家に帰ると、リビングから夫の声が聞こえてきた。薬剤師として35年、朝6時から夜9時まで働き続けた疲れ切った体を引きずって帰ってきたその足が、玄関で止まった。
「この家は学ぶ夫婦に譲る。もう決定事項だ」
恐る恐るドアを開けると、夫のより、息子の学ぶ、嫁のゆ江がテーブルを囲んでいた。ゆ江の目は冷たく、まるで招かれざる客を見るようだった。
「みさ子、ちょうどいい。座れ」
「でもローンはまだお前の名義だぞ。そもそもお前みたいな貧乏人は、施設にでも入ればいい」
私は息を飲んだ。毎月18万円のローンを、一度も遅れることなく払い続けてきた私が、貧乏人。その瞬間、私の中で何かが静かに変わっていった。
35年間の記憶が走馬灯のように蘇る。毎朝5時に起きて家族の朝食と弁当を作り、夜遅くまで働き、ボーナスは全てローン返済に充て、自分の服も買わず、美容院にも行かず、全てを家族のために捧げてきた日々。息子の大学進学のための高額な費用を捻出するため、夜勤のアルバイトまでした。結婚式の費用も新居の頭金も、全て私の貯金から出した。
「この家のローンを払い続けているのは誰だと思っているのですか?」
「それがどうした? お前の義務だろう」
「時代は変わったんです。もうお母さんの出番はありません」
私は立ち上がろうとしたが、夫に押し戻された。彼は裁判官のような口調で言った。
「お前ももう62歳だ。いつまでも現役で働けるわけじゃない。退職金だってあるはずだ。お前はもうこの家には必要ない。用済みなんだよ」
「父さんの言う通りです。母さんは十分働いた。これからは僕たち若い世代がこの家を守っていく番です。正直、母さんがいるとゆり絵も気を使うんです」
「私たちには子供もいるんです。教育費もかかりますし、正直お母さんの面倒まで見る余裕はありません。それに、お母さんは薬剤師と言っても所詮は雇われでしょう。私の実家は代々続く会社経営者です。格が違うんです」
格が違う。私は心の中で苦笑した。その格の高い実家は、結婚式の費用を一円も出さなかった。
「この家は俺と息子の名義になっている。お前の名前はどこにもない」
「でもローンは私が払ってきた」
「それは関係ない。名義上、この家はお前の家じゃない」
確かに当時は女性がローンを組むのが難しく、夫名義で契約した。でも実際に払い続けてきたのは私だ。通帳も振り込み明細も、全て私の名前で残っている。
「お母さん、現実を見てください。この家にはもうお母さんの居場所はないんです。寝室も子供部屋にするつもりですし。お母さんはどこか安いアパートでも借りればいいじゃないですか」
「あなたたちは本気で言っているのですか?」
「本気も何も、もう決まったことだ。いい年をしていつまでも意地を張るな」
「お前はもうこの家の主婦じゃない。ただの厄介者だ。それも、もうすぐ出ていく厄介者だ」
私は深く息を吸った。もう何を言っても無駄だ。この人たちにとって、私はただの金蔓だった。利用価値がなくなれば、簡単に切り捨てられる存在。
「わかりました。皆さんのお考えはよくわかりました」
「やっと理解したか」
「明日から施設でも探せ。それか、お母さんの田舎にでも帰ればいい」
「あ、でも田舎じゃ薬剤師の仕事もないでしょうね。ま、それも自業自得です」
自業自得。35年間、家族のために尽くしてきた結果が、自業自得。
私は立ち上がり、リビングを出ようとした。その時、息子が小さな声で言った。
「母さん、恨まないでくれ。これも時代の流れなんだ」
時代の流れ。そんな言葉で、親子の情も感謝の気持ちも、全てを投げ捨ててしまうのか。
リビングを出ようとした私の足が止まった。振り返ると、家族3人が安堵の表情を浮かべている。まるで面倒な仕事が片付いたとでも言うように。私はもう一度椅子に座り直した。
「あら、まだ何か?」
「もう少しお話を聞かせていただけますか?」
「なんだ、まだ納得できないのか」
「いえ、納得はしています。ただ、確認したいことがあるのです。私は明日からこの家を出ていけばいいのですね」
「そうだ。わかっているじゃないか」
「荷物はどうしましょうか?」
「最小限にしろ。どうせ施設に入るんだから」
「そうそう。お母さんの部屋にある家具は全部処分しますから。古臭いものばかりで使い物になりませんし」
古臭い。母の形見の兄弟箪笥も、父が作ってくれた本棚も、全て処分するのか。
「わかりました。では、もう一つ確認させてください。私はもう、この家の家族ではないということですね」
「当たり前だろう。家族なら追い出したりしない。お前はもう部外者だ」
「学ぶも同じ考えですか?」
息子は一瞬ためらったが、ゆ江に肘でつつかれ、慌てたように答えた。
「そ、そうだよ。母さんはもう、その家族じゃない」
「わかりました」
私は深く頷き、不思議なほど穏やかな笑みを浮かべた。その笑顔に、家族は明らかに戸惑った。
「お母さん、大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。むしろすっきりしました」
私は立ち上がり、もう一度家族の顔を見回した。
「では、明日の朝一番に出ていきます」
「それがいい」
「ところで、家族ではない私に、何か法的な義務はありますか?」
「はあ? 何を言っている?」
「いえ、ただの確認です。私はもう家族ではない、部外者だとおっしゃいましたから」
「そんなことはどうでもいい。とにかく出ていけ」
「わかりました。では、最後に一つだけ。35年間、本当にお世話になりました」
その言葉に、なぜか家族の顔がこわばった。解釈のしようによっては、ただの別れの挨拶にしか聞こえないのに。もう答えなかった。リビングを出て階段を上がりながら、私は心の中で計画を整理していた。
「お母さん、本当に大丈夫ですか? あんなに素直に受け入れるなんて、気味が悪いです」
「放っておけ。どうせ行く当てもないんだ。すぐに頭を下げて戻ってくるさ」
行く当てがない。私は心の中で静かに笑った。
部屋に戻ると、携帯電話を取り出した。着信履歴を見ると、ここ数ヶ月何度もかかってきていた番号があった。大手製薬会社の人事部長からの電話だ。「薬剤師として35年のキャリアをお持ちの黒田さんに、是非とも弊社でその手腕を」と。私は家族のことを考えて断り続けていた。でも、もう遠慮する必要はない。私はもう、家族ではないのだから。
机の引き出しから、大切にしまっていた書類を取り出した。通帳、印鑑、そして何より大切な、住宅ローンの支払い明細。全て私の名前で、私の口座から引き落とされている証拠だ。
翌朝、夜明け前に目が覚めた。35年間の習慣で、目覚まし時計が鳴る前に自然と目が覚める。静かに身支度を整え、最小限の荷物をバッグに詰めた。大切な書類、数日分の着替え、母の形見の小さなブローチ。それだけで十分だった。
階段を降りると、家族はまだ寝ていた。私はテーブルの上に一枚の置き手紙を置いた。「お言葉通り、消えさせていただきます。家族ではない私がいつまでもお邪魔するわけにはいきませんから。お元気で」
玄関の鍵を置き、静かに家を出た。朝もやの中、振り返ることなく歩き始めた。私の心は、不思議なほど軽やかだった。
まず向かったのは銀行だった。開店と同時に窓口へ行き、住宅ローンの自動引き落としの解約手続きを行った。
「黒田様、本当に解約されるのですか? 35年間、一度も遅延なくお支払いいただいていたのに」
「ええ、もう私の家ではありませんから」
次に電気、ガス、水道。全ての公共料金の引き落とし口座を解約した。全て私の口座から支払われていたものだ。名義変更ではなく、解約で。
手続きを済ませ、何年も勤めた薬局へ向かった。
「実は、本日付けで退職させていただきたいのです」
薬局長は驚いた顔をした。
「黒田さん、どうして急に? あなたはうちの薬局の宝じゃないですか」
「個人的な事情でして。本当に申し訳ございません」
「わかりました。でもこれだけは聞かせてください。例のS製薬からの話を受けるんですか?」
私は少し驚いた。
「ご存知だったのですか?」
「ええ、向こうの人事部長から直接連絡がありました。『黒田さんの35年の経験を是非うちで生かしたい』と。正直、うちのような小さな薬局では黒田さんの実力に見合った待遇はできませんからね。年俸は今の3倍、社宅も用意すると聞きました」
私は深く頭を下げた。
「今まで本当にお世話になりました」
薬局を出て、以前から連絡を取り合っていた不動産屋へ向かった。全て水面下で進めていた計画だった。家族には内緒で、新しい生活の準備を整えていたのだ。ただ、踏ん切りがつかなかっただけで。
夕方、新しいマンションの鍵を受け取った私は、携帯電話を確認した。着信履歴がすでに20件を超えていた。全て夫と息子からだった。留守電を聞いてみると、最初は怒りの声だった。
「みさ子、何を勝手なことをしている! すぐに戻って来い!」
しかし、次第に焦りへと変わっていった。
「おい、銀行から電話があったぞ。ローンの引き落としができないって、どういうことだ?」
「母さん、どこにいるんだ? 話し合おう」
最新のメッセージは、明らかに慌てた様子のゆ江からだった。
「お母さん、大変なんです。電気もガスも、全部お母さんの口座だったなんて。請求書が山のように」
私は携帯電話の電源を切った。今は誰とも話したくない。
新しいマンションの窓から見える夜景は、とても美しかった。35年間、家族のために働き続け、自分の時間など持てなかった私にとって、この静寂は何より贅沢なものだった。
あれから一ヶ月が経った。S製薬での新しい生活は、想像以上に充実していた。最新の設備、優秀な同僚たち。そして何より、私の経験を心から尊重してくれる環境。毎朝出勤するのが楽しみになるなんて、35年間の薬剤師人生で初めてのことだった。
「黒田部長、本日の新人研修よろしくお願いします」
若い薬剤師が尊敬のまなざしで私を見つめてくる。部長。その響きにも、ようやく慣れてきた。
この一ヶ月、夫からの電話は日に日に頻度を増していた。最初は一日に数回だったものが、今では一時間おきにかかってくるほどだ。留守電を確認してみる。
「みさ子、いい加減にしろ。もう一ヶ月だぞ。督促状が山のように来ている。延滞金だけでももう30万を超えた。このままじゃ本当に家を取られる」
次は息子からのメッセージ。
「母さん、お願いだから連絡してくれ。父さんの年金じゃとても払えない。僕の給料を全部注ぎ込んでも足りないんだ」
そして、ゆ江の泣きそうな声。
「お母さん、もう限界です。電気も止められそうです。実家にお金を借りようとしたら、勘当すると言われて……」
確かに少しは気の毒かもしれない。でも、これは自業自得というものだろう。
二ヶ月目に入ると、事態はさらに深刻化していた。ある日の夕方、会社の受付から連絡があった。
「黒田部長、ご家族の方がロビーでお待ちです」
「ご家族? 私に家族はいませんが」
「ご主人だと名乗る方と、息子さんだという方が」
私は仕方なくロビーへ向かった。そこにいたのは、見る影もなくやつれた夫と息子だった。特に夫は、この二ヶ月で10歳は老け込んだように見える。
「みさ子、やっと会えた」
夫が駆け寄ろうとしたが、私は手で制した。
「どちら様ですか?」
「何を言っている? 俺だ。よりだ」
「ああ、以前お世話になった大家さんですね。もう家族ではないと、はっきりおっしゃったじゃないですか」
夫の顔が青ざめた。
「あれはその……言い過ぎた。謝る。だから」
「母さん、お願いだ!」
息子が必死の形相で訴えてきた。
「もう限界なんだ。銀行から最後通告が来た。今月中に全額払わないと、競売にかけるって」
「それは大変ですね。でも、私には関係のないことです」
「関係ないって、母さんが払ってきたローンだろう」
「ええ、家族だった頃はね。でも、もう違います。部外者が他人の家のローンを払う義務はありません」
「待ってくれ!」
夫が私の腕を掴もうとしたが、ちょうどそこへ警備員がやってきた。
「黒田部長、大丈夫ですか?」
「ええ、この方々はもうお帰りになります」
警備員に促され、二人は諦めたように去っていった。その背中は、本当に哀れなものだった。
三ヶ月目、私の元に思いがけない電話がかかってきた。以前勤めていた薬局の同僚からだった。
「黒田さん、実はご家族のことで……。昨日、ご主人が薬局に来られて、黒田さんの今住んでいる住所を教えてくれって、土下座までして」
「そうですか」
「息子さんの奥さんまで来ましたよ。ゆ江さん。もう見る影もなくて、ブランド品も全部売り払ったみたいで、みすぼらしい格好で泣きながら『お母さんに謝りたい』って。でも薬局長が断ったんです」
「……」
「薬局長が伝えてくれって。『黒田さんはもう新しい人生を歩んでいる。過去には戻らないだろう』って」
電話を切った後、私は以前の家の近くまで行ってみることにした。もちろん姿を見せるつもりはない。ただ、どうなっているか確認したかっただけ。
家の前に着くと、門には「競売物件」の張り紙があった。庭は荒れ放題、カーテンも閉め切られている。近所の方と偶然出会い、少し話をした。
「あら、黒田さん! お久しぶり。大変でしたね。あの後、ご主人は毎日のように近所中を回って、あなたの行方を聞いて歩いていましたよ」
「そうでしたか」
「息子さん夫婦も、別居したみたいです。奥さん、実家に帰ったとか。でも黒田さんはお元気そうで何よりです。どこかで新しいお仕事を」
「ええ、おかげ様で」
私は曖昧に微笑み、その場を後にした。
会社に戻ると、秘書が緊急の様子で駆け寄ってきた。
「部長、大変です。ご家族の方から、会社の代表番号にもう50回以上も」
私は携帯電話を取り出し、着信履歴を確認した。100件を超える不在着信。そして最新のメッセージを再生した。
「みさ子、もう全て失った。家も、家族も、仕事も。全部、俺が悪かった。だから頼む。一度だけでいい。話を聞いてくれ」
夫の声は、もはや人間のものとは思えないほど疲れきっていた。
「母さん、母さん、ごめんなさい。僕が、僕がバカでした。どうか、どうか助けてください」
息子の号泣する声。でも、私の心は不思議なほど静かだった。35年間の献身を一瞬で否定した人たちの、今さらの謝罪に何の意味があるだろう。
私は携帯電話の番号を変更することにした。過去との最後の繋がりをたち切って、真の意味で新しい人生を始めるために。
あれからさらに三ヶ月が経過した。ある日、人事部長から呼び出された。
「黒田部長、実は重要なお話があります。来月から、あなたを常務取締役に昇進させたいと考えています」
私は驚いた。
「入社してまだ半年なのに、私のような者が」
「黒田部長の35年の経験と、この半年間の功績は素晴らしいものです。新人教育プログラムの改革、業務効率化の提案。全てが会社に大きな利益をもたらしました」
人事部長は微笑みながら続けた。
「それに、あなたの人柄です。誰からも慕われ、信頼されている。これはお金では買えない財産です」
35年間の努力が、ようやく正当に評価された瞬間だった。
その週末、私は久しぶりに以前住んでいた町を訪れた。元同僚たちとランチの約束があったのだ。レストランで楽しく食事をしていると、窓の外に見覚えのある人影が見えた。夫だった。しかし、その姿は見る影もなかった。髪は真っ白になり、背中は曲がり、まるで10年以上老け込んだようだった。
食事を終えて店を出ると、偶然にも息子と鉢合わせしてしまった。
「母さん!」
息子は駆け寄ろうとしたが、私は一歩下がった。
「どちら様ですか?」
「母さん、僕だよ。学ぶだよ」
息子の顔はやつれ果てていた。スーツもよれよれで、かつての面影はない。
「ああ、以前お世話になった大家さんの息子さんですね」
「母さん、そんな……」
「申し訳ありませんが、私には『母』と呼ばれる息子はいません。息子なら、母親を家から追い出したりしませんから」
息子はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「本当に、本当にごめんなさい。僕がバカでした。母さんがいなくなって初めてわかったんです。母さんがどれだけ大切な存在だったか」
「そうですか。でも、それはもう遅いです。あなた方は私を家族ではないと言った。用済みだと。その言葉はもう取り消せません」
「でも母さん……」
「私は今、とても幸せです。私の価値を認めてくれる会社で充実した毎日を送っています。年収は以前の3倍以上、来月からは役員です。都心の高級マンションに住み、趣味も楽しんでいます」
息子の目から涙がこぼれた。
「それに比べてあなた方はどうですか? 家を失い、家族もバラバラ。全て、自業自得です」
「母さん、もう一度だけチャンスを」
「いいえ。私の人生に、あなた方の居場所はもうありません」
私はキビスを返し、その場を立ち去った。振り返ることはなかった。
その夜、私は自宅で一人静かな時間を過ごしていた。ふと、35年前の結婚式の写真が目に入った。あの頃は本当に幸せになれると信じていた。家族のために尽くすことが、女性の幸せだと。でも、それは間違いだった。自分を大切にしない人間は、他人からも大切にされない。自分の価値を認めない場所に居続ける必要はない。
私は写真をゴミ箱に捨てた。過去との最後の決別だった。
翌日、会社で若い社員から相談を受けた。
「黒田部長、実は夫から仕事をやめて家庭に入れと言われていまして……」
「あなたはどうしたいの?」
「私は薬剤師として働き続けたいです。でも夫は、私の収入を当てにしながら、それでもやめろと」
私は優しく微笑んだ。
「あなたの人生は、あなたのものです。誰かのために自分を犠牲にする必要はありません。私のように、35年間も我慢する必要はないのです」
若い社員は力強く頷いた。
「はい、わかりました。自分の人生は自分で決めます」
私は窓の外を見つめた。今日も東京の空は青く澄んでいる。人生は一度切り。もう二度と誰かのために自分を犠牲にすることはない。私にはまだまだやりたいことがたくさんある。海外旅行、趣味のピアノ、ボランティア活動。35年間できなかったことを、これから存分に楽しむつもりだ。
家族という名の元に搾取され、使い捨てにされそうになった私。でも、勇気を出して自由を選んだことで、本当の幸せを手に入れることができた。
もし今、家族から理不尽な扱いを受けている方がいたら、伝えたい。我慢する必要はない。あなたには幸せになる権利があると。人生の後半戦は、誰のためでもない、自分のために生きていく。
それが、私が35年間の経験から学んだ、最も大切な教訓だ。


