あの朝,私は自分の住むタワーマンションのロビーで,財布の中の小銭を数えていた»来月の家賃40万円を払えば,手元に残るのは数百円だけになる」65歳で,倉庫で20年働いてきた男が,よりによって息子に頼まれて名義人になったこの部屋で,ゆっくりと死んでいくような毎日だった」…

あの朝,私は自分の住むタワーマンションのロビーで,財布の中の小銭を数えていた»来月の家賃40万円を払えば,手元に残るのは数百円だけになる」65歳で,倉庫で20年働いてきた男が,よりによって息子に頼まれて名義人になったこの部屋で,ゆっくりと死んでいくような毎日だった」...

120メートルの高さから見下ろす夜景は確かに美しかった。きらめく街の灯りが眼下に広がり、遠くに横浜のシルエットが滲むように浮かび上がる。黒川相一はその光景を初めて目にした時、ほんの一瞬だけ息を飲んだ。だが、それはもう六ヶ月前のことだ。今ではあの光景を美しいと思う余裕すら消えていた。

今日お話しするのは、65歳の男が息子にはめられた高級タワーマンションの一室で、静かにしかし確実に追い詰められていく物語です。

黒川総一が暮らすのは、地上58階建てのタワーマンション、その35階の一室だった。エントランスには24時間対応のコンシェルジュが控え、ロビーの床は大理石張りで、シャンデリアが天井から下がっている。外壁は全面ガラス張りで、夜になると建物全体が一つの巨大な光の塔のように輝く。不動産広告のコピーで言うなら、都市の頂点に立つ選ばれた者たちの住まいといったところか。

だが35階の相一の部屋の、大理石のテーブルには、半分食べかけの安いインスタントラーメンが置かれていた。

午前7時、総一はスーツの上着を手に取り、両袖を確かめた。袖口のほつれは先週の夜に自分で縫い直したばかりだが、それでも生地の薄くなった部分は隠しようがない。ネクタイは15年前に百貨店で買ったものだ。今の自分にはそれを買い換えるための余裕がない»彼は腕時計を確認した。7時ちょうど、仕事は8時半始まりだが、横浜郊外の倉庫まで電車と徒歩で40分かかる。余裕を持って7時半には建物を出なければならない」総一は書類の入った鞄を手に取り、玄関へ向かった。

廊下は静かだった。タワーマンションの廊下はいつも静かだ»分厚いカーペットが足音を吸収し、空調が低く鳴り、人の気配がほとんどない」上の方の住人たちはこの時間帯にはまだ眠っているのか、あるいはすでに専用のエレベーターで地下駐車場へ消えているのか»総一には分からなかった»

エレベーターホールには6基のエレベーターが並んでいた。6基あれば待ち時間などないだろうと最初は思っていたが、実際には朝の通勤ラッシュの時間帯になると、これが悪夢のような待機行列を生み出す»総一はボタンを押し、電子パネルが表示する数字を眺める:52階、48階、45階…エレベーターはそれぞれの階で止まり続けている»住人たちが乗り込んでくるたびに、6基のうち3基は上層階で停止したままだ。

7時5分、総一は再びボタンを押した。すでに点灯しているのは分かっている。分かってはいるが、押さずにはいられなかった。こういう時の自分の癖を総一は自覚していた:苛立ちを抑えるために意味のない動作を繰り返す」倉庫の現場でも、部下の仕事が遅いと感じた時、伝票を必要以上に強く机に叩きつけることがあった»

横に立っている住人の女がスマートフォンを操作しながら小さくため息をついた。40代くらいか、高そうな仕事に身を包み、首元には細いゴールドのネックレスが光っている»総一のほつれたスーツの袖口とは別の世界の存在のように見えた”

7時10分、ようやく一基が降りてきた»扉が開くと、中にはすでに5人が乗っていた»総一は身体を斜めにして滑り込む»誰かの香水の匂いが鼻をついた:甘く重く、閉ざされた空間に充満している»総一は息を浅くした»ボタンを見ると1階のランプはすでに点灯していた»

エレベーターは止まった:42階。新たに2人が乗り込んでくる»38階でまた止まった:1人が乗り込み、1人が降りる»31階…ランダムに各階で止まりながら、エレベーターはじわじわと下降していった»総一は腕時計から目を離さなかった:7時17分、まだ35階を出てから15分しか経っていない»

1階のロビーへ出ると、総一は早足で自動ガラスドアへ向かった»エントランスのコンシェルジュが軽く会釈する»総一は視線を向けなかった」返す余裕がなかったのではなく、あの人物の笑顔を見るたびに何か居心地の悪いものを感じていたためだ»丁寧すぎる接遇というのは、時にその人の素性や経済状況を静かに査定している»そういう視線が裏に潜んでいる気がした»根拠のない感覚かもしれない»しかし一度そう感じてしまうと、戻すことができなかった»

セキュリティゲートへ近づき、ポケットからIDカードを取り出そうとした:ない»右のポケットをまさぐる、左のポケット、鞄を開ける、内ポケット、上着の内側…ない»IDカードは倉庫の入退権限と作業員認証を兼ねたカードだ»それがない状態で現場についてもゲートは開かない»倉庫の鍵も同じカードに紐づいている」午前中の最初のシフトが8時30分から始まり、総一はその日の入荷便の指示を出す立場にいる»彼がいなければ作業員たちは動けない»

総一はゆっくりと顔を上げ、吹き抜けのロビー天井を見た»はるか高所、ガラスの壁面を伝って光が差し込んでいる»35階、自分がたった今降りてきた場所までまた戻らなければならない»おそらく30分かかる»いや、エレベーターの混雑を考えれば35分かもしれない»そうすると出発は7時50分になる»8時半に間に合うはずがなかった»

総一は一度だけ、目を閉じた」頭の中で計算する:電車を一本早めても追いつかない»タクシーを使えば間に合うかもしれないが、タクシー代は今の自分には痛い出費だ»いや、タクシーよりも問題なのはカードだ»カードなしで出勤しても仕事にならない»上に戻るしかない»

問題は、今の職場の直属上司、管理職の片倉という男だ»片倉は42歳で、総一よりも23歳若く、前任の所長が定年退職した後に本社から送り込まれてきた人物で、物流の現場経験はほとんどなく、書類の数字と会議室の効率だけで仕事を判断する»遅刻に対しては異常に厳しく、総がこれまで一度でも無断で時間に遅れたことがあれば、今日のことが致死的なきっかけになりかねない»

だが総一は、これまで遅刻したことなどなかった»20年近く物流の現場で働いてきた»台風の翌日で出勤がままならない日も、家庭に問題が起きた日も、時間通りに現場に立ち続けてきた»その誇りが、今この瞬間、大理石のロビーの床の上で音もなく砕けようとしていた»

総一はコンシェルジュカウンターへ戻った»対応したのは20代後半と思われる男で、名札には山根と書いてある»黒いジャケットにネクタイ、整えられた髪、完璧に練習されたような笑顔»総一は一瞬だけ間を置いてから、できるだけ落ち着いた声で言った:「部屋にIDカードを忘れてしまった。上まで戻りたいが、手元に居住者カードがない»仮の通行証を発行してもらえないか」

山根の表情は変わらなかった»しかしその目が、ほんのわずかだけ動いた»総一のスーツを見た»袖口を、それから鞄を、何かを判断するような、一瞬にも満たない視線だった»「承知しました」と言って、山根は書類を取り出した»氏名、部屋番号、生年月日の確認を求められた»総は答えた»山根が記入するその作業に2分かかった»仮通行証を受け取った時、総一は礼を言うことができなかった»言葉が出なかったのではない»勇気がなかったのだ»あの目の動きが、胃の辺りにぼんやりとした重みを残していた»

7時25分、再びエレベーターホールへ向かう»エレベーターはまた来た»今度は下りほどの混雑はない»2基が並んで動いていた»それでも35階まで戻り、カードを取り、再び降りてくるまでにどれだけかかるか»総一は壁の横に立ち、腕を組んで電子パネルを見上げた»

隣に白髪の老人が立っていた»総一と同年代か少し上かもしれない»きちんとしたウールのコートを着ていて、ゴルフバッグを持っていた»この時間帯にゴルフへ向かうということは、早朝枠の予約でもあるのだろう»老人は総一をちらりと見て、すぐに視線をそらした»特に悪意があるわけではない»単に、自分と関係のない人間には関心を向けない»それだけのことだ»

エレベーターが来た»総一は乗り込んだ»35のボタンを押す»老人は47を押した»扉が閉まり、上昇が始まる»加速する時のわずかな不快感が、空腹の胃に鈍痛として伝わった»今朝はあのインスタントラーメンを半分しか食べていない」急いでいたからではなく、もう一方の半分を明日の朝に残しておくつもりだったからだ»

35階に着き、扉が開く»廊下を歩き、自分の部屋の前で仮通行証をかざした»ロックが解除される音がした»部屋に入ると、食べかけのインスタントラーメンの容器がまだテーブルの上にあった»湯はとっくに消え、麺はポタポタとスープを吸って膨らんでいる»総一はその容器を横目に見ながら、キッチンのカウンターへ向かった»IDカードは充電器の上に置いてあった»部屋を出る時、ポケットから出した時、ここに置いた»そのことを今鮮明に思い出した»問題はその段階ですでに起きていたのかもしれない»カードをポケットに戻すべきだと一瞬思い、しかしそのまま放置した»あれは疲弊のせいか、それとも単純な油断か»どちらにせよう結果は同じだった»

総一はカードをスーツの内ポケットに入れた»それから食べかけのラーメンの容器を見た»捨てるべきか?いや、麺はもう食べられない状態になっている»スープだけでも飲んで出るか?時間がなかった»総一は容器をそのままにして部屋を出た»

7時35分、エレベーターを待つ間、総一は指で太腿を軽く叩き続けていた»無意識の動作だと気づいてやめた»パネルを見る:41階で止まった、39階で止まった»今日のスケジュールが頭を流れる:8時30分に入荷予定のコンテナが2便ある»横浜からのリードタイムが短く、指示を現場の責任者が直接出さないと、作業員が独自の判断で積み下ろしを始めてしまう»その結果が伝票ミスに繋がることを、総一はこれまで何度も経験してきた»

エレベーターが来た»乗り込んだのは総一一人だけだった»1階を押す»扉が閉まる瞬間、外の廊下を誰かが歩いてくる足音がした»だが総一は手を伸ばさなかった»もう一秒も待てなかった»

1階に到着»総一はエレベーターを飛び出した»今度はコンシェルジュカウンターには目を向けなかった»自分の居住者カードを使い、セキュリティゲートを通過する»自動ドアが開く»6月の朝の空気が顔に当たった»まだ湿度は低く、風もある»歩けばそれほど悪い気候ではない»だが、今の総一にとって外の空気が心地よいかどうかは関係なかった»

7時37分、電車に乗って8時半に間に合うか、ギリギリかもしれない»走るか?いや、このスーツで走れば汗をかく»汗をかいた状態で倉庫の現場に着いた時、総一は自分の立場について考えた»倉庫の現場では彼が最年長の指示系統に立つ»そこに額に汗を滲ませながら息を切らして現れるのは、彼のこれまでの働き方に合わない»だが走らなければ遅れる»どちらにしても今日の朝はすでに失敗していた»

総一は早歩きで駅へ向かいながら、胸のうちで片倉の顔を思い浮かべた»あの男がどういう言葉を用意しているかはおよそ想像がつく:全体の効率を低下させる»プロとしての自覚が足りない»年齢が言い訳になるとは思わないでほしい»年齢が言い訳にならない以上に、このタワーマンションの構造的な問題が言い訳になるはずもなかった:6基のエレベーター、大理石の床、一流のコンシェルジュ、それが自分の生活を縛っている事実」片倉に話したとして何になる?何にもならない»

総一は駅への道を急ぎながら、六ヶ月前のことを考えた»あの夜、息子の大輝から電話がかかってきたのは夜の9時過ぎだった»大輝の声はいつになく甘く、慎重だった:「父さん、一つお願いがあるんだが、聞いてくれるか? “大輝の妻の弓恵も横についているらしく、背後から子供の鳴き声が聞こえた»孫の光太、まだ3歳の光太が良い小学校に入学するためには、住所が問題になると言って、大輝は説明を始めた:「今住んでいる場所では学区が不利だ」しかし新横浜の高級なタワーマンションの住所があれば、希望の学校への近道になる»父さんに頼みたいのは、そのマンションの契約者になってもらうことだ»費用は自分たちが持つ»父さんはただ名前を貸してくれるだけでいい」

総一はその電話を受けながら、三度聞き返した»仕組みが飲み込めなかったのではない»不審に思う部分があったからだ:契約者になる»それば単純に家賃の支払い義務を負うということだ»大輝は費用を持つと言ったが、それが崩れた時に何が残るかを、総一は瞬時に計算した»しかし光太の鳴き声が電話越しに聞こえ続けていた»総一は孫に会える機会は少なかった»大輝と弓恵が結婚してから、親子の関係は少しずつ気難しくなっていた»総一身の物言いが短すぎるのか、大輝が距離を置くようになったのか»機会が減るにつれて、何かを確かめる場面もなくなった»光太が生まれてから初めて感じた近さのようなものが、あの電話の中にあった»それが決定的な判断の邪魔をした»

改札を抜けてホームへ降りた»電車がすでに止まっていた»総一は小走りに近い速度でドアへ向かい、閉まる直前に飛び込んだ»吊り革を掴む»車両は混んでいたが、立てないほどではない:7時44分»この電車なら乗り換えを一本でうまく繋いで、最速で8時27分に倉庫の最寄り駅に着く」それから徒歩で7分:ギリギリ8時34分、4分の遅刻だ»片倉がどう反応するかは分からない»しかし4分程度の遅刻で大事にはならないかもしれない»電車の混雑を理由にすれば、完全に突っぱねることはできないはずだ»

総一はそう考えながら、車内の流れる景色を窓越しに眺めた»だが胃がずっと重かった»片倉の反応よりも、作業員たちの前でどんな顔をして現場に立てばいいかが、総一には引っかかっていた»あの連中は悪い人間ではない»時間通りに来て、総一の指示を待って動く»その信頼に答えることが総一の仕事だと思っていた»その自分が、自宅のIDカードを忘れた»タワーマンションのエレベーターが遅かった»そんな理由で遅れてくる”情けない」という言葉が頭に浮かんで、総一はそれを振り払おうとした»しかし振り払いきれなかった»

8時31分、最寄り駅»総一は改札を出て、倉庫へ向かう道を早足で歩いた»6月の朝、まだ本格的な夏ではないが、汗が背中に滲んでくる»額の汗を手の甲で拭い、ネクタイを少しだけ直しながら、倉庫の搬入口ゲートへ近づいた»8時35分、IDカードをゲートにかざした»ランプが緑に変わる»総一は扉を引いて中へ入った»

入ってすぐ、倉庫の内部の空気が変わる»外の生暖かさとは違う»乾いたダンボールの匂いとフォークリフトの油の匂いが混じった独特の空気»高い天井、並ぶ商品パレット»この空間にいる時だけは、総一は自分がどこに立っているかを体が分かっていると感じた»

作業員の一人、無藤が近づいてきた»30代半ば、無口だが仕事の正確な男だ:「遅くなったな」総一は短く言った:「第1便の状況は?」無藤に聞いた»無藤は無表情のまま、すでに先着していた別の担当者が暫定の仕訳を始めているが、確認が取れないものが3件あると答えた»総一は頷いて歩き出した»

事務所のガラス越しに片倉の視線に気づいた»片倉は立っていた»ガラス張りの事務所の中から搬入フロアを見渡せる位置に立ち、総一が無藤と話すところを見ていた»表情は分からない»総一はそちらに向かわず、まずは業務の確認を優先した:3件の問題を処理し、担当者と伝票を照合して、15分で現場を一通り把握した»それから事務所へ向かった»

片倉は机のそばに立ち、腕を組んでいた»42歳の男の体は、管理職についてから少し肉がついたように見えた»手元にタブレットを持ち、画面を確認しているそぶりだったが、総一が入ってくるのと同時に顔を上げた:「黒川さん、今日は何分遅れたか分かりますか? “総一は正面から片倉を見て:“5分”と答えた”正確には5分17秒だったかもしれないが、切り上げた»片倉は少し息を吸ってから言った:“倉庫作業というのは、全体が繋がって動いてるんです”一人が時間通りに来ないと、全体の流れが止まる»それが何分かという問題じゃない”

総一は頷いた»反論しなかった»片倉の言っていることは正しい»正しいからこそ、返す言葉が出なかった»エレベーターが遅かったからとか、IDカードを忘れたからとか、タワーマンションの構造的な問題があるからとか、そういう話を片倉の前でするつもりは最初からなかった:「分かりました」今後気をつけます”とだけ言って、事務所を出た»

昼の休憩時間”総一は倉庫の隅にある休憩室で、コンビニの100円のコーヒーと自作したおにぎりを食べた”おにぎりは昨夜握ったものだ”中は梅干だけで、海苔は少し湿けていた”コーヒーは熱く、それだけが今日の良いものだった”

同僚の加藤が隣に座ってきた»加藤は50代の男で、長くこの倉庫で経理の補助をしている»明るい性格で、現場の誰とでも話す:“黒川さん、タワーマンションに住んでるって本当なんですか? ”加藤が言った»住民票の話が事務方に伝わったらしい»総一はおにぎりを噛みながら:“ああ”と短く答えた»加藤はニコニコしながら続けた:“あそこって月の家賃いくらするんですか?

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40万とか50万とか、そんなもんですよね”黒川さん、隠れセレブじゃないですか? “総一はコーヒーを一口飲んだ:“そういうわけじゃない”と言った»それ以上は説明しなかった»加藤は笑いながら:「いや、でも、あの辺りに住んでる人間が100円コーヒー飲んでるの見ると、なんか笑えますよ」と言った»悪意のある言い方ではなかった»加藤は和ませようとしていた»総一も状況の滑稽さは分かっている»ただ笑えなかった»おにぎりを半分まで食べたところで、口の中の梅干の酸味が急に不快になった»総一は残りをそっと包み直し、休憩室のゴミ箱の隣の棚に置いた»

午後の仕事は問題なく流れた」午後5時に通常業務が終わり、総一はタイムカードを押した»残業の希望を聞かれたが、今日は断った»引き受けたかった:残業代が1時間あれば1000円以上になり、月に数回積み上げれば多少の足しになる»しかし今日は朝から何も食べていないに等しく、胃が疲れていた»

帰りの電車は座れた»総一は窓の外を見た»夕方の横浜の町が流れていく:商店街、住宅地、公園の緑»窓ガラスに自分の顔が薄く映った:65歳の男の顔»サラリーマンらしく整えているが、どこか消耗した表情をしている»総一は自分の顔から目をそらした»

駅を降り、タワーマンションへ向かう道を歩く»遠くから建物が見えてくると、総一は毎回同じことを思った:大きいなと”ただそれだけだ»美しいと思う»誇らしいとも思わない»あの高さの中のどこかに自分が毎晩眠る場所がある»それだけのことだ»

エントランスを抜け、エレベーターに乗り、35階で降りた»廊下を歩いて自分の部屋の前に立った時、隣の部屋から音楽が聞こえた»まだ夕方だというのに、低音の効いた音楽が壁を通して振動として伝わってくる»総一は一瞬立ち止まり、それからドアを開けて自分の部屋に入った»

部屋の中に、朝のインスタントラーメンの容器がまだテーブルの上にあった»総一は容器を手に取り、中を見た:麺は完全にスープを吸い切って、溶けかけていた»捨てた»それからスーツのジャケットを脱ぎ、ハンガーにかけた»袖口のほつれを指でなぞった:今夜また縫い直すべきかどうかを考えた»針と糸を取り出すのが面倒だという気持ちと、明日も同じスーツを着て職場に行く自分を想像する気持ちが、ぼんやりと交差した»

冷蔵庫を開けた:卵が2個、豆腐が半丁、もやし1袋、インスタントラーメンがあと3袋ある»今夜はもやしと豆腐を炒めて食べることにした»醤油と塩だけの味付けだが、食べられないわけではない»コンロの火をつけながら、総一はキッチンの小さな窓を見た»窓の外は暗くなり始めた空と、遠くにしか見えない町の灯りが見えた»35階のキッチンからの眺めも、客観的には悪くない»しかし総一はそれを眺める気にはなれなかった»

フライパンにもやしを入れた»鍋肌が熱くてもやしが弾ける音がした»醤油を少し垂らす»豆腐をスプーンで崩しながら入れる»5分もしないうちに皿に盛り付けた»テーブルについて箸を持った»一口食べた:塩が薄かった»もう少し醤油を足そうとしたが、瓶を見ると残りがわずかだったのでやめた»

食べながら、総一は今日のことを振り返った:朝のIDカードの件、エレベーターの混雑、片倉の目、加藤の冗談、どれも大した出来事ではない»一つ一つは小さな話だ»ただそれらが積もった時、体の奥にじわじわと何かが蓄積されていく感覚があった“摩耗”という言葉が思い浮かんだ»機械が長く使われると摩耗する»総一自身もそうなのかもしれなかった»ただし総一が擦り減っているのは体ではない»体は今も丈夫だ»倉庫で重い荷物を運んでも、翌日に筋肉痛が残らない»それは誇りでもあるが、今夜はその事実が却って皮肉に感じられた»体が丈夫でなければ、もっと早く限界が来て、もっと早く何かが変わっていたのかもしれない»

食器を洗い終えた総は、リビングの窓に近づいた»床から天井まで届く大きなガラスの向こうに、横浜の夜景が広がっている»120mの高さから見下ろす光の群れ:街を走る道路、橋、遠くに光る港の施設»晴れた夜にはその景色に奥行きがある»総一は窓ガラスに手を触れた»ガラスの表面は外気と内気の温度差で、わずかに冷たかった»掌の熱がガラスにしばらく残った»

このマンションの毎月の家賃は40万円だ»総一の月収は手取りで23万円ほど»そこに長年積み立ててきた老後のための貯蓄を崩して、毎月補填している»しかしその貯蓄も、あと何ヶ月持つか」大輝に騙されたわけ»引き落とし口座に移したわけ»指揮金として出した分»計算するたびに、数字は同じ場所に戻ってきた:行き止まりだ»

総一は手をガラスから離した»指の跡がうっすらと残っていた»しばらくして、それも消えた»タバコを一本取り出した»安いタバコだが、総一は30年以上これを吸い続けている»火をつけ、煙を吐いた»部屋の中で吸うのは規則違反だが、今夜はそれを気にする余力がなかった»タバコの煙が窓ガラスに向かってゆっくりと広がった»光の群れが煙の向こうで滲んだ»

総一はしばらくそのまま立っていた»行き止まりだと感じているのに、どこかへ走り出す気力もなかった»ただここに立ってタバコを吸い、煙の向こうに光が散らばるのを見ている»それがこの瞬間の自分にできることの全てだった»

タバコが短くなった»灰皿の代わりにしている空き缶の縁で火を押し付けて消した»それから総一はゆっくりとソファに座った»ソファは倉庫近くの廃墟から拾ってきたものだ»クッションがへたっているが、座れないことはない»このタワーマンションの他の部屋にどんな家具が置かれているか、総一には想像もつかない»

天井を見上げた»静かだった»隣の部屋の音楽は、いつの間にか止んでいた»総一は目を閉じた»今日という一日がまた一つ過ぎていった»明日もエレベーターを待ち、電車に乗り、倉庫で働く»その繰り返しの中で、残高が少しずつ減っていく»大輝はどこにいるのかも分からない»光太が今どんな顔をしているかも、総一には分からない»何かが変わる気配は、どこにもなかった»

翌朝、黒川相一が目を覚ました時、時計は5時40分を示していた»普段より30分早い»眠れなかったわけではないが、眠り続けることができなかった»午前3時頃に一度目が覚め、天井を見上げながらまた目を閉じて、それでもどこか浅い場所を漂い続けるような眠りの中で、気がつくと夜明け前になっていた»

総一は布団の上で仰向けになったまま、しばらくそのままでいた»昨日のことを整理しようとしたが、特に整理するものがあるわけでもなかった:カードを忘れた»エレベーターを往復した»5分遅れた»片倉に短く詰められた»加藤に笑われた»それだけだ»どれも取り返しのつかない失敗ではない»ただそれが積み重なって、体の奥に薄く広がっていた»

起き上がり、洗面台で顔を洗った»鏡の中の自分を見た:65歳の顔だ»深い皺があるわけでも、白髪が目立つわけでもないが、どこか消耗した質感が肌に出ている»30代の頃、倉庫の現場で怪我した際にできた、顎のあたりの傷跡が今日はやけに白く見えた»総一はタオルで顔を拭い、台所へ向かった»

昨夜の残りのもやし炒めが冷蔵庫にあった»冷えたままでつついて食べた»インスタントラーメンを使うほどの気力もなかった»食事というより、単に何かを入れる行為としてもやしを口に運び続けた»

6時20分、今日は早めに出ることにした»昨日の失敗を繰り返すつもりはない»スーツを着た»袖口のほつれを昨夜縫い直しておいたが、縫い目が少し歪んでいた»暗い部屋で針を扱ったせいだ»外から見れば分からないかもしれない»分からなければ、それでいい»IDカードをスーツの内ポケットに入れた»それを確認してから、玄関を出た»

6時25分、エレベーターホール»この時間帯は静かだった»住人の多くはまだ眠っているか、あるいはこの時間に動く生活をしていないのか»ホールには誰もいなかった»総一はボタンを押し、表示パネルを見上げた:一基が21階で止まっていた»もう一基が43階»それ以外は動きがない»しばらくして、一基が下降を始めた»30秒ほどで扉が開いた»中には誰もいなかった»総一は乗り込み、1階を押した»扉が閉まる»

このくらいの時間に出ればいいと総一は思った»朝の通勤ラッシュが始まる前のこの静かな時間帯に動けば、少なくともエレベーターの問題は回避できる»ただしそれだけ早く倉庫についても、現場の仕事は8時半にならないと始まらない»1時間以上倉庫の外で時間を潰すことになる»近くに座れる場所があるかどうかも分からない»何かを回避するたびに、別の問題が生まれる»

1階のロビーについた»今日は仮通行証を使う必要がなかった»居住者カードをゲートにかざし通過した»コンシェルジュカウンターには誰もいなかった»夜勤から朝のシフトへの引き継ぎ時間なのかもしれない»総一は誰とも目を合わせることなく、自動ドアから外へ出た»

電車の中は空いていた»座れた席に腰を下ろし、窓の外を流れていく朝の町を眺めながら、総一の頭に六ヶ月前のことが浮かんでくるのを止められなかった»

息子の大輝が電話をかけてきたのは、昨年の12月に入ってすぐのことだった»大輝は38歳で、貿易関係の小さな会社に務めていた»いや、正確には会社を立ち上げていた»法人格を持つ規模ではあったが、実態としては代表者一人とパートタイムの事務が一人というような体制だったと、後から知った»総一は大輝の仕事の内容をその時まであまり詳しく聞かされていなかった»大自身が話したがらなかったし、総一身もあえて踏み込む性格ではなかった»

電話越しの大輝の声は、どこか緊張しているように聞こえた»最初の2分ほどは近況報告だった:光太が幼稚園で友達ができた話、弓恵の体調が最近落ち着いている話»総一は短く相槌を打ちながら聞いた»電話で大輝と20分以上話すことは滅多になかった»大体5分から10分で要件が終わり、それぞれが用を済ませる»そういう距離感が、いつの間にか定着していた»だから大輝が本題に入るまでいつもより時間をかけているのに気づいた時、総一は何かあると感じた»

「光太の学校のことで、相談があるんだが」と大輝は言った:「良い小学校に入れてやりたい」今住んでいる場所では学区の問題があって、希望の学校に通わせにくい」総一は黙って聞いた:「新横浜のタワーマンションに住所を移せば、希望の学区に近づける」業者に確認したら、そのマンションへの入居は月額40万円かかるが、手続き上は本人が契約者として登録する必要があって、自分たちの名前ではなく、信用力のある人間が名義人になった方がスムーズに通ると言われた」父さんに名を貸してもらえないか」

「家賃は自分たちが払う」父さんは名前を出すだけでいい」

総一は三度聞き返した:「名義人になるということは、契約上の支払い義務を負うということではないか? “「そんなことにはならない」と大輝は言った:「自分がちゃんと払い続ける」父さんに迷惑はかけない」ただ手続きの都合で、名義が必要なだけだ」

電話を切った後、総一はしばらく座ったまま動かなかった»断るべきだという気持ちは最初からあった»感情ではなく、損得の計算としてもリスクが明らかだった»しかし、その夜、大輝からもう一度電話があり、今度は弓恵も出た»弓恵は穏やかな声で:“光太の将来のために、小父さんにしかお願いできない”と言った»そして電話の向こうで、光太が「じいじ」といった声が聞こえた»その一言が、計算を狂わせた»

翌週、総一は書類に判をした»最初の2ヶ月は、大輝が家賃を振り込んだ:1月分、2月分、口座に40万円が入ってきた»総一はその度に、取り越し苦労だったかもしれないと思い始めていた»自分はこのマンションに実際には住まないつもりだったから、部屋のことは深く考えていなかった»住民票だけ動かして、実態はこれまでと変わらない生活が続くと思っていた»

しかし3月、振り込みが来なかった»総一は大輝の携帯に電話した»出なかった»翌日も出なかった»3日後に、知らない番号からメッセージが届いた:大輝の会社が経営不振に陥り、代わりに連絡していると書いてあった»詳細は書かれていなかった»その週の終わり、大輝から短い電話が来た:“会社が立ち行かなくなった”弓恵とも話し合って、離婚することになった”光太は弓恵が引き取る”自分は少し離れた場所で立て直しを図る”家賃のことは済まないと思っているが、今すぐ動けない”

総一はその時、感情より先に計算が動いた:自分が名義人になっているあのマンションの家賃は、このまま誰も払わなければ、総が払い続けるか、あるいは滞納として処理されるかだ»滞納すれば追い出されるが、指揮金が消える»指揮金は、名義人である総が出した»出したというよりも、大輝が用意したと言っていたが、実際の引き落とし口座は総一名義だった»つまり最初から、総一の金だった»それに気づいた時の感覚を何と呼べばいいのか、総一には分からなかった»怒りというにはあまりにも静かで、悲しみというには冷たすぎた»

大輝が電話を切った後、総一は部屋の中でタバコを一本吸い、それからマンション管理会社に電話をかけた»契約内容の確認と、名義人としての義務について確認するためだ»担当者は丁寧な声で:「契約上の支払い義務は名義人にあります」と言った»そうして総一は、あのタワーマンションに自ら引っ越すことになった»指揮金を無駄にしないための選択だった»それ以外の意味は何もなかった»

倉庫の最寄り駅には7時45分に着いた»8時半まで45分ある»倉庫の前まで歩き、周辺を一回りした»自販機が一台、古びたベンチが一つあった»総一はベンチに腰を下ろし、手元の時計を眺めた»周囲には似たような倉庫や配送センターが並んでいる»トラックが一台、搬入口の前で下ろしの準備をしていた»作業員ではなく、ドライバーが一人で台車を動かしている»総一はその作業を遠目に眺めた»特に考えはなかったが、体がその動きに親しみを感じた:ダンボール箱を台車に積む角度、重心のかけ方、足の踏ん張り、長年体に染み込んだものが、見ているだけで自然に身体に蘇ってくる»

8時20分になってから、総一は倉庫のゲートに向かった»IDカードをかざし、中へ入った»今日こそ定時通りに立つことができる»

午前中の作業は順調だった»コンテナ3便の受け入れと、伝票との照合も問題なく終わった»無藤が黙って動き、新入りの若い女性員の柏木が細かいことをよく聞いてきた»柏木は先月入ったばかりで、まだ伝票の読み方に不慣れな部分がある»総一はその度に立ち止まり、伝票の項目を指差しながら説明した»柏木は覚えが早かった:3度教えたことは、4度目には聞いてこない»総一はそれを見て何も言わなかったが、内心でいい人材だと思った»

昼前、フォークリフトの操作中に小さなミスがあり、棚の角に軽くぶつけた若い作業員がいた»怪我人は出なかったが、棚が少し歪んだ»総一は現場を確認し、報告書の様式をその作業員に渡した»片倉に報告する前に自分が一度目を通すつもりで、報告書を書き終えたら持ってくるよう言った»その作業員、西田は23歳で、居心地悪そうな顔をして頷いた»こういう時、総一は余計なことを言わない習慣がある»ミスを攻め立てても現場の空気が悪くなるだけで、次の作業の精度が下がる»大事なのは再発防止の手順を確認することであって、相手を追い詰めることではない»それが総一の20年のやり方だった»

昼の休憩時間»総一はまた休憩室の隅の席に座った»今日の弁当は、白飯と卵焼き一切れ、それとスーパーの半額シールが貼られていた野菜の煮物だった»朝早く出るために前夜に詰めておいたもので、煮物はすでに汁が飛んで少し乾いていたが、食べられないことはなかった»

加藤が対面に座ってきた»今日の加藤は社員食堂のランチを持ってきていた»揚げ物定食のようで、匂いが休憩室に広がった:「昨日はすみませんでしたね」と加藤は言った:“タワーマンションの話”失礼なことを言いました”総一は箸を動かしながら:“気にしていない”と答えた»

加藤はしばらく黙って食べていた»それから思い出したように:“実は私も、あの辺りのマンションに一度だけ見学に行ったことあるんですよ”と言った:“バブルが終わった直後の話で、当時はまだ案内してくれる業者がいた”見学の部屋に通されて、眺めだけは本当に素晴らしかった”海が見えて、遠くに富士山のシルエットが見えて」でも、帰りに家賃の表を見て笑いました”自分には一生住めない場所だと思って”

総一は聞きながら煮物を一口食べた»加藤は続けた:“黒川さんは、どうして住もうと思ったんですか? あそこって、会社の役員とか、そういう人が住むところじゃないですか?

”総一は少しの間答えなかった»それから:「色々あってな」と言った»加藤はそれ以上聞かなかった»人間の距離感のある男で、踏み込まれたくない気配を察する能力がある»話題を変えて、夏のボーナスがどうなるかという話を始めた»

総一は聞きながら、弁当の最後の卵焼きを箸でつまんだ»甘い味がした»卵焼きを作ったのは今から30年以上前、総一の妻がまだ生きていた頃に覚えた味付けだ»妻は砂糖と醤油である割合で混ぜるやり方を使っていて、総一はその割合を体で覚えた»妻が死んでから13年»総一は同じ割合で自分の卵焼きを作り続けている»誰かに教えたことはない»大輝が子供の頃に食べたはずだが、大輝は料理をしない人間だったから、受け継がれることはなかった»加藤の話が続いていた»総一は相槌を打ちながら、卵焼きの味を舌の上に残した»

午後3時、事務所で書類整理をしていると、片倉がフロアに降りてきた:“今月の入荷件数の集計が遅れている”総一に向かって言った:“先週の時点で出してもらうはずだったものが、まだ届いていない”総一は顔を上げた:“先週の集計は、木曜日に提出した記憶がある”「データの提出ではなく、分析レポートの方です」と片倉は言った:“数字だけでなく、件数の増減の要因と改善案を添えて出して欲しいと、先月の会議で話しましたよね”総一は一瞬だけ考えた:その件の話し合いは確かにあった»ただ締め切りが今月末だと、総一は認識していた»片倉が今の時点で催促してくるとは思っていなかった:“週末までに出します”と総一は言った»片倉は小さく頷いたが、続けた:“黒川さん、全体の動きを把握していただくのが、今のポジションの仕事ですよ”数字だけ見ていてもダメで、なぜ件数が減っているのか、あるいは増えているのか、その背景を管理側が読んでいなければ、現場を動かせない”「分かっています」と総一は答えた»

片倉の言っていることは理解できる»問題は、総一には今それを落ち着いて分析するための時間と精神的な余裕が、夜に戻ってからほとんど残っていないことだ»40万円の家賃、増えていく借金、睡眠の浅さ、胃の不快感、どれも片倉には無関係の話で、説明しても意味がない»片倉はそれ以上言わずに事務所へ戻った»総一は書類に目を落とした»ペンを持つ手がほんのわずかだけ強く握られていた»それに気づいて、少しだけ力を抜いた»

5時に仕事が終わった»今日は残業を1時間だけ引き受けた:西田の報告書の確認と、来週の入荷スケジュールの下準備だ»残業代は1200円ほどになる»その1200円が、今の総一には無視できない金額だった»

6時過ぎに倉庫を出て、駅へ向かう道を歩いた»夕方の横浜の空は、梅雨特有の曇り空だった»明りがぼんやりとした雲に反射して、空全体がほんのりと桃色に染まっている»綺麗な夕方だと思う気持ちが一瞬だけあった»しかしそれは本当に一瞬で、すぐに今夜の食事の段取りを考え始めていた»

帰りの電車でも席に座れた»分析レポートの構成を頭の中で組み立てながら、総一はうとうとした»完全に眠ることはなかったが、意識が2、3回薄れ、各駅で目を覚ますことを繰り返し、乗り過ごしはしなかった»

タワーマンションに戻ったのは7時を過ぎた頃だった»エントランスを入ると、ロビーには数人の住人がいた»エレベーターホールの方から、スーツ姿の男が2人、低い声で何かを話しながら通り過ぎた»総一はその会話の内容を聞こうとはしなかった»聞いても関係のない話だろうと思っていた»コンシェルジュカウンターには昨日の山根とは別の人物が座っていた»30代前半の女性で、総一が通り過ぎる時に軽く会釈した»総一も短く頭を下げた»

エレベーターは夕方のラッシュが終わった後だったため、それほど待たなかった»一基がすぐに来て、乗り込んだ»中に先客が一人いた»40代の男で、高価なブリーフケースを持ち、スマートフォンを操作していた»総一が35のボタンを押した時、その男が49を押した»エレベーターは静かに上昇した»総一は正面のドアを見ていた»鏡になったドアの表面に、自分と隣の男が小さく映っていた»同じエレベーターに乗っているが、同じ空間にいる気はしなかった»

35階で降りた»廊下を歩き始めた時、隣の部屋から人の声が漏れていることに気づいた»昨夜も音楽がしていた部屋だ»今夜は音楽ではなく、人が複数で笑っている声だった»特に大きくはないが、廊下にいると壁を通して低く伝わってくる»自分の部屋の前に来た時、総一はドアをかざすカードを出しながら、一瞬耳を済ませた»何かを話し合っているのか、あるいは単に酒でも飲みながら笑い合っているのか、内容までは分からない»ただ複数の人間が同じ空間で笑っているという事実だけが、壁を通して伝わってきた»

総一は自分の部屋に入った»部屋の電気をつけ、服を脱ぎ、ハンガーにかけ、部屋着に替えた»台所へ行き、冷蔵庫を開けた:昨日の残りはもう全部食べた»今日の弁当も空にした»残っているのは、卵が1個、豆腐の残りが少し、それとインスタントラーメンが2袋だ»今夜はラーメンにした»

湯を沸かしながら、総一はテーブルの上に置いてあるノートを開いた»家計の収支を毎月手書きで記録しているノートだ»軽装のある普通のノートで、月ごとに区切って数字を書き込んでいる»6月の欄を見た:収入は、今月の給与が23万2000円、それと先月の残業代の積み残し分が1万4000円»合計で24万6000円»支出は、家賃40万円、管理費と駐車場などの諸費用が3万2000円、食費が月に大体2万5000円、電車の定期代が1万1000円、光熱費が夏前の今月は3000円程度でまだ抑えられているが、夏に入れば倍以上になるだろう»差し引きすると、毎月22万円近い赤字になる»その赤字を、これまで老後のために積み立てていた定期預金を崩して賄っていた»6ヶ月で130万円以上が消えている»残りは少ない»残りがどのくらいかは、総一には分かっていた»分かっているから、あえてここに数字を書き込まなかった»書いてしまうと、あと何ヶ月で底をつくかが明確に見えてしまう»見えない方がまだ耐えられるという心理が、総一にもあった»

湯が湧いた音がした»総一はノートを閉じ、立ち上がった»ラーメンを食べながら、総一は倉庫の分析レポートの骨子をノートの別のページに書き始めた:4月から6月の入荷件数の推移»先月の入荷が前月比で7%減になっている»要因として考えられるのは三つある:梅雨前の在庫調整、取引先の発注サイクルの変化、それと燃料費の上昇による輸送コストの増加が影響して、一部の小口取引先が他業者に流れた可能性»三点を整理すれば、片倉が求めているものに近い形になるはずだ»書きながら、総一はラーメンを啜った»麺は少し伸びかけていた»

ふと、携帯電話を確認した»画面の上部を見た:電波のアンテナマークが一本だけ経っていた»いや、正確には消えたりついたりしていた»この部屋では電波が安定して入らない»最初に気づいたのは引っ越してきた翌日のことだった»窓際に近づけば多少増しになるが、それでも通話中に途切れることがある»今日は特に確認しなければならない連絡はなかったから、問題にはならなかった»しかし倉庫の仕事において、電話が繋がらない状況が何を意味するかは、総一には痛いほど分かっていた»

ラーメンを食べ終え、どんぶりを洗った»9時を過ぎた頃、固定電話が鳴った»固定電話を持っているのは、携帯が繋がらない場面に備えて引っ越してすぐに設置したものだ»倉庫の緊急連絡先にはこの番号も登録してある»受話器を取ると、倉庫の夜間担当の小倉から電話だった:“黒川さん、さっきから携帯に電話していたんですが、繋がらなくて”と小倉は言った»声にわずかな緊張があった»総一は立ち上がった:“何かあったか? ”「横浜に今夜入荷予定だった冷凍便が、事故の遅れで予定より早く到着することになった」当初の予定だった受け取り予定が、今夜11時に変わった»倉庫側で受け入れ準備が必要で、冷蔵庫の確認と当直のシフト調整を、判断できる人間が必要だった»小倉は言った»

“いつから連絡していた”と総一は聞いた:“7時半から”小倉は答えた»7時半、総一が帰宅して間もない時間だ»その1時間半、電話は来ていた»ただ総一の携帯に届いていなかった»総一は一瞬だけ目を閉じた:“今から動けるか? ”小倉に聞いた:“できれば、指示だけでも”小倉は言った:“現場での判断は自分たちでやるが、冷蔵スペースのどこを開けるかという決定権がないと動けない”

総一は判断した:“冷蔵の第3区画のBセクションを使え”先週搬出した分のスペースがまだ空いているはずだ»伝票は明朝に照合する»急ぎの確認は、小倉の判断で動いていい”「分かりました」と小倉は言って電話を切った»

受話器を戻した後、総一は椅子に座ったままでいた»問題は解決した»小倉が動けば、今夜の受け入れは対処できる»明日の朝に状況を確認して、必要であれば片倉に説明する»手順としてはそれだけだ»しかしい胃がじわりと痛んだ»痛みというよりも、鈍い感覚だ»鋭くはないが、しつこく残る»食後だから消化の途中なのかもしれない»あるいはラーメンのスープの塩分が多かったのかもしれない»総一はそう思って、コップに水を汲んで飲んだ»しかし痛みは引かなかった»

今日は何を食べたかを振り返った:朝は冷えたもやし炒めを少し、昼は弁当、夜はラーメン一杯»量は決して多くないが、食べていないわけでもない»問題は食事の量より、食事の状況だと総は感じていた:毎日何かを気にしながら食べている»家賃の計算をしながら、片倉の顔を思い浮かべながら、大輝のことを考えながら»胃は食べ物を消化するためだけに使われていない»水をもう一杯飲んだ»痛みは少し薄れた気がしたが、完全には消えなかった»

総一は寝る前に分析レポートの骨子をもう少し描こうと思っていたが、その気力が出なかった»ノートを閉じ、電気を消した»

11時を過ぎた頃、総一は眠りに落ちかけていた»その時、壁を通して音が来た»最初は低い振動のようなものだった»次第にそれが音楽だと分かった:重低音が中心の、テンポの速い音楽だ»音楽そのものより、低音の振動が壁を抜けて、総一の布団の下から伝わってくるような感覚がある»隣の部屋だ»

総一は目を開けた»天井を見た»暗い中で、隣からの振動がじんじんと続いている»夕方に笑い声が聞こえていた部屋だ»その人たちがまだいるのか、あるいはその後に別の人間が来たのかは分からない»ただ深夜11時過ぎに、壁越しに体に伝わるほどの音量で音楽をかけているのは事実だった»

総一はしばらく、このまま慣れるかどうかを待ってみた»慣れなかった»30分経っても音は続いた»総一は寝返りを打ち、耳を布団に押し付けてみた»重低音の振動は布団を通しても伝わってくる»12時を過ぎた»

総一は起き上がった»服を着た»それから廊下に出た»廊下は深夜の静けさの中にあったが、隣の部屋のドアに近づくと、音楽の振動が足の裏から伝わってきた»総一はドアをノックした»三回、はっきりと»音楽が止まる気配はなかった»もう三回ノックした»今度は少し強く»しばらくして、ドアが開いた»

出てきたのは、20代後半か30代前半と思われる男だった»背が高く、腕に刺青が入っていた»半袖のシャツから腕が見えていて、肘から手首にかけて模様が入っている»顔は赤く、酒が入っているのは一目で分かった»目が座っていた»男は総一を見た»上から下まで一度眺めた:“何だ、爺さん”と男は言った»総一は声を抑えて言った:“深夜なんで、音楽の音量を少し下げてもらえるかな”壁越しに振動が伝わってきていて、眠れないんだ»

男は少しの間、総一を見ていた»それから手に持っていたグラスの中身を、総一の顔に向けて、さっと払った»液体が顔に当たった»ウィスキーか何かの匂いがした»総一は反射的に目を閉じ、それからゆっくりと開けた»男はドアを閉めた:バンという音が廊下に響いた»中からの音楽は止まらなかった»

総一は廊下に立っていた»顔が濡れていた»シャツの胸の辺りも少し濡れた»総一は袖で顔を拭った»アルコールの匂いが鼻に残った»廊下の端から端まで、誰もいなかった»シャンデリアのような照明はなく、間接照明が低く床を照らしているだけだ»静かで、広く、清潔な廊下»

総一はしばらくそこに立っていた»怒りがないわけではなかった»ただその怒りがどこへ向かえばいいのかが分からなかった»あの男に怒鳴り返すことは物理的には可能だ»しかし深夜の廊下で騒ぎを起こして、何かが解決するとは思えなかった»警備員を呼んでも、夜間の警備員に何ができるかは分からない»

総一は自分の部屋に戻った»顔と首の辺りをタオルで拭いた»シャツを脱いで別のものに着替えた»布団に入った»音楽はまだ続いていた»眠れなかった»

翌朝、総一は昨夜より30分遅く起きた»体が重かった»睡眠が2時間かそこらしか取れなかった»目の下が引っ張られるような感覚がある»顔を洗っても、鏡の中の自分の顔色が昨日より悪かった»それでも時間通りに出発するために動いた»仕事に行けなくなることの方が、今の総一にとって深刻だ»

だが、出発前に一つだけやることがあった»総一はロビーへ降り、管理事務所のカウンターへ向かった»担当者は名札に白石とある男だった»30代前半で、黒いスーツをきちんと着こなし、髪を整えている»カウンターの内側に立ち、総一が近づくと少し前に出て:“どうぞ”と言った»

“隣室から、深夜に音楽がかなりの音量で流れていた”と総一は言った:“音楽の振動が壁越しに伝わってきて、眠れなかった”直接お願いしに行ったところ、飲み物を顔にかけられた»管理側から当該室に注意していただけないか? ”白石は頷きながらノートを取り出し、日時と部屋番号の確認をした»総一は答えた»白石はノートに何かを書き止めた:“記録しました”と言って、白石は総一を見た:“ただ…“と白石は続けた:“当該の部屋は、法人契約での入居で、VIPの方が使用されているお部屋になります”弊としても、個別に注意というのは直接は難しい立場でして”

総一は白石の顔を見た»白石の表情は穏やかで、どこにも感情が出ていなかった»表情だけを見れば誠実に対応しているように見える»しかし言っている内容は、法人契約の入居者には管理側から注意できないということだ:“つまり、どうすればいいと”総は言った:“マンションの規約に、騒音に関する記載があります”もし継続的な問題があるようであれば、書面でのご申告をいただければ、検討の材料になります”と白石は言った»書面で申告すれば検討の材料になるという言い方は、書面がなければ何もしないという意味でもある»

総一は少しの間、何も言わなかった»白石の視線が一瞬だけ下に動いた»総一の服装を見たのかもしれない»昨日のスーツの袖口を»極く短い視線の動きだったが、総一はそれを感じた»昨日の朝のコンシェルジュの山根と同じ目の動きだった»

“分かりました”と総一は言って、カウンターから離れた»ロビーの床を歩きながら、総一は靴の音を聞いた»大理石の上を革靴のかかとが静かに叩く音»それが、この建物全体に対して自分は一人で立っているという感覚と一致しているように思えた»

自動ドアを出た時、携帯電話が振動した»見ると、銀行からのメッセージだった:口座残高のお知らせという件名で、数字が書かれていた»総一は立ち止まった»その数字は、来月の家賃40万円と諸経費を払えば、手元にほぼ何も残らない金額だった»給料日までの食費と電車代を引けば、マイナスになる»

6月の朝、人が動き始めた町の入り口で、総一は携帯を握ったまま動かなかった»朝の光がビルの谷間からまっすぐに差し込んでいた»温かい光だった»しかし光の中に立っていても、体の内側が冷えていくような感覚は止まらなかった»総一はゆっくりと携帯をポケットに入れた»それから駅の方へ歩き始めた»足取りは変わらなかった»早くもなく、遅くもなく、65年間そうしてきたようにただ前へ進んだ»しかしその一歩ごとに、何かが少しずつ削れていくような感覚があった»音も、痛みも、劇的な変化もない»ただ削れていく»それがどこまで続くのかを、総は考えないようにしながら、人の波の中に溶け込んでいった»

8月に入った最初の週、横浜は異常な暑さに見舞われた»気象庁の発表によれば、2026年の夏は観測史上でも類を見ない高温が続いており、横浜市内でも最高気温が37度を超える日が週に3、4日は続いていた»街中では熱中症の注意を呼びかける放送が流れ、コンビニから麦茶のペットボトルが午前中に売り切れることも珍しくなかった»

35階の部屋の朝は、熱から始まった»目を覚ますと同時に空気が重かった»梅雨が開けて以来、この部屋の空気の質が変わっていた»開けた窓から入ってくる風は外の熱を含んでいて、涼しさとは遠い»窓を閉めれば風が止まる»開ければ熱が入ってくる»どちらを選んでも、逃げ場がなかった»

黒川相一は布団の上で仰向けになったまま、天井を見た»すでに額に汗が滲んでいた»時計を確認する前から、体が今日も暑い日になると告げていた»この部屋は南向きだった»35階という高さから、南に向いた窓は、遮るものが何もないため太陽光を正面から受け続ける»午前中からガラスに光が当たり始め、昼に向けて室温がじりじりと上がっていく»床から天井まで届く大きな窓は、本来なら売りにすべき眺望のための設計だが、夏のこの時間帯には巨大な熱源と変わらなかった»

総一は起き上がり、Tシャツの首元を引っ張って空気を通した»エアコンのリモコンが壁のそばにかかっていた»この部屋に備えつけられたものだ»機種は国産の比較的新しいモデルで、性能は高い»スイッチを一つ入れれば、この熱は消える»総一はリモコンを見た»それから視線を外した»先月の電力会社からの請求書が引き出しにある»まだ本格的な夏に入る前の7月分で、窓を開けていただけなのに5000円を超えていた»ここは高層階で、一般的なマンションより外気にさらされる面積が多く、エアコンを使えば消費電力が跳ね上がる»最新式のインバーターエアコンが省エネだとしても、35階の南向き、床から天井まで全面ガラスの部屋で24時間使えば、夏の電気代は軽く3万円を超える»総一の入居者との廊下での立ち話で知っていた»3万円は、今の総一には払えない»そういう計算が、リモコンに手を伸ばす度に頭を制止した»

洗面台に向かい、蛇口をひねった»水が出た»しばらく手で受けてから顔を洗った»水道水は冷たくなく、ぬるかった»貯水槽の中に溜まった水が外気に温められているのだろう»冷たい水で顔を洗いたいという単純な望みが、35階では叶わなかった»

鏡を見た»7月よりも顔が細くなった気がした»食事の量が減っていたからだ»食費を削るために、一日2食にすることが多くなっていた»弁当の量も減らした:おにぎり一個と野菜の炒め物を少し»それで昼を乗り切り、夜にインスタントラーメンか豆腐を食べる»体は動いているが、消費するエネルギーに対して摂取量が追いついていない»それでも倉庫の現場では、誰にも気づかれないように動いていた»フォークリフトの誘導も、重い荷物の移動も、総一は変わらずこなしていた»体が慣れているということもあるが、弱っているところを見せることへの抵抗感がそれ以上に強く働いていた»

着替えを選んだ»今日は土曜日で、仕事は休みだ»スーツを着る必要がない日は、古いポロシャツとズボンを着る»それが総一の休日の服装だった»ポロシャツはもう5年以上着ているもので、首元の縫い目が少し解れているが、洗えば着られる»

台所へ行き、冷蔵庫を開けた:卵が1個、昨日買ったキャベツの半玉、醤油と塩»それだけだった»総一は卵を手に取り、フライパンに割り入れた»コンロの火をつけ、目玉焼きを作った»キャベツを包丁で刻み、塩を少し振った»それが今日の朝食だった»

食べながら、窓の外を眺めた»午前8時の横浜の空は、雲一つなかった»青さが濃く、その中に太陽が白く輝き、焼いている»眼下に広がる町はすでに熱を帯び始めていた»遠くのビル群の輪郭が、陽炎のようにわずかに揺れて見えた»美しい朝だった»総一はその事実と、自分の体が感じる暑さと、もうすぐ室温がどこまで上がるかという計算が頭の中で同時に並走するのを感じながら、キャベツを箸でつまんだ»

午前10時を過ぎた頃から、部屋の温度が明らかに上がり始めた»窓ガラスに直射日光が当たり、ガラス越しの空気が熱を帯びた»壁に触れると金網のように熱いのに、室内の空気だけが重く、鈍かった»温室効果という言葉を、総一はこの時初めて体感として理解した»閉じたガラスの内側に、熱が溜まっていく»出口がない»

総総は上半身の服を脱いだ»裸の上半身で、手作りの団扇を動かした»団扇はコンビニでもらった広告チラシを骨子にして作ったものだ»風は出るが、その風自体が温かいため、涼しくなるというよりも同じ暑さを動かしているだけという感覚があった»

テーブルの上には、片倉から出された追加の業務改善報告書のデータが置いてあった»今月中に仕上げるよう言われているものだ»数字の分析と改善案のまとめを、休日を使って進めようと思っていた»しかし紙に書こうとすると、手のひらの汗が紙を湿らせた»ペンを持つ手が滑りと塗れる»総一は和紙を左手で抑えながら右手でペンを動かしたが、汗が乾かないうちにまた滲んでくる»しばらく書いてやめた»熱の中で細かい数字と格闘する、集中力が続かなかった»

これは根性ではないと総一は思った»体の問題だ»人間は体温が上がると認知能力が落ちる»それはどんな人間でも同じだ»ただ今の自分にはその体温を下げる手段がない»

手ぬぐいを水で濡らし、首に当てた»一時的に涼しかった»3分ほどで手ぬぐいが体温で温まった»また濡らしに行った»それを繰り返しながら、総一は午前中を過ごした»

昼前に、総一は洗濯をした»コインランドリーを使うほどの量ではなかったため、浴槽で手洗いした:スーツのシャツ2枚と下着、靴下»丁寧に洗い、絞って、干し場を探した»このマンションには、ベランダへの洗濯物干しを禁止する規約がある»入居時に渡された規約書の中に、“外観の統一と美観維持のために、バルコニーへの洗濯物の設置を禁ずる”という一文があった»高層タワーマンションではよくある規定らしいが、その規定が実際の生活にどういう意味を持つかを、総一は引っ越してきてから初めて理解した»干す場所がなかった»

部屋の中にハンガーをかける場所を探した»カーテンレールにかけることも考えたが、この部屋のカーテンレールはガラス面の上部にあるため、直射日光がそのまま当たる»洗濯物は乾くかもしれないが、日光で生地が痛む»結局、浴室の中にハンガーをかけた»浴室乾燥機がついているがあれも電気を使う»総一は換気扇だけを回して、扉を開けておいた»浴室の中は湿気があり、外と比べてそれほど乾燥しているわけでもないため、洗濯物が乾くまでに時間がかかった»昼過ぎに確認しに行くと、シャツはまだ湿っていた»夕方まで待ったが、首の縫い目の当たりだけが最後まで乾き切らなかった»翌朝、そのシャツを着て倉庫へ行く時、首の辺りがわずかに湿っていた»誰かに気づかれるほどではないが、自分では分かった»生乾きの布地の匂いが、一日中うっすらと鼻についた»

8月の平日、倉庫での仕事は続いていた»現場は大型扇風機がいくつか回っていたが、搬入口を開けると外の熱気が流れ込んでくるため、涼しいとは言い難かった»作業員たちは汗をかきながら動き、休憩時間に一人ずつ冷たい飲み物を取りに行く»総一も自分用の水筒を自作するようになっていた:2Lの水筒に麦茶を入れて持ってきた»麦茶は100円程度の茶葉で自分で煮出したものだ»

その日の昼休憩、総は業務改善報告書の続きを書いていた»休憩室は冷房が効いていた»倉庫全体を冷やすことはできないが、休憩室だけは設定温度が管理されている»総一はその空間に入った時、全身の毛穴が一斉に落ち着くような感覚を覚えた»冷気が皮膚に触れる感覚を、ここまではっきりと意識したのは初めてのことだった»

加藤が隣に座ってきた»今日の加藤は白いタオルを首に巻いていた:“黒川さん、家は涼しいですか?

”と加藤は言った:“タワーマンションって、全館空調とか入ってるんじゃないですか? ”「共有部分はある」と総一は答えた:“廊下やロビーは冷えている”「部屋は? 」と加藤は聞いた»総一は少し考えてから:“エアコンを使っている”と言った»嘘だった»ただエアコンを使っていないといえば、その理由を説明しなければならない»説明するほど、話が広がる»加藤は:“そうですか”と言ってから:“うちなんてエアコン一台しかないから、子供たちがリビングから離れないんですよ”と笑った»総一は短く相槌を打った»

報告書の続きを書きながら、総一は冷房の当たる場所を選んで座っていた»休憩時間が終わるのが惜しいと感じたのは、これが初めてだった»仕事に戻るのが嫌だというのではない»この冷えた空気から出ることが惜しかった»

8月に入ってから、片倉との関係に微妙な変化が生まれていた»変化と言っても、表だった何かがあったわけではない»片倉が直接何かを言ったわけでもなく、総も特別な行動を取ったわけでもない»ただ目があった時の片倉の視線の留まり方が、少し変わった気がした»以前は短く確認するような目の動きだった:指示を出す立場の人間が現場の状況を把握するための視線だ»しかし最近は、もう少し長く止まる:品定するような、あるいは何かを図るような眼光がある»総一はそれを感じながら、変わらず仕事をこなしていた»

報告書は、期日通りに提出した»片倉からのフィードバックは短かった:“数字の部分は問題ない”ただ、改善案の具体性が薄いというものだった»総一は一週間かけて書き直した»二度目の提出に対しては、特に何も言われなかった»それが承認なのか、問題はなかったが関心を持つほどでもないということなのか、総一には判断できなかった»ただ追加の指摘がなかったという事実だけを受け取って、次の仕事に移った»

片倉という男を、総一は嫌いではなかった»正確に言えば、嫌う気力がなかった»嫌うためには相手に一定の関心を持ち続ける必要がある»その余力が、今の総一にはなかった»

その週の金曜日の夜、10時過ぎに隣の部屋から音が始まった»先月の件から、総一はその部屋の音の出方に敏感になっていた»音楽が始まると、まず低音の振動が床から伝わり、次第に壁全体がうっすらと震えるような感覚になる»この部屋の壁材が防音に適していないことは、引っ越した当初から薄うす感じていたが、今では確信になっていた»高層タワーマンションというものは、建物全体の重量を抑えるために、隣室間の壁に軽量の素材を使うことが多い»見た目は分厚く立派に見えるが、実態はコンクリートではなく、軽量ボードに石膏を重ねたような構造になっている場合がある»遮音性能は外見から想像するよりずっと低い»総一はベッドの中でそれを感じながら、目を開けたままでいた»

今夜も行くかと考えた»先月、直接ドアを叩いて、飲み物を顔にかけられた»白石に相談しても、法人契約のVIPには手が出せないと言われた»その後総一は、白石に言われた通り、書面による書類を作成して管理事務所に提出した»返答は一週間後で:“当該住居者への書面通知を送った”というものだった»その後、音が止まったかといえば、止まっていない»頻度が少し減ったかもしれないが、完全になくなってはいなかった»今夜またドアを叩きに行けば、何が起きるかは分からない»前回と同じことが起きる可能性がある»あるいはもっと悪いことになる可能性もある»

総一は行かないことにした»それは正しい判断だと自分に言い聞かせながら、布団を顎まで引き上げた»暑い夜だったが、毛布の代わりに薄い布団をかけていた»タオルを耳のそばに置き、両耳を軽く覆うようにした»完全には防げないが、低音の振動を少し和らげる気がした»一時間ほどして、音が止んだ»総一はそれから眠ることができた»

眠りに落ちる直前、こんなことがいつまで続くのかという問いが頭を掠めた»答えは出なかった»答えを考える前に、意識が落ちた»

翌朝、総一は再び管理事務所のカウンターへ向かった»今日の担当は、白石だった»総一を見ると“また来たか”という感情の気配を一瞬だけ表情に載せてから、すぐに消した»職業的な平静さで:“どうぞ”と言った”

“昨夜も、また音楽の騒音があった”と総一は言った:“書面で申告してから、すでに三週間が経つ”改善が見られないが、管理としてどう対応するつもりか? ”白石は細い首をわずかに傾けて:“申し訳ありません”とまず言った»それからノートに何かを書き始めた:“状況を確認して、また連絡します”と言った»総一は少しの間待ってから:“具体的に、どういう対応をするか教えて欲しい”連絡するということの中身が知りたい»白石は少し困った顔をした:“先方に再度書面で通知をお送りするというのが、現状でできる最善です”と白石は言った:“法人契約の場合、直接お電話や訪問でのご対応は弊社の立場では難しく、書面でのやり取りが正式な手順になります”

“書面を送って、先方が無視したらどうなる”と総一は聞いた»白石は少し間を置いた»その間に、総一のことを観察しているような目の動きがあった»総一の服装を確認するような視線ではなく、今度はこの状況をどこまで長引かせる人間かを図るような目つきだった:“規約上の手順が一定の段階を経た場合、最終的には契約解除の協議に進む場合もあります”と白石は言った:“ただそれには、相応の時間と手続きが必要です”

“いつ頃になるか”と総一は聞いた»白石は正直に言った:“最短でも、半年から一年はかかります”

半年から一年»総一は黙ってその言葉を受け取った»その間、自分はどこに住んでいるのか»この部屋にいる限り、毎月40万円を払い続ける»騒音は改善されない可能性が高い»電波は入らない»夏の室温は制御できない»それが半年から一年続く»

その時、総一の携帯電話が振動した»一瞬だけ画面を見た»銀行からの通知ではなかった»倉庫関係の番号だった»総一は白石に向かって短く礼を言い、カウンターから離れながら電話に出た»小倉からだった:“今朝の入荷便で、伝票の照合にずれがある”確認して欲しいという内容だった»総一は倉庫の方向を向き、内容を聞きながらロビーのソファの隅に腰を下ろした»白石はカウンターの内側で別の作業を始めていた»総一と白石の距離は10mもなかったが、二人の間には何の会話もなかった»それぞれが別の問題を抱えて、別の方向を向いている»

倉庫に着くと、すでに現場は動いていた»小倉が問題の伝票を持って近づいてきた»20代後半の男で、真面目な性格だが、どこか苛立ちやすい傾向がある»今日も顔に緊張が出ていた»伝票と現物の数字を照合した:コンテナに記載されている品番と、到着荷物の品番が一部合致していなかった»確認すると、出荷元の入力ミスだった»現物は正しく届いているが、書類上の数字がずれている»この場合は、書類を訂正して、双方の担当者に確認を取り、ずれが生じた経緯を記録に残す必要がある»総一はその手順を一つ一つ説明した»小倉は頷きながらメモを取った»処理自体は難しくない»ただ手間がかかり、相手方の確認を取るための電話が何本か必要になる»

総一は自分で電話し、先方の担当者と話した»先方は最初、ミスを認めることに抵抗を示したが、総一が“記録として残す必要がある”旨を淡々と説明すると、最終的に応じた»処理に一時間半かかった»その間、現場では別の作業が進んでいた»無藤が指揮して、午後の入荷の受け入れ準備を整えた»総一が戻った時、現場は問題なく動いていた»無藤は総一の姿を見て短く頷いた»総一も頷き返した»こういうやり取りで十分だと、総一は思った»言葉が少なくても、互いに仕事を理解している人間同士の間には、必要なものが通じる»

昼の休憩時間»総一は冷房の効いた休憩室で、弁当を食べた»今日の弁当は、白飯と冷蔵庫に残っていた昨日の金平ごぼうを詰めたものだった»冷えた状態でも食べられないことはないが、ごぼうが少し硬くなっていた»柏木が対面に座った»入社4ヶ月目になる柏木は、最近では伝票の処理を一人で任せられるようになっていた:“黒川さん、今日の件、ありがとうございました”と柏木は言った:“私が最初に気づいた時、どう対処すればいいか分からなくて”「気づいたのが早かった」と総一は言った:“問題は、早く発見するほど対処が簡単になる”柏木は少し嬉しそうに笑った»それからお弁当を食べ始めた»手作りの弁当らしく、いくつかのおかずが丁寧に詰めてあった»総一は自分の金平ごぼうを噛みながら、柏木の弁当には触れなかった»比べる気持ちがなかったわけではないが、比べても意味がなかった»

柏木が聞いてきた:“黒川さんは、どのくらいこのお仕事をされているんですか?

”「20年少し」と総一は答えた»柏木は少し驚いた顔をしてから:“すごいですね”と言った:“20年”「私なんてまだ4ヶ月なのに、もうへとへとで」「最初はそういうものだ」と総一は言った:“慣れる”柏木は:“そうですね”と笑って、食べ続けた»総一は短いやり取りの後、また沈黙に戻った»柏はそれを不自然に思う様子がなく、自分の弁当を静かに食べていた»こういう人間と並んでいると、馬の空気が楽だと総は感じた»多くを話さなくても、馬が成立している»

仕事を終えたのは午後5時だった»今日は残業を断った»理由は、仕事の量ではなく体調だった»午後から胃の当たりが重く、食欲がなかった»昼の弁当も半分ほどしか食べられなかった»

駅へ向かう道で、総一は自動販売機の前で立ち止まった»冷えたお茶のボトルが並んでいた»総一は財布を取り出し、小銭を確認した»130円があった»ボタンを押した»ボトルが落ちてくる音がした»取り出して、キャップを開けて、一口飲んだ»冷えたお茶が食道を通り、胃に落ちていく感覚があった»暑い日の冷たい飲み物というのは、これほど体に染みるものかと総一は思った»130円のお茶が、今この瞬間とても貴重なものに感じられた»

帰りの電車は混んでいて、座れなかった»吊り革を掴みながら、総一は鞄の重さを感じ続けた»電車の揺れに合わせて、胃の辺りがわずかに動く感じがする»叩いたような痛みではなく、何かを握られているような鈍さだ»これが続くようなら、週末に病院へ行くべきかもしれない»しかし病院代も、今は慎重に考えなければならない»そういう計算が、体調の悪い時にも頭を動かしていた»

電車を降り、タワーマンションへ向かう道を歩いた»夕方の熱がまだ地面に残っていた»アスファルトから熱気が立ち上り、足元から暖かかった»タワーマンションのロビーに入ると、冷気が全身を包んだ»空調は効いている»床の大理石が冷たく、廊下の空気が整えられている»総一は一瞬だけ立ち止まり、その冷気を体に吸収した»

エレベーターで35階へ上がった»廊下も冷えていた»しかし自分の部屋のドアを開けた瞬間、熱気が顔に当たった»直射日光を受け続けた部屋の空気が、出口を失って溜まっていた»温室の中に入ったような、暑さと湿気が混ざった空気だ»総一は一歩引きたい衝動を抑えて、中に入った»窓を開けた»外の空気が入ってきたが、夕方の外気もまだ33度はあるため、涼しくなるわけではなかった»ただ溜まった熱を外へ逃すことはできる»

総一はシャツを脱ぎ、タオルで体を拭いた»倉庫での仕事の後でも、電車でも汗をかき、体が汗と熱で重かった»シャワーを浴びたかったが、ガス代のことを考えると、水洗いで済ませることが多くなっていた»今日もそうした»冷たい水で体を流すと、一時的に体が引き締まるような感覚があった»

着替えを着て、台所に立った»今夜の食事を考えた»冷蔵庫に残っているものは少ない:残り一袋のインスタントラーメンと、豆腐の小さなパック、それとスーパーで見切り品になっていた茄子が一本ある»茄子を炒めて、豆腐と一緒に食べることにした»コンロの火をつけた»火をつけた瞬間、台所の空気がまた少し温まった»調理中は室温が上がる»それが嫌で、夏になってから簡単な調理しかしなくなっていた»火を使う時間を最小限にしようとしていた»5分以内に作れるものしか作れないという制約が、食事の選択肢をさらに狭めていた»

茄子を薄切りにして、フライパンに少量の油を敷いた»炒めながら醤油を垂らし、豆腐を箸の先で崩して並べた»小鉢で皿に移した»テーブルについて食べ始めた»茄子は柔らかく、悪くなかった»しかし半分ほど食べたところで、胃が重くなり箸が止まった»午後からの鈍痛がまだ続いていた»総一は箸を置いた»食欲がないのか、疲れているのか、それとも臓器のものに問題が起きているのか、自分では判断できなかった»皿を流しに持っていき、残した茄子と豆腐をラップに包んで、冷蔵庫に戻した»明日食べられるかどうかは分からなかったが、捨てるには惜しかった»

夜、総一は窓際の床に座った»ベランダには出られない»管理ではバルコニーへの日常的な滞在は問題ないとされているが、外に物を置いてはいけない»洗濯物を干すこともできない»だから総は、窓ガラスに触れるくらい近い位置に座り、外の景色だけを見ていた»夜の横浜は、やはり美しかった»道路の光、港の光、遠くのビル群のシルエット»それらが夜の空気の中に散らばっていた»35階から見る眺めは、この部屋で唯一金を払っている価値があるものとして残っていた»

総一は煙草を一本取り出した»火をつけ、煙を吸った»タバコの煙が窓ガラスの内側を流れ、光の方へ向かうように見えた»実際には壁に沿って上に流れているだけだが、暗い中でその動きを見ていると、どこかへ向かっているように見えた»

大輝のこと考えた»北海道にいるということは分かっている»それ以上の情報はない»電話をかけようと思ったことは何度かあった»しかしかけて、何を言うのか»金を返せと言っても、今の大輝に返せる見込みがないことは分かっている»来いと言っても来ないだろう»怒鳴っても、何も変わらない»だから総一は電話をかけなかった»

光太は、今頃どこにいるのだろうとは思う»弓恵が引き取ったというが、弓恵とも連絡が取れていない»離婚の混乱の中で、縁の関係も途切れた»3歳だった光太は、今年の春に4歳になっているはずだ»何を喋るようになったのか、何を食べているのか、総一には分からない»

タバコが短くなった»空き缶の縁に押し付けて消した»もう一本かと思い、やめた»残りの本数を頭の中で数えた:あと7本»今週一杯持つかどうかだ»新しいのを買いに行くお金は確保できているが、使う量を抑えるようになっていた»

体が疲れているのに眠れない夜というのは、思考が余計なところへ流れていく»総一はそれを知っていた»知っているから、考えないようにしようとする»しかし考えないようにすることが、却って疲弊を増す»窓の外を見続けた»町の灯りは変わらなかった»誰かが眠っても、誰かが泣いても、誰かが追い詰められていても、町の灯りはそのまま輝き続けている»それが当たり前のことだと分かっていたが、今夜は特にそれが無関心というものの形として目に映った»

真夜中の12時過ぎ」総一は布団に入った»眠れるかどうかは分からなかったが、横になった»今夜は隣室の音がなかった»静かだった»しかし胃の重さが続いていた»横になると胃が少し楽になる気がしたが、今夜は逆だった»仰向けに寝ると、何かが喉の方に向かって上がってくるような感覚があった»胃酸が上がっているのかもしれない»総一は体を横向けにした»少し楽になった»しばらくして、胃がきゅっと痛んだ»鋭くはない»しかしはっきりと痛みだと分かる感覚だった»総一は目を開けて、天井を見た»暗い天井に、窓の外からの光がわずかに差し込んでいた»深呼吸した»痛みは続いた»波のように強くなり、少し引き、また来た»総一はしばらくそれに耐えながら、病院に行くタイミングを考えた:今夜は無理だ»救急を使うほどの状態ではない»明日か明後日か、週明けに有給休暇が使えるかどうか職場に聞く必要がある»そういうことを考えながら、痛みに付き合って横になっていた»一時間ほど経つと、痛みが引いた»引いた後に強い疲労感が来た»体が一気に重くなり、目が閉じた»

眠りに落ちる直前、総一は今夜食べた茄子と豆腐の残りがまだ冷蔵庫にあることを思い出した»明日の朝、それを食べよう»そういう小さな具体的なことを考えることで、今夜という夜をとりあえず終わらせることができる»それだけのことか、今の総一には必要だった»

翌朝、目を覚ました時、胃の痛みは消えていた»ただ胃に昨夜の痕跡のような弱々感が残っていた»完全に正常という感覚ではなく、何かが落ち着いていないような感じがする»洗面台で口を濯いだ時、吐き出したものにわずかに血の味がした»総一は立ち止まった»もう一度濯いだ»味は薄れたが、完全にはなくならなかった»硬いものを食べたわけでもなく、口の中を噛んだ覚えもない»歯茎を確認したが、出血している様子はなかった»胃かもしれないと総一は思った»病院に行くことを、今度は具体的に考えた:内科か、消化器科か»近くにどこがあるかを確認しなければならない»この辺りに長く住んでいるわけではないため、医療機関の情報を持っていなかった»

今日は月曜日で、平日だ»倉庫の仕事がある»総一は判断した:今日の仕事を終えてから、夕方に近くのクリニックを探していく»緊急ではない»ただ放置はしない»それだけを決めて、朝の支度を始めた»

冷蔵庫から昨夜の茄子と豆腐を出した»冷えたまま器に盛り、電子レンジで温めた»食べ始めると、胃の辺りがわずかに重くなった気がした»量を減らして、半分で箸を止めた»残りをラップに包み、また冷蔵庫に戻した»スーツを着た»袖口の縫い目を確認した»今日は特に問題がなかった»IDカードをポケットに入れた»それを指先で確認してから、玄関を出た»

廊下はいつもと同じだった»間接照明が低く床を照らし、カーペットが足音を吸収し、人の気配がない»エレベーターホールにつき、ボタンを押した»今日も朝の通勤が始まる»倉庫へ行き、伝票を確認し、現場を動かし、片倉の視線を受け、帰宅する»夜に病院により、診察を受ける»それだけのことだ»

エレベーターが来た»扉が開くと、中に人が3人いた»誰も総一を見なかった»総一も誰を見なかった»1階のボタンを押した»扉が閉まった»上昇が始まる»胃の辺りが揺れに合わせてわずかに動いた»総一は手すりを軽く掴み、前を向いたまま立っていた»35階から1階まで、行き交うこの垂直の移動に、総一はいつの間にか何かの意味を感じなくなっていた»高さを誇る建物の中で、上でも下でも、どこかへ流されながら、一日がまた始まろうとしていた»

その週の月曜日の夜、総一は倉庫から帰る途中に、近くの内科クリニックに立ち寄った»駅から徒歩3分のところにある小さなクリニックで、玄関に手書きの看板が出ていた»夕方6時まで受付という表示を確認してから、入った»待合室には4人の患者がいた:老人が2人、若い女性が1人、子供を連れた母親が1人»総一は受け付けで名前と生年月日を告げ、症状を簡単に伝えた»30分ほど待って、診察室に呼ばれた»

医師は60代の男で、白い医師の袖口が少し汚れていた»話し方は短く、要点だけを取り出すような話し方だった»総一は症状を説明した:胃の重さが数週間続いていること、先週から胃酸が上がり始めたこと、吐き出したものにわずかに血の味がしたこと»医師は腹部を触診し、問診表に目を通した:“胃カメラをやりましょう”と言った:“症状の組み合わせからすると、胃潰瘍か、逆流性食道炎の可能性がある”どちらにせよ、内視鏡で見ないと確定できない”

“費用はどのくらいになるか”と総一は聞いた»医師は少し間を置いた:“健康保険が3割負担なら、検査と診察合わせて15000円から2万円程度です”と言った»総一は頷いた:“来週の水曜日に予約が取れますよ”と医師は言った:“それまでの間、胃酸を抑える薬を出しておきます”空腹の状態が長く続かないよう、少量でも食べる習慣をつけてください”それと、アルコールと喫煙は控えるように”

その最後の一言が、総一の頭に残った:喫煙を控えるように»30年以上吸い続けてきた煙草を、今更やめることができるかどうかを考えた»できないとは思わないが、やめることで何かが変わるほど、今の状況に余裕があるかどうかもまた別の話だった»

薬を受け取り、クリニックを出た»外はもう暗くなっていた»街灯が灯り、タクシーが通り過ぎた»総一は袋に入った薬の名前を見た:胃酸分泌抑制薬、それと胃粘膜保護薬の2種類だった»一週間分で1600円だった»

9月に入った»夏の最も過酷な時期は過ぎたが、気温はまだ30度前後が続いていた»部屋の温度が以前ほど上がらなくなり、それだけは少し楽になった»ただし楽になったのは体の話だけで、財布の状況は夏の間に着実に悪化していた»総一はノートを開き、9月の収支を書き始めた:給与の手取りが23万2000円»先月の残業代が積み上がって、今月は合計で24万円を少し超える予定だった»しかし支出の額は変わらなかった:家賃40万円、管理費が3万2000円»それだけで収入を大幅に超える»定期預金の残高を確認するために、銀行のアプリを開いた»数字を見た»総一は画面を閉じた»あと何ヶ月もつかの計算はしなかった»この数ヶ月、計算の度に出てくる答えが同じだったからだ:このままでは底をつく»それが分かっていて、変えられる部分はすでに削り終えた:食費は最低限まで落とした»交際費はゼロだ»医療費は削れない»交通費も削れない»残った選択肢は、収入を増やすか、この部屋を出るか、どちらかだ»この部屋を出るためには、次の家を先に決めなければならない»仕事をしながら部屋探しをする時間と体力があるかどうか»それに、今の指揮金が戻ってくるかどうかは契約条件による:敷金が発生する可能性もある»

収入を増やす方法として、副業を考えたことがあった»しかし何ができるか»65歳で、週5日の倉庫の仕事をこなして帰ってくれば、胃の調子が悪く、食欲がない日が続いている»体力はある»しかし別の仕事をする時間的な余裕が具体的にどれだけあるかと問われれば、自信を持って答えることができなかった»ノートを閉じた»閉じるたびに、ノートが一冊終わったら、その先に何があるのかという問いが浮かぶが、総一はそれを意識的に追わないようにしていた»

9月の中旬、総一はスマートフォンのブラウザを開いた»検索窓に打ち込んだのは:“急ぎの資金調達”という言葉だった»画面にずらりと結果が並んだ:消費者金融の広告、銀行カードローンの案内、それとその下に“審査なし・即日”という文字が並ぶサイトが複数表示された»総はそれらを一つ一つ開いて読んだ»消費者金融のいくつかは、65歳以上への融資を制限していた»定年退職後の収入が不安定と見なされるためだ»総一はまだ働いているが、雇用形態が嘱託社員であることが、審査を通りにくくする可能性がある»銀行のカードローンはさらに審査が厳格で、申し込みから結果が出るまでに数日かかる»今月の家賃の支払い期限は月末だ»間に合わない可能性があった»残ったのは、画面の下の方に並んでいたサイトだった»

総一はしばらくその画面を眺めていた»こういった業者のことは、社会問題として報道されているのを何度か耳にしたことがあった:利息が法外に高い、返済できなくなると脅しに来る»一度手を出すと抜けられなくなる»そういう話だ»しかし今、総一の手元にある選択肢の中で、今月末の支払いに間に合う方法として現実的なものが、これしか残っていなかった»正規の金融機関が通らないなら、通してくれるところを探すしかないという思考の流れは、追い詰められた人間が必ず辿る道だ»総一はそれを知っていた»知っていながら、同じ場所に来てしまっていた»

サイトの一つにアクセスした:“個人資金サポート”という名前のサイトで、デザインは地味だが、問い合わせ先の電話番号が大きく書いてあった»利息については明記されていなかった»申し込みフォームがあり、希望額と連絡先を入力する欄があった»総一は画面を閉じた»立ち上がって、台所へ行き、水を一杯飲んだ»それから戻ってきて、また座った»画面をもう一度開いた»

翌日の昼休み、総は倉庫の休憩室ではなく、建物の外の日陰に出て、電話をかけた»呼び出し音が三回鳴ってから、男の声が出た»低く、事務的な声だった»希望額と、現在の状況を聞かれた»総は、家賃と来月分の一部を確保するための金額だ»月収については、嘱託が安定して23万円程度あると説明した:“確認がいくつかあります”と男は言った:“銀行口座の写しと、在職証明書に相当するものを用意できますか? ”在職証明書は職場に頼めば出てくる»銀行口座の写しも問題ない»総一はそう答えた»

“利息はいくらになるか”と総は聞いた:“月利で1割5分です”と男は言った»総一は計算した:50万円の月利1割5分は、月に7万5000円の利息だ»3ヶ月借りれば、元本を超える»これは違法だと、知識として知っていた:出資法の上限金利を大幅に超えている»しかし今ここで法律の話をしたところで、この男が引き下がるはずもなく、総一が使える別の手段があるわけでもなかった:“分かりました”と言った»

翌日、書類を送り、翌日の夕方に口座に50万円が振り込まれてきた»振り込みの通知を見た時、総一は安堵よりも先に、重たいものが背中に乗ったような感覚を覚えた»これは解決ではない»時間を買っただけだ»として買った時間の代償は、毎月7万5000円ずつ増えていく»それでも今月の家賃は払えた»管理費も払えた»生きているという実感がこういう形で訪れることを、総一は30歳の頃には想像したことがなかった»

借金をしてからの数週間、総一は倉庫での仕事の密度を上げた»残業の申し出があれば、断らなかった»時間外の呼び出しがあれば、応じた»週に一度の土曜日出勤を引き受けた»体を動かしていれば、頭が余計なことを考える時間が減る»それと、わずかでも残業代が積み上がれば、返済の足しになる»どちらの理由も、同じくらい本当のことだった»

ある水曜日、冷凍コンテナの受け入れがあった»3トン近い重量のパレットが四つ、コンテナから下ろされる作業だった»フォークリフトが一台故障中で、手動の台車で動かさなければならなかった»総一は作業員の西田と共に、台車を操作した»西田は重いものを扱うことになれていなかった»台車の押し方が弱く、重心の取り方がずれていた»総一は隣に立ち、荷物の位置と角度を指で示した:“こうやって、こちらに体重をかけろ”と言いながら、自分でも動いた»パレット四つを所定の場所に移動させるのに、40分かかった»作業が終わった時、西田は息を切らしていた»総は汗をかいていたが、息は乱れていなかった»20年の現場仕事が体に染み込んでいる»若い頃に覚えた力の使い方は、65歳になっても消えていなかった»

西田が:“黒川さんって、体鍛えてるんですか”と言った»“鍛えてはいない”と総一は答えた:“ただ長く動いている”西田はそれを聞いて、どういう意味か考えるような顔をしてから:“そうですね”と言った»総一は次の作業に移った»

水曜日の昼休みに、病院に行き、胃カメラを受けた»前日の夜から絶食で、当日の朝も水しか飲まなかった»倉庫の仕事は午後から出ることを片倉に伝え、午前中を検査に使った»クリニックの処置室で横になり、口にマウスピースをかまされ、カメラが入れられた»不快だったが、検査自体は15分ほどで終わった»しばらく休んでから、診察室に呼ばれた»

内視鏡の画像をモニターで見せられながら、医師が説明した:“胃潰瘍が一箇所ある”まだ深くはないが、出血の形跡がある»これが、吐き出したものの血の味がした原因だろう»今すぐ入院が必要な状態ではないが、薬を続けながら、生活習慣を見直す必要がある»

“生活習慣”という言葉を、総一は聞いた:“ストレスを減らしてください”と医師は言った:“胃潰瘍の背景には、精神的なストレスが関係していることが多い”睡眠も大事です»食事は規則正しく、刺激物を避けてください”

総一は頷きながら、その指示の一つ一つを実行できる自分の状況を考えた:ストレスを減らす»家賃が払えなくなる状況で、どうやってストレスを減らすのか»睡眠を取る»隣から振動が来て眠れない夜に、どうやって眠るのか»言葉の一つ一つが、今の自分には的外れに聞こえた»医師が悪いわけではない»医師は目の前の症状に対して適切な助言をしている»ただその助言が機能する前提として必要な環境が、総一の現実には存在していなかった»

薬を追加してもらい、処方箋を受け取った»支払いカウンターで請求を見た:検査代と診察代と薬代、合わせて18000円だった»財布から取り出しながら、この18000円が今月の食費の何日分に相当するかを、計算しないようにしながらも、計算していた»

午後1時、倉庫に戻った»無藤が近づいてきた:“午前中の入荷処理は終わりました”と短く言った»総一は礼を言い、伝票を確認した»問題はなかった»無藤は黙って戻っていった»この男は余計なことを聞かないと、総一は改めて思った»午前中に休んだ理由も、体の調子がどうかも、何も聞かなかった»ただ仕事を動かしておいてくれた»それで十分だった»

片倉が午後の会議のために出かけていて、事務所が静かだった»総一はその時間を使って書類作業を進めた:来月の入荷スケジュールの調整と、取引先へのフォローメールの下書きを作成した»仕事をしている間は、胃の辺りを意識しなかった»これは不思議なことだと総は思った»病院で医師に言われたことは、ストレスを減らせということだ»しかし現場で体を動かして頭を使って仕事している時が、一番ストレスを感じない»部屋に帰って一人でいる時間の方が、よほど追い詰められた感覚になる»仕事がなくなったらどうなるだろうかという問いがふと浮かんだ»そのまま考えを追うことはしなかった»今はまだ仕事がある»それだけで十分だと、総一は自分に言い聞かせた»

9月の最後の週、片倉から総一への指示が出た:“来週月曜日の午前9時から、本社の物流管理部門が横浜倉庫の視察を行う”それに伴い、倉庫の運営状況と今後の効率化を、現場責任者がプレゼンテーションする形式になっている”担当は、黒川さんにお願いしたい”と片倉は言った»その場で総一は了解したが、部屋に帰ってから、その意味の重さを考えた»本社の人間を前にしたプレゼンは、これまでやったことがなかった»倉庫の現場の話をするのは得意だが、スライドを作って人前で話すという形式は、総一の仕事のやり方とは少し違う»しかし片倉が自分を指名したということは、現場の最前線を知っている人間が説明するのが適切だという判断があるのだろう»

週の間、残業して準備を進めた»スライドを作るのに職場のパソコンを使った»項目の立て方が分からない時は、柏木に聞いた»柏木は快く教えてくれた:“この数字は、グラフにした方が見やすいです”と言いながら、操作を横で見せてくれた»総一は一つ一つを書き留めて、翌日また一人でやってみた»

金曜日の夜、スライドが完成した»12枚のスライドで、倉庫の処理件数の推移、コスト構造の分析、改善提案3点というシンプルな構成にした»片倉に見せると:“内容は問題ない”ただ、話す練習もしておくように”と言われた»

土曜日と日曜日、部屋の中で一人でスライドに向かって話す練習をした»声に出して話しながら、自分の声が部屋の中に広がるのを聞いた»独り言をいるところで練習するのは変な感覚だったが、言葉が滑らかに出てくるかどうかを確かめるためには必要だった»数字を話す時に詰まる部分があり、そこを重点的に繰り返した»

日曜日の夜、最後にもう一度通して練習した»時間を図ると18分だった»指定された20分に収まっている»総一はスライドを閉じ、明日の準備を確認した»

月曜日の朝、総一はいつもより30分早く起きた»シャワーを浴び、スーツを着た»今日は一番綺麗な状態のシャツを選んだ»先週洗濯してアイロンをかけておいたものだ»ネクタイもきちんと締めた»靴は前夜に磨いておいた»朝食は軽くした»胃の調子が不安定な日に食べすぎると、プレゼン中に気分が悪くなる可能性がある»卵一個を茹でて食べた»お茶を一杯飲んだ»鞄の中を確認した:スライドのデータが入ったUSBメモリー、印刷した資料の束、筆記用具、IDカード»IDカードを確認した時、総一は去年の6月のことを一瞬思い出した:カードを忘れて、エレベーターを往復した朝だ»今日は絶対に同じ失敗はしない»

玄関を出た»廊下は静かだった»総一はエレベーターホールへ向かい、ボタンを押した»その時、館内放送が流れた»無機質な女性の声だった:“本日、システムメンテナンスのため、全エレベーターを午前8時から9時まで運転停止します”ご不便をおかけしますが、ご了承ください»

総は動きを止めた»時計を見た:7時45分»全エレベーターが8時から一時間停止する»総は今から乗れば、8時前に降りることができる»だが次のエレベーターがいつ来るかが、問題だった»ホールの表示パネルを見ると、最も近いエレベーターが41階にいた»降りてくるまでに数分かかる»乗って1階に着くのが7時50分前後»それから電車で倉庫へ向かう»計算した:電車が順調なら、9時前に着ける»ギリギリだ»総一はボタンを連打せずに、一度だけ押した»パネルを見続けた:41階のランプが動き始めた»39階、37階、35階で止まった»扉が開いた»乗った»1階を押した»扉が閉まる»その時、外から声がした:“待ってください”と女の声がした»扉が閉まりかけていた»総一は一瞬、開くボタンを押すかどうか迷った»一秒ほどの迷いの後、押した»扉が再び開いた»30代の女性が乗り込んできた»慌てた顔で:“ありがとうございます”と言った»総一は短く頷いた»女性は20のボタンを押した»途中で止まる»総一は時計を確認した:7時47分»20階で女性が降りた»扉が開き閉まるまでに15秒かかった»1階に着いたのは7時53分だった»総一はセキュリティゲートを通過し、外へ出た»駅まで急いだ»駅に着いたのは7時58分だった»改札を通り、ホームへ降りた»電車がいなかった»電光掲示板を見ると:次の電車は8時04分»通常なら2分おきに来るはずの時間帯に、6分の感覚があった»

アナウンスが流れた:“人身事故の影響で、上り線に遅延が出ています”総一は深く息を吸った»人身事故の影響による遅延は、どれだけ続くか分からない»5分で解消する場合もあれば、20分以上かかる場合もある»今の段階で倉庫に電話をして状況を伝えるべきか、片倉に連絡するべきか»しかし電話をすること自体が、遅刻を認めることになる»

電車が来た»8時06分だった»乗り込んだ»車内は混んでいた»いつもより人が多い気がした»人身事故の影響で、後続の電車に乗客が積み上がっているからだ»総一は吊り革を掴んでドアの近くに立った»

乗り換えの駅で、さらに遅れが出た»別路線でも同じ事故の影響が波及していた»乗り換えに使う予定の電車がホームに来るまで、8分待った»倉庫の最寄り駅に着いたのは8時48分だった»走った»スーツで走ることへの躊躇は、今回は捨てた»今日は人前に出るプレゼンがある»汗をかいたらどうするかという問題は、走りながら考えた:倉庫についてから、とにかく顔と首だけ拭けばなんとかかる»本社の人間が来るのは9時だ»まだ間に合う可能性がある»

倉庫の搬入口ゲートに着いたのは8時57分だった»IDカードをかざした»ランプが緑になった»扉を開ける»倉庫の中に入った瞬間、総一は事務所のガラス越しに、スーツ姿の人間が複数いるのを見た»本社の人間たちだった»片倉が一人を相手に何かを説明している»もう2人が資料を手にして立っている»そしてその中の一人が、総一が入ってきたタイミングで入り口の方を見た»総一は歩きながら汗を手の甲で拭い、鞄の持ち手を握り直した»事務所に近づいた時、片倉が気づいた»片倉の表情は、厳密に言えば変わっていなかった»しかし目の中の何かが、一瞬硬くなった»本社の担当者が時計を見た»9時03分だった»総一は頭を下げた:“申し訳ありません”電車の遅延がありまして”と言った»本社の担当者の一人、40代と思われる男が頷いた:“電車は、しょうがないですね”と言った»ただその言い方は、状況を理解しているというよりも、形式的に言っているように聞こえた»

“プレゼンを始めてください”と片倉が短く言った»総一はノートパソコンにUSBを挿し、スライドを開いた»手が少し震えた»震えを感じたのは、緊張ではなく、走ってきたことによる体の余熱だと思った»深く息を吸って、話し始めた»

最初の三枚は、滑らかに進んだ»数字の部分は、練習通りに話せた»改善案に入るあたりで、本社の担当者の一人がスマートフォンを見た»もう一人が何かをメモした»総一は視線を固定したまま、話し続けた»

プレゼンが終わった時、室内は短い沈黙があった:“お疲れ様でした”と担当者の一人が言った:“質問をいくつかしていいですか? ”と別の担当者が言った»三つほど質問が来た»総一は答えた»答えは、準備していたものの範囲に収まっていた»視察は11時前に終わった»本社の人間たちは車で来ていたらしく、駐車場へ向かった»

本社の人間が去った後、事務所の中に片倉と総一だけが残った»片倉は机の前に立ち、総一の方を向いた»腕は組んでいなかった»手元に何も持っていなかった»ただ立って、相を見ていた»総一は片倉の前に立ち、同じように相手を見た»片倉はしばらく何も言わなかった»それから:“黒川さん”と言った»声は穏やかだった»怒鳴るような声でも、感情を抑えようとするような声でもなかった»ただ話の切り出し方として、名前を呼んだだけだった»

本社の視察に3分遅刻したことは言わなかった»言わなくても、二人の間にその事実はあった»片倉が言ったのは、これまでの話だった:“今年の6月以降、遅刻が複数回あった”勤怠の記録に残っている»業務上の問題としては、報告書の遅延もあった»今日の件を含めて、管理職として判断しなければならないことがある”と片倉は言った»総一は聞いていた:“本社との協議の結果、月末を持って雇用を終了するという決定が出ました”と片倉は言った»

部屋の中が静かになった»空調の音がしていた»総一はその音を聞いた»外からトラックが通り過ぎる音がした»倉庫のフロアで無藤が誰かに何かを言っている声が、ガラス越しに低く聞こえた»

“退職金はどうなるか”と総一は聞いた:“嘱託社員の契約上、今回の形式では退職金は発生しません”と片倉は言った:“給与は、月末まで支払われます”総一は頷いた»片倉の顔を見た»片倉の顔には、申し訳なさが出ていた»演じているわけではなく、本当に申し訳ないと思っているような、そういう表情だった»しかしその申し訳なさが、総一の状況を変えるものではなかった:“分かりました”と総一は言った»それだけ言って、事務所を出た»

フロアに出ると、無藤がそばにいた»無藤は総一を見た»何かを察したような目だった»しかし聞かなかった:“今日の午後の作業、確認していいか? ”総一は言った»無藤は頷いて、伝票を持ってきた»二人で並んで確認した»いつもと変わらない作業だった»

午後の時間、総一はいつも通りに動いた»フォークリフトの誘導をした»柏木の伝票照合を確認した»取引先からの問い合わせ電話を受けて、回答した»柏木が来週のシフト確認を聞いてきた»総一は少し間を置いて:“来月から、シフトが変わる可能性がある”と言った»それ以上は言わなかった»柏木は:“分かりました”と言って、次の作業に戻った»

5時になった»総一はタイムカードを押した»鞄を持って倉庫を出た»振り返ることはしなかった»外に出ると、雨が降っていた»倉庫を出るまで空の様子を確認していなかった»いつの間にか、冷たい雨になっていた»9月の末の雨で、夏の熱とは違う落ち着いた温度の水が落ちてくる»総一は傘を持っていなかった»鞄を頭の上にかざすことも、走って建物の下に逃げることもせず、そのまま歩き始めた»雨は強くなかった»しかし歩いているうちに、スーツが濡れ始めた»肩から、袖から、雨が染みていく»今日のために磨いた靴が、濡れた地面の上を静かに踏んでいった»

駅へ向かう道を歩きながら、総一はいくつかのことを整理しようとした:来月から、収入がなくなる»借金の返済は続く»家賃は来月末に請求が来る»次の仕事を探さなければならない»65歳で、胃潰瘍があって、タワーマンションに住んでいる男を、どこが雇うか»それらの問いが、雨の中をぶつかり合いながら浮かんだ»答えは出なかった»出るはずがなかった»ただ問いだけが並んで、濡れながら歩いていた»

駅が近づいてきた»駅の屋根の下に入った時、初めて宿りができた»総一は柱のそばで立ち止まり、スーツの肩を手で払った»水がぽたぽたと落ちた»周囲を見た»同じように雨に降られた人が、数人、軒下に入ってきた»傘を持っている人が多かった»折りたたみ傘を鞄から取り出している会社員がいた»スマートフォンで誰かに電話している男がいた»それぞれがそれぞれの事情で、駅にいた»総だけが、仕事を失ったばかりの人間だった»

そう思った時、目の奥が熱くなった»総一は顔を上に向けた»駅の屋根の裏側を見た»コンクリートの継ぎ目に、小さな水の染みがあった»総はそれを見ていた»熱さが消えるまで、ただそれを見ていた»消えなかった»雨と一緒に何かが顔を伝った»総一は周囲を見なかった»見えない場所で、それが起きていた»65年間、人前でこういうことはしなかった»倉庫で怒鳴られた時も、大輝に裏切られたと気づいた時も、しなかった»今日の雨の中で、駅の柱のそばで、それは起きた»

しばらくして、総一は袖で顔を拭った»濡れたスーツの袖で顔を拭うと、また濡れた»それがどこか滑稽な感じがした»滑稽だと思ったら、少し落ち着いた»総一は改札へ向かった»

電車に乗った»今日は座れた»窓の外に雨の街が流れていった»濡れた路面に街灯が映り、光が揺れていた»総一は膝の上に鞄を置いて、その上に手を重ねた»今日のプレゼンは、出来としては悪くなかったという評価が自分の中にある»遅刻という事実は消えないが、内容は準備通りに伝えることができた»質問にも答えた»それは事実だ»しかし結果は変わらなかった»出来とは無関係に、決定はすでに出ていた可能性が高い»プレゼンの遅刻は口実だったかもしれない»あるいはそうではないかもしれない»どちらかは、もう分からない»分からないことを考え続けることに意味があるかどうかを、総一は雨の窓を見ながら考えた»答えは出なかったが、考えることをやめることもできなかった»

電車が停車するたびに、乗客が入れ替わった»若い人間が多かった»誰もがスマートフォンを持ち、それぞれの画面を見ていた»彼らにとって今日という日がどういう日だったのか、総一には分からない»総一にとって今日は、仕事を失った日だ»それは65歳の男にとって、数字や計算を超えた何かを意味していた»ただそれが何なのかを言葉にすることが、今の総一にはできなかった»

タワーマンションに戻ったのは、夜の7時過ぎだった»エントランスに入った時、ロビーのコンシェルジュが会釈した»総一は濡れたスーツのまま、それを受け取った»エレベーターで35階に上がった»廊下を歩いて、部屋のドアを開けた»電気をつけた»部屋の中はいつもと変わらなかった»テーブルの上に何もない»冷蔵庫の中に少しの食料がある»壁に窓があり、窓の外に夜の横浜が広がっている»総はスーツを脱がずに、そのまま椅子に座った»しばらく何も考えなかった»考えないのではなく、考える順番が定まらなかった»仕事のこと、借金のこと、家賃のこと、体のこと、それらが同じ重さで頭に乗っていて、どれから手をつければいいかが分からなかった»濡れたスーツが体に張り付いていた»

総一は立ち上がり、スーツを脱いだ»シャツも脱いだ»バスルームに持っていき、ハンガーにかけた»今夜中に乾くかどうかは分からないが、それを今心配しても仕方がなかった»着替えを着て、台所に立った»冷蔵庫を開けた:豆腐が半丁残っている»インスタントラーメンが一袋»卵が2個»今夜は何も食べる気がしなかった»お茶を一杯だけ入れた»カップに茶葉を入れて、湯を注いだ»茶葉は安い緑茶だったが、香りはあった»茶が出るまでの一分ほど、湯の立つカップの前で待った»カップに注いで、テーブルについた»

お茶を飲みながら、総一はノートを開いた»今月の収支の欄に、“来月からの収入が変わる”ことを書き込んだ»変わるという書き方をしたのは、来月から収入がゼロになるという事実をまだ数字として書く気になれなかったからだ»ペンを置いた»窓の外を見た»夜の横浜の灯りが、雨上がりの空気に滲んでいた»雲が薄くなり、所々に星が見えた»総は立ち上がり、窓に近づいた»ガラスに手を当てた»いつものように、ガラスが少し冷たかった»手のひらをガラスに当てたまま、総一は眼下の光を見た»何千という明かりが、それぞれに何かを照らし続けていた»その中の一つも、65歳の元倉庫の調整係のことを気にしているものはなかった»それは当然のことだ»当然のことだと分かっていても、今夜その明かりを見ていると、孤独という言葉では足りない何かを感じた»孤独は、一人でいるということだ»しかし、今総が感じているのは、それよりも少し違う何かだった:透明になっているような感覚といえばいいのかもしれない»この町の中に確かにいて、35階のガラスに手を当てて立っているが、どこかに溶けて見えなくなってしまいそうな、そういう感覚だった»

総一はガラスから手を離した»指の跡がうっすらと残った»少しして消えた»いつも通り消えた»総一は台所へ戻り、お茶の残りを飲み干した»カップと湯のみを洗った»棚に戻した»電気を消した»布団に入った»雨が上がった後の横浜は静かで、夜の空気だけが窓ガラスの外を流れていた»

仕事を失ってから一週間が経った»その一週間を、総一はほとんど部屋の中で過ごした»起きる時間が変わった»以前は6時前後に目が覚めて、体が自然に動き始めていた»仕事がある人間の体というのは、予定に合わせて動く仕組みになっている»しかし今は、目が覚める時間が一定しなくなった»早い日は5時に目が覚め、遅い日は9時近くまで眠り続けた»ただし深く眠れているわけではなく、浅く長く横になっているというのが正確だった»

起き上がってからすることが、以前より少なかった»朝食を作り、食べ、片付ける»新聞を取りに行く»求人情報を調べる»薬を飲む»それだけで午前中が半分すぎる»午後は履歴書を書いたり、ハローワークへの相談の準備をしたりした»しかしそれらの作業に集中できる時間は、長くなかった»30分も座っていると、胃の重さか、あるいは単なる気力のなさか、とにかく椅子から立ち上がって、窓の外を見る時間が増えた»

窓の外の景色は、仕事をしていた頃と変わっていなかった»変わっていないのに、見え方が変わっていた»以前は窓の外を見る時、そこに何かを求めていたわけではなく、ただ視線が行くだけだった»しかし今は、外の世界が動いているという事実がやけにはっきりと見えた:遠くの道路でトラックが走っている»港で作業が続いている»空を飛行機が横切る»全部が今も何かをしている»総だけが動いていなかった»その感覚は不快だったが、どうすることもできなかった»

体は動ける»実際、食料を買いに外へ出ると、歩くことに何の問題もなかった»倉庫の仕事が急になくなっても、体の疲弊が消えるわけではなく、むしろ動かないことで滞っているような重さが背中にあった»

出棟してから3日後、ハローワークへ行った»横浜の公共職業安定所は、駅から歩いて10分ほどのビルの中にあった»入ると番号札を取り、待合室で順番を待つ仕組みになっていた»待合室には10数人がいた»年齢層は様々で、総一より若い人間が多かったが、60代と思われる男性も2人いた»番号を呼ばれて、窓口へ行った»担当したのは30代半ばと思われる女性だった»丁寧な話し方で、現在の状況を確認しながら書類に記入していった»雇用保険の加入期間を確認されると、総は説明した:嘱託社員として1年半ほど在籍していたが、その前の正社員雇用の期間も合算できるかどうかを聞いた»担当者は確認しながら:“原則として、離職前の期間が対象になります”といった»具体的な給付額と期間は、書類を処理してから通知になるが、おそらく90日から120日の給付になるだろうという説明を受けた»

“月にいくらになるか”と総一は聞いた»担当者は計算式を説明した:“直近の給与の50から80%が目安で、総さんの場合は月に12万から14万円程度になる可能性があります”とのことだった»総はその数字を聞いた»14万円で、40万円の家賃は払えない»差額の26万円を、どこから調達しなければならない»闇金の返済も続いている»利息だけで毎月7万5000円が消える»計算するたびに、数字の組み合わせが同じ場所に到達した»

“次のお仕事のご希望は、どういったものですか”と担当者は聞いた:“物流倉庫管理”と答えた»担当者はパソコンに向かい、しばらく検索してから:“いくつか求人がありますが、65歳以上の方を対象にしているものは限られています”といった»画面を向けてくれた»3件が表示されていた»1件は倉庫作業の補助で、週3日のパートタイム、時給が1000円程度だった»もう1件は配送の補助で、普通自動車免許が必要だが、総一は免許を持っていた»3件は警備作業の指示で、夜勤だった»総一は3件を紙に書き写した»書き写しながら、この3件で得られる収入の最大値を計算した:週3日のパートでも、複数掛け持ちできれば月に10万から12万円にはなるかもしれない»しかし雇用保険との調整の制限がある»倉庫の正社員や嘱託としての求人は、ほとんどなかった»65歳という年齢が雇用側にとって何を意味するかを、総一は初めて求人票という形で見た»

窓口を出て、建物の外に出た»秋の空気は穏やかで、日差しがあった»総一はその光の中を歩きながら、今日知ったことを整理しようとした»整理しようとすると、整理できない部分だけが残った»

その週の木曜日、郵便受けに封筒が入っていた»差し出し人は、このマンションの管理会社だった»部屋に戻って、封を開けた»中に2枚の紙が入っていた»1枚は管理会社からの通知書で:“先月分の家賃と、今月分の家賃が滞納となっている”旨が書かれていた»もう1枚は:“滞納が継続した場合には、契約解除の手続きに入ることを通知する”内容だった»先月分の家賃は、払っていたはずだった»手元の記録を確認した»引き落としの日に、口座の残高が足りなかった可能性があると気づき、銀行のアプリを開いた»引き落としが失敗していた»口座に入っていた金額が、家賃の全額をわずかに下回っていた»それで引き落としがかからなかった»管理会社へは振り込みで対応すればよかったのだが、通知が来るまでそれに気づかなかった»

総一は管理会社の連絡先に電話した»担当者が出た:“先月分については、今週中に振り込みます”と伝えた:“今月分については、事情があって準備に時間がかかっている”来月の頭には対応できるか確認したい”担当者は少しの間沈黙した後:“手続き上、一定期間の滞納が続いた場合は、契約解除の通知を正式に送付することになります”と言った»総一は:“分かりました”と言って、電話を切った»

先月分の振り込みに必要な金額を手元の現金から出すと、今月の食費が2週間分しか残らない計算になった»総一はその数字を確認して、ノートを閉じた»部屋の中が静かだった»このマンションのどこかの部屋では、誰かが今夜も料理をしているかもしれない»音楽をかけているかもしれない»仕事の話を電話でしているかもしれない»壁を通して伝わってくるものは何もなかったが、58階建ての建物の中に何百という人間が暮らしていて、それぞれが自分の生活を動かしているという事実は変わらなかった»その中で、総一の部屋だけが、ゆっくりと静止に向かっていた»

その翌日の昼過ぎ、総一は部屋で求人票を見ていた»固定電話が鳴った»受話器を取ると、先月借りた業者の男の声だった:“今月分の返済が、確認できていない”という内容だった»総総は言った:“退職したため、今月の返済が遅れる”来月から別の仕事を始める予定で、それが安定したら返済を再開する”男は少しの間を置いた»それから:“こちらの都合で、延ばすことはできません”と言った:“支払いが続く場合は、担保として提供いただいているものについて、処理に入らせていただきます”

“担保?

”総一は繰り返した:“申し込み時に、居住中の住所と契約内容を、担保として書いていただいています”と男は言った»総一は受話器を持ったまま、その意味を考えた:申し込みのフォームに記入した内容の中に、現住所の契約情報を書く欄があった»あれが担保として扱われているということは、返済が滞った場合に、その情報を使って何らかの行動を取るということだ»“具体的に、どういうことか”と聞いた»男は答えなかった»ただ:“今週中にでも一部でもご入金いただければ、手続きを止めることができます”と言った»

電話を切ってから2時間後、コンシェルジュから内線電話があった:“お客様がお見えなのですが、事前にご予約のお名前ではないようで”と担当者は言った:“どうされますか? ”総一はしばらく考えて:“下に行きます”と言った»エレベーターで降りて、ロビーに出ると、ソファに男が一人座っていた»40代と思われる男で、スーツを着ているが、安っぽい質感だった»総一を見ると、立ち上がった»コンシェルジュの山根が、カウンターの内側からその様子を見ていた»男は総に近づき、低い声で話し始めた:“変の剣で”ということを言った»声は穏やかだったが、その穏やかさが、脅しの質を持っていた»穏やかな声で圧をかけてくるという技術があることを、総一はこの時初めて体で理解した》

“今週中にと”総一は言った:“今週中に入金できるよ準備する”男は頷いた»それから周囲を見回した:シャンデリアのあるロビー、大理石の床、コンシェルジュ、観葉植物»それらを一度眺めてから、また総一を見た»その視線の意味を、総一は理解した:こんな場所に住んでいて、金が返せないのか»ということを、言葉にしないまま言っていた»

男は帰った»総一はその場に立っていた»山根が会釈した»総一は返さなかった»エレベーターに乗り、35階へ戻った»廊下を歩きながら、山根が見ていたことを考えた»今日の一見は、管理事務所に伝わるだろう»白石の耳にも入るかもしれない»それがどういう結果をもたらすかを、総一は一つ一つ想像した»想像するほどに、選択肢が一つずつ消えていく感覚があった»

その夕方、もう一つ郵便物があった»普通郵便で、差し出し人の住所は北海道だった»封を開けた»折りたたまれた便箋が一枚入っていた»大輝の字だった»総一はその便箋をテーブルの上に広げ、窓の光の中で読んだ»季節の挨拶もなく、“父さんへ”とだけあった»内容は短かった:“自分は今、北海道のある場所で仕事しているが、以前関わっていた業者との間で金銭的なトラブルが続いており、200万円を用意しないと身の安全が保障されない状況になっている”と書いてあった:“正直に言えば、怖い”と書いてあった:“父さんには、本当に申し訳ないと思っている”でも、他に頼れる人間がいない”と続いた:“可能であれば、臓器を売るか、どこかから借りて、送って欲しい”それができないなら、自分のことはもう諦めて欲しい”と最後に書いてあった»

総一は最後まで読んだ»それからもう一度、最初から読んだ»二度読んでも、内容は変わらなかった»テーブルの上に便箋を置いた»窓の外を見た»日が落ちかけていた»西の空に桃色が広がり、雲の縁が白く光っていた»それ以外は静かだった»部屋の中も、窓の外も、何も変わっていなかった»

総一はしばらく便箋を見たまま動かなかった»怒りが来ると思っていた»しかし来なかった»悲しみが来ると思っていた»それも来なかった»来たのは、乾いた感覚だった»雑巾を何度も絞り続けた後の、もう何も出ないという感じに似ていた»出すべきものはすでに出尽くして、残っているのは形だけという状態だ»感情の器の中に、もう何も入っていないような、そういう空洞感だった»

総一は便箋を手に取った»折りたんで、それから広げた»もう一度内容を確認した:“臓器を売れ”という言葉が書いてあった»父親に向けて、そういう言葉を書くことが、この男にはできるのだ»という事実を、総一は今初めて飲み込んだ»それは怒りではなく、認識だった:この男のことを、自分は分かっていなかった»20年近く、父と子として生きてきて、結局のところ分かっていなかった»分からなかったことが、今になって分かった»それが何を意味するのか、意味するものがあるのかないのか、今の総一には判断できなかった»便箋をゆっくりと折りたんだ»それ以上のことをする気になれなかった»

夜になっても、食欲はなかった»冷蔵庫を開け、閉めた»お茶を一杯入れて、テーブルの前に座った»お茶が覚めていくのを見ながら、総一は今夜すべきことを考えた»すべきことはある:次の住む場所を探すこと»ハローワークへの申請書類の続きを書くこと»雇用保険が実際にいくら出るかを確認すること»闇金への返済をどう取り決めるかを考えること»管理会社への対応を決めること»それらが一斉に頭の中に並んだ»並んで、どれも動けなかった»一つ手をつければ、別の一つが崩れる»崩れたものを直せば、また別の場所が崩れる»それが何週間も続いてきた»今夜また同じことをする気力が、総一には残っていなかった»

煙草を一本取り出した»火をつけようとして、ライターが切れていることに気づいた»かちかちと何度かしたが、火が出なかった»総一はライターをテーブルに置いた»タバコも置いた»タバコが吸えないのではなく、吸うための最後の一手間もできなかった»そういう状態を、限界というのかもしれないと総一は思った»大きな何かが崩れるのが限界ではなく、ライターを取りに行く気力がなくなることが限界なのかもしれない»お茶を一口飲んだ»覚めていた»

翌朝、総一は昨夜テーブルの上に置いたままの大輝の便箋を見た»昨夜の自分がそこに置いて行ったように、何も変わらず畳まれて置いてあった»総一はそれを手に取り、しばらく持っていた»返事を書くかどうかを考えた»書いたとして、何を書くか»200万円は出せない»出せる状況ではない»それを書いて送ることに、どういう意味があるか»大輝が今どういう状態にあるかは、この便箋からは正確には分からない»本当に危険な状況なのか、それとも誇張して書いているのか»総一には判断できなかった»判断する手段がなかった»大輝に電話をかけることも頭を掠めた»しかし電話番号が分からない»この便箋に書かれていない»返信先の住所だけが書いてあったが、電話番号はなかった»それが偶然かどうかも分からなかった»

総一は便箋をゆっくりと破った»大きく折って、また折って、それから小さく破いた»破いた紙片を手の中に集めて、ゴミ箱に捨てた»捨てた時、特別な感情はなかった»ただ一つのことが終わったという感覚だけがあった»大輝との間で続いてきた何かが、今この瞬間に形を変えた»それが断絶なのか、あるいは別の何かなのかを、言葉にすることはできなかった»ただあの便箋は、もう存在しない»そのことだけが事実として残った»

その日の午前中」ドアをノックする音がした»開けると、白石だった»今日は書類を持っていた:“少しよろしいですか”と白石は言った»声は穏やかだったが、訪問してくるということ自体が普通ではなかった»総一は部屋には入れず、廊下で話した»白石は言った:“昨日のロビーでのお客様の件について、報告を受けました”また賃貸の件についても、状況を把握しています”オーナー様との協議の上、正式に通知書をお持ちしました”

書類を受け取った»現在の滞納状況と、このまま改善が見られない場合には、契約解除の法的手続きに入ることを通知する内容が、丁寧な文章で書かれていた»期限は30日後だった»総一は書類を手に持ったまま、白石を見た»白石の表情は変わらなかった»ただ今日は、以前のような視線の動きがなかった»総一の服装を確認するような目の動きが、今日はなかった»代わりに、ただ正面を向いていた»それが何を意味するのか»白石の中で何かが変わったのか»それとも今日は業務としてきているだけなのか»総一には分からなかった:“分かりました”と総一は言った»白石は短く頭を下げ、廊下を歩いていった»エレベーターの方に消えた»総総はドアを閉めた»書類をテーブルの上に置いた»大輝の便箋がなくなった場所に、また書類が来た»テーブルの上は、こうして常に何かで埋まっているのだと、総一は思った»

その夜、総一はいつもより長く窓の前に立っていた»10月に入り、横浜の夜の空気は明らかに冷えていた»窓ガラスの外側に細かい結露が始まっていて、遠くの灯りがそのガラス越しに滲んで見えた»総総は手をガラスに当てた»冷たかった»9月よりも確実に冷たかった»夏の頃、暑い部屋の中で同じようにガラスに触れた時、わずかな冷たさが手のひらに心地よかった»今は逆で、ガラスの冷たさが手から体に伝わってきた»眼下の町を見た»六ヶ月前にここに来た夜」この景色を初めて見た時のことを思い出した»あの時、一瞬だけ息を飲んだ:120mの高さから見下ろす光の群れが、確かに美しかった»今もそれは美しいかもしれない»しかし、今の総一には美しさを感じる回路が機能していなかった»

ガラスの向こうに、自分の反射が薄く映っていた»65歳の男の顔だ»スーツも着ていない»部屋着のまま手をガラスに当てて立っている»この男が、六ヶ月前はきちんとスーツを着て倉庫で働いていた»大輝の嘘に引っかかったとはいえ、その前は20年間真面目に仕事をしてきた»そのことと、今夜の自分の姿とが、同じ一つの人生の中にあるということが、総一にはまだ完全には信じられなかった»

椅子を持ってこようかと思った»このガラスを壊すために使える椅子は、拾ってきたソファではなく、台所の椅子の方だ»それをここまで持ってきて、ガラスに向けて振れば、この全面が割れるだろう»120mの高さから、割れたガラスと共に、総一はその考えを頭の中で一度だけ考えた»それから、止まった»止まったのは、恐怖からではなかった»ここで終わることが、この話の終わり方として正しくないという感覚があった»正しくないというのは道義的な意味ではない»ここで死んでも、何も終わらないという意味だ:借金は消えない»家賃の滞納は、管理会社の書類として残る»大輝は北海道のどこかにいる»光太は、今年で4歳になった»それらは全部、続いていく»そしてここで死ねば、この部屋は次の入居者が来るまでの間、空けられる»豪華な設備を持つタワーマンションの一室として、また市場に出る»誰かが別の理由でここに住む»それだけだ»総一のことを、この建物は何も変わらない»それが分かった時、椅子を取りに行く気はなくなっていた»ガラスから手を離した»

夜の12時を過ぎた頃、総一は部屋の掃除を始めた»理由を自分に説明できたわけではない»ただ、することがそれだという感覚があった»まず台所から始めた:シンクを磨いた»周りの油汚れを、洗剤を使って丁寧に落とした»排水溝の蓋を外し、中を洗った»棚の上の調味料の瓶を整列させた»捨てるべきものは捨てた»次に、リビングを片付けた:テーブルの上の書類を一箇所にまとめた»ソファの上のタオルを畳んで、棚に戻した»床を雑巾がけした»この部屋に引っ越してきてから、床を雑巾がけしたのは初めてだった»水を絞った雑巾で一往復すると、雑巾が驚くほど黒くなった»それほど汚れていたということだ»浴室を掃除した»洗面台を磨いた»2時間かけて、部屋の全体を片付けた»掃除が終わると、部屋が別の場所のように見えた»物の少ない部屋が、さらにすっきりとして広く見えた»この部屋の本来の姿というのは、こういうものなのかもしれない»総一が持ち込んだ生活の痕跡が取り除かれると、ただの清潔な空間になった»

総一はシャワーを浴びた»今夜は水ではなく、湯を使った»ガス代のことはもう考えなかった»お湯で体を洗い、シャワーを長めに当てた»体が温まると、筋肉の奥に溜まっていた疲れが少し緩んだ»体を拭き、一番綺麗な状態のシャツを着た»先週のプレゼンのために用意して、雨で濡れて、その後乾かしておいたシャツだ»アイロンが欲しいところだったが、手で伸ばして着た»スーツのズボも綺麗な方を選んだ»鏡を見た»65歳の男が一人で鏡を見ていた»顔色は悪くなかった»目が窪んでいた»髪が少し伸びていた»総一は自分の顔をしばらく見ていた»それから視線を外した»

台所のテーブルに電子キーを置いた»このマンションのカードだ»一枚は玄関用、一枚は共有エレベーター用、一枚はセキュリティゲート用»3枚を並べておいた»その隣に紙を一枚置いた»管理会社の宛名を書き、“退去の意と、鍵の返却”を書いた:“指揮金については、管理会社の判断に委ねる”旨を書いた»自分の名前と日付を書いた»書きながら、これで正式な手続きとして有効かどうかは分からなかった»おそらく後で、管理会社から連絡が来るだろう»弁護士が絡む可能性もある»しかしその対応は、今夜ではない»今夜できることは、ここを出ることだけだった»

冷蔵庫を開けた»豆腐の小さなパックが残っていた»卵が一個»それだけだった»閉めた»それは置いていくことにした»必要なら、次に来た人間が処分するだろう»

鞄に何を入れるかを考えた:財布、保険証、通帳、印鑑、着替えが2日分、薬、煙草の残りと、台所の引き出しの奥に新しいライターがあったことを思い出した»取り出して、鞄に入れた»それ以外のものは、置いていくことにした»服のほとんどは残した»スーツもハンガーにかかったままにした»拾ってきたソファも、もちろん置いていく»倉庫の仕事で使っていた書類の束を、テーブルの引き出しに入れたままにした»必要なものだけを入れた鞄は、軽かった»

総総は鞄を持ち、部屋を一度だけ見回した»綺麗な部屋だった»今夜磨いたシンク、整列した瓶、雑巾がけした床»窓の外には、横浜の夜が広がっていた»明け方に近い時間で、町の灯りがまだ点いていた»夜明け前の一番暗い時間»空はまだ黒かったが、東の空だけがわずかに色を帯び始めていた»総総はそれを見た»

ガラスに近づき、最後にもう一度手を当てた»冷たかった»手の温度がガラスに移った»少しして離した»指の跡が残った»今夜は、消えるまで見ていなかった»

玄関のドアを開けた»廊下に出た»鍵はかけなかった»テーブルの上に置いてきたから、かけることができなかった»ドアを閉める音が、廊下に小さく響いた»

廊下はいつもと同じだった»間接照明が低く照らしている»カーペットが足音を吸収し、人の気配がなかった»何ヶ月もここを歩いてきた廊下だ»朝に急いで歩いたろうか、夜に疲れて歩いたろうか、隣の部屋の音楽が壁を抜けていたろうか»総一はエレベーターホールを通り過ぎた»非常口の表示が緑色に光っていた»扉を開けた»鉄の扉で、内側はコンクリートだった»非常階段は、タワーマンションの華やかさとは無関係の、剥き出しの構造物だった»手すりが金属で、踊り場ごとに小さな電球がついていた»総総は下を向いた»35階から1階まで、34フロア分の階段が螺旋状に続いていた»

歩き始めた»一段一段»靴底がコンクリートを踏む音が、閉じた空間に響いた»手すりを掴むことはしなかった»掴まなくても、足は確かだった»34フロア分の階段は長い»しかし総一の体は、これを降りられないほど衰えてはいなかった»

34階の踊り場を過ぎた»33階、32階»降りながら,総一は特別なことを考えなかった»次の住む場所のことは、今夜ではない»仕事のことも、今夜ではない»借金のことも、今夜ではない»今夜はただ,ここを降りる»それだけだ»

28階,25階,22階»踊り場を曲がるたびに,電球の光が切り替わった»上の光が遠くなり,下の光が近くなる»それを繰り返した»20階で,少しだけ息が上がった»降りているだけなのに,ということではない»体の緊張が,ここに来て少し緩んでいた»緊張が解けると,疲れが出る»それだけのことだ»

15階,12階,10階»背中が汗で少し湿った»鞄を持ち直した»7階,5階,3階»2階の踊り場で一度止まった»一段,一段を確認するようにゆっくりと降りた»1階の扉に着いた»

非常口の扉を押した»外気が入ってきた»10月の夜明け前の横浜の空気だった»冷えていて,少し湿っていて,街の匂いがした»非常口は建物の裏手に出た»表のエントランスとは違う»搬入口と駐輪場が並ぶ側だった»街灯が一本あり,地面のコンクリートを照らしていた»駐輪場に自転車が何台か並んでいた»誰もいなかった»

総総は一歩外に踏み出した»上を向いた»タワーマンションが,暗い空に向かって伸びていた»58階建ての建物を真下から見上げると,その垂直の質量が体に圧をかけてくるようだった»窓の明かりが,いくつか点いていた»夜明け前でも眠れない人間がいるのか,あるいは仕事をしている人間がいるのか»35階の辺りを目で探したが,どこが自分の部屋だったかは,下から見ると分からなかった»分からなくていいと思った»

総総は建物から向きを変え,町の方へ歩き始めた»裏通りを抜けると,表の通りに出た»車道があり,信号があり,街灯が並んでいた»夜明け前の時間帯で,車はほとんど通っていなかった»歩行者もいなかった»総総は歩いた»どこへ向かうかは決まっていなかった»決まっていなかったが,足は動いた»

横浜の町の中を,鞄一つ持った65歳の男が歩いていた»空の東の端が,少しだけ明るくなってきていた»夜明けは近かった»総総は歩き続けた»

タワーマンションは,総一が去った後も変わらなかった»エントランスのシャンデリアはまだ灯り続けていた»コンシェルジュは,朝のシフトの時間に合わせて交代した»エレベーターは定時通りに動き始めた»廊下のカーペットは,誰かに踏まれた»35階の一室は,しばらくの間,無人のままだった»管理会社がドアを開けると,綺麗に片付けられた部屋があった»台所のシンクは磨かれており,床には雑巾の跡があった»テーブルの上に,3枚のカードと1枚の紙が置かれていた»冷蔵庫の中には,豆腐と卵が残っていた»窓ガラスには,手の跡がうっすらと残っていた»担当者が確認作業を進める中で,その手の跡は,誰かが布で拭き取った»消えた»部屋は整理され,次の入居者のために準備が進められた»

タワーマンションは変わらなかった»次の人間を飲み込む準備をしながら,町の上に光り続けていた»

黒川相一という男の6ヶ月を,最後までお聞きいただき,ありがとうございました»彼がその後,どこへ行ったのか,次の仕事をどこで見つけたのか,借金をどう返したのか,それは分かりません»分からないまま,この話は終わります»ただ一つだけ確かなことは,あの朝,彼は自分の足でタワーを出たということです»35階分の階段を,手すりにも寄りかからず,一段一段降りていった»それだけが,彼が自分で選んだことでした»もしこの話が,どこかの誰かの日常の隣に置いてある話に聞こえたとしたら,それがこの物語の本当の意味だったのかもしれません»