「ボロ商店街への融資は一切お断りします。昭和から何も変わっていない時代遅れです。全部畳みなさい。2億円、今すぐ返せないならこの通り全部差し押さえにしてもらいます」
テーブルを挟んで、本田浩司と霧谷ひなが向かい合っていた。十一月七日、金曜日、午後三時。神田銀座通り商店街組合の会議室。机の上に一枚の紙。融資打ち切り通知書だった。横に田村老人、福島夫婦、小林が並び、組合員たちが黙って見ていた。
「商店街組合への融資は本日をもって打ち切ります。二億円、六十日以内にご返済ください」
言い切った。スーツの袖を直した。どうせ何も言い返せない。そう思っていた。
田村老人が手を挙げた。
「ちょっと待ってください。うちは四十年のお付き合いで…」
「四十年前の話は関係ありません。数字の問題です」
田村老人は口を閉じた。福島さんの奥さんが袖を引いて老人を止めた。小林が「ひなさん」と小声で言った。ひなは書類に目を落としたまま動かなかった。数秒の沈黙。
「わかりました」
それだけだった。深く一礼した。本田は思ったより早く終わったと部下に耳打ちした。商店街を出る際、振り返って言った。
「昭和の商店街に未来はありません。早めに決断することです」
田村老人が俯いた。福島さんの奥さんが着物の袖で目を抑えた。小林が拳を握った。ひなはその背中を黙って見送った。
もう迷わない。
翌朝、午前九時三分。第一銀行本店、十九階、取締役室。岡田誠一郎、六十三歳。直通電話の番号が鳴った。ほとんど鳴らない番号だった。受話器を取った。
「岡田です」
「霧谷ひなと申します。祖父、岩尾の孫です」
岡田の手が止まった。
「霧谷岩尾さんのお孫さんですか?」
「昨日本田部長より融資打ち切りのご通知を受けました」
岡田は立ち上がった。
「つきましてはご相談がございます」
電話口で岡田の息が聞こえた。岡田は手で口を覆った。受話器を持つ手が震えていた。
同じ時刻、本田は調書で部下に言っていた。
「商店街の案件は法的手続きに移行する。午後から書類の準備を頼む」
ドアがノックされた。秘書が封筒を差し出した。
「本田部長、取締役室からお呼びです。今すぐ、と」
本田は眉を潜めた。今すぐ?なぜ呼ばれるのか、彼にはまだ分からなかった。
これは二十七歳の天ぷら屋が、父を失って五年間守り続けた商店街の物語だ。そして、知らなかったものが知るべきことを知る物語でもある。
時間は六ヶ月前に戻る。五月の第二週、東京、千代田区。第一銀行本店、営業推進部。本田が部下に言った。
「神田商店街の融資案件、俺が直接担当する」
「え、部長自らですか?」
「面白い案件だろ?営業のやり方を見せてやる」
部下の長田が引き継ぎ資料を差し出した。
「前任者からの引き継ぎ資料です。特筆事項も含めて」
「ああ、後で見る」
資料は机の引き出しに入れられた。読まれることはなかった。
本田浩司、四十八歳。慶應大学経済学部。入行二十四年で本店営業推進部長に昇進したエリートだった。本部から受けた指令は、不良融資の営業加速。要は使えない取引を切る、それだけだった。
五月の最終週、本田は初めて神田を訪れた。地下鉄を出ると、狭い路地に商店が続いていた。田村青果、福島豆腐、霧谷天ぷら。古い看板が並んでいた。天ぷら屋の前で着物姿の女性が頭を下げた。
「ようこそいらっしゃいました。霧谷と申します」
二十七歳。資料にはそう書いてあった。確かに若い。この子が財政計画を出してくる担当者か。奥に通された。古い座敷。扇風機が壁にかかっていた。
「霧谷さん、融資の現状についてお話があります」
「はい」
「本部から融資基準の見直しを求められています。改善計画書を六十日以内に提出していただけますか?」
「はい。商店街全体の状況もご説明できれば」
「数字で見せていただければ結構です」
ひなは黙って頷いた。本田は立ち上がった。帰り際、路地を歩きながら部下に言った。
「天ぷら屋、電子決済まだ導入してないんですか?」
「検討しております」
本田が出ていった。田村老人が路地から歩いてきた。
「嫌な雰囲気の人でしたね。ひなさん、大丈夫です」
「ちゃんと対応します」
田村老人はひなの顔をしばらく見た。「無理しないでください」とは言えなかった。
六月、ひなは改善計画書を提出した。長田が内容を確認した。
「かなり丁寧な資料です。商店街全体の数字まで出している」
本田は五分で目を通し、「不十分です」と付けた。七月、また不十分。八月、また不十分。九月も十月も、五回繰り返した。本田は毎月一度、視察と称して神田を訪れた。来るたびに一言、余計なことを言った。
「天ぷらや揚げ物は時代遅れですよ。健康志向の時代に」
「商店街の通行量、週末でもこの程度ですか?話になりません」
「組合員の平均年齢は何歳ですか?後継者はいるんですか?」
ひなは毎回静かに答えた。怒らなかった。論じなかった。
ある九月の日、本田が田村老人の店の前で言った。
「ここ、冷蔵設備が古すぎますよ。食品衛生法的にも問題でしょう」
「うちは問題ありません」
「問題があるかどうかは我々が判断します。数字を出してください」
田村老人が俯いた。ひなが割って入った。
「田村さんは長年のお客様です。丁寧にご対応いたします」
「霧谷さん、感情で話さないでください。あなたも当事者ですよ」
その言葉を聞いて、ひなの手が少し震えた。でも声は震えなかった。
別の日、本田は福島夫婦の豆腐屋の前に立った。
「こちら、店の前に商品を出しすぎじゃないですか。条例的に」
「昔からこうしてきましたが」
「昔からは関係ありません。今の基準の話をしています」
奥さんが「すぐ片付けます」と言い、震える手で頭を下げた。ひなが通りかかった。
「本田部長、ご意見は分かりますが、今すぐ対応いたします」
「霧谷さん、あなたが商店街全体を仕切る立場なんですか?」
「仕切るのではなく、ご一緒しているだけです」
本田は何も言わず背を向けて歩いていった。奥さんが「ひなさん」と小声で言った。ひなは首を横に振った。
「大丈夫です」
そう言いながら、手が冷たかった。
同じ日の帰り道、本田は部下に言った。
「来月、一斉に法的手続きの準備に入る。用意しておいてくれ」
長田は「はい」と言った。書類をファイルに閉じた。その夜、長田は一人で計画書を読み返した。
「なぜこれが不十分なんだ?」
答えは出なかった。でも何かが引っかかっていた。
霧谷ひな、二十七歳。五年前、父、霧谷浩が急逝した。享年四十八歳。その三ヶ月後に母が体調を崩して入院した。ひなは大学を卒業した直後から父と肩を並べて天ぷら屋で働いていた。「継ぐのはもう少し先でいい」と父は言っていた。「ひなはまだ若い。もう少し外を見てからでいい」と。父は突然亡くなった。二十二歳で一人で天ぷら屋を継いだ。五年間、一度も休まなかった。
「ここはお父さんが守った場所だから」
それだけがひなの理由だった。
大学を卒業した春、ひなは父と並んで天ぷらを揚げていた。ある昼下がり、常連の老夫婦が帰り際に言った。
「また来るよ。ここの天ぷらじゃないとね」
父は「ありがとうございます」と深く頭を下げた。見送った後、父は揚げ台の前で少し止まった。
「お父さん、どうかした?」
「三十年、来てくださってる方だから」
ひなはそういうものかと思った。帰り際、父が商店街の石畳に手を当てた。
「この石畳、六十年ものだ。ひな、この商店街はお前が思うより大きいものを背負っている」
「どういう意味?」
「いつか分かる。その時まで覚えておきなさい」
三ヶ月後、父は亡くなった。その時はまだ来ていなかった。
霧谷岩尾の話をしなければならない。五十年、東京神田生まれ、現在七十六歳。父が終戦直後に始めた天ぷら屋を二十代で引き継いだ。だが岩尾は天ぷら屋だけに収まらなかった。
「商売だけで生きていれば、商売しか残らない」
昭和三十年代から四十年代、高度経済成長期。神田の土地は必ず価値が上がると確信して買い進めた。親族に「天ぷら屋が土地を」と笑われた。岩尾は黙って見ていた。
「人は黙って見ておれ、数字は嘘をつかない」
その言葉通り、土地の価値は数十年で何十倍にもなった。バブルに一部を売却した。残した中に、神田の一千八百坪の土地があった。第一銀行本店が立っている、その土地だ。
一九七六年、当時の取締役が岩尾に頭を下げた。
「是非、本店の土地として貸していただけないか?」
岩尾は承諾した。ただし、条件を一つつけた。
「地代は市場の八掛けでいい。その代わり、この商店街が困った時、銀行は必ず支援すること」
五十年前の約束だった。
岡田誠一郎が神田支店長として着任したのは二十五年前。岩尾と向かい合い、支店長として約束の重さを理解した。
「霧谷家は当行の基盤そのものだ」
着任初日、岩尾が天ぷら屋の座敷に岡田を招いた。岡田は資料を読みながら一つ聞いた。
「なぜ本店の土地だけ占いのですか?」
岩尾は窓の外を見ながら、少し間を置いた。
「ここに商売の根っこがある。根っこを売れば木は死ぬ」
岡田は何も言えなかった。この人は利益だけで動いていない。そう悟った。帰り際、岡田は深く頭を下げた。
「必ず約束を守ります」
岩尾は「よろしく頼む」とだけ返した。その一言が二十五年後も生きていた。資料は特別顧客管理に閉じられ、本店に送られた。岡田が取締役になった後も、資料はそのまま残っていた。しかし本田には渡されていなかった。資料を手渡そうとした長田を、本田が断ったからだった。
「後で見る。今は時間の無駄だ」
岩尾がひなに資料を渡したのは、ひなが十八歳の秋だった。
「これはいざという時のためのものだ」
資料の最終ページに鉛筆で書かれた一行があった。岡田誠一郎という名前と十一桁の番号。
「お前が判断する時が来たら使え」
ひなは「はい」と言った。いざという時がいつ来るか、ずっと考えていた。まだその時ではないと思い続けてきた五年間だった。
十一月に入り、本田から連絡が来た。正式な面談の場を設けたいと指定してきた。
「来たか」
ひなは着物を着て組合の会議室に向かった。銀杏の葉が黄色く舞う、十一月七日の午後だった。
冒頭に戻る。「わかりました」の一言を残して、ひなは会議室を出た。田村老人と福島夫婦が廊下で待っていた。
「ひなさん、大丈夫か?」
「大丈夫です。田村さん、少し待っていてください」
ひなは一人で奥の小部屋に入った。窓の外、商店街のアーケードが見えた。父が毎朝掃いていた石畳が、午後の光を受けていた。
「時代遅れ」「全部畳みなさい」
約半年受け続けた言葉が頭に残っていた。田村さんも福島さんも、五年かけて守ってきた人たちだ。ひなは立ち上がり、着物の袖を整えた。資料を持ってきていた。最終ページを開いた。岡田誠一郎という名前と十一桁の番号。
「これはいざという時のためのものだ」
十八歳のひなに資料を渡した、あの日の祖父の声が蘇った。いざという時、まだじゃないか。自分でなんとかできる。五年間、そう思い続けた。でも今日はもう違った。一人じゃない。田村さんも福島さんも小林さんも、みんなのために動く時だ。
ひなは深呼吸をして小部屋を出た。
「少し外しますね」
廊下の田村老人が静かに頷いた。天ぷら屋に戻り、店の奥で電話をかけた。
「おじいちゃん、少し聞いて欲しいことがある」
岩尾は静かに聞いた。全部聞き終えた後、一言だけ言った。
「お前が決めたなら、俺は何も言わん」
それだけで十分だった。
翌朝八時五十五分、ひなは資料を手に電話の前に座っていた。岡田誠一郎という名前と十一桁の番号。今日がその時だ。九時ちょうど、深呼吸をして番号を押した。コール音が二回、受話器が取られた。
取締役室のシーンに戻る。岡田は受話器を保留にした。副取締役の村上を呼んだ。
「霧谷家から連絡が来た。霧谷岩尾さんの孫娘だ。昨日本田部長が融資打ち切りを通告した」
村上は書類を置いた。顔が変わった。
「本田部長は霧谷家の全座を確認したのですか?」
「していない。本店の土地の件も言及してきた。定期借地権の更新期限は今年十二月三十一日です」
「そうだ。もし更新されなければ、本店を移転する以外にありません」
二人は向かい合ったまま、しばらく黙っていた。神田で代替地を探せば、数年では足りない。岡田は受話器を取り戻し、ひなに言った。
「霧谷さん、少しだけお時間をいただけますか?必ず本日中にご連絡いたします」
「よろしくお願いします。対応次第で判断します」
岡田は受話器を置いた。村上に一言だけ言った。
「本田を今すぐ呼べ」
同じ時刻、本田の部長室。本田は封筒を受け取った。「今すぐ来てください」という一文。取締役が自分を呼ぶ。エレベーターで十九階へ。取締役室のドアを開けた。岡田と村上が待っていた。二人の顔を見た瞬間、何かが違うと感じた。
「座ってください」
本田は座った。
「神田商店街の件、昨日融資打ち切りを通知したそうですね」
「はい。融資審査上、継続は不可能との判断を」
「霧谷ひなさんの口座を確認しましたか?二億円の融資取引先です。収入から見て」
「ひなさんの口座だけではありません。家の全座を確認しましたか?」
「全座」という言葉に、本田は初めて引っかかりを感じた。
「特別顧客管理資料は前任から引き継ぎましたか?」
「資料?後で見ると言いましたが、確認が…」
村上はファイルを開き、本田の前に静かに置いた。
「霧谷岩尾様、預金残高、一千二十四億八千百三十万円」
本田の目が止まった。
「霧谷家は当行最大の個人預金主です。二十五年以上、お預かりしてきました」
本田は書類を見たまま動けなかった。
「それだけではありません」
岡田は別のファイルを本田の前に置いた。
「本店の所有地、千代田区神田の土地の所有者です。権利書に霧谷岩尾という名前がありました。本店の土地、定期借地権の更新期限は今年十二月三十一日です」
本田は椅子の上で固まった。一千二十四億の預金主に融資打ち切りを通告した。本店の地主に「差し押さえにしてもらいます」と言った。自分の言葉が頭の中で正確に再生された。
「ボロ商店街への融資は一切お断りします」「今すぐ返せないなら、この通り全部差し押さえに」
自分の声が、今になって初めてまともに聞こえた。
「本田さん、昨日、霧谷さんに何とおっしゃいましたか?」
「ボロ商店街への融資はお断りと、差し押さえにしてもらいますと」
岡田は目を閉じた。五十年前の約束が、今崩れかけていた。
「霧谷家は本日、当行への全額移管を申し出ています。一千二十四億の年間利子収益で換算すると…」
村上は言葉を止めた。言わなくても分かるから。本田は椅子の上で俯いたまま動かなかった。なぜ取締役室に呼ばれたのか、五分前まで分からなかった。案件のうまい処理を報告せよということかとさえ思っていた。その答えが今、目の前にある。一千二十四億という数字が、書類から離れなかった。
「本田さん、あなたは何を根拠に動きましたか?」
「本部からの指示で、不良融資の整理を」
「霧谷家の全座を確認せずに?」
「把握していませんでした。前任者の引き継ぎ資料も読んでいませんでした」
沈黙が続いた。岡田は立ち上がり、窓の外を見た。本店の窓から見える神田の町。その土地の地主が霧谷岩尾。
「事例を出します」
本田は顔を上げた。
「来週より、長野県飯田支店への移動です」
一瞬、何を言われたか分からなかった。
「飯田ですか?」
「辞令書は今日中に届けます」
本田は立ち上がった。足に力が入らなかった。エレベーターで廊下に出ると、部下の長田が書類を抱えていた。長田は本田の顔を見た。何も言わなかった。何も言えなかった。廊下を一人で歩いた。一千二十四億、本店の土地。数字が頭から離れなかった。自分が何をしたか、まだ処理できなかった。
本田が部屋を出た後、村上は言った。
「本部の川端を呼んでくれ」
川端也、経営企画本部長、五十二歳。本田に不良融資の整理を指令した人物だった。川端が取締役室に入ってきた。岡田が書類を開いた。
「霧谷家の全講座を確認せず、営業指令を下したのは本部ですね」
川端は口元を引き締めた。
「特別顧客管理資料は本部にも保管されていたはずです」
「確認できていませんでした。すみません」
「ではすみませんで済みません。支店への指令、管理責任を取ってもらいます」
三日後、川端の役職は経営企画本部長から参与へ。降格だった。問題は人事だけではなかった。本部の管理体制そのものが問われた。同日、人事部と法務統括が事実確認を開始した。指示系統、資料確認、保存の三点を洗い直した。規則に基づき、川端は管理監督責任で譴責処分。本田は移動に加え、人事評価を一年凍結とされた。ただし懲戒解雇には至らなかった。指摘漏れや改ざんは確認されなかったためだ。
岡田は支店に通達を出した。
「顧客資料の確認省力は今日で終わりです。数字だけでなく、契約背景も確認してください」
翌日の朝、岡田は一人でタクシーに乗った。行き先は神田銀座通り商店街。着物のひなが天ぷら屋の前で迎えた。
「霧谷さん、昨日は大変な思いをさせてしまいました」
岡田は深く、地面に手をつくように頭を下げた。土下座だった。
「どうぞ、お顔を上げてください」
商店街の人たちが遠巻きに見ていた。田村老人が「何事だ」と小声で言った。敷地は、本田が「時代遅れ」と言ったのと同じ場所だった。
「本田については、支店への移動の事例を出しました。引き継ぎが不十分だったことも、当行の管理責任です。深くお詫び申し上げます」
岡田は再び頭を下げた。ひなはしばらく岡田の頭頂部を見ていた。誰かに頭を下げられることに、まだ慣れていなかった。
「岡田さんは二十五年前、神田支店の支店長でしたね」
「はい。その時、岩尾さんに大変お世話になりました」
「祖父から聞いていました。岡田さんという方が、五十年前の約束をずっと守ってくださったと」
岡田は顔を上げた。目が赤くなっていた。
「岩尾さんは今もお元気ですか?」
「はい。七十六歳で、今も元気です」
岡田は少しほっとした顔をした。
「融資については、改めて継続のご提案をさせてください。田村さんや福島さんのご融資も含めて、できる限り」
「ありがとうございます」
ひなはお辞儀をした。でも、続けた。
「でも商店街は自分たちでやります。融資は現状のままで結構です。二億円は予定通り返済します」
岡田は目を細めた。
「岩尾さんに似ておられる」
「そうでしょうか」
「条件を出して、自分では使わない。そういう方でした」
ひなは小さく笑った。
岡田が商店街を出た後、ひなは一人で店の前に立った。石畳が朝日に照らされていた。「ボロ商店街」「時代遅れ」「差し押さえ」。言葉はまだ耳に残っていた。でも、それはもう力を持っていなかった。
「お父さん、聞いてた?あなたが守ったこの商店街を、また守れたよ」
石畳が静かに朝の光を受けていた。
岡田が帰った後、商店街の組合員たちが天ぷら屋に集まった。田村老人が「どういうことだ」と聞いた。
「融資は継続です。田村さんの分も、福島さんの分も」
「本当か?」
田村老人はしばらく何も言えなかった。ゆっくり立ち上がり、ひなの前に来て、その手を両手で包んだ。節くれだった手だった。四十年、野菜を売り続けてきた手だった。
「ひなさんも、喜んどられるよ、きっと」
ひなは泣かなかった。でも口が動かなかった。田村老人が「ありがとうな」とだけ言って、手を離した。福島さんの奥さんが泣き始めた。
「ありがとう。本当にありがとうございます、ひなさん」
「私じゃないです。祖父のおかげです」
でもみんなはひなを見ていた。
「ひなさん、本当にありがとう」
「みんなのためにやっただけです」
それだけ言った。それで十分だった。
その翌日、長田は一人で神田を訪ねた。スーツのまま石畳の路地を歩いた。天ぷら屋の前で、ひなが出迎えた。
「霧谷さん、突然すみません」
ひなは長田の顔を見た。本田の隣にいた行員だった。
「計画書、私も何度も読みました。ちゃんとした計画書でした。数字も考え方も。それなのに、一度も声を出せませんでした」
長田は頭を下げた。しばらく上げなかった。ひなはしばらく長田の頭頂部を見ていた。
「顔を上げてください」
「申し訳ありませんでした」
「気づいてくれたんですね。それだけで十分です」
長田は顔を上げた。目が赤くなっていた。路地を出た後、長田は振り返らずに坂を歩いた。
本田浩司は三日後、飯田へ向かった。特急列車の窓から中央アルプスの山々が流れていった。鞄の中に辞令書が入っていた。「飯田支店長代理」。文字を見るたびに、顔が熱くなった。着任初日、支店には五名の行員がいた。
「うちには大口取引先が少ないですよ。地元の農家さんや商店街の方々が主なお客様です」
「なるほど」
本田は言った。窓から飯田の街並みが見えた。古い商店街が続いていた。本店営業推進部長の名刺はもう使えない。「飯田支店長代理、本田浩司」。新しい名刺を受け取った。小さな文字、目立たない肩書き。
「引き継ぎ資料、読めばよかった」
誰かに言われたわけではない。ただそう思った。
ある日、飯田の商店街から融資相談に来た老夫婦がいた。八十年続く呉服屋だった。
「立て替えの資金がなかなか難しくて」
本田は書類を広げた。
「状況を教えてください」
三十分間、本田は老夫婦の話を聞き続けた。「時代遅れ」という言葉は一度も出さなかった。夫婦が帰り際に言った。
「話を聞いてもらえるとは思わなかった。ありがとう」
本田は頭を下げた。
「またいつでも来てください」
夕方、本田は一人で商店街を歩いた。古い看板が夕日に照らされていた。時代遅れではなかった。数字の向こうに人がいる。本田は足を止めた。呉服屋の暖簾をしばらく見ていた。
「昭和から何も変わっていない時代遅れです」
自分の声が蘇った。老夫婦が「八十年です」と言っていた。八十年、それは変わらなかったのではない。八十年、変えなかったのだと初めて思った。
「神田の天ぷら屋さんに謝っていない」
飯田での日々が三ヶ月を過ぎた。本田は今度こそ、着任初日から資料を全て読んでいた。前任者に電話して追加情報を聞いた。
「なぜ今更?」
「知らなかったでは通らないと学んだので」
電話を切った後、本田は資料を閉じた。「霧谷岩尾様、特別顧客」。という文字が頭に浮かんだ。引き継ぎ資料の一行目に書かれていた。あの資料に、本田は手帳に一行書いた。
「資料を読む。それだけでよかった」
春、飯田から神田に一通の封筒が届いた。差出人は「飯田支店長代理、本田浩司」とあった。開けると一枚の便箋だった。
「先日の融資相談では誠意ある対応ができたと思っています。神田でできなかったことを、ここで学んでいます。資料を読まなかったことを、今でも後悔しています」
封筒は岡田の秘書が預かり、岡田に手渡した。岡田はしばらく手紙を読んだ。
「変われる人間だったか」
それだけ言って、手紙を丁寧に折り畳んだ。
翌年、銀座通り商店街は変わり始めた。ひなが発案した商店街全体のリノベーション計画。資金は祖父の岩尾が出した。
「商店街を守る金はとっくに用意してある。ただ、お前が自分で動くのを待っておった」
石畳の修復、アーケードの補強、インバウンド向け案内板の設置。
「でも、古い雰囲気は残してください」
ひなは業者に言った。
「昭和の商店街の雰囲気を出すのは難しいですよ」
「お願いします。ここが変わっても、ここでなければ」
職人は頷いて、丁寧にやってくれた。完成の日、田村老人が新しい石畳を一歩一歩踏みしめた。
「ついに完成しましたね、ひなさん」
「はい。父が言っていたことを、ようやく実現できました」
「ひなさんもきっと喜ばれますね」
ひなは頷いた。目を細めた。入院中の母にも電話で伝えた。
「ひな、よく頑張ったね。お父さんもきっと喜んでいる」
「うん。あとはお母さんが元気になってくれれば」
「元気になる。必ず商店街に戻る」
その言葉が、ひなには何より嬉しかった。
完成した最初の週末、商店街に人が戻ってきた。田村青果に三年ぶりの顔が出た。田村老人が「お久しぶりです」と深く頭を下げた。
「ここが変わったって聞いてね」
常連客が言った。
「でもひなさんの天ぷら屋はそのままでしょ」
と、笑顔で続けた。
「ええ、そのままですよ。ただ石畳だけ新しくなりました」
天ぷら屋に予約が入った。ある老夫婦の名前があった。
「ひなさん、三浦様です。二十年以上通ってくださってる方です」
ひなは「そうか」と思った。父が毎回丁寧に見送っていた、あの老夫婦だ。当日、石畳の路地に二人が立っていた。
「綺麗になったね。でも、ここだな」
「変わったのに、ちゃんとここだわ。不思議ね」
ひなは深く頭を下げた。
「ようこそ、霧谷天ぷらへ。お待ちしておりました」
老夫婦が暖簾をくぐっていった。暖簾の内側で、妻が夫の袖をそっと引いた。
「あなた、ひなさんの味、ちゃんと残ってるね」
「ああ、油の香りまで、あの頃のままだ」
ひなは聞こえないふりをした。胸の奥が熱くなり、包丁を握る手が震えた。それでもひなは、父と同じ所作で一礼した。
「本日は来てくださって、ありがとうございます」
「こちらこそ。帰ってきた気がしたよ」
父がいたら何と言っただろう。きっと目を赤くしながら見送っていたと思う。
ある春の休日、ひなは祖父の家を訪ねた。縁側に二人で並んで庭を眺めた。岩尾は緑茶を一口飲んで、静かに言った。
「でかいことをしたな、ひな」
「でも、正直怖かった」
「そうか」
「おじいちゃんが最初から動いてくれればよかったのに、とも思った」
岩尾は茶碗を置いた。
「俺が動けば、俺の商店街になる。お前が動いたから、お前の商店街になった」
ひなはしばらく庭を見ていた。
「そういうことか」
岩尾は何も言わなかった。ただ緑茶をもう一口飲んだ。縁側に差し込む午後の日差しが暖かかった。
ある休日、ひなは祖父と二人で神田の墓地を訪ねた。霧谷浩の墓。父の名前が白い御影石に刻まれていた。ひなは線香を立て、白い菊を二本置いた。岩尾は隣で黙ってそれを見ていた。
「ひなも喜んでる」
ひなは手を合わせ、目を閉じた。父と並んで天ぷらを揚げていた、あの春が蘇る。
「この石畳、六十年ものだ」
という声が聞こえた気がした。
「お父さん、守ったよ。商店街」
声が出た。次の瞬間、目の奥が熱くなった。ひなは初めて父の前で泣いた。五年間、ずっと「泣いたら終わりだ」と思っていた。でも終わらなかったから、今ここに立てていた。岩尾は何も言わなかった。ただひなの隣に静かに立っていた。
「ひな、お前の娘が帰ってきたぞ」
小さな声だった。ひなには聞こえていた。墓前に置いた白い菊が、春の風に揺れた。
「この石畳、六十年ものだ」と父が言ったのは、五年前の春だった。商店街の石畳は今、新しくなった。でもその下に刻まれた六十年は、消えていない。春の空は高く、青かった。
知らないことは罪ではない。しかし、知ろうとしないことは罪だ。「時代遅れ」と言った男は、時代の味方を知らなかった。「畳みなさい」と言った場所を、六十年間、誰も畳まなかった。霧谷ひなは特別なことをしたわけではない。ただ、父が愛した場所を守りたかっただけだ。神田銀座通り商店街の物語は、まだ始まったばかりだった。



