井川はかなり大きな声で、俺に向かってこう言った。
「お前、うちの課に来てから全然成果出せなかったもんな。無能がやっと転職するのか。いい判断だぜ。ま、今夜はお前の送別会なんだし、どんどん飲めよ。ただし、きっちり割り勘だからな。」
俺は言葉を理解できなかった。こいつは一体何を言っているんだ? 俺が混乱して黙っているのをいいことに、井川は言葉を続ける。
「っていうか、お前、次どんな仕事すんの? 技術は向いてないから、やめた方がいいと思うけどな。なんかさ、お前の提案って非現実的なんだよね。もう若くないんだから、もっと現実に目を向けろよな。」
そう言って、井川は俺の頭をこづいた。
俺の名前は高沢一。先月の誕生日で33歳になったばかりのサラリーマンだ。俺は子供の頃から時計が大好きだった。それは時計店を営んでいた祖父の影響が大きいと思う。祖父の手にかかれば、壊れた時計もあっという間に治ったものだ。それは幼い俺にとって、まるで魔法のようだった。俺も見よう見まねで自分の時計を分解しては、元に戻せなくなって、何度も祖父に泣きついたものだ。それでも祖父は俺のことを決して叱らなかった。「すぐ直してやるからな」と、いつも優しく言ってくれたのだ。
そんな祖父のことが俺は大好きだったので、ずっとそばにいてくれるものだと、勝手に思い込んでいた。だが、時間というものは残酷だ。止まることを知らないのである。俺が中学2年生になる頃、祖父は病気で亡くなった。祖父がやっていた時計店は、後継がいないので、そのまま閉店することになった。俺はそれがとても悲しかった。今でもその気持ちは変わっていない。
祖父が亡くなったことで、俺の時計に対する思いは、さらに熱を帯びていったような気がする。詳しい時計の仕組みなどを勉強し始めたのも、ちょうどその頃だ。そして俺は大学卒業後、「時計の川崎」という会社に就職した。
「時計の川崎」は、精密電子機器の製造販売を行っている企業だ。電卓や血圧計の他、もちろん社名にある通り、腕時計や置き時計も作っている。腕時計の生産量は国内1位だ。
俺は就職するなら絶対に時計に関する企業と決めていたので、内定の連絡をもらった時は、飛び上がるほど嬉しかった。
俺は技術系の部署を希望していたのだが、配属されたのは総務課だ。「まあ、何事も経験である。無駄になるようなことなんて、この世には何ひとつない。」
それは、今は亡き祖父がよく言っていた言葉だった。生きていれば、納得できないことに出くしたりもするが、その度に俺は祖父のこの口癖を唱えたりしたものだ。そして今回も同じである。それに、人生というものは面白いもので、どんな状況でも頑張っていれば、必ず運は向いてくるのだ。
だから俺は祖父の言葉を胸に、与えられた場所で一生懸命働くことにしたのである。
総務の人たちはみんな朗らかで、とても仕事のしやすい環境だ。特に課長の岸本さんは、新入社員である俺に対しても敬語で接してくれて、分からないことがあればすぐに聞ける環境作りに尽力してくれていた。岸本さんは、まさに理想の上司そのもののような素晴らしい人だ。そんなわけで俺は、恵まれた職場で社会人としての一歩を踏み出したのである。
そして現在、俺が入社してからおよそ10年の月日が経過した。ここまであっという間だったように感じる。
総務課の仕事にも慣れてきた中、先日突然俺に伝えられたこと。それは、技術部の開発課への異動だ。俺は以前から希望していた技術系の部署への異動に歓喜した。自分で言うのもなんだが、ここまで頑張ってきて本当に良かったと思う。まあ、正直に言えば、総務課での日々は岸本さんをはじめとする職場のみんなのおかげで、そんなにしんどいものではなかったのだが。
時の流れは目まぐるしい。あっという間に、俺は開発課のオフィスへ初めて出社する日を迎えた。
緊張よりは、ワクワクとした楽しみな気持ちの方が大きい。俺は新たな自分のデスクに荷物を置くと、開発課の人たちに自己紹介した。みんな笑顔で俺の話を聞いてくれている。「ここでの日々も総務課の頃と同じく、きっと良いものになるに違いない。」俺はそう確信したのである。そんな俺の予想が外れることになるとは、この時はまだ気がついていなかったのだ。
その日の昼過ぎ、1人の男がオフィスに入ってきた。どうやらこの男は、今頃になってようやく出社したようだ。何か外で用事でもあったのだろうか。それにしても随分と身だしなみがだらしない。スーツはよれよれで、ズボンからワイシャツがはみ出している。無精ひげや寝癖がついたままの髪型も、あまり良い印象を与えない。
男は俺の方に近寄ってくると、「お前、誰だ」と尋ねてきた。俺は立ち上がって、改めて自己紹介することにした。すると男は、「俺は開発課の課長、井川だ」と名乗った。
正直、こんなだらしのない男が開発課の課長だなんて思っても見なかったので、俺は驚いてしまう。そんな俺の様子などお構いなしに、井川は「総務課は随分と甘いって噂だが、ここじゃ今までのようにはいかないからな。ミスしたら即刻首が飛ぶと思え。」と半笑いで俺に告げた。その口元から見える歯はかなり黄ばんでいる。口臭もかなりきつく、まるで下水のようだ。どこまでも不潔な男である。初対面の相手に対して俺が不快感を覚えたことは、言うまでもない。
それから数ヶ月が経過した。井川は何かと俺に対してネチネチと嫌みを言ってくる。それなのに、自分はまるで仕事をしていない。どうやらこいつは、何もかも部下に押し付けるタイプの人間みたいだ。
総務課の課長だった岸本さんとは、正反対の人物である。「どうしてこんな無能でもない男が、開発課の課長なんて慣れたのだろうか。」本当に不思議でならない。
俺はこの頃、井川のせいで会社に行くのもおっくうだ。仕事にもいまいち身が入らない気がする。「あいつさえいなければ、気持ちよく働けるのに。」だが、愚痴ばかり言っていても仕方がない。「馬の合わない人間というのは、どこにでもいるものなのだ。」俺は自分にそう言い聞かせて、どうにか毎日を乗り切っている。
そんな中、送別会が開かれることになった。仕事を終えた俺を含む開発課の人間たちは、みんな会場である居酒屋へ向かう。居酒屋に到着すると、そこには井川の姿があった。すでにかなり酔っ払っている様子だ。「仕事を早退したと思ったら、こんなところで飲んだくれていたなんて。」正直、こんなゴミクズみたいなやつを自分の上司だとは思いたくない。
みんなが席に着くと、井川は俺に絡んできた。そして井川は、かなり大きな声で俺に向かってこう言ったのである。
「お前、うちの課に来てから全然成果出せなかったもんな。無能がやっと転職するのか。いい判断だぜ。ま、今夜はお前の送別会なんだし、どんどん飲めよ。ただし、きっちり割り勘だからな。」
こいつは一体何を言っているのだろうか。俺は井川の言葉が理解できなかった。
俺が混乱して黙っているのをいいことに、井川はどんどん言葉を続ける。
「っていうか、お前、次どんな仕事すんの? 技術は向いてないから、やめた方がいいと思うけどな。なんかさ、お前の提案って非現実的なんだよね。もう若くないんだから、もっと現実に目を向けろよな。」
そう言って、井川は俺の頭をこづいた。
さらに井川は、どこで聞いたのか、「ところで、お前のじいさんって時計屋だったらしいじゃねえか」と、俺の祖父の話まで始める。
「どうせ小さい店だったんだろ。っていうか、もうその店とっくに潰れてるらしいけどな。いやあ、残念だったな。うちの会社の仕事もまともにこなせない脳なしのお前が継ぐには、ちょうど良さそうなのにな。」
俺だけが馬鹿にされるのであれば、まだ我慢はできる。だが、祖父のことまでこんな風に攻撃される筋合いなんてない。
俺は井川に、「あの、井川さん、先ほどから一体何をおっしゃっているんですか」と尋ねた。
すると奴は、「はあ?

何その態度? この俺にそんな生意気な口聞いていいと思ってんの? 俺はお前の上司だぞ。少しは立場ってものをわきまえろよな」と顔をしかめた。
答えにならない言葉を返されて、俺は心底うんざりしてしまった。
いくら上司だからって、部下に何を言ってもいいなんてルールはこの世に存在しない。そんなことも分かっていないなんて。上に立つ人間として、こいつは完全に失格だ。
井川はどんどんビールジョッキを空けていく。どうやら酒だけは強いらしい。奴は、誰も聞いていないのに、自分の手柄自慢を続けている。
そもそもこいつは、さっきから俺を無能扱いしているが、実際に仕事ができないのは井川の方だ。井川はとにかく部下にばかり仕事をさせ、自分は怠けてばかりなのである。
いつも規定の出社時刻を大幅に過ぎてからオフィスにやってきたり、何かと理由をつけて早退を繰り返しているのもいただけない。「自分が課長という立場であるのをいいことに、やりたい放題しているのだ。」
「こんな奴が今まで自分よりも多く給料もらっていたのか」と思うと、納得がいかない気持ちになる。
井川はさらに酔いが進んだらしく、俺の背中を結構強い力でバンバンと叩いてくる。
「酔っ払いはとても厄介だ。」他人に迷惑をかけるなら、その酔い一滴も飲まなければいいのに。だが、こういう奴は、そんな他人への気遣いの心など持っていないのである。それに、アルコールを断つ覚悟なんてものも、完全に欠如しているのだ。実に浅ましい限りである。
井川は俺に、「いやあ、お前が強引にうちの会社辞めてくれるの、本当に嬉しいよ。高沢はマジでありがとうな。2度と顔見せるんじゃねえぞ」と大笑いしながら言った。
さすがにこれ以上こいつのことを相手にしてやるのはもう面倒くさくなったので、井川の言葉に俺は真顔で答える。
「井川さん、冗談もいい加減にしてくださいよ。今日は、私の送別会ですけど。」
「そう何度も同じ冗談をひたすら繰り返されても、さすがに笑えないんで、やめてもらえませんかね。」
俺の言葉を聞いた井川は「へ? 」と言ったきり、動きをピタッと止めてしまった。
まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
俺は「あれ、もしかしてご存知なかったんですか?
井川さんは、今日限りで開発の課長から外されるんですよ」と告げる。
「いやいやいや、そんなわけねえだろうが。お、お前、何言ってんだよ。あんまりふざけたこと言ってると、承知しねえからな」と、慌てた口調で俺の言葉に反論した。
どうやらこいつは、本当に何も知らないらしい。
そこで俺は井川に、親切に教えてやった。
「明日から、私が開発課の課長になるんですよ。」
「井川さんは、確か子会社の宝ウォッチに飛ばされるって聞きましたけど。」
井川は「お前が課長になって、この俺が子会社に左遷されるだと。そんなバカな。いや、絶対ありえないだろう」と声を荒げる。そして奴は俺に詰め寄り、「どういうことか説明しろ」と言ってきた。
別に俺が人事を決めているわけではないので、これ以上は答えようがない。だが、バカなこいつはそんなことなどお構いなしだ。ひたすら俺に説明しろと迫るばかり。
困った俺は、ある人物を呼ぶことにした。俺はスマホを取り出し、電話をかける。
それから10数分後、居酒屋にやってきたのは、「時計の川崎」の人事部長、橋村さんだ。俺がさっき電話で呼んだ相手である。
井川は橋村さんの姿を見つけるや否や、俺から離れて、今度は橋村さんに詰め寄った。
奴は「橋村部長。今回の人事はどういうことですか? 大体、こんな無能が新しい課長だなんて、おかしいじゃないですか」と、俺を指差しながら橋村さんに尋ねた。
そんな様子を見た橋村さんは、「おい、他人のことを指差してはいけないって、子供の頃に言われなかったのか」と呆れた表情を浮かべる。
「別に何もおかしいところはない。」
「高沢君の仕事ぶりは、総務にいた頃から評価が高かった。」
「まあ、彼が開発課に異動後間もない異動になったのには、ちょっとした事情もあるしな。」
そう言って、橋村さんはまるで汚いものでも見るような、眇めた瞳で井川をじっと見た。
井川はそんな視線に少し怯みながら、「な、何ですか、その事情っていうのは」と問いかける。
それに対して橋村さんは、「自分で分かっていないのか。以はお前、とんでもなく鈍感なやつなんだな」と苦言を呈した。
「これまで、開発課の社員の多くから、井川に対する苦情がたくさん寄せられているんだ。」
「仕事もせずに毎日遅刻や早退ばかりの人間は、課長にふさわしくないってね。」
井川はすぐに周りにいた俺を含む部下たちを睨みながら「お、お前ら、余計なことしやがって。告げ口するなんて、卑怯だぞ」と逆切れを始める。
橋村さんはそんな井川を「やめないか。部下に八つ当たりするなんて、見苦しい。それよりも、少しは自分の行動を省みたらどうなんだ」と注意した。
だが、井川はそんな言葉に素直に従うような、まともな人間ではない。
井川はまた俺の方へズンズンと近づいてくる。奴は「おい高沢。告げ口したのは、お前だろうが。」
「お前、自分が出世したいからって、俺のこと陥れやがって。絶対許せねえからな」と言った。
そして、次の瞬間、とんでもない行動に出たのである。
井川は俺の襟元に掴みかかったのだ。そして握り拳を作り、それを俺の頬めがけて思いきりぶつけようとしてきた。
だが、今この場にいる人間は全員、井川の味方ではない。むしろ、井川に不満を持っている人々しかいないのである。
井川が俺を殴る前に、開発課の俺の同僚たちが、奴をあっという間に取り押さえてくれた。
こいつがいかに人望がないか、この光景を見ていると、とてもよくわかる。
橋村さんは「俺を殴ろうとしたのか。」
「暴力に訴えようとするなんて、社会人としてありえない。」
「お前のようなゴミ屑同然の人間なんて、子会社に飛ばすことも考え物だな」と眉を潜めた。
そして橋村さんは「今の行動は、絶対に見逃すことはできない。上にも報告させてもらうからな。」
「それ相応の処分を覚悟しておけ」と冷たく言い放つ。
井川はまだ怒りが収まらないらしく、近くのテーブル上にあった空のビールジョッキを手に取ると、それを今度は橋村さんめがけて投げつけた。
幸い、橋村さんはビールジョッキをうまくかわしたので、怪我はなかったが、一歩間違えたら大事故になりかねない行為だ。
それから、ビールジョッキの割れた音を聞きつけた店員さんが、心配そうに駆けつけてくれた。俺はすぐに「警察を呼んでください」とお願いする。
井川は「警察だと. 冗談じゃねえ。なんでこの俺が、こんな目に遭わなくちゃならねえんだ」と怒鳴った。
奴は完全に自制心を失っている。
いい年をして、自分自身の感情をコントロールする術を、全く身につけていないらしい。まるで子供のようだ。
橋村さんは「今の私に対する行為、もちろん上に伝えるからな」と、井川を鋭い目で睨みつける。
井川は「勝手にしろ」と叫んだかと思うと、急に大人しくなって、脱力したようにその場にへなへなとへたり込んでしまった。
そして、信じられないことに、今度は大粒の涙をポロポロと流し始めたのである。
怒ったかと思えば、今度は泣き出すなんて、忙しいやつである。
俺は予想していなかったその涙を見て、思わずふっと吹き出してしまった。
井川はそんな俺を見て、泣きじぐれながら「笑うんじゃねえ、この野郎」と抗議する。
なんて見苦しい姿だろうか。
井川がこんなことになっているのは、アルコールのせいもあるが、それ以上に、こいつがとんでもない無能だからこそ、こんな醜態を晒しているのだろう。
俺は、自分が井川のような頭のおかしい人間ではないことに、心の底から感謝した。
井川の涙は止めどなく流れている。おいでで呼吸もうまくできないくらいだ。
橋村さんは呆れ果て、頭を抱えている。
騒いでいるうちに、数名の警察官が居酒屋に到着した。
警察官は井川を連れて行こうとする。だが井川は、まるで駄々っ子のようにそれを拒否し、床に寝転んで「やめろ」と大声をあげている。
涙でぐしゃぐしゃなその顔は、醜態としか言いようがない。「これ以上、恥をさらすような真似は、よせばいいのに。」
井川を見ていると、仮にも今まで同じ職場で働いていた人間として、こちらの方が恥ずかしくなってしまう。
警察官はこんな質の悪い酔っ払いの扱いなど、慣れたものらしく、井川を起こして、そのままパトカーの方へと連れて行く。
パトカーに乗せられる間に、井川は「覚えてやがれ」と、まるで雑魚キャラのような捨てゼリフを吐いた。
最後まで器の小さい男だ。
そしてパトカーは、井川を乗せて去っていったのである。
俺はようやく、と一息つくことができた。
それから開発課のみんなと橋村さんとで、飲み直すことになった。
井川のいなくなった宴席は、信じられないくらい楽しいものだった。
パトカーで警察まで連行された井川は、警察に相当叱られた後、今回のところは起訴猶予になったらしい。
橋村さんが上層部に今回の一件を報告したこともあって、井川には懲戒解雇が言い渡された。
仕事を失った井川は、今までにも増して、アルコールに溺れるようになったそうだ。
だが、酒というものは水とは違う。
蛇口をひねれば出てきたりするものではないのだ。
仕事すら探すことのない生活を続けるうちに、井川の貯金は底をついた。
酒を買うことすら困難になった井川は、ある日、スーパーで缶ビールを万引きしたそうだ。
犯行現場を店員に見られた井川は、走って逃げたらしい。だが、あっけなく捕まって、再び警察のお世話に。
自分自身を改めない限りは、もう二度と明るい生活を送ることはできないだろう。
俺はといえば、開発課の課長として、慌ただしくも充実した毎日を送っている。
井川がいなくなったことで、オフィスの空気はガラッと変化した。
みんないつも笑顔で、楽しそうに働いている。「やはり、職場の人間関係というものは重要だ。」
社員一同、今は新製品の開発に全力を注いでいる。
この新製品がヒットすれば、「時計の川崎」の評判は、ますます良くなることだろう。
そのためにも、できる限りの力を発揮したいものだ。
大好きな祖父も、俺の頑張りをきっと天国で見てくれているに違いない。そう思うと、俺は自分が持っている以上の能力を出せそうな気持ちになってくる。
俺はこれからも、大好きな時計と共に、豊かな人生を歩んでいきたい。


