夫の葬儀の翌日。まだ白い花の香りが残る家の中で、私は正一の遺影の前に座っていた。40年の時間が、重く浮かんでは消えていく。柱の傷、古い棚、正一が選んだ照明。この家の全てに、家族の時間が染みていた。
そんな私を、息子の賢太と嫁のみさが居間に呼んだ。2人の後ろには、いつの間にかダンボールの山が積まれている。
「母さん、今後のことを話したいんだ」
賢太の声は、どこか事務的だった。喪服も脱がないうちから、もう次の段取りに入っているのだ。
「相続の手続きが済んだら、この家、建て替えようと思ってる」
「建て替え? 」
「この家、古いし使いにくいだろ。俺たち夫婦で暮らすには、今のままじゃ不便なんだよ」
私は膝の上で手を握った。この家には、正一と積み重ねた日々が詰まっている。孫が走り回った廊下も、正一が好きだった縁側もある。不便だからと、簡単に捨てられる場所ではない。
「せめて四十九日までは、ここで正一さんを弔いたい。まだあの人を送ったばかりなのよ」
「これから介護が必要になってからじゃ、遅いんです」
みさが待っていたように口を挟んだ。
「私たちにも私たちの生活があるんですよ。お母さんと同居なんて、無理に決まってるじゃないですか」
「そうだよ。父さんが亡くなった以上、この家は俺が相続するんだ。母さんの面倒まで、俺たちには見られない」
賢太は言い切った。父の骨つぼがまだ温かいうちに、息子は私を「面倒」と呼んだ。
私は2人の顔をじっと見つめた。
「私は…どこへ行けばいいの? 」
「そんなの、こっちが知りたいですよ」
みさが呆れたように肩をすくめた。
「いい年して、行く当てもないんですか? だからちゃんと考えておいてあげたのに」
するとみさは、勝ち誇ったように薄い冊子を取り出した。
「お母さんにはこちらがいいと思って。老人ホームのパンフレットです。年金で入れるところを探しておきました。見学もできますよ」
差し出されたパンフレットを、私は受け取らなかった。代わりに、静かに居間を見回した。この家のありとあらゆるものに、家族の時間が染みている。
「荷物をまとめて、今すぐ出て行ってくれ」
賢太が低く押し殺した声で言った。気まずそうな顔をしていたが、そこに迷いはなかった。その横で、みさが小さく笑っている。
その時、私の耳に正一の最後の言葉が蘇った。『もしあんたを邪魔者扱いするようなら、その時はもう母親だからと我慢しなくていい。あんたの人生を、あんたのために使いなさい』
あなたは、こうなることを見ていたのね。私は心の中でそっと夫に語りかけた。
「母さんも、いい加減に聞き分けてくれよ」
黙っている私に苛立ったのか、賢太が声を荒げた。
「父さんが亡くなった。今、この家のあるじは俺なんだ。これからは俺たちの時代なんだよ」
俺たちの時代。その言葉を、私は静かに受け止めた。長い間、家族のためにと自分を後回しにしてきた。その結果が、このダンボールの山なのだ。
私はふっと息を吐いた。不思議と、涙は出なかった。
「分かったわ」
そう答えると、私は未練を断ち切るように立ち上がった。自分の部屋で、必要なものだけをスーツケースに詰めた。正一の写真、あの健太と書かれたノート。それから着替えを少し。40年の暮らしから持ち出すものは、それだけで足りた。
引き出しの奥から、正一の万年筆も取り出した。みさに捨てられかけた、あの万年筆だ。手のひらに包むと、まだ夫のぬくもりが残っているような気がした。
ノートの表紙を指でなぞる。健太と書かれた正一の字。この帳面には、39年分の記録が眠っている。息子が忘れてしまった時間が、ここには全て残っていた。
荷造りを終えて戻ると、賢太がどこかほっとした顔をしていた。
「もう荷造りできたのか」
「ええ。こういうのは、早い方がいいでしょ。お互いに」
「あ、ああ。タクシー呼ぼうか」
「迎えはもう呼んであるから、大丈夫」
私はキャリーバッグを持ち上げ、玄関へ向かった。慌てて立ち上がる賢太と、その後ろに続くみさ。
「お母さんが分かってくれて、よかったです。このまま居座られたらどうしようかと思ってたんです」
「あまり悪く思わないでくれ。これは母さんのためでもあるんだから」
「今までありがとう。さようなら」
儀礼として玄関まで見送りに出た2人に、私はそう返した。そして、正一と暮らした家の扉をそっと閉めた。
外に出た途端、冷たい空気が頬に触れた。石畳の上をキャリーバッグを転がしながら歩く。門の外には、いつの間にか黒塗りの車が止まっていた。スーツ姿の男が降りてきて、深く頭を下げる。後部座席の扉が、音もなく開いた。
私はもう1度だけ、家を振り返った。2階の窓辺から、賢太とみさがこちらを見下ろしている。心配ではなく、厄介払いが済んだという顔だった。私を追い出したことで、2人は全てを終わらせたつもりでいるのだろう。けれど本当の始まりは、この扉の外にあった。
車に乗り込むと、革張りの座席が疲れた体を包んだ。運転席の男は、行き先をもう知っていた。私は膝の上に、正一の写真とノートを乗せた。窓の外を、見慣れた住宅街がゆっくりと流れていく。40年分の重さを、私は今、そっと下ろしたのだ。
私がこれからどこへ向かうのか。賢太とみさは、まだ何も知らなかった。
車が止まったのは、都心の一等地だった。目の前には、空を突くような高層のタワーマンションがそびえている。地上55階建て。ガラスの壁が午後の光を跳ね返していた。
運転手が扉を開ける。降り立った私を、エントランスで1人の男が待っていた。仕立てのいい制服姿の、40代半ばの人だ。
「よう子様、お帰りなさいませ」
沢口さんだった。このマンションを管理する会社の担当で、もう10年近く私の物件を任せている。
「沢口さん、長い間管理を任せきりにして、ごめんなさいね」
「とんでもございません。いつでもお戻りになれるよう、整えてございました」
沢口さんは深く頭を下げ、私を専用のエレベーターへ案内した。ボタンは、最上階の55階を指している。
この最上階の部屋は、私の所有物だ。両親が残してくれた土地の一部を売却し、その資金で正一と2人、10数年前に手に入れた物件だった。長らくある会社の経営者へ貸していたが、ちょうど契約が切れて、部屋は空いていた。
これを買った時も、正一は表に出たがらなかった。『よう子さんが選んだ物件なら、間違いない。名義もあんたにしておけ。俺はあんたの後ろで見てるよ』そう言って、正一はいつも私の判断を信じてくれた。だから、賢太も母がこんな部屋を持っていることなど、想像したこともなかっただろう。
扉が開くと、広いリビングが目の前に広がった。窓の一面に、都心の街並みが箱庭のように見下ろせる。夕暮れの光が、床にまで届いていた。
私は持ってきた正一の写真を、その窓辺にそっと置いた。窓の外には、明かりを灯し始めた町がどこまでも広がっている。
「正一さん。まさか、こんな形でここへ戻ってくるとは思わなかったわ」
写真の中の夫は、いつものように穏やかに笑っている。40年前、あの古い家に嫁いだ日のことを思い出した。あの頃の私は、いつか自分の判断でこんな景色を見ることになるとは、想像もしていなかった。
派手な暮らしがしたいわけではない。ここは、夫を失った私がもう一度自分の人生を始めるための場所だ。そう思うと、背筋がすっと伸びた。
その夜、私は弁護士の高橋さんに電話をかけた。
「奥さん、こちらへ移られたと沢口さんから伺いました。お体は大丈夫ですか?

」
「ええ、なんとか。高橋さん、これからいくつか、お願いしたいことがあるの」
私は膝の上に、あの健太と書かれたノートを広げた。39年分の記録が、ページの隅々まで並んでいる。長い間、私は黙って耐えてきた。けれど、耐えることと目を閉じていることは、違う。私はずっと、事実だけは記録に残してきた。
「正一さんが残してくれたもの。そしてこれまで賢太に渡してきたお金。その全部を、一度きちんと整理したいの。私の思い込みではなく、事実として」
「承知しました。税理士にも声をかけて、正確なところを出しましょう」
「それから、賢太の事業の連帯保証のこと。あの契約がもうすぐ更新の時期でしょう。あれも、確認しておいて欲しいの」
「はい。更新の期限はこちらで抑えてあります。奥さんのご判断が要るところですから、勝手には動きません」
私は相手を潰したいわけではなかった。ただ、こんな風に軽く扱われたまま終わるのだけは、避けなければならない。それが、正一と私が築いてきたものへのけじめだった。
その翌日のことだった。賢太は、あの古い家を早速建て替えるつもりで、知り合いの不動産会社と内装業者に話を持ちかけたらしい。母親を追い出したその日のうちに、もう次の段取りに入っていたのだ。
「俺がこの家を継ぐことになったんだ。古いから、丸ごと建て替えたい」
賢太は業者にそう説明したという。自分の家を自分の裁量で好きにできる。そう信じきっていたところ、話はそこで止まった。業者が登記の内容を確認したところ、あの家は土地も建物も賢太名義ではなかった。それどころか、亡くなった正一の名義ですらなかった。所有者の欄には、私の名前があった。水島洋子。ただ1人の名だった。
「大変申し上げにくいのですが、所有者はお父様ではなく、お母様のようです。ご本人の許可がなければ、解体も建築も勝手には進められません」
業者はそう言って、賢太の依頼を丁重に断った。父の家。賢太がそう信じて疑わなかったあの家は、初めから私の名義だったのだ。
翌朝、私の携帯には、賢太からの着信が何十件も残されていた。私はようやく電話に出た。繋いだ途端、耳を劈くような声が飛び込んできた。
「母さん、この家が母さん名義って、どういうことだ? 」
「そのままの意味よ」
「そのままの意味って何だよ。あの家は父さんの家だっただろう。俺が継ぐはずだったんだ」
賢太は、業者から所有者の名前を聞かされて、頭に血が上っているようだった。
「父さんが死んだんだから、家も財産も、長男の俺が受け取る。それが当たり前だろ。なのになんで母さんの名前になってるんだよ」
「当たり前ね。私は静かに返した。あなたはあの家を父さんのものだと思い込んでいただけよ。誰の名義か、なんて1度でも確かめたことがあった? 」
電話の向こうで、賢太が黙った。図星だったのだろう。
「とにかく、話がある。今からそっちへ行く」
「いいえ。話は弁護士を通してちょうだい。私1人では、もう受けないわ」
「弁護士って何だよ。親子の話に、なんでそんなものを挟むんだ」
「親子だからと曖昧にしてきた結果が、これでしょう。もう口約束では済ませられないの」
私は電話を切った。すぐにまた着信が入ったが、放っておいた。合間に、みさからのメッセージも来ていた。
『お母さん、水臭いじゃないですか。家族なんだから、ちゃんと話し合いましょうよ』
昨日私を追い出した人が、今日は家族を口にする。その言葉の軽さに、私は返事をする気も起きなかった。
その日の午後、私は高橋さんと税理士を、最上階の部屋へ招いた。テーブルには、整理された書類が並べられている。
「奥さん、状況を整理しましょう。まず、あちらのご自宅。土地も建物も、奥さんの単独名義です。これは正一さんが生前に望まれたことでした。この部屋も、同じく奥さんの所有です。他にも、奥さんが管理されている物件がいくつかあります」
税理士が続けて口を開いた。
「正一さんの預金についてですが、その多くはご夫婦の老後の生活資金として積み立てられたものです。賢太さんが相続できると思い込んでいた額とは、だいぶ違います。保険金についても同様です。受取人は奥さんです。賢太さんではありません。これも、正一さんが生前にきちんと指定されていたことです」
そして高橋さんが、私の顔を見た。
「賢太さんは、すでに長年にわたって多額の生前贈与を受けています。学費、結婚、車、事業資金、毎月の仕送りも含めて。その総額は、相続で受け取れると期待していたものを遥かに超えているんです」
私はあのノートをテーブルの上に置いた。39年分の記録。息子が受け取ってきた金の1円まで残された、帳面だ。ページをめくると、賢太が生まれた年の日付がある。粉ミルク、肌着、小さな靴。金額の隣に、私の細かい字が並んでいる。
「これを賢太は知らないのね」
「知らないでしょう。調べようともしなかったというのが、正しいかもしれません」
「不思議なものね。あの子は自分が受け取ったものは全部忘れて、これから受け取るはずのものだけを、こんなに正確に数えている」
「よくあることです。もらう側はもらった額を軽く見積もる。当てにする側は、当てにした額を重く見積もる。賢太さんは、その両方をやっているだけです」
高橋さんの言葉が、静かに胸に落ちた。私はもうずっと前から、全てを調べ備えていた。ただ、それを賢太に見せる時が、まだ来ていなかっただけだ。
それから数日、賢太の生活は目に見えて狂い始めた。まず、事業の資金繰りだった。賢太の内装会社は、以前から銀行の融資で何とか回してきた。何度も資金が足りなくなり、その度に私が黙って穴を埋めてきた。その度に、私が連帯保証人として名をつらねている。
ちょうど、その契約が更新の時期を迎えていた。銀行から賢太の元へ、確認の連絡が入ったらしい。
『連帯保証人である水島洋子様の、ご方針のご意向を確認させてください』
賢太は慌てて私に電話をかけてきた。声の調子が、昨日までとは違っていた。
「母さん、銀行が保証の更新の書類を送れって言ってるんだ。いつも通り、判を押してくれるよな」
「いつも通りね。賢太、あなた銀行に追加の融資を頼んだそうね。断られたと聞いたけれど」
「なんでそれを…」
「あなたが社長だと名乗っても、まともに取り合ってくれなかったでしょう。銀行はあなた個人ではなく、後ろにいる保証人を見ているのよ」
電話の向こうで、賢太が黙り込んだ。
「賢太。あなたの会社が回ってきたのは、私が保証人になっていたからよ。それを知っていた? 」
「そりゃ、母さんが保証人なのは知ってるけど。それが何だよ」
「銀行があなたに融資をしてきたのは、あなたの会社の力を信じたからじゃないの。私の資産が後ろにあったから。それが外れたら、どうなると思う?
」
電話の向こうで、賢太が息を飲んだ。自分の会社が自分の実力で回っていると信じてきた。その足場が、実は母の名義と資産で支えられていたのだと、賢太はようやく気づき始めていた。
「なあ、母さん。賢太の声が急に猫撫で声に変わった。昔からさ、母さんには世話になってきたよ。だから、これからも頼りにしてるんだ。保証の更新、頼むよ。それがないと、うちの会社本当に立ち行かなくなるんだよ」
昨日私を家から追い出した口が、今日は「頼りにしている」という。私は、その変わり身の速さにもう驚かなくなっていた。
「その話は、また改めてしましょう。今は、事実を確かめている段階よ」
電話を切って間もなく、今度はみさから着信があった。
「お母さん、賢太さんから聞きました。保証の更新、よろしくお願いしますね。あの人、あれで責任感だけは強いんですから。会社を潰すわけにはいかないんです」
「みささん。あなたは昨日、私に何て言ったか、覚えている? 」
「え? 昨日って…」
「行く当てもないのかと。だから施設を探しておいてあげたと。そう言ったわよね」
みさはしばらく黙り込み、それから取り繕った。
「あれは言葉のあやですよ。お母さんの体を心配して…」
私は、それ以上聞かずに電話を切った。そして、壁の写真を見た。正一が遺した言葉が、今になってはっきりと意味を持ち始めていた。『1度は自分の足で立たせないと、あいつは一生他人の足で歩くことになる』
長年、私はよかれと思って手を貸してきた。だが、その手こそが賢太の背筋を曲げていたのかもしれない。今度は、手を引く番だった。
その翌日のことだった。賢太とみさは、あの家の業者からこのマンションのことを聞きつけ、とうとう押しかけてきた。エントランスで私に合わせろと騒いでいるという。私は2人を最上階へ通すよう伝えた。ただし、沢口さんに同席を頼んだ。
専用のエレベーターの扉が開くと、2人が落ち着きなく入ってきた。広いリビング、一面のガラス窓、遠くまで見渡せる街並み、重厚なテーブル、壁一面に整えられた本棚。その光景に、2人は目を奪われていた。自分たちの知っている家のことしか分からない母と、この部屋とがどうしても結びつかないのだろう。2人はしばらく、口も聞けずに立ち尽くしていた。
「母さん。ここ、何なんだ? 本当に母さんの部屋なのか?
」
賢太は、まるで狐につままれたような顔をしている。昨日まで母を「面倒」と呼び、老人ホームのパンフレットを突き付けてきた人間とは思えないほど、その声は弱々しかった。
「ここは、私の家だからよ」
私が短くそう答えると、賢太は言葉を失ったように瞬きを繰り返した。みさは部屋の隅々を値踏みするように見回していた。そして、その顔に貼り付けたような笑みが戻ってきた。
「お母さん。こんな立派なお部屋があるなら、最初から言ってくださればよかったのに」
「そうだよ。こんなところを持ってるなんて、水臭いじゃないか。んー、お母さん。見たところ、お部屋も随分余ってますよね。私たち家族も、ここで一緒に暮らせますよね。その方がお母さんも、寂しくないでしょう」
一緒に暮らす。私は2人の顔をまじまじと見た。
「昨日まで、私を家から追い出そうとしていた人たちと、なぜ一緒に暮らすの? 」
静かにそう問うと、賢太の顔が強張った。
「あれは…あれは、みさに言われて、仕方なく」
「ちょっと賢太さん、私のせいにするの? あなただって、この家は自分が継ぐんだって、乗り気だったじゃない? 」
「俺は、母さんを追い出すなんて言ってない。お前が、同居は無理だって」
「はあ?
あなた、あの家は自分が相続するんだから、母さんには出ていってもらうしかないって、はっきり言ったじゃない。忘れたの? 」
2人は、私の目の前で責任のなすり付け合いを始めた。夫を亡くしたばかりの母を追い出した罪を、互いに押し付け合っている。その姿は、見苦しいとしか言いようがなかった。
みさが我に返ったように取り繕う。
「お母さん、誤解しないでください。私はお母さんの老後を心配して、安心して暮らせる施設を提案しただけなんです。追い出そうなんて、そんな」
「施設を。はい。あんな広い家に1人でいたら、いつ倒れるか分からないでしょう。私はお母さんのためを思って」
私のため。その言葉を、2人は何度使えば気が済むのだろう。
「それに、お母さんももう年なんですから、いつ何があるか分からないでしょ。私たちがそばにいれば、安心じゃないですか」
「あ、ああ、そうだよ。母さん。俺たち家族なんだから、冷たいことは言うなよ」
家族。2人は都合のいい時だけ、その言葉を持ち出す。
「それにしても、こんなに広いお部屋をお母さん1人で管理するなんて、大変でしょう。よかったら、私が代わりに切り盛りしてあげましょうか。お金の管理とか、お母さんには難しいでしょうし」
かつて私を「家計簿ばかりつけている古い人」と笑った口が、今はこの資産を管理させろという。
「なあ、母さん。そういうことなら、俺が会社を畳んで、母さんの資産管理を手伝うっていうのはどうだ? 俺、経営のことなら分かるしさ。悪い話じゃないだろ」
自分の会社も回せない人が、私の資産を管理するという。2人の言葉は、どこまでも自分たちの都合でできていた。
「いいかげんにしてください」
沢口さんが、静かに口を挟んだ。その落ち着いた声に、2人は驚いたように黙った。
「奥様は、このマンションを含む複数の物件を、ご自身で長年管理されてきました。お二人が口出しできるような問題ではございません」
みさが、目を瞬かせた。
「あの…あなた、誰なんですか? 」
「失礼しました。この建物の管理を任されている者です」
沢口さんの言葉で、2人もようやく自分たちが間違えた場所にいることに気づいたようだった。強気だった勢いが、少しずつ削がれていく。
「分かったわ。それなら全部、お話ししましょう。私が今まで何をしてきたのか。あなたたちが何の上に暮らしてきたのか」
私がそう口を開くと、賢太とみさは互いの顔を見合わせた。その顔には、初めて拭いきれない不安の色が浮かんでいた。
私は2人を来客用の椅子に座らせた。沢口さんがテーブルに、数枚の資料を並べる。
「まず、私の昔の話から始めましょう。そこを知らないと、今の状況が分からないでしょうから」
「昔の話って…。母さんは、ずっと専業主婦だっただろう。家のことしかしてこなかったじゃないか」
「表向きはね。私はそう前置きした。結婚する前、私は不動産会社で経理をしていたの。数字を扱う仕事よ。土地や建物の値打ちを見て、どう転がすかを考える。そういう世界に、私は長くいたの」
「経理って…そんな話、聞いたことないぞ」
「話さなかったのよ。正一さんと相談して、父さんとの約束で。だから、私がこの家を追い出されたとしても、あなたたちは私がどこに行くのか、想像もできなかったのでしょうね」
私は続けた。
「私の実家は、地方にいくらか土地を持つ家だった。両親が亡くなった時、その土地の多くを私が受け継いだ。私はその土地を、ただ寝かせておかなかった。扱いにくい土地を整理して、人に貸せる形にした。宿泊施設や賃貸の建物に変えていった。正一さんは、いつも私の後ろで支えてくれた。2人で時間をかけて、育ててきたのよ」
沢口さんが手元の資料を差し出した。私が所有し、あるいは管理している物件の一覧だった。このタワーマンションの一室、あちらの家、地方の宿泊施設、都心のいくつかの賃貸物件。それらの名前が、紙の上に並んでいる。
賢太が、その一覧を食い入るように見た。見る見るうちに、顔から血の気が引いていく。
「これ、全部母さんのものなのか?
」
「私が所有しているか、実質的に管理しているものよ。ここにある通りね」
「嘘だろ? 何かの間違いじゃないのか? こんな数、ありえない」
ケ太は、それでも食い下がった。
「なあ、母さん。他の物件は、母さんが自分で買ったって言うなら、まだ分かる。でも、あの家は違うだろう。あの古い家は、俺が生まれる前から父さんと母さんが住んでた家だ。父さんが働いて建てた家だろ。それなのに、どうして母さん1人の名義になってるんだ。父さんの名前がどこにもないなんて、おかしいじゃないか」
私は、すぐには答えなかった。その理由を口にすることは、賢太にとって資産の話よりもずっと重い意味を持つ。私は、それを話すべきかどうか、少し迷った。
しかし、賢太は先ほどの映像を見て、心当たりがあるのだろう。父の家の名義が自分ではなく母にある。その事実に、賢太の顔色は土色になっていた。
「母さんが…洗脳してたとか、そういうことじゃないよな」
「違うわ。賢太、あなたは覚えていないかもしれないけど、若い頃、あなたは会社を興した時に、資金繰りに困って、私たちの家の権利証と実印を無断で持ち出したことがあったわね」
賢太の顔から、完全に血の気が引いた。
「そして、あの家を担保に入れて、銀行から金を借りようとした。親に断りもなく」
みさが、隣で息を呑んだ。賢太を見る目が、みるみる変わっていく。
「気づいたのは、私が先だった。書類のわずかな動きから、あなたの企みを見抜いた。正一さんは、あなたを警察に届け出るべきだと言ったわ。でも、私は止めた。『この子はまだやり直せる。1度だけ目をつぶってやりましょう。その代わり、2度と同じことをできないように、家も土地も、私の名義にしておきましょう』ってね」
賢太は、まるで夢でも見ているように、その場に立ち尽くしていた。
「そうよ。あの家が私の名義になっているのは、あなたが18年前に、親の家を担保に金を借りようとしたからよ。あなたを警察に突き出す代わりに、家を守るために。それが、あなたが父さんから相続できなかった理由」
私は、あの日のことを思い出していた。息子の恥を表に出したくなかった。だから、ずっと誰にも言わなかった。賢太が2度と同じことをしなくて済むように。
みさは、今にも泣き出しそうな顔で賢太を睨んでいた。
「ちょっと賢太さん。今の…本当なの? あなた、親の家を勝手に担保に入れようとしたの?
そんな人だったの? 」
「ち、違う。あれは、昔のことで…」
「昔のこと? それ、あなた、ずっと私に隠して結婚したの? 」
「今は、そんな話は関係ないだろ!
」
「関係ありすぎるでしょ! 」
2人はまた、目の前で言い争いを始めた。そして、賢太が私に向き直った。
「どうして黙ってたんだよ。言ってくれれば、俺だって…」
「俺たちだって、母さんに、もっと、もっと優しくした」
私は、その言葉を引き取った。
「私が資産を持っていると知っていたら、あなたたちは私を追い出さなかった。そうね。でも、それは私を敬っているのではなく、私のお金を敬っているだけよ。何も持たない母親でも大事にできて、初めて家族でしょう」
賢太は口をつぐんだ。反論の言葉が見つからないのだろう。
「でもね。あなたたちが本当に驚くのは、この資産の話ではないの」
私は静かに続けた。
「あなたたち2人が、あの家を追い出されて困っているだろうと思って見ている間に、私は弁護士の高橋さんと、全ての準備を進めてきたわ」
私は、沢口さんに目配せした。沢口さんは頷き、1枚の書類を取り出した。
「こちらは、あの家の売却に関する委任状です。すでに売却の手続きを進めております」
みさの顔色が、また変わった。
「売却? あの家を? じゃあ、私たちの家はどうなるんですか!
」
「あの家は、私のものです。これを売却し、その資金で、正一さんの名前を冠した基金を設立します。地域の医療と、高齢者の生活を支えるための基金よ」
「基金? なんでそんな…! 」
「なぜって、それが正一さんの望みだったからよ。あなたたちが奪い合っていたものは、もうとっくに、誰かのために使われることが決まっていたの」
私は、高橋さんの方を向いた。
「高橋さん、よろしくお願いします」
「はい。まず、ご子息の会社の連帯保証について。更新はいたしません。これは、すでに銀行側に通達済みです」
「そんな…! これから、銀行が融資を取り立てに来るってことかよ!
」
「賢太さん。あなたの会社は、これまで再三、奥様の資産によって支えられてきました。それは、もはやあなた自身の経営力とは呼べません。むしろ、いい機会ではないですか。ご自身の力で、立て直すことを考えられては」
「母さん! そんな、一方的に…! 俺が悪かった! 謝るから!
だから…! 」
「謝ることは、もう十分にしてきたでしょう。あなたが悪いことをしたのは、今回が初めてではない。私は、あなたのために、何度も、何度も…。でも、もう終わりにします。あなたも、みささんも、自分たちの人生を、自分たちの力で歩きなさい」
賢太は、その場に崩れ落ちそうになりながら、必死に食い下がった。
「母さん、頼む。今度こそ、俺がちゃんとするから。だから、見捨てないでくれよ! 」
「見捨てる?
そうね。私はあなたを見捨てるつもりはないわ。でも、もうあなたの人生の責任を、私が背負うことはしない。それが、私にできる、最後の親心だと思って」
私は、賢太から視線を外し、壁の写真を見た。正一さん。私は今、あなたに約束した通り、自分の人生を歩き始めている。
みさは、賢太を捨てた。高階層の生活が手に入らないと分かると、あっさりとこれまでの恩着せがましい態度を忘れ、自分の実家へ帰っていった。賢太は、会社も家も失い、今は小さなアパートで、一人で働いているという。
私は今、このタワーマンションの55階で、一人の暮らしを続けている。最初は、正一のいない広い部屋を寂しく感じることもあった。けれど、少しずつ、私は自分の人生を取り戻していった。
古い友人を部屋に招くようになった。2人で街を見下ろしながら、他愛のない話に笑う時間が、何よりの薬になった。高階層の仕事にも、また手を戻している。数字と向き合う時間は、今の私に確かな張り合いを与えてくれた。
ある日、昼下がりのカフェで、私は一人の女性と向かい合っていた。地方出身の、仕事を求めて上京してきたという娘だ。彼女は、緊張した面持ちで、私が差し出した書類に目を通している。
「この物件、本当に私なんかで大丈夫でしょうか。オーナー様に、ご迷惑をおかけしないか心配で」
「大丈夫よ。あなたは、ちゃんと数字に強いじゃない。私も若い頃はそうだったわ。分からないことは、私に聞いてちょうだい」
彼女は、ほっとしたように微笑んだ。 – あの日、息子に家を追い出された私は、すべてを失ったと思っていた。けれど、本当に失ったのは、古い家ではない。
私は、自分の人生を、自分のために生きることを、初めて選んだのだ。それは、正一が私に残してくれた、最後の贈り物だった。
窓の外には、今日も明かりを灯した街が、どこまでも広がっている。私は、写真の夫に静かに微笑みかけた。次は、あなたが行きつけにしていたあの旅館に、一度行ってみたいわ。一人でね。写真の中の正一は、今日も、ただ穏やかに笑っている。


