「ああ、豚だ!」
娘が指を差した先には、結婚式の入場を待つ姉の姿があった。参列者たちは小さな子供のいたずらに苦笑いするだけで、特に気にしていなかった。私は慌てて娘を抱き上げ、たしなめた。
「だめでしょ、そういうこと言っちゃ」
「だって……」
姉とは昔から仲が良くなかった。それでも結婚式に呼んでくれた以上、気持ちよく送り出してやりたい。そんな私の願いを、無邪気な娘の一言が粉々に砕いた。
話は数ヶ月前に遡る。
私は33歳の専業主婦。夫の大輔と5歳の娘の前と3人で、ファミリー向けの賃貸マンションに暮らしている。大輔とは8年前に結婚し、その3年後に娘を授かった。
大輔は理想の夫であり父親だった。娘が生まれた時には育児休暇を取ってくれて、オムツ交換もミルクも離乳食の準備も、ほとんど完璧にこなしてくれた。今も変わらず、私がいなくても問題なく家事育児ができる。二人が仲良く遊ぶ姿を見るたび、この人と結婚してよかったと実感していた。
そんなある日、仕事から帰ってきた大輔がニコニコ顔で言った。
「実は今度、昇進することになったんだ。それと、前からずっと参加したかったプロジェクトにも参加させてもらえることになった」
「え、すごいじゃない! おめでとう!」
「パパすごい!」
娘も小さな手を叩いて喜んだ。大輔は「2人がいるから頑張れるんだよ」と言って娘の頭を撫でた。絵に描いたような幸せな家庭。ただ、一つだけ心配なことがあった。
大輔は優しい。誰にでも優しい。それは良いことだが、押しに弱く、頼られると断れないところがある。結婚して間もない頃、大学時代の女友達が突然家に押しかけてきたことがあった。大輔が「いつでも相談に乗る」と言ったのが原因だった。私が在宅で追い返したからよかったものの、あの時私がいなければ、大輔は家に上げていたかもしれない。注意はしたが、彼は何が悪かったのか理解していない様子だった。
そんなある日、娘を幼稚園に送った後、リビングを掃除しているとスマホが震えた。差出人は実の姉だった。2歳上の姉とはここ数年、没交渉状態だった。驚いてメールを開くと、そこには謝罪文が書かれていた。
「今までごめんなさい。直接会って謝りたい」
姉は美人だったが、幼い頃から意地悪だった。宿題を押し付けたり、お年玉で買ったゲームを取り上げたり、高校生の時には初めての彼氏を奪われたこともあった。だから必要最低限の連絡しかしてこなかった。
正直、何を今更と思った。でも、もう大人だし、普通の付き合いぐらいはできるかもしれない。悩んだ末、私は「今度の日曜日、うちで会おう」と返信した。
当日、数年ぶりに会った姉は相変わらず綺麗だった。
「なお久しぶり。今日は呼んでくれてありがとう。これ、お土産」
姉はニッコリ笑って贈り物を差し出した。リビングに通してコーヒーを淹れていると、姉はあたりを見回した。
「まいちゃんと大輔さんは?」
「今、公園に遊びに行ってるよ。もうすぐ戻ってくると思う」
私がそう答えると、姉はコーヒーを一口すすり、それから勢いよく頭を下げた。
「今まで意地悪ばかりしてごめんね。本当に悪かったわ。とっても反省してるの。今更だと思うかもしれないけど、今謝らないとこの先一生後悔すると思ったから」
「お姉ちゃん、頭を上げてよ。もういいよ。昔のことだしね。お互い水に流して、これからは連絡を取り合おうよ」
姉はほっとしたように顔を上げた。そこへ公園から大輔と娘が帰ってきた。
「あ、お姉さん、結婚式ぶりですね。狭い家ですけど、ゆっくりしていってください」
大輔には姉から連絡が来た日に事情を話してあった。娘にも「おばちゃんが遊びに来る」とだけ伝えている。
「こんにちは。ねえ、一緒におままごとしよう。私がママだよ」
初対面にも関わらず、娘は姉を気に入ったようだ。姉も快く承諾した。人見知りしないか心配だったが、全く問題ないようだった。持ってきてくれたケーキを食べつつ、4人で楽しい時間を過ごした。こんなことなら、もっと早く和解すればよかった。
時間はいつの間にか15時を過ぎていた。
「眠たくなっちゃった……」
さっきまで元気に遊んでいた娘が目を擦りながら言った。公園でもたくさん遊んだから当然だ。
「じゃあお昼寝しようか。なお子、ちょっと寝かしつけてくるよ」
大輔がそう言うと、娘は首を横に振った。
「今日はパパじゃなくて、ママに頭ポンポンしてほしいの」
「珍しいね。うん、いいよ。ママがポンポンしてあげる」
普段は大輔が寝かしつけ担当だが、たまに私に甘えてくることもある。私はリビングに二人を残し、娘の手を引いて寝室へ向かった。すると5分と経たないうちに、娘はすやすやと寝息を立て始めた。
娘が眠ってから数分、私は彼女の寝顔を眺めていた。それから起こさないようにそっと寝室を出てリビングへ戻る。大輔と姉はテレビを見ながら何か話していた。
「あ、戻ってきた。それじゃ、まいちゃんも寝ちゃったみたいだし、私帰るね」
「せっかくだし、食べて帰ったら?」
「実はこの後、用事があるんだよね。よかったらまた今度誘ってよ」
そう言って姉は帰って行った。ともかく、いい関係を築けそうだ。
それから1週間が経った頃、地元の友達から電話が来た。私の誕生日が近いので、2泊3日の旅行に誘ってくれたのだ。
もちろん行きたい。娘を産んでから家族旅行は何度かしたが、友達と旅行に行ったことはない。大輔が娘の世話をできると言っても、丸一日預けたことすらない。仕事で疲れている大輔に頼むのも気が引けたし、何より私自身が娘から離れるのが不安だった。
悩んだ末、私は大輔に相談した。
「え、旅行? いいじゃん。行ってきなよ。前のことは俺が見てるからさ」
「本当に? でも、行き先が結構遠いから2泊3日だよ。そんなに仕事休めないでしょ」
「うん、休めるよ。ていうか、そろそろ有休取れって上から言われてたんだ。だから大丈夫。行っておいで」
その言葉に安心した私は、1ヶ月後、友達と2泊3日の旅行に出かけた。旅行はもちろん楽しかった。独身時代に戻った気分で、買い物に観光にと大忙しだった。
旅行を満喫して帰ってきた私を、大輔と娘は心よく迎え入れてくれた。私がいない間、二人は外食をしたりショッピングモールに行ったりと楽しんでいたようだ。心配する必要は何もなかった。
旅行の荷物を整理していると、姉から電話が来た。
「実は、すぐに報告したいことがあって」
姉の声は弾んでいた。
「実は、付き合っていた人と結婚することになったの。3ヶ月後に結婚式をするから、ぜひなお子と大輔さんとまいちゃんに来てほしくて」
「え、本当? おめでとう! 絶対行くよ」
確かに以前会った時、姉は結婚を前提に交際している男性がいると言っていた。すぐに大輔と娘に伝えると、二人とも自分のことのように喜んでくれた。
それからしばらくして、大輔の仕事が突然忙しくなった。これまでほとんどなかった残業が増え、休日出勤もするようになった。昇進が決まって新しいプロジェクトに参加すると言っていたから、仕方ない。そう思っていた。
それにも関わらず、大輔は私が一人で出かける時間をくれるようになった。ありがたい話だが、仕事をして娘の面倒も見てとなると、大輔に大きな負担がかかってしまう。
「本当に大丈夫? 負担じゃない?」
「俺は前と一緒にいられるだけで疲れが吹き飛ぶんだよ。それに、俺が仕事に打ち込めるのはなお子が家を守ってくれているおかげだから。たまには息抜きしてほしくってさ」
こんなにいい夫が他にいるだろうか。本当に大輔と結婚してよかった。この時はそう思っていた。
そんなある日、娘が珍しく暗い顔をしていた。
「どうしたの?」
「……パパと遊びたい。パパは全然遊んでくれない」
確かに以前より頻度は減ったが、それでも私が出かけている間は二人きりで遊んでいるはずだ。5歳の娘に事情を理解するのは難しいだろう。
「パパはね、まいちゃんとママのために、お仕事頑張ってるんだよ。だから、たくさん遊べなくてもわがまま言っちゃだめだよ。ママがいない時は一緒におままごととかしてるでしょ」
私がそう言うと、娘は変な顔をした。何か言いたげに口をもごもごさせたが、結局「何でもない」と言って、タオルケットを頭からかぶって寝てしまった。
気のせいかと思ったが、まだだった。
その日以来、娘も私も「パパが遊んでくれない」という話には触れなくなった。
そして、ついに姉の結婚式当日。一家で参列することになった。娘は綺麗なドレスを着られて、ずっとテンションが高かった。結婚式中は静かにしてくれればいいのだが。
式場には親戚や仕事関係者など、大勢の参列者が集まっていた。チャペルの長い椅子に腰をかけ、主役の登場を今か今かと待っている。開始時間を少し過ぎて、新郎が姿を現した。有名企業に勤める、姿の整った男性だ。そして、ついに姉が登場した。
今にも泣き出しそうな父にエスコートされ、姉が一歩踏み出した、その時だった。
「ああ、豚だ!」
娘が姉の顔を見た途端、指を差して大笑いし始めた。
「ちょ、ちょっとやめなさい!」
私が慌てて娘を抱き上げる。しかし娘は止まらない。
「昨日、ママがお出かけしている時、お家にね、お姉ちゃんが来たんだよ。パパはお姉ちゃんとずっと豚さんごっこしてて、私と遊んでくれなかったの。最近はずっとそう。パパはお姉ちゃんとばっかり遊んでるの」
全身の血が冷えていくのが分かった。大輔は私を旅行に追い出して、その間に自宅で姉と関係を持っていたということか。いい夫、いい父親だと思っていたのに、ずっと裏切られていたなんて。
私は思わず姉を睨みつけた。姉は一瞬ぎょっとした顔をしたが、聞こえないふりをして式を続行しようとした。しかし、その目論見は外れることになった。
娘の話を聞いていた前列の参列者の一人が、大きな声で言った。
「私も。私の友達も、彼氏を取られたことがあるのよ」
おそらく姉の友人だろう。もしかしたら彼女も最近謝罪されて仲直りしたのかもしれない。それをきっかけに、局所的だったざわめきが一気に全体に広まった。
「豚だってさ」
「ブヒブヒって言ったの?」
あちこちからひそひそ話が続く。姉はついに耐えられなくなったようで、ベールを脱ぎ捨てて床に叩きつけた。
「な、何よ! そんなの嘘に決まってるでしょ! 誰があんなブサイクな夫と不倫するもんですか!」
その言い草にカチンと来た私は、思わず言い返した。
「後の祭りって本当ね。昔から私に意地悪ばかり。謝りに来たのも大輔を奪うのが目的だったのね。もう騙されないわよ。しっかり調査して、罰は受けてもらいますから」
「生意気言うな!」
姉が叫んだ、その時、どこからかボソリと声が聞こえた。
「豚が結婚式なんかするなよ」
新郎側の親族以外は皆、大爆笑だった。式場の担当者が慌てて場を収めようとするが、もう遅い。姉はついに髪を振り乱し、長いウェディングドレスの裾を思いっきり持ち上げると、「覚えてなさいよ!」と走って逃げてしまった。
それから数日後、私は宣言通り不倫の証拠を集め、無事に離婚することができた。もちろん大輔と姉の二人に慰謝料を請求。大輔には養育費も一括で払ってもらった。姉は結婚式が中止になったことによる賠償金の支払いにも追われることになった。それなりのキャリアがあったようだが、騒ぎを起こしたことで解雇され、今では日雇い派遣でなんとか食いつないでいるようだ。自慢だった美貌もすっかり衰えてしまったらしい。何ひとつ同情できない。
一方、大輔の不倫はどこからか漏れたようで、職場の話題になってしまった。ひそひそされたり、面と向かって「今日は豚と一緒じゃないのか」と言われたり、針のむしろになっていたという。決まっていた昇進は取り消され、関わっていたプロジェクトからも外された。閑職に追いやられ、今では自主退職を促されているらしい。
それから、私と娘は実家へ帰ることになった。父と母は姉に激怒し、結婚式が中止になったその日に絶縁宣言をした。だからある意味、実家が一番安全なのである。
娘から父親を奪ってしまう結果になったのは申し訳ないが、あんな裏切り者に育てられる方が後々悪い影響が出るだろう。これからは父親がいない分、私が頑張らなくてはならない。娘には絶対に不自由な思いはさせたくない。私はその一心で新しい仕事を見つけ、両親と娘に支えられ、新天地で新たな一歩を踏み出したのだった。



