「霧島光、22歳。最終学歴、高校卒業。工場員。」
工場長の橋本は、手にした人事評価表を一瞥し、通路の中央に立つ若い女性を見下ろした。高級スーツに身を包んだ彼は、今年の8月に外部から迎えられた、工場立て直しの切り札。就任からまだ3ヶ月の男だった。
「わかりました。」
光の声は静かだった。震えも涙も抵抗もなかった。まるでこの日が来ることを、ずっと前から知っていたかのように。
「当然だろ。これが実力ってやつだ。文句あるか?」
通路の奥で何人かの作業員がこちらを見ていた。クスクスという笑い声がどこからともなく聞こえた。誰も声をあげる者はいなかった。ただ、一人を除いて。
「少しお待ちください。橋本工場長」
事務の田中恵が小走りで駆け寄ってきた。しかし橋本は振り向きもせずに言い放った。
「田中さん、人事権限は私にあります。口を出さないでください。これ以上おっしゃるなら、あなたの評価にも影響しますよ」
田中の足が止まった。光が一瞬、田中を見た。そしてゆっくりと、小さく首を振った。止めなくていい。その目が静かにそう語っていた。
これは、理不尽ないじめを受けた少女が、後から正しさで勝ち取る物語である。しかし、この時誰も知らなかった。やがてこの工場に何が起きるのかを。工場長のその後も、少女の本当の力も、まだ誰も見抜けていなかった。
時は遡る。代表取締役社長、霧島正尾が20年前に木村製作所を立ち上げた。自動車会社向けの部品作りで、長年大企業との取引を重ねてきた。
「木村のラインは相変わらず綺麗だな」
金属を削る大型の機械と検査台の前で、正尾は品質にしがみついてきた。得意先の信頼は厚く、半期には残業が続くほど忙しかった。
「品質だけは、格好をつけないで守る」
納期の前夜も、正尾は明りの下で寸法を測り直した。お客様側の点検では不良品の少なさが褒められ、次の注文につながった。だが、3年前、主力取引先の倒産で受注が激減し、工場は赤字に沈んだ。
「主力が消えた」
累積赤字は5000万円を超え、返済の圧力が正尾の肩にのしかかっていた。銀行は追加の貸し出しに条件をつけ、毎月の数字表の提出を求めた。正尾は銀行融資を受けながらも、毎晩帳簿に顔をうずめていた。
光は高校3年生の秋から、事務と経理の手伝いを始めていた。
「光、お前はもっと楽な道がある」
「私はここがいい」
図書館で借りた専門書を、電車の中でも読み返していた。工場の専門用語は難しく、辞書を引きながら覚えた。
「霧島の娘、また本読んでるよ」
笑い声が遠ざかり、光はページにだけ視線を落とした。
「お父さん、私は大学に行かない」
光の声は甘く、決めた顔だけが幼さを残していた。
「分かった。無理はするな」
卒業式の翌日、光は作業服を受け取った。18歳の春、光は木村の工場員として働き始めた。最初の2年は先輩に怒鳴られながら機械の扱いを覚えた。匂いと騒音の中で、光は手の感覚を鍛えていった。3年目にはラインの異常を誰より早く聞き分けられるようになった。4年目の今、光は1人で直せる機械の数が工場で最も多かった。
ある夜、第1ラインの送りが乱れ、赤い警報が点滅し続けた。修理の予約は翌日で、出荷はその日のうちに止まる見込みだった。
「ベルトの歯とセンサーの角度、確認させてください」
「頼む。無理はするな」
光は手順を開き、工具の番号を1つずつ確かめた。2時間後、警報は消え、ラインは規定速度に戻った。
「おい、マジか」
光は床に座り込み、油で汚れた手のひらを眺めた。まだ足りない。
翌朝、修理業者は整備内容を見て手順を褒めた。
「光さん、また遅くまで」
「大丈夫です。残り少しだけ」
光は休憩時間と夜、ノートに数字と図を書き込んでいた。ラインの無駄、機械の置場の損、注文のずれの原因まで細かく記録する。4年で溜まった改善提案書は、ファイルに5冊分あった。試算では、作業順を同時に回す案だけで、不良品の割合を2. 1%下げられると出ていた。
この数字は嘘じゃない。
橋本が工場長に着任したのは、今年の8月だった。正尾は改革の専門家として橋本を迎え、最後の賭けに出た。橋本は高卒で大手メーカーの部長歴を胸に語った。面接ではグラフを並べて赤字の原因を淡々と説明した。
「現場はデータで動かす。感覚は捨てましょう」
橋本は就任初日から外部コンサル会社のプランを持ち込んだ。月額380万円のライン改善の丸投げ契約で、助言会社に現場を任せた。
「金額が少し重いな」
「同じです。今やらないと手遅れになりますよ」
正尾は承諾し、契約書にサインした。インクは少し滲み、正尾の指先が白くなった。光はその場の隅で唇を噛んだ。父の背中が小さく見え、光は拳を作業着のポケットで握った。
私が守る。
翌週、コンサル担当者が初めて工場に入り、ラインを測った。測定器の置き方が雑で、光は眉を潜めた。
「現場のやり方は、こちらで1つに揃えます」
光は唇を結び、言葉を出さなかった。コンサルは作業員へ大声で指示し、手順の更新を迫った。現場は戸惑い、ミスの報告が小さく増え始めた。
1週間後の不良品記録が太くなり、橋本は会議でライン名を呼びつけた。
「名前のあるラインほど数字が悪い」
作業員は唇を噛み、声を殺した。橋本は朝礼会議で写真を投影し、遅れた班の顔を並べた。誰のミスとも言わないのに、視線が自然と若手に集まった。
「写真の角度が作業を誤解させます」
「黙れ。写真は事実だ。反論なら定石に文書で出せ」
光は廊下で資料を抱え、奥歯を食い縛った。
2週間後、光は橋本の机に改善提案書を置いた。第2ラインの作業順の入れ替えで、同じ時間で作れる量が18%増える試算だった。
「高卒の落書きに付き合ってられない」
橋本は一瞥して、案書を引き出しに押し込んだ。光は黙り込み、視線だけを床の縁に落した。
週末、光は倉庫の隅で試部の映写を作った。ヒービの熱で髪が縮れ、指先が黒ずんだ。それでも1枚ずつ整えて戻した。
「光さん、無理しないでください」
「捨てないでおきたいんです」
光は何も言わず、通路へ戻った。その夜、光は工場に1人残り、機械の音を聞いた。誰にも見せないノートに、次の修正案を書き出した。
「田中さん、あの請求、おかしくないですか?」
「気づいてましたか?」
田中は経理資料をコピーし始め、橋本の動きを記録した。請求書の宛名が変わるたび、田中はスマートフォンで写メを残した。
11月に入ると、コンサル案の導入が本格化した。ラインの稼働順序が変わり、ベテラン3名が別作業へ回された。橋本は最新の製造管理論だと笑顔で説明した。
「段取りが増えて手が回かないよ」
朝礼で橋本は遅れを数字で叱り、誰も反論できなかった。
「遅れは現場の努力不足だ。言い訳はいらない」
橋本は得意先への謝罪文を社員に書かせ、自分のサインだけ熱く重ねた。電話では低い声で頭を下げたが、フロアでは足音を荒くさせた。
「社長より工場の方が偉そうだな」
品質管理表の赤いランが増え、検査担当の顔色が悪くなった。
12月第1週、不良品の割合は前月の2倍に跳ね上がった。得意先2社から品質警告の連絡が入った。東洋機構からも納期遅延の注意書きがファックスで届いた。橋本はファックスを苦笑いで振り、社長室では別の顔を作った。東洋機構は脅しだと言い、本部は味方だと嘘を混ぜた。
「本当か?」
「私の経験上、間違いありません」
正尾は受信紙を握りしめ、手が震えた。
「橋本さん、数字が悪い。どうなっている?」
「社長、先月からの変化、ここにあります」
光は薄い資料を差し出したが、橋本が腕で遮り切った。資料の角が折れ、光はしゃがんで拾い上げた。指先が紙の折り目に固まり、光は一瞬だけ目を閉いた。
「光」
正尾は橋本から視線を外し、床の方へ落とした。
「現場は私が握っています。口を出すな。改善します。心配ありません」
橋本の声はいつもと同じように軽かった。
資材棚の前で、橋本は光を呼び、床のボルトを指差した。
「高卒なら、これくらい拾って並べろ。手抜きは許さん」
光は黇って膝をつき、番号を確認して拾い集めた。周囲の視線が痛く、誰も声を出せなかった。
12月に入って間もなく、11月の通路での通告通り、光はラインから外された。
「光さん、田中さんまで巻き込めません」
清掃と資材運搬ばかり命じられ、工具箱を押す日々が続いた。それでも光は機械の音で、歯車のずれを察知していた。
12月中旬、第3ラインの不良が急増し、出荷が止まった。倉庫には返品待ちのダンボールが積まれ、空気が重かった。配送担当は電話口で謝り続け、額に汗を滲ませた。光は掃除をしながら、ラインの異変だけは逃さなかった。
止まるな。止まるなよ。
「社長、15分で戻せます」
「黙ってろ。高卒が口を出すな」
「光、やってみろ」
正尾の声は掠れ、父が娘へかける言葉のように細かった。
「行きます」
光は工具を手に取り、設定を初期値へ戻した。3分後、ラインは動き出し、フロアにほっとしたため息が広がった。ストップウォッチを握った作業員が親指を立てた。
「15分どころじゃない。ストップは3分を切ってた」
別の作業員が設定画面を確認し、隣の班だけに見せた。
「初期値へ戻しただけです。改造はしてません」
ライン長が頷き、帳面に今の数値だけを書き移した。
「見なくていい数字だ。黙って働け。現場はもう見てます」
橋本は説明書をひったくり、丸印を乱暴に押した。
「たまたまだ」
橋本は吐き捨て、事務所へ消えた。事務所では橋本がコンサル担当へ電話し、狩了台の追加を迫っていた。視察が近いと言い、見栄えのいい数字を出せと吐き捨てた。
「もう聞こえてます」
田中は通話メモに時刻を書き、封筒の中へ忍ばせた。
「証拠、集めます」
「危ないですよ。このままじゃ工場が潰れます」
「それでもお願いします」
光は田中の目を見て、小さく頷いた。カレンダーの視察の日だけ、光は印をつけずに眺めた。
「封筒、後で社長室へ持ちます」
田中はホチキスを3つ重ね、証拠の角を揃えた。
東洋機構から、新規下受け候補としての視察連絡が届いた。売上も大きく、国内でも名の知れた精密機械の会社だ。橋本は意気込み、コンサルにプレゼン資料を80万円で発注した。資料は薄く、数字の根拠も乏しかった。田中はコピー機の前でため息をついた。
この資料じゃ、現場の苦しさ伝わらない。
視察前日、橋本は床を磨き、問題箇所に点検中の札を張った。視察当日の朝、橋本は鏡の前でネクタイを何度も直した。手のひらに汗が滲み、インターホンが鳴るたび肩が跳ねた。
「大丈夫だ。俺がトップだ。流れは俺が作る」
「工場、顔青いですよ」
「余計な口は閉じろ」
橋本は会議室の椅子を並べ替え、名札まで作り直した。橋本は通路で光を呼び止め、声を潜めた。
「今日は黇ってろ。余計な一言もいらない」
光は黇って頷き、工具箱の角を指で撫でた。
視察当日、東洋機構の一行が工場に入った。先頭を歩いたのは、取締役副社長、美原誠一、55歳だった。三原は製造業で40年、現場の空気を読む目を持っていた。
「資料は結構です。現場を見ます」
三原は橋本の案内を断り、ラインの横を歩き始めた。機械に手を触れ、音と手触りで状態を確かめた。
「搬送の速度規定から、何パーセントずれてますか?」
「私が承認した数値です。環境の影響で」
三原はメーターを指差し、耳だけを見た。
「今は規定より11%遅いです」
声は小さかったが、三原の耳にはっきり届いた。
「廊下の方、さっきの数値を覚えてましたね」
「毎日、耳で覚えています」
橋本は歯を噳み、資料の角を折った。三原が橋本の説明を遮るたび、橋本の広角が引きつった。橋本は資料の束を胸に抱え直したが、誰も受け取らず、汗ばんだ。
「橋本さん、この機械の異音、説明できるか?」
「それはコンサルの導入過程で…」
「過程より結果だ。不良は増えた」
「第3ライン、最近誰が触りましたか? コンサルの指示で設定を誰が直しましたか?」
廊下で掃除をしていた光に、三原の視線が向いた。掃除の淵には、異常が出た順の番号が細かい字で並んでいた。
「この一覧、作ったのは誰ですか?」
「私です。雑用の合間に積み上げました」
「高卒のメモに価値はない」
「こちらは現場が決めます」
周囲の作業員が頷き、誰かが小さく拍手した。
「静粛にしろ。秩序が崩壊する」
「秩序は、ラインが戻った時から戻ってます」
橋本は名札を直し、震える指を隠した。
「事務的な雑用です。関係ありません」
橋本は笑おうとしたが、唇だけが上がり、目は泳いだ。廊下の作業員が息を飲み、足音だけが響いた。
「お嬢さん、話を聞かせてください」
「私が直しました。独学で学びました」
三原の目が静かに細くなった。
「会議室へ。今すぐ」
小会合室で、光は使い込んだノートを机に置いた。ページには、ラインごとの機械の動きと改善が隙間なく並んでいた。三原は黙って読み、指で図の線をなぞった。
「不良が跳ねた時、温度推移。数値は載ってるか?」
「載ってます。最大2. 3度上がった箵所に印をつけました」
三原はページを戻り、印のついた曲線を指でなぞった。
「理由は?」
「搬送速度の変更で、熱量が増れたためです」
「第2ラインの段取り替え拠は何だ?」
「運ぶ距離が平均で12%短くなります。試算はここです」
「設備にいくぐらいかける想定だ?」
「初期は800万円。回収は14ヶ月です」
三原は何度も、次のページへめくった。
「これは木村製作所のラインを組み換える提案書だ。中身に嘘がない。誰が書いた?」
「私です。4年、毎晩現場の数字を見てきました」
三原はゆっくり頷き、名刺を差し出した。そこには、東洋機構株式会社 副社長、とあった。
「本物なんですね」
「本物は君の方だ」
「ありがとうございます」
光は名刺を両手で受け取り、目元を指の腹で抑えた。三原は黇ってティッシュを1枚、机の角に滑らせた。三原はノートの端に、明日の再訪問とメモを書き込んだ。
橋本は扉に耳を寄せ、中の数字の区切りだけを数えた。光の答えは短く、途切れなく続いた。
「工場長、盗み聞きは恥ずかしいっす」
橋本は足を踏み鳴らしたが、通路に人は減らなかった。
「光が積んだの、邪魔すんなよ」
橋本は唇を噳み、資料を胸に押し付けた。橋本が会議室の扉をノックしたが、三原は首を横に振った。
「状況説明は、後にします。今は社長と娘さんの時間です」
扉の外で橋本が声を荒げたが、三原はドアを締め切った。
「副社長、です。現場の責任者は私です」
橋本は名刺入れを振り、肩書きだけを見せつけた。
「学歴も業績もあるのは私だ」
廊下の作業員が列をなし、橋本と三原の間に立った。
「責任者なら、さっきの数値、説明か」
橋本は言葉に詞まり、資料を床に落とした。返事はなく、廊下に橋本の声だけが空回りした。
正尾が廊下に出て、橋本の肩を抑えた。
「橋本、大声を出すな」
正尾の一言で、橋本は喉を詰まらせ、膝をついた。三原は正尾を呼び、橋本を同席させなかった。ノートを見た正尾の手が震えた。
「光、お前、こんなこと?」
その直後、田中が封筒を持って入った。
「社長、これ、橋本工場長の件です」
封筒には、コンサル請求と個人口座への振り込み記録のコピーが入っていた。3ヶ月で合計360万円の差額が、橋本個人へ流れていた。請求書の宛先会社と振り込み先名義が一致しない箇所もあった。メモには、コンサル側から紹介料は口座で分割、と書かれた一文もあった。
正尾は震える手で印をつけ、ゆっくり顔を上げた。
「隠れてたんです。全部」
橋本は封筒に手を伸びし、正尾の腕を掴もうとした。
「触るな。コピーは十分ある」
橋本の膝が崩れ、床に薄い音がした。橋本は社長室の扉に背中を預け、息が浅くなった。
「橋本、社長室へ来い」
社長室のソファーで、橋本は膝に手を置き、震えを隠せなかった。正尾が封筒を机に置く音だけが、部屋に重く落ちた。
「説明の時間をください。準備を」
「用意はもう十分だ」
翌日、臨時の取締役会が開かれ、弁護士と三原が同席した。橋本は席に座れず、壁際に立たされた。
「これは業界では一般的な、会社名義ではない口座だ。説明しろ」
田中が揵えた資料が机に並び、封筒の内容と数字が一致した。橋本は机を叩き、書類を床に散らした。
「橋本さん、落ち着いてください」
橋本は書類を集めようとして、指先が紙を破った。三原は1枚だけ拾い上げ、橋本に突きつけた。
「この振り込み名義、説明はつきますか?」
橋本は首を横に振り、すぐに縯に振った。
「違う。これは…」
扉が開き、コンサル会社の課長が書類を胸に、控えめに入った。
「同席させてください。内部告発を受けました。短く状況を…橋本さんに指示され、測定を雑にしました。現場を壊す指示だ。責任から逃げるな。担当者は解任し、授業料は全額返還します。契約は今日で終わりだ。賠償は別で詞める」
担当者は深く頭を下げ、橋本を見ようともしなかった。
「お前らも口を揃えろ。金は渡しただろう」
「事実だけ話しました。触らないでください」
橋本が腕を伸ばし、弁護士が間に入った。
「橋本さん、これは説明が必要だ」
「誤解だ。これは手数料の…」
「手数料なら、会社を通すべきだ」
橋本は唇を動かしたが、言葉が続かなかった。三原は腕を組み、視線を外さなかった。
「会社の信頼を裏切る行為です。規則通りの解雇が妥当です。当社も関連コンサルの総点検に入る。再発は許さない」
「橋本氏を懲戒解雇とする」
弁護士が書類を差し出し、個人への損害賠償協議の開始を告げた。返還すべき360万円に加え、違約金の目安も並んでいた。
「払えるはずが…」
「火星地で言え」
橋本は席から立ち上がり、コンサル名を何度も繰り返した。
「彼らが言ったんです。現場が理解不足で」
「説明はここで終わりにしてください」
橋本の声は途切れ、ズボンの膝が小さく震えた。誰かが短く咳払いし、橋本は視線を床に落とした。橋本は取締役の顔を順に見たが、誰も目を合わせなかった。会議室の空気が重く落ち、橋本はポケットの携帯に触れた。
橋本は携帯を開き、同窓のグループ名を見て画面を伏せた。名刺交換の紹介を頼んでも、全職の名簿には乗らないと帰ってきた。橋本の肩が落ち、ダンボールに私物を詰め始めた。ロッカーを空にし、額に油汗が光った。
「道具は全部返せ。工場のものは会社のものだ」
橋本は返却表に震える字で名前を書き、指先がインクを汚した。誰も手伝わず、拍手が背中越しに続き、橋本は足を早めた。
「よくやったな、田中さん」
「みんなの工場ですから」
橋本が出口で光とすれ違い、2人は言葉をかわさなかった。
「高卒のくせに」
橋本は言いたが、光は振り返らなかった。警備の男性が扉の前に立ち、橋本の社員証を切り取った。証の角が折れ、橋本はその場で小さくうずくまった。
事務所の窓の内側で、光は手を胸の前で組んだ。
「終わりました。さよなら、工場長」
橋本は答えられず、ダンボールを抱えて駐車場へ向かった。段ボールを後部座席へ投げ、鍵が指から滑り落ちた。橋本はしゃがみ込み、泥のついた鍵を拾い上げた。
「霧島社長、取引継続の条件は1つだ。光さんを改善の責任者に任命してほしい」
「分かった。任せる」
光は1度だけ深呼吸し、フロアの仲間へ向き直った。光は深く頭を下げ、工具箱の持ち手を強く握った。
「全力尽くします」
フロアの作業員が小さく手を叩いた。誰かが短く声をあげ、笑いが混じった。
「おう、光、頼んだぞ」
「はい、一緒に直していきましょう」
「遠慮すんな。こっちがついてる」
光は小さく頷き、作業帽で目を隠した。
光の改善プランは採用され、無駄を減らす手順で3ラインが組み換えられた。夜遅くまで、光は図面と現場を往復した。
「光ちゃん、ここ足元注意な」
「ありがとうございます。確認します」
初週は戸惑いも多く、手違いゼロを目指して手順を張り出した。朝礼で光は数値目標を黒板に書き、声は大きくなかった。
「今日は段取り替えの練習から始めます」
「了解」
班長が手順を読み上げ、フロアに規則正しい声が戻った。
「光、声は小さくていい。最後だけは言い切れ」
「はい」
1週間で不良品率は安定し、2週間後には生産量が月産比12%増えた。正尾は教育費の内訳を黒板に書き、若手の肩を叩いた。
「人数が増えた分、教える時間も増やす。逃げない」
東洋機構の検査担当は、許容される寸法の幅の記録を黙って見比べた。検査担当は指で欄外に小さく丸を描き、頷いた。
4週間後、東洋機構との大型の取引が正式に決まった。3年契約で、約束した品額を足すと30億円規模にした。契約書の束は厚く、正尾の指先が震えた。
「父さん、見ていてください」
法務担当が条項を読み上げ、判子の跡が重なっていった。収める部品と検査の基準、遅れた時の追加料金まで細かく積み上がった。正尾は各ページにサインし、手首を回した。三原は光へ視線を送り、短く頷いた。
「父さんは、お前を信じられなかった」
「いいんです。工場が動けば怖かったです。でも、現場を見捨てたくなくて」
光は父の袖を軽く掴み、すぐに話した。
「次からは、1人で言います」
「言えなくても、合わせよう」
正尾は娘の肩に手を置き、声を詰まらせた。
その夜、光は工場の明りの下でノートを閉た。
やっと前に進める。
記者会見の依頼が何件も来たが、光は現場を優先した。
「取材は後にしてください。ラインが先です」
調印式は東洋機構本社で行われ、三原と正尾が並んだ。光は客席で手を膝の上で握りしめ、ペンの音だけを数えた。フラッシュが光り、契約書に署名が重なった。
「よく踏ん張ったな」
「まだ途中です」
帰りの車内で、光は名刺の角を指で整えた。
「足りないところ、まだあります」
「足りないなら、明日から潰せばいい。横で測る」
半年後、工場の入り口に新しい看板がかかった。霧島製作所、と書かれた名札が事務所の壁に掲げられた。従業員は18名から35名に増え、第4ラインの建設が始まった。翌朝前夜、光は工事の下でチェックリストを握った。
「明日の朝礼、最後まで言い切ります」
「資料、ここに置きますね」
光は頷き、工事現場の金属音に耳を済ました。
新規採用の面接で、光は現場見学を必ず入れた。
「うちは学歴より数字と手元を見ます」
木村の年商は前年比で大きく伸びた。地域の銀行支店長も訪れ、融資条件の見直しを口にした。取引先の担当者が見学に来て、ラインの動きにメモを取った。業界紙の取材も来たが、光は現場の許可範囲だけ答えた。見出しは地味だったが、工場の電話は少しずつ増えた。
「光場、次は海外拠点の立ち上げだ」
「はい。現場の数字から逃げません」
橋本の名は業界の注意分に乗り、紹介会社も履歴書を避けた。地方の倉庫へ応募しても、面接で名前を見て断られた。スマートフォンの画面に木村の記事が出て、橋本は端末を伏せた。
橋本は夜間の倉庫で仕分けの手袋をはめ、棚番号を声に出した。
「もう一度読み上げ」
「66の2です」
注意され、橋本は線を引き直し、それで額を拭った。休みの日、市民講座で不良ゼロの看板を見て、最前列に座った。講師が統計の読み方を示し、橋本は鉛筆で真似てメモを取った。
あの時、こう聞けばよかった。
講座の後、橋本は資料を1枚に要約する練習を始めた。町工場の見学ボランティアで、若者の手元だけを見た。
「学歴より、手が早いかどうかだよ」
橋本は言いかけた言葉を飲み込み、静かに頷いた。謝罪文は何度も書き直し、郵便局の前で立ち尽くしたが、投函しなかった。応募表の経歴欄には、返還と再就職の履歴だけを正直に書いた。
小さな部品屋の面接で、橋本の字が面接役の手で止められた。
「うちは高卒も大卒も同じだ。明日から運べるか?」
「運びます」
橋本は初日、ダンボールを背負い、足を滑らせず運んだ。図書館の返却口で、製造の入門書を指でなぞり、借り直した。
今度は、期限通りに返す。
休みの日、橋本は自動館の工作で、ダンボールを子供と同じ高さへ運んだ。
「おじさん、ありがとう」
橋本は大きな声では答えず、飴だけ丸めて渡した。
運び始めて3ヶ月が過ぎ、橋本は新人へ棚番の読み方を教えていた。
「焦るな。数字は2度読め」
給料日、橋本は分割の振り込み先をスマートフォンで確認し、息を吐いた。橋本は倉庫の隅で水を飲み、空き瓶を分別箱へ正しく入れた。見慣れた時計は売却し、机の上には安い腕時計だけが残った。
同じ頃、光は朝礼の黒板を拭き、チョークの粉を手の甲で払った。
今日も手元から。
橋本は返還を続け、光はラインに立った。朝は別々だった。橋本は安い弁当を温め、レンジの音に耳を済ました。
「もううちには関係ない人です」
その噂は光の耳にも、ほとんど届かななかった。
「明日の納期、確認します」
光は頷いて、現場へ戻っていった。
「光、お前が自慢の娘だ」
「照れます。ライン見てきます」
光は父の肩の高さを見比べ、一言だけ付け足した。
「自慢より現場が好きです」
「分かってる。だから預ける」
工具箱の持ち手は擦り切れても、まだ光の手に馴染んでいた。それからも、朝の点検表には細かいメモが増え続けていた。若手が質問に来て、光は図面の角を指で示した。
「工場長、ここ、もう1段安全にできますか?」
「できます。今夜、見込みを出します」
その夜、光は事務所の机で見込み表に丸を重ね、正尾が置いたコーヒーを一口だけ飲んだ。
「父さんの出した値と、お前の値、ずれてないか?」
「最後のランだけ、私が押します」
正尾は頷き、古いメモと新しい数字を並べて蛍光灯にかざした。2人の指先が同じ欄に触れ、色だけが違った。
「ずれてません。工場は前に進んでます」
光は点検表に明日の日付を描き、窓の明りに目を細めた。
「疲れたら、ソファーを使え」
「疲れても、数字は曇らせません」
窓の外では、第4ラインの明りが1列に続き、金属音が規則よく響いていた。かつて毎朝バスで通い続けた街並みは同じでも、工場の明りは以前より長くついていた。
地味な高卒の工場員だった少女は、日本最大クラスの工場を目指す道を、静かに歩き始めていた。



