親族の集まりの場で、俺は冷たい畳にうつ伏せになっていた。ペンキとシンナーの匂いが染みついた薄汚れた作業着姿の俺を、氷のような視線で見下ろす父親と、イタリア製の高級スーツを着こなした弟の翔太が、見下すように笑っていた。
塗装職人である俺は、この一族にとっては恥晒しでしかない。翔太が押し付けてきたのは、取引先で持て余されている「生き遅れの変人」を押し付けるという屈辱的なお見合いだった。
「刷毛しか持てない底辺のお前には、生き遅れの変人の女がお似合いだろう」
親戚たちの忍び笑いが耳に張り付く。母の居場所を守るため、俺はこの理不尽な宣告を黙って飲み込むしかなかった。
指定された駅前の薄暗い純喫茶で待っていたのは、彼らが嘲笑うような惨めな存在ではなかった。自分のことを「変わってるって言われ続けてきた」と自嘲する彼女の姿に、長年壁と向き合ってきた俺の直感が激しく揺さぶられた。
彼女は、理不尽な力に抑えつけられながらも、たった一人で研究と向き合い続ける誇り高き研究者だった。その出会いが、巨大な権力の陰謀を覆す壮絶な逆転劇の幕開けになるとは、この時の俺たちは知る由もなかった。
俺の名前は藤原洋一。この日も、劣化したアパートの外壁の塗替えを終えたところだった。長年使い込んだ刷毛は、俺の手に馴染んでいた。
「おい、洋一。そろそろ切り上げろ。今日は本家の集まりがある日だろ」
背後から声をかけてきたのは、塗装屋の元受けでもある町内会長の源さんだった。仕上げを明日に残し、源さんの軽トラックを見送った後、俺は薄汚れた作業着のまま、実家へと向かう電車に乗った。
実家は無駄に広い準和風建築だ。重厚な扉を開けると、線香の匂いと上等な出汁の香りが混じり合った息苦しい空気が肺を満たした。祖父の七回忌の法要の後、親族一同が顔を合わせる日だった。
「遅いぞ、洋一。どこをほっつき歩いていたんだ?」
座敷に足を踏み入れた瞬間、氷のように冷たい声が飛んできた。父だ。俺は曖昧に謝り、ビールを運ぶよう言われ、親戚たちのグラスに注いで回った。
中心で笑っているのは、4つ下の弟の翔太だ。彼は都内に次々とタワーマンションを建てる新進気鋭の不動産開発会社の社長で、一族の誇りとしてちやほやされている。
「それに比べてね…」
親戚の女たちのひそひそ声が針のように刺さる。俺は無表情を貫き、機械のようにビールを注ぎ続けた。この扱いに反抗しないのには理由があった。幼い頃から、俺の精神は父親によって完全に支配されていたのだ。
10歳の時、翔太が父親の大事な骨董品の壺を割った。怯えた翔太は「お兄ちゃんがやった」と嘘をついた。俺が否定すればするほど、怒りの矛先は俺をかばった母へと向かった。母が傷つくのを見たくない。俺は全ての罪を黙って飲み込むことを選んだ。それ以来、翔太の起こしたトラブルは全て俺のせいにされた。
「お前は翔太の泥を被るための壁になれ」
それが、俺の生きる道だった。
「おい、洋一。聞いてるのか?」
我に返ると、翔太が大げさなため息をついた。
「兄貴の将来の心配をしてやってたんだよ。もう42だろう? 独身で貯金もろくにない。このままだとどうする気だ?」
そして、翔太は得意げに言った。
「だからさ、優しい弟である僕が、人肌脱いであげようと思ってね。知り合いの伝手でお見合いの席をセッティングしてやったよ。相手は…取引先のまた取引先の、ちょっと地味でとっつきにくい女なんだけど、結婚できなくて焦ってるらしくてね。まあ、刷毛しか持てない底辺の兄貴には、ちょうど似合いの物件じゃないかと思ってさ」
座敷から忍び笑いが漏れた。俺が反論しようとすると、父が湯呑みを畳に叩きつけた。
「黙れ! 翔太がわざわざお前のために動いてくれたんだぞ。敵わない分際でその行為を無にする気か。これ以上我が家の顔に泥を塗るようなら、縁を切るぞ」
縁を切る。それはつまり、母をこの家に置いていくことを意味する。母の居場所を守るため、俺は深く頭を下げた。
「かしこまりました。お引き受けします」
指定された駅前の純喫茶は、昭和の香りが残る薄暗い店だった。結局、俺は作業着のまま来てしまった。朝、急な現場を頼まれ、着替える間もなかったのだ。爪の間には落としきれない白い塗料が残っていた。
カランコロンとベルが鳴り、現れた女性は、翔太が言っていたような地味な女性ではなかった。透き通るような肌と、知性を感じさせる大きな瞳。そして、彼女は白いブラウスの上に、まるで自分の皮膚のように自然に、薄手の白衣を羽織っていた。
「初めまして。白石凛と申します」
透き通った声だった。俺が袖から漏れたシンナーの匂いを気にしていると、彼女は表情を柔らげた。
「アクリルシリコン樹脂に、少しトルエンが混ざっていますか? 現場の匂いですね」
驚いた。においだけで塗料の成分を言い当てたのだ。彼女の白く細い指先には、無数の小さな火傷の跡や、薬品で荒れた赤みがあった。研究者の手だ。
話をしていると、彼女がぽつりと打ち明けた。
「このお見合い、父が無理やりセッティングしたものなんです。私はある科学メーカーで研究員をしています。でも最近、自分の研究テーマを取り上げられてしまって…上司から『女に材料学の最前線は無理だ。大人しく結婚して家庭に入れ』って」
彼女は世間から「変わってる」と言われ続けてきたと自嘲した。
「だから本当は、今日のお見合い、藤原不動産の社長である弟さんがお相手の予定だったんですよね?」
俺は絶句した。
「親会社が気を利かせて、有望な若手社長である弟さんに打診を持ちかけた。でも、調査書で私がこんな変わり者だと知って、傷なめとしてお兄様であるあなたにこの席を押し付けた。違いますか?」
彼女は全てを理解した上で、この席に座っていた。俺は彼女の目を見据えて言った。
「あなたは、自分が厄介者だと諦めて、その大切な研究を手放せるんですか?」
彼女は拳を握りしめた。
「手放せません。私が開発しているのは、空気中の有害物質を吸着し、無害な水と二酸化炭素に分解する特殊光触媒ポリマーです。私の妹は…化学物質過敏症でした。実家は父の代から続く小さな科学工場で、私が10歳の頃、廃液処理が原因で周囲の土壌と空気が汚染されて。妹は持病の喘息が悪化して…」
彼女の声は震えていた。
「父は会社を売り払い、その資金で妹のような子供を救うための研究財団を立ち上げました。私は妹から奪われた綺麗な空気を取り戻すために、ずっとこのポリマーの合成に人生を捧げてきたんです。あと少し。あと少しで実用化の壁を超えられるところまで来ているのに。なのに、今のスポンサーは利益の薄い環境技術より、安価で見栄えのいい建材を作れと。私が反発すると、研究費を打ち切り、ラボを閉鎖すると脅してきました。そして、親会社の都合のいい相手と結婚して研究から手を引けって…」
俺は静かに言った。
「俺もあなたと同じです。俺はしがない塗装職人ですが、刷毛を握るこの手のひらには、壁の裏側で呼吸する素材の命を感じる感覚が残っています。俺は何も諦めていません。世間がどう笑おうと、理不尽な力で抑えつけられようと。だから、あなたのその火も、絶対に消させはしません」
彼女の瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。
その時、俺の作業着のポケットで携帯が震えた。源さんからだった。
「町内会の広場にある壁画の壁面が、暴徒に赤いスプレーで落書きされたんだ。明日は祭りなのに、子供たちが泣いちまって…」
俺は凛に謝ってすぐに現場へ向かおうとしたが、彼女は言った。
「もしご迷惑でなければ、私もご一緒してよろしいですか? 藤原さんが、ご自分の誇りにどう向き合っているのか、私見たいんです」
広場に着くと、子供たちが描いた向日葵の壁画は、真っ赤なスプレーで無惨に汚されていた。俺はポリタンクから取り出した特殊な洗浄剤をウエスに染み込ませ、スプレー塗料の上に押し当てた。数秒後、スッと横に滑らせると、赤い塗料がバターのように溶けて落ち、その下から黄色い向日葵が鮮やかに現れた。
「なるほど。リモネンはラッカーの結合だけをピンポイントで切り離す化学的アプローチですね」
凛は興奮した様子で袖をまくり上げた。
「私も手伝います。私、これでも科学の専門家ですから」
夕暮れの中、白衣の女性と作業着の男が並んで壁画を磨いた。仕事を終え、公園のベンチでコロッケを食べながら、凛は静かに言った。
「私の会社では、科学は利益を上げるための数字の道具でしかありませんでした。でも今日、藤原さんの隣で壁を磨きながら思い出しました。私が科学を好きになったのは、この技術で誰かの悲しい顔を笑顔に変えたいって思ったからなんだって」
「白石さんは、変わり者なんかじゃない。あなたは…利益という薄っぺらい数字じゃなく、妹さんが夢見た綺麗な空気と誰かの笑顔を守るために、たった一人で戦ってきた。それは、誇り高き本物の研究者の姿です」
凛は涙を流しながら、しかし最高の笑顔を見せた。
「…私のラボを見に来てくれませんか? 藤原さんに、私の誇りを見て欲しいんです」
こうして、お見合いという悪意から始まった出会いは、互いの魂を確かめ合うものへと変わっていった。何度か会ううちに、俺は彼女のプライベートラボを訪れた。彼女が開発に苦心している光触媒ポリマーは、混ぜる樹脂との相性が悪く、白く濁って分離してしまうのだと言う。現場で培った俺の知識で、溶剤の揮発を遅らせる添加剤を数滴加えると、液体は見る見るうちに透明になり、美しい膜を形成した。
「嘘…完璧に結合しています。あなたは、ただの塗装職人じゃありません。科学の魔法使いです」
彼女が喜んだその時、背後から土星を伴った扉の開く音がした。彼女の父親だった。
「なんだ、この薄汚れた男は。まさか、翔太君の代わりにやってきたという、あの出来損ないの兄か?」
そして、父親は凛に向かって吐き捨てた。
「もう研究費は出せん。さっさと研究を諦めて、役員の息子と結婚しろ。生き遅れの変人が、これ以上市場価値を下げる前に」
俺は一歩前に出て、初老の男を睨み据えた。
「彼女は生き遅れでも、変人でもありません! 彼女は、誰よりも純粋に妹さんの夢と向き合っている本物の研究者です。それを、市場価値などという言葉で図るのは、やめていただきたい!」
「なんだと? 底辺のペンキ屋の分際で…」
「俺たちは結婚する予定です。金持ちの役員と結婚させる必要もありません」
自分でも驚くほどはっきりとした声だった。父親は真っ赤になって怒鳴った。
「ばかな! そんな真似をするなら、もう財団からの援助は一切打ち切る! このラボも閉鎖してやる!」
そう吐き捨てて、彼は去っていった。俺は自分の失言に気づきパニックになった。
「あ、あの、さっきのは、その、つい頭に血が上って…」
しかし、凛は笑っていた。涙を浮かべながら、笑っていた。
「藤原さんって、本当に不器用で真っ直ぐな人ですね。…私と結婚するって言ってくれたこと、嘘じゃないですよね?」
そう言う彼女の耳は真っ赤だった。
「嘘じゃない。金も地位もないただのペンキ屋だが、君のその震える心を支え、その研究を守るための下地になりたいと、本気で思っている」
小さな区役所で婚姻届を出した。翔太からの祝儀袋には小銭が数枚と『底辺同士、せいぜい慰め合って生きろ』というメモが入っていたが、俺たちの心は揺るがなかった。
数週間後、新婚生活が始まった頃、凛が改まって1冊の通帳を差し出した。
「これ、家計の足しにして欲しいんです」
中を見て、俺は思考が停止した。そこには、見たこともない桁数の数字が並んでいた。
「…52億?」
「はい。私名義の個人の口座です。このお金は、私が過去に取得した、ある特許のロイヤリティです」
彼女は大学院生の頃、喘息で苦しむ妹のために、医療用の分子フィルターを開発していた。その技術がスイスの巨大メーカーに買い取られ、製品が世界標準となり、毎年莫大なロイヤリティが振り込まれ続けているのだと言う。妹を救えなかった技術で得た金を自分のために使うことができず、彼女はこの口座を放置していた。
「父は、この口座の存在を知っています。何度も財団のために引き出せと迫られましたが、断固拒否しました。妹を救えなかった金で、父の会社を潤すことなんて絶対に嫌だった。だから父は、私を親不孝者の変人と呼び、役員と結婚させて、私から口座の管理権ごと奪い取ろうとしていたんです」
全てが繋がった。彼女が「変人」として見合いを押し付けられていたのも、この莫大な利権を狙った大人たちの思惑だったのだ。
「私、変わりたいんです。この資金を使って、誰にも文句を言わせない完璧な研究施設を作ります。そして、妹が思いきり深呼吸したかった綺麗な空気の街を作るための光触媒ポリマーを、今度こそ私の手で世に出すつもりです。だから洋一さん、明日、私の現場に一緒に来てくれませんか?」
彼女のもとに、その光触媒ポリマーを外壁に採用したいという大規模な都市開発プロジェクトのオファーが来ていると言うのだ。俺は迷わず頷いた。
翌日、着いた現場は、都内の一等地に建設が進む巨大なエコタワーの建設予定地だった。
「おいおい、冗談だろ。どうしてこんなところに、底辺のペンキ屋が紛れ込んでるんだ?」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには翔太が立っていた。このプロジェクトの開発責任者なのだと言う。そして、俺の隣に立つ凛を見て、大爆笑した。
「お前が嘘だろ? あの時のお見合いの地味女じゃないか。そうか、あの後本当にこの兄貴とくっついたのか? お似合いのカップルだな!」
翔太は凛の白衣を指差して嘲笑った。
「うちが契約しようとしてるのは、世界的な特許を持つ天才研究者の白石博士だぞ。お前みたいな色気も何もない変人が、そんなすごい人間なわけないだろう。詐欺師の真似はよせよ」
彼に渡っていた資料には、凛の名前と経歴しかなく、顔写真はなかったのだろう。
その時だった。プレハブ小屋の奥から、初老の男が飛び出してきた。このプロジェクトの総責任者で、翔太の会社を傘下に収める巨大デベロッパーの専務だった。
専務は翔太を無視し、凛の前に進み出ると、深々と頭を下げた。
「白石先生! お待ちしておりました。本日は、弊社の現場までお越しいただき、誠に光栄の極みでございます」
翔太の顔から血の気が引いた。
「専務、何を…この女はただの…」
「黙れ!」専務の怒声が響く。「このお方は、世界的な特許を持つ、科学の世界的権威であらせられるぞ! 今回のプロジェクトの命運を握っておられるんだ!」
凛は、パニックに陥っている翔太を冷ややかに見下ろした後、専務に静かに告げた。
「私は今回のプロジェクトの理念に共感し、技術を提供しようと考えておりました。ですが、先ほどの彼の言葉を聞いて、考えが変わりました。彼は、私の大切な夫である藤原洋一を『底辺』『ゴミ』と呼び、現場で働く職人たちを侮辱しました。技術は、決して上に立つものだけの力で完成するものではありません。泥にまみれ、汗を流して現場を支える職人たちの手があって、初めて人々の命を守る形になるのです。現場の人間を見下し、技術への敬意を持たない人間が責任者を務めるようなプロジェクトに、私の命とも言えるポリマーを提供することは、絶対にできません」
そして、凛は専務に最後通告を突きつけた。
「彼をこのプロジェクトから直ちに外してください。でなければ、今回の契約は、全て白紙です」
このエコタワープロジェクトは、総額1200億円という巨大事業。凛の技術が要だ。専務は一瞬で決断した。
「わかりました。藤原社長を、このプロジェクトから完全に外します」
「そんな! このプロジェクトは僕が中心になって…」
専務は、縋りつこうとする翔太を冷たく振り払った。
「触るな。私は以前から、お前の傲慢な態度が気に入らなかったんだ。現場の汚れ仕事は全て下請けに丸投げし、自分は口先だけで手柄をかっさらう。お前のような中身のない男が社長面していられたのも、ただ我が看板の威を借りていただけだ。今すぐここから消えろ」
翔太は泥まみれの床に膝をついた。そして、縋るような目で俺を見上げた。
「兄貴、頼む! 助けてくれ! 僕が切られたら、父さんも家もめちゃくちゃになる! 白石先生に…姉さんに口利きしてくれよ! 昔みたいにさ!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫ぶ翔太の姿に、かつて壺を割った時と同じ弱さしかないことを思い知らされた。
「泥を被る壁は、もうなくなったんだよ。お前は、自分で自分の人生の壁を塗り直せ。俺はもう、お前たちの都合のいい出来損ないじゃない」
「そんな! 家族だろ!?」
「家族の縁を切ると言ったのは、親父とお前の方だ」
俺の言葉に、翔太は言葉を失い、その場に座り込んだ。やがて、警備員に連れられて、這うようにして現場から去っていった。
それから数日後、翔太は自らの会社の副社長らによって、会社から追放された。彼の経費不正の証拠は全て握られており、抵抗する術はなかった。かつて俺にしたように、今度は自分が誰かに切り捨てられたのだ。
季節は巡り、俺と凛は、あの腐敗した研究財団に代わる、新しい研究所を設立した。そして、エコタワーは完成を迎えようとしていた。
その完成披露パーティーの前日、凛の恩師である湯木先生が研究所に飛び込んできた。
「大変だ! 明日の披露で使うポリマーから、とんでもないものが検出された!」
それは、光触媒の分解機能を完全に停止させ、壁を腐食させる悪質な化学物質、毒物だった。
「意図的なものだ。心当たりがある。君のお父さんの財団だ」
凛の父親は、追い詰められて真実を話した。毒物を仕込んだのは、翔太だった。彼は、不動産会社を追放された後も、巨大デベロッパーの内部で蠢く反専務派の悪徳常務と手を組み、今回のプロジェクトを台無しにして利権を奪い返そうとしていたのだ。
俺たちは、証拠を握るため、凛の父親の元へ向かった。父親は涙ながらに、全てを話した。そして、翔太たちとの裏取引の証拠が入ったUSBメモリを渡した。
その車中、凛は俺に問いかけた。
「洋一さん、あなたは、一体何者なんですか? ただの塗装職人が、高度な化学式を瞬時に理解するはずがありません」
俺は、長年隠してきた真実を語り始めた。
「俺は昔、世界的メーカー、アトラスケミカルの主席研究員だったんだ」
アトラスケミカル。業界最大手だ。
「でも、どうして…?」
「俺が10歳の頃、酔った親父の暴力から逃げて、母さんと古い物置に隠れたことがあった。外は冷たい雨が降っていて、雨漏りで壁のペンキが剥がれ落ちてたんだ。その時、思ったんだ。どんなに激しい雨風も弾き返し、理不尽な暴力からも母さんを守り抜ける、絶対に壊れない壁を俺が作ることができたら、母さんはもうこんな場所で震えなくて済むんじゃないかって。それが、俺の科学の原動力だった」
そして、俺は最も辛い真実を語った。
「だが、15年前。弟の翔太が、実家の不動産会社の利益のために、俺のチームが開発してた未完成の有害な塗料を、勝手に大手の病院建設に使ってしまった。事故が発覚すれば、会社は潰れる。その時、親父と翔太は、全ての責任を俺に押し付けたんだ。『お前が開発中の塗料に重大な欠陥があったことにしろ。さもなくば、お前の母親をこの家から放り出す』って。母さんを守るために必死で作った技術を、母さんを守るために、俺自身の手で、自ら欠陥品だと棄てたんだ。結果、俺は学会を追放され、全てを失った」
「洋一さん…」
「だから、俺はもう逃げない。明日の披露で、俺の全ての技術と科学をぶつけて、奴らの野望を粉砕する。絶対に、お前の技術と、この街の空気を、守り抜いてみせる」
翌朝。華やかなセレモニーステージが組まれた会場で、事件は起きた。俺と凛の乱入もむなしく、悪徳常務は強引にデモンストレーションを開始したのだ。ノズルから噴射されたのは、凛の純粋なポリマーではなく、毒物が混入された偽物だった。
プシュー。白い液体が噴射された数秒後、壁面が黒く変色し、腐った泥水のような液体が垂れ始めた。そして、鼻の奥を刺すような強烈な刺激臭が広がった。
「うわっ! 目が! 目が痛い!」
会場は騒然となり、有毒ガスが蔓延し始めた。パニックの中、俺は車椅子の母の姿を見つけた。
「母さん…!」
毒ガスの刺激が、15年前の記憶を呼び覚ます。あの病院の白い壁。有害なシンナーの匂い。また俺の技術が…俺の作ったものが、人を危険に晒している。俺の足が動かなくなった。
「洋一…!」
その時、車椅子の上で、母が叫んだ。
「何をしているの!? 逃げないで! あなたは、15年前のあなたじゃないでしょう!?」
それは、息子を信じ抜く母親の魂の叫びだった。
「みんなを、凛さんを守り抜きなさい!」
その言葉で、俺の脳裏を過去の鎖が砕けて消えた。そうだ。俺はもう、あの日の無力な俺じゃない。俺の隣には凛がいる。そして、この手には、長年現場で磨き上げた職人の技がある。
「凛! 状況の数値を!」
「現在気温22度、湿度60%! 主成分は塩化水素ベースの腐食性混合ガス! 拡散速度は秒速0. 8メートル!」
「中和剤のベースは、昨日作ったアクリルシリコン樹脂だな?」
「はい! でも、この濃度では中和しきれません!」
「なら計算を変える! あの樹脂に、車に積んであるポリアミン系硬化剤を全量ぶち込め! 重量比は4対1だ!」
俺の指示で、凛が駆け出した。そして、調合された中和剤を持って戻ってきた。俺は、相棒のエアレススプレーガンを受け取り、毒ガスを吹き出す黒い壁の前に立った。俺の計算と技術は絶対に狂わない。俺はトリガーを引き絞った。
バシューッ!
高圧で噴射された中和剤が、瞬時に黒い壁を覆い尽くしていく。俺は、ガス噴出口となるひび割れの奥深くまで、ミリ単位の精度で塗料を押し込んでいく。シューという音と共に、強烈な刺激臭が消えていった。
「止まった…」
静まり返った会場に、誰かの呟きが響いた。俺は、見事に毒ガスを壁の中に封じ込めたのだ。
「洋一さん!」
凛が泣きながら駆け寄り、俺に抱きついた。
「やったな、凛。俺たちの技術の価値だ」
我に帰った常務が何かを取り出そうとしたその時、凛がUSBメモリを掲げて言い放った。
「そこまでです! このメモリには、あなたが財団を脅迫し、毒物の購入を指示した全ての通話記録と裏帳簿のデータが入っています! すでに警察に送信済みです!」
その時、会場の外からサイレンの音が近づき、警官隊がなだれ込んできた。常務も、その場にへたり込んでいた翔太も、そのまま連行されていった。
「兄貴…」
翔太が、俺と母に縋るような目を向けた。
「弟よ。お前が15年前に着せた嘘も、今回の悪事も、全てはお前自身の弱さが招いたことだ。俺は、もうお前の壁にはならない。自分の罪は、自分の足で立って償え」
翔太は、言葉を失い、涙を流しながら、地面に頭を擦りつけた。
「兄貴…ごめん…!」
全てが終わった後、俺は車椅子の母の前に立った。そして、隣には凛がいた。
「母さん。俺は、自分の誇りを取り戻したよ。あなたがくれた、この優しさと強さの原点を、ずっと忘れなかったから」
母は、俺と凛の手を一緒に握りしめた。その手は、ひどく温かかった。
あれから数年。俺と凛は、世界から注目される「呼吸するエコタワー」を完成させた。凛の光触媒ポリマーは、叔母の夢だった綺麗な空気を生み出し、世界中から賞賛を浴びている。あの日、凛の父は、自らの罪を認めて財団を解体。母は、長年耐えてきた夫との離婚を決意し、今では小さな平屋で穏やかに暮らしている。父は、会社の倒産後、誰も寄りつかない小さな長屋で、孤独な老後を送っていると聞く。
俺たちは、それぞれの過去を塗り替えながら、今を生きている。
「洋一さん、見てください。あの壁、本当に綺麗ですね」
エコタワーの屋上庭園で、夕日に照らされた外壁を見上げながら、凛が言った。彼女の左手の薬指には、ささやかな銀色の指輪が輝いている。
「ああ。俺たちの、最強の壁だ」
この技術が、いつか悪意に利用されるかもしれない。だが、その時は、俺たちが何度でも、その上から人の命を思う心を塗り重ねていけばいい。俺たちが二人なら、絶対にそれができる。俺は彼女の肩を抱き、風に乗って運ばれてくるオレンジの香りを感じていた。あの日、ペンキと塗料の道具だけしか持てなかった俺が、今、確かに人を守るための、人生という名の壁をまっすぐに塗り上げている。



