七之助は三十五になっても、嫁もなく、錆びた斧一本しか持たない男だった。母が残してくれた三百文のうち、一枚の一文銭を取り出し、天に問うた。表が出ればヤギを買い、裏が出れば、あの死にかけた女を助けると。この一文銭の行方が、後にこの男の人生を根底から変えることになろうとは、この時誰も知る由もなかった。
話は七之助がまだ幼かった頃へ遡る。山波が折り重なる里に、七之助という男が暮らしていた。七之助という名は、父の太兵衛が七福神にあやかって七つの福に恵まれるようにと願って付けたものであった。ところが、この男の生涯は名に似つかぬ気の毒な巡り合わせに満ちていた。太兵衛はこの里で指折りの無言者で、広い畑を持ち、牛を飼い、下男下女まで使う身分であった。妻のおふさは心根の優しい女で、毎年秋が終わると苦しい暮らし向きの家に米を分けて回り、村人たちはその恩を忘れずに褒め称えた。二人の間に生まれたのが七之助であり、六つ下に弟の七蔵がいた。幼い頃の七之助には何ひとつ不自由がなかった。
しかし、人の運というものは実に測りがたいもので、一度傾き始めると坂を転げ落ちるように崩れていくものらしい。七之助が十七になった年の春、父の太兵衛は町へ出た際に博打の店へ足を踏み入れてしまった。最初はほんの遊びのつもりでわずかな銭を張っただけであったが、初めの勝負で大きく勝ってしまい、その味が忘れられなくなった。金というものは、汗して稼いだ銭には重みがあるが、労せずして転がり込んだ銭には羽が生えていて、追えば追うほど高く舞い上がっていくものである。太兵衛は負けるごとに博打場から足が抜けなくなった。それから二年ほどの間に、田畑は次々と質に入れられ、受け出す当てもないまま七流れとなっていった。牛を手放し、下男下女にも暇を出した。おふさが泣きながら諭しても、耳を貸すはずもなかった。
七之助が十九になった年の冬、太兵衛は借金取りに追われるうち、宿場の裏路地で行き倒れているところを見つかった。手には博打の賽子が固く握られていたという。おふさは夫の亡骸の前で声も出さずに泣いた。それからというもの、おふさは日に日に痩せ細っていき、やがて赤い血を吐くようになった。心労のあまり肺を患ったのである。七之助が山へ薬草を探しに行き、弟の七蔵が冷たい水で洗濯をして母の世話をしたが、天はこの哀れな親子の真心を顧みなかった。七之助が二十になった年の春、梅のつぼみがほころびかけた朝、おふさは二人の手を握って言い残した。
「七之助、七蔵。母はお前たちを置いていく。兄弟で助け合って生きよ。世がどれほど厳しくとも、人の道だけは忘れるな」
その声はか細く、息継ぎの度に苦しげであったが、二人の手を握る力だけは最後まで弱まらなかった。そう言い残して、おふさは静かに息を引き取った。まだ二十歳になったばかりの七之助が喪主となり、母の葬儀を取り行った。棺をかつぐ人足を雇う金もなく、七之助と七蔵、それに近所の数人だけの質素な葬儀であった。
悲しみが癒える間もなく、さらなる災いが襲いかかった。七之助が二十一、七蔵が十五になった夏の夜のことである。隣町から出た火が折からの強風に煽られ、瞬く間に村へと燃え広がったのである。夜空を赤く染める炎が屋根から屋根へと飛び移り、人々は我先にと逃げ惑った。七之助は七蔵の手をしっかりと握り、煙の渦巻く中を駆けた。狭い橋のたもとに人がひしめき合い、修羅場となった。誰かが七之助の背を強く押し、その拍子に七蔵の小さな手がするりと抜けてしまった。
「七蔵! 七蔵!」
七之助は狂ったように叫んだが、押し寄せる人並みと煙に阻まれて身動きが取れなかった。七蔵の鳴き声が次第に遠ざかり、やがて何も聞こえなくなった。火事が収まった後、七之助は三か月もの間あちこちを探し歩いた。焼け跡を隈なく探し、近隣の村という村を尋ねたが、七蔵の行方はついに知れなかった。母の言い残した言葉が耳の底にこだました。「兄弟で助け合って生きよ」。その約束を守れなかった自分が恨めしかった。こうして両親を失い、弟を失い、家は潰れ、財産は散り、天涯孤独の身となったのが七之助であった。
それでも七之助は倒れなかった。崩れかけた掘っ立て小屋から藁を掻き出し、錆びついた斧一丁を手に山へ登った。木を切り、薪を作り、それを背負って町まで運ぶのが唯一の稼ぎであった。険しい山道に足の裏の皮が厚く硬くなり、斧を振るたびに手のひらに血が滲んだが、七之助は一度も愚痴をこぼさなかった。それどころか、村に困り事があれば自ら駆けつけて助けた。老人の家の屋根が痛めば七之助が直し、寡婦の家に薪が尽きれば七之助が一晩分運んでやった。橋板が腐って落ちかけた時も、七之助が一人で新しい板を担ぎ上げて直した。
「お前がそこまでせずとも良いのだぞ」
と言われても、七之助は「いつか福が来るでしょう」と笑って答えた。その笑顔があまりに不器用で、見る者の方が切なくなるほどであった。しかし、福はなかなか訪れなかった。三十を過ぎても嫁を迎える余裕はなく、持ち物は相変わらず掘っ立て小屋と斧だけであった。縁談を持ちかけても、「財産もなく親もない男に娘をやるものなどいない」と言われるばかりであった。
三十五になったその年の秋は、日照りが厳しく山でさえ薪をまともに得るのが難しいほどであった。七之助の暮らしは火の車で、米櫃には蜘蛛の巣が張っているありさまであった。七之助は長らく手を付けずにいた最後の蓄えを取り出した。銭にして三百文ほど。母が亡くなる前に着物の縫い目にそっと隠しておいた金であった。「よほど困った時に使いなさい」という母の言葉を守り、十年以上大切にしまい込んでいたが、もはやそれを取り出さねば明日を迎えられぬ身の上になっていた。七之助はその金を腰にしっかりと締め、町の市へ向かった。子ヤギを一匹買い求めるのが目当てであった。山の草を食ませて育てれば乳も絞れるし、子を生ませて売れば何とか暮らしが立つのではないかという算段であった。
七之助はヤギを売る場所を探して市を見て回った。市の隅の、誰も見向きもしない場所に妙な光景が目に入った。ボロが乱雑に積まれており、その中から細い息遣いが漏れてくるではないか。七之助は足を止め、耳を澄ませた。紛れもなく人の声。それも女の声であった。そっと近づいてみると、擦り切れた筵の上に一人の女が倒れていた。顔は泥に濡れて元の顔立ちが分からぬほどで、髪は乱れて絡み合っていた。着物と呼べるようなものではなく、ボロは肩々破れ、見る者の胸を締め付けた。何より鼻を突く悪臭が大変なものであった。市の人々がひそひそと囁いた。
「見ろ。あの女には近寄らぬが良いぞ。触れれば病が映るかもしれぬぞ」
一様に人々は鼻を押さえて足早に通り過ぎていくばかりで、この女の傍らに立ち止まったのは七之助が初めてであった。七之助はしばらく立ち尽くして女を見下ろした。胸の奥が締め付けられた。しかし、現実は厳しかった。腰にある三百文は子ヤギ一匹分ギリギリの額であった。この女を助けるとなれば、飯を買い、薬を用意せねばならず、そうなればヤギは諦めるほかない。七之助は踵を返した。数歩進んだ。もう一度振り返った。女の指先がかすかに震えていた。また踵を返した。ごほん、と咳き込んだ。また振り返った。女の唇が乾いてひび割れているのが見えた。三度目に踵を返し、今度は十歩ほど進んだ。すると、背後で女の息遣いがもう一度聞こえ、七之助の足が地面に張り付いたように動かなくなった。母の声が耳の奥に響いた。「世がどれほど厳しくとも、人の道だけは忘れるな」。
七之助は腰から一文銭を取り出した。三百文のうちのたった一枚であった。この銭一枚に全てを委ねようという心持ちであった。表が出れば懐の銭でヤギを連れて帰る。裏が出れば全てを投げ打ってあの命を拾うと決めた。銭を空に向かって高く弾くと、くるくると回りながら秋の日差しにきらりと光った。地面に落ちた銭は裏であった。七之助はしばらくその銭を見つめていた。乾いた笑いが漏れた。「天の無常なもの。この身一つがそれほど大それた望みであったか」と。しかし、天に問うたのは自分自身であり、その答えに従うのもまた自分の役目であった。七之助は女の元へと戻った。鼻をつまみたくなる悪臭を堪えながら、女の傍らにしゃがみ込んだ。
「もし、気はしっかりしておるか」
と声をかけると、女のまぶたがかすかに震えた。ひび割れた唇の間から、か細い返事が漏れた。
「水を……一口だけ、水を……」
七之助は市で水を組んできて、女の唇を濡らしてやった。それから、粥を買い求め、匙で救って食べさせた。女は涙を流しながら粥を飲み込んだ。何日も食を絶っていたのであろう、一口の汁にも喉が詰まるのか咳込みながらも、何とか飲み下していた。七之助は残った金で薬種をいくつか買った。ヤギのことはもう頭の隅にもなかった。問題はこの女をどうするかであった。市に置いていくわけにもいかず、かといって、素性の知れぬ女を連れていくのも憚られる話であった。
「行く当てはあるか」
と尋ねると、女はかすかに首を横に振った。七之助は長いため息をついた。そして、蓑を背負子にくくり付けるように、女を背中に負った。羽のように軽かった。骨と皮ばかりに痩せ細っていたからだ。市の人々がひそひそと囁いた。
「見ろ。七之助が女を背負っていく。我が家一つも持て余す者が、他人まで拾うとは全くの馬鹿者よ。七福ではなく七馬鹿と呼ぶべきだ」
その声は七之助の耳にも届いたであろうが、彼は何も言わず黙々と山道を登った。背中の女の息遣いが首筋に触れるたび、この女はまだ生きているのだという安堵が湧いた。掘っ立て小屋に着いた頃には、日がすっかり傾いていた。七之助は女を家の中に横たえ、粥を炊いてやった。そして、一つの大きな悩みにぶつかった。女の身体から漂う悪臭をそのままにしておくわけにはいかない。病を治すにはまず体を清めねばならぬが、一人身の男が女の体を洗うわけにはいかぬではないか。七之助はしばらく思案した末、心を決めた。桶に湯を満たし、清潔な手拭いを用意し、自らの目を布で覆った。
「もし失礼とは存じますが、体に触れてはならぬ故、目を塞ぎました。お許しください」
と断りを入れたが、女からの返事はなかった。声を出す力さえ残っていなかったのである。七之助は目を覆ったまま手探りで手拭いを湯に浸し、女の顔や手足を拭き始めた。泥があまりに酷く、手拭いはすぐに真っ黒に染まった。湯を何度も変えながら丹念に拭いた。顔を拭き終え、髪に絡んだ泥を取り除いていると、指先に触れる髪の質がまるで絹のように滑らかであることに気づいた。七之助は思わず首をかしげた。この女は案外、身分の高い身の上かもしれぬという思いが胸をよぎった。
翌朝のことである。七之助は粥を運ぼうと部屋の戸を開け、そこで思わず立ち止まった。泥や埃を拭い去った女の顔が朝日に照らされていたが、その様子は七之助の想像をはるかに超えていた。頬こそこけ、唇こそ荒れていたが、目鼻立ちは整い、清らかであった。七之助は慌てて顔を背けた。
「粥を炊きました」
と式に膳を置いて、そそくさと下がった。幾日か経つと、女は次第に元気を取り戻していった。そして、ある日、女は初めてしっかりと目を開き、七之助を真っ直ぐに見て口を開いた。
「命の恩人様。お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
その声は澄んでいた。物乞いの姿からは想像もつかぬ、恭しい女の言葉遣いであった。
「七之助と申します」
と答えると、女は深々と頭を下げた。その所作があまりに整っていたので、七之助はこの女が並々ならぬ家の出であることを一目で悟った。
「りんと申します」
と、女は名を名乗った。しかし、七之助は心のうちで気になって仕方がなかった。この女がいかなる事情で市の隅で息絶えかけていたのかということについて。りんは幾日か体を休めてから、ゆっくりと自らの身の上を語り始めた。その話を聞くうちに、七之助の顔は次第に曇っていった。りんは元々江戸で小禄の旗本を務めていた家の娘であった。父は火消しながら旗本の役に就く身であり、母は名のある家中の娘であった。幼い頃から書読み学問に親しみ、容姿も並ぶものがなかった。その家に天が崩れる日が訪れた。女中を焼いた大火の夜、日の手が屋敷にも及び、逃げ惑う混乱に紛れて押し入った盗人の一味が父を手にかけて金目のものを奪い、母は人質として共に連れ去られた。母は連れ去られる道中で息絶えた。りんは一人、遠く離れた宿場町の遊郭へ売り飛ばされていった。数えで十六、見知らぬ土地に放り出されたのであった。
遊郭でりんは客の座敷に酒を運び、下働きに明け暮れる日々を送った。だが、りんには人と違うところがあった。その店に出入りする客の中には、諸国を渡り歩く薬商人や鉱山を扱う商人、地を見立てる心得を持つ者などが幾人もあり、りんは酌をしながらその客たちが語る話に耳を澄ませた。ある客は懐から鉱石の標本を取り出しては旅の話を語り、りんは頼み込んでそれを借り受け、行灯の下で一つ一つを眺め進めた。また、ある客からは、石の色つや、重さ、石の目、脈の走り方によって地中に何が眠っているかを見分けるという鉱山師の心得を聞かされた。どのような色した岩が何を含み、どのような艶を持つ石のうちに金が隠れているか。水の流れがどのように鉱脈を作り、山の姿がどのように鉱脈の巡りを示すか。りんはそうした話を一つ一つ胸に刻み付けていった。座敷に呼ばれた合間にも、石の色や井戸端の土の湿り具合をそっと確かめる癖がついた。ある鉱山師は酔うたびに「山の北側と南側とでは同じ岩でも中に含むものが違う。水気の多い谷筋には金脈が集まりやすい」と繰り返し語り、りんはそれを幾度も聞いて頭に叩き込んだ。また、別の客からは古い書物に記された山相の見立てもいくつか教えられ、独学ながらも自分なりの見立ての術を築き上げていったのである。そうして十年近い歳月が流れた。ある年、若年寄の家臣で林の境遇を哀れんでいた商人が店に身請けの金を払って、りんの身請けをしてくれた。りんは涙ながらに礼を述べ、故郷を目指して旅立った。山を越え、川を渡り、足の皮が破れ、着物が擦り切れるのも構わず、ただ故郷へ戻るという一念だけで歩き続けた。ようやく故郷の土を踏んだ時、りんは膝を折って長らく泣いた。十年ぶりに見る故郷の山波は何も変わっていないように見えたが、迎えてくれる父も母もいなかった。
しかし、帰り着いた故郷は温かくはなかった。世間は誘拐から戻った女を「車上がり」と呼び、汚れた女だと決めつけた。さらわれたことは己の罪ではないのに、その身の上そのものを恥とみなす。誠に残酷な世であった。りんの親戚たちも彼女を見捨てた。「我が家にそのような女はおらぬ」と門前払いを受けたりんには行く場所がなかった。あちらの村、こちらの里と渡り歩き、物乞いで命をつないだが、「車上がり」という噂が広まれば、石を投げられることも一度や二度ではなかった。そうして放浪のうちに力尽き、市の片隅に倒れ込んだのであった。七之助に出会わなければ、あの日がりんの最期の日となっていたに違いなかった。
七之助はりんの身の上話を聞き終えて、しばらく言葉を失っていた。やがて、口を開いた。
「りんどの、行く当てがないと申すのであったな」
「はい、そうでございます」
「ならば、この家にいなされ。わしも一人、そなたも一人。互いに支え合えば良いではないか。そなたがどこから来たか、何があったか、そのようなことは構わぬ。人は困った時こそ、互いに助け合うのが道理であろう」
りんの目から涙が止めどなく溢れた。故郷に戻ってから初めて聞く温かい言葉であった。七之助は崩れかけた納屋を片付け、りんの部屋を用意した。粗末極まりない部屋であったが、筵を敷き、布団を並べれば、何とか人の眠れる場所にはなった。りんは体が回復すると、家事を手伝い始めた。飯を炊き、洗濯をし、庭を掃いた。初めのうちこそ痩せ細った体でよろめきながらの仕事であったが、日ごとに動きに力強さが戻っていった。七之助が山から戻ると温かい飯が整えられており、破れた着物はいつの間にか繕われていた。七之助は生まれて初めて、家に帰るのが待ち遠しく感じられるようになった。山で木を切る時も、自然と鼻歌が漏れるほどであった。
村人たちは囁き合った。「七之助が市で拾ってきた女は、なかなかの器量よ」と。中には「いくら何でも、あんな女を連れてきて女房にするとは呆れたものだ」という者もあったが、七之助は気にしなかった。世間が何と言おうと、人のいる家が温かければそれでよかった。
ある晩のことである。りんが膳の前を下げた後、遠慮がちに七之助に切り出した。
「七之助様、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「何じゃ」
「ご両親のお墓はどちらにございましょうか」
七之助は不審に思った。何故、唐突に墓のことを尋ねるのかと。
「裏山の中腹にある。父が亡くなった時、急ぎこしらえた場所である。母はその隣に合葬した。それがどうしたのか」
「お墓参りをしてから申し上げます。どうか、その場所へ案内していただけませぬか。一度、母を改めて見とうございます」
七之助は戸惑いながらも断る理由はなかった。翌朝、二人は連れ立って裏山を登った。中腹に至ると、二つの塚が並んでいた。草が生い茂り、手入れの行き届かぬ様子であった。七之助は申し訳ない思いに包まれた。りんは墓の前に立ち、四方をつぶさに見渡した。背後の山並みを仰ぎ、前方の川筋を見下ろし、左右の尾根を目で辿った。それから、墓の土を一握り掴んで見せた。鼻に近づけて匂いをかぎ、指先で揉み、唇に軽く当てて味まで確かめた。七之助はりんの振る舞いを珍しく思った。
「一体、何をしておられるのか」
と問うと、りんの表情が曇った。ゆっくりと首を横に振りながら囁いた。
「ああ、これはいけませぬ。この場所はよくございません」
七之助の胸がどきりと沈んだ。
「何が良くないのか」
「旦那様。この塚の周りだけ、他よりも草の色が薄うございます。それに、土を触れば分かりまするが、ここだけひどく湿っております。これは下から絶えず水が染み出ておる証にございます」
と、りんは土を七之助の手のひらに乗せて示した。
「この場所は脈の絶えた場所にございます。山の気が流れてくる途中で、ぷつりと立ち切れておりまする。根の腐った木が実を結ばぬように、この場では子孫の気が絶え、家が傾いていくことになりましょう」
七之助の顔が青ざめた。よくよく考えれば、父が博打に溺れたことも、母が労咳で亡くなったことも、弟を見失ったことも、我が身の運がこの有様であることも、もしやこの墓のせいではなかったかと思い当たった。
「では、どうすれば良いのか」
「改葬をなさるべきです。どこか良い場所を探して、移しを仕上げねばなりませぬ」
七之助は肩を落とした。僧を呼ぶには体がかかり、墓を移す人足を雇うのも馬鹿にならない。それに何より、我が家の菩提寺に断りもなく墓を動かすことなどできようか。明日の米にも困る今の暮らし向きで、改葬など夢のまた夢であった。りんが七之助の心を察したのか、言葉を継いだ。
「僧を呼ぶには及びませぬ。私が場所を見立てましょう」
七之助は驚いてりんを見つめた。
「そなたが地を見られるのか」
「はい。遊郭にて鉱山師や地相に明るい者たちの話を聞き覚え、陰陽学や方位の理と重ね合わせてまいりました。山の姿を読み、地の流れを見極めることは、私にもできます」
七之助は半信半疑ではあったが、他に手立てもなかった。まずは菩提寺に事情を話し、住職に改葬の許しと土壇を願い出ることにした。その日から、りんは山を歩き始めた。夜明けに出て、日暮れに帰る日々が続いた。木の枝で八卦を描き、岩に腰かけては風の向きを測り、水の流れをたどって谷筋を巡った。夜には掘っ立て小屋の縁側に座り、星空を仰ぎながら竹の三枝を並べて卦を立てた。七之助は夜更けまで星を数えるその後ろ姿を、どこか心強く感じていた。
四十日目のことであった。りんが山から降りてくると、その顔には確信の色が浮かんでいた。
「見つけました。裏山を越えた向こうの、日当たりの良い場所に良き地がございます」
七之助は村人たちに助けを求めた。日頃から困り事を進んで手伝ってきた甲斐あってか、何人かの村人が心よく力を貸してくれた。「七之助どのの頼みとあれば、断る道理はない」と言って鍬や鋤を持ってきてくれた者、牛を貸してくれた者、市で団子屋を営む者が人足たちの飯を炊いてやろうと力を運んできてくれた。かつて七之助が屋根を直してやった老人も、腰の悪い体を押して手伝いに来た。菩提寺の住職も自ら出向き、読経を唱えて霊を鎮めてくれた。墓を移す仕事は容易ではなかった。塚を掘り起こし、棺を取り出して新しい場所へ移すのに丸二日を要した。七之助は泥だらけになって働き、りんは方位を測り、位置を定めることに全身全霊を注いだ。ようやく新しい場所に塚を築き、住職の土壇の元、改葬の儀式を取り行ったのは満月の皓々と輝く夜であった。七之助は両親の墓前に手を合わせて拝礼した。
「父上、母上。不肖の七之助が、ようやくふさわしい場所を整えましてございます。どうか安らかにお眠りください」
改葬を終えてからというもの、家の様子が少しずつ変わっていった。ただし、それは天から降ってきたような変化ではなかった。りんは日々の暮らしを丁寧に見直した。薪をどの店に売れば高く買ってもらえるか。余った銭をどう蓄えておけば、次の日に困らずに済むか。細かく算段をつけるようになった。それまで七之助は薪を売った先から言われるままの値で受け取っていたが、りんの助言でいくつかの店を比べて売るようになると、同じ量の薪でも儲けが目に見えて増えていった。七之助は改葬の骨折りを見た村人たちから、以前にも増して頼りにされるようになった。薪を運んでいた先の店のある旦那が、この男の実直さを見込んで薬種屋を紹介してくれたのもその頃であった。りんは薬草の見立てにも通じており、どの薬草がどの季節に大きな町で高く売れるかを助言した。七之助は薬種には不慣れであったが、生来実直で正直であったため、人々の信用を得ていった。「七之助どのの薬草には誤りがない。あのお方は品を欺くことを知らぬ」と評判が広まり、客が一人また一人と増えていった。
無論、初めから何もかも順調であったわけではない。ある時、仕入れた薬草の一部が湿気で痛んでしまい、客から突き返されたこともあった。七之助は青ざめ、「これでは信用を失う」と肩を落としたが、りんは「正直に過ちを認めて、代金を返すことこそが一番の道でございます」と言った。七之助はその分の代金をきっちりと返し、傷んだ品を正直に見せて詫びた。客の中には「それならば」と、逆に別の品を買い足してくれる者まで現れた。かえってその実直さが評判となり、以来七之助をひいきにする客はますます増えていったのである。りんはこの一件から、どのように薬草を包み、どう運べば湿気を防げるかも考え、油紙を使うことを提案した。以来、品が傷んで戻されることはほとんどなくなった。七之助が体を動かし、りんが知恵を巡らす。そのような形で、暮らしは少しずつ上向いていった。
ある日、七之助が薬種屋に品を納めに行くと、店先で年配の客が七之助の名を聞き留めて声をかけてきた。
「もしや、太兵衛殿のご子息ではないか」
「太兵衛でございますが」
と七之助が答えると、その客は懐かしそうに語った。
「太兵衛殿には昔世話になった者がいる。江戸で手広く商いをしている徳兵衛という男だが、今も気に病んでいる様子であった」
七之助はその名にわずかな記憶があった。幼い頃、父から一度だけ聞いたことのある名であった。それから幾日か後、その徳兵衛という男が本当に七之助の元を尋ねてきた。年の頃五十を超えた辺りで、身なりは随分と立派であった。絹の羽織に傘を差し、七之助の前で深々と頭を下げた。
「二十年余り前、太兵衛殿からお借りした金を、未だにお返ししておりません」
と徳兵衛は言った。太兵衛がまだ立派な無言者であった頃、徳兵衛は商いの元手として二両を借りたのだが、返すという約束だけを残して江戸へと逃げていったのであった。
「この旅の途中であなた様のお噂を耳にし、両親が亡くなられたと聞き、ようやく訪ねる決心がつきました。実は、一か月ほど前から夜な夜な同じ夢を見るようにもなりまして。太兵衛様が現れ、『いつまで待たせるのだ』と叱りつける夢でございます」
と、少し照れ臭そうに付け加えた。徳兵衛は懐から重い包みを取り出した。包みを開くと、中には銀貨がぎっしりと詰まっていた。
「元金の二両に、二十年分の利子をつけておよそ十両。弔いを揃えて持参いたしました。どうかお納めください」
七之助はただ立ち尽くしていた。生涯でこれほどの大金を手にしたのは初めてであった。家に戻ってりんにこの出来事を話すと、りんは頷きながら言った。
「日頃の実直な商いが人の口を伝って回り、思わぬところで巡り合うこともございます。これも旦那様が積み重ねてこられたものの一つでございましょう」
七之助はその元手をもとに、商いをさらに広げていった。それまでは近隣の市を回るだけであったが、りんの助言もあり、少し足を伸ばして大きな町の市にも品を下ろすようになった。ある日のことであった。それまで通ったことのない大きな町の市へ薬草を運んだ帰り道、七之助は大きな行商の一行とすれ違った。牛が引く荷車が七台、荷運びの人足が二十人を超え、護衛の用人まで五人ほど従えた大掛かりな構えであった。埃を上げながら進む一行の先頭には幟が立ち、通りすがりの者たちが皆、道を譲るほどの威容であった。道端に避けて一行が通り過ぎるのを待っていると、七之助の目に一人の若者が留まった。二十歳ほどに見える若者で、行商の頭の傍らで何かを熱心に説明していた。手振りを交えながら絵を広げて見せるその様子は、溌剌としていて気迫に満ちていた。七之助はその若者から目が離せなかった。何とも言えぬが胸の奥がざわめいたからである。その時、荷車の一台が険しい道で傾いた。荷が今にも崩れそうになり、七之助は思わず駆け寄って荷車を支えた。
「大丈夫でござるか」
と七之助が力を込めて荷車を立て直すと、あの若者が駆け寄ってきた。
「助けのございます。怪我はございませぬか」
と若者が言った。間近で見ると、その若者の顔がどうにも見覚えのあるものであった。どこかで見た。それも随分と昔に慣れ親しんだ顔。七之助はぼんやりとその顔に見入っていた。
「旦那、いかがなされました」
と若者が戸惑いながら尋ねた。その時、荷車を支えた拍子に、若者の羽織りの肩口が破れた。露わになった肩に傷跡が見えた。七之助の目が大きく見開かれた。十字の形をした傷跡であった。七蔵が七つの頃、木から落ちて肩を大きく傷めたことがあった。母が一晩中薬を塗ってやったが、あまりに深い傷であったため、十字の形に痕が残ったのであった。七之助の体が震え始めた。心臓が狂ったように高鳴った。唇が開いては閉じを繰り返し、やがて震える声が絞り出された。
「七蔵……」
若者が身を強張らせた。その名を聞いた瞬間、若者の瞳が揺れた。
「誰が……誰がその名を……」
「わしだ。わしが七之助だ。お前の兄だぞ、七蔵」
七之助は若者の両肩を掴んだ。若者の瞳が揺れた。記憶の扉が開き、遠い昔にしまい込んでいたものが一度に溢れ出すような表情であった。
「兄上……兄上か」
と若者の声が震えた。目に涙が溢れた。
「兄上、誠に兄上でございますか」
七之助は答える代わりに、弟をきつく抱きしめた。道の真ん中で、兄弟は互いを抱きしめ合って泣いた。行き交う人々が足を止め、その光景を眺めていた。行商の頭が近づいて尋ねた。
「七蔵、これはいかなることだ」
七蔵は涙を拭いながら答えた。
「頭、この方は……この方は、それがしの兄にございます。あの火事で行方知れずになった兄にございます」
あれから十四年。兄弟が離れ離れになってから、およそ十四年の歳月が流れていた。十五の少年であった七蔵は、いつしか二十九の若者になっていた。
その夜、兄弟は炉端で語り合った。掘っ立て小屋の狭い部屋に向かい合って座り、過ぎ去った歳月を語り尽くした。七之助はあの火事の後、三か月もの間七蔵を探し続けたこと、そのように一人で山仕事をしながら暮らしてきたかを語って聞かせた。
「この十四年、お前の小さな手が離れたあの一瞬のことを、幾度も思い出しては自分を責め続けてきた」
と七之助は言った。
「兄上がそのような思いを抱えておられたとは」
と七蔵は拳を握りしめ、俯いた。
「それがしも同じでございます。はぐれたのは兄上のせいではないと分かっていながら、もし兄上が人並みに飲まれてしまったのだとしたらと、幾度も同じ悪夢を見ました。それがしが拾われて職にありつき、兄上はどこかで難渋しておられるのではと思わぬ日はございませんでした」
と七蔵は打ち明けた。二人はしばし黙り込み、互いに同じ重荷を十四年もの間、別々の場所で背負い続けてきたのだと気づいた。七蔵の身の上もまた、気の毒なものであった。あの火事の中で兄の手を離してから、人並みに押し流され、町の外れまで逃げ延びた。一人残された十五の少年にできることは限られていたが、彷徨いながら放浪のうちに一つの行商の一行に拾われた。最初は下働きをして食にありつくばかりの身であったが、七蔵は利発であった。数に明るく、勘が効くゆえ、行商の頭の目に留まった。頭が読み書きを教え、商いの勘所を教えてくれた。七蔵は水が低きに流れるように学びを吸収し、二十歳になる頃には一行の三謀のような役目を任されるまでになっていた。しかし、兄のことは一度も忘れなかったという。
「商いの旅でどこへ行っても、兄の名を尋ねて回りましたが、手掛かりを掴むことはできませんでした。兄上、生きておいでだったのです」
と七蔵は兄の手を固く握った。りんが静かに茶を運んでくると、七蔵は丁寧に礼を述べた。
「兄嫁様であられましょうか。兄をお世話くださったご恩、感謝申し上げます」
りんははにかむように俯いて答えた。
「まだ、契りは上げておりませぬが」
七之助はわざとらしく咳払いをした。耳が少し赤くなったのを、七蔵が見逃すはずもなかった。弟はにやりと笑った。七蔵は行商の頭に事情を話し、幾日か兄の家に留まった。それまで働いて貯めた金が少なからずあり、そのうちの十五両を兄に差し出した。
「兄上、これを商いの元手になされ。それがしは一行から扶持を受けております故、ご心配には及びませぬ」
という弟に、七之助は固く断った。
「自分が働いたわけでもない金を、どうして受け取れようか」
すると、七蔵は真剣な面差しで兄を見据えていった。
「兄上、母上が亡くなる際に何と仰せられたか、覚えておられますか」
「兄弟で助け合って生きよ、と仰せられた」
「兄上が栄えてこそ、それがしにも頼るべがあるというものではございませぬか」
七之助はついに弟の心を受け取ることにした。その夜、りんが七之助に語りかけた。
「七之助様、その金で買うべきものがございます」
「何を買えというのだ」
「村の西の外れにある岩山をご存知でございましょう」
七之助は頷いた。村の西の外れには、草もまともに育たぬ岩ばかりの荒れ地があった。村の誰一人として見向きもしない、役立たずの土地であった。
「あそこは田も作れず、木も育たぬ場所ではないか。この世に何の役にも立たぬ土地を、何故買えと申すのだ」
と問い返すと、りんは慎重に言葉を選んだ。
「あの山に登ってまいりました。岩の色合いが尋常ではございませぬ。黒く見えながら、内側には仄かな光が差しておりました。遊郭で聞き覚えた鉱山師の話に、銀を含む岩はそのような色をしていると申します」
七之助はすぐには信じなかった。
「その目でそこまで言い切れるものか」
と問い返すと、りんは首を横に振った。
「確かとは申しませぬ。ただ、賭けるだけの見込みはあるかと存じます」
七之助は翌日から岩山に登り、岩の色をこの目で確かめた。素人の目にはただの黒ずんだ石にしか見えなかったが、りんが指し示した箇所を割ってみると、確かに他とは違う光沢があるようにも思えた。七蔵も鉱物を扱った経験からいくつかの石を割ってみたが、それらしき鉱脈は見当たらず、「まだ決めつけてはなりませぬ」と慎重であった。七之助は幾晩も考えた。かつてなら、ここでまた銭を投げて天に問うたかもしれぬ。だが、七之助は懐に手を入れなかった。今度は自分の目で見、自分の頭で考え、自分で決めようと思った。当たれば身の振り替え。外れれば元の貧乏に戻るだけのこと。これまでりんの見立てが外れたことは一度もなかった。改葬の一件も半信半疑のまま従ってみれば、後に思わぬ形で報われたではないか。ならば賭けてみようと、七之助は自らこう思い定めた。この決断は誰に強いられたものでもなく、七之助自身が下したものであった。
七之助は弟からもらった十五両に自らの蓄えを合わせて、岩山を買い取った。土地の値は驚くほど安く、わずか二両ほどで済んだ。「役立たずの荒地を買うという物好きが現れたのだから、地主は内心喜んでいたであろう」と、村人たちはあざけった。「七蔵の勧めか。市で拾った女の戯れ言を真に受けて岩山を買うとは、相変わらずの馬鹿だ」と、嘲笑が四方八方から降り注いだ。七之助は歯を食い縛った。翌日から、斧の代わりに鑿と槌を手に岩山へ登った。初日、岩を叩いても何も出なかった。日が暮れる頃には腕が痺れ、鑿を持つ手すら震えていた。二日目、岩は思いの外固く、鑿の先が幾度も欠けた。研ぎ直しては打ち、また欠けては研ぐ。その繰り返しであった。三日目、七之助の手のひらが割けて血が滲んだ。鑿を握り、槌を振り下ろす仕事は骨身の折れる苦労ではなかった。夜になると、七之助は手のひらに膏薬を塗りながら、これで本当に良いのだろうかと胸のうちで自問した。四日目、様子を見に来た村人が「岩を割って飯でも炊くつもりか」と嘲り立てた。「おかしくなったに違いない。女の戯れ言を真に受けるとは」と嘲る声も聞こえた。それでも、七之助は槌を振る手を止めなかった。五日目、七蔵が行商の合間を縫って訪ねてきて、兄と並んで岩を割り始めると、一つの岩の割れ目にこれまでとは違う色の鉱脈を見つけた。
「兄上、これを」
と七蔵が声を上げたが、「まだ確かとは申しませぬが」と付け加えるのも忘れなかった。目つきだけは明らかに変わっていた。六日目、りんが山に登り、岩の傾きと下から染み出す水の流れを見てから言った。
「少し北寄りに掘り進めてみてください。断言はできませぬが、これまでの鉱脈の走り方からすれば、そちらの方が見込みがございます」
七之助と七蔵は言われた通りに向きを変えた。七日目のことであった。七之助が大きな岩を打ち割ると、岩は二つに割れ、その内側から見慣れぬ光が漏れ出てきた。割れた岩の断面に、銀色の鉱脈がくっきりと浮かび上がっていた。まるで木の根のように、細く太く岩の内部を貫いていた。七之助の手が震えた。
「これは、誠に銀なのか」
と問うと、七蔵は岩を手に取り、重さを確かめてから言った。
「似ておりますが、それがしの目だけでは受け合えませぬ。大藩所に持ち込んで、改めていただきましょう」
七之助はその欠片を布に包み、翌日、大藩所へ届け出た。役人は数日をかけて岩を見分し、確かに銀を含む鉱石であると認めた上で、加工の許しと運上金の定めを申し渡した。その知らせが村に届いた日、七之助は役人と共に岩山へ戻った。かつて岩山を売った地主も、七之助を七馬鹿と呼んで嘲っていた男たちも、噂を聞きつけた人たちも、皆その場に集まっていた。四日目に「岩を割って飯でも炊くつもりか」と嘲り立てていた男は、後ろの方で真っ青に腕を組んでいた。市で薪を背負う七之助を見て七馬鹿と嘲っていた者たちの姿もあった。役人が岩を割らせ、断面に浮かぶ銀の鉱脈を皆の前に示すと、集まっていた村人たちからどよめきが起こった。
「嘘だろう」
「いや、役人様が確かめておられるのだから、間違いなかろう」
と囁く声が広がった。かつて土地を売った地主は、二両で手放した岩山がこれほどのものであったかと、しばらく声も出せずにいた。七之助を嘲っていた者たちの口は、もはや動かなかった。岩を割って飯でも炊くつもりかと嘲っていた者たちが、今では黙って目を伏せるばかりであった。七之助は七蔵の助けを借りて、山を本格的に掘り進めていった。七蔵は行商で培った人脈を総動員して、山を掘る者を集め、道具や機材を運んだ。行商の頭も七蔵の頼みとあってはと、道具を運ぶ荷車を融通してくれた。りんは地脈の見立てを持って、どの方向に掘り進めれば銀脈が続くかを指し示したが、初めのうちは外れることもあった。掘り進めても脈が細くなり、「これは違ったかもしれません」とりんが肩を落とすこともあった。ある時など、りんが東へ掘れと告げた場所が三日掘っても何も出ず、「それがしの見違いでございました」と、りんが珍しく声を落として詫びたこともあった。七之助はそれでも責めることなく、「外れることもあろう。それで良い」と笑って答えた。七蔵が別の場所の岩を改めて、方位を修正し、二人で掘り直すうちに、銀の見立ては確かな方位を言い当てるようになっていった。山からは銀が次々と出てきた。最初こそ小規模であったが、三か月も経つと採掘量は大きく膨らんだ。定めの運上金を納めた上で、七之助は残る銀を町の商人に下ろし、その代価として大きな富が積み上がっていった。
しかし、七之助は変わらなかった。それこそがこの男の何よりも見事なところであった。金持ちになったからと言って、思い上がることもなく、掘っ立て小屋を萱葺き屋根の家に立て直しはしたものの、大きな屋敷を構えようという欲は見せなかった。それどころか、村人たちに施しを始めた。山の仕事に人手がいる時は、かつて自分を助けてくれた村人や困窮する百姓を真っ先にやとい入れ、子供たちの学ぶ寺子屋を建て、川の切れた橋には石橋を架けてやった。「七之助が銀山で稼いだ金で村を助けている」「あのお方は金持ちになっても人が変わらぬな」「いや、貧しかった頃から人助けをしていたお方だ。元々そういう人柄であったのだ」と、村人たちの口から七之助を称える言葉が絶えなくなった。りんに対する目もまた変わっていった。初めは「市で拾ってきた乞食女」と嘲られ、次には「車上がり」と陰口を叩かれていたが、今では「りん様は学識が深くいらっしゃる」「地を見る目は確かだそうな」「七之助殿が身を立てられたのは、奥方様のお力添えあってのことだ」と、評判はすっかり様変わりしていた。人というものは本来そういうものである。貧しき者の妻であれば「いやしい出歯」と言い立て、富める者の妻であれば「賢い」と褒め称える。しかし、りんは褒め言葉にも嘲り言葉にも心を揺らすことはなかった。黙々と家を切り盛りしながら、七之助が正しい道を外れぬよう、静かに支えていた。
七之助とりんは正式に祝言を上げた。村の年寄りたちが仲人を務め、七蔵が祝いの品を整え、質素ながらも真心のこもった婚礼であった。かつて七之助を七馬鹿と嘲っていた村人たちも、今では笑顔で祝いの席につき、酒を酌み交わした。りんが花嫁衣装を身にまとい、綿帽子を被った姿は、村人たちの間から思わずため息が漏れるほどの美しさであった。七之助は杯を傾けながら、弟に語りかけた。
「七蔵よ、あの日、ヤギを買っておったら、今頃どうなっていたであろうな」
「今頃、ヤギの乳でも絞っておられたでございましょう」
と七蔵が笑って答えた。祝言を上げてからというもの、七之助の家はますます栄えていった。翌年の春には男の子を授かり、その翌年には愛らしい娘が生まれた。七蔵もまた良き伴侶を得て、行商の仕事を続けながら兄の山の経営を助けたので、兄弟が互いに支え合って家を起こしていく形となった。噂は遠くまで広まった。「信濃の山奥の貧しき者が銀の山を掘り当て、この上ない富裕者になった」という話は、江戸の町にまで語り継がれるようになった。
ある秋の夜のことである。七之助は庭の縁台に腰かけて空を見上げていた。秋の空には星がこぼれ落ちんばかりに輝いていた。りんが茶を持って隣に座った。
「何を考えておいでですか」
と問うと、七之助は懐から古びた一文銭を取り出して見せた。
「あの日、ヤギを買うか、そなたを助けるか、この銭を投げて天に問うたのだ」
りんは微笑んだ。
「そのようなことがございましたか」
「裏が出て、そなたを背負って山道を登った。正直に申せば、口惜しかった。ヤギ一匹がそれほどまでに恋しかったのだから」
七之助は銭を手のひらの上でくるりと転がしながら続けた。
「もしあの日、表が出ておったなら、わしは今頃どうしておったであろうな」
りんは少し考えてから答えた。
「あなた様は、あの女を見捨てられなかったお方でございます。銭が表であっても、きっと引き返してきたことでございましょう」
七之助は目を丸くしてりんを見つめ、それからふっと笑った。
「さようかもしれぬな。あの銭が決めたのは、ヤギにするか、そなたにするかということだけであって、あの日、足を止めて戻ったのは、この身であったな」
と七之助は呟いた。りんは頷き、それから付け加えた。
「私とて、あの日、様が戻って来られなければ、こうしてここに座っていることもなかったのでございます。銭には表裏を決めるだけのもの。その先にどう動くかは、人の心一つでございましょう」
七之助はその言葉を胸のうちで何度も繰り返した。二人はしばらく黙ったまま、互いの言葉を胸のうちで確かめ合うように座っていた。りんは答える代わりに、夫の肩にそっと頭を寄せた。秋風が柔らかく吹き抜け、星明かりが二人の頭に降り注いでいた。
七之助はその後も奢ることなく、村の頼れる者として長く敬われながら暮らした。銀山の収入が増えても人を雇う手を緩めず、飢饉の年には真っ先に米を放出し、寺子屋では自ら子供たちに読み書きを教えることもあったという。かつて七之助を七馬鹿と嘲っていた者が寺子屋に通うようになった時も、七之助は分け隔てなく面倒を見た。過ぎたことを蒸し返すような真似は、一度もしなかった。七蔵は行商の頭から暖簾を分けてもらい、兄の山の商いと二人三脚で家をさらに大きくしていった。りんは子らに手習いを教え、村の地相を見立てながら、夫の傍らで長く連れ添った。かつて七之助を七馬鹿と嘲っていた村人たちも、いつしかその名を軽々しく口にすることはなくなり、代わりに「七之助殿」と敬意を込めて呼ぶようになったと伝えられている。



