三年後、十三歳になったお住は大広間の前に座り、二十六軒の米の数を一つも間違えずにそらんじることになる。だが、この時はまだ誰もそれを知らなかった。この物語はそこへ至るまでの三年と、その前にあった一人の男の死の物語である。
全ては一つの家の、一つの座から始まっている。
昔、東国のある藩に梨の木村という村があった。田は広く、川は緩やかに村を巡り、秋になると稲穂が一面に頭を垂れた。表向きはどこにでもある穏やかな農村であった。
村の真ん中に、河岸の大きな屋敷が一軒立っていた。その屋敷のあるじは相米という豪農で、村の年貢と貸付を取り仕切る王城であった。代官は数年ごとに江戸から交代で下ってくるが、王城は代々その土地に根を張る。土地の細かな事情も、家々の内情も、王城の方がよほど詳しく知っていた。
新しい代官が着任するたび、村の者たちはまず王城の顔色を伺った。代官の裁量よりも王城の一存の方が、日々の暮らしを左右することを誰もが知っていたからである。
東米は五十を数え、額が広く眉が太く、黙っていても威圧感が漂った。村の者は誰一人、その目をまともに見返せなかった。声はいつも低く柔らかかった。声を荒げたところを見た者は誰もいない。「そうしなさい」――その一言だけで、下の者の背に汗が滲んだ。
梨の木村では、田植えの時期が過ぎると誰もが空になりかけた米櫃を気にし始めた。春になると、陣屋から倉の米が貸し出された。冬を越して蔵が空になった家に米を貸し、秋に少しの利をつけて返させる仕組みである。元は民を救うために作られたものだった。
ところが、梨の木村では春に受け取る米はいつも少なく、秋に返す米はいつも多かった。なぜかと尋ねれば、神社の帳面にそう書いてあると言われた。帳面を見せてくれと頼めば、下々の見るものではないと言われた。文字を知る者が村にほとんどいなかったからである。何が書いてあるか分からぬのに、何を言い争えようか。村人たちはそれを笑って済ませた。笑わなければ腹が立ち、腹を立てれば恐ろしいことが起きたからである。
だが、その中でただ一人、決して笑わなかった男がいた。萬造と言った。年は三十七。村に住み、幼い頃から書物を手放さなかった。貧しい暮らしの中にあっても、その声には不思議な落ち着きがあった。村では所役と呼ばれ、神社から証文が来れば読んでやり、村から出す書き物があれば書いてやり、倉の米を配る時は立ち会って、どの家がいくら受け取ったかを書き留めた。それが萬造の仕事であった。
村の者は文字が読めぬ分、萬造の言葉をそのまま信じた。萬造もまた、その信頼を裏切らぬよう寸分違わず書きすことに己の誇りを置いていた。「私が誤れば村が誤る」――萬造は常々そう言っていた。
萬造には一人娘があった。直と言った。息子がなかったので、萬造は娘を膝に乗せて算盤を教えた。人が見れば下衆と笑った。「女の子に算盤教えて何になる? 随分変わり者よ」――萬造はそう言われても笑うだけであった。
「豆がここに十二。あそこに九つあったら、いくつだ?」
「二十一です」
「そのうち誰かが五つ持っていったと言えば?」
「十六です。けれど、四つしか持っていってないと言ったら?」
「それなら嘘です」
「そうだ。だが、世の中にはこの嘘を見抜けぬ者の方がずっと多い。数を数えられる者は少ないからだ」
「なぜですか?」
「算盤を知らぬからだ。だから、算盤を知る者が代わりに数えてやらねばならぬのだ」
「私がですか?」
「私が年を取ったら、お住が数えてくれ」
その時はまだ、それはただの親子の睦言だと思っていた。
お住が六つの年の秋、萬造は村を回り始めた。一軒ずついくら受け取ったかを尋ねて回った。夜も行き、雨の日も行き、覚えていない家には二度も三度も足を運んだ。こうして二十六軒全てを合わせると二十八俵であった。ところが、夜の帳面に貸し出したと記された米は六十二俵であった。三十四俵が消えていた。
萬造は算盤を三度引き直した。三度とも同じ答えが出た。夜が更け、障子の日が揺れた。妻のお分が顔を青くして尋ねた。
「何事ですか?」
「明日、王城様の元へ参る」
「行かないでください。何のことか分かりませんが」
「私が算盤を誤ったやもしれぬならば、帳を立てて正せば良いだけのことだ」
「あなたが算盤を誤る人ですが、十数えて十一と数える人ではないでしょう」
萬造は笑った。目は笑っていなかった。
翌朝、萬造は算盤を持って家を出た。お分が門の前まで見送った。
「夕方には戻る。必ず、必ず」
それが最後であった。その夜、萬造は帰らなかった。翌日の昼、東米の家の下男たちが単価に乗せて運んできた。顔は白く、唇は青く、息はなかった。医者は心の臓が止まったと言った。だが、病いはなかった。
「算盤は? うちの人が算盤を持って参りました。どこにございますか?」
お分が叫んだが、男たちは何も答えず、単価を下ろすとそのまま去った。
六つの直は庭に立ち、父が単価から下ろされるのを見た。母が座り込むのを見た。近所の者たちが集まっては「気の毒だ」と言いながら、誰一人王城の屋敷の名を出さずに去っていくのを見た。
その夜、母に訪ねた。
「父上、なぜ死んだのですか?」
「病になったのだよ」
「父上、病気ではありませんでした」
お分は娘を抱き、初めて声をあげて泣いた。お住は泣かなかった。母の背をさすりながら、ただ座っていた。
それから、萬造の死のことが村では囁かれたが、誰も表向きには言わなかった。噂は井戸端でひそひそとかわされ、王城の屋敷が見える場所ではふっと途切れた。
失われた算盤の代わりに、お住は父の残した書物を大事にしまった。母は畑仕事の合間に読み書きを教え続けた。貧しくとも二人で身を寄せ合う日々がしばらく続いた。
だが、その平穏は長くは保たれなかった。萬造が亡くなってから一年が経とうとしていた。その間、お分は女手一つで畑を耕し、薪を割り、どうにか娘と二人の暮らしを支えていた。だが、女が一人で支えられる暮らしには限りがあった。
そこへ、翌年の春、東米の家から人が来た。
「萬造殿には倉の借りが二十俵あるそうな」
「二十俵など、私どもは五俵しか受け取っておりません」
「帳面にそう書いてある」
帳面を見せてくれと頼んでも、「下々の見るものではない」と言われるだけであった。お分は膝をつき、額をつけた。
「うちの人が数えたものがございました。あの算盤さえあれば分かります」
「そのようなものはない」
使いの者はそう答え、それから一つ告げた。
「お分殿が屋敷へ入り働けば、借りをなかったことにしてやろう」
「私が奉公に出れば良いのですか?」
「娘まで連れて来いとは言われておらぬ」
お分は長いこと黙っていたが、やがて立ち上がった。
「参ります」
その声には、諦めではなく娘を守るための硬い決意があった。
桜の花はとうに散り、青葉の茂る頃であった。その年、お分は東米の屋敷へ入った。七つの直は隣家に預けられた。
朝、お分は娘を強く抱いた。
「お住、飯をよく食べ、具合が悪くなれば隣のおばさんに言いなさい。父上に教わったことと、残された書物を大事にするのだよ」
「母を探すな。どこにいようと探すな。約束せよ」
お住は首を振った。
「約束はいたしません」
その言葉にお分は驚いたように娘の顔を見た。だが、それ以上叱ることはしなかった。お分は娘を強く抱き、そのまま立ち上がって歩いていった。振り返らなかった。七つのお住は、その後ろ姿をじっと見送った。母の背中が村の角を曲がって見えなくなるまで、その場を動かなかった。
それから三年、お住は隣家の畑仕事を手伝いながら育った。母のことを思わぬ日は一日もなかった。
屋敷へ入ってからの日々、お分は声を立てず、目立たぬよう、ひたすら心を殺して働いた。それが娘をいつか取り戻すための唯一の道だと信じていたからである。
そして、十年になったお住は、東米の屋敷へ言いつけとして迎えられた。相手は東米の亡き兄の忘れ形見、十七の直次郎であった。縁談を結んだのは東米自身であった。隣家に人をやり、こう言わせたという。
「萬造の娘の縁談がまだ決まっておらぬそうな。うちにはちょうど相手がある」
「あちらの若旦那は障子と伺っておりますが、それに十歳ではあまりに幼うございます」
「幼くて何が悪い。大きくなりながら覚えれば良いことよ」
東米の一存に逆らえる者は村になかった。東米には東米なりの見込みがあった。十歳の幼子ならば、まだ物事の理も知らず、文字も算盤も知らず、父が何をしたかも知らぬはずだ。いずれよそで妙な噂を耳にするよりは、自分の目の届く場所に置いておくに越したことはない。そう考えたのである。
屋敷の奥には代々の位牌を祭る間があり、朝な夕なに線香の匂いが漂っていた。お住と直次郎の部屋は襖一つで隔てられ、隣合っていた。夜になると、その襖越しにお互いの息遣いが聞こえるほど静かな屋敷であった。
屋敷に来た初めの晩、お住は襖越しに声をかけた。
「私、お住と言います」
しばらく返事がなかった。
「直次郎だ」
ようやくそう返ってきた。直次郎は痩せた若者であった。色あせた着物を着て、滅多に口を開かなかった。東米はいつも「あの子」と呼び、名を口にすることはなかった。直次郎は東米の亡き兄の子でありながら、この家では影のように扱われていた。幼い頃に両親を失い、頼れるものもないまま、この屋敷の片隅で育った身の上であった。
屋敷は広く、廊下は幾重にも曲がり、蔵と大きい台所と奉公人部屋がそれぞれ離れて立っていた。お住は幾度か迷った末に、ようやくどこに何があるかを覚えた。
翌朝、お住は大広間の膳に着いた。白飯に焼き魚、煮物、漬け物が並んでいた。見たこともないほどの品数であった。お住は膳を見て目を丸くした。
「これ、全部食べていいのですか?」
隣に座った奥方のお菊が笑みを潜めた。東米の正室で、年は三十四。この屋敷の奥向きは全てお菊の手のうちにあった。東米はそれを黙って許していた。
東米の息子の金太郎が向かいで鼻を鳴らした。二十歳、体付きがたくましく、常に父の顔色を伺いながらも、弱いものには威高であった。
その時、お住が飯を食べる手を止め、戸口の方へ顔を向けた。座敷の戸は開いており、式を下りた土間の隅に誰かが座っていた。女であった。もめんの着物を着て、髪は木の杭で束ね、膝に飯櫃を一つ乗せ、一枚の漬け物だけを食べていた。
お住の箸が膳の上に落ちた。心の臓が早鐘のように打った。目に映るその後ろ姿を、何度も何度も確かめた。
「お母様」
誰もその声に気づかなかった。
「お母様」
二度目は大きかった。座敷の者たちが一斉に顔を上げた。膳の上のものなど、目に入らなかった。お住は土間へ駆けより、女の腕を掴んだ。
「私です。お住です」
一瞬の静けさが満ちた中、女はゆっくりと顔を上げ、ほんの一瞬お住を見た。その目の奥に確かな光が揺れた。それから、伏せた。
「人違いでございます。私はこの屋敷の下女にございます」
お住の手が離れた。東米が奥から静かに声をかけた。
「新入りを驚かせたか。世の中には似た顔の者が多い。それに幼くして母と離れれば、恋しさに幻を見ることもあろう」
「幻ではありません」
「ならば、あの者にもう一度尋ねてみるが良い。違うと申したではないか」
金太郎が横で小さく笑った。その笑いの意味を、お住はまだ知らなかった。
お住は口をつぐんだ。東米の言い分は、なるほど正しかった。私の目で見て、私の耳で聞きました。母が違うと言いました。
その夜、お住は台所へ行った。年取った下女が火の前に座っていた。お末と言った。年は六十一。左目が濁っていた。この屋敷に来てから四十年、火の前に座り続けてきた人であった。誰よりも多くを見てきたはずなのに、誰よりも多くを飲み込んできた人でもあった。
「あの人の名は」
お末の手が止まった。
「お分と申します」
「うちの母の名もお分です」
お末は何も答えず、両手で顔を覆った。肩が細かく震えていた。
「おばあさん、なぜお泣きになるのですか?」
「煙がしみるのでございます」
お住が火を見た。煙は煙出しへまっすぐ抜けていた。
「煙、しみませんよ」
お末は袖で目を拭った。
「お嬢様、こ宵いお尋ねになったことは、よそでは二度とお尋ねになりませぬよう」
「なぜですか?」
「尋ねたものが傷つく家だからでございます」
お住はその意味をまだ知らなかった。ただ、お末の顔を見て、それ以上は問わなかった。台所を出る時、背後から声がかかった。
「お嬢様、一つだけ覚えておいてくださいませ。座というものは、座ったものが決めるのではございません。座らせたものが決めるのでございます」
その夜遅く、お住は奉公人部屋の戸を叩いた。中から何の音もしなかった。
「お母様、私です」
なおも沈黙であった。
「お母様の左手の指にほくろが三つございましょう。さっき茶碗を持たれた時、数えました」
戸の向こうで、息をのむ小さな音がした。
「私がお済みだとは分かっていて、なぜ違うとおっしゃったのですか? 私が何か悪いことをいたしましたか?」
戸は開かなかった。お住はその前にしばらく座っていた。やがて立ち上がり、二歩ほど歩いた時、背後で戸の開く音がした。振り返ると、戸が一寸ほど開き、女の顔が覗いていた。
「お嬢様、お戻りください。夜風は冷えます」
「なぜ違うとおっしゃったのか、それだけ教えてください」
「知らぬから知らぬと申したのです」
「嘘です。お母様、嘘をついていらっしゃいます。私には分かります」
女の手が戸から滑りかけた。震えていた。
「お嬢様、この屋敷では何も尋ねられませぬよ」
「なぜですか? なぜ何も尋ねてはいけないのですか?」
「お嬢様が私を母と呼べば、お嬢様も同じ座に落とされます。だからお呼びくださいますな」
「母のそばに座るのが、なぜ悪いのですか? 私は土間で食べても構いません。母と一緒に食べれば良いだけです」
その隙間から見える女の顔が歪んだ。そして、戸は静かに、しかし固く閉じられた。中からはもう何の音もしなかった。
お住はその前に座り込んだ。涙は出ず、代わりに何か硬いものが胸に残った。何に対する怒りかも分からぬまま、ただ怒りだけがあった。
翌朝、お住は変わらず大広間の膳に着いた。だが、今日は飯を三口食べただけで、茶碗を持って立ち上がった。
「どこへ行く?」お菊が尋ねた。
「あちらで食べます」
お住はすでに土間を超えていた。土間の隅、母の隣に座り、漬け物に手を伸ばした。
「私も少しいただきます」
「お嬢様、お戻りください」
「嫌です。お母様がここで食べるなら、私もここで食べます」
東米がそれを見ていた。箸を持ったまま、何の表情も見せなかった。金太郎が声を上げて笑った。
「父上、あれをご覧ください。嫁が土間で飯を食うと知れば、世間は何と申しましょう」
東米は箸を置き、ゆっくり立ち上がり、土間の方へ歩いた。
「新入りを土間にやったか。気に入りました。ならば、明日からそこで食べるが良い」
母が声を上げかけた。東米は取り合わなかった。
それから毎朝、お住の膳は土間に出された。飯一杯、汁一杯、漬け物少々。大広間の膳とは比べ物にならなかったが、お住は不平一つこぼさなかった。むしろ、母のそばにいられることの方が、どんな膳にも勝さると思っていた。
母は初めの数日、お住を避けた。台所へ逃げればおい、井戸端へ逃げればおった。五日目、母が降参したように訪ねた。
「私がどこへ行けば、追ってこられませぬか」
「追わないところはありません」
二人は土間に並んで飯を食べた。言葉はなかったが、その日以来、母は避けなくなった。土間には隙間風が吹き込み、冬はことのほか冷えた。それでも、それから毎朝二人は土間で肩を並べて飯を食べるのが習いとなった。
母は多くを語らなかったが、時折、亡き夫の話をぽつりぽつりとするようになった。
「あの人は、いつも人の話をよく聞く人だった」
お住はそれを聞き、父の顔を思い出そうとした。次第に輪郭がぼやけた記憶の中に、確かな温もりだけが残った。
屋敷に来て二月ほど経った頃であった。その夜も眠れず台所へ降りると、お末が一人座っていた。
「おばあさん、父の算盤はこの屋敷にあるのですか?」
お末の手が止まった。
「四年前のことでございます。旦那様が燃やせとおっしゃったものの中に、あの算盤がございました。半ば焼けたところで、私がこっそり火から引き出し、裏の土に埋めましてございます」
お末は立ち上がり、土間の隅の土を手で叩いた。
「お嬢様はこれを知れば、二度と後戻りはできません。まだ十歳でいらっしゃいます」
「私は後戻りいたしません」
二人は土を掘った。一尺ほど掘ると、油紙に包まれたものが出てきた。木の枠は焼け焦げていたが、玉はいくつか残っていた。かつて父の指がそこを滑らせていた感触を、お住は思い出そうとした。だが、思い出せるのはただ温かかったということだけであった。
もう一つの束もあった。父の字で、家の名と数が記されていた。合計二十八俵。その下に、六十二俵とも記されていた。
お住の目から涙がこぼれた。
「父上、これがどういう意味かお分かりですか?」
「私には存じません」
「三十四俵が消えているという意味です」
その数の重さに、お末が息を飲んだ。
「お嬢様、この話は決してよそにしてはなりません。萬造様もこれゆえに命を落とされたのでございます」
お住は頷いた。それでも、私は知らぬふりをいたしません。
算盤は油紙に包み、直次郎の部屋の床板の下に隠した。父の書きつけだけは、お住が自分の部屋へ持ち帰り、襖の下にしまった。
お住はそれから毎晩考えた。父が命をかけて数えたものを、このまま土の下に眠らせておいて良いものか。答えは決まっていた。だが、十歳の子供が一人で何をなし得るか、見当もつかなかった。まずは、父がしたことをもう一度、最初から始めるほかなかった。誰にも気づかれぬよう、少しずつ、一歩ずつ。それだけがお住に残された道であった。
その年の夏から、お住は村を回り始めた。寺入り、実家、遊びと、口実は様々であった。東米は眉を潜めた。
「嫁がどこをうろついておるのだ」
「十歳が家にばかりいると、退屈で病になります」
最初に訪ねたのは村外れの桶屋であった。目が悪く文字も知らぬ老人であったが、腕は確かで、来る客に桶を分けていた。孫を早くになくし、以来一人で暮らしていると聞いていた。
お住が尋ねると、老人は初め怪しむ顔をしたが、すぐに座を進めた。庭先で桶を編みながら言った。
「わしの帳面はこれでございます」
差し出したのは桶で、結び目が二つ。その脇に小さな結びが五つあった。
「これで、三月八日に受け取った印にございます」
「どうしてそんなに細かく分かるのですか?」
「文字は知らずとも、勘定はできます」
お住はそれを算盤に移した。
「これをお借りしても?」
老人は驚いた。
「寝ちのないものでございますが、世で一番寝ちのあるものです」
お住はその年の秋、もう一度桶屋を尋ねて確かめ、翌年の春にも訪ねて数を確かめ直した。三度目に訪ねた時、老人はもう驚かなかった。
「またでございますか?」
「間違えたくないのです」
老人は笑った。
「萬造の所役様も、そういう几帳面なお方でございました」
老人はそれからというもの、お住が尋ねてくるたび縁側に座らせ、茶の代わりに団子を出してくれるようになった。何を話すでもなく、ただ並んで座っている時間が、お住にとっては貴重なものであった。
居酒屋の女将、寺子屋の師匠の源右衛門。その他の家にもお住は同じように通った。それぞれの家にそれぞれの暮らしと苦労があった。お住はその一件一件に耳を傾け、一つの数字の裏にある一つの暮らしを覚えていった。
棒で記した居酒屋の勘定、柱に刻んだ傷、亀に入れた豆。数え方は違ったが、そのどれもがその家なりの精一杯の知恵の結晶であった。文字を持たぬ者たちが、それぞれの工夫で数を守ってきたのだと、お住は知った。それは父が生前によく口にしていた言葉と、どこか重なるものであった。
夜が更けるたび、行灯の油が尽きかけるまで、二人は算盤を引き続けた。直次郎が灯りを近づけて手伝った。手は震えていたが、目は真剣であった。
「なぜ何度も同じ家へ行く?」
「一度切りでは間違いに気づけません。二度三度と確かめてこそ、証になります」
二年目、三年目と季節が巡る。お住は同じ家を何度も何度も尋ね直した。源右衛門はこう言った。
「お嬢様が二度三度と足を運ばれるので、村の者もこれは冗談ではないと知りました」
季節は幾度も巡った。春には山桜が燃え、夏に日照りが続き、秋に稲が実り、冬に雪が降るたび、お住は少しずつ背が伸び、言葉遣いも丁寧になっていった。だが、村を歩く足取りだけは変わらなかった。
村の暮らしは相変わらず貧しかった。だが、お住が尋ねるようになってから、村人たちの間に小さな変化が生まれていた。誰かが困っていれば互いに助け合う。そんな当たり前のことが、少しずつ戻りつつあった。
直次郎もまた変わっていった。初めは灯りを近づけるだけであった手が、いつしか算盤の玉を引く手伝いをするようになり、村の名をそらんじるまでになっていた。
「なぜそこまでする?」お住が問うと、直次郎はしばらく黙り、やがて答えた。
「十三の年に聞こえた声を、忘れられぬからだ」
その声には、長年心を殺してきた悔いが滲んでいた。
お住はそれ以上何も聞かなかった。ただ、隣に座る直次郎の存在が、いつしか大きな支えになっていることに気づいていた。
十二の年の冬、小晦日の夜であった。雪道の下駄を踏みながら、お住は陣屋への道を急いだ。案内した手代は、かつて萬造と共に村を回ったことのある男であった。年は四十ほど。お住の顔を一目見るなり、何か思い当たる様子であった。
「あなたは、萬造様の娘御でございますか?」
「はい」
手代は辺りを見回し、声を落とした。
「あの方にはよくしていただきました。文字も算盤の元も、あの方に教わったようなものでございます」
手代は幼い頃、寺にも通えなかった。それを見かねた萬造が、糸間を見つけては手ほどきをしてくれたのだという。その恩を、手代はずっと胸に留めていた。
辺りに人影のないのを確かめると、手代は震える手で蔵の奥から倉の文の控えをそっと持ち出し、お住の前に広げた。
「これは他言無用でございます。書き移すだけになさいますよ」
お住はその場で震える手で一つずつ書き移した。二十六軒の名と数。合計二十八俵。
帰り道、懐に入れた紙の重みが、いつもより確かに感じられた。
三年という歳月をかけて、ようやくその日が来た。十三の春、お住は最後の一軒を数え終えた。直次郎が見守る中、算盤を三度引いた。三度とも同じ答えが出た。
「二十八俵です」
父が七年前に数えた時も、二十八俵であった。数字は違えど、そこに込められた無念は同じであった。
お住はしばらくの間、算盤の上に手を置いたまま動かなかった。三年という月日の重みが、その一瞬に凝縮されているようであった。
「毎年これほどの差があったとすれば、村の何十もの家が、幾度も冬を越せるほどの米が消えていることになります」
直次郎が両手で顔を覆った。長年疑いながらも口にできなかった思いが、ようやく形になった瞬間であった。
その年の夏、東米が王城となって二十年になる祝いがあった。空は青く晴れ渡り、祝いにはまたとない日和であった。近村の豪農や名主が集まり、屋敷は朝から賑わった。陣屋からも人が来た。お住は一日、雑用に走り回った。
日が暮れる頃、お住は東米の前に出た。
「王城様、陣屋へ祝いの品をお届けしましょうか?」
「祝いの品とな。今日は陣屋から大儀ら下ではありませんか?」
「お礼の品をお送りするのが礼儀ではございませんか?」
お菊が目を見開いた。
「この子が今日はどうしたことか」
東米は少し考え、頷いた。
「私が参りましょう」
翌朝、お住は金太郎と共に陣屋へ行った。金太郎が小姓と遊んでいる間、お住は廊下の近くであの手代を見つけ、深く頭を下げて礼を言った。手代は目を伏せたまま、小さく頷き返した。
何事もなく過ぎていく日々に、お住は少しずつ気を緩めていたのかもしれない。
だが、秋の初め、村から戻ると部屋が荒らされ、父の字で記された紙の束も、陣屋で書き移した控えも、両方とも消えていた。長持の中も下も、全て引っかき回されていた。
胸の中で、何かが崩れていくような音がした。お住は駆け出した。直次郎が庭に立っていた。顔色が悪かった。
「持って行かれた。誰にですか?」
「おじ上に」
お住が奥座敷の方へ駆けた。息が上がっていた。東米が火鉢の前に座り、その二つの紙の束を手にしていた。火に照らされたその横顔は、いつもと変わらず穏やかであった。
「王城様」
東米が顔を上げた。
「来たか」
その声に、いつもの落ち着きがあった。
「それは私のものです」
「これは萬造の書いたものと、陣屋の控えを移したものだ。盗んだと知れば、私が咎めを受ける。だから始末してやるのだ」
二つとも火にくべられた。黒い塊となり、灰となって崩れていった。三年の月日、幾度も歩いた道、幾度も確かめた数が、人握りの灰となって崩れていった。
お住は膝から崩れそうになるのを、じっとこらえた。だが、諦めるという考えは、なぜか一度も頭をよぎらなかった。
「なりません」
お住が駆け寄ったが、金太郎に腕を掴まれた。振りほどこうとしたが、力の差はどうにもならなかった。
「それは私の父が命がけで数えたものです」
お住は叫んだ。東米の顔から、あの柔らかさが消えた。
「誰がそのようなことを申した?」
「私が数えました。父が数えかけたことを引き継ぎました」
東米はしばらく黙り、それから静かに言った。
「縁の届けを取り下げ、奉公人として届け直す。金太郎、この者を今日から土間に置け」
その声には怒りも高ぶりもなかった。ただ、決められたことを告げるだけの平板な響きがあった。それが却ってお住の胸を凍らせた。この人は人を裂くことを、まるで飯を食うほどのことと思っていない。そう、お住は悟った。恐ろしいのは怒鳴り声ではなく、この静けさのものであった。
「おじ上、この人は私の言いつけでございます」
直次郎が言いかけたが、東米は取り合わなかった。
「人とも土間に出しておけ」
季節は秋の初めであった。その日から、お住は土間の隅で眠るようになった。母の隣であった。冷え込む夜には、互いの体温だけが頼りであった。
夜、母がお住に語った。
「お住、母は六年、お前の名を呼べなかった。お前が言いつけとして屋敷へ迎えられた晩、旦那様が私を呼び、こうおっしゃった。『あの子がお前を母と呼ぶ日には、あの子も奉公人に乗せてやろう』と。それで、知らぬと申したのだ。私が母と名乗らなければ、お前は言いつけとして部屋で飯を食べられようと思ったのだ」
お住は母を抱きしめた。
「お母様、すまないなどとおっしゃらないでください。お母様は私を守ってくださったのです」
その夜遅く、土間の隅に座っていると、お末が火鉢の火を持ってやってきた。お末は火を差し出しながら、静かに問うた。
「お住様、お忘れではございますな。座は座ったものが決めるのではなく、座らせたものが決めるという言葉を」
「忘れておりません。今、分かりました」
「三年間、村をご覧になった数、覚えておいでですか?」
お住は目を閉じ、記憶の糸をたどるように一つ一つそらんじ始めた。桶屋は二、源右衛門は五、他平は一斗、居酒屋の店には三。声が次第に落ち着いていった。
お末が両手で口を覆った。
「髪は燃えましたが、ここは燃えませんでした」
お住は自分の額を指した。
「私も一つだけ隠しておいたものがございます」
お末は懐から古びた紙切れを取り出した。
「旦那様が手代に渡されたものにございます。数を書き換えよとの走り書きで、旦那様の指跡がございます。灰を片付ける折に、拾いましてございます」
「なぜ今まで黙っておられたのですか?」
「時が来るまで閉まっておくのも、役目のうちでございます」
その秋、新しい代官が着任した。江戸から来た三十過ぎの若い役人で、着任して間もなく蔵を開けさせ、帳面を洗い直すと言い出した。東米が慌てると、代官はこう言った。
「二十年見てこられたなら、よくご存知でございましょう。ならば、お伺いすることがございましたら、お尋ねいたしましょう」
夜に紛れて、代官の手の者が一軒一軒を尋ね、二十六軒それぞれから話を聞き取って回った。東米の耳に入らぬよう、ことは静かに進められた。一ヶ月、誰もそれに気づかなかった。その後、寺子屋の源右衛門が代表して目安を差し出した。
それから間もなくのことであった。冷たい朝霧が村を包んでいた。東米は陣屋に呼び出された。
「そなたの家の者にも、聞きたいことがある」
まず、お住が呼ばれた。十三であった。
「私が数えました」
東米が横から静かに言った。
「幼子の戯言にございます」
その口調は、あくまで穏やかであった。
「証はあるか」
お住は一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに顔を上げた。
「燃やされました。王城屋様が焼かれました」
代官はしばらくお住を見つめ、その眼差しの奥に何かを押し量るような色を浮かべた。それから、控えていた手代に合図した。あらかじめ聞き取っておいた控えと、お住の言葉とを読み合わせるためである。
部屋の隅には筆と紙を構えた手代が控え、障子の光がお住の小さな影を畳の上に落としていた。東米は脇に座り、表情を変えずにこれを見ていた。
「桶屋、二斗」
お住が言うと、手代が控えを読んだ。
「桶の結び目と符合いたします」
代官が帳面を改めさせた。
「一斗と記してある。二との差は一斗であった」
一件の、たった一度の受け取りだけでも、これほどの開きがあった。
「源右衛門、五斗」
「居酒屋の帳面と符合いたします」
「帳面には一斗」
「他平、一斗」
「控えと符合いたします。帳面には二俵」
残る二十三軒についても、お住は一つずつそらんじ、手代がその都度控えと帳面を読み合わせた。声を上げる者はなかったが、皆が固唾を飲んでその読み合わせを見守っていた。正、神部、予作、吉郎、民事。村の住々の名が次々と読み上げられていった。一つ一つの名の後ろに、一つ一つの暮らしがあった。
全て数が違っていた。合わせて配られた分は二十八俵。帳面に記されていたのは六十二俵。差は三十四俵であった。
座敷の中に、しばしの沈黙が流れた。誰もが次の言葉を待っていた。障子の風の音だけが響いていた。
東米が言った。
「手代の印にございましょう。手代が怠けて数字を映し違えたのでございましょう」
東米はここでも声を荒げなかった。あくまで静かに、筋の通った言い分を通そうとした。それが二十年の間、村を支配し続けてきた東米のやり方であった。声を荒げずとも従わせる術を、東米は誰よりも心得ていた。
だが、代官が帳面を書いた手代を見て問うと、その平静さに初めてひびが見えた。
「私が致しましたか?」
手代は膝をつき、体を伏せた。声は枯れ、体は小さく震えていた。
「私は配られた通りに印す時、王城様が別の紙を渡されました。その通りに移しただけでございます」
部屋の空気は、もはや張り詰めるを通り越し、切り裂くほどであった。誰もが次に何が明かされるのかを、息を詰めて待っていた。
そこへ、お末が呼ばれた。腰を折り曲げながらも、足取りはしっかりしていた。懐から紙切れを取り出した。
「旦那様の指跡にございます。数を書き換えよとの走り書きにございます」
代官がそれを改め、東米の顔を見た。
「これは、そなたの筆であるか?」
東米は答えなかった。ただ、口元がわずかに震えただけであった。長年、村の誰も見たことのない表情であった。
お住はその横顔をじっと見つめた。かつて自分を怯えさせたあの静かな声が、今はもう何の力も持たぬように思えた。
お住が続けた。
「七年前、私の父がこの勘定を先に数えました。算盤を持って王城様の元へ参り、翌朝、棺に乗せられて運び出されました」
陣屋の外で控えていた直次郎が呼ばれた。ここまで長い道のりであった。声はまだ固かったが、目はもう逸れなかった。
「あの夜、声を聞きました。二十八俵なのに六十二俵とは、これはどういう勘定だと。私は十三でございました。十三で言えなかったことを、今申し上げます」
その一言を口にするまでに、七年もの月がかかった。だが、その七年は決して無駄ではなかった。小さな同志を得て、ようやく声を上げる勇気を持てたのだから。
しばらくの間、誰も口を聞かなかった。やがて、代官が取手に命じた。
「王城を差し控えさせよう。この件、私の一存では裁けぬ。上伺いを立てる」
その場にいた誰もが、長年の重しが取れたような思いであった。
東米は静かに立ち上がった。手に両脇を固められながらも、その足取りは乱れなかった。連れて行かれながら、一度だけ振り返り、お住を見た。何か言おうとしたが、結局何も言わなかった。
その後、さらにあの夜、萬造に酒を勧めた奉公人が呼び出され、震える声で「王城の命により薬を混ぜた」と自ら白状した。長らく胸に抱えてきた重荷を、ようやく下ろしたような声であったという。
この知らせは、またたく間に村中に広まった。誰もが、長年抱いていた違和感の正体を、ようやく言葉にすることができた。
冬、上からの裁きが下った。東米は倉の米を横領した罪と、人を死に至らしめた罪により、死罪となった。金太郎もまた、横領した米を運び出し、川向こうで密かに売りさばいていたことが明らかとなり、遠島を申し渡された。お菊は屋敷を追われた。
奪われた米のうち、残っていた分は村人に返還され、田を取られていた家は、その田を取り戻した。また、直次郎の母の人別帳の記載が十四年前に書き換えられていたことも明らかになった。直次郎の母の人別帳には、正しくは「実子」と記されていたのである。長年、庶子として扱われてきたが、ようやく覆された瞬間であった。家は直次郎の元に戻った。
村人たちは、それまで口にできなかった萬造の名を、ようやく大声で語れるようになった。
長い冬が開け、雪の下から新しい草が顔を出す頃には、村の空気も少しずつ変わっていった。
春であった。裏山の桜が誇り始めていた。屋敷の広間には、膳が整えられた。白飯と焼き魚と漬け物が並んだ。お住が庭に向かって呼びかけた。
「お母様」
土間に、女が立っていた。もう奉公人ではなかったが、それでも式の前で足を止めた。
「おすみ」
「あの座は、お母様が座りたくて座ったのではございません。座らせた者は、もういません」
お住が土間に降り、母の手を取った。朝の光が土間まで差し込んでいた。かつてこの同じ場所で、母は一人、膝を抱えて座っていた。あの日から数えて、いくつの季節が巡ったことか。冬の寒さも夏の暑さも、幾度となくこの土間で耐えしのんできた母であった。
「どうぞ、お入りください」
母の手が震えた。
「怖い」
「何がでございますか?」
「あの座に座って良いものか、分からぬ」
「私がお座らせいたします」
母は娘を見て、しばらくその場に立ち尽くした。六年という歳月が、その顔にも刻まれていた。頬はこけ、髪にも白いものが混じっていたが、その目だけは昔と変わらぬ優しさをたたえていた。
それから、ようやく足を踏み出し、式をまたいだ。土間から広間へ。たった一段の高さであったが、母にとっては六年分の重さがあった。膳の前に座り、飯櫃を手に取り、一口食べた。それから箸を置き、両手で顔を覆った。
「泣いてはならぬ」
「お泣きでございましょう」
「泣いてはならぬ」
二人は顔を見合わせて笑った。お末と直次郎がそれを見ていた。
「おばあ様、お入りください。おばあ様があの紙切れを隠しておいてくださらなければ、今日はございませんでした」
お末も式をまたいだ。外では鳥が鳴き、遠く畑の方から鍬を打つ音が聞こえていた。四人が向かい合って飯を食べた。膳には漬け物が一皿添えられていた。母がそれを見て尋ねた。
「これは、なぜお好きでございましょう」
母は微笑んだ。窓の外では、桜のつぼみが膨らみかけていた。三年、土間の隅で膝を抱えていた頃には、思いもよらなかった光景であった。
月日は流れた。お住は成長し、この屋敷の女主人となった。かつて土間に座らされていた子が、今では広間の上座に座っている。村人たちは、この屋敷を「勘定のできる家」と呼んだ。春になり倉の米が出る時には、人々がこの屋敷を訪ねた。誰もが安心して数を確かめられる、そんな場所になっていた。
そして、いつしか村人たちも算盤を学び始めた。
「私のようなものが、算盤など学べましょうか」
「桶で数えられたではありませぬか? それが算盤です。算盤は、学んだ者だけがするものではありません」
お住はそう言って、縄や柱の傷を持ってきた者たちに、一つ一つ算盤の引き方を教えた。かつて自分がそうしてもらったように、根気よく何度も同じことを繰り返し伝えた。
かつて文字を持たなかった村が、少しずつ己の手で数を確かめる術を身につけていった。お末は年を取ってなお台所に立ち続け、母のお分は屋敷の奥で穏やかな日々を送った。直次郎はこの家の主として村と神社の間に立ち、以前のような暗い沈黙は消えた。かつて名すら呼ばれなかった若者が、今では村人たちから「若旦那様」と親しく呼ばれるようになっていた。
屋敷の門をくぐる時、もう誰も足を緩めなかった。門は同じ高さのままであったが、そこに漂う気配はすっかり変わっていたからである。かつて誰もが目を伏せて通り過ぎたその門を、今では笑いながらくぐる。
月日はさらに流れ、村の子らはお住を「勘定のおば様」と呼ぶようになった。夏の夕暮れ、縁側で孫たちに囲まれながら、お住はよくあの土間の話をした。
「座というものは、座ったものが決めるのではない。座らせたものが決めるものだ。低い座に座るものを見たら、その者を責めるのではなく、誰が座らせたのかを問いなさい。問う者が一人でもいれば、世は動くのだよ」



