妊娠の報告をしたその瞬間、夫の顔が悪魔のように歪んだ。「ババーのガキなんて欲しくねえよ。とっとと下ろしてこい」——40歳で授かった命を、そう言い放たれた。毎日パチンコに行き、私の稼ぎで食わせてもらっているくせに。3年後、新しい夫と子供と幸せに暮らす結婚式の会場で、彼と再会した。私の幸せを嘲笑いながら、耳元で囁いた。「こんな老人が親じゃガキがかわいそうだし、施設に入れてやればいいんじゃねえの?…

妊娠の報告をしたその瞬間、夫の顔が悪魔のように歪んだ。「ババーのガキなんて欲しくねえよ。とっとと下ろしてこい」——40歳で授かった命を、そう言い放たれた。毎日パチンコに行き、私の稼ぎで食わせてもらっているくせに。3年後、新しい夫と子供と幸せに暮らす結婚式の会場で、彼と再会した。私の幸せを嘲笑いながら、耳元で囁いた。「こんな老人が親じゃガキがかわいそうだし、施設に入れてやればいいんじゃねえの?...

「ババーのガキなんて欲しくねえよ。」

妊娠の報告をすると、夫の大輔は大声で怒鳴り、机を叩きつけた。

「気持ち悪いな。とっとと下ろしてこい。それくらいの金、パッと出せるくらい稼いでるだろう。」

そう言い放った大輔の顔は、まるで悪魔のようだった。私は頭が真っ白になり、激しい動揺の中でやっと言葉を紡ぐ。

「で、でも……あれだけ言ったのに避妊しなかったのはあなたでしょ。それに、思いがけない形で授かった子供だとしても……私たち夫婦なのに、喜んでくれると思ったのに。」

「はあ?喜ぶ?何バカなこと言ってんの?てか、40過ぎて子供産んで育てようとか頭おかしいんでしょ?自分の体力も考えられないの?それにお前には俺を食わせていくっていう大事な仕事があるだろうが。たく、気分悪い。出かけてくる。」

大輔は伸びた金髪をかき上げて、嫌らしそうに部屋を出ていった。彼が行く場所なんて決まっている。きっと競馬かパチンコだろう。そしていつも通り大負けして、私に金をせびってくるに違いない。

私はこれからどうすればいいの?この子を生まないなんて考えられない。私はその場にへたり込んでお腹に手を当て、大声で泣いた。

私の名前は羽田直子。社会人になってから10数年、ほとんど仕事一筋で生きてきた。そのおかげでキャリアを積むことができ、1人でも多少の贅沢が許されるくらいの年収を得て生活している。結婚することも子供を持つことも、いつかできたらと思っているうちに適齢期を過ぎてしまっていた。きっとこのまま1人で生きていくんだろうなと、半ば諦めたような気持ちでいた。

転機が訪れたのは40歳の時だ。たまたま訪れたワインバーでアルバイトとして働いていた大輔と、お酒の話で意気投合した。ちょっとだらしない雰囲気はあったものの、年下だし、人のすごくいい笑顔が可愛らしく見えて、お付き合いが始まった。

最初は楽しかった。大輔は料理がうまく、疲れて帰ってきた私に毎日夕食を振る舞ってくれた。まさか自分がこういうタイプの男性と付き合うとは思っていなかったものの、それなりに楽しい毎日を送っていた。

そのうちに大輔はうちに転がり込み、そのまま成り行きで結婚した。これでいいのかなという気持ちがよぎったものの、このチャンスを逃したらもう2度と結婚なんてできないかもしれないという思いもあり、流されてしまったのだ。それが間違いの始まりだった。

結婚後から大輔は勤め先もやめ、夕食もたまにしか作らなくなってしまった。1日スマートフォンでゲームをするか、パチンコに行くかという日々。たまに知り合いの店の手伝いをしていたらしいが、稼いだお金はギャンブルに消えてしまう。

それから暴言も増えた。些細なことでどなられたり、嫌なことを言われたりすることが、信じられないほど増えた。しかし夜の営みはしっかり求められ、そちらの要求もどんどんエスカレートしていった。

「ゴムいらないよな。」

「え、一応つけようよ。」

「だってもう妊娠しないだろ。ない方が絶対いいからさ。」

その日を境に、避妊をせずに行為に及ぶことになった。こんなのは良くないと思いながらも、ようやく結婚できたんだ、少し我慢しないと、という気持ちが私を縛りつけていた。

そんな生活を送っていたある日、妊娠が発覚した。まさかこの年で子供を授かるなんてと驚いたものの、嬉しさの方が勝った。きっと大輔もこれをきっかけに変わってくれるだろう。子供ができることで夫婦仲が良くなったという話もよく聞くし、私たちも良い方向に向かっていけるはずだ。そう思って急いで家に帰り、大輔に報告をした。

「ねえ、大輔、聞いて。妊娠3ヶ月だって。」

「すまんねえ、冗談やめてくれって。それよりデリバリー頼むから、金貸して。」

「ちょっと真面目に聞いてよ。今日産婦人科に行ったの。そしたらおめでとうございますって先生から言われたのよ。びっくりしたけど嬉しいな。」

そう言うと大輔は目をまん丸にして私を見た。信じられないというような表情を浮かべて、私を凝視している。

「え、マジなの?」

「だからそう言ってるじゃない。貯金はあるし、3年くらい育休を取ろうかなって思ってるの。今まで仕事漬けだったしいいかなって。なるべく赤ちゃんのそばにいてあげたいし。」

ガンッとすごい音を立てて、大輔はテーブルを叩いた。私は驚いて声が出なくなってしまった。ゆっくりと顔をあげた大輔は、私が見たこともないような顔をしていた。

「ババーのガキなんて欲しくねえよ。気持ち悪いな。とっとと下ろしてこい。それくらいの金、パッと出せるくらい稼いでるだろう。」

半笑いでそう言い放った大輔の顔は、まるで悪魔のようだった。思いがけない形で授かった子供とはいえ、喜んでくれると思ったのに。私は頭の中が真っ白になる。何も言い返せずにいた私に向かって、大輔は追い打ちをかけるように叫んだ。

「大体、40過ぎて子供が欲しいなんてどうかしてるだろう。自分の体力考えろよな。それにお前には俺を食わせていくっていう大事な仕事があるだろうが。避妊してって言ったのにしなかったのはそっちじゃないか。」

「ババーが妊娠するなんて思うわけないだろ。気分悪い。出かける。」

大輔は伸びた金髪をかき上げて、嫌らしそうに部屋を出ていった。彼が行く場所なんて決まっている。きっと競馬かパチンコだろう。そしていつも通り大負けして、ヘラヘラしながら私に金をせびってくるに違いない。

私はその場にへたり込んで、お腹に手を当てた。お腹の中のこの子のためにも、私は負けるわけにはいかない。それにあんな男とこの子を育てていきたくもない。私は急いで荷物をまとめた。

3年後。

「公平さん、重くない?」

「大丈夫だよ。」

公平さんの腕の中に抱かれた我が子、マサは穏やかな寝息を立てている。公平さんとは、マサが生まれてから出会った。私と同じく仕事熱心で真面目な勤務態度で、部長まで登り詰めた人だ。仕事のことも子供のことも受け入れてくれて、この春ようやく籍を入れた。私の育休のことも快くOKしてくれて、私以上にマサに愛を注いでくれている。今日は結婚式の下見だ。

色々あったけど、ようやく幸せになれるんだと思いながら式場に足を踏み入れた瞬間、見覚えのある金髪が視界に飛び込んできた。

「え、直子、どうしたんだ?顔が真っ青だぞ。」

「うん、大丈夫。行きましょう。」

どうか気づかれませんようにと思いながら式場の中を進んでいく。ちらっと大輔の方を見ると、私よりも若く、全身をハイブランドで固めた女性の姿があった。あの男、まだヒモ生活を諦めていなかったのね、と思うと、大輔と目が合ってしまった。獲物を見つけたというような目で、大輔の表情が嫌な笑顔に変わっていく。出会った当初は可愛いと思っていた笑顔にも、もはや恐怖しか感じない。

「おい、お前、直子だよな。」

答えるのも嫌で、公平さんの袖を引き前に進もうとする。しかし大輔はずかずかとこちらに進んできて、私たちにしか聞こえないような声でささやいてきた。馬鹿にしたような笑みを浮かべながら。

「こりゃ傑作だな。ババーの相手はジジイ、ぴったりじゃん。こんな老人が親じゃガキがかわいそうだし。今からでも施設に入れてやればいいんじゃねえの?」

「ちょっと、大輔、受付終わったから行くよ。あ、ルミさん、ごめん。」

大輔は途端に猫なで声に変えた。ルミと呼ばれた女に飼い慣らされているのは明らかだった。近づいてきたルミは全身から香水の匂いをさせて、品定めするように私を見ている。そして私の横に立つ公平さんを見た瞬間、なぜか驚いたような表情を浮かべた。一体なんでそんな顔しているんだろうと考えていると、すれ違い様に大輔が耳打ちをしてきた。

「式場じゃなくて老人ホームの方がお似合いだから、ルミも驚いてんだよ。入所金はたんまりあるんだし、とっととそっち行けよな。」

言い返そうとしたものの、昔の記憶が蘇ってしまって動けなくなってしまう。どうしてあんなことを言われなくちゃいけないんだろう。あいつは自分では何もできない、ただのクズ男なのに。公平さんはそんな私の肩に手を置き、気遣ってくれる。その手の温かさと、目に飛び込んできたマサの寝顔に、私は涙が出そうになってしまった。

「嫌な思いをさせてごめんなさい。前に話したと思うけど、あの人がマサの実の父親で。何も言わなくていいし、気にしなくていいよ。直子は悪くないんだから。」

でも公平さんはそう言うと、なぜかニッコリと笑いかけてくれる。その笑顔は自信に満ち溢れていた。

「僕にいい考えがある。任せてくれないか?」

結婚式当日。たくさんの参列者の前で、私と公平さんは将来を誓い合う。マサも私のドレスの隣でニコニコとこちらを見つめている。こっそり手を振ると、小さな手で振り返してくれた。

「綺麗だよ、直子。」

「ありがとう。」

仕事一筋で生きてきて、散々な男に振り回されて大変な目にあったけど、やっと本当の幸せを手に入れられるんだ。誓いのキスの寸前、式場のドアが勢いよく開いた。

「直子いるんだろ?出てこい。」

式場スタッフの制止を振り切って飛び込んできたのは、やけに汚い格好をした大輔だった。しっかり染めていた金髪は半分以上黒くなり、服もボロボロ。そこまで距離が近いわけでもないのに、私のところまでアルコールの匂いが届くほどだ。

まさか結婚式まで台無しにするつもり?そう思った私は思わず叫んだ。

「どうしてここにいるのよ。」

「どうしてじゃねえよ。俺の幸せをぶち壊しやがって。黙れ、クソババア。」

「何の話よ。」

「直子、僕が話そう。」

公平さんが一歩前に出て、じっと大輔を見つめる。堂々とした姿勢に気圧されたのか、大輔はややまずそうな顔で一歩下がった。

「君の自業自得だろう、君は。」

公平さんの説明はこうだ。公平さんが務める会社は、ルミが経営する会社の取引先だった。1度だけ業界のパーティーで名刺交換をしたらしく、公平さんはルミの顔を覚えていたというのだ。あの時ルミが驚いたような表情を浮かべていたのは、そのせいだったらしい。そして公平さんはルミに大輔の正体を知らせるべく連絡を取った。その後、私が昔撮っていた大輔の暴言の音声を聞かせた。

「割り増し1万円くれない?3倍にして返すからさ。」

「ババーは金を運ぶくらいしかできないんだから。それくらいやれよな。」

当然それを聞いたルミは大激怒。ヒモよりも取引先を優先したルミは、その日のうちに大輔を家から追い出したらしい。

「残念だったな。」

「おい、ババア。全部お前のせいだろ。なんとかしろよ。」

その瞬間、私の中でプチンと何かが切れる音がした。

「見苦しい。」

言い返されると思っていなかったらしい。大輔は驚いて尻餅をついた。私はドレスの裾をぐっとあげると、大輔に近づいて叫んだ。今まで大輔にされてきた仕打ちを全部ここでやり返してやる。

「いつまでもあんたに怯えていると思ったら大間違いよ。恥を知りなさい。それに私のことをババアって言うけど、自分はどうなの?いい年して人に寄りかかってないで、いい加減自分の年齢を自覚しなさいよ。」

一瞬場が沈まり、帰るかと思ったが、すぐに参列者から拍手が起きた。拍手はどんどん広がっていき、ものすごい音になる。大輔はその拍手に気を取られている間に、警察に腕を掴まれて連行されていく。抵抗する気はないようで、大人しく連れて行かれていた。薄汚れたその背中は、やけに小さく、かわいそうになるほどだった。

これで全部終わったんだと、私はようやく肩の荷が下りたような気がしていた。

後日、私はマサと共に大輔の両親の元を訪れていた。彼はともかく、彼の両親には罪はない。だから月に1回マサの顔を見せるために連絡は取り続けていたのだ。大輔とは違い、2人は私にもマサにも丁寧に接してくれる。どうしてこの2人から大輔みたいな人間が生まれたのか不思議なほどだ。それとも彼らが優しすぎるせいで、大輔はあんなモンスターになってしまったのだろうか。今となっては知るよしもない。

お茶をいただいていると、お母さんが口を開いた。

「この前、大輔がうちに来たのよ。」

「大丈夫でしたか?」

「ええ、私たちももう面倒を見られないって言って追い出したんだけどね。大輔は今、家も仕事もなく孤独な生活を送っているのよ。そう、ミトの結婚が決まってからというもの、定職につかずフラフラと生活していたらしいの。しかも結婚すればお金に困らないだろうという考えで借金して高級車を買ったりギャンブルをしたりしていたそうで、その借金にも追われているのだとか。」

あまりの計画性のなさに呆れてしまうが、大輔らしいと言えば大輔らしかった。

「それに、直子ちゃんの結婚式でのことがテレビでも出たでしょう。」

「そうですね。」

あの日、参列者の中にスマートフォンで動画を撮っていた人がいたらしく、その動画がSNS経由で拡散された。その結果、最終的に全国ネットにまで上がってしまったのだ。私たちの顔は隠されていたものの、大輔の顔はしっかり映っており、そのこともあってバイトすら見つからない状態なのだという。

「あんなことがあったのに、直子ちゃんはマサをうちに連れてきてくれて、本当に感謝してるわ。」

「いえ、マサも楽しそうですし、こちらこそありがとうございます。まだ仕事は続けているの?今は育休中です。ちょっと長めにとって、この子の生活を優先しようと思っています。今の夫も本当に協力的ですごく幸せですね。マサ。」

マサに向かって微笑みかけると、満面の笑みを返してくれる。その笑顔に、今までの嫌な思い出なんて全部吹き飛んでしまった。

「なんでお母さんの葬式に来なかったのよ。」

次女のまなみからかかってきた電話に面食らう。ここ数年ずっと音信不通だったから心配していた私としては、声が聞けてとても嬉しいのだけれど、この人手なし、どうかしてるわよ。こんなに冷たくて気が利かない最低な人だったなんて。

えっと……この子は何を言ってるんだろう?母親である私に電話をしてきているのに。どういうこと?私、生きてるんだけど。やっとの思いで絞り出した言葉。それを聞いた瞬間、娘は。

話は少し前に遡る。夫と2人の娘の4人家族。マンションの日当たりも良い。ご近所トラブルもない。優しい夫に真面目な長女と可愛いらしい次女。喧嘩もたまにはするけれど、決定的なトラブルはない。我が家は絵に書いたような家族だった。昨年娘が2人とも成人し、残りの人生は自分のやりたいことを目一杯やって、夫の大輔と仲良く暮らしていくんだと思っていた。大輔の不倫が分かるまでは。

「じゃあ、ほら、挨拶も済んだし。行こう。」

「お父さん、ちょっと待って。」

「何だよ、その態度は。いいから早くしろ。」

実は咲を止めて、視線だけ夫に早く行ってと伝える。大輔は小さく頭を下げ、2人分の荷物を持って出ていった。残された私と長女の実はため息をつく。これで本当に私たち家族は終わったのだ。

大輔は変なところで几帳面なところがあり、不倫が分かったのもその几帳面が理由だった。会社用の鞄に、不倫相手といったホテルやショッピングモールのレシートが大量に入っていたのを偶然見つけてしまったのだ。問い詰めると、大輔はあっさり不倫を認めた。どうやら相手は取引先の女性で、不倫は数年間に渡るものだったらしい。目の前が真っ暗になってしまった私に、大輔は「子供が自立したから、その人と暮らしたい」と言った。引き止める気は少しも起きなかった。不倫をするような人とは一緒には暮らせないし、もう彼の心は完全に別の人のところに行っているのだ。

訴えるという考えがちらりと頭をよぎったものの、もう別れる人のために時間を費やすのがバカバカしくてやめた。離婚を決めた後は家族で話し合った。その結果、長女の実は私に、次女のまなみは大輔について行くことに決まった。元々まなみは大輔や大輔の両親に甘やかされていたので、その決断に驚きはなかった。

しかし当然、母親として寂しい気持ちはあった。だがもうまなみも20歳だ。1人の大人が考えて出した結論なら、母親のわがままで止めるわけにはいかない。実はそんな私の気持ちもお見通しのようで、今まで以上に優しく接してくれた。本当に信じられない。お別れの日くらいちゃんとしなさいよ。

「あの子、いいのよ。それより2人分の部屋が開いたから、使い道考えないと。」

心配をかけたくなくて明るい声を出したものの、内心まなみの態度に傷ついていた。私が無意識のうちにあの子を傷つけていたのだろうか。あの子にあんな態度を取られても仕方のないことをしてしまっていたのだろうか。それは夫の不倫よりもずっと私の心に重くのしかかった。

その後、数回だけ大輔側の親戚の集まりに参加しなければならなかった。大輔の親戚の法事が重なったためだ。実だけ行かせるわけにもいかずついていったものの、散々な目にあった。どうやらまなみが「離婚の理由はお母さんにある」と、いろんな場所で言いふらしているらしいのだ。すれ違い様にじろじろ見られたり、陰口を言われるのはまだいい方だった。大輔を可愛がっていたおじいさんから「ひどい嫁だ。この恩知らずが。大輔に土下座しろ」と大声で言われた時は、本当に心が折れそうになった。

しかし私を守ってくれたのは実だった。

「お母さんに謝ってください。そもそもお父さんがよそに女を作ったから離婚になったんです。」

毅然とした態度で言い切ると、おじいさんはごにょごにょ言いながら部屋に戻っていった。娘に頼るなんて情けないと思ったけれど、本当にヒーローに見えた。この子のためにもしっかりした母親でいようと決意した出来事だった。

数ヶ月後、夕食後、スマホを見ていた実が急に「うわっ」と大きな声を出した。私は家計簿をつけていた手を止めてそちらを見る。

「見てよ、これ。まなみのアカウントなんだけど。」

画面を向けられると、写真投稿がメインのSNSのページが開かれていた。そこには大輔とまなみと、知らない女性が海辺をバックに映っており、「ファミリー」というハッシュタグがついていた。つまり髪の長いこの女性は、大輔の不倫相手なのだろう。初めて見た不倫相手は、想像していたよりもずっと地味な人だった。「ファミリー」ということは、本当に大輔は再婚したらしい。しかし、思った以上に心が動かない自分自身に驚いた。

実は違うようで、画面をスクロールしながら噴き出している。

「こんなのわざわざ見るなんて、何のつもりよ。」

「まあまあ、あれでも投稿が1週間くらい前で止まってるよ。それまでは毎日アップしてるのに。」

実と話していると、家の固定電話が鳴った。嫌な予感がしつつ受話器を取ると、大好きな兄嫁だった。

「直子さんですか?すみません、急に。」

「いえ、何かありましたか?」

「それが……大輔君が亡くなったんです。不慮の事故で。」

ちょうど1週間前、大輔は事故に巻き込まれたらしい。生死の境を彷徨っていたものの、今日亡くなったそうだ。明後日、通夜を行うので、実と一緒に顔を出してくれないかというものだった。私は驚きつつも、会場と時間をメモし電話を切った。実に伝えると一瞬固まったものの、すぐに「分かった」と頷いた。

大輔の通夜は静かだったものの、すすり泣きがそこら中で聞こえた。なんだかんだ言って愛されていたんだなと切ない気持ちになったが、棺の横にいるまなみと不倫相手の姿を見て冷静になる。歩みを進めていくと、まなみがこちらを見て目を吊り上げた。

「なんでいるのよ。分かった、金目当てでしょ。」

「違うわ。ただ最後の見送りに来ただけよ。まなみ、顔も見たくない。私たちに関わらないで。」

「家族面してんじゃないわよ。」

兄嫁は止めようとしてくれたものの、他の親戚はまなみに味方するようにこちらに冷たい視線を向けている。私と実はさっさと焼香だけ済ませた。もう何も考えたくない、疲れていた。まなみにあそこまで言われたら、もうよほどのことがない限り会う機会もなくなるだろう。

実と一緒に簡単に夕食を済ませて、その日は眠った。

数年後、私と実は相変わらず平凡な生活を続けていた。実が昇進した時は奮発して2人で箱根旅行に行ったものの、贅沢をしたのはその1回くらいだ。あとは地味に堅実に暮らしている。

そんなある日の昼下がりのことだった。実も休みの日だったため家の片付けをしていたら、スマホが震えた。誰だろうと思い見てみると、そこにはまなみの文字が表示されていた。1度は切ってしまおうかと思ったものの、もしかしたら何かあったのかもしれないと思い、震える手で通話ボタンを押した。

「もしもし。」

「なんでお母さんのお葬式に来なかったのよ。この人手なし、どうかしてるわよ。」

その言葉に面食らう。数年ぶりに母親である私に電話をしてきているのに、何を言っているのだろう?

「どういうこと?私、生きてるじゃない。」

「は?そっちこそ何言ってるわけ?私が言ってるのは、あんたのことじゃなくて新しいお母さんのこと。」

そこでようやく合点が行く。新しいお母さんというのは、元夫の大輔の再婚相手だ。だが私には全く関係のない人だし、こんな風に責められる言われもない。黙り込んでいると、まなみは畳みかけるように怒鳴った。

「本当信じられない。そんなんだからお父さんにも捨てられるのよ。冷たくて気が利かない最低な人。そんな中古品なら、もらい手がつかないのは納得ね。」

まなみの言葉を聞き、一気に頭に血が登るのが分かった。確かに私は再婚どころか、恋人もいない生活をもう10年以上続けている。しかしそれは私が選んだことだ。恋愛も結婚も今の私にはいらないと確信しているからしていないのだ。それなのに勝手に決めつけて怒鳴って。しかしここで怒鳴り返しては、まなみと同じレベルになってしまう。

私は怒りを抑えながら、しかし分からせるわけにはいかないと思い、口を開いた。

「娘だからって、言っていいことと悪いことがあるのよ。」

「あら、そう。そんなことより、今からでも香典持って家に来なさいよ。来たら許してあげる。」

「関わらないでって言ったのはそっちよね。」

「それとこれは別でしょ。」

どんどんまなみはヒートアップしていき、めちゃくちゃな理論を言い続ける。「死んだ人に対して申し訳ないと思わないのか」とか、「今までの反省としてそれくらいの金を出せ」とか。聞いているうちに、こちらはどんどん冷静さを取り戻し始める。まなみが言い訳をするタイミングで、私はすっと言葉を差し込んだ。

「とにかく、出せないものは出せません。」

まなみが反論する前に電話を切った。どっと疲れてしまって、そのままソファーに横になった。

目が覚めると、実が私を覗き込んでいた。慌てて起き上がると、外は真っ暗だ。

「ごめんね。すぐご飯作るから。」

「いいよ、いいよ。そんなことだろうと思って、おかず買ってきたから。値引きシール貼られてるやつね。」

実は笑いながらスーパーの袋を見せてくれた。炊いたご飯と味噌汁を用意し、おかずを2人でつつく。

「そういえば今日、まなみから電話があったよ。お母さんが死んだとか、香典持ってこいとか、わけわかんないこと言うから、うちのお母さんは生きてますって言って切っちゃった。」

肩をすくめて驚いた顔を作る実を見て、ようやくさっきの出来事を笑い飛ばすことができた。

しかし数日後、またまなみから電話が来た。2回無視したものの、今まさに3回目の着信が来ている。これは取るまで終わらないのだろうと思い、覚悟を決めて電話に出た。

「お母さん。」

前回の電話が嘘のように、しょんぼりと涙声の声が耳に飛び込んできた。反射的に「どうしたの」と問いかけると、まなみが口を開いた。

「助けてほしいの。」

「助けてって、何かあったの?」

まなみの話では、不倫相手は散財家だったらしく、大輔の遺産を全て使い切ってしまっていたらしい。それどころか多額の借金があり、まなみに押し付けて逃げてしまっているのだとか。まなみはパニックになっているようで、不倫相手への恨み言を言い始めた。

かわいそうな気持ちになったものの、関わるなと言ってきたのはまなみだ。親戚に悪評を広げられたことや、通夜の時に言われた言葉を思い出す。周りが甘やかしたことでこんな風になってしまったのなら、これ以上甘やかすべきじゃない。私はスマホをぎゅっと握りしめた。

「あのクソ女、私に全部押し付けてねえ。」

「お母さん。今までのこと全部謝るから、助けてほしいの。お願い。」

「前も言ったけど、関わるなと言ったのはあなたよ。もう私にも実にも連絡してこないで。」

まなみの返事を待つ前に電話を切った。娘を切り捨てるようでやや後ろめたい気持ちはあったものの、先に刃を向けてきたのもあの子だ。それに私は私を守ってくれた実を守らなければいけない。まなみからの連絡は無視するように実にメッセージを打ち、スマホの電源を落とした。

数ヶ月後、私と実は公園を散歩していた。もう桜が満開だ。持ってきたお弁当を広げ、2人だけのピクニックを始める。大人だけでこんなことをするなんて、やや気恥ずかしかったものの、もうこの公園に来ることもなくなるだろうし、最後くらいいいだろう。私たちは貯金で一軒家を買い、来月引っ越すことになったのだ。

実が作ってくれた卵焼きを食べていると、「あっ」と実が声をあげた。

「まなみね、今、借金を返すためにバイトしまくってるんだって。」

「どうして分かったの?」

「どうも先日、大輔さんの兄嫁とばったり会ったらしく、まなみのことを教えてくれたらしい。不倫相手が残した借金は、到底1人では返しきれない額らしいけど、大輔側の親戚は見て見ぬふりをしているそうだよ。大輔の兄が少しだけ援助しようとしたものの、兄嫁が止めたらしい。1度助けると、これからもたかられてしまうかも、という理由だそうだ。」

「その判断は正しいと思うわ。」

結果、まなみは朝から晩まで働き、1人で暮らしているらしい。家事を全くしない子だったし、どうしているのかな。

「まあ、もう連絡来てないし、関係ないけどね。」

「そうね。」

黙り込んでお弁当を食べる。顔を上げると、うちのマンションが見えた。幸せな記憶もたくさんあるが、それと同じくらい辛い記憶も増えてしまった。長く暮らした場所を離れるのは寂しいものの、新たなスタートを切るためには、ここから離れるというのは絶対に必要なことだ。

「あ、それより来週、俊と食事会だからね。」

「分かってるわよ。楽しみだわ。実が恋人を紹介してくれるなんて。」

来週、実の恋人であり婚約者の俊介さんと会うことになったのだ。なんと彼は同居を希望しているらしい。すでに両親が亡くなっているそうで、施設に預けていた母親のそばにほとんどいられなかったことが心残りなのだとか。それで彼の方から同居を提案してくれたそうなのだ。

「お母さんさえ嫌じゃなければ、一緒にいる時間は長い方がいいから。」

それを聞いて、私は胸がいっぱいになった。実は本当に素敵な人を伴侶に選んだと思うし、この子が選んだ人となら私もきっとうまくやっていけるだろう。

「新しい生活、楽しみだね。」

「そうね。」

たくさんの桜の花びらが、まるで私たちの門出を祝福してくれているかのようだった。

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