「部長、これ、この間のシステム案です」
俺はそう言って、上司に頼まれていた案件を報告した。すると、
「ああ、それ外部に委託してもいいかと思うんだよな。まあ、とりあえずもらっとくよ」
そう言って書類をひったくったかと思うと、「お前来週から出張だろ。せいぜいしっかりやれよ」と付け加えた。
まさかこの1週間後、俺の机も会社での居場所も全て消えているとは、この時は知る由もなかったのだ。
俺の名前は神。30歳の会社員だ。会社での立ち位置はいわゆる中堅ど。華々しいプロジェクトでスポットライトを浴びるタイプではないが、ブル処理や道なシステムなど、やりたがらない泥臭い仕事を一手に引き受けてきた。元々地道な作業が好きだったので、特に苦にはならない。
そんな俺を目の敵にしているのが、上司の伊藤部長だ。他社から引き抜かれてきた伊藤は、手柄と名声にしか興味がない男だ。50代で俺より経験豊富なはずだが、自分の部下には興味がないようだ。PCの基本操作すら怪しいくせに、俺が徹夜で組み上げた業務効率化の仕組みを自分の実績として上層部に報告し、甘い汁を吸い続けてきた。今回依頼されたシステム案も、どうせ俺の名前を消して自分の成果として会長に提出するつもりなのだろう。
「お前みたいな地味な無能は、現場で泥水でもすっていればいいんだよ」
そんな罵倒の言葉は日常茶飯事だ。
だが、俺が黙って耐えていたのは、怒るのが面倒だったからだけではない。この会社の本社工場が立つ年商500億を生み出すその土地は、俺の祖父が創業社長である森川会長と交わした、ある特別な約束のもとで貸与されているものだからだ。そのことを伊藤は知らない。
出張へ立つ前日、部下の1人が何か言いたげに俺のデスクへ近づいてきた。
「あの、神さん……部長が最近……」
そこまで言いかけたところで、伊藤の鋭い視線が飛んでくる。その部下は青ざめた顔で口を継ぎ、逃げるようにその場を去っていった。
1週間後、俺は慌ただしい出張をようやく終えて戻った。現場のトラブルを無事に納め、疲れと達成感を抱えて会社へ戻ると、なぜか俺のデスクにあった書類やパソコン、私物が綺麗さっぱり消えている。
「あ、の、神さん……」
同僚たちが気まずそうに目をそらした。
困惑する俺の背後から、嫌味な笑い声が近づいてくる。
「いやあ、お疲れ様。まさか自分からやめてくれるとは思わなかったよ」
振り返ると、伊藤がニヤニヤと紙切れを指に挟んで立っていた。
「お前が遺書1つ残して飛んだから驚いたぞ。『自分の無能さに耐えかねて退職します』ってな。全社メールで一斉送信までしてさあ、パソコンも綺麗に初期化済みとは、潔いじゃないか」
は、思わず声が漏れた。一瞬、頭の中が怒りで真っ白になる。こいつは何を言ってるんだ? 俺が退職メールを? パソコンを初期化? だが、ここで感情のまま騒いでも状況は変わらない。俺は一度静かに息を吸い込んだ。頭を冷やせ。今は敵の出方を見極める時だ。
うして頭をフル回転させると、あることに気づいた。
ああ、伊藤は俺が出張で不在の隙をつき、俺のPCを使って自自作自演の退職を仕組んだということか。これで俺を追放し、俺のシステム案を完全に自分の手柄にする気だろう。1週間前に提出したシステム案。外部に委託してもいいかなんて言っていたけど、また横取りする気なんだろう。あれは会社の今後を左右すると言っても過言ではない。だからこそ、自分の手柄にして出世しようというのだろう。そのためには、俺は邪魔な存在だから退職させようというのか。
戸惑っている俺に、伊藤が大声で笑いながら声をかけてくる。
「無能が自主的に辞めてくれるとは、実に賢明だ」
周囲の社員たちは青ざめた顔で黙り込んだ。
伊藤は俺のことを罵倒すると、段ボール箱を1つ放り投げた。
「ほら、お前の私物だ。さっさとまとめて出て行けよ。社外の人間がいつまでもフロアにいるな。お前みたいな役立たずがいなくなって、清々するよ」
周りの同僚たちは青ざめ、息を飲んでいる。中には俺が夜遅くまでサポートした若手もいたが、伊藤の権力を恐れて誰も声を上げられない。それもそうだ。伊藤は他の企業でコストカットや人員削減の実績があり、それを見込んでうちに引き抜かれたという噂だ。加えて俺の手柄を横取りしているものだから、上からの評価も高い。この場面で、自分の首をかけてまで伊藤に歯向かう者なんていない。
だが俺自身も、この場で騒ぐつもりは毛頭なかった。ここで声を荒げたところで、伊藤はうまく言い逃れるだけだろう。証拠は全て俺の頭の中にある。今は下手に動くより、黙って引くのが得策だ。
わかりました。お世話になりました。
俺は伊藤の手下さに呆れ果て、静かに形だけ頭を下げる。段ボール箱を抱え、会社を出る。俺は1度も振り返らなかった。
家に戻り、いつものパソコンの前に向かうと、3ヶ月前に亡くなった祖父の遺品である古びた手帳が置いてある。そこには祖父の森川会長に対する思いや、俺への思いも綴ってあった。
「森川は熱い男だ。あの会社は地域の誇りになる」
それはその通りだった。現にこの地域で徐々に名を上げ、今では地元への貢献度に比例して知名度もある。
そして手帳の最後には、祖父の字でこう書かれていた。
「もしお前があそこで働くなら、派手な手柄なんぞ追わんでいい。影で泥をかぶってでも会社を支えてやりなさい。それがの神の生き方だ」
だからこそ、森川会長の地域貢献という信念に共感していたし、祖父からの思いもあり、今までこの仕事をこなしてきたのだ。だが、こんなことになってしまった。
「じいちゃん……俺、十分頑張ったよね」
俺はそうため息をつき、疲れた体を休ませる。
翌朝、いつもの時間にアラームが鳴ったが、そうだ、俺はもう会社に行かなくていいんだと気づき、2度寝をした。すると、けたたましい着信音で目が覚める。時計を見ると9時を過ぎていた。着信の相手は、伊藤だ。すぐにまたかかってくるので、これに出ないと永遠と鳴らされると思い、電話に出る。
「おい、の神!

お前、今どこにいるんだ」
伊藤の叫び声が聞こえた。
「昨日、部長が『社外の人間は出ていけ』とおっしゃったので、もちろん自宅ですよ」
俺は冷静に返す。だが、俺の言葉に聞く耳は持たず、伊藤は「今すぐ会社に来い。森川会長が本社工場に視察に来られていて、お前を呼んでいるんだ」と慌てた様子だ。
「会長が? ですが、俺はもう退職した身ですので。の件は部長からお話しいただければと」
断ろうとしたのだが、
「つべこべ言わずに来るんだ」
と伊藤は相変わらず強い口調で命令し、こちらの返答も聞かずに電話を切った。
森川会長に最後の挨拶に行くか…。そんな気持ちで俺はいつものようにスーツを身にまとい、家を出た。
本社工場の応接室に着くと、重苦しい空気が漂っている調伊藤が滝のような汗を流しながら直立不動で震えていた。正面のソファーに座っているのは、森川会長。70代ではあるが、その背筋は伊藤よりもすっと伸びている調俺は、尊敬できるこの人の会社だからこそ、何を言われても耐え続けたのだ。本当は伊藤のパワハラを会長に直訴することだってできたはずだ。だがそうしなかったのには理由がある調伊藤を引き抜き、要職に据えたのは、他でもない会長自身だ。その判断を信じて任せた人事に、1社員が口を挟むのは筋違いだと思っていたのだ。
それに、こんな内輪の不満で会長の手を煩わせたくなかった。祖父の教え通り、影で泥を被るのが俺の役目だと思っていたから。だが、もう潮時だ。昨日の一件で俺の中の何かが、静かにしかし完全に折れた調この会社にしがみつく理由も、伊藤の顔色を窺う理由ももう俺にはない調今日はただ、世話になった会長への最後の挨拶のつもりだった。
俺が顔を出すと、
「おお、君、来たか」
と森川会長が声をかける。俺は「お久しぶりです。祖父の葬儀ではありがとうございました」と挨拶をした。その言葉に、伊藤がぴくりと反応する調伊藤は、なぜ森川会長が俺と繋がりがあるのかなんて分かっていない調
森川会長は、伊藤を無視したまま、
「とんでもない。おじい様にはお世話になりっぱなしだったよ」「それと、この間の出張ご苦労だったな調出張先の社長から、時々に感謝の電話があったぞ調『の神君のおかげでラインの停止を免れた。素晴らしい技術者だ』と言っていた」
と俺に話しかける。そして、
「さて、本題に入ろう調の神君、なぜ君が退職を? 」
と続けた調その一言に、伊藤がびくっと肩を跳ねさせる
「か、会長ですから調何度も申し上げました通り、の神は自分の無能さに耐えかねて自ら退職メールを出して荷物をまとめて去ったのです調突然のことで私も困惑しておりまして」
伊藤は必死の形相で言い訳を並べ立てる調
「そうか調だが、君が提出したこの業務効率化システム案だがね」
森川会長の冷やかな視線が、伊藤に突き刺さる調
「構造の思想が、君の過去のレポートと酷似している調それどころか、3ページの注釈に、の神作成の消し忘れのログが残っていたぞ」
俺の思った通りだ調伊藤は俺のシステム案を横取りし、自分の名前で提出していたのだ調
伊藤は森川会長に睨まれ、
「そ、それは、その、グの委託先と協力しまして」
しどろもどろに言い訳を続ける調
「外部委託だとの神君が出張に出た、その日に? か、だったらこの案は委託先の案なのか調その委託先の担当者、今すぐここに呼べ」
森川会長の鋭い追求に、伊藤は言葉をつまらせ、喉をごくりと鳴らした調
会長の視線が、再び俺へと向けられる調
「の神、君調本当のことを話してくれないか?
君がこんな形で会社を捨てるはずがないと思っている」
俺は深呼吸をし、伊藤の目を見る調伊藤は「余計なことを言うな」と脅すように俺を睨みつける調だが、もう怯える理由は何もなかった調
「会長、俺が出張ると、デスクの私物は全て撤去されていました調PCは初期化され、俺のアカウントから全社へ退職メールが送信されていたのです調もちろん、俺に身に覚えはありません調これを行ったのは、伊藤部長です」
俺はそう告げた調
「な、何を言っているんだ、の神? 冤罪だ調証拠はあるのか? 」
伊藤が大声を張り上げる調
「証拠ならありますよ、伊藤部長」
俺は冷静に答えた調
「俺の退職メールやPCの初期化は、おそらく部下の誰かを脅してやらせたのでしょう調部署内の人間に聞くか、防犯カメラでも見れば必ず証拠は見つかります調それに、社内システムには変更履歴やアクセスログを自動的に外部サーバーへバックアップする仕組みがあります調ファイルの作成者IDやタイムスタンプ、編集履歴のメタデータは、現場の担当者が主導で削除や改ざんをしても、本体データとは別に保存され続ける調このログ管理体制を構築したのは、他でもない俺自身です調だから、部長がどれだけ言い繕おうと、動かぬ証拠は必ず残っている」
そう確信していました調自分が徹夜で積み上げてきた仕組みが、まさかこんな形で自分自身を守る盾になるとは思わなかった調皮肉なものだと、心のどこかで小さく笑ってしまう調地道な仕事だと馬鹿にされ続けてきたが、その積み重ねこそが今、俺を救っている調
伊藤は「サーバーだと? 」と青ざめる調何がどこに証拠が残るかなんて、考えていなかったのだろう調これはもう、PCに疎いなんていうレベルじゃない調伊藤はデータさえ消せば全て隠蔽できると思い込んでいたのだ調バックアップログという概念すら理解していなかったのだろう調
「それに部長」
俺は伊藤をじっと見つめた調
「あなたは以前、俺にこう言いましたね調『地味な無能は現場で泥水でもすっていればいい』と調その無能が組んだシステムを、あなたは自分の手柄にしようとしていた調皮肉なものです」
伊藤は顔を真っ赤にして絶句した調
「それに会長」
俺は森川会長へ向き直った調
「俺はすでに、この会社の社員ではありません調伊藤部長が仕組んだ退職劇だろうと、それを通して俺を追い出したのはこの会社です調俺を信じず、確認もせずに退職手続きを飲んだ組織に、もう未練はありません」
「の神君、待ってくれ!
私は今日、君をこの工場の統括責任者に任命するために来たんだ! 伊藤は即座に処罰する! 」
森川会長が焦りを滲ませて立ち上がろうとする調だが、俺の決意は揺るがなかった調ここまで踏みにじられて、それでもこの会社に留まる理由などもう俺にはない調祖父が命がけで守ってきたものを、最後にこの手で終わらせる調それも1つのけじめだと思った調
「お気持ちは光栄ですが、もう無理です」
「それと会長、ご存知の通り、年商500億の本社工場の土地契約は即時解除になりますが、よろしいですね」
応接室の空気が、一瞬で凍り付いた調
「は、土地が? 1社員の退職と何の関係が」
伊藤は状況を理解できずに困惑し、森川会長がガタガタと肩を震わせ始めた調それは怒りではなく、会社を襲う絶望だ調
「…貴様、本当に何も知らなかったのか?
この本社工場が立つ10万坪の土地はな、君の亡きおじいさんが、創業者の私を信じ、破格の条件で貸してくださった土地なんだよ調契約書には条項がある調『の神家の人間が不当な扱いを受けて会社を去る場合、貸与契約は即座に解除され、会社は更地にして返還しなければならない』と」
「え、じゃあ、この工場は…明日から使えなくなるということか」
「立ち退きの木や更地の費用だけで数百億調生産ラインの停止も含めれば、我が社は即座に倒産だ」
「そんなバカな調の神、撤回してくれ! 本当はお前のことを無能だなんて思っていない調ちょっとした才能がある奴が羨ましかったんだ調嫉妬だよ、嫉妬! 」
都合のいい言葉を並べる伊藤に、俺は静かに首を振った調
「あなたは俺を散々侮辱してきた調土地のことが絡まなければ、あなたは俺を辞めさせたと満足していたんでしょ調俺があなたのパワハラに耐えてきたのは、会長への尊敬があったからです調ですが、それも終わりです」
森川会長が、
「…君のことはいい報告ばかりだったから期待していたのだが、ようやく実態が分かった調全て虚偽報告だったというわけか? 君は本日付けで懲戒解雇!
会社への損害、莫大な賠償を請求する! 」
と宣言調みっともなく座り込んだ伊藤を、警備員がすぐに連れ出した調悪夢のような静けさが戻った応接室で、森川会長は俺に向かって深く頭を下げる調
「の神君…本当に申し訳ない調会社を守るためとはいえ、君に甘え、酷い仕打ちを受けさせてしまった調…会社を潰してでも、この土地はお返しする」
誠実に頭を下げる会長の姿に、俺の胸は痛んだ調冷め切った感情と、意地になったプライドが邪魔をして、素直に首を縦に振れない調
その時、スマホの着信音が響いた調開くと、同僚や後輩たちから何通ものメッセージが届いていた調
「の神さん、すみません調伊藤部長に脅されて、PC初期化をさせられました調全部、人事部に告発しました」
「の神さん、いつも助けてくれてありがとうございます」
「みんなで退職取り消しを嘆願しています調戻ってきてください」
差出人の中には、俺が夜遅くまでサポートした若手の名前もあった調あの日、部長の視線に怯えて口をつぐんだ彼が、俺の知らないところで自分の身を危険に晒してまで動いてくれていたのだ調ああ、俺は1人じゃなかったんだ調固くなっていた胸が、じんわりと温かくなっていく調この会社には、俺の仕事を見ていてくれた大切な仲間たちがいる調
「森川会長」
俺は息を吐き、静かに呼びかけた調
「撤回させてください調俺、やっぱり辞めません」
会長が驚いて顔を上げる調俺はスマホの画面を見せ、照れ臭そうに笑った調
「意地になってすみませんでした調頼もしい仲間たちが待ってくれているみたいなんです」
森川会長の顔がぱっと明るくなり、目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた調
「もちろん! 本当にありがとう調の神君!
」
俺たちは固く握手を交わした調もちろん、土地の契約も正式に更新した調それから、森川会長の宣言通り、伊藤は懲戒解雇となり、莫大な損害賠償を背負うことになった調車や家を売り払い、妻には離婚され、身1つでアルバイトを掛け持ちする質素な日々を送っているらしいが、自業自得だろう調あれほど手柄と名声にしがみついていた男の、あまりにもあっけない末路だった調
俺は、親設された向上システムの統括責任者に任命された調伊藤のいない職場は風通しが良く、部下たちも生き生きと働いている調あの日、危険を承知で声を上げてくれた若手も、今では俺の右腕として奮闘中だ調会長も頻繁に現場へ顔を出すようになり、
「の神君の会社だな」
と冗談混じりに笑うのが最近の口癖らしい調
「じいちゃん…俺、まだまだこの会社で頑張るよ」
青空を見上げながら呟くと、脳裏に浮かんだ祖父が、どこか誇らしげに微笑んだ気がした。


