俺は転校初日から決めていた。これからは何があっても静かに生きていく。中学から高校まで、俺は地元で知られた存在だった。夜の呼び名は「喧嘩」だけ。向こうから仕掛けてくる喧嘩を買い続けていたら、いつの間にか周りにヤンキーが集まり、俺は「夜王」と呼ばれるようになった。でも正直、そんな生活は疲れるだけだった。本当は家でアニメを見てゲームに没頭しているほうが好きだった。親に迷惑をかけたくない、そんな思いもあって、この機会はチャンスだと思った。
親の転勤で車で二時間ほどの街に引っ越し、俺は過去を全部隠して生きることにした。新しい学校では陰キャらしく振る舞った。すると、あれ? 普通ってどうするんだっけ? 前は自然と人が集まってきたから、自分から話しかけたことなんて一度もなかった。おかげで俺はいつもひとりで、静かな学園生活を送っていた。
転校して一ヶ月が過ぎた日のこと。廊下で生徒会長の内田さんを見かけた。美人で頭も良くて、なのにどこかクールな雰囲気。言葉遣いも丁寧で所作も綺麗で、まるでアニメの登場人物みたいだった。こんな人、憧れるだけで十分。俺みたいな地味な男が話しかけるなんておこがましいと思っていた。
そんなある日、俺の目の前で内田さんが数人のヤンキーに絡まれていた。
「まあ一緒に遊ぼうぜ」
「遊ぶわけないでしょ。そこを通して」
彼らはしつこく言い寄り、内田さんは毅然とした態度で断っているけど、もう限界みたいだった。俺は見て見ぬふりができず、咄嗟に間に割って入った。
「やめろよ。彼女が迷惑してるだろう」
「はあ? あなた何?」
ヤンキーたちは俺を見てヘラヘラ笑う。制服を見て同じ学校の生徒だと気づくが、完全に舐めている。内田さんの前で力に頼るのは避けたい。どうしよう。俺はわざと後ろを指さして叫んだ。
「うわっ! 先生来たぞ!」
奴らが一瞬振り向いた隙に、内田さんの手を掴んで全力で走った。運動神経には自信があったから、軽く引き離せた。角を曲がり、十分に距離を取ったところで手を離した。
「あの……ありがとう、助かったわ」
呼吸を整えた内田さんが、クールな顔をこちらに向けて言った。俺は恥ずかしさのあまり、早口で「いえ、では失礼します」とだけ言って逃げるようにその場を去った。でも、胸は高鳴っていた。まさか内田さんと話せる日が来るなんて。
次の日、いつもより遅めに教室に着くと、なんだか空気が変だった。誰も俺なんて見向きもしなかったのに、クラスメイトが話しかけてくる。聞けば、内田さんが昨日の出来事を噂話として話してくれたらしい。「藤井君が助けてくれてすごく感謝してるって」と。それから少しずつ友達ができ始めた。内田さんの器の大きさにますます惹かれるようになった。
昼休み、アニメを見ながら飯を食べようと中庭に出ると、どこからか声がした。
「やっと見つけた」
「ぇえっ!?」
「そんなに驚かなくてもいいじゃない。私、あなたに嫌われてる?」
内田さんが悲しそうな顔をしていたもんで、慌てて説明した。ただの凡人の俺が、素晴らしい内田さんに話しかけるのは気が引けると。彼女は笑いながら言った。
「私はね、あなたのことを探してたの。あの日からずっと。きちんとお礼を言いたかったから。でも、あなたって放課後すぐいなくなるし、休み時間もどこかに行っちゃうからなかなか会えなかった」
そして彼女は言い放った。
「私、藤井君に興味があるの。仲良くしてくれないかしら」
「え……は、はい……それは……はい」
気づけば承諾していた。来週の土曜日、動物園デート。俺の人生初のデートである。心臓が爆発しそうだった。
約束の日、待ち合わせ場所に着くと、本当に来るか不安で拝んでいたら、私服で現れた内田さんに度肝を抜かれた。あまりの綺麗さに俺は固まり、震えながら呟く。「俺の隣に歩いていいんですか?」と。すると彼女は不敵に笑い、俺の腕にしがみついた。
「私があなたの隣を歩きたいんだからいいの。さ、行きましょう」
「は、はい……」
必死に腕にすがりつく俺に、彼女はこの上なく楽しそうだった。動物園ではキリンを眺めながら他愛のない話をした。「動物園を選んでよかった」と彼女は言い、「あなたが楽しめなければ意味がないから」と。俺は本音を漏らした。
「内田さんと一緒ならどこでも楽しいですよ」
すると彼女は急に立ち止まり、下を向いた。
「えっ、何かすみません、気に触ること言いましたか?」
「ううん、大丈夫。ちょっとドキッとしただけ。藤井君って、他の女の子にも普通にこういうこと言ったりするの?」
彼女の顔は赤く、ついには普段見せない表情をしていた。その瞬間、俺の中で内田さんへの思いが変わった。遠い憧れから、手の届く身近な人への好意へと。彼女をますます好きになった。
その後、レジャーシートでお弁当を食べながら話をしていると、彼女が突然言った。
「藤井君には本当に感謝してる。私、みんなと距離があるなってよく感じるの。学校で高嶺の花扱いされるのも、変に頼られて疲れることもあった。でもあなたは違う。ちゃんと等身大の私を見てくれてるでしょ?」
「……そうですね」
「じゃあ、その敬語はやめて。私のことは“あかね”って呼んで。これは命令よ」
「っぁ……わかりました……」
「よくできました。じゃあ、ご褒美。ほら、あーん」
彼女が作った卵焼きが目の前に差し出されて、俺は顔を真っ赤にしながらそれを口に含んだ。美味しくて、感動で頭が真っ白になった。彼女はいたずらっぽく笑う。この日から、俺とあかねの距離はぐっと縮まった。学校でもよく話すようになり、頻繁に二人で出かけるようにもなった。クラスではいつしか俺が内田さんと対等に話せる人物として有名になっていた。
しかし、穏やかな日常は唐突に終わりを告げる。
ある日、あかねと待ち合わせしていたのに、待ち合わせ場所に彼女が現れない。心配になって校内を探し回ると、体育館の裏手から声が聞こえた。
「なんであなたたちがここにいるの? すぐに出ていきなさい!」
「生きがってないで、俺とデートしようぜ」
声の主を見ると、前に絡まれていたときのヤンキーたちが、あかねを囲んでいた。俺は急いで間に飛び込んだ。
「お前ら、この人に何やってんだ」
「んだお前は。この前の陰キャ野郎じゃねえか。オタクが出しゃばるんじゃねえよ」
「お前ら、この人がどんな思いで毅然と振る舞ってるか知らないくせに。この学校で好き勝手はさせない。今すぐ帰れ」
「うるせえ!」
その瞬間、一番近い男が殴りかかってきた。昔の俺なら、迷わず迎撃していただろう。しかし今は、あかねの前で過去を曝け出したくない。ためらいながらも俺は体が勝手に動き、軽く投げを打ち、相手を倒した。しかし、次々と襲いかかってくる。
「お前らもうやめとけよ」
三人を相手に、俺は軽く対応してきたつもりだった。でも、それを見て助けに入ったのは、彼らではなかった。聞き覚えのある声が響いた。
「よう」
振り返ると、そこには見覚えのある面々が。昔の仲間たちだった。
「悪い、昔の仲間が俺のピンチを察して来てくれたみたいだ」
「そういや、あの噂を聞いてな。たまたま通りかかったら騒がしかったから来た」
「や、やべえ! “夜王”だ! 早く逃げろ!」
「その呼び方やめろ。もう俺は夜じゃねえ」
「すみません、お前らにまで手を出すことはねえよ。そっち系の奴らには困ってるんだ」
「わかりました! もう来ません!」
ヤンキーたちは一目散に逃げていった。そして、あかねが小さな声で呟いた。
「ねえ、助けてくれてありがとう。それで……どうしてあなたがそんなに強いの?」
俺はためらいながら、過去を話した。
「俺、昔はヤンキーだったんだ。中学から高校まで。今はもうやめて、静かに暮らしてるけど」
あかねは少し驚いた顔をして、何も言わなかった。きっと呆れているんだろう、嫌われただろうな。俺はそう思って、彼女に背を向けた。
「俺が元ヤンだと知って、一緒にいるのは嫌だよな。今までありがとう」
「待って!」
大きな声で呼び止められた。振り返ると、あかねが俺の手をギュッと握っていた。
「あなた、こうでもしないとすぐにどこかに行っちゃうでしょ。最初に助けてくれた時もそうだった」
「あかね、手が……」
「私はね、過去なんかどうでもいいの。私が好きなのは、今の賢介君よ」
「……好き?」
「そうよ。友達としてじゃないわ。あの日、助けてくれた時からずっと気になってた。一緒に過ごすうちに、私のことをちゃんと見てくれるのは賢介君だけだって思ったの。優しくて強くて、そしてちょっと可愛い、私の大好きな人よ」
「あっ……ありがとう。俺も……俺もあかねのことが好きだ」
その言葉に、彼女は微笑んだ。
「あかねがいてくれてよかった。俺、もう一度言わせて。好きだ。俺と付き合ってください」
「もちろんよ。こちらこそよろしくね」
こうして俺たちは付き合うことになった。元ヤン仲間たちの歓声が響く中、彼らは二人の顔を見合わせて笑った。
その後も俺たちは平穏に歩みを進めた。22歳で結婚し、三人の子どもにも恵まれた。もし、家族に何かあれば、あの時のように体を張って守っていくつもりだ。



