雪嵐の吹き荒れる真冬の夜、老いた夫婦は我が子に家を追い出され、行く当てもなく山道を歩き続けていました。杖にすがる総兵と、その腕にしがみつく妻のお雪。二人を待っていたのは、村外れの山際にぽつんと立つ、屋根の半分も落ちた崩れかけの小さな小屋だけでした。吹き抜ける風は外と変わらぬ寒さをもたらし、二人は凍え死ぬことは覚悟しながら、せめて風の当たらぬ隅に身を寄せ合っておりました。
総兵が懐から取り出したのは、お雪が嫁いできた時に持たされたという、擦り切れた古い羽織一枚。これを広げようとした時、お雪の手がそっとそれを制しました。一瞬の逡巡の後、お雪は静かに頷き、その羽織を身に付けることを夫に許したのです。
その時でした。総兵の目に、崩れた壁際で縮こまる小さな人影が映りました。最初は雪の塊かと思いましたが、よく見ればそれは一人の少年。十三、四歳ほどのその子は、擦り切れた帷子一枚を纏うばかりで、唇は紫に変わり、目は閉じられ、凍りついた小さな手で何かを固く握りしめていました
総兵が駆け寄り手の甲を当ててみると、石のように冷たいのですが、かすかに息の気配があります。生きているのです。振り返ると、お雪もすでにその子を見つめていました。二人の間に言葉はいりませんでした。お雪は羽織を持ち上げ、その擦り切れた一枚をそっくりそのまま少年の体にかけてやったのです
自分たちにも一枚の羽織が必要な夜でした。しかしお雪は迷いませんでした。総兵は己の体で、妻とこの少年、両方の風に立ち続けました。背中に受ける風は歯のように鋭く、骨身に容赦なくしみ込みますが、歯を食い縛ってその場を動きませんでした。腕の中に守るべきものがあるという思いが、老人の足を地に踏みとまらせていたのです
少年は何度か薄く目を開けましたが、まだ自分がどこにいるのかも分かりません。ただ耳の奥に届く声だけを聞いていました。「私たちも、どこにも行く宛てがないのですね」という、かすかな声。「それでも、こうして雨風をしげる場所があるだけましだ」という、応える声。少年はその声を聞きながら、この二人もまた、自分と同じく帰る場所を失った者たちなのだと悟りました。冷たい体の奥に、ほんの小さな火が灯るような心地がしました
翌朝、少年は日の出前に小屋を出て、村へと降りていきました。そして、病の小屋で動けぬ老婆のために食べ物を乞うたのです。酷い言葉を投げられることもありましたが、それでも恨み事一つにせず、また別の家の戸を叩きました。ある貧しい百姓の家では、年寄りの女房が芋を半分だけ分けてくれました。「すまぬが、これだけしかないのだ」と手渡してくれたその温もりを、少年は忘れませんでした
総兵とお雪は、この少年・鉄之助が、手に入れた食べ物をまず自分たちに差し出し、自分は空腹に耐える姿を、何度も見守ってきました。ある夜、総兵は自分の枕元に置き直された握り飯を見つけました。「これはお前が食べるものだ」と押し戻すと、少年は俯いたまま何も言いませんでしたその夜、総兵は初めて心からの情を込めて、その名を呼びました。「鉄之助、よく励んでくれた」と
日が経つにつれ、鉄之助は自然と老夫婦を「おばあ、おじい」と呼ぶようになりました。お雪の熱がぶり返した時は、薬を求めて夜も明けきらぬうちに村へ駆け出しました。医者は金がないと薬を渡しませんが、鉄之助は玄関先に座り込み、働くと申し出て、滝を割る重い斧を振り下ろし、ようやく一服の薬を手にしました
しかし熱は下がってはぶり返し、鉄之助の頬は痩せこけていくばかりでした。ある日、村から小屋へ戻る道すがら、旅の薬草売りと出会いました。鉄之助が病の様子を語ると、薬草売りは言いました。「必ず治るとは言えぬが、熱を沈め、胸の苦しさを和らげる薬草なら心当たりがある。あの崖の難面、他には何ひとつ生えぬ岩の隙間に、わずかに根を張るものだ」と。しかしその崖は、名うての漁師でさえ足を滑らせて命を落としたことのある恐ろしい場所だと言うのです。「子供一人では、とても無理だ」と薬草売りは繰り返し首を振りましたが、鉄之助はお雪の命が明日を待てぬかもしれぬと思うと、いってもたってもいられませんでした
少年は薬草売りの手を振りほどき、そのまま北の岩山へと駆け出しました。山全体が巨大な岩の塊でできており、灰色の岩が天をつくようにそびえ立ち、その隙間からは冷たい風が絶え間なく吹き抜けています。急いだばかりに、途中で道を誤り、北側の斜面へ入り込んでしまいましたが、かすかに残る自分の足跡を探りながら、何とか南側へと向きを変えました
崖の南側の車面は、山の背を越えてようやく見えます。鉄之助は素で岩を掴みながら登りました。雪の積もった岩は滑りやすく、息を吸うたびに凍った空気が喉の奥まで刺さります。指先から血が滲んでも、膝が岩に擦れて避けても、登り続けました。中腹あたりまで来た時、踏んでいた岩のかけらが突然崩れ、体が崖から離れて宙に浮きました。反射的に伸ばした指が、突き出た岩の縁に引っかかりました。指の節が真っ白になるほど必死にぶら下がり、何とか足先で岩の割れ目を見つけて体を支えました
しばらくそうして目を閉じた後、再び登り始めました。そして崖の割れ目に、他には何ひとつ生えていない乾いた岩の隙間に、一本の細い草を見つけました。歯の縁が赤味を帯びた、それは確かに目的の薬草でしたが、感覚を失った指で挟んだ途端、危うく取り落としそうになり、慌てて袖の内側に押し込むようにして懐へとしまい込みました
下りは登り以上に困難を極め、膝を岩に強く打ち付け、足を引きずりながら、夕暮れの山道を小屋へ向かってよろめき、一歩また一歩と進みました。小屋にたどり着いた時、総兵は入口の前に立って待っていました。全身ちみまみれの少年の姿を見るなり駆け寄り、その腕を掴みましたが、鉄之助は懐から薬草を取り出して差し出しました。自分の傷よりも、自分たちの痛みよりも、その小さな握りの草の方が先だったのです
総兵は鉄之助を抱き止めて小屋へ運び入れ、手当てを始めましたが、破れた着物の胸元から、古い巾着がこぼれ出ました。少年が肌身離さず手放さなかったあの巾着ですぎ擦り切れて破れ、中から鈍く光る物が転がり出ました。それは小さな会見でした。子供が身に付けるには不釣り合いな、しっかりとした作りで、さやの頭には雲の中に翼を広げた鳥、おそらくは法王の紋が聖地に打たれていました
総兵は尋ねましたが、鉄之助は「拾ってくれた老婆から、身につけていたものだから決して手放すなと言われていた」とだけ答えました。さらに問うと、鉄之助はこう語りました。八年前、黒岩に近い山道で倒れていたところを救われたのだと
翌日、総兵は初めて一人で村の市へと降りていきました馴染みの物を求めながら町を歩いていると、寺の門前に一枚の紙が張られているのに気づきました。ある家が、八年前に行方知れずとなった孫を探しているという尋ねで、見分ける品として「さやの頭に雲と鳳凰の家紋を打った会見がある」と書かれてありました
総兵はその場に立ち尽くしました。震える手で懐を探ると、布に包まれたそれ が指先に触れます。この知らせを届ければ、鉄之助はきっと恵まれた暮らしを取り戻すことができましょう。しかし同時に、あの子を手放さねばならぬかもしれぬという思いが、齢七十の胸を締めつけました
総兵は一晩じっとりともせず考え抜きましたが、やがて心は定まりました。「この子の行末を思うなら、真実を届けねばならぬ」と
翌朝、総兵は名主に案内され、桶の屋敷へと向かいました。事情を聞いた髪桶は、顔色を変えてすぐさま奥へと駆け込み、やがて自ら出てまいりました装いも鮮やかな、しかし頑丈だけは鋭い老人です総兵が布みを広げ、会見と巾着を差し出すと、髪桶の顔色が真っ白に変わりました。「その子の左の肩に、三日月の形をした痣はないか」と
さらに年頃と、老婆に拾われた場所と時期を、一つひとつ細かく確かめました。それを終えると髪桶は、その日の夕暮れ前には、家来を連れて病の小屋へとやってまいりました。懐には、亡き娘が鉄丸を授かる時、いつも枕元で鳴らしていたという、古い鈴のついた守り袋を携えて
小屋の前にたどり着いた時、鉄之助は夕餉の火を起こすため小枝を集めておりました。髪桶は足を止め、しばらくその姿を見つめておりましたが、やがてゆっくりと歩み寄り、鉄之助の前に膝をつきました。そして古い鈴のついた守り袋を、少年の目の前にそっと差し出しました
その鈴の音を耳にした瞬間、鉄之助の胸の奥が不意にざわめきました。「鉄丸」と呼ぶ、優しく、しかしどこか切ないような女の声が、遠い記憶の底で聞こえた気がしました
髪桶は少年の両手を取り、「左の肩の痣を見せて欲しい」と頼みました着物の袖をめくると、そこには確かに三日月の形をした痣がありました。「自分こそがお前の祖父である」と、髪桶は目から涙を溢れさせながら言いました。「お前こそ、八年前に見失った、我が孫なのだ」と
ところが鉄之助は差し伸べられた手を取らず、代わりに振り返って、小屋の入口に立つ老夫婦を見つめました。そしてゆっくりと歩み寄り、二人の前に立つと、涙をこぼしながらこう言いました。「たとえ血は繋がっておらずとも、この二人は私にとって親でございます。小さな声でかけてくれた、あの羽織がなければ、あの冬の晩、私はすでに命を失っていたに違いない。だから、私は置いていくことはできませぬ」と
その場にいた全ての者が言葉を失いました。総兵が前へ進み出て、鉄之助の肩を掴み、その体を髪桶の方へ押しやりましたぎ「早く行け、良い場所で良いものを食べてください」と「自分たちの心配はせずとも良い。お前のおかげで、わしらは命をつなぐことができた。それで十分だ」と
しかし鉄之助は首を横に振り、総兵の手を握って放しませんでしたぎ二度も三度も押し合っては、また握る。それが繰り返されました。生涯涙を見せまいとしてきた総兵の目からも、ついに涙がこぼれ落ちました」
髪桶はその光景を、ずっと見つめておりましたぎそして、ゆっくりと歩み寄り、鉄之助の手が握る総兵の手の上に、自分の手を重ねました。その上に、お雪の震える手がそっと重なりましたぎ四人の手が、そこで一つに重なり合ったのです
「この二人も、共に屋敷へ連れて行こう」と、髪桶は言いました。「この子がこの二人を親と慕うのなら、自分もまた、そのように敬うのだ」と
その言葉が落ちた瞬間、鉄之助はようやく声を上げて泣きましたぎ答えに答えていたものが、一度に溢れ出る鳴き声でした」空腹だった日々も、村で嘲られた日々も、崖で手が滑ったあの瞬間も、それら全てがその涙と共に溶けていくようでした
その晩、一行は連れ立って山を降り、桶の屋敷へと向かいましたぎ用意されていた駕籠は一つだけでしたが、鉄之助は体の弱ったお雪をその駕籠へ乗せ、自分は蒼兵の傍らを歩くと申し出ました
屋敷での生活が始まり、春が訪れると、お雪の体は少しずつ力を取り戻していきましたぎある朝、鉄之助が名も知らぬ一輪の花を差し出すと、お雪は嬉しそうに笑い、「これでようやく春が来たのだ」と呟きました
やがて髪桶の計らいで、総兵には新しい仕事場が用意されましたぎ総兵はそこであの雪の夜、持ち出せなかった未完成の層を、再び仕上げ始めましたぎそして、もう二度と手が届かぬと思われたあの音が、再び響き始めたのです
鉄之助は総兵に弟子入りし、木の選び方、糸の張り方を少しずつ学び始めましたぎやがて秋、総兵は長い歳月を経て、あの層を完成させましたぎ鉄之助もまた、初めての小さな稽古用の層を仕上げましたぎそれは素朴なものでしたが、糸を引いた時になる音は、寸分の狂いもない美しいものでした
鉄之助はそれを両手に持ち、お雪の前に膝をついて差し出しましたぎお雪がそれを受け取り、指先でそっと糸に触れると、澄んだ音が秋の空気に流れましたぎその音を聞いた総兵は仕事場から、髪桶は縁側から出てまいりましたぎ三人がその音に耳を済ませる中、一陣の風に舞った紅葉が一枚、鉄之助の肩にそっと乗りました
総兵はゆっくりと歩み寄り、鉄之助の頭にそっと手を置きましたぎその手が、全ての言葉の代わりでしたぎ「よくやった」という意味で、「ありがとう」という意味で
その後、鉄之助は髪を支える傍ら、総兵から受け継いだ事にも励み、やがて名の知れた職人となりましたぎその後も冬になると、度々あの病の小屋を訪れ、崩れた屋根の下にしばし佇んでは、あの雪の夜の温もりを胸に刻み直したと言います
雪の夜に救われた一人の少年の真心が、血の繋がりを超えた家族を結び、長い冬の果てに、掛け替えのない温かな春を呼び込んだのでございます



