「返してください。」
俺は何のことかと思い、相馬を二度見した。入社二日目の新人が、俺の目の前で平然とそんなことを言っている。
「俺の契約を返してください。横取りですよ」
相馬は大声で叫ぶように言った。この騒動を、部長である父親の耳に入れたいからだろう。
「どうしたんだ、相馬。笹島君、息子の契約を横取りしたのかね」
「ひどいですよ。僕が契約したのに」
俺は内心頭を抱えた。長年かけてようやく掴んだ大口契約が、たった一言で奪われようとしている。
俺の名前は笹島国、三十五歳。小さなメーカーで営業をしている。隣を歩くのは同い年で同じ会社の営業マン、佐川誠だ。今日の営業を終えて、会社へ戻る途中のことだった。
「なあ、笹島。今日から部長の息子が来るんだよな」
佐川の言葉で、俺はようやく今朝の朝礼でそんな話があったことを思い出した。朝に弱い俺は、朝礼の話を覚えていないことがよくある。完全夜型人間の俺をよく知る佐川は、気になる話があると教えてくれるありがたい友人だ。
「佐島、お前、以前から言ってる海外移住のこと、マジで考えてんのか?」
「もちろんだ。この国、生きにくいと思わないか? 俺は海外でのんびり過ごしたいんだ」
俺は日本の八時間労働制が心から嫌いで、会うたびに海外移住の話を佐川に披露してきた。そのための貯蓄も、新卒でこの会社に入ったその月からコツコツ続けている。
「佐川は住むとしたらどこがいいんだ?」
「そういう笹島はどこを狙っているんだよ」
質問に質問で返されてしまうが、俺は特に気を悪くせず自分の思うことを口にした。
「俺はオーストラリア一択だな。大学の卒業旅行で一度行っただけなんだけど、すごく自由な雰囲気だし、海が綺麗だし、一目惚れしたんだ」
「オーストラリアか。俺は行ったことないな。今日の帰りにでも本屋に行って情報を漁ってみるか」
佐川は笑顔でそう言った。俺と佐川は他愛のない会話をしながら帰社し、タイムカードを打ってそれぞれのデスクに落ち着いた。
これから取引先とやり取りしたことを日報に書かなくてはならないし、今日一日でもらった電話やメールを返さなくてはならない。地味な作業だが時間がかかる。だが、俺はこういう仕事が嫌いではなかった。結構、営業という仕事に向いているのかもしれない。
「よし、全員戻ったな。ではこちらに注目してくれ」
俺や佐川の直属の上司にあたる安藤営業部長がパンパンと二度手を叩くと、俺たちは部長のデスクの方へ体を向けた。
「今朝の朝礼で話した、私の息子の安藤相馬だ」
部長に紹介された息子の相馬は、部長によく似た若者だった。
「安藤相馬です。よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げると、どこからともなく拍手が聞こえ、俺も釣られて手を叩く。
「息子の指導は……そうだな、佐島君、やってくれるか?」
俺はドキッとしてその場に立った。まさか部長に指名されるなんて思ってもいなかった。
「承知いたしました。相馬さん、よろしくお願いします」
俺はこの時、教育という任務を甘く見ていた。
翌日、俺が出社時刻である九時少し前に出社すると、もう相馬が来ていて、俺に向かって体を直角に折り曲げてきた。
「おはようございます、笹島さん。今日からご指導のほど、よろしくお願いいたします」
俺は若いのによくできた子だなと、部長の方へちらっと視線を送ると、部長は満足そうに唇を弓なりにして笑っている。
「おはよう、相馬君。じゃあ今日は一日、俺の営業に同行してもらおうかな。そういえば相馬君の名刺はもう発注しているのかな?」
俺が問えば、すぐに相馬が自分の名刺を見せてくれた。何でも部長が相馬の入社前に総務に発注し、昨日できてきたのだそうだ。
「はい。全ては父のおかげです」
礼儀正しい子なのは分かるのだが、もう少し声のトーンを落としてもらえないだろうか。朝に弱い俺の耳に、相馬の大声はかなりきつい。
「おはよう、佐島。新人教育、頑張れよ」
佐川が俺の肩をこづいていく。誰かこのハイテンションな若者を俺の代わりに教育してくれないだろうか。朝っぱらから大声を聞かされた俺は、すでに消耗しつつあった。
そうして出かけた営業先では、相馬は大好評だった。ハキハキとしているし、明るくて前向きな印象を与えるところが評価されているようだ。俺は内心、この分なら相馬が俺から離れていくのも遠からぬ未来の話だなとほっとしていた。
その日のランチタイムのことである。
「あー、かかったるい」
昼食を取るために入ったファミレスで、相馬が突然椅子の背もたれに体重を預け、顎を天井に向けてそう言ったのである。数々の営業先で高印象を巻きまくっていた相馬とは別人のようだ。
「相馬君、どうしたんだい? 疲れたのかな?」
彼の言い方がちょっと悪役っぽく聞こえたのと、午前中の真面目な好青年という印象とのギャップに、気づけば俺は彼を気遣っていた。
「あんた、よくこんな仕事やってられるな。足は痛いし、顔面は疲れてきてるし。今日は営業終わりにしないか?」
なんと相馬の態度ががらりと変わり、俺に対してため口で話してきた。だが、彼の言い分を聞き入れるわけにはいかない。実は今日これから、大口の取引が決まりかけていて、最後の詰めに行く予定があるのだ。
「どうしても休みたいというのであれば、一人でオフィスに帰ってもらうしかない」
俺が相馬にそう話すと、彼は心からめんどくさそうに「一軒だけなら付き合ってやるよ」と答えてくれた。なんだか先輩後輩の立場が逆転してしまっているようだが、気のせいだろうか。
俺は昼食を取り終えると、「だるい」と連発する相馬を連れて、ファミレスの向かい側にある雑居ビルに入居している俺の客先を訪れた。俺はここでも新人の相馬を紹介してやり、相馬もまた「よろしくお願いします」と爽やかに挨拶して回っていた。
「佐島さん、ちょっと」
俺は取引先の契約担当の人に呼ばれた。彼は別室で話がしたいらしく、フロアの奥まった場所にある応接室を指差している。
「ああ、分かりました。相馬君、ちょっと大切な話をしてくるから」
俺は相馬を呼ぶとそう言い置き、応接室内へと入った。それから十五分くらい経過した頃だろうか。俺は応接室から解放され、手持ち無沙汰で待機する相馬と合流する。
「行こうか、相馬君」
俺と相馬は今日のところはこのまま帰社することになった。道中、相馬に「あの応接室で何をしていたんですか」と聞かれた。俺はどうしようか迷ったものの、嬉しさのあまり大口の契約が取れたという事実を明かした。
「それって金額にしてどのくらいなんだよ」
「五億だ。うちの年商の約半分だぞ」
「一攫千金ってやつか」
問われると、俺はそれは違うと否定した。この契約を取るために、俺は何年も取引先へと足しげく通い、信頼を勝ち取り、ようやく物にした契約なのだ。一朝一夕で取れるものではないのだと説明した。相馬は「ふーん」と気のない返事をするが、俺は明日から相馬とどう付き合っていくかの方に思考を持っていかれる。まさかこんなに態度が豹変するとも思っておらず、戸惑う一方だ。
俺が帰社してデスクに戻り、契約書類を整理していると、相馬が俺のそばにやってきた。
「相馬君、どうしたんだい?」
「返してください」
俺は何のことかと思い、相馬を二度見した。
「俺の契約を返してください。横取りですよ」
俺はしまったと思った。相馬は明らかに契約を横取りしようとしている。大声で叫ぶように言っているのは、この騒動を部長の耳に入れたいからなのだろう。
「どうしたんだ、相馬? 笹島君、息子の契約を横取りしたのかね」
「ひどいですよ。僕が契約したのに」
俺はどうしようかと内心頭を抱えた。というか、入社二日目にして息子に契約が取れると信じている部長の思考回路が謎だった。大口契約の喜びから一転、相馬によって俺の立場は窮地へと変化した。俺が取った契約を、僕が取った契約だと泣き喚く相馬。新人の相馬が大口の契約を取ってきたと信じて疑わない部長。そして長年かけてようやく取った契約を、相馬の一言で奪われそうになっている俺。そんなカオスな状況の中、佐川が帰社した。
「おい、何なんだこの騒ぎは」
佐川は受付のところにいる女子社員に話を聞き、事情を理解したらしい。
「部長、その契約は笹島君のものです。自分は彼が長い間、契約を取るために先方に足しげく通っているのを知っています」
佐川が毅然として俺の味方をしてくれた。しかし、我が子可愛さに頭が沸いてしまっている部長に、そんな正論が通じるはずもなかった。
「君も笹島君の肩を持つというのか」
「部長こそ、入社二日目の新人に億単位の契約が取れるなんて、本気で思っているんですか?」
「そうだ、できる。この子はやればできる子なんだ。眠れる獅子なんだ」
何が眠れる獅子だよ、と俺は馬鹿らしくなった。親バカもここまで来れば国宝級だろう。
俺は契約書類を一通りチェックし終えると、書類一式を相馬に渡した。
「おい、佐島、何してるんだ?」
「いや、もういいかなって。俺、新卒でここに入ってから十年以上経つけど、ここまでアホらしいと思ったことはないんだわ」
「退職とか言うな。落ち着いて考えろ」
「落ち着きは随分前に取り戻しているから、心配いらない」
俺は佐川にそう言った。
「部長、俺、会社やめますよ。俺が取った契約は相馬君に引き継げばいいんですよね」
「その契約は相馬のものだ。自分の手柄のように言うんじゃない」
俺は「勝手にしろ」とばかりに肩をすくめ、書類を相馬のデスクの上に置いてやった。
「じゃあ後は頼むな、相馬君」
「あ、ありがとうございます。契約を返していただいて、ありがとうございます」
相馬はまるで米つきバッタのように何度も俺に頭を下げてきた。
「じゃあ佐川、俺は一足先にオーストラリアで待ってるわ」
俺は部長に、退職届は後日郵送すること、有給消化をさせてほしいこと、退職金の支払いをすることの三点を念押しして会社を出た。
それから一週間が経過した。俺は今、有給消化中なので毎日ぼんやり過ごしている。まだ正式に退職したわけではないので、会社支給の携帯電話やタブレットはいつでも使えるようにしてあった。
そんなある日のこと、俺の会社携帯とプライベートのスマホに会社から鬼電が入った。会社には電話が二回線あるが、両方使って俺に電話をかけているようだ。放置しておこうかとも思ったが、二つのスマホが同時に鳴るとかなりうるさい。俺はプライベートの方の電話の電源を落とすと、会社携帯で応じた。
「笹島です」
「笹島君か。今すぐ帰ってきてくれ。大変なことになっているんだ」
やっぱりあの件が引っかかったのかと、俺は内心辟易した。
「お断りします。あれは相馬君の担当なんですよね。相馬君に何とかしてもらえばいいと思いますけど」
「佐島さん、冷たいことを言わないでください。どうしても来ていただきたいんです」
俺は相馬の必死な声を聞き届けると、一方的に電話を切り、電源を落とした。そしてプライベートの携帯を立ち上げる。電話はまだ鳴っており、普段は温厚主義の俺もさすがにカチンと来た。
「ちょっと、何回もしつこいですよ」
俺が怒ると、電話の向こうから落ち着き払った声が聞こえた。
「佐島君、すぐに出社するように。これは社長命令だ」
俺はスーツに着替えて急いで出社すると、電話での指示通り社長室のドアを二度ほどノックした。中から「どうぞ」という声が聞こえ、俺はドアを内側に開いた。だがそこで動きが止まった。
デスクには社長が落ち着いている。それは構わないのだが、簡易応接には部長と相馬が今にも泣き出しそうな顔をして並んで座っていたのだ。俺は帰りたくなったが、仕方なく後ろにドアを閉め、社長の姿だけを視界に入れた。
「社長、お呼びでしょうか?」
俺は深く頷く社長の前に立った。
「話は二つある。まず君がずっと温めていた五億円の契約のことだ。安藤相馬君が取った契約だと騒がれているが、事実なのか」
俺はちらっと相馬の顔を見てから、社長の方へと向き直った。
「いいえ、違います。先方に確認していただければ分かるかと思いますが、あれは私が取った契約です」
社長は一つ大きく頷いた。
「あの契約書類には不備があった。君はそのことに気づいていたか?」
「なんとなくではないかとはしていました」
そこまで言ったところで、応接に控えていた親子から不満の声が上がった。知っていながら黙っていたのはずるいとか、人でなしだとか、放題言ってくれている。
「二人とも黙りなさい」
社長が一喝すると、親子は押し黙る。蛇に睨まれたカエルだな、と俺は思った。
「私としては、君に復帰してほしい」
「では、あの契約は私が取ったものと認めていただけるのですね」
社長によれば、相馬の手柄にされていた契約は相馬のものではないと、佐川から何度もしつこく訴えられたそうだ。最初は半信半疑だった社長も、ようやく調査をしてみようという気になり、数年前の営業日報などをめくって、やっと俺の実績だと理解したのだそうだ。
「社長は今回の契約をどうしたいのですか?」
「もちろん実行したい」
それはそうだよな、と俺は内心思った。経営者とすれば、そういう判断を下すしかないだろう。そこで俺は駆け引きをしてみようと思いついた。ここで社長が勝てば俺は復職する。そうでなければ復職せずにオーストラリアへ行く。こんな風に人生を決めるのも、たまにはいいかもしれない。
「では、私から条件を提示させていただきます」
俺は背筋を伸ばし、社長に対して条件を突きつけた。
「安藤部長及び相馬君の解雇が、私からの条件です」
どちらを選ぶかを選ぶか。社長はきっと迷うだろうな、と俺は思いながら来た道を帰るのだった。
「お前、今日会社に来たんだって」
その夜、佐川が俺に電話をしてきた。
「まあな。悪いんだけどさ、俺、これからのことを決めた」
俺は佐川にそう打ち明けて、電話を切った。
翌日、俺は成田空港にいた。大きなスーツケースと、荷物を詰め込みすぎて相当重くなったボストンバッグを持っている。
「おい、佐島」
チェックインカウンターに向かおうとした俺の背後から、佐川の声が追いかけてきた。俺は立ち止まって後ろを向き、走ってくる佐川と向き合う。
「お前、本当にそれでいいのか? 社長はあの二人を解雇しようとしているんだぞ」
「どってことない。なんと言っても念願のオーストラリア暮らしができるんだしな」
「待っててくれ。俺もいずれ後を追うからな」
それから三日が経過した。オーストラリアのケアンズにいる俺は、ビーチでエメラルドグリーンの海を眺めながら読書していた。だがそこでまた電話が鳴り始める。国際電話なのによくかけてくるよな、と思いながらも応じてみた。
「君は知っていて、あんなことをしたのかね」
「そうだ」
俺はそう答える。元々俺のものだった大口の契約は、契約時に先方が実員でなく認印を押印していた。当然、添付書類にある委任状とは印影が違っており、うちの本部で契約を受理できない。部長と相馬はそのことに気づき、先方に言ったはいいが、「笹島さんとしかお話ししません」と門前払いを食らい、俺を頼ってきたのだった。だが、今日はそれとは別の要件で電話をしてきたはずだ。
「あれは会社間の契約じゃなかったのか? 先方は君と会社の取引だと言っているぞ」
俺は唇を弓なりにして、バッグの中から一枚の契約書を取り出した。これは先日社長に呼ばれて出社した帰りに、取引先に立ち寄り、事情を話して手に入れた、俺と先方の間に成立した貴重な契約の証だった。
それからしばらくして、俺は佐川から電話をもらい、部長と相馬が退職したと聞いた。億の契約を消滅させたばかりではなく、俺個人に持って行かれたのだから、そういう処分が下っても文句は言えないだろう。
「そろそろ帰ってきたらどうだ? 社長が待ってるぞ」
そう言われると、俺としても弱い。なんと言っても社長には、新卒でなかなか就職できなかった俺を拾ってもらったという恩がある。
「お前には部長を任せたいと言っている」
「冗談じゃない。管理職はお前がやれよ」
俺はしょうがないから日本に戻って復職するとしようかな。残念ながらオーストラリアを満喫するのはもう少し先の話になりそうだ。部長と相馬がいなくなった会社になら戻ってもいいかな、という気持ちが湧き上がる。俺はホテルの一室でパソコンを開くと、帰りの便の予約をするために検索を始めるのだった。
日本に帰国した俺を待っていたのは、部長の椅子だった。安藤部長と相馬は退職してからなかなか仕事が見つからず、今はビルの清掃員として親子で働いているそうだ。まあ、あの悪の強い親子を雇う会社はそうないだろう、と俺は思った。
「君が億万長者であることを知っているのは、私と君、そして佐川君だけだ。やってくれたな、笹島君」
俺は有給消化を済ませていたので、一旦退職扱いとなり、今部長としての労働契約を交わし、これからもこの会社のために必死に働いていこうとやる気が満ち溢れている。



