社長との約束の時間よりずいぶん早く着いてしまった。記録的な猛暑日で、駅から歩いてくるだけで汗が止まらなかった。約束の十四時まであと四十分もある。この炎天下で外にいるのは危険だと思い、多少失礼になるかもしれないが、先に会社へ入らせてもらうことにした。
受付の若い女性に名乗ると、待合室へ案内された。社長の指示で、少し早い時間から冷房を入れてくれていたらしい。冷たい水まで出してもらい、ありがたく一口飲む。汗をぬぐうために上着を脱ごうとした、まさにその時だった。
勢いよく扉が開き、四十代半ばほどの女性がずかずかと入ってきた。名札には「佐々木課長」とある。こちらを一瞥するなり、わざとらしく大きなため息をついた。
「40分も早く来て、そんな態度?あんた、私との約束の時間に遅れるなんて、いい度胸してるわね。」
突然のことに何が何だか分からない。遅刻なんてしていない。むしろ早く来すぎているのだ。
「いや、ちょっと待ってください。私は」
「言い訳?どんな理由でも遅刻が許されるわけないでしょ。もう大人なんだから、余裕ぶってんじゃないわよ。」
どうやらこの課長は、私を下請けの業者と勘違いしているらしい。説明しようとするが、まったく聞く耳を持たない。しまいには「頭の悪いやつは役に立たないんだから、せめて行動ぐらい早くしなさいよ」と、これでもかというほど罵倒を浴びせてくる。
「そんな、だから私は」
次の瞬間、彼女は私の前にあったコップの水を掴むと、何の躊躇もなく私の顔に浴びせた。冷たい水が顔中に広がり、シャツが濡れて張り付く。汗で濡れていたところに追い打ちをかけるように、全身がずぶ濡れになった。
私が慌てる様子を見て、佐々木課長は機嫌よさそうに笑った。
「汗かいて暑そうだったから、冷やしてあげたのよ。感謝してね。」
さすがの私も頭に来た。いくら人違いだとしても、これはあまりにも酷すぎる。
「ちょっと、いい加減にしてくださいよ。いくらなんでも、人としてやって良いことと悪いことがあるでしょう。」
「遅刻しておいて、そっちが怒るの?そんな態度だから、いつまで経っても下請けから抜け出せないんじゃないの?」
彼女がまくし立てているその時、背後の扉がゆっくりと開いた。
「すみません、お待たせしました。」
入ってきたのは、あの男性だった。数日前、旅行先のベトナム料理店で出会い、意気投合して名刺を交換し合った、あの新藤社長。新しい契約に向けて今日この会社を訪ねた相手。本人だ。
新藤社長は、ずぶ濡れの私と、私に怒鳴り続ける佐々木課長を見て、一瞬で顔色が変わった。状況を理解するのに数秒とかからなかったようだ。彼の顔がみるみる青ざめていく。
「佐々木、お前、何してるんだ!」
「この礼儀知らずな下請けに、教育してあげてたんですよ。」
新藤社長はすぐに私の元へ駆け寄ってきた。
「本当に申し訳ありません!うちの社員が、なんてことを!」
彼はすぐに誰かにタオルを持ってくるよう指示を出した。佐々木課長は、なぜ社長が私に頭を下げているのか、さっぱり分からないといった顔で呆然としている。
「お前、この人が誰だと思ってるんだ。この人は、今度うちと新しい契約を結んでくださる、食品会社の社長さんだぞ!今後のうちの経営は、この人との契約にかかってるんだ。どうしてくれるんだ!」
それを聞いて、佐々木課長はようやく驚いたようだった。
「だって、そんなこと一言も言わなかったじゃないですか!人違いなら、そう言ってくれれば良かったのに!」
この期に及んで、まだ言い訳をしている。彼女のその態度を見て、私はあることを決めた。受付の女性が持ってきてくれたタオルを、私は受け取らなかった。
「いえ、結構です。そちらの会社の気持ちが、よく理解できましたので。私はこれで失礼させていただきます。」
「ちょ、ちょっと待ってください!本当に申し訳ありませんでした!」
新藤社長は必死に謝るが、私はそのまま部屋を出ようとする。その背中に向かって、付け加えた。
「佐々木さん。うちの会社との契約がまとまれば、そちらにはかなりの売上が見込めるはずです。その利益と、あなた自身の処分、どちらを取りますか?」
私のその言葉に、ようやく佐々木課長は事の重大さに気づいたようだった。しかし、まだ「だってあんたが先に」と口ごもる。
「誰に向かって『あんた』と言ってるんだ!」
新藤社長に一喝され、もう言い訳はできないと悟ったのか。佐々木課長は悔しさに体を震わせながら、土下座をして謝ってきた。
「す、すみませんでした…!申し訳ありませんでした…!」
「いえ、もう遅いです。」
私は見下ろすように言った。ちゃんと謝罪すべき時にしなかった、その結果だ。土下座を続ける佐々木課長の死角で、不安そうな顔をしている新藤社長と目が合う。私は彼に、小さく笑いかけた。
最初は戸惑っていた新藤社長だったが、私が佐々木課長にきちんとバツを与えるために一芝居打ったのだと気づいたのか、安心したように微笑み、黙ったまま私に深く頭を下げた。
それから私は何も言わずに会社を出た。背中から佐々木課長のわめく声が聞こえてきたが、無視を決め込んだ。どれだけ後悔しても、もう遅いのだ。
後日、私は新藤社長に連絡を入れ、改めて契約を結びたいと伝えた。彼は心よく了承してくれて、再び会社を訪れることになった。その日はあの日よりも暑い日だったが、今度はなんとジョッキで冷たい水を出してくれた。相変わらず気の利く人だ。
「この前は本当にありがとうございました。おかげで、堂々と佐々木に処罰を与えることができました。」
「いえ、私としても、契約先にこんな人がいるのは困りますから。」
新藤社長の話によると、佐々木課長は当初謹慎処分となったが、最終的には諭旨退職となり、本社での仕事からは外れたらしい。
「それは良かったです。今後とも、よろしくお願いいたします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
その後、私たちの会社と新藤社長の会社は無事に契約を結び、お互いの会社に利益をもたらし合う良い関係を築いている。あのベトナム料理店で出会った縁は、仕事だけでなく、プライベートでも深いつながりを持つきっかけになった。
「あの店の近くに、すごく美味しいタイ料理の店があるんですけど、知ってます?」
「え?知らないですね。」
「じゃあ、今度ご一緒しませんか?」
「ぜひ。」
こうして私は、仕事仲間であり、そして味の好みも合う良き友人を得た。あの日、下請けと勘違いして水を浴びせてきた佐々木課長の顔は、今では笑い話の種だ。人生で自分をバカにした人間には、必ず相応の罰が訪れるのだと、私は身を持って知ったのだった。



