「おいおい、こんなおじいちゃんに俺の仕事を教わんのかよ。」
定年退職後、ひそかに死者の契約社員として働き始めた私に、有名大卒でコネ入社した傲慢な新人が堂々とそう言い放った。それでも教育役として彼を導こうと、彼がミスをすればサポートして挽回し、注意を促してきた。だが、彼の心には一切届かなかった。
「俺がおじさんに言えば、お前みたいな子会社の契約社員なんて一発で首にできるんだからな。座して謝罪すれば許してやるよ。」
そこまで言い出す始末。ああ、これはもう何を言ってもダメかもしれない。
そんな彼の様子を見て、私は思った。相手がどんな人間であっても、まずは分かろうと話を聞こうと努力する。だが、それが通じない相手も確かに存在する。それならば、こちらも相応の対応を取らなければならない。
この直後、彼は己の勘違いを思い知り、社会人1年目にして大きな試練を経験することになったのだった。
私の名前は松原正一。まだ若い頃に人材派遣会社を起こし、幸運にも事業を拡大して、今では全国に支社を構えるまでになった。会社は1つの組織ではあるけれど、その中身は人が作ると私は常々思っていた。だから人と会社をつなぐ仕事がしたくて、自分で人材派遣会社も立ち上げたのである。
そんな私も昨年、還暦の年を迎え、それを機に社長の座は息子に譲った。私自身は、肩書きばかりの会長となった。
親ばかではあるが、経営のセンスは私よりもむしろ息子の方が優れている。だから私は安心して会社の舵取りを息子に任せ、自分は会長という肩書きを隠したまま、1契約社員として全国の支社を回る旅に出ることにした。
実は、某時代劇のように諸国を回り、その土地で自身の見聞を広め、人と触れ合うことが還暦後の私の密かな夢だった。妻は5年前に他界し、息子も結婚して、孫にも恵まれた。年は行ったが、まだ体もなんとか動く。やるなら今しかないと思い、上層部の数人だけに事情を話して、私は早速夢を行動に移したのである。
そんなわけで、契約社員として支社の営業部に赴任した初日。案外周囲にはバレないものなのだなと気をよくしながら、私は若い人たちに混じって日々働いていた。見た目は60を過ぎたただのおじいちゃんだ。名前は同じだが、周囲もまさか本社の会長がこんなところで働いているなんて夢にも思わないのだろう。社員にどうこう言う前に、まず自分が若い人たちにコピー機の操作などを教わりながらの毎日ではあったが、これはこれでとても新鮮なひと時で、私も最近はすっかり契約社員ライフを楽しんでいたのだった。
そんなある日のこと。朝一番に出社して、散歩がてら支社回りの掃除を行っていた私は、出社したばかりと思われる営業部の部長と課長が立ち話をしている現場に遭遇した。
「どうだ? その後は。」
「いやあ、これがなかなか。厳しくしても反発され、反対に優しく接しても調子に乗って相手を見下す。本当に扱いが難しくて。」
どうやら彼らは、今年営業部に配属された新人の教育方針のことで相談していたらしい。
「それにほら、梅田は本社の叔父さんのコネだって言うじゃないですか。本人もそれを隠すつもりがないらしく、むしろ自慢しているくらいだし。」
「だから私らもあまり強くは言えなくて。」
梅田。その名前の出された新人のことは、私も知っていた。部内の人間は概ね友好的かつ親切に接してくれるのであるが、ただ1人、その梅田という新入社員だけは、いつもこちらを馬鹿にしたような目差しで見てくるのであった。本社役員とも繋がりがあり、また自身も有名大卒であることを誇りに思っているらしく、とにかくプライドが高い。加えて周囲の注意に耳を貸さない性格で、同僚たちが何かと手を焼いているところを私も何度か見てきた。なるほど、これは手ごわい。
困り顔で息をつく2人を見るに見かねて、私はそこへ割って入った。
「2人とも、おはよう。突然だが、そこで話を聞いてしまってね。1つ提案なんだが、梅田君の教育を私に任せてみるのはどうだろう。」
「お、おはようございます。」
「い、いや、すみません。お恥ずかしいところをお見せしまして。」
「そんな会長のお手を煩わすのは… 」
「そうですよ。潜入社員の教育など、本社の会長が関わりを持たれるような案件では。」
2人は私が本社の会長であることを知っている。突如として現れた私の姿に2人は慌てふためきながらも首を振った。
だが私は、それに軽く笑って続ける。
「梅田君は、本社役員の叔父さんがいるらしいね。それもあって、あまり厳しくできないと。でも、王人が本社役員であろうが、私なら大丈夫だよ。なんせ、こう見えて私はこの会社の創業者であり現会長だからね。」
「はあ、それはまあそうなんですが… 」
何とも答えようがないのか、目を白黒させている2人に頷いて、その日から私は梅田君の教育として仕事をすることになったのだった。
だが、部内の誰よりも遅く出社してきた梅田君は、突如自身の教育係かりを名乗り始めた私に、あからさまに眉をひそめ、それからじろじろと不遠慮な視線で眺め回すと、不信を隠そうともせずに口を開いた。
「ああ、それマジで言ってんの?

おいおい、こんなおじいちゃんに俺の仕事を教わんのかよ。」
フロアに響き渡るような声でそう嘲る梅田君に、隅で様子を見守っていた部長と課長はもはや白目を向きかけていたが、慌てて入ろうとする2人を視線だけで制して、私はにっこりと笑った。
「はいそうですよ。こんなおじいちゃんに仕事を教わるほど、君はまだ新人なんですよ。1人前の仕事ができるようになるまでは、周りの言葉にきちんと耳を傾けて、素直な心でいてください。」
「はっ、しょうもな。」
その言葉に、彼は不服という感情を隠すことなくその顔に貼り付け、ふてくされていた。
これは手ごわいなと内心思いながらも、私はなんとか彼とコミュニケーションを取れるよう、その日から積極的に関わっていった。
だが1週間経っても2週間経っても、彼は一向に自身の態度を改める気配はない。そればかりか、私にも「老いぼれ」「契約社員のくせに」と、朝な夕な悪口を浴びせてはこちらを見下し、いつも鼻で笑っている。
本人が言うには、彼の家は裕福で、父親は大手企業の役員として働き、また母親も有名アパレル雑誌の編集者として華やかに活躍しているらしい。そしてそんな家の1人っ子として生まれた彼は、小さい頃から頭の出来が良く、花よと褒められ、大事にされて育ってきたとか。
実際彼は確かに頭はいい。だが、それは目指すべき明確な答えがある勉強の場に限っての話だ。社会人としての仕事の場においては、彼には素直さと、それから相手が誰であれ1個人として尊重する気持ちというものが決定的に足りないのだなというのが、教育係としての私の所管であった。
さて、梅田君とはその後も距離を詰められないまま、しばらくが経ってある日のこと。
「梅田、こないだ頼んでた資料どうなった? 」
何気ない社員からの問いかけに、梅田君が不審に眉を潜めて答える。
「え、それはもう共有ファイルにアップしてますけど。」
「それ、いつの話だ? さっきファイル見たけど、そこにはなかったぞ。」
「はあ? そんなはず…
」
目を丸くして重ねられた問いに、梅田君が不機嫌そうに言い返す。だが実際に共有ファイルには、彼が送ったというデータの形跡は残っていなかったようだ。
「だろう? まあいいや。とりあえずもう1回アップしておいて。3日後には取引先に送らなきゃいけないから。」
「おい、どうしたんだ? 」
その時のパソコンを開いたまま固まってしまった梅田君に、社員が首をかしげた。私も釣られて梅田君を見上げる。するといつもの鼻持ちならない彼にしては珍しく、その頬を青ざめ、心なしか震えているようにも見える。もしかして尋常じゃない。
その様子に私が異変を察したのと同様に、社員も察したらしい。
「お、お前、まさか元データを消したって言うんじゃ… 。」
そのつぶやきに、社員の周囲の人間も思わず振り返って頬を引きつらせる。
「嘘だろ?
あれだけ元データは残しておけって言ってたのに。」
「ちょっと梅田君、あなたそれ消去する前に誰かに確認しなかったの? 新人のあなたが勝手に判断できるような案件じゃないでしょう。」
そして社員たちが、現在教育を任命されている私へと視線を向けたけれど、私も一向に心当たりがないものだから、力なく首を振るしかない。
そんなこちらの反応に、社員たちはことの次第を改めて悟ったらしい。
「おいおいおい、あれ3日後だよな、締め切り。それまでにデータの再作成なんて無理すぎるだろう。」
「あの取引先、約束ごとには厳しいから、いつも絶対に期限厳守だったのに。」
「そうね、下手したら契約打ち切られるかも。」
社員たちのそのつぶやきに、梅田君の顔はますます青ざめていく。そこで私は、1本電話をかけることにした。
「はい、お世話になっております。はい、その件で申し訳なくもお願いがありまして、実は… 」
相手は普段の取引先。そこの担当とは、私がここに契約社員として赴任してきた頃、ちょっとしたことで繋がりを持っていた。そこで私は相手に正直に事情を話し、丁寧に謝罪を述べた後、締め切りを伸ばしてくれないかと誠心誠意お願いする。
「はい、それはごもっともでございます。本当にこの度はご迷惑をおかけいたしまして… 。はい、もちろん再作成は可能ですので。」
「ああ、そうですか、1週間後、ありがとうございます。」
電話の行方をハラハラと見守っていた社員たちは、その言葉を聞いて締め切り交渉がうまくいったと分かったらしく、一斉に安堵のため息をこぼしている。
「はい、それでは完成いたしましたらまた改めてご連絡いたします。お気遣い誠にありがとうございます。」
そうして私は電話口に深くお辞儀をし、ゆっくりと受話器を置いた。途端に、社員たちがわっと私を囲む。
「ありがとう、松原さん。あなたのおかげで命拾いしたわ。」
「でも、あそこの担当気難しくて有名でしょ、どんな手使ったんですか?
」
「手なんて、そんな前にね、一度向こうの資料のミスを私がたまたま見つけて、大事になる前にお知らせしたんだよ。としたらその件では助けられたって、今度のことも多めに見てくれてね。」
確かにあそこの担当者は気難しいものの、こちらがきちんとした誠意を見せればそれなりの対応をしてくれる、平等な人でもある
「ほら梅田、お前からもきちんと松原さんに礼を言え。」
「そうよ、松原さんがいなかったら今頃私たちどうなってたか。」
先輩社員たちから口々にそう言われても、梅田君はどうにも納得できないような顔で、子供みたいにふてくされたままだ。
これではいけないと、私は少し強めに彼へと注意する。
「梅田君、私への礼などはいいだが、今回の件はそもそも君の確認不足が招いたことだというのは、分かっているね。もちろんミスは誰にでもある。大事なのは、ミスしたと分かった時にどうするか、まずはちゃんと皆さんに謝りなさい。」
と流すところが、梅田君は青ざめていた顔、今度は真っ赤にして、まるで癇癪を起こした幼児のごとく大きな声で喚き始めた。
「くっそ、黙ってりゃ好き勝って言いやがって。」
「とっくに定年した役立たずのじじいが、エリートの俺に指図すんじゃねえよ。」
歯を剥き出し、口の端から泡を飛ばして暴言を吐く新人に、周囲の社員たちはあっけに取られながらも、怒り心頭の様子である。
「お前、なんてことを言うんだ。今すぐ松原さんに謝りなさい。」
だが社員たちの言葉も、彼の耳には全く届いていないかのようで、むしろその攻撃は周囲にまで向けられた。
「大体この会社は、奴もこいつも無能揃いなんだよ、こんなじじいにまでいつもヘラヘラしやがって。」
「データだって、そんなに大事ならもっと分かりやすいように保管しておけよな。」
そのあまりの言い草に、社員たちはみんな続ける言葉も見当たらないらしい。
「お前らみんな首にしてやる,こんな子会社の社員なんて、俺がおじさんに頼めば一発なんだからな。」
梅田君は椅子がひっくり返りそうな勢いで立ち上がり、口をつぐむ私や社員たちを指さして声を張り上げる。
「偉そうに説教しやがって,首になりたくなけりゃ土下座して謝罪しろう。」
ギャーギャーと騒ぎ続ける。
そんな彼の様子を見て、ああ、これはもう何を言ってもダメかもしれないと、私は思った。
私は基本的に、相手がどんな人間であってもまずは分かろうと、話を聞こうと努力をする。だが稀に、どんなにこちらが努力をしてもそれが届かない相手というのが存在するのもまた事実だ。
そして残念ながら、この梅田という新人はその類いの人間であるのかもしれない。
とにかくここは一度彼を落ち着かせなければと、私が改めて口を開こうとした、その瞬間。
フロアの向こうからやってきた何やら見慣れた人物が、不思議そうに声をあげた。
「あら、そこにいらっしゃるのは松原会長じゃないですか。一体ここで何をされてらっしゃるんです? 」
現れたのは、社長である息子の第2秘書を務めている女性だった。営業部の部長と課長を引き連れてフロアを横切ってきた彼女は、何やら揉めているこちらの気配を察して、さらに首をかしげる。
「君、なんで? 私はたまたまこちらへ出張で。」
「会長こそ、どうされたんですか? 社長はご存知なんですか?
」
畳みかけるような彼女の問いに、私は思わず言葉を詰まらせてしまった。
そうだった、息子には口止めしておいたが、彼女にまでは事情を話していなかった。
そう思って、ため息をつく。
そして、部長と課長が絶対に付き従うのだから、彼女はどうやら本社の人間だと察した社員たちが、彼女の口にした「会長」という単語に、ざわめき始める。
知らぬと見れば、完全に梅田君もわけが分からないといった表情を浮かべていた。
仕方ない、もうこうなったら正直に言うしかないか。
そう、私は腹をくくり、口を開いた。
「申し訳ない、自分は契約社員だと伝えていましたが、正確には違います。」「私は弊社の創業者であり、現会長の松原です。」「私は支社の様子を実際にこの目で確かめたく、こうして契約社員として勤めていました。」
瞬間、フロアがどよめきに包まれた。まあ、それはそうだろうな。
騒がせて申し訳ないなと思いつつ、私は梅田君を見上げた。
すると彼は先ほどの勢いでなく、その顔を真っ青にさせ、何を思ったか、ついには自主的に謝罪を口にし始めたのであるが
「会長だとは知らずに、失礼なことを言いまして、本当に申し訳ありません。」「実は俺、私も松原会長のことを普通の社員とはどこか違うと、常々そう思っておりまして… 。」
これぞ手のひら返しと言わんばかりに、先ほどとはまるっきり真逆のことを言い始める梅田君」。その変わり身の速さに、私は絶句してしまいつつ、呆れながらため息混じりに言い返した。
「梅田君、君の言葉は残念ながら、私にも、それからこちらの社員のみんなにも伝わらないよ。」「君は、人の輪の中で働くということを、よくよく自覚しなければならない。」「社長には、この件伝えさせてもらうから。」
静かなけれど絶対的な意思を持って告げた私の言葉に、梅田君は一度圧倒されたように口をつぐみ、それからその場にがっくりと膝をついたのだった。
それから2週間ほどが経った。
私の報告で、梅田君は先日本社での会議にかけられ、厳重注意と言及処分を言い渡された。また、彼の叔父である本社役員にも、同じく厳重注意が下る。
ちなみにその役員は、今回の件で完全に出世コースからは外れたらしい。
そして梅田君はといえば、その高いプライドを結局捨てきれなかったらしく、一身上の都合としてほどなく自己都合退職したとのことだった。
まあ、あれだけの暴言を先輩社員たちに吐いて、仕事を続けるほうが無理だったのかもしれない。
私は今回の件を受けて、2つほど息子に提案したことがある。
まず第1には、コネ入社の禁止。
さらに第2には、今後の支社などの採用面接には是非私も加わりたいという申し出だった。
「会長自らが支社の採用面接に赴くとは、聞いたことがないですよ。」
と笑う息子に、私は笑って答える。
「会社を作るのは人だよ。」「ましてや、私たちは人と会社を結んでいる企業だ。」「まずは社内から適切な人材を見つけ育てる,引いてはそれが企業としての成長につながると、私は思うよ。」
そうして私は、気持ちも新たに次の支社へと赴く準備を始めたのだった。


