「お母様、今日はどうか隅の倉庫部屋で息を殺していてください。式が終わるまで、そこにいてください」…

「お母様、今日はどうか隅の倉庫部屋で息を殺していてください。式が終わるまで、そこにいてください」...

就任式の日、私は古い黒のスーツを着て銀行本店に立っていた。三十年前、夫の葬儀で着たきり、ビニールカバーの中で眠っていたその服は、防虫剤の匂いが染みつき、ボタンの一つは糸がほつれて軽く留まっているだけだった。鏡に映る私は、ただの平凡な老婆だった。しわだらけの顔、曲がり始めた腰。しかし、その目だけはまだ生きていた。銀座の金融業界で血も涙もなく生き抜いてきた光が、その瞳に宿っていた。

今日は、私の息子・純平が大和貯蓄銀行の頭取に就任する日だった。夫を亡くし、一人で息子を育てるために、夜明けごとに市場で露店を広げ、夜は帳場を整理しながら目を血走らせてきた日々が、走馬灯のように駆け巡った。人々は私を、豆もやしの値段を十円でも値切るケチなばあさんとしか思っていなかった。しかし、それは私の表の顔に過ぎなかった。私の本当の正体を知る者は、数えるほどしかいなかった。

タクシーで丸の内に着くと、思わず息を呑んだ。銀行本店のビルは天をつくようにそびえ立ち、外壁には息子の顔が映った大きな垂れ幕が掲げられていた。私はしばらくその垂れ幕を見上げ、目頭が熱くなった。しかし、回転ドアの前で警備員に止められた。

「おばあさん、物売りは裏口へどうぞ」

私は一瞬耳を疑った。物売り? 私が誰だと思っている。

「私は本日就任する佐藤純平頭取の母です」

警備員は私を上から下まで見下ろし、露骨な侮蔑の表情を浮かべた。その時、後ろから聞き慣れた声がした。

「何をしている? この方がどなたか分からんのか?」

武田徹也だった。警備班長の制服を着ていたが、私の前では深く腰を折った。彼は三十年前に私が市場で拾って育てた子だ。十五歳で両親をなくし、路頭に迷っていた子を私が引き取り、食事を与え、学校に行かせた。今は銀行の警備班長を務めているが、実際は私の目と耳の役割を果たす最側近だった。徹也が警備員を追い払い、私を案内しながら小声で囁いた。

「会長、今日は少しお気を固くお持ちください。あちらが神経を尖らせております」

あちらとは、嫁の青山美紀のことだろう。ロビーに入ると、目が膨らんだ。華やかなシャンデリア、シャンパンタワー、クラシック音楽。招待客は皆、ブランド品で着飾っていた。その中で、私の古びたスーツとすり減った靴は限りなく素ぼらしく見えた。私は会場の隅、大きな柱の影に隠れた椅子へと静かに歩いて行った。人々の視線を感じた。ひそひそ話す声も聞こえた。

「あのおばあさん、誰? 清掃員じゃないの?」

私は聞こえないふりをして、息子を探した。式が始まる十分前、純平が遠くで来賓と握手を交わしていた。誇らしくて涙が込み上げてきた。私は胸を張ってそちらへ歩み寄ろうとした。その瞬間、誰かが私の腕を掴んだ。手首が痛むほど強く。華やかなクリーム色のドレスを着た美紀が、私に向かって歩いてきたのだ。彼女は私を見るなり顔をしかめ、周りの招待客に向かってにっこりと微笑んで見せた。完璧な奥様の笑顔だった。そして、私の耳に唇を寄せた。冷たい息が耳元を撫でる。

「お母様、正気ですの? ここがどこだと思って、そんなボロを着ていらっしゃるんですの。町内の軽い会のパーティーか何かと勘違いなさって」

私の耳に、歯を食いしばる音が聞こえた。

「今日はどうか隅の倉庫部屋で息を殺していてください。余計なことは考えず、余計なことをして純平の顔に泥を塗ったりせずに。小義母様はただ静かに拍手だけしていればいいんですよ。お分かりになりましたか?」

声は低かったが、その中に含まれた警告は刃物のように鋭利だった。私は慌てて遠くの純平に視線で助けを求めた。しかし、息子は私の視線を避けると、顔を背けて別の客に挨拶をした。心臓が凍りついた。美紀は再び仮面を被るようににっこりと笑い、立ち上がった。まるで私に優しく挨拶をしたかのように振る舞いながら、他の招待客に挨拶を交わした。

「さあ、いらっしゃい、お母様」

美紀が私の腕を掴んだ。ロビーの片隅、備品倉庫と書かれたドアの前で、彼女は私を乱暴に押し込んだ。清掃用具や壊れた椅子が積まれた狭い空間だった。

「お客様の気分を害しますわ。匂いもしますし。式が終わるまでここで息を殺していてください。終わったら迎えに来ますから。裏口からお帰りになって」

バタンとドアが閉まり、真っ暗な闇が私を包んだ。消毒薬の匂いと埃の匂いが鼻をついた。しばらくして、ドアの外からシャンパングラスがぶつかる音、祝福の拍手、笑い声、クラシック音楽が聞こえてきた。その華やかな音は、狭い倉庫の中の私をより一層見すぼらしくさせた。私は隅にある古いソファに崩れるように座った。指先が冷たく震えてきた。これは単なる怒りではなかった。胸の奥底から込み上げてくる悲しみに近かった。

しかし、美紀は知らないことがあった。私がこの銀行の株式の六十五パーセントを所有する実質的なオーナーであるということ。夫が亡くなった後、私は息子に力を与えるため、経営の第一線から退いた。自ら姿を隠し、後ろから見守ることにしたのだ。それゆえに、嫁は私が何も知らないただの隠居した老人だと思い込み、無視した。

その時だった。壁の隙間からロビーがぼんやりと見えた。ホールの中央には大きな絵画が掲げられており、美紀がマイクを握って客に自慢していた。

「この絵画は海外の巨匠の作品で、時価数億円はいたします。投資の価値を高めてくれるものでございます」

私はその絵を注意深く見つめた。子供の頃、神田のペンキ屋で三年間働いた経験。そして銀座で数多くの担保を鑑定してきた私の勘が、何かがおかしいと囁いた。絵の質感が妙に艶っぽく、それにまだ乾いていない油絵特有の溶剤の匂いがかすかに漂ってきた。あの絵、具が乾き切っていない。数億円の名作があんなにずさんなはずがなかった。私は美紀の得意げな笑顔を見つめながら目を細めた。何か腑に落ちない匂いがした。金の匂い。そして、腐敗していく匂いが。

私はポケットから古い携帯電話を取り出した。三十年前のこの携帯はスマートフォンのように華やかではないが、私が最も信頼する武器だった。短縮ダイヤルの一番には徹也が、二番には専務が登録されていた。このボタン一つで、銀行全体が停止するのだ。私はゆっくりと頷いた。まだだ。もう少し様子を見よう。嫁が一体何を企んでいるのか、この目でしっかりと確かめなければならない。

倉庫の壁は思ったより薄かった。隣の部屋から聞こえる音がそのまま伝わってきた。最初はただ話しているだけだと思った。ところが、聞き覚えのある声が耳に突き刺さった。嫁の声だった。私は息を殺し、壁に耳をぴったりとくっつけた。美紀は誰かと電話で話していた。声のトーンが全く違った。

「あなた、絵の鑑定書、水増しされたの確認したでしょう。今回の三十億円の融資さえ承認されれば、すぐに高飛びしよう。心配しないで。あのおばあさんはもう何も分からない認知症の年寄りなんだから。私たちの計画通り着々と進んでいるわ」

おばあさんという言葉に、私の耳がぴくりと動いた。胸が息苦しくなると同時に、頭が冴え渡る不思議な気分だった。

「シンガポール行きの飛行機のチケットは予約しておいたわ。うん、分かった。愛してるわ、あなた」

通話が終わる音が聞こえた。私は壁から身を離し、ゆっくりと後ずさった。手がガタガタと震えた。三十億円の水増しされた鑑定書。シンガポール。パズルのピースが頭の中で組み合わさり始めた。あの絵が偽物だという私の直感が当たっていたのだ。嫁が偽の絵を担保に銀行の金を横領しようとしていた。それも、私の血のような金で設立した銀行で。夫が生前、血と汗を流して貯めた種銭で始めたあの銀行を、あの女が丸ごと奪おうとしていた。

今すぐにでもドアを蹴破って飛び出し、嫁の胸ぐらを掴みたい気持ちだった。しかし、銀座で三十年間生き抜いてきた私の本能が私を押しとどめた。今飛び出して大声で叫んだところで、何が変わるだろうか。証拠もなく、喚いた老婆が何か言っていると片付けられるのが関の山だ。私はポケットから古い携帯を取り出し、短縮ダイヤルの一番を押した。呼び出し音が一回なるかならないかのうちに、徹也が電話に出た。

「はい、会長」

「徹也。今すぐメインサーバーを落として」

私は短くはっきりと告げた。声が震えないように歯を食いしばった。

「承知いたしました。会長。ただ今、式が始まるところですが、私が命じたことだと絶対に悟られないように、機械の故障に見せかけてシステムを麻痺させます」

電話を切ってから一分も経たないうちだった。会場内に甲高い警報音が鳴り響き始めた。私は倉庫のドアの隙間からロビーを覗いた。全ての大型スクリーンが真っ暗になり、赤い文字で警告文が表示された。「緊急システム点検中。式典を一時中断します」。照明が点滅し、スピーカーから耳障りな雑音が流れ出した。招待客がざわめき始め、美紀が甲高い声で叫んだ。

「一体どうしたんだ?」

息子の純平は、どうしていいか分からず周りをキョロキョロと見回していた。美紀の顔が真っ青になった。慌てて誰かに電話をかけようとしている。私はその光景を見守りながら、口角がわずかに上がるのを感じた。私は倉庫からそっと抜け出した。混乱に乗じて、誰も私に気づかない。私は人混みをかき分け、ロビー中央に飾られた絵画の前へと近づいた。ポケットから虫眼鏡を取り出し、絵の表面を詳しく調べた。近くで見ると、より確信が持てた。塗り重ねられた筆跡、乾き切っていない油絵の痕跡。そして鼻先をかすめる溶剤の匂い。これは、せいぜい数十万円の習作レベルだった。

警備室の方へ足を運ぶと、徹也がすでに待っていた。彼は私を見るなり深く腰を折った。

「会長、ご指示通り、単純なエラーと見せかけてあります。外部からの攻撃の痕跡は一切なく、設備の老朽化による一時的な障害として報告されるでしょう」

「よくやった。それから、これを見てくれ」

徹也が分厚い封筒を渡した。私は封筒を開け、中を覗き込んだ。嫁の法人カードの利用明細だった。都内某ホテルのスイートルーム、男性用高級時計の購入、シンガポール行きの片道航空券の予約。日付を見ると、航空券は来週のものだった。私は書類を再び封筒に戻し、歯を食いしばった。胸の奥から熱いものが込み上げてきた。怒りだった。三十年前に夫が死んだ時も、借金に追われた時も、これほど腹が立ったことはなかった。

「徹也。あの絵を鑑定した業者はどこだ?」

「ギャラリーMというところです。奥様が自ら経営されている場所です」

「そうか。では、そのギャラリーの裏を調べてくれ。最近六ヶ月間の取引履歴と資金の流れ、全てを調査してくれ」

「承知いたしました、会長」

外の騒ぎはますます大きくなっていた。息子の純平が放送で「単純な機械の不具合です。すぐに正常化します」と収拾しようとしていたが、すでに主要な来賓は不快な表情で席を立ち始めていた。嫁が望んだ華やかな就任式は、完全に台無しになった。

私は職員たちの目を盗み、非常階段を通って屋上へ上がった。十五階まで歩いて登ったので膝ががくがくと痛んだが、我慢した。屋上のドアを開けると、冷たい風が顔を打った。私は手すりに持たれ、東京の街並みを見下ろした。日が暮れかけていた。ビル群の間に赤い夕焼けが広がっていた。私は深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺の中に入ってきて、頭がすっきりする感じだった。私の銀行、私の金、そして腐り切った私の嫁。私が直接取り返してやる。

家に帰る途中、息子に電話をかけた。心配するふりをして声を整えた。

「純平や、今日のことは大丈夫だったか?」

電話の向こうから、息子の苛立ったため息が聞こえてきた。

「母さんのせいで、台無しでもないことになったんじゃないですか。だから来ないでって言ったのに」

息子が怒鳴った。そして、後ろから美紀の笑う声が聞こえた。

「それ見たことか。私が何て言った? あの年寄りが来たから、こんなことになったのよ」

電話は一方的に切れた。私はしばらく消えた画面を見つめていた。胸が詰まった。私の子供が、私が乳を飲ませて育てた私の子供が、あんな風になってしまったのか。涙が込み上げたが、無理やり飲み込んだ。今は泣いている場合ではない。

ガランとした家に入ると、静寂が私を包んだ。私は靴も脱がずに寝室へ入り、箪笥の上に祭ってある夫の遺影の前に座った。焼酎の瓶を開け、グラスに注いだ。夫の遺影にも一杯注いだ。

「あなた、私、今怖いのよ。私たちの息子があんなになってしまったわ。でも、私は引き下がれない。あなたが血と汗を流して貯めたお金を、あの女に全部奪われるわけにはいかないじゃない」

焼酎を一杯煽った。喉が焼けるように熱くなった。涙なのか酒なのか分からないものが、喉を伝って落ちていった。私は遺影の中の夫の目を見つめた。若い頃、銀座の底で共に汗を流して転がっていた。あの頃の夫が思い浮かんだ。

「あなたなら、どうしたかしら? ああ、そうだったわね。あなたはいつもそう言ってたわ。まずは証拠を確保しろと。感情に流されるなと」

私はグラスを取り、徹也にメールを送った。指が震えた。「本日より融資案件は全て保留。システム点検を実施。私が再度連絡するまで」。メールを送ってから、ようやく少し緊張が溶けた。窓の外に月が登っていた。丸い満月だった。私はその月を見つめながら誓った。今度は絶対に負けない。自分の手で始めた戦いなのだから、自分の手で必ず終わらせると。

翌朝六時、私は目を覚ました。眠りが浅かった。夢の中でも嫁の声が響いていた。「あのおばあさんはもう何も分からない認知症の年寄りなんだから」。その言葉が耳から離れなかった。午前八時、徹也から電話があった。

「会長、ギャラリーMの調査結果が出ました。今すぐお伺いしてもよろしいでしょうか?」

三十分後、徹也が分厚い書類の束を持って現れた。いつもと違い、顔が強張っていた。唇を固く結んでいる。何かただならぬことがあると一目で分かった。

「会長、お座りになってお聞きになった方がよろしいかと」

私はリビングのソファに座った。徹也が書類をテーブルの上に広げた。

「ギャラリーMは三年前に設立されました。代表は青山美紀、つまり奥様です。しかし、実際の運営は別の人間が行っていました」

「誰だ?」

「遠藤健二という男です。三十八歳、美術品ブローカーです。イタリアで美術史を専攻したとされていますが、実際には学歴詐称の疑いもあります」

徹也が写真を取り出した。見目の良い若い男だった。目つきが鋭く、口角がわずかに上がっているのが狡猾に見えた。高級腕時計をつけ、スーツも一目で高級なものと分かった。

「この男がギャラリーMの実質的なトップです。そして、奥様とは三年間、内縁関係を続けています」

私は写真をじっと見つめた。三年間ということは、純平と結婚して二年後から浮気をしていたことになる。私の息子が必死に働いている間、あの女は他の男と遊び放題だったのか。胸が冷たくなった。

「証拠はホテルの出入り記録、海外旅行の同行記録。そして、これです」

徹也が別の書類を取り出した。不動産の登記簿だった。

「青山にある四十二平米のマンションです。名義は遠藤健二になっていますが、実際の購入資金はギャラリーMの法人口座から出ています。八千万円です」

八千万円。私は歯を食いしばった。その金がどこから出たのか。銀行の資金が流出したのだ。私の夫が血と汗を流して貯めた金で、あの女は浮気相手の男に家を買い与えたのだ。拳が自然と握られた。

「まだあるのか」

「はい、会長。これが最も重要です」

徹也が最後の書類を取り出した。録音の反訳書だった。

「昨夜の奥様と遠藤健二の通話内容です。当方のセキュリティチームが確保しました」

私は反訳書を読み始めた。読めば読むほど、手が震えてきた。

「美紀、あなた大変よ。就任式がめちゃくちゃになったわ」
「健二、どうしたんだ?」
「美紀、システムが突然ダウンしたの。でも、問題はそれじゃないわ」
「健二、じゃあ何だ?」
「美紀、徹也が来てたのよ。あのおばあさん、何か感づいたみたい」
「健二、何を感づくって、ただの呆けたばあさんだろ」
「美紀、違うわ。目つきが違った。昔、事業をやっていた頃の目つきだったわ」
「健二、それで?」
「美紀、私たちの計画、前倒ししましょう。来週まで待てないわ」
「健二、融資の件は美紀、純平にプレッシャーをかければいいわ。あいつは私の言うことなら何でも聞くから」

私は反訳書をテーブルの上に置いた。手がガタガタと震えた。怒りのせいか、悲しみのせいか分からなかった。

「まだあるのか、徹也」

「はい、会長。これは本当にお伝えしづらいのですが」

徹也が頭を下げた。いつもは堂々としている彼が、私をまっすぐ見ることができずにいた。

「行ってみろ」

「奥様が会長を老人ホームに入れようと準備を進めています。認知症の診断書を偽造しようとする動きが確認されました。都内の精神経科病院の院長と接触した記録があります。三百万円を渡したようです」

私はしばらく何も言えなかった。老人ホーム。私を認知症患者に仕立て上げて老人ホームに押し込み、その間に銀行の金を全て横領するつもりだったのだ。まともな人間を精神病患者にして閉じ込めようというのか。全身に鳥肌が立った。

「純平は、そのことを知っているのか?」

徹也はしばらく躊躇してから口を開いた。

「昨夜の奥様と息子さんの通話内容も確保しました」

また別の反訳書が出てきた。私は震える手でそれを読んだ。

「美紀、あなた、お母さんの件、純平君に任せるわよ」
「美紀、老人ホームに入れるの、本当にいいの?」
「純平、母さんがショックを受けないように静かに進めてくれ。僕は知らないことにしておくから」
「美紀、分かったわ。処理するわね」

反訳書を読んでいる間、目の前がかすんだ。私の子供が、私が乳を飲ませて育てた私の子供が、あの女の味方をしていた。母親を老人ホームにぶち込むことを、「綺麗に処理しろ」と。手が震えて、紙を持つことができなかった。反訳書が床に落ちた。私は勢いよく立ち上がった。目まいがしたが、ぐっとこらえた。

「徹也。あの病院の院長の裏を調べてくれ。免許の取得過程、病院の運営状況、全てだ。それから、ギャラリーMに流れた資金の流れも完璧に整理して、法的に問題になりそうなものを全て探し出せ」

「承知いたしました、会長。それから、万が一に備え、会長の身辺警護も強化いたします」

「ああ、そうしてくれ」

徹也が出ていった後、私はしばらく窓の外を眺めていた。空はどんよりと曇っていた。雨が降りそうだった。心も空のように暗雲に覆われていた。三十年間、一人を立派に育てようと歯を食いしばって生きてきたのに、その息子が私を捨てようとしていた。その時、古い携帯が鳴った。発信者を見ると、息子の純平だった。私は深呼吸をして電話に出た。

「母さん、僕だ」

「そうか、純平か。どうしたんだい」

「明日の夜、時間ある? 美紀と一緒に夕食でもどうかな」

私は一瞬、心臓が凍りついた。急にどうして夕食などと。どうにも何か怪しい。

「急にどうして?」

「いや、その、昨日は母さんにひどいこと言っちゃったから、申し訳なくて」

声がぎこちなかった。いつもの純平の声ではなかった。何かを隠しているのが感じ取れた。

「そうか。分かった。明日の夜、何時にどこで会えばいいんだい?」

「夜七時に青山のレストランに来てくれるかな? 住所はメールで送るよ」

電話が切れ、私はしばらく考え込んだ。青山。あの辺りに何かあったか? ああ、そうだ。遠藤健二。あの男のマンションが青山にあると言っていた。偶然の一致だろうか。いや、世の中に偶然などない。きっと何かあるのだ。私は徹也に再び電話をかけた。

「徹也、明日の夜、息子が青山で食事をしようと言ってきた。何か怪しい。尾行をつけてくれ。それから、万が一に備えて録音機も用意しておいてくれ」

「承知いたしました、会長。万が一に備え、私も近くで待機しております」

電話を切り、私は再び夫の遺影の前に座った。写真の中の夫が私を見ていた。若い頃の姿そのままに。焼酎を一杯注ぎ、夫の遺影にも一杯注いだ。

「あなた、私たちの息子が私を老人ホームに入れようとしているのよ。認知症患者に仕立て上げて。私が一体何をそんなに間違ったのかしら。息子が私にこんなことをするなんて」

涙がぽろぽろと流れ落ちた。今回はこらえることができなかった。三十年間、一人で息子を育てるために血の涙を流してきたのに、その代償がこれだった。夜明けごとに市場で露店を広げ、夜は帳場を整理しながら手伝した。その歳月が全て無駄だった。家の中の夫に申し訳なかった。あなたの息子を私が間違って育ててしまった。許してほしいとつぶやいた。

しばらく泣いてから、私は涙を拭った。鏡を見ると、目がうさぎのように真っ赤に腫れていた。しかし、その瞳の中では炎が燃え盛っていた。もうこれ以上やられっぱなしではいないという炎が。泣いたところで何も変わらない。涙は弱い人間の武器だ。もう泣くだけ泣いたのだから、戦う時が来た。私は箪笥の奥深くから古い書類鞄を取り出した。夫が生前に使っていたものだ。革がすり減って色褪せていたが、まだ丈夫だった。鞄の中には、銀行の株券や経営権に関する書類が入っていた。株式六十五パーセント。これが私の武器だった。この書類さえあれば、いつでも銀行をひっくり返すことができた。

翌日の夜六時、私は鏡の前に立った。夫が買ってくれた黒のフォーマルスーツに身を包んでいた。イヤリングもした。結婚後十周年に夫が送ってくれた真珠のイヤリングだ。徹也が渡してくれた子型の録音機をブラウスの内ポケットに入れた。爪ほどの大きさだった。ボタンを一つ押すだけで、周りの音が全て録音されるとのことだった。私は鏡の中の自分を見つめた。七十三歳の老人だが、今日だけは眼光が鋭かった。しわの寄った顔の上に、そういう覚悟が宿っていた。

タクシーで青山に向かった。夜七時ちょうどにレストランに到着した。高級和食店だった。個室の奥の席に、純平と美紀がすでに並んで座っていた。テーブルの上には花まで飾られていた。

「お母様、いらっしゃいませ」

美紀がにこやかに立ち上がった。数日前、私を倉庫に押し込んだ女と同一人物とは思えないほどだった。声も甘く、表情も優しかった。私は心の中で嗤った。演技がうまいこと。あの笑顔の裏に毒を隠しているくせに。

「母さん、座って」

純平が席を進めた。声がぎこちなかった。私はゆっくりと向かいの席に座った。テーブルの上にはすでに高級な料理が並べられていた。アワビの柔らか煮、特選牛肉のすき焼き、海鮮の蒸し物。どれもこれも高価なものばかりだった。美紀が私の前に料理を取り分けながら言った。

「お母様、たくさん召し上がってください。最近、食欲がないと伺いましたので」

私は箸を取りましたが、食欲はありませんでした。この華やかな料理が全て罠のように感じられたのだ。私はわざとゆっくりと噛みしめながら、二人を観察した。純平はしきりに携帯電話をいじっていた。何か焦っているように見えた。美紀はしきりに私に料理を進めながらも、目は何度も時計の方を向いていた。何かを待っている様子だった。

その時、個室のドアが開いた。見知らぬ男が二人入ってきた。一人は五十代くらいに見えるスーツ姿の男で、もう一人は白衣を着ていた。医者の白衣だった。白衣のポケットには聴診器が差してあり、手には黒い書類鞄を持っていた。私はその瞬間、内ポケットに手を入れ、録音機のボタンを押した。

「ああ、いらっしゃいましたか」

美紀が席から立ち上がり、彼らを迎えた。私は心臓がドキンと音を立てるのを感じた。予想通りだった。私を老人ホームに送ろうというのだ。手のひらに汗がにじみ始めたが、表には出さなかった。わざとぼんやりとした表情を作った。

「お母様。こちらは南青山の安らぎの家の施設長でいらっしゃいます。そして、こちらは東京神経科クリニックの木村院長先生です。今日、特別にお時間を割いてくださいました」

美紀がさも当然のように紹介した。私は二人の男をゆっくりと眺めた。老人ホームの施設長という男はニヤニヤと笑っており、医者という男は書類鞄を抱えていた。

「お母様、実は今日、大切なお話があってお集まりいただきました」

美紀が私の手を握った。冷たい手だった。

「何の話題?」

「お母様、最近、物忘れがひどいでしょう。私たちが心配になって、専門の先生方をお呼びしたんです。一度、検査を受けてみてはいかがかと思いまして」

私は心の中で鼻で笑った。検査? 偽造された診断書はすでにあの鞄の中に入っているのでしょう。医者という男が書類を取り出した。私の名前が書かれた診断書だった。「初期の認知症の疑い」と書かれていた。認知機能の低下、短期記憶の障害、判断力の低下。ありとあらゆるそれらしい言葉が並べられていた。私はその書類をじっと見つめた。一度も検査を受けたことがないのに、診断書があるなんて。これ以上の詐欺がどこにあるだろうか。

「お母様、この診断書によりますと、専門的なケアが必要な状態でございます。安らぎの家で快適にお過ごしになるのはいかがでしょうか?」

美紀が甘い声で言った。しかし、その目つきは冷たかった。早くこの年寄りを片付けてしまいたいという目つきだった。私はゆっくりと顔を上げ、息子を見つめた。純平は私の目を避けた。顔を俯き、テーブルを見下ろしているだけだった。耳が真っ赤に染まっていた。恥ずかしいのか、申し訳ないのか。私の胸が引き裂かれるようだった。

「純平」

私が呼ぶと、息子はびくっとした。

「お前も、これがいいと思うのかい?」

「母さん、その……」

純平が言葉をつまらせた。隣で美紀が肘で純平をこつんと突いた。

「お母様のためですわ。老人ホームで安らかにお過ごしになれば、健康も回復なさるでしょう」

美紀が代わりに答えた。私はもうこれ以上我慢できなかった。いよいよカードを切る時が来た。ブラウスのポケットの中で録音機が作動していることを確認し、ゆっくりと口を開いた。声が震えないように深く息を吸い込んだ。

「美紀さん、遠藤健二は最近どうしているのかしら?」

瞬間、美紀の顔が強張った。目が大きく見開かれ、唇がわなと震えた。まるで氷水を浴びせられたように全身が硬直した。隣にいた純平もはっと顔を上げた。

「な、何をおっしゃっているんですの?」

美紀がどもった。声が一オクターブ高くなった。

「青山の四十二平米のマンション、八千万円で買ったそうじゃないか。ギャラリーMの法人口座から金が引き出されたことも、全部知っているよ」

美紀の顔が真っ青になった。手に持っていた湯呑みがガタンと音を立てた。

「三十億円の融資、シンガポールへの逃亡計画。そして、私を認知症患者に仕立て上げて老人ホームにぶち込もうとしていることまで、私は全部知っているんだよ」

私ははっきりと告げた。声が震えないように歯を食いしばった。テーブルの上に重い沈黙が降り立った。時計の秒針の音がやけに大きく聞こえた。老人ホームの施設長と医者は慌てた表情で互いを見つめていた。美紀は唇を噛みしめ、私を睨みつけていた。その目つきからは殺意が感じられた。

「お母様、本当に初期の認知症の症状が現れているようですね。幻覚でもご覧になっているのでは?」

美紀が無理に笑顔を作りながら言った。しかし、声は震えていた。私はハンドバッグから書類の封筒を取り出した。徹也が準備してくれた証拠資料だった。ホテルの出入り記録、海外旅行の同行写真、マンションの登記簿、そして通話の反訳書の写し。私はそれらをテーブルの上に一枚ずつ広げた。写真の中では、美紀と遠藤健二が腕を組んで笑っていた。

「これでも幻覚だというのかい?」

美紀の顔が歪んだ。唇がわなと震え、目から殺意がほとばしった。もはや仮面を被っていることはできなかった。

「小義母様!」

美紀が勢いよく立ち上がりながら叫んだ。私は一つも動じなかった。

「それから、あんたたちが持ってきたこの診断書。偽造されたものだということも知っているよ。木村院長と言ったか。医療法違反で免許を取り消されたくなければ、今すぐ出ていきなさい」

医者という男が悲鳴を上げながら後ずさった。顔が土色になっていた。額に脂汗が流れていた。老人ホームの施設長も慌てて書類をまとめると、個室の外へ逃げるように出ていった。ドアがバタンと閉まる音がした。私は席からゆっくりと立ち上がった。足にぐっと力を込めた。美紀を見下ろし、低い声で言った。

「私が誰だか忘れたようだな。この銀行の株式の六十五パーセントを所有している人間が誰なのか。銀座で三十年を生き抜いた人間が誰なのか。よく覚えておくがいい。これから私が何をしようと、私の目から逃れることはできないだろう」

純平が顔を上げた。目元が赤くなっていた。しかし、私はもう息子を甘やかすことはできなかった。私は背を向け、個室を出た。足がふらついたが、毅然と歩いた。背筋をまっすぐに伸ばし、一歩一歩踏み出した。後ろで美紀が何かを叫んでいるのが聞こえたが、振り返らなかった。絶対に弱い姿を見せるわけにはいかなかった。

レストランの外に出ると、徹也が待っていた。黒いセダンの前で立っていた彼は、私を見るとすぐに駆け寄ってきた。

「会長、大丈夫でございますか?」

「大丈夫だ。録音はうまくできたか?」

「はい、完璧です。車内で確認いたしました」

私は頷きながら車に乗り込んだ。エンジンがかかり、車が発進した。窓の外でレストランの建物がだんだんと遠ざかっていった。その時になってようやく緊張が解け、全身から力が抜けた。今日は最初の反撃だった。あの女たちの計画を完全に打ち砕いた。しかし、まだ終わりではない。三十億円の融資詐欺を阻止し、あの女たちを法の裁きにかけなければならない。本当の戦いはこれから始まるのだ。

その夜、私は眠ることができなかった。レストランでの美紀の歪んだ顔が何度も頭に浮かんだ。あの女が黙っているはずがなかった。きっと何かを企んでくるだろう。明け方近くになって、ようやく少し眠りに着いた。翌朝、徹也から切迫詰まった電話がかかってきた。いつもと違い、息が荒かった。

「会長、大変です。今すぐ銀行にお越しください」

「どうしたんだ?」

「奥様が今朝、緊急の取締役会を招集しました。会長の経営権剥奪の議案を上程するようです」

私は息が詰まった。経営権剥奪。あの女がこんなに早く動くとは思わなかった。昨夜私が証拠を突きつけたので、先手を打とうというのだ。急いで着替え、タクシーを捕まえた。手が震えてボタンをうまく押せなかった。銀行本店に到着すると、すでに雰囲気が尋常ではなかった。ロビーで職員たちがひそひそと話し合っており、私を見る目が違った。まるで、もう終わった人間を見るような目つきだった。

取締役会の部屋の前に着くと、徹也が待っていた。顔が青ざめていた。

「会長、中に入ってはいけません。向こうが罠を仕掛けています」

「何の罠だ?」

「奥様が昨夜のうちに取締役の過半数を買収しました。金で抱き込んだようです。会長の持ち株が六十五パーセントあっても、取締役会で経営不適格と判断されれば、経営権が停止される可能性があります」

私は取締役会のドアを見つめた。あの部屋の中で、今この瞬間、私の運命が決められようとしていた。しかし、避けることはできなかった。戦うなら正面からぶつからなければならない。

「どいてくれ。私自身が入る」

私は深呼吸をしてドアの取っ手を握った。手のひらに汗がにじんでいた。しかし、今引き下がれば永遠に機会はないように思えた。ドアを開けて入ると、十四人の取締役が長いテーブルに座っていた。上座には美紀が座っていた。昨夜とは全く違う姿だった。落ち着き払い、堂々としていた。赤いスーツを着ており、まるで戦場に出てきた将軍のようだった。隣には見知らぬ男が立っていた。見目の良い若い男だった。遠藤健二だった。写真で見たあの顔だった。実物はより一層狡猾に見えた。

「お母様、いらっしゃいましたのね」

美紀がにやりと笑った。昨夜の慌てた様子はどこにもなかった。

「これは何の真似だ?」

「取締役会の規定に則った正当な手続きですわ。お母様の経営能力に関する審議を行おうと思いまして」

私は周りを見渡した。取締役のほとんどが目をそらした。すでに向こう側についているのだ。胸が冷たくなった。

「証拠があります」

遠藤健二という男が初めて口を開いた。声は鋭く冷たかった。

「佐藤文子会長の最近の行動が異常であるという証拠です」

彼がモニターに映像を映し出した。昨夜のレストランでの場面だった。私がテーブルの上に書類を広げ、怒鳴り散らす姿。医者と老人ホームの施設長を追い出す姿が映っていた。しかし、それは編集されていた。私が狂人のように見えるように巧妙に切り張りされていたのだ。前後の文脈は全てカットされ、私が興奮して怒る場面だけが繰り返し流された。

「ご覧の通り、佐藤会長は正常な判断力を喪失しています。被害妄想に苛まれ、攻撃的な行動を見せています。このような方が銀行を経営すれば、数千人のお客様に被害が及ぶ可能性があります。預金者保護の観点からも、措置が必要です」

私は怒りで全身が震えた。あの女たちが事前に録画して編集していたのだ。昨夜のあの場に隠しカメラがあったのだ。罠は二重に仕掛けられていた。私が反撃したと喜んでいたのに、それすらもあの女たちの計画の一部だった。

「これは捏造された映像だ。前後が全てカットされているじゃないか」

私が叫んでも、取締役たちは顔を俯いたまま何も言わなかった。全員が美紀の味方だった。金に目がくらんだか、脅迫されたか。どちらにせよ、私にとっては裏切りだった。

「では、採決に入ります」

美紀が落ち着いた声で言った。まるで勝利を確信しているかのような声だった。

「佐藤文子会長の経営権停止に賛成される方は、挙手をお願いします」

私は取締役たちを一人一人見つめた。私が自ら抜擢し、育てた人々だった。三十年間、共に働いてきた同志だった。ある取締役は新人の頃、私が徹夜で仕事を教えた男だった。またある取締役は、困っている時に私が息子の学費まで出してやった男だった。しかし、彼らは一人、また一人と手を上げ始めた。私の目をまっすぐ見る者は一人もいなかった。十四人中九人が手を上げた。過半数を超えた。

「可決されました。本日を持って、佐藤文子会長の経営権は停止されます」

美紀が宣言した。声には勝利の喜びがにじんでいた。私はその場に凍りついた。足から力が抜け、椅子を掴んでろくに体を支えられなかった。天井がぐるぐると回っているようだった。

「お母様、ご健康が回復されましたら、その時にまたお会いしましょう」

美紀が嘲るように言った。口角が上がっていた。完全に勝利者の表情だった。遠藤健二が彼女の肩に手を置いた。二人が並んで立っている姿が目に焼きついた。あの女たちが完全に銀行を掌握したのだ。私の夫が血と汗を流して築き上げた銀行を、あの蛇のような女たちが丸ごと飲み込んでしまった。

私はふらつきながら取締役会室を出た。後ろから美紀の笑い声が聞こえた。ナイフで背中を刺されるようだった。廊下で徹也が私を支えた。彼の目にも涙が浮かんでいた。

「会長、大丈夫ですか」

大丈夫ではなかった。三十年間、血と汗を流して築き上げた銀行を、一夜にして奪われたのだ。夫と共に、夜も眠らずに育てた銀行。目の前が真っ暗になった。一歩も踏み出すことができなかった。

家に帰る間、私は一言も話さなかった。窓の外をぼんやりと眺めているだけだった。家に到着すると、古い携帯が鳴った。画面を見ると、息子の純平だった。私はしばらく躊躇してから電話に出た。

「母さん、僕だ」

「純平か」

声が震えた。まだ息子の声を聞くと、心が揺らぐ。

「母さん、ごめん。僕もどうしようもなかったんだ。美紀が、そうしないと僕まで一緒に辞めさせられるって言ったんだ。僕も生きていかなきゃいけないじゃないか」

息子の声は震えていた。言い訳のように聞こえた。しかし、私はもう息子を信じることができなかった。取締役会で手を上げることもなく、ただ見ているだけだった息子。

「純平や、お前は一度でも母さんの味方だったことがあったのかい?」

「母さん、そうじゃなくて……」

「もういい。これ以上聞きたくない」

私は電話を切った。手がガタガタ震えた。携帯をテーブルの上に置き、ソファに崩れるように座った。胸が空っぽになったようだった。全てが崩れ落ちたようだった。銀行も、息子も、全て失った。三十年間積み上げてきたものが、一夜にして灰になってしまった。夜明けごとに市場で露店を広げた日々。夜ごとに帳場を整理した日々。その全てが虚しく感じられた。私は両手で顔を覆い、しばらく泣いた。

どれくらい経っただろうか。一時間ほど経った頃、徹也がそっと近づいてきた。温かいお茶を一杯持っていた。

「会長、まだ終わったわけではありません」

「何が終わっていないと言うんだ。全て終わったんだ」

私は力なく答えた。しかし、徹也は引き下がらなかった。

「いいえ。会長の持ち株はそのままです。経営権が停止されただけで、株主としての権利は生きています。法的に戦うことができます。そして、これをご覧ください」

徹也が書類の封筒を差し出した。分厚い封筒だった。私は濡れた目で書類を覗き込んだ。

「これは何の書類だ?」

「遠藤健二の過去の前科記録です。彼は、事務所装備偽造詐欺罪で懲役二年の実刑を受けています。出所してからまだ五年しか経っていません。そして、ギャラリーMから流出した金の正確な流れを追跡しました。横領の証拠が完璧に揃いました。総額は二十三億円です」

私は書類を読みながら、手が震えるのを感じた。まだ希望は残っていた。あの女たちがいくら狡猾でも、法の網を逃れることはできないだろう。検察に告発すれば、あの連中を捕まえることができる。

「会長、まだ戦えます。あの連中がいくら取締役会を掌握しても、法の前では持ちこたえられません」

徹也の目は力強かった。私は涙を拭い、ゆっくりと頷いた。胸の片隅で消えかけていた火種が、再び燃え上がるのを感じた。そうだ、まだ終わっていない。あの女たちが私を打ち負かしたと思っているなら、大間違いだ。私は拳を固く握った。銀座で三十年を生き抜いた女が、この程度で倒れるはずがなかった。倒れたなら、また立ち上がればいい。むしろ、これからが本当の戦いの始まりなのだ。

朝、私は徹也と共に東京地方検察庁へ向かった。手には分厚い書類の封筒があった。遠藤健二の前科記録、ギャラリーMの横領の証拠、通話の反訳書の写し。これらの証拠があれば、あの連中を十分に捕まえられると思っていた。検察庁のロビーは人で溢れ返っていた。私は受付で番号札を取り、硬いプラスチックの椅子に座り、二時間以上待った末にようやく担当の検事に会うことができた。

「佐藤文子さん。告訴状の内容は確認しました」

若い検事が書類をめくりながら言った。三十代前半くらいに見えた。表情は淡々としていた。私の書類を適当に眺めるようなその視線が気に入らなかったが、我慢した。

「ですが、問題があります。この録音記録は、相手方の同意なく録音されたものなので、証拠能力がありません。違法な録音です」

私は息が詰まった。違法な録音。あんなに重要な証拠なのに、役に立たないなんて。徹也の顔も曇った。

「それから、横領の証拠とおっしゃいましたが、これは内部記録に過ぎません。法的に横領を立証するには、より明確な資金の流れと証拠が必要です。個人的に流用したことを証明しなければなりません」

「しかし、二十三億円がギャラリーMに流れたのです。それが横領でなくて何だというのですか?」

私の声が震えた。悔しさに目が熱くなった。

「法人間取引として偽装されていましてね。正常な美術品の購入代金として処理されていました。捜査するには時間がかかります」

私は力が抜けた。こんなに明確な証拠があるのに、ダメだというのか。では、どうすればいいというのか。

「もっと確実な証拠を持ってきてください。それから、正直に申し上げますと、すでに向こう側から先に告訴状が提出されています」

「向こう側?」

「遠藤健二さんが書類を取り出しました。あなたの名前が書かれていました。青山美紀さんが、佐藤文子さんを名誉毀損と業務妨害で告訴しました。昨夜提出されたようです」

私は目の前が真っ暗になった。あの女が先に手を打っていたのだ。私が告発することを見越して、逆告訴したのだ。一歩先んじて、私を犯罪者に仕立て上げたのだ。

「あなたが被告人として取り調べを受けていただくことになります。出頭の日時は追って通知します」

検察庁を出る足取りは、千斤の重さだった。徹也が私を支えてくれたが、全身に力がなかった。

「会長、まずは弁護士を立てなければなりません」

「ああ、そうだな」

私はため息をついた。家に帰る途中、古い携帯が鳴った。知らない番号だった。私はためらいながら電話に出た。

「佐藤文子様でいらっしゃいますね。私は大和貯蓄銀行の法務部長です。お伝えすることがありまして」

「何でしょうか?」

「本日の取締役会で決定いたしました。佐藤様名義の法人カードと銀行口座は全て凍結されました。そして、佐藤様所有の株式について、議決権停止の仮処分申請が受理されました」

私は電話を持つ手がガタガタ震えるのを感じた。一日で、全てが崩れ去っていた。仮処分。それはどういう意味か。経営権紛争中は、株主の議決権を一時的に停止させることができる。裁判所の決定が下るまで、佐藤様の株主権の行使は制限されます。株主総会への出席や議決権の行使は不可能です。電話が切れた。私はしばらく呆然と立っていた。六十五パーセントの株式が何の意味があるというのか。議決権が停止されれば、紙切れ同然ではないか。三十年間、血と汗を流して貯めたものが、一夜にして紙くずになったのだ。

家に到着すると、さらに衝撃的なことが待っていた。玄関の前に宅配便の箱が積まれていた。五つ、六つ。息子の純平の荷物だった。スーツ、靴、本などが無造作に詰め込まれていた。手紙が一枚張ってあった。息子の文字だった。

「母さん。美紀が離婚しようって。僕ももう耐えられない。しばらく連絡しないでくれ」

私は手紙を何度も読み返した。手が震えて、紙がカサカサと音を立てた。美紀。あの狐のような女が、息子まで捨てるというのか。いや、もしかしたら最初から息子は利用されただけだったのかもしれない。頭取という地位が必要だっただけで、息子自身は必要なかったのだ。私は箱の上に崩れるように座った。足から力が抜け、膝が地面についた。全てが崩れ去っていた。経営権も、株主権も、息子も。一つ、また一つと私の手からこぼれ落ちていった。

その時、徹也から電話があった。声は切迫していた。

「会長、大変です。我々のセキュリティチームが解体されました」

「何だと?」

「奥様がセキュリティチーム全員を解雇しました。私も本日付けで退職扱いになりました。三十年以上勤めた会社なのに、こんな風に追い出されるとは思いませんでした」

私は目の前がクラッとした。徹也まで失えば、私は本当に一人になってしまう。この世に私の味方は誰もいなくなってしまう。

「徹也、すまない。お前までこんな目に合わせてしまって。私のせいで、お前に迷惑がかかったんだ」

「会長、何をおっしゃいますか。私は会長の味方です。解雇されても構いません。三十年前に私を拾ってくださった恩は忘れていません。最後までご一緒します」

徹也の声は断固としていた。電話の向こうから、彼の真心が伝わってきた。私は涙が込み上げてきた。この世に、私のために残ってくれた人がまだいたのだ。金にもならないことに、命をかけてくれる人が。

「ありがとう、徹也。本当にありがとう」

電話を切り、私は部屋に入った。夫の遺影の前に座った。焼酎の瓶を持ったが、飲む気力もなかった。

「あなた、私、これからどうすればいいの? 全部失ってしまったわ。銀行も、息子も、全部」

遺影の中の夫が私を見ていた。若い頃の姿そのままに。黒い瞳、整った目鼻立ち。銀座で共に苦労したあの頃が思い浮かんだ。露店一つから始めて、銀行まで築き上げた。雨の日にはテントの下でぶるぶると震えながら商売をした記憶が蘇った。あなたなら、どうしただろうか。こんなに全てが崩れても、諦めなかっただろうか。私は写真をじっと見つめた。夫の目が語りかけているようだった。まだ終わっていない。息がある限り、戦わなければならない。我々が銀座でそうやって耐え抜いてきたように、今も耐え抜け。夫の声が聞こえるようだった。

その時、玄関のドアが開く音がした。誰かが入ってきた。私は驚いて立ち上がった。リビングに、息子の純平が立っていた。顔は見るも無惨な状態だった。目の周りは青黒く腫れ、唇は切れて血が滲んでいた。鼻も腫れ上がり、頬骨の辺りには引っかき傷があった。服も破れ、汚れていた。まるで暴行を受けたかのようだった。

「純平や!」

私は駆け寄り、息子を支えた。息子の体から血の匂いがした。純平は私の胸に倒れ込むように抱きついた。

「母さん、ごめんなさい。本当にごめんなさい」

息子は泣き始めた。子供のようにわんわん泣いた。私は息子の背中をさすりながら、一緒に泣いた。

「どうしたんだい? 誰にこんなことをされたんだ?」

「遠藤健二です。あいつが仲間を連れてきて、僕を殴りました。四五人が路地で待ち伏せしていて、襲いかかってきたんです。美紀がやらせたそうです。もう用済みだから、静かに消えろと。口をつぐんでいれば命だけは助けてやると、脅迫されました」

私は歯を食いしばった。あの女たちは、ついに息子まで捨てたのだ。最初から純平はただ利用されただけだった。頭取という操り人形が必要だっただけで、本当の権力はあの女たちが握っていたのだ。怒りが込み上げてきた。

「母さん、僕、これからどうすればいいの? 全部失ったよ。妻も、職場も、名誉も、全部。人々は何て言うだろう」

息子の声は痛々しかった。かつては頭取だった息子だったのに、今は殴られて鼻血を流し、母の前で泣いていた。私は息子の顔を両手で包み込んだ。

「純平や、よく聞きなさい。母さんの目をまっすぐ見て」

息子は濡れた目で私を見つめた。子供の頃、叱られた時のあの目つきだった。四十を過ぎた息子だが、私の前ではまだ子供のようだった。

「まだ終わっていない。あの女たちが私たちを打ち負かしたと思っているなら、大間違いだ。母さんが必ず取り返す。銀行も、私の名誉も、全部取り返す。私がやられた分だけ、あの女たちに返してやるんだ」

私は息子を抱きしめた。息子の体から血の匂いがした。胸が張り裂けそうだった。今、私には戦うべき理由がもう一つできた。私の息子を殴り捨てたあの女たちを、必ず跪かせてやる。これはもはや金や銀行の問題ではなかった。私の子供に手を出した代償を払わせてやる。

純平の傷の手当てをし、寝かしつけた後、私は一晩中眠ることができなかった。明け方五時頃、玄関のチャイムが鳴った。こんな時間に誰だろう。私は慎重にドアを開けた。徹也が立っていた。一晩中走り回っていたのか、顔には汗がにじみ、目は充血していた。スーツはしわくちゃで、ネクタイも緩んでいた。しかし、表情は明るかった。いや、興奮していた。まるで宝物を見つけた人のようだった。

「会長、見つけました」

「何を見つけたんだ?」

「決定的な証拠です。あの連中を完全に終わらせることができる証拠を、見つけました」

私は徹也を急いで中に招き入れた。リビングのテーブルに向かい合って座ると、徹也は書類の封筒を取り出した。

「昨夜、昔の同僚から連絡がありました。銀行のシステム部門で二十年以上働いている友人です。名前は申し上げられませんが、信頼できる人物です。奥様が我々を解雇する際に口止め料を渡したのですが、その友人は良心の呵責に耐えかねたようです。自分の手で作ったシステムが犯罪に使われるのが我慢ならなかったと」

徹也が書類を広げた。銀行の内部システム記録だった。

「これが何かお分かりになりますか?」

私は書類を覗き込んだ。数字と日付がびっしりと書かれていた。しかし、どういう意味なのか分からなかった。

「就任式の日のシステムダウン事件を覚えていらっしゃいますか? あれは単なる故障ではありませんでした。誰かが意図的にシステムを麻痺させたのです」

私は息を飲んだ。意図的? ということは、最初から計画されていたことだったのか。

「あの日、システムに外部からのアクセス記録があります。アクセスがどこからだか、お分かりになりますか? ギャラリーMです。ギャラリーMから銀行のシステムにアクセスしたのです」

「遠藤健二がハッカーを雇い、銀行のシステムを麻痺させたのです。その隙に、三十億円の融資書類を承認処理しました。就任式の混乱の中で、誰にも気づかれないように。人々はシステムエラーだと思っていましたが、実際には計画された犯行でした」

私は書類を再び見た。日付と時間が正確に記録されていた。就任式当日の午後二時三十分、システムがダウンしたまさにその時間だった。アクセス経路、サーバーログ、ハッキングの痕跡まで、全てが残っていた。

「これは本当か?」

「本当です。システムの専門家でなければ見つけられない記録です。そして、これだけではありません」

徹也が別の書類を取り出した。海外への送金記録だった。びっしりとした数字が書かれていた。

「三十億円の融資金がどこへ行ったのか追跡しました。ギャラリーMの法人口座を経由し、シンガポールの秘密口座へ送金されています。三段階を経て資金洗浄を行ったのです。最終的な口座の名義人は、遠藤健二です。あの男が全ての金を着服したのです」

私は手が震えるのを感じた。ついに決定的な証拠が出た。これさえあれば、あの女たちを刑務所に送ることができた。

「しかし、ここでさらに重要なことがあります」

徹也の声が低くなった。緊張が感じられた。

「送金の承認者名義をご覧ください」

私は書類を注視した。承認者の欄に書かれた名前を見て、私は目を疑った。

「これは、取締役会長の木村太地?」

「はい。金融庁の退職官僚出身です。金融庁で三十年働き、退職後に当行の取締役に来ました。奥様が取り込んだのです。三年前に取締役に入りましたが、その時から計画されていたことでした。金融システムを知り尽くした人間が必要だったのでしょう」

私はしばらく言葉を失った。三年前といえば、美紀が遠藤健二と付き合い始めた時期と重なる。最初から緻密に準備された詐欺だったのだ。結婚も、息子への愛情も、全てが嘘だった。ただ金だけを狙った計画的な犯行。私は拳を固く握った。

「この証拠で十分か?」

「十分です。システムハッキング、多額の海外送金、資金洗浄。これだけあれば、逮捕状の請求が可能です。逃げ道は抜かれないでしょう。そして、もう一つあります」

徹也が最後の書類を取り出した。録音ファイルを文書化したものだった。分厚い紙の束だった。

「昨夜の遠藤健二と奥様の通話を確保しました。今回は合法的にです。通信会社の協力を得て、法的な手続きを踏みました」

私は反訳書を読み始めた。一文字一文字、ゆっくりと。

「美紀、あなた、ことが大きくなっているわ。純平が徹也のところに行ったみたい」
「健二、それで、あの馬鹿に何ができるってんだ?」
「美紀、万が一ってことがあるじゃない。私たちの計画、前倒ししないと」
「健二、シンガポール行きの飛行機は明後日だ。それまで耐えればいい」
「美紀、お金は全部映したの?」
「健二、三十億、全部俺の口座に入った。もう日本での用事は終わりだ」

私は反訳書をテーブルの上に置いた。手がガタガタと震えた。怒りのためだった。三十億を丸ごと持って逃げるつもりだったのだ。私たちの銀行の顧客の金を。私の夫が一生をかけて貯めた金を。明後日、シンガポールへ立つとは。

「明日の夜十一時、成田発シンガポール行きの便です。ファーストクラスを二席予約していました。その前に捕まえなければなりません。一度出国されたら、終わりです」

私は勢いよく立ち上がった。胸の中で炎が燃え盛った。これで全てのパズルが揃った。三年間に渡ってあの女たちが企んだ悪事の全貌が明らかになったのだ。

「徹也、金融庁に知り合いはいるか?」

「はい、おります。金融庁の調査局長が私の後輩です。同じ部隊の出身でして、信頼できる男です」

「今すぐ連絡を取れ。この証拠を全て渡し、緊急捜査を要請しろ」

「承知いたしました。そして、検察側にも連絡を入れておきます。今回はまともな証拠ですから、捜査が進むはずです。前回のように門前払いされることはないでしょう」

徹也が出ていった後、私はしばらく窓の外を眺めていた。夜が明けていた。闇の中から徐々に光が広がっていった。まるで私たちの状況のようだった。最も暗かった夜が過ぎ、今、夜明けが来ようとしていた。私は部屋に行き、純平を起こした。息子は腫れた目を擦りながら起きてきた。顔の傷は相変わらずだったが、昨夜よりはマシに見えた。

「母さん、どうしたんですか?」

「証拠が出たんだ。あの女たちを捕まえることができる、決定的な証拠が」

息子の目が大きく見開かれた。私はテーブルの上に書類を広げ、一つ一つ説明した。徹也が一晩中走り回って見つけてくれたんだ。システムハッキングの記録。シンガポールの秘密口座。資金洗浄の証拠まで、全部ある。純平の目が輝いた。眠気が一気に覚めたようだった。

「明後日の飛行機ですって? それじゃ、時間がないじゃないですか」

息子の声が切迫していた。

「だから、今すぐに金融庁と検察を動かさなければならない。明日の夜、あの連中を捕まえるんだ」

「僕が手伝わなきゃ。僕が何を?」

息子が呆然とした表情で尋ねた。

「お前にはまだ頭取の肩書きが残っている。内部告発者として名乗り出れば、捜査に力が加わる。お前が直接証言すれば、あの連中が逃げられる道はなくなる」

純平はしばらくためらいました。恐怖が顔に浮かんだ。しかし、やがて頷いた。

「分かりました、母さん。僕にできることは何でもします。僕も、あの女にやられたんですから。この傷だらけの顔が証拠ですよ」

息子は傷だらけの顔で笑った。痛々しかったが、その目つきには決意が宿っていた。久しぶりに見る、息子らしい姿だった。

午前十時、私は金融庁の前に立っていた。徹也と純平が両脇にいた。手には分厚い書類の封筒があった。風が吹いて髪を乱したが、私は毅然と立っていた。

「行こう」

私は力強く第一歩を踏み出した。いよいよ最後の戦いが始まるのだ。ガラスのドアが開き、ひんやりとしたエアコンの風が顔を撫でた。エレベーターで上がり、調査局長室で三時間以上にわたって事情を説明した。全ての証拠を提出し、最初から最後まで説明した。声が枯れてきたが、止まらなかった。調査局長は書類を検討し、顔を強張らせた。しばらく見つめた後、顔を上げた。

「これだけあれば、緊急逮捕状の請求が可能です。直ちに動きます。出国禁止措置も、直ちに下します」

私はその言葉を聞いて、涙が込み上げてきた。ついに、ついにあの女たちを捕まえることができる。数日間の苦しみが一気に押し寄せてくるようだった。金融庁を出て、私は空を見上げた。雲の間から日差しが差し込んでいた。久しぶりに見る太陽の光だった。温かい光が顔を包んだ。

「母さん、これで本当に終わりなんですか?」

純平が尋ねた。私は息子の手を固く握った。息子の手は冷たかった。緊張しているのが感じられた。しかし、私も同じだった。

「まだ終わっていない。あの女たちが刑務所の中に入るのをこの目で見なければ、終わりじゃない。そして、私たちの銀行も取り返さなければならない」

私は拳を固く握った。明日になれば、全てが決着する。銀座で三十年を生き抜いた佐藤文子の最後の勝負が始まるのだ。今度は絶対に負けない。あの女たちが奪っていった全てを、取り返すのだ。銀行も、名誉も、息子の未来も。

その夜十時、私は成田空港へ向かっていた。徹也が運転する車の中で、私は窓の外を眺めていた。高速道路の街灯の光が矢のように過ぎ去っていった。心臓が時々刻々と高鳴っていた。今夜が全ての終わりだった。空港に到着すると、金融庁の調査官と検察の捜査官がすでに待機していた。スーツ姿の男たちが十人ほど、出国ゲートの入り口を囲んでいた。蛍光灯の光の下、彼らの表情は固かった。私は遠く離れたベンチに座り、その光景を見守っていた。手のひらに汗がにじんだ。

夜十時四十分、美紀と遠藤健二が現れた。二人はサングラスをかけ、帽子を目深にかぶり、キャリーケースを引いていた。ブランド物のバッグに高級なスーツ。まるで旅行に出かける恋人同士のようだった。三十億円を持って、悠々と逃げ出そうとしていたのだ。私は歯を食いしばった。あの女たちが、あんなにも堂々と歩いている。出国審査の手前で、捜査官たちが動いた。四五人が一斉に二人を取り囲んだ。

「青山美紀さん、遠藤健二さん。特定経済犯罪化処罰法違反の容疑で、緊急逮捕します」

捜査官が令状を突きつけた。美紀の顔が真っ青になった。サングラスが床に落ち、カランと音を立てた。遠藤健二は逃げようと身をひるがえしたが、すぐに三人の捜査官に制圧された。床に倒れ込み、うめき声をあげた。

「何をするの? 私にこんなことをしていいと思っているの?」

美紀が叫んだ。しかし、捜査官たちは耳を貸さなかった。二人の手に手錠がかけられた。カチリという音が空港のロビーに響き渡った。私はゆっくりと彼らに近づいていった。一歩、一歩。靴音が空港の床に響いた。美紀は私を見ると、目を丸くした。信じられないという表情だった。その傲慢な顔が、恐怖に歪んでいた。

「お母様……」

「いや、もうお母様ではないわね」

私は冷たく言った。美紀の顔が歪んだ。怒りなのか、恐怖なのか分からない表情だった。

「あなたが勝ったと思っているの? 最後まで見てなさいよ」

美紀が悪態をついた。しかし、私は眉一つ動かさなかった。

「最後まで見るつもりだよ。法廷で会おうじゃないか」

私は冷たく言い放ち、背を向けた。捜査官たちが二人を連行していった。美紀が振り返り、私を睨みつけたが、私は毅然と立っていた。周りの人々がひそひそと話していたが、気にしなかった。彼らの後ろ姿がだんだん小さくなり、出口の向こうへと消えていった。その瞬間、私の肩にのしかかっていた重い荷物が、するっと落ちたような気がした。私はその時になってようやく、深くため息をついた。足から力が抜け、座り込みそうになった。徹也が駆け寄り、私を支えた。

「会長、やりました。終わりました。ついに終わりました」

「ああ、終わったな」

涙が頬を伝って流れ落ちた。こらえていた感情が一気に吹き出した。三十年間守り抜いてきたものを、取り返すことができたのだ。夫が天国から見ていたら、喜んでくれるだろう。空港の天井の光が、涙で滲んで見えた。

一週間後、臨時株主総会が開かれた。議決権停止の仮処分が却下され、私の株主権が回復したのだ。美紀と遠藤健二が逮捕されると、裁判所も判断を変えたのだった。私は堂々と会議場に入った。黒のフォーマルスーツに、真珠のイヤリング。夫が買ってくれたものだった。取締役たちが私を見て、頭を下げた。数日前まで私を裏切った人々だった。誰も私の目をまっすぐ見ることができなかった。

「本日の議案は、新しい取締役の構成についてです」

私が宣言すると、会議場は静まり返った。私は取締役たちを一人一人見渡した。

「木村太地取締役は解任します。共犯として捜査中なのですから、当然の措置でしょう」

木村は深くうつむいた。顔は土色だった。弁解の一言も言えなかった。

「そして、前回の取締役会で経営権剥奪に賛成された方々」

私はしばらく言葉を止めた。取締役たちが不安そうな目で私を見つめていた。

「許しましょう」

会議場にどよめきが広がった。取締役たちの顔に驚きが浮かんだ。互いに目を見合わせ、信じられないという表情だった。

「しかし、今後このようなことが再び起きたら、その時は容赦しません。肝に命じておきなさい。この銀行は、私の夫と私が三十年間、血と汗を流して築き上げた場所です。二度と誰にも奪わせはしません」

取締役たちは次々と頭を下げ、「ありがとうございます」と言った。私は彼らの挨拶を受けながら思った。復讐よりも大切なのは、銀行を守ることだ。まだ道は遠いのだから。株主総会が終わり、頭取室に入った。久しぶりに見る風景だった。広い机、革張りの椅子、窓の外に見える東京の街並み。机の上には、夫の写真がそのまま飾られていた。美紀もこれだけは片付けなかったようだ。私は写真を取り、胸を撫で下ろした。夫と共にこのオフィスで夢を育てた記憶が蘇った。

ドアが開き、純平が入ってきた。息子の顔の傷はだいぶ引いていた。スーツを着こなしていたが、以前のような傲慢さはなかった。目つきが変わっていた。

「母さん、北の会」

私は椅子から立ち上がり、息子を迎えた。純平は私の前に立った。そして、深く頭を下げた。

「本当に申し訳ありませんでした。僕がバカでした。母さんの言うことを聞かず、あの女に騙されて。母さんがあれほど反対されたのに、僕が意地を張って」

「もういい」

私は息子の言葉を遮った。これ以上、過去の話は聞きたくなかった。純平が顔を上げ、私を見つめた。目元が濡れていた。四十を過ぎた息子だが、私の前ではやはり子供のようだった。

「過ぎたことは過ぎたことだ。大切なのは、これからだよ。純平、お前はこれからどうするつもりだ?」

純平はしばらくためらった後、口を開いた。

「僕、やり直したいんです。ゼロから。頭取の席ではなく、平社員から始めたいんです。自分の実力で這い上がりたいんです」

私は息子をじっと見つめた。真心が感じられた。以前の傲慢な姿ではなかった。試練を経て、大きく変わったようだった。ようやく、私の息子が戻ってきたようだった。

「そうしなさい。お前の父も、そうやって始めたんだ。銀行の倉庫で荷物を運ぶことから始めた。二十年かけて頭取になったんだ」

純平の目から涙がこぼれ落ちた。私は息子を抱きしめた。久しぶりに感じる温かさだった。息子の体から、夫の匂いがするようだった。

三ヶ月後、美紀と遠藤健二の第一回公判が開かれた。東京地方裁判所の大法廷だった。私は法廷の傍聴席の最前列に座り、その光景を見守っていた。二人は囚人服を着て、被告人席に座っていた。美紀の顔はやつれていた。華やかだった面影はどこにもなかった。髪もぼさぼさで、目の下には濃い隈ができていた。裁判長が判決文を読み上げた。

「被告人、青山美紀。特定経済犯罪処罰法違反、詐欺、横領の罪で、懲役十五年に処する。被告人、遠藤健二。同罪で、懲役十二年に処する。追徴金三十億円を命じる」

傍聴席からどよめきが起こった。記者たちがカメラを向けた。美紀が勢いよく立ち上がり、叫んだ。

「これは不服です! 控訴します!」

しかし、法廷係員たちが彼女を連行していった。もがく姿が痛々しく見えた。私はその姿を黙って見守っていた。すっきりした気持ちと、一方でほろ苦い気持ちが入り混じっていた。あの女も、欲さえ書かなければ、こうはならなかっただろうに。しかし、その感傷は長くは続かなかった。あの女が私たちの家族にしたことを思えば。法廷を出ると、外には春の日差しが温かく降り注いでいた。桜が咲いていた。ピンク色の花びらが肩の上に舞い降りた。徹也と純平が私を待っていた。息子の顔から、あの傷跡は完全に消えていた。

「母さん、これで本当に終わりなんですね」

純平が尋ねた。声が震えていた。私は息子の手を固く握った。温かい手だった。

「ああ、これで本当に終わりだ。私たちが勝ったんだ」

私は空を見上げた。澄み切った青い空だった。雲一つなく、晴れ渡っていた。どこかで夫が私を見ているような気がした。笑っているだろうと思った。あなた、私たちの銀行、守りましたよ。息子も、取り戻しました。もう、安らかに眠ってください。風が吹き、私の髪をなびかせた。まるで夫の返事のようだった。また涙がこぼれたが、今度は悲しい涙ではなかった。私は息子と徹也を見つめた。私の味方になってくれた人々だった。これからが、新しい始まりだ。銀座で三十年を生き抜いた佐藤文子は終わらない。いや、これからが本当の始まりだ。銀行をさらに大きくしなければならないし、息子を立派な後継者に育てなければならない。やることは山のようにあった。七十三歳の老婆に何ができるかって? さあ、どうでしょう? 私にはまだ、やることがたくありますよ。年は単なる数字に過ぎません。心さえ決めれば、何だってできます。銀座の露店から始めて、銀行まで築き上げた女です。この程度の試練、何でもありませんでした。私は息子と徹也の腕を組み、歩き出した。三人の足取りは軽かった。桜の花びらが私たちの上に舞い降りていた。新しい春が始まっていた。

Thumbnail