午前5時10分。天井のシーリングライトを見つめながら、松崎公平は今日が何曜日かを思い出そうとした。木曜日、6月の雨の木曜日。それだけで十分すぎるほど憂鬱だった。
千葉県の海沿いの町、目立たない団地の一室。68歳の彼はそこでひっそりと生きていた。スーパーの夜間倉庫係として、週5日、夜11時から朝7時まで働く。指示書の通りに手を動かし、黙々と体を使う。それが彼には合っていた。
引き出しの上の封筒、それは松崎公平の静かな世界を確実に変えていった
ある雨の朝、帰宅した松崎公平は玄関ドアの郵便受けに白い封筒が挟まっているのを見つけた。右上に太い赤いスタンプ。差出人は住宅管理局だった
部屋に入り、封筒を開けた。中には通知書が入っていた。内容を理解するのに時間がかかった。彼の住む団地の賃貸契約における身元保証人だった坂口県一郎が、先月の5月12日に亡くなったこと。それに伴い、保証人を親族に更新する義務が生じたこと。更新に必要な書類は、一親等の親族による署名と押印を得た保証書であること。提出期限はこの通知の受領から15日以内、期限内に更新がなされない場合、賃貸借契約を解除する手続きに移行すること
松崎公平は神から目を離した。坂口が死んだとは知らなかった。埼玉の会社で働いていた頃の同僚で、定年後にこちらへ引っ越すと決めた時、保証人を頼める人間型に思い当たらず、坂口に連絡を入れた。坂口は二つ返事で引き受けてくれた。それ以来、ほとんど連絡は取っていなかった
「一親等の親族」という言葉をもう一度頭の中で繰り返した。彼には親はもういない。子は一人いる、柴田譲る。横浜に住む息子だ。5年間、一度も顔も見ていない
松崎公平は通知書を丁寧に三つ折りにし、封筒に戻した。茶ブ台の横のプラスチック製の引き出しにそれを入れた。それだけだった。弁当を温めることも、テレビをつけることもせず、ただ茶ブ台の前に座り続けた。雨の音だけが部屋に満ちていた
5日が経った。梅雨の雨はやむ気配を見せなかった。松崎公平はほとんどいつも通りに過ごした。夜11時に家を出て倉庫で働き、夜明けの道を歩いて帰る。帰れば見切り品の食べ物を食べ、布団に入る。眠れないまま午後を過ごし、また夜になれば出勤する。ただ、指が止まらなかった。無意識に右手のカブトを左手の指でこすっていた
6月18日、木曜日の夜、倉庫に新しい商品が大量に届いた。飲料のケースが30箱以上、野菜のダンボールが15個、冷凍食品の荷物がトラックに大分あった。それを3人で仕分けて棚に補充する。その夜、同じシフトに21歳の男が一人いた。クワ原という、この春から入ってきたアルバイトだった。背が高く、髪を明るく染め、返事はするが作業は遅かった。無駄な動きが多く、確認を怠るせいで仕分けミスが多発した
午前2時過ぎ、クワ原がフォークリフト用のパレットをエレベーターの前に雑に置いてその場を離れた。松崎公平はパレットを動かそうとして、上に積まれていた飲料ケースが不安定になっているのに気づいた。ケースが倒れる前に体を使って支えた。肩に重さがぐっとかかった。その時、クワ原が戻ってきた。彼は倒れかけたケースを支えている松崎公平を見たが、謝るでも手を貸すでもなく、軽く舌打ちをして通り過ぎながら言った。「ちゃんと積んどけよ。俺が積んだのに倒れたみたいじゃないか」
松崎公平は何も言わなかった。ケースを壁際に安定させ、検品表のクリップボードを持ち直した
午前4時を回った頃、クワ原はスマートフォンを取り出してポケットの中でいじりながら作業していた。それが原因でまた仕分けにミスが出た。違う区画に入れた商品を松崎公平が気づいて黙って直した。クワ原はそれを見ていって「すみません」と言ったが、声に申し訳なさはなかった。続けて、誰に言うともなく呟いた。「年寄りって細かいよな」
松崎公平は聞こえないふりをした。聞こえていた。耳の奥まで届いていた。だが顔には出さなかった。出してはいけない。この職場で感情を出してはいけなかった
午前7時、勤務が終わった。従業員出口の前でクワ原が別のアルバイトの若い女性と笑いながら話していた。松崎公平はその横をすり抜けて外へ出た。誰も声をかけなかった。外はまた雨だった
歩き始めて3分ほどで、彼は立ち止まった。気がつくと足が団地の方ではなく駅前の方向へ向いていた。引き出しの中の封筒のことが頭にあった。15日間という期限の中で、今日で5日が過ぎた。残りは10日だ
駅前のロータリーを過ぎた辺りで、緑色の公衆電話ボックスが見えた。古い方のもので、プラスチックの屋根が黄ばんでいた。松崎公平はそこで足が止まった。彼は折りたたみ式の携帯電話を持っていたが、今日はそれを使う気になれなかった。正確には、携帯の画面に発信履歴が残ることが嫌だった。公衆電話なら番号が相手側に表示されないことは知っていた
ボックスの中に入り、受話器を持ち上げると発信音がした。財布から10円玉を4枚取り出した。番号をボタンに入力した。7桁の番号を彼は覚えていた。5年間一度もかけなかったが、忘れたことはなかった
呼び出し音がなり始めた。1回、2回…3回目の途中で電話が繋がった。男の声がした。声は低くなっていた。5年前より少し落ち着いた感じがしたが、早口なのは変わっていなかった。背後に子ども高い声と食器がぶつかるような音がした
「もしもし。誰ですか? ”
譲るの声だった。朝の忙しい時間帯に知らない番号からかかってきた電話に出た人間の声だった。「ちょっと待って」とゆずるが子供に言っているのが聞こえた。松崎公平は唇を動かした。何かを言おうとした
「もしもし。いたずらですか? ”
譲るの声にわずかに苛立ちが滲んだ。その時、後ろで女性の声が大きくなった。「あなた、牛乳だ、保育園の連絡どこに置いた」と言っているのが受話器越しにはっきりと聞こえた
「もしもし。誰ですか? 要件があるならはっきり言ってください」
松崎公平は深く息を吸った。声を出した
「俺だ」
1秒か2秒か、電話の向こうが沈黙した
「ええと…」
「いや」と松崎公平は言った。声は思ったより落ち着いていた「何でもない。掛け間違えた」それだけ言って受話器を置いた
ガチャという音が電話ボックスの中に響いた
しばらく動けなかった。電話ボックスの中に立ったまま外の雨を見ていた。全員がどこかへ向かっていた。誰も電話ボックスの中の男を見なかった
松崎公平はガラスドアを押して外へ出た。傘を差して歩き始めた。「俺だ」と言った。5年ぶりに息子の声を聞いた。そして5年ぶりに自分の声を息子に届けた。それだけだった。保証人のことは一言も言わなかった
頼み事を口にするところまで行けなかった。「行けなかった」というより、あの女の声が聞こえた瞬間に何かが止まった。保育園の連絡、牛乳、子供の鳴き声。そこに自分が割り込んで保証人になってくれと言う、今日の朝の忙しい台所に、それができなかった
10日目の朝、松崎公平は区役所へ行くことに決めた。決めたというより、もう他に動ける方向がなかった。残りの5日間で自分一人でできることをやるとすれば、行政の窓口へ行くしかなかった
朝の9時に家を出た。押し入れの奥から、薄いグレーのジャケットを取り出した。何年も来ていないが、クリーニングに出してからしまっていたのでシワはなかった
区役所はバスで20分のところにあった。バスの中は開いていた。区役所の建物は古いコンクリートの4階建てで、入り口の自動ドアのゴムの縁が剥がれかけていた
中に入ると番号札を取る機械が正面にあった。入口近くの総合案内に若い男性職員が一人いた。松崎公平は近づいて声をかけた
「あの、住宅の保証人に関することで伺いたいことがあるのですが」
自分でも気づかないうちに声が小さくなっていた。職員は顔をあげて、「住宅係は2番窓口になります。番号札をお取りになってお待ちください」とマニュアル通りに答えた
87番を取って待合いスペースに入った。プラスチックの椅子が20脚ほど並んでいて、その半分ほどが埋まっていた。白発の老人が多かった。空気は生暖かく、人の体温と古い汗の匂いが混じっていた
30分ほど経って、87番が呼ばれた。2番窓口の前に立つと、ガラスの仕切りの向こうに30代前半といった女性職員が座っていた。紙をきっちりとまとめのジャケットを着ていた
「先日こちらから届きました通知なのですが」と言いながら、窓口のトレーに封筒を置いた
女性職員は封筒を取り、中身を出した。目を走らせる速さが早かった。慣れているのだとは分かった
「坂口県一郎さんが保証人でいらっしゃったんですね」
「はい。5月に亡くなられて、保証人の更新が必要になっていると」
「そうです。親族の方はいらっしゃいますか?

”
松崎公平は1秒だけ間を置いた
「息子がおりますが、遠方に住んでおりまして」
「息子さんに保証人になっていただくのが一番スムーズなのですが、それは難しい状況でしょうか」
「事情がありまして」
それ以上は言わなかった。女性もそれ以上は聞かなかった
「例は、民間の保証会社をご利用いただくという方法があります」と女性は言い、引き出しから1枚の紙を取り出した。「こちらが市が連携している保証会社の一覧になります」
「費用の目安はどのくらいになるでしょうか」
「各社によって異なりますので直接問い合わせいただくことになりますが、一般的には初回で15万円前後、年間の更新費用が別途かかることが多いです」
15万円。松崎公平はその数字を聞いた瞬間、表情を変えないようにした。顔に出ないよう息をゆっくり吐いた。通帳の残高は5万円を少し超えたところだった。今月の給料日はまだ先だ
「低所得者向けの支援制度のようなものはございますでしょうか」
「住民税非課税世帯に該当される場合は、費用の一部を補助する制度がございます」と女性は言い、また引き出しから書類を出した。「ただしこの補助申請には、扶養義務のある親族の方が経済的支援を行えない状況であるということを証明していただく必要がありまして」
「証明と言いますと? ”
「息子さんなど一親等の親族の方に書面で署名と押印をいただく必要があります。扶養が困難であるという確認書ですね」
また息子だった 。どの道も息子のところへ繋がっていた
「この書類を息子に郵送することはできますか」
「もちろん可能ですが、息子さんの返送を待つ時間を考えると、期限まで5日を切っている状況ではかなり厳しいかと存じます」
「期限の延長はできませんか? ”
「申請書をご提出いただければ、1週間程度の延長は可能です。ただしその場合も、最終的には保証人の更新手続きを完了していただかないと、契約解除の手続きに移行することになります」
言葉は丁寧で内容は明解だった。出口はなかった
松崎公平は「分かりました」と言った。書類を受け取り、封筒に戻した。頭を下げて椅子から立ち上がった
立ち上がった瞬間、右肘が机の上のものに触れた。女性職員が自分の横に置いていた保温の茶色い湯飲みだった。松崎公平の肘が当たった衝撃で、湯飲みが机の端へ滑った。落ちた。乾いた、重い音がした。中の茶が広がった
時間が止まったように感じた。待合いスペースの人々の視線が一斉にこちらへ向いた
女性職員は立ち上がり、割れていないことを確かめてから湯飲みを拾い上げた。「大丈夫ですよ。お気になさらず」と言った。声は穏やかだったが、少し素早くティッシュを取り出して床の茶を拭き始めた
「申し訳ございません」
松崎公平はそれだけ言って、その場に立っていた. constraints何もできなかった。半カちを取り出す間もなかった
周囲の視線がまだ残っていた。老人の視線、若い職員の視線、ベビーカーを持った母親の視線…。誰も何も言わなかった。しかしその沈黙の中に、松崎公平は自分の形が映っているような気がした
「失礼いたしました」ともう一度言い、深く頭を下げた
松崎公平は受け取った書類を胸に抱えて、待合いスペースを横切り出口へ向かった。背中に視線の気配がまだあった
区役所の駐輪場の前で立ち止まった。右肘を見た。何もなかった 。ただ肘が湯飲みに当たった感触だけが残っていた 。あの瞬間がまだ鮮明だった
保証人を頼める人間が一人もいなくて、15万円も出せなくて役所へ来ても出口が見つからない老人の姿が、初めてはっきりと想像できた
松崎公平は歩き始めた
残り3日だった。区役所から帰った日の夜、松崎公平は延長申請書に記入した。翌朝、区役所の郵便受けに投函した。1週間の延長が認められれば期限は7月5日になる。だが延長しても根本的な問題は何も変わらなかった
それ以来、夜の倉庫で働きながら頭の中で何度も同じ計算をした。通帳の残高5万3000円。今月の給料が入れば手取りで11万ほどになる。そこから家賃4万2000円、電気か水道で1万2000円、食費で2万円弱。残るのは3万円少々だ 。3万円では保証会社の費用15万円にはどう上がいても届かない
ならばもっと働くしかなかった。松崎公平は倉庫の主人に頼んで、昼の補充作業の仕事も入れてもらうことにした
「年齢的に大丈夫ですか」と主任は松崎公平の顔を見ながら言った。その言い方に悪意はなかったが、心配しているわけでもなかった。単純に倒れられると困るという計算がそこにあった
「問題ありません」と松崎公平は答えた
昼の仕事が加わってから、睡眠はさらに削られた 。夜11時から朝7時まで倉庫で働き、帰宅して2時間ほど横になり、また10時に出勤する。昼の売り場補充は午後1時か2時まで続く。それが終わって帰宅し、夕方から少し眠り、また夜11時に出勤する
12日目の昼、スーパーの売り場補充の仕事中だった。松崎公平に割り当てられた作業は生鮮食品コーナーの補充と値引きシール張りだった。その日の午前中から頭の中に薄い膜が張っているような感覚があった。考えがうまくまとまらなかった
昼前に新しい指示が来た。卵のコーナーを補充して欲しいということだった 。バックヤードにMサイズの卵が、1トレー10個入りのパックで5段積みの台車に乗っていた。5段で1段あたり5トレー、計25トレーが積まれていた
松崎公平は台車をゆっくりと押し始めた。バックヤードから売り場へつながる扉を抜けると、床が変わった 。バックヤードはコンクリートの床だったが、売り場はタイル張りで継ぎ目にわずかな段差があった 。台車がその段差を超える時、全体がわずかに揺れた
通路の途中に、パレット用の台が置いてあった。昼の搬入で使ったものが片付けられずに残っていた。通路の左半分を塞いでいて、台車を通すには右側に寄せる必要があった 。右に寄せながら台車を押した。床の継ぎ目がまた1箇所あった。右の車輪がそこに引っかかった 。ほんの一瞬、台車の動きが止まった 。止まった反動で、5段積みの台車の上部が前へ傾いた
松崎公平は両手で台車を引き戻そうとした。間に合わなかった
一番上の段に積まれていた5トレーが滑り落ちた。それぞれのトレーが床に叩きつけられ、プラスチックの蓋が外れ、中の卵が転がった 。割れた卵と割れずに転がった卵がタイルの床の上に広がった 。黄身が飛び散り、白身が広がり、殻の破片がその中に混じった 。生卵の青臭い匂いが立った
松崎公平はその場に立ち尽くした。台車の把手を両手で握ったまま床を見ていた
周囲の客が振り返った。買い物かごを持った中年の男性が少し離れたところから見ていた 。子供を連れた若い母親が、子供の肩を引いて卵の染みから遠ざけた
松崎公平は台車から手を離し、バックヤードへ向かった 。モップと雑巾を取りに行った 。バケツに水を入れ、洗剤を少し足した
戻ってきた時、売り場主任が来た 。40代半ばの男だった。紙を短く刈り込み、名札をつけたのエプロンを着ていた。名前は田中と言った 。松崎公平より20歳以上は若い
田中は床の状況を見てから松崎公平を見た 。怒鳴らなかった 。声を荒げなかった 。それよりも低い、抑えた声で言った
「これどうなってんすか?
”
「申し訳ございません」と松崎公平は言いながら頭を下げた
田中は周囲に客がいることを確認してから、松崎公平の近くに寄った 。客に聞こえないよう声を落とした 。しかし声を落とすことで言葉の密度が上がった
「昼間の補充に入ってもらってからもう3回目ですよ 。缶の飲み物の陳列もそうだし、昨日の値引きシールの貼り忘れもそうだし」
うちのスーパー、ロスが出たら数字に響くんです 。卵1パックいくらかちゃんと計算してもらえますか? ”
松崎公平は頭を下げたまま返事をしなかった
「年配の方に来てもらうのはいいんですけどね」と田中は続けた 。少し間を置いて、「もう少し動きを早くしてもらえませんかね 。若い子と同じスピードとは言わないですけど、集中して仕事してもらわないと」
声は落ち着いていた 。感情的でもなかった 。だからこそ一言一言がはっきりと届いた
「申し訳ございません」と、もう一度頭を下げた 。声が少し枯れた
田中はそれ以上は言わず、別の店員を呼んで後片付けを手伝わせた
松崎公平はモップで床を拭いた 。膝をついて雑巾で細かい殻の破片を拾った 。卵の匂いが鼻についた 。床のタイルの目地に入り込んだ白身を、雑巾の角でこすって取り除いた 。隣で若い店員がバケツの水を変えていた 。その店員は何も言わなかった 。しかし、何も言わないことが、そこにある空気を全部語っていた
後片付けが終わった 。松崎公平はバックヤードへ戻り、使った道具を洗った 。手を石鹸で念入りに洗った 。それでも生卵の匂いが指の間に残っているような気がして、もう一度洗った
午後1時半に昼の仕事が終わった 。着替えてロッカーを閉め、従業員出口から外へ出た 。雨が降っていた
歩きながら田中の言葉を反芻していた 。「もう少し動きを早くしてもらえませんかね」「年配の方に来てもらうのはいいんですけどね」「集中して仕事してもらわないと」…一言一言をもう一度頭の中で正確に並べ直した 。反論できる部分はなかった 。田中の言ったことは事実だった 。昨日の値引きシールの貼り忘れも、先週の陳列のミスも、今日の卵も、全部本当のことだった 。集中が足りていなかった 。睡眠が足りていなくて、頭の奥に霧がかかっていて、それでも集中しているつもりだったが、できていなかった 。できていない自分を、20歳以上若い男に低い声で指摘された 。怒鳴られたのではない 。暴言を吐かれたわけでもない 。その方が、どこかへ怒りをぶつけることができた 。田中は正しかった 。正しいことを丁寧に言われた 。それが一番、どこにも持っていけなかった
団地の敷地に入った時、雨が強くなった 。胸の入り口で傘を閉じ、水を払った 。エレベーターに乗って3階へ上がった 。廊下を歩きながら305室が見えた 。ドアに何かが貼り付けてあった 。白い紙だった 。近づくとそれが何かは分かった 。住宅管理局からの書面で、赤い文字で印刷されていた
「住宅明け渡しを求める、正式な手続きとして契約解除の準備を開始する」
延長申請が受理されたことと、最終期限が7月5日であることもその紙に記されていた
松崎公平は紙を剥がした 。糊がドアに少し残った 。指で触れるとベタっとした感触があった 。玄関ドアを開けて中に入った 。靴を脱いだ 。ジャケットを脱いだ 。台所の流しでまた手を洗った 。水が冷たかった
今に入った 。電気をつけなかった 。窓から入る雨の日の薄い光だけが部屋の中にあった 。茶ブ台の輪郭がその光の中にぼんやりと浮かんでいた 。松崎公平は茶ブ台の前に座った 。しばらくそのままでいた
それから、ウインドブレーカーのポケットから折りたたみ式の携帯電話を取り出した 。画面を開いた 。電池残量が半分ほどあった 。電波は3本立っていた 。電話帳を開いた 。登録件数は少なかった 。スーパーの代表番号、内科の番号、近くのコンビニの番号、そして一件だけ個人の名前があった 。「柴田譲る」と表示されていた
松崎公平はその名前を見た 。見続けた 。画面の明かりが暗くなった 。消える前に彼はボタンを押して明るさを戻した
柴田譲る 、自分の息子が妻の姓を名乗っている 。それを最初に知った時、何も言わなかった 。言える立場ではなかった 。しかし、連絡先の画面に自分の姓ではない名前を見るたびに、奇妙な感覚があった 。自分の息子が、自分の知らない世界に完全に入り込んでいるような気がした
電話してみようとしたことが何度かあった 。しかし今日は違った 。今日は電話しようとしているのではなかった 。ただ名前を見ていた
床に卵が広がる音が、もう一度耳の中で鳴った 。鈍く乾いた5回の音 。黄身が飛び散る瞬間の映像が目の裏に残っていた 。田中の落ち着いた声が蘇った 。「年配の方に来てもらうのはいいんですけどね」…
松崎公平の目がじわりとうるんだ 。気がついた時、すでに視界が歪んでいた 。泣くつもりはなかった 。泣くことは自分には許していなかった 。68年生きてきて、人前で泣いたことは数えるほどしかなかった 。妻が死んだ時も、葬儀の最中はずっと表情を保っていた 。しかし今、誰も見ていなかった 。暗い部屋の中で一人だった 。頬を伝うものがあった 。一筋、また一筋 。温かかった 。指で触れると確かに濡れていた 。声は出なかった 。おえつもなかった 。ただ目から水が出た 。それだけだった 。68年分が溜まって、今日の今、床に広がる卵を見ていた時から少しずつ綻び始めて、今ここで静かに滲み出ている 。そういう感じだった
松崎公平は携帯電話の画面をもう一度見た 。「柴田譲る」という名前があった 。電話を閉じた 。ポケットに戻さず、茶ブ台の上に置いた
窓の外の雨が部屋に打ち付けていた 。低く単調な音が続いていた 。頬に残った温かさが少しずつ冷えていった 。松崎公平は両手を膝の上に置いた 。右手のカブトを左手の指がゆっくりと擦すり始めた 。電気はつけなかった 。薄暗い部屋の中で、携帯電話の画面だけが茶ブ台の上でかに光っていた
7月5日が来た 。朝の5時に目が覚めた時、松崎公平はすでに自分が何をしなければならないかを知っていた 。数えるべき残り日数がもうなかった
前の晩は仕事を休んだ 。スーパーに電話して体調不良だと告げた 。嘘ではなかった 。体調が悪いかどうかを問われれば、悪かった 。目の奥に鈍い重さがあり、食欲がなく、胃がずっと締めつけられていた 。主人は「分かりました」と言って電話を切った 。それ以上は何も言わなかった
その夜、松崎公平は荷物をまとめた 。まずダンボール箱を3つ、スーパーのバックヤードからもらってきた 。1週間前から少しずつ確保しておいた箱だ 。大きさはそれぞれ違ったが、どれも丈夫だった
1つ目の箱に衣類を入れた 。タンスの引き出しを開け、中身を取り出した 。下着が7枚、靴下が5足、シャツが4枚、ズボンが2本、セーターが1枚 。それが全てだった 。畳んで重ねて箱に入れると、半分も埋まらなかった 。残りのスペースに、風呂道具と洗剤と歯ブラシを入れた
2つ目の箱に台所の道具を入れた 。茶碗が1つ、汁椀が1つ、箸が2膳、フォークが1本、片手鍋が1つ、フライパンが1つ、包丁とまな板、電気ケトル 。それだけだった 。移住先のシェアハウスには共用の台所があると聞いていたが、自分の道具は持っていくつもりだった 。他人の道具を使うことにどうしても抵抗があった
3つ目の箱に残りのものを入れた 。通帳と印鑑と保険証書類の束 、折りたたみ式の携帯電話と予備充電器 、常備薬の上着が3種類 、読みかけの本が1冊 、薄い文庫本でページの端が折れていた 、小さな置き時計 、それからタオル数枚
3つの箱を並べてガムテープで封をした 。部屋を見渡した 。茶ブ台がまだあった 。座布団が1枚 。テレビが1台 、ダンボール箱が2つ 、カーテン 。これらは置いていく 。引き取ってもらえるわけではないが、持っていけるものではなかった 。退去後に管理会社が処分することになる
松崎公平は押入れを開けた 。ハンガーにグレーのジャケットがかかっていた 。区役所へ行った時に着ていったジャケットだ 。それ以外には、古い毛布が1枚と、ビニール袋に入った空の貸し箱がいくつか 。捨てようと思いながらずっと捨てていなかったものがまた出てきた 。貸し箱はゴミ袋に入れた 。ジャケットは迷った末に、3つ目の箱の上に置いた 。畳んで丁寧に
それから茶ブ台の横の引き出しを開けた 。最初の封筒があった 。3週間以上前に届いた住宅管理局からの通知書だ 。その後に届いた明け渡し予告通知も、延長申請書の控えも、区役所でもらった書類の束も、全部そこに入っていた 。松崎公平はそれを全部取り出して、ゴミ袋に入れた
最初の封筒を最後に手に取った 。封筒の表を見た 。「松崎公平様」と書いてあった 。赤いスタンプが押されていた 。住宅管理局の名前があった 。捨てた 。ゴミ袋の口を結んで、玄関の脇に置いた 。管理会社には退去の手続きを明日連絡する必要があった
布団を敷いた 。横になったが眠れなかった 。いつも通りだった 。部屋の中がいつもより広く感じた 。物が減ったからだ 。壁際に積んだ3つのダンボール箱と、玄関脇のゴミ袋 。それ以外はいつもと同じ部屋のはずなのに、空気の量が増えたような気がした
窓の外が白み始めた時、彼は布団から起き上がった 。顔を洗い、髪を整えた 。いつも通りに水で濡らして脇分けにした 。鏡を見た 。頬がこけていた 。この2週間で食事の量が減っていたからかもしれなかった 。目の下に薄く影があった
ウインドブレーカーを着た 。グレーのジャケットではなかった 。今日はいつものウインドブレーカーを着た 。首のところが白く擦り切れたベージュの、長年の相棒だ 。役所へ行くわけでも、誰かに会うわけでもない 。今日は移動するだけだ
台所で湯を沸かし、インスタントコーヒーを一杯飲んだ 。砂糖もミルクも入れなかった 。苦かった 。コップを洗い、乾かす時間もなかったので、2つ目の箱にそのまま入れた 。電気ケトルのコンセントを抜いて箱に入れた 。ガムテープで箱を封じし直した
午前7時になった 。管理会社に電話した 。退去する旨と、荷物と残置物の件を伝えた 。電話口の担当者は事務的に、手続きの書類を後日送付すると言った 。鍵の返却についても話した 。「今日退去時に郵便受けに入れておいてください」と指示された 。電話を切った
鍵を持って部屋の中を一周した 。台所 、風呂場 、押入れ 。どこも、人が抜けた後のしんとした空気があった 。換気扇の周りが悪いと思い続けていたことを、今頃になって思い出した 。直してもらおうと思ってずっと言い出せなかった 。言い出すには管理会社に電話して、職人が来て部屋の中を見られる 。それが面倒で、結局4年間そのままにしていた
居間に戻った 。茶ブ台の前に、最後にもう一度座った 。座って部屋を見た 。何もない壁 。窓ガラスの向こうの曇った空 。4年間この部屋にいた 。4年間この窓から外を見た 。雨の日も晴れの日も 、ここから出ていって、ここへ帰ってきた 。それだけのことを積み重ねて、今日で終わる 。感傷的になるつもりはなかった 。しかし、立ち上がるのに少し時間がかかった
立ち上がった 。ダンボール箱3つを台車に積んだ 。スーパーで使う手押しの台車を借りてきていた 。来週返しに行くつもりだったが、どうなるかは分からなかった 。靴を履いた 。ドアを開けた 。廊下の空気が入ってきた 。7月の、もう少し重い空気だ 。梅雨は明けていなかった
鍵をかけ、ドアを閉めた 。もう一度ドアの表面を見た 。「305」という金属のプレートが張ってあった 。数字の「5」の塗装が少し剥げていた 。4年間毎日見ていたプレートだ 。鍵を郵便受けの口から落とした 。金属の小さな音がした
台車を押して廊下を歩いた 。エレベーターに乗って1階へ降りた 。団地の共用出口を抜けると外だった 。空は熱い雲に覆われていた 。雨は降っていなかったが、降り出しそうな重さが空気にあった
駐輪場の前を通り過ぎた 。自転車置き場に古い自転車が何台かが止まっていた 。その中に松崎公平の自転車もあった 。移住先のシェアハウスまでは電車で行く 。自転車は持っていけない 。廃棄の手続きを取る時間もなかった 。置いて行くことになった 。自転車を一度見た 。それから視線を前に戻して歩いた
団地の敷地内に小さな公園があった 。砂場と滑り台とベンチが2脚だけの狭い公園だ 。朝の早い時間帯で人はいなかった 。縁石の上に、誰かが忘れていった傘が1本置かれていた
その公園の横を通り過ぎる時、反対側から人が来た 。若い夫婦だった 。30代前後と思しき2人が、傘を差して、子供を真ん中に挟んで歩いてきた 。子供は小学校1年生か2年生くらいで、黄色いランドセルを背負い、水色の傘を自分で差していた 。母親が子供に何か言っていた 。父親が子供の肩に触れて笑っていた 。3人が松崎公平の前を通り過ぎた 。誰もこちらを見なかった 。子供が何かを言い、父親がまた笑った 。その笑い声が朝の空気の中に短く響いた
松崎公平は台車を押しながら、その背中を見た 。3人は公園の角を曲がって見えなくなった 。笑い声の余韻だけが、少し遅れて消えた
駅まで歩いた 。台車を押すと、荷物の重さで車輪がアスファルトの継ぎ目でガタガタとなった 。傾斜のある歩道では台車が滑らないよう、手に力を入れた 。20分かかった
駅の改札の前で台車からダンボール箱を1つずつ下ろした 。台車は畳んで、駅の脇の壁に立てかけた 。スーパーには後で取りに来てほしいと電話するつもりだったが、今日できるかどうかは分からなかった 。切符を買った 。移住先のシェアハウスの最寄り駅まで電車で40分ほどだ 。乗り換えが1回ある 。自動券売機の前で財布の中の小銭を確認した 。1000円札が2枚と硬貨が数枚
切符を買い、改札を通った 。ダンボール箱を1つ脇に抱え、1つを足の間に挟み、1つを地面に置いて、ホームへ向かうエスカレーターに乗った 。ホームに出た 。電車を待つ人が数人いた 。スーツ姿の男性 、大きなトートバッグを持った女性 、イヤホンをつけた若者 。誰も互いを見ていなかった
松崎公平はホームの端のベンチにダンボール箱を置いた 。電車を待ちながら、ウインドブレーカーのポケットに手を入れた 。携帯電話があった 。取り出して画面を開いた 。着信履歴を見た 。3日前の夜、1件だけ着信があった 。「柴田譲る」という表示だった 。3日前の夜、午後9時17分
松崎公平はその着信を知っていた 。あの晩、仕事の帰り道で、ポケットの中で携帯が震えた 。画面を見て名前を確認して、そのまま震えが止まるのを待った 。留守番電話のランプが点滅したが、再生しなかった 。3日間再生していなかった 。今、ホームのベンチに座って、その着信履歴を見ていた
電話を折りたたもうとして、止まった 。留守番電話の再生ボタンを押した 。機械音声が秒数を告げた 。「23秒」 。雑音の後、息子の声がした 。低くなっていた 。聞き覚えのある声だった 。少し迷っているような間があってから、言葉が続いた
「あの、俺です 。先週、知らない番号から電話があって、多分父さんだと思って 。何かあったなら、電話してください 。こちらからもかけます 。以上です」
それだけだった 。23秒の留守番電話はそこで終わった 。機械音声が「メッセージを聞き終わりました」と告げた
松崎公平は携帯電話を閉じなかった 。画面を見たままベンチに座っていた 。「以上です」という言葉が耳に残った 。異常です、報告を締めくくるような言い方だった 。感情を抑えた、事務的な終わり方だった 。しかしその前に、少し迷っているような間があった 。あの間に何が詰まっていたのかを、松崎公平は考えた
電車の接近を知らせるアナウンスが流れた 。遠くで線路が鳴り始めた 。松崎公平は携帯電話の画面を見た 。着信履歴に「柴田譲る」の名前があった 。電話をかけ直すということが頭に浮かんだ 。今ここでかければ、繋がるかもしれない 。繋がれば話せるかもしれない 。話せれば、保証人のことを言えるかもしれない 。言えれば、息子が何か動いてくれるかもしれない 。外が重なって、その先に家があるかもしれない
電車がホームに入ってきた 。風が吹いた 。ウインドブレーカーの裾がはためいた 。松崎公平の頭に、3日前に通り過ぎた若い家族の姿が戻ってきた 。子供の黄色いランドセル 、父親の笑い声 、母親が子供に何かを言っていた声 。その朝、3人は横浜で何をしているだろうか 、と松崎公平は思った 。譲るは今日も会社へ行くはずだ 。妻は子供を保育園へ連れて行くだろう 。朝の台所で牛乳の場所を確認していた声が、公衆電話越しに聞こえた 。あの朝のように、そこへ電話をかける 。「保証人になってくれ」と 。5年間、音信を絶たれていた父親が、金の話で連絡してきた 。そういう話になる 。5年前に金の話でもめて、それ以来黙っていた父親が、また金の話でかけてきた 。そういう形で、譲るの朝の台所に自分が入り込む
電車の扉が開いた 。乗客が降りてきた 。スーツの男性 、学生 、老人 、ホームに流れ出てきた人の波が、松崎公平の脇を通り過ぎた
松崎公平は携帯電話を見た 。着信履歴の「柴田譲る」という名前をもう一度見た 。それからゆっくりと操作した 。着信履歴を開き、「柴田譲る」の番号を選んだ 。メニューを開いた 。「発信する」という選択肢と、「削除する」という選択肢が並んでいた 。電車の扉が閉まるまであと少しだった 。乗り込む人が減ってきた
松崎公平は「削除する」を選んだ 。確認画面が出た 。「この番号を削除しますか? 」はい 。押した 。着信履歴から「柴田譲る」の名前が消えた 。電話帳を開いた 。「柴田譲る」という名前を選んだ 。メニューから「削除」を選んだ 。確認画面 。「この連絡先を削除しますか?
」はい 。押した 。電話帳から名前が消えた
松崎公平は携帯電話を閉じて、ポケットに戻した 。立ち上がった 。ダンボール箱を1つ抱え、1つを脇に挟み、1つを手で持った 。体勢を確かめてから、電車の扉に向かって歩いた 。駆け込み乗車を知らせるブザーが鳴り始めた 。松崎公平は電車に乗り込んだ 。扉が閉まった 。電車が動き始めた
釣り革を掴んだ 。ダンボール箱が足元に並んでいた 。車内は混んでいて、周囲に人の体温があった 。誰も松崎公平を見なかった 。窓の外にホームが流れていった 。さっき自分が座っていたベンチが、後ろへ遠ざかっていった 。駅の屋根が終わり、外の空が広がった 。熱い雲の下を、電車は走り始めた
松崎公平は釣り革を両手で掴みながら、窓の外を見た 。線路沿いの風景が流れていった 。古いアパート 、駐車場 、コンビニ 、工場の壁 、金属フェンス 。どれも見覚えのないものではなかった 。この4年間、何度か通ったことのある路線だ 。しかし今日は、どれも少し遠く見えた 。釣り革の輪が電車の揺れに合わせて静かに揺れた 。松崎公平の手がその輪を握り続けていた
乗り換えの駅まで20分 、終点まであと40分 。電車はカーブに差しかかり、車体が傾いた 。足元のダンボール箱がわずかにずれた 。松崎公平は片足でそれを軽く抑えた 。窓の外の景色が変わり続けた 。松崎公平はそれを見続けた 。どこかへ向かっているのか 、どこかから離れているのかは 、もう区別しなかった
電車は動き、風景は流れ、そして時間が過ぎていった

