退職した夜、誰も祝ってはくれなかった。38年間、倉庫の管理職として部下を束ねてきた男の最後の一日は、缶ビール一本と誰もいないアパートだけだった。退職金も年金も貯蓄も計算済みだった。だが、61歳の無職の男に物件を貸してくれる不動産は一軒もなかった。「孤独死リスク」という言葉を穏やかな顔で説明された時、そうか、俺はもうそういう歳なのかと思った。そんな時、突然現れたのは、20年以上会っていなかった…

退職した夜、誰も祝ってはくれなかった。38年間、倉庫の管理職として部下を束ねてきた男の最後の一日は、缶ビール一本と誰もいないアパートだけだった。退職金も年金も貯蓄も計算済みだった。だが、61歳の無職の男に物件を貸してくれる不動産は一軒もなかった。「孤独死リスク」という言葉を穏やかな顔で説明された時、そうか、俺はもうそういう歳なのかと思った。そんな時、突然現れたのは、20年以上会っていなかった...

黒川竜平が退職届を提出した夜、アパートの台所で缶ビールを一本だけ飲み、そのまま床に就いた。誰も祝いに来なかった。電話も鳴らなかった。61年間生きてきて、あの夜ほど静かだと思ったことはなかった。

30年を超える古びた集合住宅の一室、毎朝6時ちょうどに目を覚ます。目覚ましなど必要なかった。定年後も体に刻み込まれたリズムは正確に機能し続けた。顔を洗い、缶コーヒーを開けてベランダに出る。腕の電子時計を今日も何度も確認する。もはや時間を管理する必要などないはずなのに、その習慣だけは抜けなかった。

38年間、竜平は物流の現場で働いた。最初は倉庫作業員として荷物の仕分けやトラックへの積み込みをこなし、口数は少なかったが仕事の正確さだけは誰にも負けなかった。40代になる頃には数十名の部下を抱える管理職になっていた。離婚したのは40歳の時だった。子供はいなかった。元妻とはその後一度も会っていない。悔いているのかどうか、自分でもよくわからなかった。

退職を決めたのは60歳の誕生日を過ぎてすぐだった。本来なら65歳まで働けたが、新しい上司との関係がうまくいかなかった。30代の上司に「古い」と切り捨てられ、言い返した末に修復はできなかった。退職時の貯蓄は1500万円。年金が始まるまでの4年間をこの貯蓄でつなぐつもりだった。計算は間違っていなかった。しかし、計算が及ばなかったことがあった。

6月初旬、雨が続いた週のこと。ポストに白い封筒が入っていた。差出人は不動産管理会社だった。開けて最初の数行を読み、手が止まった。定期建物賃貸借契約の満了に伴う退去通知。建物老朽化のための取り壊しで、退去期限は9月末日。立ち退き料は発生しない。二度読んで、窓の外を見た。雨が細く降っていた。怒りが来たのは数秒後だった。遅れてくる怒りは深くて暗かった。

クローゼットから契約書のファイルを引っ張り出した。11年前に何の気なしに署名した書類だった。ページをめくるたびに顔が熱くなった。特約事項にはこうあった。「契約期間満了をもって本契約は終了し、乙は無償にて退去するものとする。いかなる場合においても更新はなく、乙は保証金等の請求をすることができない。」文字は小さかった。当時の自分がそこを読んでいたかどうか、思い出せなかった。おそらく読んでいなかった。仕事では細部に目を光らせていた自分が、自分の生活に関わる書類を雑に扱っていた。その事実が、怒りの底にある恥へと変わっていった。

翌日、スーツを着て管理会社のオフィスを訪ねた。30代前半の担当者は穏やかな顔で頷きながら、「大変申し訳ございませんが、本件はご契約内容に基づく正当な手続きです」と、一点の曇りもない口調で言った。竜平は口を開いたが、言葉が出てこなかった。38年間、人を動かすことを仕事にしてきた男が、何も言えなかった。担当者の目が「早く終わってほしい」と言っていた。その視線に気づいた瞬間、竜平は口を閉じ、立ち上がった。何も言わずにオフィスを出た。

その日から物件探しを始めた。条件をリストアップした。家賃6万円以下、6畳以上、駅から徒歩15分以内。自分は安定しているはずだった。しかし最初に訪ねた業者で問題が起きた。月収の欄に記入できる数字がなかった。「現在無職です。60歳以上の単身の方の場合、オーナー側の判断で審査が厳しくなることがございます」と若い担当者が済まなさそうに言った。「貯金があってもか? 」と聞き返すと、「保証人の方はいらっしゃいますか? 」と言われた。竜平の中に、保証人になってくれる人間は一人も思い浮かばなかった。両親は20年以上前に他界し、兄弟はいるが疎遠だった。友人と呼べる人間もいなかった。

2件目、3件目と訪ねるたびに同じ壁にぶつかった。61歳、単身、無職、保証人なし。この組み合わせはどの業者でも微妙な表情を引き出した。ある業者で「やはり保証会社を通じた審査が必要になりますが、高齢の方の場合、孤独死リスクという観点から審査基準が厳しくなっておりまして」と言われた。「孤独死リスク」という言葉が部屋の中に残った。当然のこととして語られるほど、自分は今、そういうカテゴリーに属しているのか。竜平は立ち上がり、「お時間いただきありがとうございます」と言って頭を下げた。

6月半ばを過ぎた頃、竜平は決断した。収入の証明がなければ前に進めない。ならば収入を作るしかない。求人サイトを検索したが、管理職は年齢が壁になり、採用されても現場の若い社員の下に置かれることが多かった。問題は時間だった。9月末までに退去しなければならない。

最終的に選んだのは、近所の24時間スーパーの夜間品出しのアルバイトだった。時給1020円、週5日、夜11時から朝6時まで。面接で店長は経歴を見て少し驚いた顔をしたが、「明日から来られますか? 」と聞くだけだった。

最初の夜、ロッカーで制服に着替えた。薄いグレーのポロシャツに黒いエプロン。名札には「黒川」と書いてある。25歳くらいの夜間リーダーの男は「ヒロシ」と呼ばれていた。「ドリンクのコーナーを担当してください。納品された段ボールを開けて、期限の古いものを手前に、新しいものを奥に差し込む。それだけです。」作業そのものは難しくなかった。しかし数時間続けると体が正直に反応した。管理業務と実際に体を使って商品を動かし続けることは違った。

問題が起きたのは3週間目に入ってからだった。竜平は長年培った物流の知識から、担当エリアの商品配置を自分なりに整理した。回転の速いものを目線の高さに、遅いものを下に移した。翌日、ヒロシが来て「なんでここ変えたんですか」と言った。穏やかな口調ではなかった。竜平が効率の観点から説明しようとすると、途中で遮られた。「ここのやり方はマニュアルがあります。一人一人が自分で判断して変えると混乱するので、何でも私に確認してください。」竜平は「わかりました」とだけ言って、元の配置に戻した。作業をしながら手が少し震えていることに気づいた。

夜勤明けに帰ると、部屋は昼の光の中にあった。カーテンを引いて暗くし布団に入る。しかし体は疲れているのに、なかなか眠れなかった。天井を見ながら、退去まであと何日か、次の住居の目処はまだ経っていない、貯蓄からの出費が続いている。7月に入った頃から食欲が落ちた。

7月の終わり、ポストに一枚のチラシが入っていた。「シニア単身者専用住宅。保証人不要。60歳以上優遇。6万8000円より。」管理会社は「木戸不動産」と書いてあった。竜平は一度はゴミ箱に捨てた。しかし翌朝、もう一度そのチラシを手に取った。9月末まであと2ヶ月を切っていた。

翌日、現地の内覧を設定してもらった。場所は最寄り駅から徒歩7分ほどの住宅街の一角だった。出迎えたのは木戸という40代前半の男だった。灰色のスーツをきっちり着て、握手をしてきたが、その手は乾いていて力強かった。部屋は12畳ほどの角部屋で、窓から公園の緑が見えた。特別に良い部屋ではなかったが、悪くもなかった。竜平が複数の業者に断られ続けたことを話すと、木戸は少し表情を柔らかくして「うちはそういったお客様のために作られた住宅です」と言った。

しかし帰宅後、もらった書類を机に広げて目が止まった。月額家賃6万8000円、プラス管理安心見守りサービス費として月額3万2000円、その他にリスク対応保険一時金として180万円。合計すると2年間で300万円を超える。手元の貯蓄の3分の1近くが消えることになる。電卓で何度計算しても数字は変わらなかった。

それから3日間、他の物件を探し続けた。市役所の相談窓口も、URも、どこも条件に合わなかった。退去期限まで8週間を切った日の夜、竜平は書類を引き出しから出して、もう一度契約内容を読んだ。「リスク対応保険特約は解約不能とする。初年度の一時金の返還は行わない。」窓の外の住宅街は静かだった。隣の家の明かりがカーテン越しにぼんやり見えた。誰かがそこにいる。その当たり前の事実が、その夜は少し遠く感じた。

翌朝、竜平は木戸に電話をした。「契約について話を進めたい。」木戸の声は温かくも冷たくもなく、きちんとしたプロフェッショナルだった。

翌日、事務所で書類に目を通し、特約について2点ほど質問した。木戸は明確に答えた。竜平は手放すものの規模を頭の中で確認した。300万円。長い年月をかけて積み上げてきたものの5分の1。代わりの選択肢は持っていなかった。9月末に路頭に迷う可能性と、今ここで300万円を出すこと。その2択の重さを静かに比べた。ペンを手に取り、署名欄に名前を書いた。書いている途中で手が一瞬止まった。それでも書き終えた。木戸が書類を受け取り、「ありがとうございます」と言った。

8月の初め、竜平は新しい部屋に移った。引っ越し荷物は段ボールの箱1個で済んだ。38年分の人生の割には少なかった。棚に並んだのは、物流の技術書が何冊かと、壊れたままの目覚まし時計と、誰からもらったか思い出せない小さな置き物だけだった。

夜間シフトは続いていた。ヒロシは以前の一件から竜平に対してよそよそしかった。必要最低限の指示だけを投げて、あとは各エリアに散るという形だった。7月から続く夜勤と不規則な睡眠が確実に体に影響していた。仕事の途中に視野が少し暗くなることが何度かあった。その度に立ち止まって棚に手をついた。数秒で戻ったので、単なる疲れとして処理した。

同じシフトに田辺という54歳の男がいた。元々自動車の整備工場で働いていたが、工場が閉鎖して仕事を失ったという。田辺はよく笑った。状況が面白いわけでもないのに、何かのタイミングで短く笑う。竜平にはその笑い方の意味はわからなかったが、不快ではなかった。田辺は会話を続けることが得意で、竜平が短くしか返さなくても勝手に続けて、最後に自分でまとめた。ある夜の休憩時間、田辺が自販機のコーヒーを買ってきて「黒川さんの分も」と置いてくれた。2人はほとんど何も話さなかったが、竜平はその時間を特に長いとは感じなかった。

8月の半ばを過ぎたある夜、夜勤から帰ってきた竜平が廊下を歩くと、自分の部屋のドアの前に人影があった。若い男だった。20代できちんとした格好をしていた。竜平が近づくと、男は「黒川竜平さんですか」と言った。静かな声だった。「白石聡です。竜平さんの妹の息子です。」竜平は男の顔を見た。妹は20年以上前に病気で亡くなっている。そのことを竜平はほとんど思い出さないようにしていた。思い出せば、その当時の自分の行動を思い出すことになるから。彼女が入院していた最後の数ヶ月、竜平は仕事を理由にほとんど見舞いに行かなかった。

部屋に入り、聡は話し始めた。母の知人を通じて竜平がこの辺りにいると聞いたこと。どうしても会いたかったこと。声は落ち着いていたが、指が少しテーブルをなぞっていた。竜平は質問しなかった。頷きながら聞いていた。すると突然、聡が立ち上がり「キッチンを見てもいいですか」と言って、冷蔵庫を開けた。中にあったのは、缶ビールと賞味期限の確認が必要そうな豆腐とコンビニのサンドイッチの袋だけだった。聡は冷蔵庫を閉めて、何かを決めたような顔をした。「近くにスーパーはありますか?

Thumbnail

」と聞き、竜平が答えると「ちょっと言ってきます」と出て行った。

5分後、聡が袋を下げて戻ってきた。卵、豆腐、醤油、ネギなどが入っていた。竜平はキッチンに立つ聡の後ろ姿を見ていた。炊飯器の使い方を確認してから米を研ぎ、出汁を鍋に入れる。動きに無駄がなかった。30分後、テーブルに白い飯と味噌汁と卵焼きが並んだ。竜平は箸を受け取って手を合わせた。最後に手を合わせたのがいつだったか思い出せなかった。一口食べた。温かかった。味噌の匂いが部屋に広がった。竜平は黙って食べ続けた。2人の間に会話はなかったが、沈黙は重くなかった。

食後、聡が食器を洗い始めた。洗い物が終わると、また椅子に座った。「今日はありがとうございました。また来ていいですか? 」竜平は1秒だけ考えてから、「好きにしろ」と言った。聡は少しだけ笑って、出ていった。部屋がまた静かになった。味噌と飯の匂いがまだ残っていた。

聡はそれから週に2回か3回、訪ねてくるようになった。いつも何か買ってきた。食料だったり、お茶のペットボトルだったり、血圧計だったりした。血圧計を置いて行った日、竜平は最初それを使わなかった。しかし聡が3日後に来て「使いましたか? 」と聞いた時、正直に「使っていない」と答えた。聡は何も言わずに箱を開け、電池を入れて竜平の腕に巻いた。数値は158だった。聡は数値を見て少し眉を上げたが、黙って見せた。「そんなに悪いのか? 」と聞くと、「悪いです」と一言だけ言った。

8月の終わり、聡が車で日帰り温泉に誘った。竜平は久しぶりに体の力が抜けた。食堂でそばを食べながら、竜平は昔の仕事の話をした。倉庫のピークシーズンの忙しさ、自分で設計した動線で作業効率が3割上がったこと。聡は熱心に聞いた。本当に聞いていた。話の途中で、物流に詳しい人間でなければ出ないような質問をしてきたのだ。竜平はそれに気づいたが、特に確かめなかった。こんな風に自分の仕事の話を誰かに聞いてもらったのはいつ以来だったか、思い出せなかった。

9月の半ばのある夜、食事をしながら竜平はふと言った。「お前の母親に、俺は最後まで会いに行かなかった。」聡は箸を持ったまま少しだけ顔を上げた。「知っています」と言った。声に責める色はなかった。ただ「知っています」とだけ言った。竜平は謝ることも弁解することもしなかった。2人はまた食べ始めた。

9月の末、聡が久しぶりに少し遅い時間に来た。手には日本酒の瓶が一本あった。2人はグラスを合わせて飲んだ。しばらくして、聡が口を開いた。「実は、事業を考えているんです。高齢者専門の生活支援サービスです。食料品の購入代行から薬の受け取り、区役所への書類提出まで。2026年の今、65歳以上の人口は3000万を超えている。移動が難しくなった高齢者のニーズは今後さらに拡大するはずです。」しかし、自分には物流のシステムを設計した経験がない。「配送ルートをどう効率化するか、その部分だけがどうしても埋まらない。」

聡はグラスを置いて、竜平を見た。「こういうことを竜平さんに話すのは失礼かもしれない。でも、自分には竜平さんしか頼める人がいない。お金の話だということは分かっている。でも、金だけじゃない。僕には父親がいない。竜平さんの話を聞くたびに、こういう人の下で仕事を学びたかったと本気で思う。お金は必ず返す。でも僕が本当に欲しいのは、一緒にやってくれる人です。竜平さんが一人でここにいるのを見るたびに、もったいないと思う。スーパーで夜中に箱を積んでいるよりも、もっとあなたにしかできないことがあると思う。」竜平はグラスを持ったまま何も言わなかった。

「いくら必要だ?

」竜平が言った。聡は「初期投資として1000万円」と答え、返済計画がまとまった資料を取り出した。竜平はそれを受け取り、読み始めた。読んでいる途中で引っかかる箇所がいくつかあった。収益モデルの計算式がやや楽観的すぎる。人件費の見積もりが現実的ではない。しかしそれよりも先に、頭の中に別の何かがあった。温泉の帰りの車の中で眠ったこと。テーブルに並んだ飯と味噌汁。その記憶たちが計算の邪魔をした。

翌日、竜平は銀行のATMで、聡に渡された口座番号に1000万円を振り込んだ。確認画面を1秒だけ見て、実行ボタンを押した。ATMの外に出ると、朝の空気が涼しかった。腕時計を見た。10時12分。聡に振り込みの連絡を入れると、すぐに返信が来た。「ありがとうございます。これで進められます。一緒にやりましょう。」

10月に入っても、夜間シフトを続けながら竜平は毎日スマートフォンを確認した。聡からの連絡は、最初の4日間は続いた。「事業登録の手続きを進めています。システム開発会社と打ち合わせをしました。」しかし5日目から間隔が開き始めた。7日目に送ったメッセージに既読がつくまで10時間かかり、返信は来なかった。

送金から10日が経った。竜平は事業計画書を引き出しから出して、感情を切り離して読み直した。集客手段が具体的に書かれていない。組織図のオペレーション責任者の欄に自分の名前はあるが、「就任予定」と括弧書きで添えてあるだけだ。資金計画は初期費用の合計が950万円。竜平が出した1000万円との差額は50万円だったが、その使途については書かれていなかった。その夜、もう一度メッセージを送った。「進捗を教えてほしい。役員就任の件について話したい。」既読はすぐについたが、返信は来なかった。

送金から2週間が経った朝、竜平は眠れずに早起きした。聡が事業計画書に書いていた住所を確認した。新宿区の一角にあるビルだった。電車で向かい、指定の住所のビルに着いた。エレベーターで5階に上がり、部屋番号を確認しながら歩いた。503のプレートには「白川ロジスティクスサービス」と書いてあった。ドアをノックしても反応はなかった。廊下の端に受付らしきカウンターがあり、20代の女性がいた。竜平が問い合わせると、女性は一度ファイルを確認してから言った。「こちらはバーチャルオフィスのご契約でして、実際にスタッフが常駐しているわけではございません。住所と郵便物の受け取りサービスをご利用いただいております。」「最後に担当者が来たのはいつか? 」と聞くと、「直近の利用記録は2ヶ月前になっております」と言われた。2ヶ月前というのは、竜平が聡と出会った頃だ。

竜平はそのビルを出た。続いて、聡が話していたかもしれない住所を確認し、電車に乗った。中野区の路地にある古いアパートだった。2階建ての木造で、203の部屋の表札は空白だった。1階の管理人室をノックすると、70代くらいの男性が出てきた。「白石という若い男の入居者を探している」と言うと、「ああ、もう引っ越しましたよ。先週です。突然でね、前日に挨拶に来て、翌日にはもう荷物全部出してた。敷金は戻さないでいいって言って」と言った。「一人でしたか? 」と聞くと、管理人は少し考えて「若い女の子と一緒でしたよ。荷物運ぶのに新しそうな車もあってね」と言った。

竜平はアパートの前の細い路地に立った。雨が降り始めていた。細かい雨だったが、傘はなかった。竜平は動かなかった。雨が肩と頭を濡らした。頭の中は奇妙なほど静かだった。怒りがあった。しかし怒りは声にならなかった。聡が最初に来た朝のことを思い出した。落ち着いた声で名乗った。冷蔵庫を開けて、スーパーに行って飯を作った。一度も大げさなことをしなかった。急がなかった。ゆっくりと時間をかけて、竜平が必要としているものを正確に補ってきた。蕎麦屋でしてきた、物流に詳しい人間でなければ出ない質問。そもそも、聡は何の仕事をしていたのか。竜平は一度も具体的に聞かなかった。妹に子供がいたかどうか、確かめる手段もなかった。葬式にも行かなかった。その後悔があったから、聡が名乗った瞬間に、その名前を信じたかったのだ。

竜平はスマートフォンを取り出し、聡の番号に電話をかけた。呼び出し音が4回鳴って、アナウンスに切り替わった。「おかけになった番号は現在使われておりません。」もう一度かけても同じだった。手が濡れていた。胸の奥に熱いものが広がり始めた。頭の後ろが重くなった。深呼吸しようとしたが、息がうまく深く入らなかった。1000万円。その数字が感情ではなく事実として頭の中に浮かんだ。38年間、時間と体を売り続けて積み上げた金だった。それが今、残り200万円の貯金と、数年後まで始まらない年金だけになった。胸の圧力が今度は明確な痛みに変わった。足を止めて、近くの塀に手をついた。目の前の景色が一瞬だけぐらりとした。膝が曲がった。アスファルトの冷たさが伝わった。遠くでサイレンの音がした。「大丈夫ですか? 」という声がした。答えたかったが、声が出なかった。腕が塀から離れて、肩がアスファルトに触れた。

目が開いたのは翌朝だった。病院の白い天井だった。腕に点滴の針が刺さっていた。医者が言った。「高血圧性緊急症です。血圧が危険な水準まで上昇し、そのまま倒れた。今回は大きなダメージはなかったが、次に同じことが起きれば脳血管障害になる可能性が高い。」強いストレスと過労、睡眠不足が重なればまた起きると。竜平は黙って頷いた。血圧計は、聡が置いていったものが棚の上にあった。最後に使ったのはいつだったか思い出せなかった。

2日後、竜平は退院した。財布の中身は1万3000円ほどに減っていた。入院費と処置代で手持ちの現金のほとんどが消えた。スマートフォンを見ると、スーパーの管理者からメッセージが来ていた。「無断欠勤が続いているため、雇用契約を終了する。」アパートに帰ると、ドアに紙が貼ってあった。木戸不動産からの通知だった。「当月分の家賃が支払い期日を過ぎても確認できないため、特約条項第7項に基づき即時退去を求める。」廊下から足音がして、木戸が現れた。「通知を読んでいただけましたか?

」「今月分の引き落とし日はまだ来ていないだろう。」「お客様の引き落とし口座の残高が不足していることを、本日午前中に確認いたしました。残高不足による引き落とし不能が発生した場合、当社では翌日より滞納扱いとさせていただいております。」

竜平は一歩近づいた。木戸の胸倉を掴もうとした。その時、廊下の端から大きな体格の男が現れ、竜平の腕を取って壁に押し付けた。木戸は数歩引いて、「騒がないでください。お隣の方にご迷惑です」と穏やかな声で言った。「荷物は明朝にまとめていただけますか? 明日10時に来ます。残置物については当社で処分いたします。」

竜平は部屋に戻り、段ボールを出して荷物をまとめ始めた。服を畳み、台所の道具を新聞紙に包んだ。技術書を手に取った時、一冊のページが開いた。若い頃に自分が赤いボールペンで書いたメモだった。字が細かく几帳面だった。その字を書いた当時の自分と、壁に押し付けられた自分が同じ人間だとは思えなかった。

荷物は段ボール2箱とリュックサック1つだけだった。駅のロッカーにリュックを入れ、段ボールを持ったまま駅のコンコースに座った。誰も気にしなかった。最安値のカプセルホテルが一泊3500円だった。そこで2泊した後は、深夜のファミリーレストランで朝まで過ごした。口座の残高を確認すると、思っていたより少なかった。病院の支払いでカードを使っていたこと、木戸不動産への初期費用の一時金がローンとしてまだ残っていて、それが先月分から自動的に引かれていたことがわかった。

ある日、駅の地下通路のベンチに座っていると、同じように荷物を持った老人が隣に座った。2人は長い間何も話さなかった。かつて自分が管理していた倉庫に、ホームレスの老人が侵入したことがあった。竜平は警備を呼んだ。あの時自分は正しかったのかどうか、今になって初めて考えた。

その夜、駅の改札近くの柱に背を預けて座っていると、「黒川さん」という声がした。木戸だった。隣に座って、「うちの会社で別の仕事があります。住む場所も用意できます」と言った。「特殊清掃です。孤独死や自死の現場を清掃する仕事です。高齢者の孤独死は毎年増加しています。専門の業者が不足していて、人手が足りていません。あなたが今、この仕事を断れる状況にないことも分かっています。正直に言います。」竜平は木戸の横顔を見た。「どういう仕事だ」と聞いた。木戸は説明した。孤独死や自死の現場を専門に清掃する。住まいは倉庫の一角の仕切りの部屋。給与は2万7000円から。滞納した家賃も給与から少しずつ引いていく。木戸が差し出したコーヒーを竜平は飲んだ。ぬるかった。甘かった。竜平はペンを受け取り、覚書の署名欄に名前を書いた。

10月の終わり、竜平は初めて現場に入った。杉並区の古いマンションだった。現場責任者は、木戸の部下の加藤という30代の無口な男だった。防護服を着て部屋に入ると、最初に来たのは匂いだった。防護マスク越しにも鼻の奥に入り込む、腐敗と生臭さが混ざった重い匂い。竜平は口呼吸に切り替えた。作業手順は決まっていた。まず消臭剤を散布し、専用の洗浄剤で床のシミを分解する。家具は分別しながら搬出する。手順が決まっていることは助かった。

11月になると、竜平は週に4日から5日、現場に入った。孤独死した高齢者の部屋が多かった。最初の1週間は現場から出るたびに公園のベンチで新鮮な空気を吸った。何も食べられない日もあった。しかし2週間が経つと、体が対応し始めた。倉庫の仕切りの部屋は6畳ほどだったが、駅の通路やファミリーレストランよりは別の世界だった。生活が規則正しくなり、血圧の薬も飲み続け、体重が少し戻った。

11月の中旬、板区のアパートの現場に入った。64歳の男性の部屋で、発見まで約10日間経過していた。作業中、キャビネットの引き出しの奥から一冊のノートが出てきた。日付が入った手書きの記録だった。竜平はページをめくる手を止めて、読んでしまった。「息子から電話がなかった。もう6ヶ月になる。」「年金だけでは月の終わりが苦しい。息子に電話しようとしてやめた。拒絶されるのが怖いのか、無関心でいられるのが怖いのか、自分でもよくわからない。」「退職してから3年が経った。この3年で何をしたか考えた。毎日同じ時間に起きて、同じコースを散歩して、同じ店で買い物をした。それだけだった。問題は、これが何年続くのかという問いが怖くて直視できないことだ。」竜平はノートを閉じた。

現場を出た後、公園のベンチに座った。あのノートの男と自分の間に、どれほどの違いがあるだろうか。年齢は近かった。孤独だった。退職後の生活が崩れていくプロセスが違うだけで、向かっている先は同じではないか。その問いを、かつてなら払いのけていた。しかし今は払いのけるだけの何かが、自分の中に残っていなかった。あの男は発見まで10日かかった。自分の場合は、何日になるだろうか。

11月の末、練馬の一軒家で71歳の女性の部屋を掃除していた。台所のゴミ袋に入れるものの中に、古い封筒の束があった。1枚ずつ確認して分別していると、ある封筒で手が止まった。差し出し人は宅配業者で、送り主の欄には港区の住所が書いてあった。宛名は「白石聡」だった。この部屋の前の住人が聡だった可能性がある。竜平はメモ帳を取り出し、その住所を書き写した。

12月の初め、竜平は賃金の前払いを頼んだ。翌日、2万円が手渡された。竜平は近くの銭湯に行き、時間をかけて体を洗った。鏡を見ると、顔色は良くなかった。しかし整えられる部分は整えた。上着のポケットにメモを入れた。そしてもう一つ、ポケットに入れたものがあった。1ヶ月ほど前の現場で拾ったものだ。67歳の男性の部屋の引き出しから出てきた、ガラスの割れたアナログ腕時計。針は止まっていた。遺族が見当たらず、廃棄処分になるところだった。竜平は廃棄リストにそれと書かず、ポケットに入れた。なぜそうしたかは、その時は説明できなかった。

港区に向かう電車の中で、竜平はこれからすることを整理した。怒りはあった。しかし、怒りを持ってあの場所に行くつもりはなかった。怒りで動く段階は、雨の路地で膝をついた日に終わっていた。自分は何をしに来たのか。金を取り返しに来たのではない。痛めつけに来たのでもない。ただ、あの男の顔を見て、何かを言いたかった。

メモの住所は港区の高層マンションだった。オートロックの扉があり、竜平は中に入れなかった。マンションの横の来客用駐車スペースの一角に立って待った。風が冷たかった。1時間ほど経った頃、黒い車が駐車スペースに入ってきた。運転席のドアが開き、聡が降りてきた。3ヶ月ぶりの姿だった。髪が少し伸びていた。同時に、助手席から20代の女性が降りてきた。聡が女性に手を回そうとしながら何か話していた。

竜平は一歩前に出た。聡が顔を上げたのは、竜平がすぐ目の前に来た時だった。顔が止まった。笑顔が消えた。目に恐怖があった。隠せていなかった。竜平は上着のポケットに手を入れた。その動作を見て、聡の体が固まった。ポケットから出したのは、ガラスの割れたアナログ時計だった。竜平はそれを、聡の手に向けて差し出した。聡は時計を見て、それから竜平の顔を見た。何かを計算しようとする目だった。

竜平は口を開いた。声は静かだった。「金を取り返しに来たわけじゃない。怒鳴りに来たわけでもない。お前が何をしたかは知っている。俺も分かっていた。分かっていて、見ないようにした。それは俺の話だから、お前には関係ない。」聡の喉が動いた。「俺は今、死んだ人間の部屋を掃除する仕事をしている。孤独死した老人が誰にも気づかれずに死んだ部屋を、道具を持って片付ける。毎週何件もある。お前が想像する以上にたくさんある。先月、一人の男の部屋を片付けた。俺より少し若い男だった。ノートがあって読んだ。息子に電話しようとして、できなかったと書いてあった。怖かったからと書いてあった。その男は10日間、誰にも発見されなかった。」聡は何も言わなかった。竜平は聡の手に時計を置いた。「この時計の持ち主も、俺が片付けた部屋にいた男のものだ。誰も引き取らなかった。俺が持ってきた。お前はまだ若い。俺よりはるかに時間がある。その時間をどう使うかは、お前が決めることだ。ただ、俺はあの終わり方を何十件も見てきた。あの終わり方だけは、進めてはいけない。それだけだ。」

竜平は身を翻し、駐車スペースを出た。道路に出た。聡が何かを言ったかもしれなかったが、聞こえなかった。聞こうとも思わなかった。竜平は歩いた。港区の華やかな街を一人で歩いた。夕暮れになっていた。電車で帰れば、倉庫の部屋に着くのは6時前後だろう。明日の現場は朝8時集合だった。

改札を通りながら、竜平は一つだけ考えた。明日の現場が終わったら、ハローワークによってみよう。物流の管理経験を生かせる仕事が何かあるかもしれない。死に枠でいい。夜勤でなくていい。賃金が低くてもいい。ただ、自分の知識が少し使える場所があれば、それだけでいい。それだけを考えた。それ以上でも以下でもなかった。

ホームに降りると、電車がちょうど入ってくるところだった。竜平は乗り込んだ。ドアが閉まり、電車が動き始めた。竜平は吊り革を持って正面を向いた。隣に人がいた。向いにも人がいた。誰も竜平を見なかった。竜平も誰を見るわけでもなかった。ただその空間の中にいた。人の中にいた。それだけのことが、今日は少し違う重さを持っていた。電車は走り続けた。竜平は吊り革を握りながら、揺れに合わせて体を傾けた。そうしながら窓の外を一度だけ見た。夜の東京が後ろへ流れていった。