あの夜、母は雨の中を三里歩いて、息子の縁組先の門前に立った。門番に「妙な年寄りが来て母を語っておる」と追い返され、羽織を一つだけ残して帰っていった。私はその羽織を見た。一針一針に、眠れぬ夜が刻み込まれていた。そして、私は知ってしまった。私の婚約者が、自分の母を門前で追い返し、貧しくなった恩人を「なかったこと」にした男だということを。縁組の前日、私は彼にこう言った。「母親さえ門の外に立たせてお…

あの夜、母は雨の中を三里歩いて、息子の縁組先の門前に立った。門番に「妙な年寄りが来て母を語っておる」と追い返され、羽織を一つだけ残して帰っていった。私はその羽織を見た。一針一針に、眠れぬ夜が刻み込まれていた。そして、私は知ってしまった。私の婚約者が、自分の母を門前で追い返し、貧しくなった恩人を「なかったこと」にした男だということを。縁組の前日、私は彼にこう言った。「母親さえ門の外に立たせてお...

「この縁談はなかったことにいたしましょう。」

花嫁衣裳のまま立ち尽くす娘に、あの若者はそう言い放った。

雪の中で倒れていた彼を拾い、命の恩人となったのは、ほかならぬこの娘であった。

家が没落したと聞いたとたんに去っていったその男が、まさか百日後にすべてを失うことになるとは、誰も知らなかった。

江戸時代のある藩の城下町。柳原家は代々この地に根を張る家柄で、苗字帯刀を許され、周辺の田畑と年貢の取り次ぎを任されていた。

田村道之助は、六歳で父を失った貧しい家に生まれた身であった。父はすでに亡く、母のお民と二人、細々と暮らしていた。

道之助は読み書きと算盤を納め、いずれ藩の勘定方に取り立てられることを心に期していた。

もう一方、金原兵衛という男がいた。もとは浄土でも指折りの御用商人であったが、藩への献金と算盤の才を認められ、苗字を許され、藩の蔵を預かり配分する要の役目を任されていた。

この三つの家の巡り合わせから、物語は始まる。

大粒の夕立が音を立てて降りしきる夏の夜、柳原家の一人娘・咲が声をあげながら庭を駆け抜けた。

「樹の下に、人が倒れております。」

木の下には、雨に濡れた若い学者が一人、崩れるように倒れていた。何日も食べていないのか、顔は紙のように白く、頬はこけていた。

咲は若者を離れへと運ばせ、自ら台所に立って粥を煮た。飢えた体に塩気の強いものを与えれば、かえって体を壊すと知っていたからだ。

若者がようやく目を開けると、咲は椀を差し出した。

「ゆっくりお召し上がりください。急に食べては、お腹が驚きます。」

「この御恩、どうお返しして良いかわかりません。」

「恩などと、人が人を助けるのは当たり前のことでございます。」

若者の名は田村道之助と言った。母のお民と二人、貧しい暮らしを営む家の一人息子であった。

母が米搗きの賃仕事で貯めた銭で書物を買い、藩の勘定方の道を指すも、なかなか水を得られぬまま日々を重ねていた。その日もよその家の使い走りをして帰る途中、力尽きて倒れたのであった。

お民の夜の灯りは、いつも明け方まで消えることがなかった。針が布を走る音だけが、かさかさと続いた。指先がひび割れても、指貫き一つで縫い続けた。

そうして溜めた銭の一枚一枚が、息子の書物となり、学びとなった。

道之助が心苦しがると、お民はいつも同じことを言った。

「母は目を閉じれば、お前が取り立てられる夢を見るのだよ。その夢があれば、腹は満ちるものだ。」

道之助は離れで養生した。咲は毎朝粥を運び入れた。重い粥が、粥が飯になる頃には、道之助の顔にも少しずつ血色が戻ってきた。

ある日、屋敷に出入りする若い下男が、庭で誤って巾着を落としていった。下男は真っ青になって騒ぎ立てたが、体力を取り戻して庭を掃いていた道之助が、囲いの下でそれを見つけ、迷うことなく届けに来た。

「庭で拾いました。どなたかが落とされたもののようです。」

縁側に立っていた柳原惣右衛門は少し驚いた顔をした。落として困り果てていたのは、金原のところの者であったからだ。

ためらいもなく届けに来たその若者の様子を、惣右衛門は静かに見ていた。人となりを静かに見極める癖があったのである。

「若いの。この金を、心が動かなんだか。」

「お前の暮らし向きなら、書物が買える額だが。」

「人のものは、人のものにございます。腹が減ることと、道を外すことは、別のことでございましょう。」

惣右衛門は膝を打ち、学ぶ場所がないと聞くと、こう言った。

「うちの離れを使うが良い。飯もこの家で食べれば良い。」

その日から道之助は離れで学ぶようになった。明け方になると、朗々たる読書の声が庭を越えて聞こえた。

咲は道之助のすり切れた着物を、誰にも知られぬよう繕っておいた。道之助もまた、黙ってはいなかった。字を習いたいという咲に、筆の運び方から丁寧に教えてやった。

「この線はこう引くのです。木が擦れると、字が先に乱れます。」

「学者様の字は、どこか学者様に似ておりますね。まっすぐで、静かで。」

夏は縁側で、冬は日向のそばで、二人の手習いは続いた。咲の書いた字が初めてまっすぐに立った日、道之助は我が子のように喜んだ。

「お嬢様は、私より上達なさいました。もう、私を追い越されましたよ。」

「よい師についたからでございましょう。」

冬が来ると、咲は道之助の母のために厚い羽織を仕立てて送った。羽織を受け取ったお民はしばらくそれを撫でていたが、やがて息子を呼んで座らせた。

「道之助よ。この恩を一生忘れてはならぬよ。人は腹が減るのは耐えられても、道を外れれば、もう人ではないのだからね。」

「はい。母上、骨に刻みます。」

藩の勘定方の試験が近づくと、惣右衛門は新しい書物と路銀までも、道之助の手に握らせた。

「取り立てられました暁には、必ずやこの恩に報います。」

「天がご覧になっております。恩返しなど考えず、人として真っ直ぐに生きることを考えなさい。それで良い。」

そうして二年が過ぎた。離れの読書の声と、柔らかな櫛の音が、同じ庭に響き合った。

道之助と咲は、いつしか互いの足音を聞いただけで、分かる間柄になっていた。咲が井戸を通ると、離れの声がふと切れ、やがて続いた。下女たちはその様子を見るたびに、頷き合った。

お民もまた、息子の文からその心を読み取っていたようで、返事にこう書き添えた。

「縁は天が結ぶと申しますが、それを守るのは人の役目です。」

梅の香りがほのかに漂う春、道之助は咲の前に一つの守り袋を差し出した。母のお民が嫁ぐ際に持たされた、家に一つ残る大切な品で、中には小さな玉の根付けが納められていた。

「私が持っているものといえば、これだけです。ですが、お嬢様を幸せにするという心だけは、誰にも負けません。」

「お母様が嫁がれる際にお持ちになったという、あの玉でございますか。このような尊いものを、私が頂いてよろしいのでしょうか。」

「尊い心が、また尊い方の元へ行く。それだけのことです。私は家柄を見て生きているのではございません。人を見て生きております。あなた様であれば、それで十分です。」

咲は守り袋を両手で受け取り、胸に抱いた。

この話を後から聞いた惣右衛門は、からからと笑って頷いた。

「縁はある時もあれば、ない時もある。一人の人を見誤らなければ、それで十分だ。」

惣右衛門は二人の仲を許し、正式な許嫁の取り決めは、道之助の取り立てが定まった後に行うこととなった。咲はその証書を箪笥の奥深くにしまい、毎晩取り出しては、そっと微笑んでいたという。

ところがその頃であった。

屋敷の使用人たちの間で奇妙な噂が立ち始めたのは、ある日、老女中の一人が惣右衛門の前でおずおずと切り出したのがきっかけであった。

「旦那様、申し上げたきことがございます。田村様は近頃、私どもを呼び止めては、頻りにお尋ねになります。この家の財がどれほどあるか、蔵がいくつあるか、そのようなことを。」

惣右衛門の手にした茶碗が、かちりと音を立てた。

翌朝、下女の報告を伝え聞いた咲が惣右衛門の前に座った。二人はしばらく見つめ合った。

「試験を控えた者なら、家の暮らし向きが気になっても不思議はございません。共に家族になる方なのですから。」

「そうだな。お前の言う通りだ。年を取って、心が狭くなったのだろうよ。」

惣右衛門は笑って見せたが、茶碗を置く手は、いつもより重かった。

下男が落とした巾着を一瞬のためらいもなく届けに来たあの青年の眼差しを、惣右衛門は覚えていた。あの眼差しと、財を探るものとが同じ人間であるとは、どうしても信じがたかった。

数日後、女中がまた遠慮がちに申し上げた。

「田村様が、昨日は蔵のある方の辺りを覗いておられました。財がどこの蔵にどれほどあるかと、細かくお尋ねになって。」

「それで、何と答えたのだ。」

「言葉を濁しておきましたが、田村様はこう押されました。『私はゆくゆくこの家の主人になる身だから、知っておかねばならぬのだ』と。」

道之助の足取りは、そこで止まらなかった。ある日は庭で馬方を呼び止め、それとなく馬の数を尋ねさえした。馬方は腰を折りながらも、背中には冷や汗が流れたという。

ある夕暮れには、道之助が長持のある部屋の前で、何度も行き来する姿が見られるようになった。

その頃、道之助の友人たちが居酒屋で杯を交わしながら、囃し立てた。

「無役者の身になるのに、勘定方の試験など何のためだ。妻の実家の財産があれば、一生遊んで暮らせるぞ。」

「口を慎しめ。私はあの家のお嬢様の人となりを見て、心を寄せたのだ。」

「人となりも結構だが、蔵の鍵まで付いてくれれば、なお結構だろう。」

道之助は顔色を変えて杯を置いた。しかし、居酒屋を出る彼の口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。その笑みを、道端の月だけが見ていた。

息子の変わりようを、いち早く見抜いたのは母のお民であった。道之助の羽織から、これまでになかった酒の匂いがした。粗末な衣の代わりに、新しい衣が几帳面に置かれるようになり、数日後には、締めの帯まで現れた。

米搗き仕事を片付けていたお民は、その帯を見て手を止めた。針を持つ指先が、わずかに震えた。

「道之助や。この帯は、どうしたのだ。」

「近頃、女に声をかけられているのです。付き合っているだけです。母上は、それくらいのこともお許しにならないのですか。」

「母が恐ろしいのは貧しさではない。お前が御恩を出世の踏み台にしてしまうことだ。それが恐ろしいのだよ。」

「母上は生涯貧しく暮らされたから、貧しい者の心しかご存知ないのです。」

言い放った道之助自身も、はっとした。お民は何も言わず、また針を手に取った。その夜、お民の部屋からは、遅くまで嗚咽が漏れ聞こえていたという。

惣右衛門も、ついに自分の目で見てしまった。人の気配のない夜、長持のある部屋の前をうろつく道之助の後ろ姿を。

惣右衛門は声をかけず、そっと踵を返した。そして三日三晩、臥せるほどに思い悩んだ。縁組の後に本性が現れれば、生涯泣くのは娘だという思いがあったからである。

三日目の夜、惣右衛門は咲を呼んで座らせた。

「咲や。父に一つの考えがある。百日の間だけ、この家が没落したように見せかけよう。人の心を試すことは、正しいこととは思えません。」

「父上らしゅうございません。」

「縁組を破ろうというのではない。苦しい時に、あの者がどのような顔を見せるか。それを見るだけのことだ。」

咲は首を横に振った。しかし、惣右衛門は娘の手を取り、静かに言った。

「家柄の家が崩れても、また立てれば良い。だが、人を見誤って崩れた家を、誰も立て直してはくれぬのだよ。」

咲の胸がどきりと沈んだ。父の目尻の皺が、その日はことのほか深く見えたからである。

咲は箪笥にしまった証書を思い浮かべた。守り袋を差し出した時の道之助の声も、あの人ならばこの試しを乗り越えるだろうという思いと、父のあの深い皺を見て、見て見ぬふりはできないという思いとが、激しくぶつかり合った。涙がぽたぽたと落ちた。

長い沈黙の末、咲は口を開いた。

「一つ、条件がございます。私も百日の間、本当の貧しさを生きます。信じてもらえぬのなら、まずは私自身が真っ直ぐに生きねばなりません。」

惣右衛門の手配りは慎重であった。この百日の真実を知るのは、惣右衛門と、長年に仕えてきた老女中、そして財産を預かる信頼できる親族の、ただ三人の身と決められた。

家老たちには、家に急な不幸があって、しばし暇を取らせるとだけ告げ、給金は甘んじて前渡しした。年配の女中たちは、思いのほか分厚い銭の包みを渡され、戸惑った。

「旦那様、まだ半年残っております。」

「あらかじめ受け取っておくが良い。この家に、間もなく大きな嵐が来る。驚くでないぞ。」

奉公人たちへの支払いも、甘んずる済ませた。誰一人損をする者がいないよう整えた後、財産の隠蔽は信頼できる親族に預けた。蔵の穀物は、噂にならぬように運び出した。老女中が心配に尋ねると、惣右衛門はこう答えたという。

「後で笑って戻ってくるためにすることだ。お前だけを、頼りにしている。」

そして数日後、道之助の学び屋に見慣れぬ一通の文が届いた。封を切る道之助の手が、ぶるぶると震えた。

柳原家が、急な不幸により離散したという、信じがたい知らせが記されていたのである。田畑と年貢の取り次ぎはすでに他家の手に渡り、柳原の名で差配できるものは、もう何一つ残っていないという。取り立てられるはずの後ろ盾も、一切失われたのだ。

道之助は文を二度、三度と読み返した。紙を持つ手が、幾度も滑った。

「離散したとは。あの大きな家が、一夜にして。」

庭下で道之助の影が大きく揺れた。その顔に浮かんだのが心配であったのか、それとも別の何かであったのか。それは道之助自身にしかわからなかったであろう。

「旦那様、お嬢様は、どこにおられますか。」

道之助は夜道を駆けて、柳原家の門前にたどり着いた。息を切らして門を叩くと、そこには火の用心の札と、素朴な貼り紙が一枚出ていた。

門の内を覗くと、あれほど広かった屋敷が、がらんと空になっていた。離れにかかっていた扁額も、壁の書も、全て消えていた。使用人の気配一つなかった。

「まさか、本当だったとは。」

道之助は方々を尋ね歩いた末、町外れの、今にも崩れそうな賃仕事の小家を見つけた。柴戸を押して入ると、庭先で惣右衛門が薪を割っていた。絹の代わりに、木綿の着物をまつわった咲が、井戸端で水を汲んでいた。

道之助はその場に膝から崩れ落ちた。

「なぜ、このようなことに。知らせを聞いて、すぐさま駆けつけました。」

「一夜にして、この有り様だ。お前に合わせる顔がない。」

「そのようなことをおっしゃらないでください。財が失われたからと言って、人まで失われたわけではございません。約束は約束にございます。」

咲が桶を下ろして近づいてきた。

「遠くまで駆けて来られたのですね。着物が泥だらけになってしまいました。」

「お嬢様がこのようなご苦労をなさっているのに、着物など何ほどのことでもございません。これからは、度々参ります。」

その言葉に、咲の顔が明るくなった。桶を持つ手に力がこもった。鏡に移った自分の顔が笑っているのを、咲は長いこと見下ろしていたという。

この知らせを聞いたお民も、息子の背を撫でて喜んだ。

「よくやった。私の子だ。苦しい時にこそ寄り添うのが、本当の家族というものだよ。母は今日、お前を誇りに思う。」

初めの数日、道之助は実に献身的であった。俵を背負って小さな小屋を尋ね、薪木を一抱え、置き下ろしていった。

「これは、受け取れません。旦那様のお暮らしも楽ではございませんのに。御恩を受けた身にございます。これくらいはさせてください。母も、そうせよと申しております。」

咲は道之助のすり切れた羽織を繕って、感謝の言葉を伝えた。小屋の庭に、久しぶりに笑い声が響いた。惣右衛門も、薪を割る手を止め、その様子をじっと見つめた。無用なことをしたかもしれぬという顔で。

しかし、その足取りは長くは続かなかった。

ある日、居酒屋で友人たちが道之助を取り囲んで囃し立てた。

「良いか。没落した家の婿になれば、藩の出世の道も一緒に潰えるぞ。女中の誰が、無一文の書生を持つ者を嫁にするものか。縁組もまだ挙げていない中だそうではないか。今からでも遅くはない。お前ほどの器が惜しいという話だ。」

道之助は杯を弄るだけであった。

「違う。そんなことは言うな。」

とはいうものの、言い返すべきところを、その口からはついに一言も出なかった。友の一人が声を落として付け加えた。

「近頃、金原様のお屋敷で、お前の学識に目をかけておられるという噂もあるぞ。言わんとすることは、分かるな。」

帰り道、道之助は小川に映る自分の顔をじっと見下ろした。水の中の男が、問いかけてくるようであった。お前は、どちら側の人間だ。道之助は小石を蹴って、その顔を消してしまった。

その夜から、小屋に向かう足が、二日に一度になり、三日に一度になった。

咲は毎夕、膳を整えた。麦飯に味噌汁だけであっても、道之助の箸は必ず用意しておいた。初日は汁が冷めるまで待った。二日目は飯が硬くなるまで待った。三日目の夜には、柴戸の音に幾度も飛び出したが、通り過ぎるだけの風の音であった。

咲は手つかずの膳を黙って片付けた。そのような夜が、幾度も幾度も積み重なっていった。

膳を下げる娘の後ろ姿に、惣右衛門がそっと声をかけた。

「汁が、また冷めてしまったな。」

「明日は、きっといらっしゃいます。学問がお忙しいのでしょう。」

「そうだな。忙しいのだろうよ。」

親子はそうして、互いのために嘘を一つずつ交わし合った。

お民もまた、息子が小屋の方へ足を向けなくなったことに気づいていた。

「道之助や。近頃、柳原様のところへは、行っているのかい。」

「試験の勉強が忙しいのです。取り立てられなければ、あの家を救うこともできません。」

「学問をする者の部屋から、酒の匂いがするようだぞ。」

道之助は部屋の障子をぴしゃりと閉めた。障子が、ぶるぶると震えた。

ある日、咲は仕事の受け渡しに町へ出て、向こうから歩いてくる道之助を見た。咲の顔に、ぱっと喜びが広がった。ところが道之助は咲と目が合うと、びくっと固まり、顔を背けて、別の路地へと足早に消えていった。

咲は町の真ん中に、いつまでも立ち尽くしていた。行き交う物売りに肩を打たれても、気づかぬほどであった。その日、咲は悟った。あの人は、今、私を避けているのだと。

小屋に戻ってきた咲の顔色を、惣右衛門は見逃さなかった。

「町で、何かあったのか。」

「何もございません。風が冷たかったものですから。」

咲は部屋に入り、静かに戸を閉めた。その夜、惣右衛門は娘の部屋から漏れる、押し殺した嗚咽を耳にした。老女中が案じに行ったが、父は扉を開けられぬまま、縁側に長く座っていた。

翌日、惣右衛門は道之助を呼び、静かに告げた。

「家がこのようなことになっても、縁組は約束通り執り行う。私を信じてほしい。」

「旦那様、試験が目前でございます。縁組はその後に延ばしていただけませぬか。」

「試験は去年もあったし、来年もある。だが、縁組を延ばそうという言葉は、随分とたやすく出るものだな。」

道之助は目を伏せ、答えなかった。書斎を出ていく彼の足取りは、何かに追われるように早かった。

その頃、金原兵衛は柳原家の離散を耳にすると同時に、道之助という若者の噂を聞きつけていた。官に通じ、文の扱いにも通じているという評判が、金原の耳に留まったのである。

金原は近しい者を通して、道之助が近頃どのような様子であるかを密かに探らせていた。

「あの男は、柳原の後ろ盾を失いつつある。貧しさから抜け出したい一心であろうから、今なら我が家に引き込みやすい。」

まさにその夜、道之助の小屋に、美しい着物をまつわった下男が訪ねてきた。

「金原様のお屋敷より、お迎えに上がりました。旦那様があなた様の学識をお聞きになり、宴にお招きしたいとのことでございます。」

「金原様のお屋敷から、私のような貧しき者を、どうしてご存知なのでしょうか。」

「ご謙遜が過ぎましょう。門の外に、駕籠もお付けしてございます。」

町一番の豪商からの招き。道之助の胸が、どきどきと高鳴り始めた。部屋の片隅には、咲に届けようとしていた薪が置かれていた。道之助はその薪に背を向け、新しい羽織を取り出して、身にまつわった。

金原家の宴の庭は、灯りの取り回しで昼のように明るかった。油の乗った料理の匂いが庭を漂い、三味線の音に、肩が自然と弾む夜であった。

道之助が捧げた辞を受け取った金原兵衛が、膝を打って呵々と笑った。

「見上げたよ。お前ほどの人材が、世に漏れていたとは惜しいことだ。」

位の高い役人たちが、道之助に酒を進めた。

「金原様がこれほどお目をかけられるとは。いずれ大きくなられるお方でございましょう。兄に御挨拶も押し上げます。」

生まれて初めて受けるもてなしに、道之助の顔が上気した。昨日まで人の使い走りをしていた手に、今日は銀の杯が握られていた。膳の上には、名も知らぬ珍味が並んでいた。

道之助はふと、母の家の質素な膳を思い出した。麦飯に漬け物一つだけの膳を。その思いを、道之助は酒と共に、ごくりと飲み込んでしまったという。

宴が果てる頃、金原兵衛が道之助をそっと呼び寄せて座らせた。

「単刀直入に申そう。我が娘・千代と夫婦になってはくれぬか。出世の道は、わしが開いてやろう。」

道之助の手の中で、杯が揺れた。唇が幾度か動いたが、ようやくこう出た。

「私には、縁組を約束した女がおります。」

「柳原家の娘のことか。あの家はもう没落した。許嫁の取り決めも交わしておらぬ。口約束だけの縁談に、何の意味がある。」

道之助は、はっと顔をあげた。許嫁の取り決めを交わしていないという事実が、その瞬間、闇の中に道標のように輝いて見えたのである。

金原は釘を刺すように付け加えた。

「お前の行末は、一度きりしかない。よくよく考えることだ。」

その夜、道之助は一睡もできなかった。

翌朝、息子の顔色を見たお民が、静かに訪ねた。

「金原様のお屋敷で、何を言われたのだね。」

「母上の知ることではございません。」

「道之助よ。貧しくなったからと、人を見捨てれば、人々は障子の向こうの背を指差すものだよ。天は見ておらぬようで、全てを見ているのだから。」

「私の行末を、邪魔しないでください。母上は、私に生涯この小屋で朽ちて欲しいのですか。」

道之助が床を叩いて叫んだ。お民は口をつぐんだ。息子の目に、見知らぬ人間を見た気がして、背筋が冷えたという。

その夜、お民は縫い物を抱えて座り込んだ。痛みも忘れて、独り言を呟いた。

「私が、息子を育て違えたのだろうか。腹はすかせても、心まではすかせぬと信じていたのに。」

行灯の油が尽きるまで、お民の部屋の灯りは消えなかった。

数日後、金原家の別邸で、千代が道之助と向き合った。針を止めて、千代が訪ねた。

「お尋ねしたいことがございます。あなた様には、思いを交わした方がいらっしゃると伺いました。」

「思いを交わすなど、とんでもないことでございます。隠されることはございません。私はただ、偽りのないお答えが聞きたいだけでございます。」

「没落した家の娘が、勝手に私に心を寄せていただけのことです。私が約束を交わしたことなど、一度もございません。」

道之助は目一つ動かさずに言った。千代はその顔をじっと見つめ、それから再び針を手に取った。その目に、かすかに横切った影を、道之助は見なかった。

道之助はその足で金原の前に進み出て、深く頭を下げた。

「柳原家とは、きっぱり縁を切りましてございます。どうぞ、お受け入れください。」

「うむ。それでこそだ。来月、縁組を挙げよう。」

同じ頃、町外れの小屋では、咲が茶箪笥を開けていた。道之助が来るとの知らせが届いたからである。咲は閉まっておいた訪問衣装を取り出し、膝の上に広げた。絹の音が、さらさらとなった。

良き日に仕立てておいた衣であった。袖口の一針の刺繍は、咲が夜を徹して自ら縫い上げたものであった。一針一針に、あの人の顔を思い浮かべた。そんな衣であった。家が傾いても、この衣だけは売らず、茶箪笥の一番奥に大切にしまい込んでいたのである。

「新しい汁を作らねば。あの方は、味噌汁がお好きだから。花かつお混ぜで。」

台所を忙しく立ち働く娘を、惣右衛門は黙って見つめていた。

日暮れ時、道之助が柴戸の前に立った。ところが、庭に入ろうとしないのである。部屋に入るよう進めても、庭に立ったまま固まっていた。

咲が訪問衣装をまとい、縁側に出た。道之助が口を開いた。

「この縁談は、なかったことにいたしましょう。」

庭が、静まり返った。台所から汁の煮える音だけが、ぐつぐつと聞こえていた。

咲の手から力が抜け、訪問衣の裾が、すっと滑り落ちた。咲は裾を掴み直し、道之助を見つめた。聞き間違いであって欲しいという目であった。

咲の声が、わずかに震えた。

「今、何とおっしゃいましたか。」

「落ちぶれた家と縁を結んでは、私の行末まで塞がれてしまいます。私はこれから、もっと大きな流れの中で生きねばならぬのです。」

「雨に倒れておられたあの夜をお忘れになったのですか。手を一つに合わせておられたあの方は、どこへ行かれたのでしょう。過ぎたことは、過ぎたことです。貧しさが恐ろしいのは、私も同じです。ですが、貧しさ故に、人の約束まで失われて良いものでしょうか。」

道之助は答えの代わりに、懐から巾着を取り出して、縁側に置いた。咲が、はっとして袖から証書を取り出すと、道之助は咲の見ている前で、それを破り捨てた。紙片が庭に舞い散った。

「これまでの御恩は、この金で返しましょう。縁組は、終わりです。」

「御恩というものが、いつから銭で返されるものになったのですか。お持ち帰りください。」

咲は巾着を押し返した。道之助はくるりと背を向けた。柴戸の外には、金原家の駕籠が待っていた。駕籠に乗り込むその背を、咲は引き止めなかった。訪問衣装をぎゅっと抱きしめただけであった。絹の上に、涙がぽたぽたと落ちた。

駕籠の音が遠ざかってから、ようやく部屋の戸が開いた。惣右衛門が縁側に出て、庭に散った紙片を一枚、拾い上げた。

「父のせいだ。すまなかった。こんな有り様を見せるためにしたことではなかったのに。」

「父上のせいではございません。あの人が、そういう人であっただけのことです。」

咲は涙を拭い、背筋を伸ばした。その声があまりに落ち着いていたので、惣右衛門の胸はかえって痛んだ。残った証書の切れ端を、夕風が吹き散らしていった。

「咲や。もういい。見るべきものは見た。屋敷に帰ろう。」

離縁の翌朝、惣右衛門は重い顔で娘に告げた。しかし、咲は竈の前で火種を起こしながら、首を横に振った。

「百日を全うすると約束しました。全うします。」

「あの者はもう帰ったのだよ。これ以上、見るべき何がある。」

「私の顔がやつれるのを、父にどう見ろというのです。あの人のためではございません。父上、私はこの百日で学びたいことができたのです。貧しい人々が、どのように一日を生きているのか。この手で確かめてみとうございます。」

惣右衛門は娘の顔をじっと見つめた。涙の後は残っていたが、その目は昨日より一段と強くなっていた。

その日から、咲の日々は変わった。夜明けと共に町へ出て、仕事の受け渡しを受けて回った。よその家の布を繕い直すと、指の節々が晴れ上がった。油が惜しくて、月明かりで針の穴を通すこともあった。冬でもないのに、明け方には指先が冷えて、ぶるぶると震えた。

美しかった手の甲がひび割れても、咲にとっては、いつしかそれもまた、変わらぬ一日となっていた。そうして夜通し働いていた賃金は、米一升を買うにも足りなかった。

咲は手のひらに乗せた数枚の銭を、しばらく見つめていた。

「私が来ていた絹の一端が、誰かの一か月分の賃金であったのか。」

そう思うと、喉が詰まった。京の中の座敷では見えなかったものが、京の外では驚くほどよく見えたのである。

隣家には、幼い孫と二人暮らしの婆が住んでいた。ある日、咲が粥を届けに行くと、思いがけないものを目にした。婆は薄い粥を孫の前に置き、自分は湯ばかりをすすっていたのである。

「おばあ様は、なぜ召し上がらないのですか。」

「年寄りは、元々食が細いものですよ。飯というものは、幼子の口に入る時が一番美味しいものでね。」

孫が粥の椀を綺麗に平らげるのを見つめる目は、この世に何の未練もないような目であった。

咲はその足で家に帰り、米櫃を開けた。残った米の半分を袋に詰めた。婆は手を振って固辞したが、咲は袋を置いて、逃げるように立ち去った。

「うちの米も、底が見えているのだよ。大丈夫なのか。」

「そこはまた、満たせば良いのです。人の命は、後回しにできないことですから。」

惣右衛門はそれ以上、止めなかった。娘が飯を濡らす時、身もだえながらも、黙って見守るだけであった。夜になると、父は娘に知られぬよう、自分の飯を娘の椀に分けてやったという。

婆は恩を、縫い仕事で返した。古びた布を重ねて温かい羽織を作る技を、咲に教えてくれた。

「布が古くても、重ねを上手に取れば、新品より温かいのですよ。貧しい暮らしは、こうして繕うものなのです。」

咲は一つ、二つとこなした。元々、目が良く働く上に、心を尽くしたからである。咲の縫った羽織は目が細かく、形も整っていたので、町へ出すが早いか、売れていった。

「あんたが仕立てたものかい。もう十反お願いしたいのだけれど。」

呉服商人が小屋まで訪ねてくるほどであった。噂が立つと、近隣の婆や、貧しい女たちが次々に柴戸を叩くようになった。

「私たちも、そばで働かせておくれ。手間賃だけでも、ありがたいから。」

咲は縁側を開け放ち、仕事を与えた。そして、手間賃は働いた分だけ、等しく分けることに決めた。

「上も下もございません。同じ手で働けば、同じ手間賃をいただくべきです。」

女たちの目が丸くなった。そのような賃金の分け方は、生まれて初めて聞くものであったからだ。

若くして夫を亡くし、仕事で三人の子を育てた女が、恐る恐る訪ねた。

「お嬢様、私たちのようなものと、本当に同じ手間賃をくださるのですか。」

「同じ針を持てば、同じ職人でございます。『私たちのようなもの』などと、二度とおっしゃらないでください。」

その言葉に、女の目がかっと赤くなった。狭い小屋の縁側には、針を持つ手が増えていった。機織りの音と笑い声が、入り混じるようになった。咲は算盤を知っていたので、帳簿もきちんとつけていった。道之助に教わった学問が、このように役立つとは、その時は思いもしなかったという。

昼の咲は、それほど晴れやかであった。しかし、夜は違った。皆が寝静まった頃になると、咲は一人、茶箪笥の前に座った。訪問衣装の代わりに、守り袋を取り出して、声を殺して泣いた。袖が涙に濡れたまま朝を迎えても、夜明け前に真っ先に起き出し、庭を掃いて女たちを迎えた。咲の夜を、誰も知らなかったという。

そんなある日、柴戸の前に一人の老女が立っていた。道之助の母、お民であった。すっかりやつれた様子のお民は、咲を見るなり、庭に膝まずこうとした。

「お嬢様、私が息子を育て違えました。この年寄りが、代わりにお詫びいたします。」

咲は駆け寄って、お民を抱き起こした。

「そのようなことをなさらないでください。お母様のせいではございません。お母様は、この家にとっていつもありがたいお方でした。お茶しかございませんが、一膳、召し上がって言ってください。」

「あの冬、私が仕立てた羽織を、大切に着てくださったこと、忘れておりません。」

お民の肩が、ふるふると震えた。あれが咲の手の甲を撫でながら、崩れた。

「このような娘を残して、うちの息子が。」

「そのお話は、もうおしまいにいたしましょう。お母様、腰をお伸ばしになって。」

二人の女は縁側に座り、手を取り合って泣いた。見捨てられた者と、見捨てた者の母が、互いの傷を撫で合ったのである。

その日、お民は夕方まで縫い仕事を手伝って帰った。帰り際、咲は羽織を風呂敷に包んで持たせた。

そして、三十日目のことであった。町から帰った女が、息を切らせて知らせを伝えた。

「聞きましたか、お嬢様。あの田村道之助という学者様が、金原様の娘婿にお決まりになったそうですよ。来月、縁組を上げるそうです。」

縁側の針の音が、ぴたりと止んだ。女たちの目が、一斉に咲に注がれた。咲は針を持つ手を一瞬止めたが、また一針、進めた。

「縫い仕事を続けましょう。よそ様の縁談が、私たちの仕事を変えてはくれませんから。今日仕上げるべき羽織が、後に十反ございます。」

そう言いはしたものの、その日に限って、咲の針目が二度も乱れた。隣に座っていた婆だけが、黙って見ていたという。

金原家の離れで、道之助は別人のように変わっていった。体には上等な絹の羽織がかけられ、髪も丁寧に整えられていた。出入りする役人たちが、先に頭を下げるようになった。

「旦那様、ご機嫌いかがでございましょうか。」

昨日まで使い走りをしていた男に、世間が一夜にして頭を下げるようになったのである。道之助はその味に、酔いしれていった。貧しかった頃の話が出るたびに、それとなく話の向きを変えた。藁葺きの小屋も、仕事に開けてくれた母のことも、離れを貸してくれた柳原家のことも、道之助の口からはなかったことにされていった。

ある日、千代が刺繍の手を止めて尋ねた。

「縁組まで、日もございませんが、お母様はいつこちらへお迎えするのでしょうか。許嫁の品も、お渡しせねばなりません。」

「母は、当の方に元おりませぬ。体を悪くしておりまして、縁組には来られぬかと存じます。」

「体を悪くされているのなら、私がお迎えに参らねば。私も、ご一緒いたします。」

「いえ、それには及びません。静かに過ごすことをお好みの方ですので。」

道之助の声が、必要以上に高くなった。千代はそれ以上、尋ねなかった。ただ、針を持つ指先が、わずかに止まっただけであった。

その頃、小屋ではお民が羽織を仕立てていた。息子の縁組の日に着せる羽織であった。一針縫っては息子の幼い頃を思い出し、また一針縫っては目元を拭った。夜明けの鳥が鳴く頃、ようやく一つが丁寧に仕上がった。

「嫁を取るものは、母の手で作った羽織を着ねばね。ええ、着せずにはおけない。うちの道之助は、母の手を分かってくれる子ですから。」

お民は羽織を布に包み、また包んだ。そして三里ほどの道を歩いて、金原家の屋敷へと向かった。草履が擦り切れるまで歩き続けた。

表門の前に立ったお民の身なりは、あまりに粗末であった。木綿の裾は色あせ、背には汗が滲んでいた。門番の下男が、上から下まで眺め回して、行く手を遮った。

「どこから来たとしおりだ。ここがどなた様のお屋敷か、知っておられますのか。」

「田村道之助という学者様がこちらにいると聞きました。私は、その母にございます。」

「母だと。向こうのお母上は、遠くにおられると聞いておるが。妙な年寄りが来て、母を語っておるな。」

「本当のことでございます。この羽織を渡すだけで良いのです。顔を一目見るだけで良いのです。」

「今日は中に、大事な客がおられる。八十の母が来たとて、お通しするわけにはいかぬ。」

「遠くから参りました。それなら、門の脇で待たせていただきます。気がくれる前には、出てまいりましょう。」

「全く、困った年寄りだ。ここにおられると、こちらが咎められる。もっと離れたところにお引きください。」

下男は鼻で笑い、門を半ば閉めた。お民は門の影にうずくまり、風呂敷を抱きしめた。日が暮れても、門は再び開かなかった。

縁組前の宴の声が、門を越えて離れまで届いていた。窓を開けた道之助は、その場に凍りついた。門前に立つ人が誰であるか、一目で分かったからである。母であった。

道之助の手が、窓枠を握ったまま震えた。座敷では役人たちが酒を酌み交わしていた。あの粗末な老女が母だと明かせば、この絹の世界が音を立てて崩れてしまうように思えた。

道之助は、おもむろに窓を閉めた。そして、物陰に身を隠した。実の母が門の外に立っているというのに。

やがて、下男が数文の銭を持って出てきた。

「路銀にでもなさいません。二度とお腰になりませぬよう。」

お民は銭を黙って見下ろした。そして腰を折り、門前の石の上にきちんと並べておいた。

「銭は結構でございます。羽織を、羽織だけをお渡しください。」

下男は風呂敷を受け取ると、門をぴしゃりと閉ざした。お民は、閉ざされた門の前に、しばらく立ち尽くしていた。その時、空から雨粒がぽつぽつと落ち始めた。傘もなく、お民は雨の中を歩いた。三里の道を、また三里、歩いて帰る道であった。雨か涙か分からぬものが、皺の刻まれた頬を伝った。

買い物から帰る途中の咲が、その姿を見かけた。雨の中をよろよろと歩く老女に、走り寄った。

「お母様。こんなに雨に濡れて、どちらへ行っておられたのですか。」

「ああ、お嬢様。何でもございません。何でも、ありませんから。」

咲は自分の羽織を脱いで、お民の肩にかけた。そして小屋へと連れ帰り、火を炊いた。濡れた着物から、湯がほんのりと立ち上った。お民はとうとう、息子のことを口にしなかった。

咲が汁の椀を差し出しながら尋ねた。

「お味はいかがですか。薄ければ、おっしゃってください。」

「うまいですよ。うますぎて、涙が出てくる。」

「お母様、年を取ると、涙もろくなるものですよ。気にすることはありません。」

そう言って笑う顔が、泣くよりもずっと寂しく見えた。その時、咲は見てしまった。お民の草履が、泥水にひどく汚れていること。それは明らかに、金原家のある方角から歩いてきた足跡であった。

咲は何も尋ねず、ただ温かい汁を幾度も注ぎ続けた。

「お母様、今夜はお泊まりください。狭い部屋ですが、日の当たる場所はございます。」

「これ以上、ご迷惑をかけては、お嬢様に合わせる顔がございません。」

「私にとっては、お母様がいてくださることこそ、心強いのです。」

咲は下座に布団を敷き、休ませた。年のいった方が布団の中で長く震えているのを、咲は背を向けたまま、気づかぬふりをしてやった。

その夜の話は巡り巡って、千代の耳にも届いた。千代は女中を呼んで尋ねた。

「昼間、門前に来ておられたという年寄りは、本当に旦那様のお母様だったのだろうか。」

「どもどもが申すには、羽織を一つ残して行かれたそうにございます。」

「羽織を。息子に着せようと、仕立ててこられたということか。」

千代はその羽織を持ってこさせ、灯の下で広げてみた。細かい針目の一つ一つに、母親の眠れぬ夜が刻み込まれていた。

千代は眠れなかった。母親さえ見捨てるような人であるならば、私が貧しくなった時も、きっと見捨てられるであろう。

そして、六十日目のことであった。千代は道之助に、あの羽織の老女のことをそれとなく訪ねてみた。

「旦那様。少し前、門前に一人の年寄りが訪ねてこられて、旦那様の母だと名乗られたそうですが。」

道之助の顔色が、さっと変わった。しばしの沈黙の後、道之助はうつむいた。

「ああ、あの物語のことですか。貧しさのあまり、頭が少し混乱している者にございます。どこへ行っても、母親のふりをするのだとか。そういう類の者でございます。」

道之助の目が、一瞬、同様に揺れるのを、千代は見逃さなかった。胸が、どきりと沈んだ。頭の混乱した者が、あれほど細かな針目の羽織を仕立てられるはずがない。千代はそう思い、口には出さずに引き下がった。

その夜、千代は側に置く女中一人を密かに呼び、道之助の生まれと母の行方を調べるよう命じた。数日のうちに、女中は町外れに小さな小屋があり、そこに道之助の母と、離散したはずの柳原家の娘が身を寄せ合って暮らしているらしいという話を聞き込んできた。

千代は自ら、その小屋を尋ねる決心をした。女中一人を連れて、駕籠に乗り、方々を尋ね歩いた末に、たどり着いたのは町外れの小さな小屋であった。柴戸の向こうから、話し声が聞こえた。縁側では、二人の女が並んで縫い仕事をしていた。年のいった女は、病上がりのように顔色が悪く、若い女はその傍らに手を添えていた。

「お母様、今日はここまでになさってください。雨の中を歩かれた風が、まだ抜けていらっしゃらないのですから。」

「お嬢様を一人で一針、こなすというのですか。手を添えねば、気が休まりません。」

千代はその光景をしばし見つめてから、声をかけた。お民が千代に気づき、思わず立ち上がった。金原家の門の脇で一度すれ違ったことのある顔であったからだ。

「あなた様は、金原様の。」

「はい。娘の千代と申します。お母様に伺いたきことがあって、まいりました。」

咲が席を譲って下がろうとすると、千代が引き止めた。

「ご一緒にお聞きください。あなた様は、どなたでいらっしゃいますか。」

「柳原、咲と申します。」

その名を聞いた千代の息が、一瞬止まった。道之助が語っていた没落した家の娘。勝手に自分に心を寄せていただけだと言っていた。あの相手が、目の前にいたのである。

千代は縁側に座り、一つ一つ尋ねていった。咲は隠すことも誇張することもなく、答えた。雨に倒れていた若者を拾ったこと、離れを貸したこと、書物と路銀を用意したこと、守り袋を受け取り、縁組を交わしたことまで。

咲は箪笥から、守り袋を取り出した。

「これがあの時、頂いたものでございます。お母様が嫁がれる際にお持ちになったものと伺いました。」

お民は守り袋を見て、口元を覆った。肩が、わずかに震えた。

「それを、それをまだ持っていてくださったのですか。」

「頂いた心が、捨てがたくございましたから。人は去っても、心まで捨て去ることはございません。」

千代は守り袋と咲の顔とを、代わる代わる見つめた。なぜ、恨む様子がないのでしょうか。私であれば、その名を聞いただけで身が震えてしまいましょう。

「恨めば、自分の心が痛むだけですから。それに、あなた様に何の落ち度がございましょう。あなた様も、騙されたお方にございます。」

お民が膝の上の仕事をぎゅっと握りしめて、口を開いた。

「柳原様の御恩がなければ、うちの道之助は書物一冊も、手にできなかったでしょう。冬ごとに羽織を送ってくださったのも、この家でございます。その御恩を、あのような形で返してしまって。母がどうして、天を仰げましょうか。」

千代は目を閉じた。自分の婚姻が、どのような土台の上に築かれているのか、はっきりと見えたのである。

千代の声が震えた。

「縁組を取り消したく存じます。ですが、父が許してはくれます。」

「私のために決めることはございません。あの方が、これから先どのように振る舞われるか。あなた様ご自身の目でご覧になってから、お決めになれば良いのです。」

咲の言葉に、千代は頷いた。帰りの駕籠の中で、千代は膝の上ばかりを見下ろしていた。堪えていた涙が、ぽたぽたと落ちた。それが騙されたことへの悔しさ、怒りへの涙であったのか、あの二人の女への哀れみの涙であったのか、千代自身にも分からなかったという。

その頃、金原家の座敷では、別のことが進んでいた。金原兵衛が、分厚い帳簿を道之助の前に差し出した。

「今季の年貢米を放出した。お前が帳簿を改め、間違いなしとの確認書に署名してくれ。」

「私のような者に、このような大役を任せてよろしいのでしょうか。」

「婿になる身に任せるのだ。形だけのことよ。供の者どもが、幾度も検算済みだ。」

道之助は帳簿を改めるうち、表の合計と、供が記した個々の数が、わずかに食い違っていることに気づいた。だが、数を数え直せば、新品をもかねばならず、この話も面倒になるやもしれぬ。道之助はその違いを見なかったことにして、筆を取った。蔵に赴いて実際の表数を確かめることは、しなかった。

署名を終えると、金原は満足そうに笑い、道之助の肩を叩いた。

数日後、年のいった役人が一人、道之助を静かに訪ねてきた。

「旦那様。帳簿には米が全て放出されたことになっておりますが、百姓の手に渡ったのは、その半分にも満たぬのです。このままでは、飢える家が続出いたします。」

「勘定が間違っているのだろう。供に訪ねてみるが良い。」

「私めが、すでに三度、検算をしました。旦那様がご署名なさったあの帳簿こそ、間違っているのでございます。」

「縁組を目前に控えた身だ。大きくするな。」

道之助は小役人を追い返した。その背に、小役人は深いため息をついた。

その夜から、道之助は寝床で幾度もはっとし、目を覚ますようになった。目を閉じると、帳簿の数字が散らついたからである。喉元まで競り上がる不安を、道之助は縁組の日を数えることで、無理やり押し込めた。

飢えた百姓たちは、藩の役所の前に集まり、嘆願書を差し出した。数人の指の印が押された紙であった。日雇いの母も、舅を負った老人も、それぞれの親指に炭を塗った。その嘆願書は巡り巡って、ついに藩の勘定方まで届いた。紙は言葉を持たないが、押された指の印の一つ一つが、泣き声を上げていたのである。

そして、八十四日目のことであった。藩の勘定方から使わされた早馬が、金原家の門を叩いた。年貢前の帳簿を改める検閲が始まるとの命であった。検閲役が半月のうちに下ってくるとの知らせに、金原の手から杯がぽとりと落ちた。

「検閲だと。よりによって、今検閲だと。」

金原は座敷を歩き回り、爪を噛んだ。年貢前の帳簿を改められれば、蔵から消えた米の行方も明らかになる。百姓に渡るべき米が、どこへ消えたのか。それを知っているのは、金原自身の身であった。

数日の間に、金原の顔は見る間にやつれていった。膳を下げさせては、夜中に何度も起き出し、蔵の方を見合った。夜を徹して考え抜いた金原の目が、ふと鋭く光った。帳簿の隅に記された一つの名を思い出したのである。田村道之助。

金原は膝を叩いた。帳簿を改め、署名したのは、あの男だ。詮議になれば、咎めも彼の身に負わせれば良い。

翌日、金原は道之助を呼んで、柔らかく言った。

「お前が署名した確認書のことだが。検閲役に問われたなら、帳簿を改めた上でのことだと答えるのだぞ。それで、事は収まる。」

「はあ。しかし、旦那様は『形だけ』とおっしゃって。形だけではなかったのですか。」

「だが、署名は署名ではないか。お前も、婿の分の責任を果たさねばならぬ。」

座敷を出る道之助の背に、冷や汗がすっと流れた。その時、ようやく見えたのである。金原が自分を婿として選んだのではなく、身代わりとして飼い慣らしていたのだということが。

宴で受けたあの手厚いもてなしも、杯を持ち上げたあの笑みも、全て最初から仕組まれていたものであった。道之助は柱にもたれかかったまま、長いこと立ち尽くしていた。人を見捨てて選んだ場所が、実は崖の上であったのである。

その夜、道之助は千代の部屋の前に立った。

「縁組を早めましょう。検閲が来る前に、式を上げるのです。」

「なぜ、検閲を急がなければならないのでしょうか。」

「縁組さえ済ませれば、私はこの家のものです。婿が、嫁を見捨てるはずはございません。」

千代は障子越しに、道之助を長く見つめた。そして、初めて心にあった言葉を口にした。

「旦那様。私は、お母様のことを知りました。頭の混乱した老婆ではなく、息子のために羽織を仕立てて、三里の道を歩いて来られたお母様のことを。」

道之助の顔が青ざめた。唇が震えたが、言葉は出てこなかった。

「母親さえ、門の外に立たせておくお方が。後に私だとて、見捨てぬと言えましょうか。」

「それは、それは二人の行末のためであったのです。縁組さえ済ませて、私が高い地位につけば、全てを返せます。」

「今も、地位のお話ばかりですね。人のお話は、一言もございません。」

「貧しさというものが、どれほどのものか、あなた様はご存知ないのです。私はもう二度と、あそこには戻りません。それだけでございます。」

「貧しさが恥ずかしいのではございません。旦那様が捨てられたのは貧しさではなく、御恩の数々でございます。そこが、違うのでございます。」

千代は障子を閉めた。その音が、道之助の耳には雷のように大きく響いた。

同じ頃、町外れでは奇妙な噂が立ち始めていた。離散したはずの柳原家の屋敷に、再び人の出入りが見られるというのである。約した百日が近づき、惣右衛門が預けておいた財産を、一つずつ取り戻し始めたのであった。親族に預けた財産が戻り、蔵の穀物がぞろぞろと元の場所に収まった。暇を出していた下女たちも、笑顔で戻ってきた。

「旦那様、また私どもをお呼びくださると、信じておりました。」

「苦労をかけたな。手間賃は、不足なく。」

女中たちは戸惑った。井戸端という井戸端で、ひそひそ話が絶えなかった。

「没落したと言うておったが、一体どういうことだ。」

「財産は、全て偽りだったという話だぞ。」

「何か、込み入った事情があったのだろう。」

噂は風より早かった。その風が金原の庭の中まで吹き込むのに、一日とかからなかった。

知らせを聞いた道之助は、筆を止めたまま、すっかり取り落とした。

「没落していなかったとは。ならば、あの小屋は。あの木綿の着物は。あの百日は、一体何であったというのか。」

道之助はその答えを、最後まで考え抜くことができなかった。

閉ざされていた離れに、再び灯りが灯された。惣右衛門は娘に、美しい絹の着物を差し出した。

「もう屋敷に帰ろう。まずは、この着物から着替えなさい。」

「父上。私は、この木綿の着物が気に入っております。苦労を共にした方々が、仕立ててくださったものですから。」

咲は絹の代わりに、仲間の女たちが一枚ずつ持ち寄って仕立てた木綿の着物をまつわった。そして、小屋の縁側に女たちを呼び集めた。

「私たちの仲間に、名をつけましょう。『梅恵』というのは、いかがでしょう。寒さが増すほど、香りを深める花ですから。」

「梅恵。よございます。お嬢様。」

女たちは手を打って喜んだ。屋敷に戻っても、仲間の仕事はそのまま続けていくことに決まった。手間賃を等しくする決まりが変わらぬのを見て、女たちは心を落ち着けた。年のいった婆が、咲の手を取っていった。

「お嬢様、私たちのようなものを見捨てずにいてくださって、ありがたい。」

「またその言葉ですか。同じ針を持てば、同じ職人だと申しましたでしょう。」

その夜、惣右衛門は娘を呼んで座らせた。父の目尻が赤くなっていた。

「父がすまなかった。人を試すということが、お前をこれほど苦しめるとは思わなかった。」

「私にも、過ちがございました。人の心を図りに掛けたのですから。ですが父上、あの人にこれ以上の仕返しはなさらないでください。」

「仕返しなど、何ほどのこともない。自分で選んだ道が、自分の足を刺すだろう。私たちは、ただ見守るだけにしよう。」

九十日目の夜になった。金原は娘の部屋を訪ね、告げた。

「縁組は、予定通り行う。こういう時こそ、家に慶事がなければ、悪い噂は消せぬものだ。」

千代は答えなかった。ただ、静かに頭を下げただけであった。父が部屋を出ると、千代は装飾品を一つ一つ、箱に収めていった。角隠しも、神酒の杯も、月明かりの下で一つずつ、元の場所に収まった。蓋を閉じる千代の顔は、不思議なほど穏やかであったという。

そして、百日目の朝が開けた。金原家の門前に、馬の蹄の音がけたたましく響いた。藩の勘定方から使わされた検閲役の一行が、ずらりと並んで立っていた。年貢前の検閲を始める。帳簿と蔵を改める。

よりによって、その日は道之助と千代の縁組が予定されていた。まさに、その日であった。

「新郎は、どこにおる。帳簿に署名した田村道之助とは、誰か。」

その朝も、道之助は別のことに気を取られていた。鏡の前で、紋付きの羽織の襟を整えながら、胸をどきどきと高鳴らせていた。今を乗り切れば、金原家の婿である。検閲が来ても、義父の家が盾になってくれると信じていた。今、乗り切れば良い。今日さえ。

ところが、縁組の儀が整う前に、門が大きく開かれてしまったのである。紋付きの羽織をまつわった道之助は、庭の真ん中で凍りついた。縁組の代わりに、検閲役の声が庭に響き渡った。

検閲は厳しかった。帳簿と蔵の検算が合わないことが、立ちどころに明らかになった。帳簿には米が全て放出されたと記されているのに、百姓の手に渡ったのは、その半分だけであったのだ。

金原は、すかさず口を挟んだ。

「私は関知しておりませぬ。帳簿を改め、間違いなしと署名したのは、あそこにおる田村道之助でございます。」

「旦那様が、『形だけのことだ』とおっしゃったではございませんか。」

「この者が、恐れながら私の前で、言葉を飾り上げておるのか。」

道之助は検閲役の前に平伏した。

「私はただ、義父の差し図に従ったまでにございます。検算は供の者どもが行い、私はただ筆を取っただけにございます。」

「ただ筆を取っただけ、ですと。その筆が、百姓の命に関わる確認書に、間違いなしと記した筆であるぞ。改めもせずに署名すること自体が、罪であると知らぬのか。」

その時、群衆の中から年のいった小役人が進み出て、平伏した。道之助の顔色が凍りついた。

「恐れながら申し上げます。検算が足りぬと、三度お伝えいたしました。しかし、旦那様は縁組を控えて、ことを大きくするなと。」

「その通りか。」

道之助は答えられなかった。検閲役の声が、庭に響き渡った。

その日を持って、道之助への出仕の話は立ち消えとなった。金原も、道之助を切り捨てた。

「家に累を及ぼす者を、婿に迎えるわけにはいかぬ。縁組は、取り止めじゃ。今すぐ、この家を出ていけ。」

その時、部屋の奥から千代が歩み出てきた。手には、嫁入りの装飾品を納めた箱を抱えていた。千代は箱を庭に置き、父の前に立った。

「父上。この縁談は、私が先にお断り申し上げます。そして、父上に申し上げねばならぬことがございます。」

「今、何を言い出すのだ。」

「蔵の検算が、なぜ合わぬのか。父上こそが、一番ご存知でございましょう。罪をよそに押し付けるのは、おやめください。私は父上が、例え罰を受けようとも、正しい場所にお立ちになることを望みます。」

庭が、水を打ったように静まり返った。娘の言葉に、金原は言葉を失った。

千代は今度は、道之助の方へ向き直った。

「旦那様とは、ここまででございます。どうか、これからは地位よりも人を先にご覧になって、生きてくださいませ。」

道之助は何も言えぬまま、ただうなだれた。検閲役はその光景をじっと目に留め、筆を取った。

後日、金原兵衛は御用達の役目を解かれ、屋敷での謹慎を命じられた。財産を上げて、年貢前の不足分を弁償させられ、これまで築いてきた町の中での力も、ことごとく失うこととなった。金原への処罰は、それを持って終わりとなった。

道之助は、紋付きの羽織のまま門の外に立たされた。婚姻も出世も、一夜にして消え去ってしまったのである。

町を歩けば、人々のひそひそ話が背中に刺さった。

「あの人だそうだ。御恩のある人が没落したからと、縁談に背を向けたという、あの学者様。」

「ところが、柳原様は没落していなかったそうではないか。屋敷にまた灯りがともっておるそうだ。」

「なんと。それでは、あのお嬢様を、あの者が自分の足で蹴り飛ばしたということではないか。」

道之助の足が、ぴたりと止まった。

「試しであったのか。あの百日は、全て試しであったのか。」

道之助は空を仰ぎ、ぶるぶると震えた。まず込み上げてきたのは、悔いではなく、恨みであった。私を欺いたというのか。人を試すために、仕組んだというのか。

叫びながら帰りついた小屋には、誰もいなかった。母のお民は、数日前から隣村の縫い物の手伝いに出かけていたのである。冷え切った膳が床に置かれたままであった。

部屋の奥に、風呂敷包みが目に入った。開いてみると、また新たな羽織が一つ、出てきた。金原家の使用人が後になって届けてくれた、母のあの羽織であった。

羽織の中には、くしゃくしゃに丸められた紙切れが入っていた。

「人の行末は、出仕が定めるものではなく、心が定めるものだと聞いております。母はお前の心が戻ってくるのを、待っております。」

道之助の手が、震えた。門前で追い返されて立っていた、あの老女の姿が浮かんだ。戸の陰に隠れて、窓を閉めた自分の手も浮かんだ。母はあの門前払いを受けても、なお息子のために羽織を置いて行ったのである。

羽織の裏には、足の形に沿って、細かな針目がきちんと並んでいた。目で測らずとも、息子の足を知る母の手であった。

あの昔、羽織を撫でながら言っていた言葉が、耳元に蘇った。

「この御恩を、一生忘れてはならぬよ。道を外れれば、もう人ではないのだからね。」

道之助は羽織に顔を埋め、崩れ落ちた。肩が、がくがくと震えた。恨みが悔いに変わり、悔いが道行きに変わるまで、それほど時間はかからなかった。泣き声が、誰もいない小屋の障子をふるわせたという。

夜が明けると、道之助は絹の羽織を脱いだ。古びた木綿の着物に着替え、柳原家へと駆けていった。

屋敷の門前には、木綿の着物をまつわった女たちが列をなしていた。風呂敷という風呂敷に、仕事が詰まっていた。梅恵の女たちが、仕事を受け取りに来ていたのである。女たちの中で、年のいった者が道之助に気づき、うつむいた。

「お嬢様は、財を取り戻してなお、私たちと同じように縫い仕事をしておられますよ。あなた様は、どんな顔をしてここに来なさったのですか。」

道之助は答える言葉を持たなかった。うなだれたまま立ち尽くしていると、女たちの笑い声が、庭を越えて聞こえてきた。財を取り戻した家ではなく、人の暮らしの匂いがする家であった。自分が恥じて背を向けたあの貧しさが、この家では、これほど温かなものになっていたのである。

その時、庭へ通じる障子が、音を立てて開いた。木綿の着物をまつわった咲が、庭に立っていた。百日ぶりに向き合う二人の間で、庭の梅の枝が、わずかに揺れた。

「お嬢様。私が、間違っておりました。人では、ございませんでした。」

道之助は庭に膝をついた。紋付きの羽織の代わりに、古びた木綿の着物であった。見守る梅恵の女たちが、息を飲んだ。

「貧しさが恐ろしくて、逃げました。しかし、逃げてみて分かったのです。私が捨てたのは、貧しさではなく、人であったのだと。恩であり、母であり、あなた様であったのだと。」

咲は縁側の端に、静かに腰を下ろした。惣右衛門も、部屋から出てその光景を見つめた。

惣右衛門が先に口を開いた。

「お前が憎まれたのは、貧しさを避けたからではない。貧しかった私たちを、裏切ったからだ。その二つがどれほど違うか、今なら分かるか。」

「骨身に染みて、分かります。旦那様。」

咲は頭を下げ、そして意外な言葉を口にした。

「私にも、お詫び申し上げねばならぬことがございます。人の心を試したこと、正しいこととは思えませんでした。申し訳ございませんでした。」

「いえ、試しがあなた様を、このようにしたのではございません。試しは、もとよりあったものを明らかにしただけです。至らぬ選択は、全てご自分でなさったのですから。」

道之助は額を地面に付けて、懇願した。

「もう一度だけ、機会をいただけませんでしょうか。初めから、やり直したく存じます。縁組をもう一度、お許しください。」

庭が、静まった。咲は箪笥から守り袋を取り出し、道之助の手に、そっと乗せた。

「恨みは、下ろしましょう。憎しみを抱いて生きるには、残された日々が、あまりに惜しいですから。」

しかし、咲は一度、息を整えた。

「縁組は、あなた様が先に、なかったことになさいました。旦那様、もう私たちは、それぞれの道を歩まねばなりません。この玉は、お母様にお返しください。元の場所に戻るべきものですから。」

道之助は玉を両手で受け取った。それ以上、すがることはしなかった。すがる顔がないことを、その本人が一番、よくわかっていたからである。

道之助は立ち上がって深く頭を下げ、背を向けた。書斎を出ていくその背は、入ってきた時よりも、いくらか人らしく見えたという。

道之助が真っ先に駆けつけたのは、母の小屋であった。縁組の手伝いから戻ってきたお民が、息子を見て、ぴたりと足を止めた。道之助は何も言わず、湯を汲んできた。そして母を縁側に座らせ、その前に膝まずいた。

「母上。足を、お出しください。」

「何をするというのだね。」

「良い歳をして、三里の道を歩かれた足です。この愚かな息子が、門も開けなかった。あの日、この足で、雨の中を歩かれたのです。」

お民は仕方なく、足を差し出した。道之助は丁寧に、その足を洗った。

「湯が、暑くはございませんか。」

「暑くていい。ちょうどいいくらいだよ。」

そう言いながら、お民はしきりに天井ばかりを見上げていた。すすり泣きの声が漏れた。ひび割れた足に湯が触れるたびに、道之助の目からも、涙がぽたぽたと落ちた。

生涯、仕事で息子を育て上げた足であった。息子の羽織を抱いて、三里の道を往復した足であった。その足が、これほど小さく痩せていたことを、道之助は三十になって初めて知ったのである。

「母上。申し訳ございませんでした。母上が恥ずかしいのではなく、私が恥ずべきものであったのです。」

「もういい。もういいのだよ。戻ってきたのだから。それでいい。」

お民は濡れた手で、息子の頭を撫でた。母の手は、その一言だけで満たされるものであった。

その後、道之助は藩の寺小屋で、貧しい子供たちに学問を教えるようになった。書物代のない子には、それを求めなかった。

ある日、幼い教え子の一人が、首をかしげて尋ねた。

「先生は、どうして束脩を受け取らないのですか。」

「先生も昔、ただで学ばせてもらったのだよ。その恩を返す相手がいなくてね。お前たちに返しているのだ。」

「私たちに、返すのですか。」

「そうだ。お前たちも大きくなったら、誰かに返しなさい。そうすれば、恩というものは絶えることなく、巡り巡っていくのだよ。」

子供たちは意味が分からず、ただ頷いていた。分からなくても構わなかった。いずれ、分かる時が来るであろうから。

使い走りをして貯めた銭は、少しずつ柳原家に返されていった。惣右衛門はその銭を受け取る代わりに、寺小屋の学資として送り返したという。恩というものは、こうして巡り巡って、誰かの冬を温めるのであった。

咲の梅恵は、年を経るごとに、大きくなっていった。子育てに苦労する家や、夫を亡くした女、居場所のない女たちが、針一本で自分の生計を立てられるようになった。ある年には、江戸の御藩から注文が来て、女たちが肩を弾ませて喜んだという。

「お嬢様、この分では、江戸中の者が私たちの羽織を履くことになりましょう。」

「それで良いのです。羽織を作る仕事がなくなることこそ、良いことですから。」

年のいった婆の孫は、寺小屋に通うようになった。その寺小屋の師が誰であるかを知り、婆はしばらく言葉を失っていたという。

千代もまた、自分の道を歩んだ。父の過ちを覆い隠すことなく手放し、飢える人々を助ける仕事に身を投じた。二人の女は、時折り町で顔を合わせると、何気なく互いの手を取り合い、また話した。

幾年月が過ぎ、梅の花が咲き乱れる春のことであった。咲の元に、一通の文が届いた。母のお民が送ったものであった。

「お嬢様のおかげで、私の息子はようやく、人らしく生きております。ありがたく、またありがたく存じます。」

咲は文を胸に抱き、庭の梅を見上げた。口元に、静かな微笑みが広がった。

昔から、「恩を仇で返す」という言葉がある。受けた恩義に背を向けることを言う言葉である。道之助はその罪で、婚姻も出世の道も失ったが、最後に、心一つだけは取り戻すことができた。それが最も大きな罰であり、最も大きな許しであったのかもしれない。

今、この物語を聞く皆様の胸にも、恩を受けた人を裏切り、泣いた夜があったことであろう。その夜が無駄ではなかったと、この物語が代わりに語ってくれることを願う。

耐えしのんだ心は、必ずどこかで花となって咲く。貧しさは人を惨めにするものではない。受けた恩を忘れ、人を見捨てる時、初めて心が貧しくなるものなのである。

もし皆様であれば、どうなさっただろうか。百日を経て戻り、膝をついたあの人を、再び受け入れられただろうか。

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