは分かる。でも、だからと言って、全く家族と連絡が取れなくなるようなことではないだろう。」

夫とは違って、きちんとした価値観を持つ義弟がいて、私は幸せ者だ。
「それなんだけどな。確かにリカからは電話があったし、俺も出たよ。なんたって愛する妻だからな。でも、リカは母さんのことは何も教えてくれなかったんだ。ただ取り留めのない話をするばかりで。俺も忙しかったから、大した用事ではないと思って電話を切ってしまったんだ。」

夫は、わざわざ痛い言い訳まで作って嘘を述べる。今更驚きはしない。この男がこういう奴だということは、結婚してから今に至るまでによく知っている。
「私が何も教えなかったですって?そんなの初耳だわ。せっかく電話したのに、友彦は黙れと言うばかりで、ちっとも私の話を聞いてくれなかったじゃない。自分に非があるからって、こっちに責任を押し付けるのはやめてくれない?」
「別に俺は責めてるわけじゃない。ただ淡々と事実を述べているだけだ。リカは電話で俺に大事な情報を伝えなかった。だから俺は母さんの訃報を知らないままだった。ただそれだけだろう。」
「私、ちゃんと伝えようとしたわよ。」
「いいか、分かりきった嘘をつくのはやめろ。それに今重要なのはそこじゃない。俺は葬式に出られなかったんだぞ。リカのせいで、母さんに最後の別れができなかったんだ。俺は息子なのに。一体どう責任を取るつもりなんだ?」

夫は淡々とした声で喋っているが、眉間には皺が寄り、目には怒りの色が浮かぶ。ただ嘘をつくだけでなく、明らかに私を攻め立てている。自分の招いた事態を人に責任転嫁しようだなんて、虫が良すぎる。私は徹底的に争うべく、スマホを取り出し、ある音声を再生した。
——ストップ。もういいから黙れ。俺の許可なく喋るな。今から大事なんだ。嫁のくせに夫の足を引っ張るなよ。

それは、私が先週、夫とした電話の会話だった。実は、ずっと録音しながら話していたのだ。
「な、なんでこんな音声データがあるんだ?」
「合成?そうだ。合成に違いない。そうでなければ、こんなタイミングよく証拠なんて出せるはずがない。普通、夫婦の会話なんて録音しないだろう。」
「それが、私はしていたのよ。なぜなら、私は日頃から友彦に罵倒されていたから。」
「なんだって?」
衝撃の事実に、京太君が横から割って入る。さすがの夫も驚いて肩を揺らした。
「リカ、出鱈目を言うんじゃない。親戚たちが混乱するだろう。今回、母さんの葬式に出られなかったことは悪かった。お前も夫がいなくて決まりが悪かったんだろう。でも、だからって当て付けで嘘なんて言うもんじゃない。」
「待て、兄さん。双方の意見が食い違っている時は、第三者が公平に判断するべきだろう。そのためには、ちゃんとリカさんの話も聞かなきゃ。」
「わしも今の話は気になる。リカさん、どうか詳しいことを教えてくれ。」
これまで沈黙を守っていた大蔵さんまで身を乗り出してきたので、夫は一度、身を引く。私は遠慮なく詳細を語ることにした。
「実は、私は結婚してからずっと友彦に役立たずと見下されていたんです。確かに手際のいい方ではありませんし、家庭を過ごしやすい雰囲気に整えるのは私の役目だと思ったから、しばらくは我慢していました。でも、あることをきっかけに、嫁いびりの証拠を集めようと思ったんです。」
「そんな、俺、何度も二人に会っていたのに全く気づかなかった。」
「友彦は人前では本性を出しませんから、京太君が知らないのも当然です。だからこそ、第三者に確実に納得してもらえる証拠が必要だったんです。今回のように通話をアプリで録音したり、ボイスレコーダーを持ち歩いて普段の会話を録音したり、友彦からのメールも全て保存しています。嫌味な文をたくさん送り付けられましたから。」
「妹には相談しなかったのかね?私は兄として、また、妹なら話を聞いてくれたはずだが。」
大蔵さんが遠慮がちに聞いてくる。踏み込んだ質問だと分かっているのだろう。女性同士の関係は複雑で、男性の目からは捉えきれないものがあるから、その気遣いが嬉しかった。
「もちろん、私もお義母さんに相談しようと思ったことはあります。お義母さんは、嫁である私から見ても、とても素晴らしい人格者ですから。でも、できませんでした。優しいお義母さんに心配をかけたくなくて。だって、お義母さんは私を本当の娘のように可愛がってくれたのですから。」

私が義母のことを思い出し涙声になると、その場にいる夫以外の全員が目頭を押さえた。いかに義母が慕われていたかが分かる光景だ。夫以外は。だが、私はぐっと涙を堪えて話を続けた。
「私がお義母さんに相談するかどうかと悩む間にも、着実に夫の態度はエスカレートしていきました。そんな中、ある日、お義母さんが突然亡くなってしまったのです。そして、今に至ります。」

私の話を聞き終えると、京太君や大蔵さんをはじめとする親戚の面々は、一斉に夫へ非難の視線を向ける。これで夫の嘘は暴かれた。しかし、依然として夫は焦る様子がない。淡々とした表情で、やれやれといった風に肩をすくめるだけだ。
「俺の方が嘘とか、リカの方が嘘とか、どうでもよくない?出張と商談があったから、俺は母さんの葬式には出れなかった。その事実は変わらないだろう。そんな一方的に責めないで欲しいな。文句があるなら、俺を羽根商事と引き合わせた会社に行ってよ。」
「兄さん、なんて言い草なんだ。自分から話をこじらせておいて、不利になったら開き直るなんて。およそ大人の行動とは思えないよ。」
「わしもそう思う。妹の子供だからと今までわがままや物質的な態度にも目をつぶってきたが、さすがに度が過ぎている。母親の葬儀に関わることなんだぞ。そんな淡々と言い訳していいようなことじゃないだろう。」

京太君の怒りの訴えにも、夫はまるで耳を貸そうとしない。そこで、私は次の手に移ることにした。
「皆さん、実は私が用意した証拠というのは音声データだけではないんです。こちらをご覧ください。」
鞄の中から分厚い写真の束を取り出して親族たちに配る。皆、目にするや、はっと息を飲んだ。さすがに夫も気になったらしい。親族たちの背後に回り、一緒に写真を見ると、ようやく少しだけ焦りの色を見せた。
「兄さん、この写真に映っているのは兄さんだよね。それじゃあ、兄さんの腕に絡みついているこの女性は誰なの?」
京太君の一言で、親族たちが抱いていた驚きはあっという間に怒りへと変わる。夫はとっさに目を泳がせた。
実は、夫は出張ではなく、浮気旅行に行っていたのだ。私が嫁いびりの証拠を集めるきっかけとなった「あること」とは、ずばりこの浮気を指している。出張中は電話をしてくるなと言っていたのも、浮気旅行の真っ最中だったからだ。

親族たちは歯を剥き出しにして睨みつけたが、夫はそれでもまだ白を切ろうとする。
「そんな写真が何だと言うんだ?今の時代、素人でもそれくらい簡単に合成できてしまうだろう。俺には全く身に覚えのないことだ。勘違いで人を誹謗中傷しない方がいいぞ。裁判沙汰になるかもしれないからな。」
鋭い目つきで周りを見回してくる。ついに裁判という言葉まで飛び出すとは思わなかった。だが、私には見える。夫が袋小路へと追いやられていく姿が、あと一歩だ。今は反撃の時。追い詰められれば、必ず自ら真実を話し、許しを乞うようになるだろう。

私はさらなる追撃を繰り出すべく、今度はスマホの写真アプリを表示させた。
「なんだ、まだありもしない合成画像を出すつもりか。いい加減、無駄な努力をするのはやめ——」
夫は、実際に液晶画面を見ると固まった。そこには、浮気相手である純子との生々しいメッセージのやり取りが表示されていたのだ。
夫の困惑した様子を受けて、すかさず京太君が横から顔を出し、親族全員に画像の内容を読み上げてくれる。
「『今日の友彦君、すごかったね。私たちって、相性抜群みたい。』『お前の色気が俺を高ぶらせるんだよ。困った子だな。今度たっぷりお仕置きしてやらないとな。』『やだ、恥ずかしい。お仕置き楽しみすぎる。』『狼男の登場だぞ。ガオー。』」
あえて茶目っ気たっぷりに裏声と地声を使い分けてまで、役になり切って読んでいる。おかげで深刻な内容のはずなのに、なぜか笑いが込み上げてきた。恋は盲目というか、人に読まれることを想定しない恋人たちの会話は、色々と破壊力がありすぎる。一言で言えば、ただただ痛い。
「やめろ!人の恋文を読み上げるな!」
ついに夫も声を荒げた。静かにネチネチと相手を攻めるのが彼の売りなのに、今や顔を真っ赤にして取り乱している。実にいい気味だ。
「な、なんでこんなデータを持ってるんだよ。プライバシーってもんがあるだろうが。」
ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返しながらも、夫は次第にクールダウンしてきた。さすが根暗で狡猾な男。爆発が長続きしない。
「なぜって?あなたが私を見下し始めると同時に、『出張』とか『大事な相談』なんて決まった言葉を繰り返し使うようになったじゃない。それに、家に帰ることも減っていたから、よからぬことでも起こったのかと思って理由を聞いても、『俺が養ってやってるんだぞ』の一点張りで黙らせようとするし。そしたら、独自に調べるしかないじゃない。私も、ほどほどで帰ってきてくれてたら、そこまで深刻に考えなかったと思うわ。でも、あまりにも帰ってこないから、さすがに怪しいと思ってね。それで、友彦が寝ている間に指を拝借して、指紋認証でスマホのロックを解除したの。ちょうど純子からメッセージが来てたから。そしたら、随分と情熱的な狼になっていたようだから、思わず証拠を撮影しちゃった。ついでに、友彦のパソコンも調べて、出張の日には尾行もしたわよ。仕方ないね。狼男は元に戻して監視してあげないと、そのうち他の牝鹿を見ても発情しちゃうようになるかもしれないし。結果的に、旅行先で二人の写真撮影もできたし、万々歳よ。」

夫の顔はもう茹でダコみたいになっていた。しばらくリビングの中が忍び笑いに包まれる。大蔵さんも肩を震わせていたが、やがて笑いが収まると、すっと真面目な顔になった。
「友彦君、妹は母親として君にできる限りの愛情を注いだはずだ。もちろん完璧ではなかったかもしれない。それでも、妹は間違いなく君のことを愛していたはずだ。その恩に報いるどころか、自分の浮気によって妹の葬式に来れないというのはどうだろう?それは、裏切りと言えるのではないか?」
「俺もそう思うよ。母さん、きっと天国で悲しんでいると思う。リカさんのことは母さんも大切にしていたから。それに、父さんが亡くなった時はすぐ駆けつけて、あんなにも深い悲しみに暮れていたのに、今度は葬式にも出ないって、さすがにどうかと思うよ。」

京太君も大蔵さんも最もなことを口にする。他の親戚たちも共感するように何度も頷き、夫は完全に孤立してしまった。それでも、夫は自分のスタンスを覆さない。
「別に良くないか。浮気くらいだって。リカは俺の所有物だろ。」
「はい?それ、どういうこと?義兄さん。」
「亡くなった妹は、親として夫婦のあり方について教えてくれなかったかね?」
「や、確かに何やらごちゃごちゃ言い放ってましたけど、長すぎて全部忘れました。大体、ぐうたらしているだけの奴が何を語るんだって話でしょ。」

これには私を含め、その場にいる全員があんぐりと口を開けて固まった。夫は周りの反応など目に入らないようで、己の考えをぺちゃくちゃと喋り続けている。
「社会に貢献しているわけでもない。新しい何かを生み出しているわけでもない。ただ生産性のない作業を繰り返しているだけの穀潰し。それなのに、少し人生長く生きてるってだけで、俺の親だってだけで、ふんぞり返ることが許される。どんだけ身勝手な仕組みだよ。親子って。リカも母さんも、男に規制するただの虫けら同然だ。」

その瞬間、全員の血が沸騰するのではないかと思った。直後、室内にパーンと大きな音が響く。私は、それが自分が机を叩いた音だと気づくのに、しばし時間がかかった。
「さっきから黙って聞いていれば、お前は本当に血の通った人間か?お母さんの腹から生まれた子供か?お母さんは、血の繋がらない私のことすら、本当の娘のように思ってくれてたんだぞ。自分がどれだけ大切にされてきたか、分からないのか!」
京太君も大蔵さんも目をまん丸にして私を見ている。人生でこれほど大声を出したのは初めてではないだろうか。叫びすぎて喉が痛い。机を叩いた手が痛い。でも、一番痛いのは、息子に一片の思いも届かなかった義母のことを思うと、心が痛かった。

これだけ怒鳴られても、夫は反省するどころか、何か珍しい生き物でも見るかのようにニヤニヤしている。この人は、病気なのかもしれないと思い始めた。
「はいはい。言いたいことは言い終わったか?全く。母さんといい、リカといい、主婦は無駄に話が長いな。もっと人の心に響く話し方を学んだ方がいいぞ。それと、俺はもうこれ以上、お前との関係を続ける気はないから、何を言われたって平気だ。」
「離婚ってこと?」
「そうさ。俺は純子と人生をやり直すんだ。」

離婚に関しては、そう驚くことではない。こちらとて、不貞行為を働いた夫と夫婦でい続けるのは難しいと、事実を知った時から考えていたのだから。しかし、この後に続く言葉は、本気で理解を超えるものだった。
「だから、さっさと出て行けよ。」
「す、す、一体何のこと?」
私がきょとんとした顔をすると、再婚を前にして気分のいい夫は笑顔で教えてくれる。
「決まってんだろう。遺産だよ。母さんの遺産だ。俺は母さんの実の息子なんだ。遺産相続は配偶者とその子供が受け取る。父さんは俺たちの結婚前に亡くなっているから、実子が全部もらえるだろ?これは日本の法律が保証していることなんだ。」

確かに、夫の言っていることは間違ってない。その通りだ。だからと言って、妻を裏切って浮気した上、遺産を残してくれた母を貶めておきながら、金だけ要求するとは、外道にも程がある。いや、むしろこれだけの外道だからこそ、浮気という行為に手を染めることができるのか。頭の中で一瞬夫を分析し掛けて、やめた。こんな男のために貴重な脳みそを働かせること自体が惜しい。夫には破滅だけがお似合いだ。今から、それを差し上げることにしよう。
「残念だけど、あなたは相続できないわ。お母さんの遺産は、私と京太君で相続することになったから。」
「はあ?何言ってるんだ。京太はともかく、お前はただの他人だろ。」
「そうよ。私とお母さんは血の繋がらない他人。でもね、他人でも遺産を相続する方法はある。逆に言うと、実子っていうだけで、必ずしもらえるものでもないのよ。あなた、散々私を馬鹿にしてきた割には、ちょっとお勉強が足りないんじゃない?」
「仕方ないよ。兄さんは煩悩まみれの狼だから、人間みたいに複雑なことは考えられないんだよ。」

私が夫を煽ると、即座に京太君がそれに乗っかってくれる。この阿吽の呼吸、なんと心地いいのだろうか。夫婦だった夫より、よっぽど息が合っている気がする。夫はまたもや顔を真っ赤にした。そろそろ高血圧で倒れないか心配である。まだ離婚していないから、今何かあると、妻である私が手続きなどしなければならない。それはごめんだ。別れてから倒れてほしい。
「ごちゃごちゃうるさいな。どうして俺が遺産を相続できないか、教えろよ。ここまで馬鹿にしておいて。口先だけだったりしたら、どうなるか分かってんだろうな。」
「安心して。ひどい目に会うのは、あなただけだから。これよ、遺言書。あなたの言う通り、相続に関する規定では実子である友彦と京太君が相続人になる。でも、遺言も財産の処分方法の一つよ。相続に関する規定と遺言の内容が違う場合には、遺言の内容が優先して適用される。あなたの好きな日本の法律で定められているわ。」

私が遺言書の実物を見せると、さすがの夫も言葉を失った。しかし、何かに気がついたように息を飲み、急に不敵に笑い出す。
「遺言で他人に財産を残せることは分かった。でもな、俺だって相続人ではあるんだ。遺留分があるだろう。」
夫の発言には驚いた。まさか遺留分のことを持ち出してくるとは思わなかったのだ。金に関しては、人並み以上に細かいらしい。大蔵さんが心配そうにこちらを見たが、私は笑顔を返す。何も怖がることはない。義母は全てを見抜いていたのだから。
「そうね。確かに相続人には相続分が遺留分として認められているわ。でも、それって相続人であったらの話でしょ?」
「はあ?何言ってるんだ?血の繋がった実子だぞ。」
「そのセリフ、さっきも聞いたわよ。実子イコール相続人じゃないの。あなた、相続排除されたのよ。」

夫はついに石のように固まってしまった。実は、生前の義母は、私が嫁いびりされていることに気づいていたのだ。ちょうど私が浮気調査を開始した頃、義母自身からそう打ち明けられている。結局、私は義母に隠し立てする必要がなくなり、洗いざらい話したのだ。全てを聞き終えた義母は、夫を相続排除することに決めたというわけだ。
夫は震える唇で反論する。
「こ、こんなことあっていいのかよ。他人が財産を相続して、実子が排除だなんて。やっぱり、家族が相続するのが筋ってものだろう。」
同意を求めて周りを見渡すが、親族一同、誰も頷かない。それどころか、京太君と大蔵さんはきっぱりと否定して見せた。
「家族ってさ、すごくいいように使っていい言葉じゃないよね。本当の家族はさ、血の繋がりがどうこうじゃなくて、お互いに思いやれる関係のことを指すと思うんだ。兄さんはどう?配偶者を騙すことが、思いやりなの?」
「君は家族じゃなくて、お金しか頭にないんだろう。人の繋がりというものは金で測れるものではないんだよ。君に、妹の家族を名乗る資格なんてない。」

いつの間にか、親族たちが夫の周りを取り囲み、冷たい視線を浴びせている。屈強な体つきの者も多いからか、かなりの圧迫感だ。それでも、ついに夫は謝罪しなかった。
「ああ、どいつもこいつも熱苦しくて嫌になるな。分かったよ。遺産はいい。財産分与もいらない。だから、できるだけすぐに離婚してくれ。俺の生きがいは、純子と再婚することだけだからな。」
そう言って夫は、さっさと実家を出ていってしまう。残された親族たちは、後味の悪さを感じながらも、私のことを気遣ってくれた。
「リカさん、うちの兄が本当にすみません。なんとお詫びしたらいいか。」
「本当にあの子の叔父として、恥ずかしい限りだ。友彦は必ずこちらで捕まえて、直接謝罪させて見せるから。」
なんと優しい人たちなのだろう。この二人が夫の親族だなんて信じられない。私は笑顔で二人に告げる。
「二人とも、顔をあげてください。夫に関しては、自然の成り行きを見守るだけで大丈夫ですよ。何もしなくても、もう夫は終わりですから。」

数ヶ月後、ある日、離婚が成立した元夫から突然、電話が来た。すぐに気づきはしたのだが、簡単に取って合っては面白くない。私は豪華な朝食を用意してはじっくりとそれらを食べ、家事を済ませ、買い物ついでに外でランチをして、午後のお茶も楽しんでから、ようやく電話に出た。
「リカ、俺だよ。」
「詐欺はお断りします。」
「違う。友彦だよ。助けてくれ。今、本当に困ってるんだ。」
珍しく焦った様子の元夫が面白くて、ついからかってしまう。とはいえ、こちらも長々と会話したい相手ではないので、すぐに要件を聞くことにした。
「実は、俺、左遷されてしまったんだ。何でも、取引先の社長の怒りを買ってしまったらしく。でも、実際は何も身に覚えがなくて。それに、純子も姿を消してしまったんだ。連絡しても一向に電話に出ないし。もしかして、何か事件に巻き込まれたのかも。」
その一言を聞いて、私はつい吹き出してしまった。この後に及んで純子を心配するとは、お気楽にもほどがある。私はとうとう彼女の正体を暴露することにした。
「あのね、純子は羽根商事の社長の娘なの。しかも、婚約者付きの身だから、あなたたちの関係は、とても一方的なものとして見られているのよ。『娘を略奪した男』、それが社長の見解なの。」
「そんな、俺たちは運命に導かれ、愛し合った仲で——」
「まだ分からないの?あなた、遊ばれたのよ。飽きられてしまったから、純子は姿を消したのよ。」
「なぜだ?なぜ今になってそんなことを教えるんだ?もっと早く知っていれば、こんなことにはならなかった。」
夫の質問に対して、私は当たり前のように答える。
「そんなの、あなたを後悔させるためよ。全てを知りつつも、黙っていたに決まってるじゃない。」
「なんだって!このクソ女が!無能の金食い虫が、気持ち悪いことするんじゃねえよ。」
と、夫も堪忍袋の緒が切れたようだ。物静かだったイメージからは考えられないほど、怒り散らしている。いつもネチネチした言い方ばかりだったのに、声を荒げられると、迫力があるわね。でも、私のせいにされるなんて心外だわ。
「だって、『俺の許可なく喋るな』って、あなた自身が言ってたわよね。」
「そんなの、時と場合によるに決まってんだろうが。空気読めよ。使えないやつめ。」
「はいはい。じゃあ、罵倒に付き合う趣味はないから、切るわね。」
あっさりと身を引こうとする。私が思った反応とは違ったのか、夫が急に焦り出す。
「ま、待て。その、俺が悪かった。」
「え?何?今更謝ってくるの?」
「俺も、つい意地を張ってしまったんだ。今は心から反省してる。だから、俺とよりを戻してくれ。」
「断るわ。」
嘘偽りなく答えると、電話の向こうから悲鳴が聞こえてきた。私は、夫が焦っている様子も、急に復縁を迫った理由も知っている。
「あなた、借金を抱えてるんでしょ?純子と再婚するために、お金を使いまくったみたいね。」
「ど、どうしてそれを——」
「あなたのスマホで浮気の証拠を集めていた時に気づいたのよ。だって、消費者金融のサイトにアクセスした履歴があったんだもの。それに、パソコンでも借金について調べていたでしょ。だから、あなたが複数の会社から借金していることが分かったのよ。」

私に借金を払わせる計画が台無しになったことで、夫は困窮してしまったようだ。これ幸いと、夫を止めを刺すために最後の攻撃をする。
「結局、あなたは最後まで自分のことしか考えない嘘つきよ。あなたはいつも『私を養ってやってる』と言ってたけど、結局、私がいなくなったら何もできないのね。私はお金は稼いでいなかったけど、目に見えないところであなたを支えていたわ。それも分からないあなたには、お母さんの遺産なんてふさわしくない。優しいお母さんを侮辱したこと、絶対に許さないから。二度と連絡してこないで。」

夫は一言も言い返せなかった。私も、今度こそ電話を切る。やっと全ての戦いが終わったのだ。この晴れ渡る空のように、私の心も晴れやかだった。
その後、信じていた純子に裏切られた夫は、精神的にボロボロになり、会社を自主退職した。大手の社長に嫌われてしまったことで、業界内でも悪い噂が広がり、再就職も難しい。今はアルバイトをしながら過ごしているようだ。当然、生活や借金返済でお金の足りなかった夫は、さらに借金しようとする。すでに消費者金融から借金できなくなった夫は、ついに危ないところからも借金してしまう。しかし、バイト代程度では期日までに返済できるはずもなく、今では取立てに追われ、身を隠すどん底の生活となった。

一方、私の方はと言うと、後日、京太君と大蔵さんが親族を代表して謝罪に来てくれる。私は二人に、味方になってくれたことに関して感謝の意を伝えた。すると、大蔵さんから思いもよらなかった真実を聞くことになる。
「実は、私の妹も、夫から結構な嫁いびりを受けていたんだ。」
「え?じゃあ、友彦は父親の姿を見て、間違った考え方をするようになってしまったんですかね。」
「その可能性はあるなあ。」
だからと言って、許されることではないが、このやり取りで、私はもう一度、夫婦のあり方について考えるようになった。

数年後、私は良縁に恵まれ、再婚することとなった。心から幸せになっている。夫婦は対等に向き合ってこそ、という言葉を噛みしめる。
過去の結婚は苦い思い出だけど、おかげで夫婦のあり方についてじっくりと考える機会を得た。私の隣で微笑む彼を見ながら、今は自分なりの答えを見つけることができた。そう思っている。

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