電子カルテの画面に並ぶ数字を、俺はじっと見つめていた。心電図の波形がわずかに乱れている。
「お薬、ちゃんと飲めてますか?」
「はい、先生。毎朝欠かさず」
「いいですね。この調子で続けましょう」
患者が頭を下げて出ていくと、診察室の扉がパタンと閉まった。窓の外では、外路樹の欅が色づき始めている。東京の大学病院からこの地方総合病院に不妊して3ヶ月が過ぎた。
俺の名前は神崎涼、44歳、循環機内海だ。長く都心の大学病院で心臓家庭治療に携わってきた。回の発表論文、後輩の指導、気がつけば40を過ぎていた. ここへ来たのは自分でも理由がうまく説明できない. 教授からは移流された. 同期からは都内かと笑われた.

それでも俺は手をあげた. 都会の剣争から少し離れたかった. それが本音だった. ノックの音がして、看護師長が顔を覗かせた**
「神崎先生、午後の予約、もう全員入ってますよ」
「了解です。すぐ呼んでください」
「先生、お昼まだですよね.
せめてパンでも持っておいてください」
「あ、ありがとうございます. 後で食べます」
看護師長は呆れたように微笑んで扉を閉めた. 机の橋に積まれた紹介状を一通ずつ手に取る. 近隣のクリニックから送られてきた心臓病の患者たちの記録.
ある女性の名前が目に止まった瞬間、俺の手がぴたりと止まった**
霧谷ひみ、その名前を15年ぶりに見た. 胸の奥で何かが鈍く跳ねた**
よくある名前だ. 同名ならいくらでもいる. 俺は自分にそう言い聞かせた.
紹介状を裏返すと、生年月日、年齢42歳. 会っている. 俺は息を一度、ゆっくり吐いた**
その夜、俺は不妊に合わせて借りた駅前の小さなマンションの角部屋にいた. テーブルに紹介状のコピーを広げていた**
霧谷ひみ.
急性ではない、その苗字を見て俺は安心したのだ. 最初は、彼女は結婚したのだろう、と誰かと家庭を築き、子を育て、穏やかに暮らしてきたのだろう、と**
それなのに心臓は壊れていた**
紹介状の文面は淡々としていたが、読めば読むほど状態は思わしくなかった**
俺は立ち上がり、ベランダに出た. 秋の風が首筋を撫でていく. 川には橋の明りが揺れている**
15年前の春のこと、俺は今も覚えている**
国試を終え研修先が決まったあの日、ひみと優馬と3人で居酒屋に集まった.
ひみは俺の恋人で、優馬は俺の親友だった. 高校時代からの、ただ1人の友. 俺と優馬は同じ医学部に進み、ひみは看護学校に通っていた. 3人でよく夜の町を歩いた**
その夜、ひみが言った**
「り君、研修頑張ってね」
「ああ。落ち着いたら、ちゃんと話したいことがあるんだ」
「お、ついに神崎。お前にしては男前あるじゃないか」
「うるさいよ、お前は」
笑った.
確かに笑い合った夜だった**
数ヶ月後、優馬から手紙が届いた. 風を切る手が今でも甦る**
「神崎、すまない. ひみさんと一緒になることになった. お前を裏切る形になって、本当にすまない.
もう会わない方がいいと思う」
俺はその手紙を何度も読み返した. ふざけるなと思った. 何かの間違いだと思った**
ひみに電話をかけたが繋がらなかった. ひみのアパートに行ったが、もぬけの殻だった.
共通の知人に聞いて回ったが、誰も2人の行方を知らなかった. 2人は消えた. 俺の前から、ある日突然いなくなった**
その後、俺は仕事に逃げた. 研修医として朝から晩まで働き、人の命のことだけを考えた.
見合いもいくつかあったが、全て断った. 誰かと家庭を築く気には、どうしてもなれなかった**
15年後、ベランダの手すりに肘をついて、俺は夜空を見上げた**
ひみが戻ってくる. 病を抱えて、俺の目の前に. 偶然と呼ぶには、できすぎていた**
の月曜、紹介患者の初心が始まった.
朝の外来はいつも通り混んでいた. 俺は次の患者を呼ぶよう看護師に頼んだ**
「霧谷ひさん、どうぞお入りください」
扉が開いた. 俺は顔をあげなかった. あげられなかった、というのが正しい**
俺は深く息を吸ってから、ようやく視線を上げた**
そこに立っていたのは、確かにひみだった.
15年分の月が、ほの線に、目の縁に刻まれていた**
彼女は俺の顔を見て息を飲んだ**
「お久しぶりです」
「どうぞおかけください」
ひみはゆっくりと椅子に腰を下ろした. 膝の上で両手をきつく握り合わせている**
「紹介状、拝見しました. 息切れがひどいと書いてありますが、いつ頃からですか?」
「半年ほど前からです. 階段が辛くて、最近は夜に席が出て眠れないこともあって」
「足のむみはありますか?」
「夕方になると靴がきつくなって」
俺はカルテに書き込みながら、彼女の顔を見ないようにした.
質問を続ける,症状の経過、内服薬、家族歴,. 意思としての佐だけが俺を支えていた**
一通りの紋を終えると、ひみは俯いたまま小さく言った**
「先生に見ていただけるなんて、思いませんでした」
「ご縁ですね. 検査の予定を組みます. 新栄光ホルター、新殿図、それから血液検査も追加で行います」
「はい」
「霧谷さん、ご家族は?」
「息子が1人」
俺の手が一瞬止まった.
ペンの先が小さく震えた. 気づかれないよう、息を整えた**
「お子さん、おいくつですか?」
「14歳です」
息子、14歳. 逆算は簡単にできた**
ひみは俺と別れたすぐ後に、優馬との子を授かったのだろう. そう考えるのが自然だった**
俺は唇の内側を軽く噛んで、表情を整えた.
看護師が血圧計を持って入ってきたので、診察を一旦区切った. ひみは処置室へ移っていった**
扉が閉まると、俺は椅子の上で深く息を吐いた. 手のひに汗が滲んでいた**
天井を見上げたまま、しばらく動けなかった**
診察室の窓から朝の光が斜めに差し込んでいた**
15年だ. 俺はずっと2人を恨んできたわけではない.
ただ、置いて行かれたという感覚だけが、ずっと胸の奥にあった. その女が今、俺の患者として戻ってきた**
俺は何を聞き、何を聞かずにいるべきなのか**
1週間後、ひみの検査結果が揃った. 新エコの画像を画面に移し出しながら、俺は1人診察室で資料を見直していた**
ステージは思っていたよりも進んでいた**
机の上のカルテに、息子の名前が書かれていた**
霧田に言うと、14歳. 俺はその字をしばらく見つめていた**
ノックの音で我に帰る**
「神崎先生、霧谷さん、お見えになりました」
「お通してください」
扉が開いてひみが入ってきた.
今日はレージュのカーディガンを羽織っていた**
「霧谷さん、おかけください. 検査の結果をお話しします」
「はい、よろしくお願いします」
俺はパソコンの画面を彼女の方に向けた. 心臓の動きを示す映像が、ゆっくりと白動を繰り返している**
「総便という弁が、しっかり閉じ切っていないんです. 逆流が起きていて、心臓に負担がかかっている.
辛抱も合わさって、今新付不然全の状態になっています」
「それはお薬で治るんでしょうか?」
「薬で進行は抑えられます. ただ、根本的には手術が必要な段階に来ています. 早い方がいい」
ひみは俯いた. 膝の上で握り合わせた手が、わずかに震えている**
「手術をしなければ、どうなるんですか?」
「このままだと新付全が悪化します.
半年、1年と経つうちに、入院を繰り返すようになる. 最悪の場合は、命に関わります」
言いながら、自分の声が他人のもののように聞こえた. 意思として当然のことを、当然のように告げている**
「息子が、まだ中学生なんです」
「え、あの子のためにも、もう少し元気で痛い痛いんです」
俺は顔をあげた**
「霧谷さん、手術はうちの病院でもできます. 専門の心臓外下界と一緒に、しっかり計画を立てましょう.
怖いと思うのは当然です. 十分に賞賛のある手術ですから」
「先生にお任せしてもよろしいですか?」
「もちろんです. 担当として、最後まで責任を持ってみます」
ひみは深く頭を下げた**
そして顔をあげると、ふっと笑った**
あの頃と同じ、目尻に小さなシができる笑い方だった**
「り君がお医者さんになって、本当に良かった」
俺は何も言えなかった
その日の夕方、俺は中庭のベンチに座っていた. 午後の外来が終わって、ようやく息をつけた時間だった**
中庭の植込みには、もうコスモスが揺れている**
足音が近づいてくる.
顔を上げると、ひみが立っていた. 帰り際なのだろう. コートを腕にかけて、診察カードを手に持っていた**
「ご一緒してもよろしいですか?」
「どうぞ」
ひみは俺から少し離れた場所に腰を下ろした**
「あの手紙のこと、ずっとお話ししたかったんです」
俺は黙って聞いた**
「優さんが書いた手紙. あれは、私のお願いでもあったんです」
何も言わずに、彼女の次の言葉を待った**
「あの頃、私、病気が見つかったんです.
宮の病気で、まだと子供を埋めなくなるかもしれないって」
「初めて聞きました」
「言えなかったんです. り君は研修が始まったばかりで、1人前のお医者さんになる人に、私の病気のことで重を背負わせたくなかった」
風が吹いて、コスモスが小さく揺れた**
「優まさんは、ずっと前から私の病気のことを知っていて、私が1人で泣いていた夜、たまたま会って話を聞いてくれたんです. あの人は優しい人でした. だから私のために嘘の手紙を書いてくれた」
「り君が私を引きずらないようにはっきり切ってあげようって」
「それで2人で姿を消したと」
「優馬さんは、しばらく私のそばにいてくれました.
手術の突き添いも、単員後の生活も. だけど、私たちは夫婦になったわけじゃないんです」
ひみは俯いたまま続けた**
「優馬さんは、3年後に事故で亡くなりました」
胸の奥で何かが落ちる音がした. 鈍く、重い音だった**
俺は両手で顔を覆った**
「知らなかった」
「ごめんなさい. 知らせる勇気がなかったんです」
「優馬は、最後まで君のそばにいたのか?」
「ええ、家族としてではなく、兄のように」
俺は深く息を吐いた**
15年,俺は2人を恨むことすらできなかった.
ただ置いて行かれたと思い込んでいた. その15年が、もなく崩れていく気がした**
「優との名前は、優馬さんからもらったんです. 私が別の人との間にかった子なんですけど、あの人への、せめてもの感謝で」
「そうか」
「その人とも、もう別れました. 今は優と2人です」
俺は何も言えず、ただ夕日に染まる病を見ていた.
ひみも、もう何も言わなかった**
その夜、俺は部屋の電気もつけずにソファに座っていた. 机の上には、開けていない缶ビールが1本置かれたままだった**
優馬、お前は何も言わずに死んだのか. 俺は心の中で何度もその名を呼んだ**
高校の体育館裏で2人で受験勉強していた頃のことを思い出した**
医学部に行こうと言い出したのは、優馬の方だった. **人の命に関わる仕事がしたい、と**
俺はその言葉に引っ張られるようにして、ついていったのだ**
研修先が決まった夜、優馬は俺の肩を叩いて笑っていた**
「お前の方が、ずっといい医者になるよ」
俺は両手で顔を覆った.
涙が溢れ出していた**
机の引き出しの奥に、ずっと閉まっておいた一通の手紙がある. 優馬からのあの手紙. 何度捨てようと思っても、捨てられなかった**
俺は引き出しを開けた**
「お前を裏切る形になって、本当にすまない」
その1行を、改めて読んだ**
今ならわかる. これは裏切りの手紙ではなかった**
夕間なりの、不器用な祈りだったのだ**
俺は弁線を畳み、封筒に戻した**
明日、またひみが外来に来る.
俺は意思として、彼女の病気を直す. それだけだ**
翌日、朝8時,俺は手術に着替え、キャップを深くり直した. 今日、ひみの総連形成術が行われる**
執刀は心臓外科の部長、田所先生. 俺は循環機内科の主として、術中の管理と術後のフローを担う立場だった**
被会室で、田所先生がコーヒーを飲んでいた.
60近い白髪の、落ち着いた人だ**
「神崎先生、患者さん、今朝の様子はどうでした?」
「血圧脈安定しています. 本人も落ち着いていました」
「ご家族は?」
「息子さんが1人,中学生です. 今待合室に来ています」
「そうか. じゃあ、始めましょう」
俺は頷いて室を出た**
処置エリアで、ストレッチャーに乗せられたひみが待っていた**.
顔色は悪くなかった**
「霧谷さん、おはようございます」
「先生、来てくださって、ありがとうございます」
「ちゃんと見ますから、安心してください. 終わったら、また話しましょう」
「はい、よろしくお願いします」
ひみは小さく頷いて、目を閉じた**
俺はストレッチャーの脇から一歩離れた**
廊下の奥に、白いポロシャツを着た少年が立っているのが見えた. 看護師に突き添われて、こちらをじっと見ている. 優だった**
俺は少年のところまで歩いていった.
背は、俺の肩ほどある**
「お母さんの指示の、神崎です. 手術、しっかりやります. 終わったらすぐ会えるからね」
「お願いします」
少年は深く頭を下げた. その背中を、看護師がそっと支えた**
俺は手術室の扉に向かって歩き出した**
手術は午前9時に始まった**
田所先生のメスが、迷いなく入っていく.
俺はモニターの前に立ち、新図と血圧を追い続けた**
人工心配が回り始めると、手術室の空気が1段引き締まった**
「は思ったより傷んでるな」
「修復、行けそうですか?」
「行けるよ. 慌てず行こう」
田所先生の手元は淡々と動いていた. 俺はモニターから目を離さなかった. 画面の数字が1つでも崩れたら、すぐに動かなければならない**
ここから先のことは、待合室にいた優のそばで、後で看護師長に聞いた話だ**
待合室の長椅子に、優は1人で座っていたという.
膝の上に母から預かったお守りを1つ握りしめて. 壁のテレビは朝のニュースを流していた**
看護師長が時々様子を見に行くと、優はいつも同じ姿勢で座っていた**
「神崎先生って、お母さんの知ってる人だよね」
ある時、優はぽつりとそう言ったそうだ**
「お母さんから何か聞いてるの?」
「昔、お母さんと優馬おじさんの友達だったって」
「僕の名前,優馬おじさんからもらったんです」
「そうなの?」
「優じさんは僕が生まれる前に死んじゃったから、会ったことないんです. でも、お母さんよく話してくれました. 神崎先生のことも」
「お母さんはなんて?」
「とても優しい人だったって」
「お母さんが1番辛かった時,本当はその人に支えて欲しかったんだろうなって」
「僕,最近思うようになって」
少年はそう言って、お守りを握る手に力を込めたという**
手術室の中では、田所先生が術の最終確認に入っていた.
人工心配を離脱しながら、1つ1つ確かめていく**. 心臓が再び自分の力で白動始める瞬間が来る**
俺はモニターの波形を見つめた**
最初の1泊が、画面に山を描いた. 2泊目、3泊目. リズムはゆっくりと、しかし確かに整い始めた**
「逆流、ほぼ消えている.
いい仕上がりだ」
「血圧安定しています」
「よし、閉じよう」
俺はふっと肩の力を抜いた**
手術が終わって、田所先生と一緒に待合室に向かった**
扉を開けると、優が立ち上がった**
田所先生が、いつもの落ち着いた口調で告げた**
「手術,無事に終わりましたよ. お母さん、頑張ってくれました」
「ありがとうございます. ありがとうございます」
少年は2度深く頭を下げた. 肩が小さく震えていた**
俺は少年の前にしゃがんで、目線を合わせた**
「お母さん、これからICUで様子を見ます.
明日には話せるようになるはずだから、今夜はちゃんと家で休んでおいで」
「先生、あの、お母さんを助けてくれて、ありがとうございました」
俺はただ頷いた. 言葉は出てこなかった**
少年の頭を、1度だけ軽く撫でた**
2週間後、ひみの単員が決まった**
朝から空はよく晴れて、玄関前の欅はほとんど葉を落としていた**
俺は外来の合間に、白意のまま玄関まで降りていった**
ひみはコートを羽織って、優と並んで立っていた**
「先生、本当にありがとうございました」
「順調で良かったです. これからも外来は続けてください. 半年は、気をつけて無理はしないように」
「はい、気をつけます」
優が、母の隣で深く頭を下げた.
俺は少年の肩を軽く叩いた**
「お母さんのことを、頼んだぞ」
「はい、先生」
タクシーが玄関前に止まった**
ひみは乗り込む前に、1度だけ振り返った**
「り君,優さんも、きっと喜んでます」
俺は少しだけ笑った. 笑えた自分が意外だった**
「ああ,. あいつの分まで,ちゃんと生きるよ.. 君も無理するな」
「はい,.
ありがとう」
タクシーの扉が閉まり、車はゆっくりと走り出した**
俺は見えなくなるまで、その場に立っていた. 冷たい風が白意の裾を揺らした**
ポケットの中で携帯が小さく震えた. 午後の外来が始まる時刻だった**
俺は玄関のガラス戸に映る自分を、一瞬だけ見た**
44歳の地方病院の医者の顔. 悪くない顔だと思った**
俺は15年,自分の心の中の何かをずっと止めたままにしていた.
それが、ゆっくりと動き始めた気がした**


