「あの保護者の方ですか?」
声をかけられて、俺はびくりとした。帽子を深くかぶり、マスクをつけて、校門の前をうろうろしていたら、そりゃあ不審者に間違われても仕方ない。
「え、は、はい。すみません。」
俺の名前はゴロ。小学3年生になる娘、夢がいる。今日は初めて授業参観に参加する日だ。妻の英子が生きていた頃は、いつも彼女が行っていた。でも英子は3年前に事故で亡くなった。それから俺は学校行事からずっと逃げていた。
声をかけてきたのは、娘の担任のえみ先生だった。黒縁の眼鏡をかけ、髪をきっちりまとめ、皺ひとつないスーツ。完全に怪しむ目つきで俺を見ている。
「夢ちゃんの授業参観ですね。こんな所をうろうろしていたら、本物の不審者と間違われますよ。さあ、急いでください。」
「そ、そうですよね。すみません。」
俺はえみ先生が苦手だった。いつも怖い顔をしていて、笑顔を見たことがない。
教室に着くと、すでにたくさんの保護者で埋め尽くされていた。俺が入ると、保護者たちはチラッと見て、ざわつき始める。こうなることは予想していた。
「もしかして、夢ちゃんのお父さんですか?」
突然の声に、俺は慌てて帽子を深くかぶり直した。でも男性は嬉しそうに話し続ける。
「ずっとお会いしたかったんですよ。私はあみの父で、年夫と申します。娘がいつも夢ちゃんと仲良くさせてもらって。」
「ああ、そうなんですね。こちらこそ、いつもありがとうございます。」
「でも、ゆめちゃんのパパがいらっしゃるなんて珍しいですね。いつもおばあちゃんが来てますよね?」
「ええ、まあ…今日は妻がどうしても仕事が休めないって言って、私一人で。」
年夫は遠慮なく話し続ける。そして突然、俺の顔を覗き込んだ。
「うん…そのお顔の傷はどうされたんですか?火傷のようにも見えますが。」
俺は咄嗟にマスクに手をやった。右の方から首元にかけて、大きな火傷の跡がある。子供の頃にできたものだ。
「ああ、これは…その…」
「なんかすみません!パパはデリカシーがないっていつもあみに怒られるんですよ。」
年夫は申し訳なさそうに頭をかいた。素直で純粋な人だということが分かった。
「いえ、気になさらないでください。これは子供の頃にできたものでして。」
授業が始まった。作文の発表だ。テーマは「私の尊敬する人」。
「はい。」
驚いた。あがり症で人前が苦手な俺の娘が、真っ先に手を挙げたのだ。活発になったのは英子譲りだろう。
夢が作文を持って前に出ると、俺と目が合い、ニコッと微笑んだ。
「私のお父さん。」
俺はてっきり英子のことを書いたと思っていたから、驚いた。
「私のお父さんは、とても優しい人です。お母さんが死んでしまって、お父さんはすごく悲しかったはずなのに、私を抱きしめて『大丈夫だよ。お父さんが夢のことを守るからね』と言ってくれました。私はその言葉を聞いた途端、涙が溢れました。」
夢の言葉を聞きながら、俺は英子と出会った日のことを思い出していた。顔の傷のせいで就職が決まらず、やっとの思いで採用された運送会社。そこで英子は初日から、何も気にせず明るく話しかけてくれた。太陽のような女だった。
「私のお父さんの顔には、大きな火傷の跡があります。お父さんはいつもそれを隠そうとしています。でも私は、その傷も含めてお父さんの全てがかっこいいと思っています。なぜなら、その傷はお父さんが中学生の頃に、女の子を助けた時にできた傷だからです。」
俺が中学生の頃、家族旅行で行った旅館で火事があった。避難中に泣いている小さな女の子を見つけ、手を引いて逃げた。倒れてきた木材から女の子を守った時、右側の顔が焼けるように熱かった。
女の子を抱きかかえ、必死に外へ飛び出した。意識を失い、病院に運ばれた。顔に大きな火傷を負ったが、命に別状はなかった。あの時の少女がどうなったのか、俺は知らないままだ。
「お母さんは言いました。『自らの体を張って、見知らぬ人を助けるのは簡単にできることではない。すごいことなんだ』と。私もお母さんと同じ考えです。私にとってお父さんは、誰よりも最高にかっこいいヒーローです。」
読み終えると、教室は拍手に包まれた。俺の目から涙が溢れて止まらない。隣の年夫も号泣していた。
「ゴロさんの傷には、そんな過去があったんですね。最高にかっこいいですよ。」
俺はずっと勘違いしていた。顔の傷のせいで、夢が学校で笑われるんじゃないかって。恥ずかしい思いをするんじゃないかって。だから遠慮していた。でも夢は、俺のことを認めてくれていた。
夢が嬉しそうにピースサインをしてきた。俺も小さくピースを返した。
その夜、俺は夢の部屋を訪ねた。
「今日は素敵な作文を読んでくれてありがとうな。お父さん、すごく感動しちゃった。」
夢は小さく頷いた。
「お父さんは、ずっと勘違いしてたんだ。この傷のせいで、夢が学校で笑われるんじゃないかって不安だったんだ。だから行事には行かないようにしてた。ごめん、本当は夢も来てほしかったんだよな。」
「私ね、お父さんのことを恥ずかしいなんて思ったことないよ。それにこれからも絶対に思わない。もしお父さんの傷のことを笑う人がいたら、夢がやっつけてあげる。だから一緒にお出かけしよう。授業参観にも運動会にも来てほしい。」
「そうだな。分かった。ありがとうな。」
夢は俺に抱きついてきた。夢は、俺が知らない間に思いやりのある優しい子に成長していた。
それからしばらくして、家庭訪問があった。えみ先生は授業参観の時と同じ、きっちりとした姿でやってきた。夢がクラスのリーダー的存在で、みんなから頼りにされていること。落ち着きのあるいい子だということ。感心しながら聞いていると、えみ先生が改まった様子で切り出した。
「あの、一旦お聞きしたいことがあるんですが…例の作文というか、お顔の傷についてなんですけど。火事に巻き込まれたということでしたが…いつ、どちらの旅館で起きた火災だったんでしょうか?」
「えっと、私が中学生の頃の話なんで、もう25年以上も前になりますね。春休みに両親と旅行で行った旅館で…」
「どうしてそんなことを?」
「実は私も、小学生の頃に旅行中、火災に遭ったことがあるんです。両親とはぐれて泣いていたら、中学生くらいのお兄さんが助けてくれたんです。そのお兄さんは、倒れてきた木材から私を守ってくれて、ひどい火傷を負いました。」
「ちょ、ちょっと待ってください。」
まさか、あの時の少女がえみ先生だったのか。俺が言葉を失っていると、えみ先生は鞄の中を漁り始めた。
「これ、見覚えありませんか?」
それは、少し焦げた旅館のタオルだった。
「あなたは持っていたお茶でこのタオルを濡らして、私にくれました。口元を覆って煙を吸わないようにって。私はこのタオルをもらえないかと旅館の方にお願いしたんです。これを持っていれば、いつかあのお兄さんに再会できる気がして。ずっとお守りだと思って大切に持っていました。」
えみ先生はそう言ってタオルを優しく撫でた。
「お話しするべきかどうか、とても悩んだんですが、どうしてもお礼を言いたかったんです。あの時は私を助けてくださり、本当にありがとうございました。そして、そのお顔の傷は…本当にすみません。私のせいで。」
「先生、頭をあげてください。先生が責任を感じる必要はないですよ。全部自分で選んだことです。何より、先生の命が無事だった。それでいいじゃないですか。確かに苦労したこともありましたけど、幸せなこともたくさんありました。まあ、妻は亡くなってしまいましたけど…」
「奥様とは、どこで知り合われたんですか?」
「職場です。人付き合いが苦手な私に、彼女はいつも明るく話しかけてくれて…まるで太陽のようでした。妻が亡くなったことで光を失いかけましたが、今は夢がいてくれるので、なんとかやれてます。」
そう言うと、えみ先生は俺の前で初めて微笑んだ。
「えみ先生は、どうして教員に?」
「それも、あの火事がきっかけなんです。ゴロさんのおかげで私は生き延びることができた。だからこの命を、誰かのために使いたいと思ったんです。それで子供たちが危険なことをしていると、つい怒りすぎてしまって。あの時の火事の原因も、子供の火遊びだったでしょう?だから言い方もきつくなってしまって…」
「それだけ生徒たちのことを強く思ってるってことですよ。夢も他の生徒も、きっとみんな理解してます。」
「ありがとうございます。すみません、家庭訪問なのに私の話になってしまって。」
顔を赤く染めるえみ先生を見て、なぜか俺の胸がざわついた。その日から、俺はえみ先生のことばかり考えるようになった。夢から聞く学校の話が、俺の楽しみになっていく。
「えみ先生ったらね、今日も教室間違えちゃったんだって。授業をしようとしたら、自分の生徒が誰もいなくてびっくりしたんだって。」
「え?そんなことあるのか?」
「よくあるんだって。それにね、この前は授業中に蜂が入ってきて、教室が大騒ぎになったんだけど、えみ先生が『先生がいるから大丈夫』って言って蜂を追い出そうとするんだけど、なんか動きがおかしくて、クラスのみんなが笑ってたの。」
話を聞けば聞くほど、また会いたいという気持ちが強くなる。
運動会の日。俺は母が作った弁当を持って、初めて堂々と参加した。夢はリレーのアンカーで大活躍だ。俺は無意識に、えみ先生を探していた。
見つけた。ジャージ姿で作業をしている。いつもの眼鏡をつけていない。視線に気づいたのか、えみ先生がこちらを見た。
「あ、どうも。」
「ど、どうも。」
挨拶を交わした瞬間、えみ先生は顔を真っ赤にして立ち去ろうとした。するとロープに足を引っかけて、派手に転んでしまった。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい、大丈夫です。すみません。」
俺が手を取ると、耳まで真っ赤になっている。
「今日はメガネじゃないんですね。」
「運動会だと眼鏡は邪魔になるので、今日はコンタクトなんです。」
「ジャージ姿だと、なんかいつもと違って新鮮ですね。」
「そ、そうですかね。じゃあ、失礼します!」
えみ先生は俺の手を振り払って、逃げるように去っていった。
片付けが終わり、夢を待つ間、校門の前でえみ先生と二人きりになった。
「なんかすみません。今日の私って、なんか変ですよね。なぜだか分からないんですが、まともに話ができなくて。」
「それなら私も変です。もちろん今日は夢を応援しに来たんですが、ついえみ先生の姿を探してしまって。」
「え?」
「私は、もっとえみ先生のことを知りたいんです。」
「そう言われましても…生徒の保護者の方と、プライベートな関係を持つわけには…でも正直…私もゴロさんのことばかり考えています。」
教師という立場もあって、えみ先生の心は揺れていた。俺はその気持ちを汲み取った。
「えみ先生の考えは正しいと思います。生徒の保護者とそんな関係になったら、示しがつきませんから。だから私は待つことにします。夢が卒業するまで3年。それまでは保護者と教員という関係です。ただ、夢が卒業した後は、私のことを一人の男として見てもらえませんか?」
「でも、もしかしたら3年後には、お互いの気持ちが変わっているかもしれません。」
「私の気持ちは変わりません。もしえみ先生の気持ちが変わっていたら、その時は素直に諦めます。だからそれまで、夢のことを見守ってあげてください。」
「わ、分かりました。」
それから3年、俺とえみ先生は保護者と教員という関係を崩さなかった。そして、夢が卒業を迎えた日。俺はえみ先生を呼び出した。
「今日は、えみさんと呼んでもいいですか?」
「は、はい。」
「えみさんがあの時の少女だと知った時は、本当に驚きました。まさかあの少女が自分の娘の担任になるなんて。同時に、助けて良かったって思いました。自分が救った少女が、思いやりのある素敵な先生に成長したと思うと、胸が熱くなりました。」
「私も、あの作文を聞いた時は本当に驚きました。ずっと再会を願っていた人ですから。あの火事の中で、もうダメかもしれないって思っていた私の手を引いて、『一緒に逃げよう』と言ってくれた五郎さんの背中は、とても大きく見えました。25年が経った今、あなたと再会できるなんて、運命としか思えません。」
「この先、何年経ってもこの気持ちは変わりません。私も五郎さんのことが好きです。」
こうして俺たちの交際は始まった。難しい年頃の夢にはしばらく黙っていたが、ある日、夕飯を食べていると夢が言った。
「私、好きな人ができたら、絶対にお父さんに報告するからね。だからお父さんも正直に言ってよねってこと。」
「え?」
「私、お父さんに彼女ができても嫌とか思わないから。むしろ嬉しいかも。それに、お父さんとえみ先生がいい雰囲気だってこと、私が知らないとでも思ってるの?お父さんもえみ先生も真面目だから、『私が卒業するまでは』とか言ったんだろうけどさ。それで今はどんな感じなの?付き合えたの?」
「…もう、夢には敵わないな。全部お見通しだったのか。」
後日、俺はえみを家に招いて、改めて報告した。えみは緊張しているようで、指を握りしめながら座っていた。
「お父さんに彼女ができても、奥さんができても、私はお父さんの娘だからね。それにお母さんはお母さんだよ。それはずっと変わらない。」
「そうだな。」
「でもね、家族が増えるのは嬉しいよ。もしそれがえみ先生なら、なおさら嬉しい。だって私はえみ先生のことが大好きなんだもん。お父さんには幸せになってほしいから。えみ先生、お父さんのことをよろしくね。」
「夢…ありがとう。」
「私だって、いつ彼氏ができてこの家を出ていくか分からないでしょ?」
「おいおい、そんな寂しいこと言うなよ。」
家族の笑い声が家に響いた。俺はふと、英子の遺影を見た。優しく微笑んでいるような気がした。今の俺がいるのは、英子のおかげだ。英子が太陽のように明るく俺に話しかけてくれたから、俺は変わることができた。
交際から2年後、俺はえみにプロポーズした。二人でよく行くレストランで、緊張で手を震わせながら指輪を差し出した。
「えみ、これからも俺のそばにいてほしい。君の真面目なところも、負けず嫌いなところも、おっちょこちょいなところも、全部が大好きなんだ。これからも俺が一生、えみのことを守るよ。」
「ありがとう。私もあなたの全部が大好き。私と家族になってください。」
入籍後、すぐにえみの妊娠が発覚した。そして、俺たちの間には、みつきという可愛い女の子が生まれた。夢も年の離れた妹ができたことを、とても喜んでいる。
「みつき、パパがもっとちゃんとするね。パパ、ちゃんとするよ。」
俺は家庭の中の女子3人にたじたじだが、賑やかで幸せな生活を送っている。かつて顔の傷を隠して学校の行事から逃げていた俺は、今、この幸せを守っている。



