私はゴミ袋を受け取り、振り返ろうとした瞬間、あることに気づいた。高雪の額にうっすらと汗が浮いている。室内はエアコンが効いているから暑いはずがない。さらに頬もほんのり赤い。つい先ほどまで激しい運動でもしていたかのようだ。
怪しい——。胸の奥で何かが警鐘を鳴らす。今まで見ないようにしていた疑念が一気に膨れ上がる。何かあると確信した
分かった。私がわざと明るく返事をすると、高雪はほっとしたように笑う。助かる。私はゴミ袋を持って玄関を出る。ドアが閉まった瞬間、廊下の角まで走り、すぐさま5秒でゴミを捨てて戻った。音もなくリビングに飛び込むと、勢いよくこちらを振り返る高雪。私の姿を見た瞬間、リビングの奥にいた高雪は目を見開いた。まるで幽霊でも見たかのような顔だった
私は斎藤はるか。35歳。家事代行会社で正社員として働いている。主な仕事は依頼された家の掃除や洗濯、片付け、作り置きなどの調理を頼まれることも多い。派手な仕事ではないが、やるべきことは山ほどあり、ミスも多いためそれなりにハードだと思う
幸い利用者には恵まれているので、4年前に転職して以来ずっと同じ職場で続けられた。夫の高雪とは結婚して5年。子供にはまだ恵まれていないものの、その分夫婦で過ごす時間を大切にしてきたつもりだ。休日には一緒に買い物へ出かけたり、近所のカフェでのんびりしたり——特別贅沢な暮らしではないが、私は今の生活に満足していた
結婚生活は概ね順調と言えるだろう。唯一の懸念点は、高雪が多少依存的だなと感じるところだ。食事の好みにはうるさいし、自分の服や持ち物を私に管理させることも多い——「はるか、あのシャツどこ?」「靴下出しておいて」——毎日尋ねられるたびに、子供ではないのだから自分でやってほしいと思うこともあった。時々、私は高雪の母親なのだろうかと自問自答したくもなる
それでも彼は真面目に働いているし、一緒に家計を支えてくれているのも事実だ。重たい荷物は言えば持ってくれるし、私が体調を崩した時には病院へ連れていく優しさもある。だから高雪に少しくらいわがままのところがあっても仕方ない——彼は妻に甘えたいタイプなのだろう。私は結婚してすぐに割り切ることに決めた
実際、夫婦仲はうまくいっていたと思う。友人たちからは「はるかのところって仲いいよね」と言われることも多く、私自身も肯定していた。意見の対立はあっても夫婦喧嘩はほとんどない。記念日には外食にも連れて行ってくれる——結婚生活は順調そのもの。少なくとも私にはそう思えていた
将来のことも2人で話し合った——子供は授かりものだから焦らないようにしよう、もう少し貯金が増えたらマンションの購入もいいかもしれない——同じ方向に歩いていける私たち夫婦は素敵だと、私は高雪のことをすっかり信じきっていた。ある意味傲慢で思い上がっていたのかもしれない。まさか私たちの結婚生活が、すでに壊れ始めていたなんて想像すらしていなかったのだ
高雪が変貌したきっかけは、仕事での昇格だった。元々決して高収入というわけではなかった私たち——同年代の平均くらいか、むしろ少し下程度——だからこそ我が家は最初から共働き前提だ。私も正社員として働き続けているし、家計は夫婦で支えるものだと思っていた
ある日の夕食中もそうだった。高雪は味噌汁をすりながら、ため息混じりに行った——「今年も昇給は3000円だってよ」「私も同じくらいかな」「まあ上がるだけいいじゃない」「3000円なんて誤差だろ」——呆れたように高雪に私は肩を竦める——「でもないよりはいいよ。積み重ねれば大きいし」「お前は本当に前向きだな」——そうかな——実際私はそこまで気にしていなかった
しかし状況は一変する——「うちの会社、合併が決まるってさ」——高雪の務める会社が大企業との合併を発表したのだ。最初は社内も混乱していたらしい——部署の再編や人事移動の噂が飛び交い、毎日のように会議が開かれていたという。高雪も帰宅すると「今日は会議ばっかりだった」「また組織変更だよ」と愚痴をこぼしていた
ところが、その数ヶ月後、突然事態が大きく動いた——その日の高雪は珍しく上機嫌で帰宅した——玄関のドアが開いた瞬間から様子がおかしい——鼻歌まで歌っている——スキップしかねないほど上機嫌だ——「何かいいことあったの?」尋ねると、彼は待ってましたと言わんばかりに胸を張った——「驚くなよ——昇格が決まっちゃいました」「え、本当に?」思わず大きな声が出た——しかも役職付きだから——「すごいじゃない」——高雪は満面の笑みを浮かべる——その顔は私が今まで見たことがないくらい誇らしげだった——さらに聞かされた新しい給与額に私は再び驚くことになる——「え、そんなに上がるの?」「ああ、手当てもつくし、賞与も変わる」——これまでとは比べ物にならないほどの増額だった
正直、羨ましいというより安心した——不安は減り、将来の選択肢が増える——何より高雪の努力が報われたと思うと、自分のことのように嬉しかった——その日の夕食は急遽近所の焼肉店へ行くことになった——乾杯をしながら私は言った——「本当におめでとう——頑張ってきたもんね」「まあな」——照れくさそうに笑う高雪——この時の私は信じていた——合併も昇格も、私たち夫婦にとって幸せな出来事だと——生活がもっと豊かになり、将来が明るくなるはず——まさかこの昇格を境に、高雪が少しずつ変わっていくなんて思いもしなかったのだ
慌ただしい平日の朝——私はキッチンで朝食の片付けをしながら、自分の出勤準備も進めている最中だった——不意に高雪に声をかけられる——「おい、このシャツアイロンかけた?」「え?」洗えた食器を水切りラックへ置き、時計を確認する——あと15分で家を出なければ遅刻してしまう——そんなタイミングで寝室の方から不機嫌そうな声が響いたのだ——「おい、聞いてるのか?」「ごめん——聞いてる——聞いてる」慌てて寝室へ向かうと、高雪はYシャツを両手で広げながら眉を潜めていた——まるで重大な欠陥でも見つけたかのような顔だ——「シャツ?それノーアイロンだから、かけてないけど」
近づいて彼の掲げるシャツを確認する——しかしどこを見ても特に問題は見当たらない——襟元も整っている——袖も綺麗だ——強いて言えば、洗濯後に自然についた程度のわずかなシワがあるくらい——「何か気になるところあるの?」「全体的にだよ」「いや、でもそのシャツって——」私は言いかけて口を閉じた——そもそも日常使いのシャツにアイロンなどかけていない——火事代行の仕事をしておいてなんだが、私も高雪もアイロンが苦手——何十分もかけて頑張っても結局どこかにシワが残る——だったら最初からノーアイロンシャツを使おうと、結婚した当初2人で話し合って決めたものだ——それから5年間、高雪が文句を行ったことは1度もない
「今日何かイベントがあった?それならクリーニング済みのものがクローゼットにかかってるけど」—基本的にノーアイロンに頼っていたが、役員会議や先との会食など大事な予定がある日は別だ——そのためのシャツだけはプロであるクリーニング店が仕上げたものを準備してある——もしかして、なかった?私は純粋に確認した——ところが高雪は鼻で笑った——「はっ」——あまりにも冷たく乾いた笑いに胸がざわつく——以前の彼ならこんな言い方はしなかった——「お前はそうやっていつも手を抜くけどな」「手を抜く?」「いい加減アイロンくらいかけろよ」——言うと同時に、彼はシャツを乱暴にベッドへ置き、腕を組んだ——「主婦だろうが、ただ養われて恥ずかしくないのか」「私も働いてるけど」——早くなる鼓動を隠して、できるだけ冷静に告げた——しかし彼はすぐに反論してくる——「働いてるって言っても、高が家事だろ——稼ぎだって俺と全然違うし」「正社員なんだから、それは関係ないでしょ」「それに稼ぎの差がついたのは最近のことで——」「うるさい——関係あるだろ——俺は管理職なんだよ——ただの平社員と一緒にされたくない」
私は黙り込み、心の中で「またか」とため息をついた——高雪は昇格してから尊大な態度が増えている——以前なら「ごめん、でも次からお願いしたい」など、私が不快にならないように気をつけてくれていた——だが最近の高雪は違う——むしろ煽っているかのような物言いをする——自分の役職や収入を持ち出しては、私を見下すような発言が増えていた
もちろん、昇格したこと自体はすごい——高雪が長年努力してきた結果だ——だから誇らしく思っている——ただ、その成功理由に他人を馬鹿にするのは違うのではないか——嬉しさのあまり浮かれているだけならまだいいけれど、もし今後もずっとこの調子だったら——考えるだけでぞっとした——まだ初期の今のうちに話し合うべきだろうか——口を開きかけて、私は言葉を飲み込んだ——今はそのタイミングではない——朝から言い争いをしていたら遅刻する可能性もある——やっとの思いで吐き出したのは、高雪への謝罪だった——「分かった——ごめん——今度から気をつけるね」
高雪はようやく満足して頷いた——「そう——最初から素直に言えばいいんだよ——下のものは上のものを敬わないとな——特にお前は、俺に養ってもらってるも同然なんだから」——まるで部下を指導する上司のような口調だ——私は黙ったまま時計を見る——出勤まで残り10分——急がなければいけない——焦る私をよそに、高雪は自分だけさっさと家を出る——胸に手を当てると、小さな棘が刺さったような痛みが残った
共働きの我が家の家事は、ほぼ私が担当していた——元々嫌いではなかったのが1番の理由だが、料理はもちろんのこと、洗濯も掃除も全部私——平日の献立を考えるのも、トイレットペーパーや洗剤の在庫を管理するのも、季節ごとの衣替えをするのも、全てだ——一方の高雪はゴミ出しすらしない——ゴミ袋を玄関に置いておいても、その横を何事もないように通り過ぎる
最初は不満もあった——結婚当初、私たちの勤務時間や収入はほぼ変わらなかった——なのに家の家事の全てを私が担当するのは、不公平ではないか——そう思い、何度か話し合いをしたこともある——結婚して間もないある日の夕食後、シンクに食器を運びながら私は言った——「ねえ、少しくらい家事を分担できないかな?」——すると高雪は困ったような顔をする——そして次の瞬間、なぜか両手を合わせていた——「お願いします——家事ははるかにお任せしたいです」——あまりにも勢いよく頭を下げるものだから、思わず笑ってしまう——「俺、どうしても家事苦手でさ」「苦手って言ってもね、やれば誰だってできるんだし」「本当に向いてないんだって」——彼は必死な様子で言葉を続ける——「洗濯したら縮むし、拭いたら洗い残しあるし——」「慣れればできるよ」「皿なんてすぐ落として割るし」「気をつければ大丈夫だって」——高雪は「あわわ」と自分が家事をできない自己アピールを繰り返す——「掃除——掃除くらいならできるけど、はるかのおかげで十分綺麗だし」「それは私がやってるからでしょ」
家事はチキンレースとなるものが多い——任せようとしても、結局汚い状況に耐えられず私が動いてしまうのだ——「だって苦手なんだよ——お願い——はるかはプロだろ」——家事をするくらいなら頭を下げる方がマシなのだろう——赤子のごとく何度もペコペコする高雪の様は、妙に情けなく、同時に少し可愛く見えてしまった——「ああ、もう」——思わず笑いながら、高雪の肩を叩く
実際、高雪は不器用だった——結婚前に一緒に食器を洗ったことがある——しかし本当に洗い残しが多かった——泡が残っていたり、汚れが落ちていなかったり——何度も手を滑らせて皿を落とし、その度に慌てて謝っていた——洗濯物を畳ませればぐちゃぐちゃで、料理をさせればキッチンが第三次世界大戦後——当時も横で見ていて「私がやった方が早い」と思ってしまったのだ——「仕方ないなあ」——すると高雪は急に顔を輝かせた——「その代わり——」「ん?」「週末のデートは俺が奢らせてもらいます」——自信満々に胸を叩くドヤ顔に、私はまた吹き出す——「そうやってごまかすんだから」「ええじゃん」——彼は笑いながら私の肩を抱いた——「はるかには感謝してるんだよ——本当に——本当——本当」——しまいには額にまでキスまでしてくる
今思えば、ずるい人だった——正論で押し切るのではなく、甘えて笑わせてうやむやにしてしまう——でも当時の私はそれが嫌ではなかった——むしろ愛されていると感じていた——恋は盲目とはよく言うものだ——「まあ、それなら」——結局ラブラブだったこともあり、私は安易に承諾してしまった——まさか数年後、その「お願い」がいつの間にか「お前がやって当たり前」に変わるとは、思いもしなかった
仕事から帰宅後、テーブルに置きっぱなしの朝食の皿を見て、私は当時のことを後悔していた——甘やかすべきではなかった——もちろん楽しかった思い出はたくさんある——結婚生活は後悔ではない——それでも今の状況を見ると考えてしまう——あの時、もう少し厳しく言っていればよかった——家事の分担を曖昧にせず、最初からきちんとルールを決めていれば、高雪も少しは家のことをする人になっていたのではないかと
今日は私が先に家を出たからか、シンクに食器がそのまま——流し台に下げるくらいしてって言ってるのに——独り言を小さくつぶやきながら皿を手に取る——食べ終わった食器はテーブルの上——飲みかけのコーヒーカップもそのままだ——パンくずまで散らばっている——まるで小さな子供が食べた後のようだった——私は黙って皿を重ねる——そしてシンクへ運ぼうとしたところで、今度は別のものが目に入った——床に散乱したシャツとネクタイだ——寝室からリビングまでの通路に点々と落ちている——高雪が通った道を示す目印のようだ
「はあ……」——思わず深いため息が漏れた——最近の高雪はやたらと身だしなみに気を使うようになった——昇格してから特にそうだ——以前は5分で終わっていた身支度が、今では20分以上かかる——毎朝洗面台を独占し、髪型を何度も整える——ワックスをつけては流し、また付け直す——ネクタイも1本では決まらない——鏡の前で何本も合わせては首をかしげている——「選ぶのはいいけど、元の場所にしまって欲しいな」——私は床のシャツを拾い上げる——せっかく洗って畳んだものだ——このまま放置されればシワになる——いくらノーアイロンでも、アイロンをかけるか洗い直さなければならない——それがどれだけ面倒か、家事をする人間なら誰でも分かるだろう——だが高雪には伝わらない
以前、勇気を出して言ったことがある——「ただ試着しただけの服は、もう一度クローゼットにかけてくれない?洗濯し直すのは大変だから」——すぐに高雪は呆れたような顔になる——「何が大変なんだよ」「え、洗うのは洗濯機だろ」——正直イラっとした——「あのね、そういう問題じゃなくて——」「お前は投げ入れればいいだけじゃん」——反笑いで高雪は言う——確かに洗濯機が洗う——でも、その前後は誰がやっているのか——服を集めるのだって面倒だ——ポケットの中を確認する必要もある——洗剤の補充だって——干すのも、取り込むのも、畳むのも、洗濯機だけではできない——当たり前のように着られる状態にしているのは私なのだ——けれど高雪にはその労力が見えていないらしい——「そうだね」——あまりに呆れ果てた私は、それ以上反論するのをやめた——何を言っても無駄だと分かっていたからだ——むしろ口ごたえしたと捉えられたら、高雪が不機嫌になるだけだろう——「めんどくさい女だな」「そんなことで文句言うなよ」と、捨て台詞と共に帰ってくるに決まっている
私は黙って服を拾い続けるしかなかった——1枚、また1枚——床からシャツを持ち上げながら、ふと考える——昇格する前の高雪も、家事をしてくれる人ではなかった——でも少なくとも感謝はしてくれていた——「ごめん」「ありがとう」など、お礼と謝罪はあった——それが今ではどうだろう——感謝どころか、家事をするのは当然——むしろ少しでも不満をもらせば「私の努力不足だ」と言わんばかりに攻め立ててくる——「もっと大変な人はいるんだぞ」と鼻で笑うのだ
「変わっちゃったな」——誰にも聞こえない声でつぶやく——「大体、なんで今更おしゃれに?」——まあいっか——散らかったネクタイを拾いながら、胸の奥に広がる重たい違和感を押し込めるのだった
これまでの浮気を疑ったことなどなかった——もちろん結婚生活が長くなれば多少の不安はある——だが私は自分が愛されていると思っていたし、何より高雪は器用な人間ではない——彼は嘘をつけば顔に出るし、隠し事をすれば態度が変わる——長年一緒に暮らしてきた故に、それはよく分かっていた——だからこそ気づいてしまったのだ——やっぱり高雪は変わっていない——不器用なままだ——おかげで今、私は高雪が浮気していると確信していた
最初は小さな違和感だった——急に見だしなみに気を使い始めたこと、香水を使うようになったこと、以前は興味もなかったスキンケア用品を買い込んできたこと——それだけなら昇格が理由かもしれないと思えた——しかしその後も違和感は増え続けた——残業が急激に増えたのだ——以前は遅くても20時には帰宅していた——それが今では22時、23時が当たり前——ひどい時は終電になる——しかも仕事内容を聞いても、曖昧な返事しかしない——「会議」「接待」「取引先との付き合い」などと、便利な言葉ばかり並べる——そして決定的だったのは、週末の朝帰りだ——会社員生活に疎い私でも分かる——休日の朝まで続く仕事など、早々あるものではない
「お帰りなさい」——静かな玄関で声をかける——時刻は午前7時過ぎで、外はすでに明るくなっていた——鍵が開く音が聞こえたため、私はあえて玄関で待っていたのだ——高雪は足を踏み入れた瞬間、びっくりと肩を震わせた——まるで幽霊でも見たかのような顔だ——“いたのか——びっくりさせんなよ”——“当たり前でしょ——土日休みなんだから”私は平然と答える——すると高雪は目を泳がせた——“ああ——”私は「お疲れ様——朝帰りなんて大変だったね」と、わざと優しく言う——しかし高雪の表情は硬いまだ——私の顔から目をそらし、視線は落ち着かない——以前なら「本当に疲れた——聞いてくれよ」と仕事の愚痴をこぼしていたのに、今は違う——何かから逃げるように靴を脱ぎ、足早に廊下を進んでいく——“お風呂入る?”——短い返事だけを残し、そのまま風呂場へ向かう彼を見て、私はあることに気づいた——右手だ——彼はスマホを握りしめていた——以前なら帰宅後はテーブルに放り投げていたのに、今ではトイレにも風呂にも持ち込む——寝る時ですら枕元から離さない——通知が鳴れば即座に画面を伏せた——私が近づくと反射的にロックする——あまりにも分かりやすかった
黙って高雪を見送り、浴室のドアが閉まる音がした——私は小さく息を吐く——正直、悲しさよりも呆れの方が大きかった——ここまで露骨だと、逆に笑えてくる——疑い始めた頃は「私の考えすぎかもしれない——仕事が忙しいだけだろう」と自分に聞かせていたけれど、もう無理だ——証拠こそないが、長年連れ添った妻の勘が告げている——高雪は浮気している——そして今も浮気相手と連絡を取り続けていると
私は静かにテーブルへ視線を落とした——焦りは禁物だ——感情的になる必要もない——もし本当に浮気しているのなら、まずは証拠を集めるべきだ——言い逃れできないくらい、しっかりと——そう決意した瞬間だった——浴室の中から、スマホの通知音が小さく響いたのは
気を抜くと涙が込み上げてくる——高雪が私に冷めているのは明らかだった——それでも私はまだ彼のことが好きなのだろう——結婚して5年——楽しいことばかりではなかったが、それなりに幸せだったと思う——だからこそ今の状況が苦しかった——露骨な態度——見下すような言葉——以前なら絶対に言わなかったような嫌み——そんなものを向けられるたびに、胸の奥がジクジクと痛む——私が傷ついていることなど、高雪は気づいているのだろうか?もしかすると、どうでもいいのかもしれない——考えれば考えるほど苦しくなった
「おい、朝飯早くしろよ——この後出かけるから」——落ち込む暇もなく、脱衣所から大きな声が飛んでくる——以前なら「ごめん——疲れてるのにありがとう」と一言添えてくれていたのに、今では命令口調だ——まるで家政婦に指示を出しているようだった——職場のお客様にもあんな言い方はしないわね——私は包丁を握ったまま、小さく目を閉じる——もし高雪が本当に浮気していたら、私はどうするのだろう——許せる自信はない——ならば別れを決意するか——何よりも気になるのは、高雪が考えていることだ——私と離婚したいのだろうか?もしくは—ただの遊びの可能性もある——答えの出ない妄想が頭の中をぐるぐると回り続ける
けれど、今は心配しても仕方がない——私は気持ちを押し込めるようにして冷蔵庫を開いた——卵を割り、味噌汁を温める——焼き魚をグリルに入れ、ご飯を盛る——いつもと同じ朝食だ——なのに、どうしてこんなにも虚しいのだろう——少し前まで、この時間は嫌いではなかった——“美味しい”と言って食べてくれる人がいたからだ——今はもう、そんな言葉を聞くこともない
「なあ、腹減った」——風呂から出るなり、高雪は真っ先にテーブルへ向かった——髪はまだ濡れたまま——肌着の状態で椅子に腰を下ろし、当然のように箸と茶碗を手に取る——まるで料理が並んでいて当たり前だと言わんばかりだった——“よほど急いでるのね——仕事から帰ってすぐなのに、もう出かけるの?”なるべく自然な口調を意識して尋ねる——責めるつもりはない——ただ、本当に仕事なのか知りたかった——高雪は味噌汁を一口吸ってから答えた——“ああ、仕事が忙しくてな——もしかしたら泊まりになるかも”“大変ね”“ああ、最近マジでやばいんだよ”——そう——それ以上の言葉が出てこなかった——最近の彼は、何を聞いても「仕事」の一言で片付ける——帰りが遅く、休日に出かけるのも「仕事が溜まっているから」だと彼は言う——しまいにはスマホを手放さないことですら、“会社”を言い訳に使うのだ——便利な言葉だと思う——私が何も言えなくなるのだから
ふと、テーブルの上に置かれた高雪のスマホが震えた——短い振動音——高雪は驚くほど素早くスマホを掴む——画面を確認した瞬間、ほんの少しだけ口元が緩んだ——その表情を、私は見逃さなかった——“誰?”できるだけ軽く聞いたつもりだった——ただ、視線は鋭くなってしまったかもしれない——高雪は露骨に眉を潜める——“会社のやつ”“そう——”“いちいち説明しなきゃだめか”——「めんどくさい女だな」と彼の顔に書いてある——“そんなつもりじゃ——”“最近お前さ、なんか疑ってるよな”——ぎくりとした——まさか先に指摘されるとは思わなかった——高雪は不機嫌そうに箸を置く——“言っとくけど、俺は仕事してるだけだからな”“分かってるわ”——けれど、スマホを見た時のあの顔——残業の日数や朝帰り、休日出勤——急に気を使い始めた身だしなみ——バラバラだった違和感が、少しずつ1つの形になり始めている——私はその答えを薄々理解していた——ただ、疑いはあってもまだ証拠はない——それに、わざわざ一度家に帰ってくるのだ——可能性は低いが、本当に仕事が忙しいだけなのかもしれない——けれど、それを確かめるには、結局私が動くしかなかった
今日は土曜日——私の仕事は休みだ——今からなら、高雪の後をつけることもできる——もし尾行しているとばれたら、今の高雪は激怒するだろう——“信用してないのか”と攻められる様が容易に目に浮かぶ——それを口実に離婚を切り出される可能性もある——それでも、もう何も知らないふりを続けるのは限界だった
「じゃあ行ってくる——また連絡する」「うん——頑張ってね」——いつも通りの笑顔を作り、玄関で見送る——ドアが閉まる音を聞いた瞬間、私は大きく息を吐いた——心臓が嫌なほど早く鼓動している——まるで悪いことをする気分だ——でも、裏切りの疑念を抱えているのは、私の方なのだ
「よし」——小さくつぶやき、急いで支度を始める——帽子を深く被り、伊達めがねをかける——さらにマスクで顔の半分以上を隠した——鏡を見ると、普段の自分とはかなり印象が違う——念のため、いつも使っているバッグではなく、小さめのショルダーバッグを肩にかけた——スマホ、財布、モバイルバッテリー——必要最低限の持ち物だけを入れる——準備を終えて外に出ると、高雪の姿はまだ遠くに見えていた——私は一定の距離を保ちながら、その背中を追う
休日なのに、スーツ姿の高雪——やはり仕事なのだろうか——少しだけ安心した、その時だった——高雪は駅へ向かうと思っていたのに、途中で方向を変えた——会社とは反対方向へ——“え?”——思わず足が止まりそうになる——だが彼は迷う様子もなく歩き続ける——何度も通ったことがあるような、慣れた足取りだった——やがて高雪が入ったのは、駅前のカフェへだ——休日の朝から、会社の人と打ち合わせでもするのだろうか
範囲を保って窓越しに店内を覗いた時、私の心臓が大きく跳ねる——誰かを待っていた高雪の元に現れたのは、1人の若い女性——長い髪を揺らしながら近づいた彼女を見た途端、高雪の顔がパッと明るくなった——最近、私には1度も向けていない笑顔だった——そして次の瞬間、女性は当然のように向かいへ座り、親しげに笑った——その距離感や表情のやり取りは、同僚というより別のものに見える——胸に嫌な予感が広がっていく——けれど、まだ決定的な場面ではないと、自分に言い聞かせた——私は震える手でスマホを取り出し、2人の様子を撮影しながら、さらに尾行を続けることにした
女性の名前は「マリナ」と言うらしい——高雪が何度もそう呼んでいた——“マリナちゃん”——興奮しているのか、音量の調整ができていない——少し離れた場所にいる私の耳にも、会話の一部がはっきり届くほどだ——私は物陰に身を隠しながらスマホを握りしめる——鼓動がうるさく感じるくらいに強く早い——それでもまた、自分に言い聞かせていた——「彼女はただの同僚で、仕事の相談相手かもしれない——むしろそうであってほしい」と願いつつ、ひたすら見守る
残念なことに、2人はどう見ても普通の同僚ではなかった——向かい合って座り、頻繁に視線を絡めて笑う——時々、互いの手を重ねる時間さえある——高雪は、私といる時にはしなくなった柔らかな表情を浮かべていた——マリナもまた、恋人を慈しむような目で高雪を見つめている——目を背けたくなるほど胸が痛い——今すぐ立ち去りたい——しかし、ここで逃げたら、きっと後悔する——私はなんとか留まるしかなかった
2人はコーヒーを飲み終えると、長居することなく立ち上がる——会計も高雪が済ませているようだ——店を出た後、彼らは自然と寄り添い、並んで歩く——今のところ決定的な証拠はない——“仲のいい男女”と言われればそれまでだ——でも、絶対に何かあると、自分の中の直感が告げている——考え込んでいたら見失いそうだったので、私は慌てて距離を詰め、再び後を追った——その時だった——“え、直接ホテル行くの?つまんない”——マリナが不満な声をあげる——私は叫び出しそうになり、自分の口元を手で押さえて抑えた——息が止まり、視線が一瞬揺らぐ——今、確かに耳に届いた単語——“ホテル”——仕事でもなければ、ただの友人関係でもない——高雪はマリナと浮気している——その事実を、残酷なくらいあっさりと突きつけられた
「こら、マリナちゃん——声が大きい」——慌てて周囲を見回しながら、高雪が彼女の唇元に指を当てる——だがその顔には、焦りよりも照れが浮かんでいた——悪いことをしている自覚はあるのだろうが、危機感は薄く、やめる気もなさそうに見える——“だって、今日は一緒に買い物行けると思ってたのに”——唇を尖らせてマリナが彼の腕を軽く叩く——甘えるような仕草だ——高雪は困ったように笑いつつも、まんざらではなさそうだった——“しょうがないだろ——今日は時間ないんだって”“いつもそうじゃん——忙しい忙しいって”“またするから”——まるで恋人同士の会話だ——“本当?”“あんた、本当”——いや、恋人そのものかもしれない——2人の光景を見つめ、私は不思議な感覚に襲われていた——泣きたいはずなのに涙は流れず、怒りたくても声が出ない——ただ、胸の奥がじわじわと冷えていく——5年間の結婚生活——一緒に選んだ家具、休日のデートに、将来の話——「子供ができたら」という夢——全てが音を立てて崩れていく気がした——けれど同時に、やけに冷静な自分もいた——“感情的になって飛び出したところで、高雪は言い訳するだろう——だから今は耐える——まずは証拠を残すべきだ”
私は震える手でスマホを構え、2人の姿を何枚も撮影した——そして彼らが向かった先を見る——前方には、ホテル街へ続く大通りが伸びている——2人がホテルの入り口で止まった辺りで、私は前が見えなくなった——気づけば涙で視界が滲み、目の前の景色がぼやけていたのだ——慌てて手の甲を擦ると、溜まっていた涙が頬を伝ってこぼれ落ちる——何度か瞬きを繰り返して、ようやく視界が開けた——唇を噛みしめる——“泣いていても仕方ない——私は何のために今日ここへ来たのか——真実を知るためだ——彼が本当に浮気しているのか確かめたかった——そしてもし浮気しているなら、その証拠を手に入れるべきだ”——頭では理解しているが、体が言うことを聞かなかった——まるで足元に重たい鎖でも巻きつけられたかのように動けない——先ほどまで見えていた高雪とマリナの背中が、少しずつ遠ざかっていく——“追いかけなければ——今ならまだ間に合う”——そう思うのに、1歩も踏み出せない——胸が苦しく、息がうまく吸えない——5年間の思い出が次々と頭をよぎる——付き合っていた頃の優しい高雪——結婚式の日、幸せそうに笑っていた顔——“これからもよろしくな”と照れくさそうに言った声——“どうして?”
小さく呟いたセリフは、雑踏に飲まれて消えた——高雪たちはホテルの向こうへと進み、すっかり小さくなっている——私はゆっくりとスマホを握りしめた——手のひらが汗で濡れる——画面には、先ほど撮影した写真が残っていた——腕を寄せ合い、仲良さそうに笑う2人——5年間信じ続けた夫が、自分以外の女性に向けていたのは、満面の笑顔だ——その現実だけで、胸が張り裂けそうになる
結局、私はそのまま帰宅した——彼らが出てくるまで待つ気力はなかった——数日間、じっくりと落ち着いて考えてみる——高雪が浮気しているのはもはや疑い用のない事実だ——私が耐えられなかったせいで、証拠はやや不十分——せめてホテルを出る瞬間は写真で抑えたかった——今のままでは、慰謝料請求の武器としては弱い——しかし、あれだけ油断しきっている高雪のことだ——すぐにまたチャンスはあるはずだと、私は日々待ち構えていた
だが、意外にもあの日以降、なかなか尻尾が掴めなかった——まるで何かを察したかのように、高雪の行動が急に慎重になったのだ——以前なら当たり前に繰り返していた残業も減り、終電帰りもなくなり、休日の1人お出かけすら消滅した——“ちょっと出かけてくると”言って、何時間も家を開けていたのに——毎日ほぼ定時で帰宅し、夕飯を食べ、テレビを見て風呂に入り寝る——外から見れば、ごく普通の家庭の——むしろ以前より家庭的にさえ見えた——その変化が逆に不自然だった——私を警戒しているとしか思えない——疑われ、何かに気づいたことを、も感じ取っているのだろう
私は食器を洗いながら、小さく息を吐いた——蛇口から流れる水の音だけが、静かなキッチンに響く——夫婦としてはもう終わっている——同じ家に住み、食卓を囲み、一緒に寝起きしても、心だけはずっと遠く離れてしまった——他愛ない雑談で笑い合うこともない——目があっても、あるのは気まずさと探り合いだけ——“どうして一緒にいるのだろうか”ふと、そんな考えが頭をよぎる——昔の自分なら、こんなことを考えるだけで胸が苦しくなっただろう——けれど今は違う——尾行した日、彼らの会話を聞いた瞬間から、何かが決定的に壊れてしまった——むしろ最近では、“彼のこと、離婚を切り出してくれた方が楽なのでは”と思う時さえある
夕食後、食卓には食べ終えた皿が並び、テレビからはバラエティ番組の笑い声が流れている——そんな中、私はふと口を開いた——“私たち、すっかり変わってしまったわね”——自分でも驚くほど静かな声だった——心の奥からこぼれ落ちた本音だ——高雪は箸を置き、軽く眉を潜める——“そりゃ35歳になりゃ変わるだろう”——どこか投げやりな返事に、私は小さく頷いた——“そうね”——聞きたいことは山ほどある——“浮気する気分はどんなものなのか”——尋ねたところで、素直に答えはしないだろうけれど——“どうせ離婚するなら、自分に有利な形で”と、私は心に誓っていた——感情で動いてはだめだ——怒りに任せて攻め立てても意味はない——必要なのは事実と証拠である
しかし、ここで予想外の出来事が起こった——タイミングが悪いことに、今度は私の方の仕事が忙しくなったのだ——上司からあるプロジェクトの相談を受け、部署全体も慌ただしくなっていく——朝から帰り、昼は通常の家事代行の仕事——夜はまた上司と打ち合わせ、夕方に急なアポが入ることもあった——ようやく仕事が終わったかと思えば、時計の針はすでに夜の21時も回っている——帰宅する頃には足は棒のように重く、肩はガチガチに凝り固まり、玄関のドア開けるだけでため息が漏れるほどだった——洗濯物は溜まり、食器も増える——疲れきった体で片付けをしながら、私は何度も思った——“どうして私ばかりが負担を背負い込まされるのだろうか”——高雪も働いている——だから全て押し付けるのは無理がある——ただ、私の方が多忙なのに、少しも手伝おうとしないのはおかしいだろう——精神的にも体力的にも限界が近くにあった——“今、高雪から私を攻めるセリフが出たら、浮気してるくせにと口ばってしまうかもしれない”
その日も、二重の疲労感に沈みながら私は帰宅した——残業を終え、ぐったりと玄関に入った瞬間に違和感を覚える——リビングが妙に片付いている——脱ぎっぱなしの服がない——ソファーの上も綺麗だ——“あれ?”——不思議に思いつつ中へ進むと、洗面所から高雪は顔を出した——“お帰り”“あ、ただいま”“洗濯しといたから”——え、耳を疑った——彼は何でもないことのように続ける——“あ、皿も洗っといた”“は?”——思わず素頓狂な声が出てしまう——信じられない——あれほど家事を嫌がっていた人だ——洗濯機を回すことすらめんどくさがっていた高雪が、自主的に家事をしている——しかも頼んでもないのに——呆然と尽くす私を見て、彼は照れくさそうに頭を掻いた——“いや、最近、はるかのありがたみが身に染みてさ”——“ありがたみ?”“ああ、昇格してから俺も調子に乗ってたんだと思う”——少し反省したような顔で続ける——“家のこと全部任せっきりだっただろ——でも、最近はるかが毎日遅くまで働いてるの見てたらさ、俺も少しはやらなきゃなって思ったんだよ”——思わず言葉を失った——高雪からの思いやりを感じたのは久しぶりだ——結婚したばかりの頃ならともかく、ここ数年の高雪は自分のことばかりだった——“あ、ありがとう”——ようやくそれだけ口にすると、彼は大袈裟なくらい両手を振った——“いやいや、喜んでくれたならよかった”——見下す言い方ではない——晴れやかな笑顔で言う——“これから心入れ替えて頑張るから”
その姿は、本当に別人のようだった——以前ならソファーに寝転がりながらスマホをいじっていた時間に、高雪が洗濯物を畳んでいる——休日になれば掃除機をかける——ゴミの日にはゴミ出しをする——料理こそまだ苦手だったが、買い物くらいなら進んで引き受けるようになった——もちろん完璧ではない——洗濯物の畳み方は雑だし、食器の洗い残しもある——掃除機だって隅々までは行き届いていない——それでも、以前の彼を知っている私からすれば、驚異的な変化だった——最初は“浮気の罪悪感でもあるのかもしれない”と勘繰っていたが、最近の高雪は本当に家庭的だ——帰宅も早く、休日も家にいる——家事もする——もちろんあの日の出来事を忘れたわけではない——疑惑は継続中だ——けれど、目の前の高雪は確かに変わろうとしているように見えた——そして何より、疲れきって帰宅した後に家事の負担が減っていることは、素直にありがたかった——洗濯済みの服、片付いたキッチン、綺麗になったリビング——それだけで心に余裕が生まれる
私は畳まれたタオルを手に取りながら、小さく息を吐いた——“本当に改心したのだろうか?それとも、別の理由があるのか?高雪が何を考えているのか分からない”——あの時、高雪は確実に浮気していたと思う——“ホテルに入った瞬間は見たし、1度きりだったとも考えにくい”——だからこそ私は必死になって証拠を探そうと決意し、離婚という2文字を何度も頭の中で反芻してきた——けれど、今の高雪を見ていると、どうしても気持ちが揺らいてしまう——仕事を真面目にこなし、帰宅すれば真っ先に私を気遣い——以前なら絶対に手を出そうともしなかった家事まで率先してやってくれる——しかも、それを恩着がましく言うわけでもない——当たり前のように掃除機をかけ、洗濯物を畳む——私の帰りが遅い日は、夕飯の準備までする——休日もほとんど私と一緒に過ごしている——“浮気をする時間など、本当にあるのだろうか”——もしかしたら、あの時のことは過去の過ちだったのかもしれない——人は変わる——高雪を信じたい自分もいた——もし本当に反省していて、私との結婚生活を大切にしたいと思ってくれているのなら、私は浮気を知らないふりをして、このまま夫婦を続けてもいいのではないか——そんな考えが、少しずつ心の中で大きくなっていた
「ただいま」——残業で重たくなった肩を回しながら玄関を開けると、部屋の奥からパタパタと軽い足音が聞こえてくる——“ああ、お帰り——遅くまでお疲れ様”——ソファーに寝転びつつスマホを見ていたはずの高雪が、今では真っ先に玄関まで迎えに来る——その変化に、未だ慣れない自分がいた——“ただいま——今日は本当に疲れた”——靴を脱ぎ、大きく息を吐くと、高雪は気遣わしげな顔をした——“だろうな——顔見りゃ分かるよ——目の下くままで着てるぞ”“そんなに?”“うん——だから今日は無理するな——夕飯、弁当でいい?”——“え?”——“じゃーん”という掛け声と共に出てきたのは、パックに入ったお弁当—— “帰りにスーパー寄ったんだよ——はるかが好きなやつ買ってきた——いっぱい買っちゃった——デザートもあるぞ”——高雪がキッチンを指さす——そこには綺麗に並べられたお弁当のパックと、温めるだけで食べられる味噌汁が——私が何も言わなくても気遣ってくれる姿に、うっかり泣きそうになる——“ありがとう”“何言ってんだよ——はるかはいつも頑張ってくれてるんだから——これくらい当然”——照れくさそうに頭を掻く姿は、昔の優しい高雪で、とても懐かしく微笑ましい
ささっと食事の準備を終え、2人で何気ない会話をしつつ食べ始めようとしていた時だった——“あ、”——突然、彼が大きな声をあげる——“うん?どうしたの?”“やばい”“何が?”“ゴミ?”——意外な返答に、私は首をかしげる——“ゴミ?”“今日、ゴミ箱パンパンだったわ”——息急りに告げ、彼は額を押さえて天井を見上げた——“完全に忘れてた”——そういえば、朝からバタバタしていて、私も確認していなかった——“ごめん”“別にいいよ”“いや、良くない——俺が出すって言ってたのに”——彼は申し訳なさそうに眉を下げる——本当に反省しているようにしか見えない——“今すぐ出した方がいいかな”“たださ、ん、俺、もう風呂入っちゃったんだよ”——そう言いながら濡れた髪を指さす——確かに髪が濡れていて、首元はまだ少し赤い——“せっかく温まったし、今から外出ると寒いんだよな”——情けない顔で笑う高雪——私は思わず苦笑した——“しょうがないな”“ごめん”“いいよ——サクッと言ってくる”“本当助かる”——高雪はまるで子供のように顔を輝かせる——その反応がおかしくて、自然と笑みがこぼれた
うちはマンションの3階だ——ゴミ置場は敷地内とはいえ、外に設置されているため、エレベーターに乗って降りなければならない——正直少し面倒ではあるけれど、風呂上がりの高雪をわざわざ外へ行かせるのも気が引けた——最近の彼は本当によく頑張っている——ゴミ出しくらい、私がやればいい——そう思いながら、ゴミ袋を手に取った——数分後、私が戻ると、彼は申し訳なさそうに頭を下げる——“ごめんな——ありがとう——食べよう”——次の瞬間には、彼はいつもの明るい笑顔に戻り、ダイニングの方を指さした——以前の高雪なら、私の帰宅を待たずに先に食べていたこともあったのに、最近は必ず一緒に食事をする——“うん——うん——こちらこそありがとう——いただきます”——自然と笑顔がこぼれた——“あれだけギスギスしていた空気が嘘のようだ”——夫婦として終わりかけていた関係も、もしかしたら修復できるのかもしれない——そんな希望すら抱き始めていた
平穏になったかに思えた結婚生活——仕事は相変わらず残業続きで忙しかったが、家に帰れば高雪が待っている——家事の負担もだいぶ楽になった——“離婚を考えていたのが、随分と昔のこと”に感じる——けれど、人は一度違和感を覚えると、小さな変化にも敏感になるものらしい——最初は本当に些細なことだ
ある日の夜、残業を終えて帰宅した私を迎えたのは、いつもの笑顔だった——“お帰り——ちょうどよかった”“ただいま”——疲れた体で靴を脱いでいると、彼がすぐにゴミ袋を持ってくる——“悪いんだけど、ゴミ出し行ってくれる?”“え?”——思わず間抜けな声が出た——“今?”“うん——今帰ってきたばかりなんだけど”“すぐ終わるから”——おそらく軽い表情でいる私とは逆に、高雪はニコニコしている——ゴミ出し自体は苦ではない——マンションは24時間ゴミ出しが許されているし、往復数分の距離だ——ただ、あまりにも頻度が多い——しかも毎回、残業から帰宅直後なのだ——“分かった——行ってくる”“ありがとう”
昨日も、昨日も——私が帰宅する度に、高雪はゴミ袋を差し出してくる——決まって玄関を開けて数十秒以内——まるで私の帰宅を待ち構えていたかのように——“帰ったばかりでちょっと疲れたから、今日は後でもいい?”——ある日、私は試しにそう言ってみた——すると、彼の表情が一瞬だけ固まる——“え、少し休んでからでもいいでしょ”“あー、”——彼は曖昧に笑う——そして妙な圧をかけてきた——“今行った方が楽だから”“別に後でも変わらないと思うけど”“いや、今がいいんだよ”——だんだんとお互いに声が大きくなる——“なんで——なんでって——?”“え?”——言葉に詰まった彼は、無理やり笑顔を作った——“ほら、忘れるかもしれないじゃん”“私、そんなに物忘れ激しくないけど”“じゃあ俺が忘れちゃうからな——ほら行ってらっしゃい”——それからも同じことが続いた——“あとじゃだめ”“それにもう少しでダストボック”——“今行った方が楽だから”“そんなにすぐ理由ある?”“ない”——“ないでも、言って”——即答だった
そして数日後、高雪が私にゴミ出しに行かせた理由が判明する——その日も私は残業だった——エレベーターを降り、部屋の前に着く——鍵を開け、“ただいま”を言う——“お帰り”“ただいま”——案の定、彼の手にはゴミ袋が——“またすまん——今行ってくれる?”——“ああ——うん——まあ、今日からは近いし”——ゴミ袋を受け取り、振り返ろうとした瞬間、私はあることに気づいた——彼の額にうっすらと汗が浮いている——室内はエアコンが効いているから、暑いはずがない——さらに頬もほんのり赤い——“つい先ほどまで激しい運動でもしていたかのようだ”——怪しい——胸の奥で何かが警鐘を鳴らす——今まで見ないようにしていた疑念が、一気に膨れ上がる——“何かある”と確信した
“分かった”——私がわざと明るく返事をすると、彼はほっとしたように笑う——“助かる”——私はゴミ袋を持って玄関を出る——ドアが閉まった瞬間、廊下の角まで走り、すぐさま5秒でゴミを捨てて戻った——音もなくリビングに飛び込むと、勢いよくこちらを振り返る高雪——私の姿を見た瞬間、リビングの奥にいた高雪は目を見開いた——まるで幽霊でも見たかのような顔だった——“早すぎでしょ”——慌てて駆け寄ってくる——その声は、明らかに裏返っていた——“頑張ったからね”——言いつつ部屋を確認すると、視界の端に、ほんの一瞬だけ何かが映った——先ほどまで高雪がいたリビングの奥——少しだけ隙間の空いたカーテン——普段、締め切っているはずなのに、不自然に揺れている——その向こう側に、一つの影
心臓が大きく跳ねた——見間違いではない——確かに、ベランダに誰かいる——“あ——はるか”——私の視線の先に気づいた高雪が、顔色を変えて叫ぶ——その声には、焦りと恐怖が滲んでいた——“絶対に見られてはいけないものでもあるのだろうか”——“待てって”——私は答えなかった——彼の横をすり抜け、ベランダに迫る——高雪が腕を伸ばしてきたが、届きはしない——私は素早くかわし、彼の横を駆け抜けていた——床を踏む足音が、やけに大きく響く——背後から高雪の声が追いかけてくる——“はるか——だめだって”——待つものか——今更、何を隠そうというのだ——私はベランダへ続く引き戸の前まで行き、そのまま勢いよく窓枠を掴んだ——激しい音を立てて引き戸が開く——夕方の風が一気に吹き込み、カーテンが大きく舞い上がった——そして、その向こうにいた人物と、私は真正面から目があった
“誰?”——思わず声が漏れる——そこに立っていたのは、若い女性だった——肩につかない程度のショートカット——華奢な体にまとうのは、Tシャツに短パン——部屋着のようなラフな格好だ——年齢は20代半ばくらいだろうか——少なくとも私よりはかなり若い——彼女もまた、私の顔を見た瞬間に硬直していた——大きな目を見開き、呼吸すら忘れたように固まっている——“あ——”——女性のか細い声が漏れる——その顔には、驚きだけでなく明らかな焦りが浮かんでいた——“真っ青だ”——彼女の慌てようっぷりに浮かぶ仮説は、1つ——浮気相手——だ——“ち、違うんだ”——背後から飛び出してきた高雪の体には、大量の汗が浮かんでいる——“違う?”——自分でも驚くほど静かな声だった——“じゃあ説明して——この方はどなた?”
——それは——高雪は言葉に詰まる——女性も俯いたまま、何も言えない——夕方の風だけが、3人の間を吹き抜けていく——“マリナじゃないのね”——“誰?”——思わず口をついて出た名前に、高雪が反射的に顔をあげた——“え?なんでマリナちゃんのこと?”——“先に聞いてるのは私なんだけど——誰?”——もはや自然と声が低くなる——“怒りを通り越すと、人はこんなにも冷静になれるものなのか”——高雪は口をパクパクさせる——何か言い訳を探しているのだろう——しかし、ベランダに若い女性を隠していた時点で、何を言っても無駄だ——修羅場の幕開けは避けられない——私はじっと高雪を見つめ続けた——“逃さないから、嘘はやめてよ”
“じゃあ、その——そこにいる彼女の名前は、佐々木里子です”——彼は観念したように肩を落とす——隣で女性も俯いたまま、小さな声で言った——“佐々木里子です”——申し訳なさよりも、“見つかってしまった”気まずさの方が強く滲んでいる——私は腕を組み、自然と仁王立ちしていた——“で、なんで佐々木里子さんが、我が家のベランダに?”——説明して
高雪は長いため息をついた——そして諦めたように話し始める——“先ほど本人が名乗った通り、彼女の名前は佐々木里子——年齢は20代後半——なんと、私たちの隣の部屋に住むOLだった”——しかも数週間前から、偶然にも高雪の会社へ派遣社員として配属されていたらしい——“最初は仕事上のやり取りだけだった——だが、休憩中に雑談を重ねるうち、住んでいるマンションが同じだと判明する——そこから一気に距離が縮まったという”——私は呆れ果てた——“そんなドラマのような偶然が、本当にあるらしい——“最も、それを浮気の理由にしていいわけではないが”——“最初は、会社で会うだけだったんだ”“え、でも——はるかが疑い始めただろ”“当然でしょ”——彼は来まそうに眉を下げた——“だから、その外で会うのは危険だって話になって——それで——“だったら家で会えばいいんじゃないか”って”——“誰が言い出したの?”——私の問いに、彼は一瞬だけ隣の里子を見た——里子は小さく肩を竦める——しかし、悪びれる様子はない——私は思わず笑ってしまった——もちろん、楽しいからではない——呆れすぎて、笑うしかなかったのだ——“なるほどね——私が仕事で必死に働いている間に、2人は我が家で睦み合っていたわけね——私が残業していないのをいいことに、やりたい放題だったわけね”——胸の奥がズキズキと痛むけれど、不思議と涙は出なかった——“怒りが大きすぎると、人は泣くことすら忘れるらしい”——高雪は慌てて首を振る——“違うんだよ”“何が?”“今日は本当に何もしなくて”“今日は自爆だった”——すると、それまで黙っていた里子が不満に口を尖らせた——“だって仕方ないじゃないですか”“最初は、帰宅の連絡が来たらすぐ帰ってたんですよ——バレたらやばいし——“どんなに盛り上がってても帰らされて”——“私が悪い子かのような言い方に、少し苛立ちを覚える”——“でも、それだとつまらなくなってきちゃって”“つまらない?”——“はい”——里子はあっさりと頷いた——そして、信じられないことを口にする——“奥さんが帰ってくる直前で家に行って、ギリギリで隠れるのって、ちょっとドキドキするじゃないですか——“見つかったらどうしようって思うと興奮するし——スリルが最高で”——私は絶句した——“彼女は何を言っているのだろう——罪悪感どころか、ゲーム感覚で浮気をしている——“既婚者との密会も、里子にとっては暇つぶしのアトラクションだったらしい——“そして高雪は、そんな女に流されていたようだ”——彼は青ざめながら述べる——“奥さんにゴミ捨てに行かせて、その間に出ていけば問題ないだろうって言われて”——その——私はゆっくりと目を閉じた——“ようやく全部繋がった——毎日のゴミ出しは、彼らを盛り上げるための演出——“私がエレベーターで1回向かい、ゴミを捨てて戻ってくる数分間——“その短い時間で逃げられるかどうか、試していたのだ”——想像以上に幼くて、馬鹿げた遊びをしているのね——“びっくりしちゃった”——呆れ半分、関心半分だった——“もっと計算高い女を想像していた——“巧妙に人の家庭を壊そうとするような相手なのかと——“しかし実際は違った——“既婚者だろうと独身だろうと関係ない——“他人の家へ入り浸る緊張感に抗えず、妻を外へ追い出して隠れることさえ楽しんでいた——“全部まとめてスリルがあって面白い”とさえ言う——“悪ふざけの延長だ——“私の人生を巻き込んでいるという自覚すら、ないのだろう”
“もっと自分と周りを大事にしたらどうなの?”——ため息混じりに言うと、里子の顔がみるみる赤くなった——“はあ——何よ、このおばさん”“おばさん?”“そうですよ——あんた、自分の身のほど分かってます?”——わざと語尾を伸ばしながら、彼女は馬鹿にしたように鼻で笑う——“魅力がないから、私みたいな若くて可愛い子に旦那を取られちゃうんですよ”——その言葉を聞いた瞬間、私は思わず吹き出しそうになった——“あまりにも予想通りだったからだ——“若さと容姿しか武器がない人ほど、それを振りかざす”——“取られる”——わざとゆっくりと繰り返す——すると、隣からヒュっと息を飲むような変な音が聞こえた——“ぎくりと——音が聞こえそうな勢いで、高雪の肩が跳ねた——“横目で見ると、彼は顔面蒼白になっていた——“全身に大量の汗をかき、首筋にも流れ落ちている——“で、真夏に全力疾走でもしたかのような状態だ”——私はその様子を見て確信した——“高雪は、今里子と同じ認識ではない——“もし本気で私と別れて、里子を選ぶつもりなら、こんな顔はせずに、むしろ開き直るはずだ——“だが現実は違う——“妻に浮気がバレた事実に、心底怯えている”——私は静かに高雪へ向き直った——“あなた——“あ、はい”——反射的に返事する様は、学校で先生に当てられた生徒のようだ——“私と離婚したいの?”——“離婚”という具体的な言葉を口にしたことで、空気が凍りつく——里子は驚いた顔になった——“次に出てくるのは、自分を選ぶ言葉だと思っているのだろう——“しかし、彼の反応は全く違った——“離婚したいの?”“いや、したくないです”——即答だった——“へえ——“里子さんに乗り換えるのかと思ったけど”“そんなのありえない——ない——ない”——彼はブンブンと首を横に振る——必死すぎて、少し笑えるくらいだった——“違う——本当に違うから”“でも、浮気してるじゃない”——言葉に詰まり、彼の動きが止まった——“それは——”言い訳を探しているようだが、見つからないらしい——“当然だ——“浮気しておいて、離婚したくない”というのは、自分でも無理があると分かっているのだろう——すると、今度は予想外の方向から絶叫が飛んできた
“はあ”——マンション中に響きそうな大声だった——里子は信じられないものを見るような目で高雪を凝視する——“何それ?”——興奮のあまり声が裏返っていた——“裏子は1歩前に出る——“奥さんとは離婚するって言ってたじゃん”——“へえ”——私は静かに眉をあげる——高雪の顔色がさらに悪くなった——里子は構わず続ける——“前から夫婦仲はもう冷め切ってるって——愛情なんてないって言ってたじゃん”——既婚者の浮気の常套句だ——“ちょっと待てって”“待たない”——裏子は完全にパニックを起こしているようだった——そして、そのままとどめの一言を放つ——“私と再婚したいって言ったのは、嘘だったの?”——私は黙って高雪を見る——高雪も無言だった——その沈黙が、何よりの答えなのだろう——“里子の顔から血の気が引いていく”——そして、私はようやく理解した——“2人は、やることはやっていたものの、心情は全く異なっていたのだ——“里子は、高雪のことを“妻と別れて自分を選ぶ男”だと思っていた——“一方の高雪からしてみれば、ただ遊びたい時にそばにいて欲しい女が、里子だったわけだ——“つまり、お互いに自分に都合のいいように考えていたのだろう——“ある意味、お似合いだ——“嘘でしょ?”——里子はガッと勢いよく高雪の腕を掴むと、そのまま自分の体を押し付けるように絡みついた——“獲物を逃すまいと必死だ——“奥さん怖そうだから、ビビってるだけだよね”——潤んだ瞳で見上げながら、里子は甘えるような声を出す——“先ほどまで私に向かって強気な態度を取っていた人間とは思えない——“変わり身の速さに驚く——“里子の方が可愛いし、癒されるし——“大好きだって言ってたじゃん”——“へえ”——高雪の表情が引きつる——“その反応だけで十分だ——“否定できないということは、言ったのだろう——“浮気に夢中になる余り、私と比較して里子を何度も褒め上げる姿が目に浮かぶ——“え?いや、その”——彼の視線が泳ぎ、口だけがパクパクと動いた——“けれど、言葉にならない——“慌てているところを見ると、里子にも強くは言えないようだ”——私は不思議な快感を覚えていた——“悲しいという感情より、長い間抱いていた疑惑がようやく晴れた”という解放感の方が大きかった——“そっか——里子さんに乗り換えるつもりだったのね”——小さく頷き、微笑みかける——“まあ、もう35歳だしね”——高雪の方がびくりと震えた——“若くて可愛い子の方がいい——気持ちは分かるよ”——決して皮肉ではなく、本音だった——“若さは武器だと思う——“20代と30代半ばでは、体力も肌も違う——“だからこそ、怒りも恨みも湧いてこなかった——“私の開き直った様子が、逆に高雪を焦らせたらしい——“未練がないようにでも見えたのだろうか——“違う違うんだよ——はるか”——必死に叫ぶ高雪は、今にも泣きそうな顔をしている——私は首をかしげた——“違うって、何が?”“それは——その”——彼はまた言葉に詰まる——里子の顔には、困惑した表情が浮かんでいた——“自分が選ばれたと思っているのだろう——“彼女は高雪の腕にさらにしがみつく——“ほら聞いた——自分で認めてるじゃん——“認めた——“若い子の方がいい”って”——“ああ”——私は淡々と頷いた——その反応が気に入らなかったのか、里子はさらに畳みかける——“大体、奥さん仕事ばっかりじゃん”“そうね——“疲れてるし、女捨ててる感じだし——“高雪も言ってたよ”“へえ——“綺麗でいて欲しいなら、それなりに協力してもらいたいものだ——“休む暇もないのに、女らしく色気だなんて、無理難題である——“分かるかな?男って、癒しが必要なんですよ”——里子は得意げな顔だった——“まるで人生の機微でも語っているつもりらしい——“私は思わず笑いそうになる——“28歳、十分大人のはずなのに——“言っていることは、高校生のようだ——“そして何より、そばで里子の演説を聞いている高雪の顔は、どんどん悪くなっていく——“普通なら、浮気相手が自分を擁護してくれるのだから、少しくらい安心するはず——“だが、高雪は違う——“焦り、怯えている——“彼の目線は、“里子に余計なことを言うな”と念じているようだ”
“ねえ、高雪——“1つだけ聞いていい?”——彼はごくりと唾を飲み込んだ——“あなた、本当に私と別れて、この子と一緒になりたいの?”——困惑していた里子が、さらに満面の意味を浮かべた——“しかし、高雪は何も言えず、ただ顔を伏せて立ち尽くしている——“ちょっと黙ってないで、答えなよ”——甲高い声がベランダに響く——“腕にしがみついたまま、里子は必死な表情で高雪を見上げていた——“つい数分前までは、妻の前で自分が選ばれる未来を疑っていなかったはずだ——“だからこそ、高雪の沈黙が許せない——“なんとか言いなさいよ”——里子に腕を揺さぶられ、高雪の顔が歪む——次の瞬間、彼はとうとうこらえきれなくなったように叫んだ——“最初は俺だってそう思ってたさ——“でもな——”——私ですら少し驚くほどの大声だった——“彼は息を切らしながら、里子を睨みつける——“家事もしない——金使いは荒い——“おまけにスリルだなんだで、俺を振り回す——“そんな変態女と再婚なんてごめんだ”——“はあ”——ベランダに絶叫が響いた——“里子の顔がみるみる真っ赤になる——“怒りからか、もしくは恥なのか——“あるいは両方か——彼女は高雪の服を強く掴んだ——“どういうことよ——意味わかんない”“俺の方がわかんねえよ”——にらみ合いが始まった——私は呆然と2人を見ていた——“浮気を糾弾したはずなのに、なぜか夫と浮気相手が喧嘩を始めている——“しかも内容は、あまりにも幼稚だ——“金がかかるだけなら、まだしも——“俺もこいつも、自己顕示欲が強すぎるんだよ”“へえ——“俺もこいつも”——思わず口から漏れる——“すると、高雪が“しまった”という顔した——“私は細く目をすえた——“なるほど——“俺もこいつも”なんだ——“いや、それは完全にボケだった”——里子も気づいたらしく、目を見開いて高雪を見る——“ちょっと待って——“奥さんだけじゃないの?——嘘でしょ?私以外にもいるの?”——私も黙って続きを待った——“彼の顔から血の気が引いていく——“しかし、今更ごまかせるわけがない——“ねえ——“声が低くなる——“黙ってないで、答えてよ——“昔の話だよ”——“あ、最低”——即答する里子に、私はまず吹き出すところだった——“浮気相手に“最低”と言われている夫——“なかなか見られる光景ではない——“だが、里子は本気でショックを受けているようだった——“次の瞬間、彼女は勢いよく高雪の胸を叩いた——“しかも、私が“遊び”だったなんて——ふざけんのよ”——バシンと再び大きな音が響く——“痛え——“神出し——“何秒で帰ってくるかなって、一緒になって数えてたのに”——一瞬、奇妙な沈黙が流れた——“里子は言い終わってから気づいたらしい——“私の視線が突き刺さっていることに——“へえ——“私がゴミ出ししてる間に、2人でカウントダウンまでしてたんだね——“ここまで馬鹿にされてたら、慰謝料の増額できそうだな”——静かな冷たい声が出る——“責めるつもりも、攻めるつもりもないけれど、腹は立った——“里子の顔がさっと青ざめる——“一方で高雪は、両手で顔を覆った——“お前、なんで言うんだよ”——心底疲れきった声だった——“私はそんな2人を見ながら思う——“彼らに裏切られ、馬鹿にされたのは紛れもない事実だ——“想像以上に幼稚で、歪んだ人たちだった”
“で、——”私は腕を組みながら、世間話でもするかのような口調で続ける——“ちなみに、マリナさんとはどうなったの?もしかして、振られちゃったとか?”——その名前をはっきりと口にした瞬間、先ほどまで強気な態度を崩さなかった里子の顔が見るうちに引きつっていった——“は、マリナ——”反芻するその声には、明らかな動揺が混じっている——“里子はゆっくりと高雪を振り返った——“ちょっと待って——高雪——マリナとも関係持ってたの?”——“あ——”——どもる高雪に、里子は再度確認する——“ねえ、体の関係だったの?——言いなさいよ——“いや、その——“はい”——“何度か”——我が夫ながら、どこまでも最低な男だ——“里子の顔が怒りで真っ赤になると共に、がっくりと項垂れた——“最悪なんだけど”——私は思わず目をまたかせた——“今の流れで、そのセリフが出るのか——“妻の立場からすると、もはやツッコミどころしかない——“しかし、里子は至って本気らしい——“腕を組み、露骨に嫌そうな顔をしている——“一方の高雪は、里子が腹を立てている理由にピンときていないようだ——“目を丸くし、困惑気味に首をかしげている——“いや、確かにその——俺が悪いんだけど——“何をそんなに怒ってるの?——“マリナちゃんと、顔見知りだっけ?まさか、友達?”——恐る恐る、高雪は尋ねる——“里子が首を横に振ったのを確認して、ほっと息をついていた——“元浮気相手と現浮気相手が仲良しだと、何かと都合が悪いのだろう——“安心からか、彼は上機嫌になり続ける——“彼女、先月仕事やめたんだよ——“急だったんだよ——“マリナちゃんてば——“やめて以来、急に連絡が取れなくなった——“連絡取ろうとしてたんだ——“ああ”——頭や自らボケを掘った輩に、私は口元を押さえるが、すでに手遅れだ——“私はもう呆れるしかなかった——“既婚者の立場で里子と浮気するだけでなく、過去の浮気相手にまで連絡を取っていたとは——“おまけに自白する浅はかさ——“ここまで来ると、才能すら感じる——“里子も同じことを思ったのかもしれない——“高雪を見る目が、どんどん冷たくなっていった——“横にキュっと結ばれた里子の口からは、鋭い言葉が飛び出す——“やめてよ——冗談じゃない——“あんな人、友達でも何でもないわよ”——これだけで、マリナへの嫌悪感が伝わってくる——“さらに、里子は信じられないことを口にした——“あの人さ、すっごい遊び人なのは知らないの?”——“マリナの男遊びが激しいのは、随分と有名な話のようだ——“私は静かに聞いていた——“里子は興奮した様子で続ける——“おかげで何回も——“うつしてるかも——“え、”——咳払い——“会社でも有名なんだから”——高雪の顔が固まった——“それには私も衝撃を受け、目を見開く——“だから最悪なの”——里子は青ざめながら自分の腕をさすった——“うつされてたらどうしよう——“嘘だろ——マリナの野郎——“あんたが欲望のままに行動するからでしょ——“ねえ、なんとか言いなさいよ”——高雪は肩を丸めて小さくなった——“顔からみるみる血の気が引いていく——“体額には冷や汗が浮かび、口元は引き攣り、ひくひくと小刻みに震え——“先ほどの浮気開き直りどころではない動揺ぶりだった——“私はその様子を見て、妙に冷静な気持ちになる——“浮気がバレた夫は、浮気相手その1が遊び人だったせいで、浮気相手その2から攻められていた——“似た者同士の緩いもの同士、十分あり得たリスクだが、考えたこともなかったのだろう——“病気をうつされているかどうか、高雪も里子も不安でたまらない顔をしている——“高雪は今にも泣き出しそうだ——“彼らにとっては大事かもしれないが、部外者の私は、ただの好奇の目で見ていた”
“ねえ、高雪”——“何?”——声をかけただけで挙動不審に顔をあげる高雪に、私は小さく微笑んだ——“あまりにも恐れすぎている姿は、滑稽だ——“私は吹き出さないように注意して語りかけた——“1刻も早く、病院に行った方がいいんじゃない?——“色々な意味で——“もしものことがあった場合、早く治療した方がいいと思うの”——優しく諭すと、里子は“怖い”と叫び、高雪は両手で顔を覆った——“もしもって、なんでそんな恐ろしいこと言うんだよ”——咳払い——“心配してるだけよ——“あんた、余裕ぶってるけどさ”——里子を青ざめた顔のまま私を指さした——“自分だけ安全だって、勘違いしてない?“奥さんだって、知らないうちにうつされてるかもよ”——“あら、私は大丈夫よ”——“は、そんなの言いきれないでしょ——“もし私と高雪が普通に仲のいい夫婦なら、こんなに冷静ではいられなかっただろう——“高雪を経由して浮気相手から病気をうつされる可能性もあったのだけれど——“私は完全に否定できる——“だって——“去年から高雪とそういうことは、一切してないから——“キスすらもない”——ベランダに微妙な沈黙が落ちた——“里子が目をパチクリさせ、高雪は気まずそうに肩を震わせる——“私自身、以前はこの事実に傷ついていた——“夫婦なのに求められず、女性としての魅力がなくなったのかもと、何度も悩んだものだ——“鏡を見るたびに落ち込んだし、仕事帰りに若い女性と自分を比べてしまった——“けれど、今となってはラッキーだ——“おかげで何の心配もいらないわ——“ありがとう、高雪——“あ、”——本来、感謝される内容ではない——“しかし、今の私の本心だった——“もし以前と同じ夫婦生活を続けていたら、今頃病院へ駆け込むはめになっていたかもしれない——“そう思うと、背筋が寒くなる——“浮気しない夫が1番ではあるが、最悪、助かった”——高雪は放心状態のまま、掠れた声を漏らした——“だ、大丈夫だよな——“急に病院って言われても——“俺、今までそっちの病気になったことないし”——“ええ——“真面目で誠実だった昔のあなたなら、そういう病気とは無関係だったでしょうね”——皮肉を込めて、私はゆっくりと言葉を続けた——“結婚してから2年以上、つい先日まで、あなたを疑ったことなんてなかった——“仕事も頑張ってて、友人からの評判も良かったし——“少し不器用だけど、優しい人だと思ってた”——胸の奥が少しだけ痛む——“今でも、あの頃の思い出まで全部嘘だったとは考えたくない——“幸せだった時間も、確かにあった——“だからこそ、裏切られた事実が重い——“私、信じてたのに”——彼はただ黙ったまま、何も言わない——“それなのに、まさか2人目の浮気相手まで出てくるとは思わなかった——“しかも浮気相手と一緒になって、病気を心配し始めるなんて”——無意識にため息が漏れた——“人生って、分からないものね——“はるか——“とりあえず、病院——“弁護士——“は、その後かな”——どうやら“弁護士”という単語で、現実が見えてきたらしい——“高雪はひくひくと口元を痙攣させたかと思うと、顔面蒼白のまま壁に手をつき、小さくつぶやく——“終わった”——脅迫な行動により、慰謝料と病気それぞれの不安を抱えることになり、ようやく後悔しているのだ——“そんな慌てる里子も、高雪を盾にして一歩後退った——“後悔する姿を見ても、自業自得としか思えない——“あの——ちなみにさ、例えばだけど——“どんな症状になるんだろう”——“は?”——なぜ私に聞くのかと、思わず眉を潜めてしまった——“すると、高雪は慌てて首を振る——“いや、だからさ——“そういう病気になった場合の話——“知らないわよ——“即答した——“なったことないから、聞かれても困る——“そ、そうだよな”——言いながら、高雪の視線がゆっくりと隣へ向く——“その先にいるのは、里子だった——“なあ——“どんな症状になるんだ?”“知らないわよ、そんなの”“いや、お前なら知ってるだろ——“教えてくれよ”“馬鹿にしてんの?”——一瞬で顔を真っ赤にする里子——“なんで奥さんに聞いた時はすぐ引き下がったのに、私には粘るのよ”——“だって”——高雪は逆切れしながら叫んだ——“はるか、貞操観念が硬いんだよ——“俺以外の男とは、手も繋がない——“いい女だったんだ”——なぜかわからないが、褒められているようだ——“そんな堅物が、病気なんて知ってるわけないだろう——“は、私が軽い女だって言ってるわけ?”“そうだよね——“いや、その——“最低——マジありえない”——先ほどまで浮気相手としていがみ合っていた2人が、今や完全に仲間割れである——“私は頭痛を覚え始めていた——“2人の罵り合いは止まらず、互いにヒートアップしていく——“もはや、遠慮は残っていないらしい——“だって仕方ないだろう——“誘ってきたのは、お前の方からだし——“はあ——“じゃなきゃ、俺だってわざわざ——“面倒くさい女なんて思わなかった——“お前のせいで、こんなことになってるんだ——“責任転嫁もここまで来ると芸術だ——“自分が不利になった途端に、誰かのせいにする——“昔から、高雪にはそういうところがあった——“マリナちゃんも、お前も——“昇格した途端、金に目がくらみやがって”——“はあ”——里子の絶叫が、マンション中に響く勢いで飛び出す——“ふざけないでよ——“ほとんど高い店なんて連れてってくれなかったくせに——“たまには——“言ったろ——“高が数回じゃん——“人のこと金目当てばかりするなら——“ケチケチせずに、ちゃんと遣えよ”——確かに、里子の言うことも一理あると思ってしまった——“そう——“そういうところが、結婚相手に選べない要因なんだよ——“絶賛離婚危機のやつに言われたくないね”——小学生の喧嘩だろうか——“いや、小学生の方がまだ建設的だ——“2人とも、“自分だけは被害者”だと言わんばかりに、責任を押し付け合っている——“しかも、言い争えば言い争うほど、浮気の詳細が次々と明らかになっていく——“ありがたいことだ——“私は静かにスマホを取り出した——“はるか——“何してるんだ?”“録音——“え、”——もっと早く気づくべきだった——“せっかく2人が詳しく説明してくれてるんだもの——“これがあれば、弁護士さんも喜ぶと思うわ”——2人はほぼ同時に口を閉じる——“そして数秒後、里子が小さくつぶやいた——“やばくない?”“散々煽っちゃってたけど——“慰謝料とか請求されちゃうってこと?”——“はあ——“スコブルピンチだ”——ようやくほんの少しだけ、現実が見えてきたらしい——“高雪が眉間を押さえつつ、不思議そうに首をかしげる——“そもそも、なんで今日のはるかがこんなに早かったんだ——“どう考えても、1回まで行ってないだろう”——今更、気づいたようだ——“納得がいかないという顔で私を見る高雪に、肩の力を抜いて答えた——“ああ、あなたはマンションの付き合いも自治会も、私任せだから知らないわよね——“今日から、各階にダストボックスが設置されるようになったのよ”——彼はポカンと口を開けた——“私は淡々と続ける——“前から高齢者の方とか、小さい子供がいる家庭から要望が出てたの——“総会でも何度も話題になってたし、先月やっと決まったの——“だから、今日は3階の廊下にあるダストボックス捨てただけ——“1回まで行く必要なんてなかったの”——そう——“家事だけではなく、マンションのことも近所付き合いも自治会の連絡も、全部私がやってきた——“おかげで、高雪は完全に蚊帳の外——“それでも、彼が困らないようにと、私が動いていた——“知らなかった”——彼は呆然とつぶやく——“でしょうね——“興味なかったもの”——思えば、ずっとそうだった——“彼は、私が当たり前にやっていることには興味を示さず、自分が楽をする方法だけを考えていた——“だから、ゴミ出しを口実に浮気相手を逃す計画も思いついたのだろう——“そして、その計画が自治会の取り組み1つで崩壊した——“なんともまあ、間抜けな話だ——“残念だな——“最近は心を入れ替えたと思ってたから”——高雪の方がぴくりと震える——“正直、少しだけ迷ってたの——“離婚するかどうか”——里子も息を飲んだ——“仕事が忙しい私を気遣ってくれてたし、家事も手伝ってくれてたし——“前みたいに朝帰りもしなくなったでしょ——“俺は“喜んでくれるなら、これからも頑張れよ”——高雪の顔に、わずかな期待が浮かぶ——“だが、それは次の瞬間に打ち砕かれた——“あなたには、無理よ——“今回の行動の動機は、“反省したから”ではなく、あくまで自分自身の欲望のため——“浮気を続けたかったから、頑張ってたんでしょ——“スリルもあって、楽しみたかったみたいだし——“あなたは口だけで、私のことなんてどうとも思ってないのよ”——言葉にした途端、自分でも驚くほど心が冷えていくのを感じた——“この結婚は、もうとっくに終わっていたのだ”
私はバッグの中に手を入れ、1枚の紙を取り出す——“折り目のついた、緑色の用紙——“それを見た瞬間、——高雪の顔色が変わった——“ま、待てよ、はるか——“私の方は、記入済みです”——テーブルの上に置くと、かさりと乾いた音がした——“置いただけの音なのに、不思議なほど重く響く——“高雪は震える手で離婚届けを取った——“そこには、私の署名と捺印がされている——“さらに、日付まで埋まっていた——“え——“離婚してください”——自分でも、一切迷いがなかった——“高雪は、紙と私の顔を何度も見比べる——“まさか離婚届けを突きつけられるとは——“思いもしなかったのだろうか——“違うんだって——“何が——“俺は——“彼は必死に言葉を探す——“だが、口から出るものは、どれも薄っぺらいものばかり——“そもそも、浮気相手と一緒にベランダへ隠れていた男の言葉など、今更信用できるはずもなかった——“俺はお前とやり直したいんだ——“はるかのことを、大事に思ってる”——“へえ”——私は小さく首をかしげた——“じゃあ、改めて聞くけど——“私が帰宅するたびに、ゴミ出しへ行かせたのは?——“それは——“今日だって、しっかり私にゴミ袋を手渡したはずだ——“ベランダに女を隠しするのは、俺”——私のいない間に、家に連れ込んでたのは、俺——“離婚したくない気持ちは本心なのだろう——“だが、それは“私は”がいなくなるから来るものではない——“大体、私にとってあなたと復縁するメリットがないわ——“どこに、やり直したい要素があるの?”——彼は何も答えられなかった——“その横で、里子が鋭く私たちを睨みつけていた——“え?——やり直したいって、何?”——里子の目が釣り上がっていく——“さっきも言ったけど——“約束は守れよ——“私と結婚するんじゃなかったの?——“それは私——“会社でも友達でも——“奥さんと別れるって言われたって話してたんだけど”——高雪はオロオロと、私と里子を交互に見る——“どこまでも節操のない男だ——“自分の気分次第で、いい加減な発言をするから——面倒なことになると——分かっているのだろうか——“ちなみに、離婚後、あなたが誰と再婚しようが、私は口出しする気はないわ——“私は——離婚届けの置かれたテーブルへ視線を落とした——“もう決めたことだ——“夫婦でなくなる以上、私には彼と里子の今後に干渉する権利も義務もない——“好きにすればいい”——里子は勝ち誇ったように顎をあげた——“ほらほら——“彼女は嬉しそうに高雪の腕を引っ張る——“聞いた——“奥さんだって、認めてるじゃん——“だったら、問題ないでしょ”——ところが、高雪の反応は里子の期待とはまるで違った——“嫌だよ——“しつこい——“え?”——“何度も断ってるだろう——“察しろよ”——里子は浮気相手としてはちょうどいいけど——“結婚相手には向いてない”——場の空気が凍りつく——“里子の笑顔が引きつった——“彼は焦っているらしく、もはや何を言っているのか自分でも分かっていないようだ——“幸せな未来が想像できない——“女なのに料理もしないし、家事も嫌いだし——“金使い荒いし——“一緒にいて全然落ち着かないんだよ”——“ちょっと待ってよ”——咳払い——“2人の罵り合いをさえぎるように、私は口を開いた——“あら、私だって別に、家事は好きじゃないわよ”——私のセリフを聞いた高雪は、信じられないものを見るような顔をしていた——“本気で驚いているらしい——“何よ、その顔——“だって、お前——“それを仕事にもしてるのに”——私は苦笑した——“この人は、そんな風に思っていたのか——“あなた——“だって——“静かに問い返す——“仕事が好きかって聞かれたら——“困る——“もちろん責任感はあるし、やりがいもあるでしょう——“けど、“四六時中やっていたいほど大好き”かって言われたら——“違うでしょ”——彼は口を閉じた——“少し考えた後、小さく頷く——“確かに——“私にとっての家事も、同じよう——“部屋の中が静かになる——“好きだからやってたわけじゃない——“家事は基本、どれも面倒なものばかり——“それでも続けて来られたのは——“高雪の喜ぶ顔が見たいから——“私が好きだったのはね、“あなた”——ふと、昔のことを思い出す——“結婚したばかりの頃、まだ2人とも若くて、狭いアパートに住んでいた——“家事をすると、あなたが喜んでくれるから——“昔の高雪は、少しのことでも大げさなくらい感謝してくれた——“ありがとう——“助かった——“はるかはすごいな”——言われるたびに、嬉しくなったものだ——“私が作ったご飯を食べて——“美味しい”って、何回も言ってくれたし——“洗濯物を畳んだだけで感謝したり——“仕事で疲れて帰ってきても、ちゃんと労ってくれた——“だから頑張れたの——“あの頃は、本当に幸せだった——“好きな人の役に立てることが嬉しかったから、家事も苦ではなかったのだろう”——高雪は何も言わない——“ただ呆然と、私を見ている——“でも、いつからか——“当たり前になった——“感謝されなくなり、“やって当然”になった——“むしろ、少しでもできないと文句を言われてしまう——“そして気づけば、“浮気されても仕方ない女”になっていた——“私は家政婦になりたかったわけじゃない——“人と夫婦になりたかったの”——高雪は、初めて本当に反省した顔になった——“唇を震わせ、目を伏せている——“ようやく理解したのかもしれない——“失ったのは、“便利な家事要因”ではなく——“自分を大切に思ってくれていた妻だったのだと——“はるか”——掠れた声が漏れる——“本当はね、今日ここで——“あなたが“離婚したくない”って言ったこと——“だけは、少し嬉しかったかな”——高雪の目が見開かれる——“ま、それでも離婚するんだけど——“私の中で最後に残っていた未練も、静かに消えていった——“さて——“私は小さく息を吐きながら、腕時計へ視線を落とす——“気づけば、帰宅してから随分時間が経っていた——“で、——“疲れきった頭が重く、肩も凝っている——“本当なら、今頃温かいお茶でも飲みながら——“ゆっくりしているはずだったのに——“私も疲れてるし——“これ以上話してても無駄だから”——静かにそう告げる——“呆れを通り越して、もう何も感じなくなっていた——“2人とも、そろそろ出ていってもらえるかな?”——“え?”——間抜けな声を漏らした後、里子は自分を許す——“出てくって——“里子はともかく——“俺も?”“そうね”——即答だった——“1秒も迷わない——“むしろ、どうして自分だけは残れると思ったのか——不思議なくらいだ——“ここまではっきり切った以上、“浮気者と一緒に暮らす”なんてごめんだし”——高雪の顔に再び、焦りの色が見え隠れする——“何より——“2人で早く、病院に行った方がいいんじゃない?”——“は”——びくりと肩を震わせた——“場所によっては、まだ受付してるところもあるかもしれないし”——里子と高雪は、同時に顔を見合わせた——“互いを罵り合っていたくせに——“病気の話になると、途端に黙り込む——“よほど心当たりがあるらしい——“すっかりおとなモードだ——“どうしたの?”——私はわざとらしく首をかしげた——“そんな顔しなくても、大丈夫よ——“何もなければ、安心できるじゃない”——里子の顔が引きつる——“彼は目を泳がせていた——“慰謝料については、また弁護士に連絡してもらうから”——テーブルの上に置かれた離婚届けを指先で軽く叩く——“この家の荷物についてもね、必要なものは後日まとめて取りにくればいいし——“その辺りは、全部弁護士を通して”——淡々と事務的に話す私を見て、高雪は現実を理解し始めたらしい——“これは夫婦喧嘩ではない——“一時の感情とは違い——“本当に終わるのだと——“はるか”——消え入りそうな声だった——“何?”——“あれ?”——言葉を濁らせる彼が私に伝えたいのは——“謝罪か、後悔か——“あるいは、復縁の提案か——“正直,どれでもいい——“私、残業帰りで疲れてるって言ったよね——“今更、臭いセリフ囁かれても——“何もときめかないから——“結婚したばかりの頃なら,違ったかもしれない——“1年前でも,泣きながら許していただろう——“けれどもう遅い——“目の前にいるのは——“家をラブホ代わりに使い“浮気相手と一緒になって私を騙し続け—笑い物にしていた男——“そんな相手に愛の言葉を囁かれても——“胸は1mmも動かない——“早く出てって”——最後通告だった——“部屋の空気が静まり返る——“彼は何度か口を開きかけたが,結局何も言えなかった——“そして力なく肩を落とす——“分かった”——隣では里子も不機嫌そうに唇を尖らせている——“マジ最悪なんだけど——“あら,それはこっちのセリフよ——“加害者なのに,被害者ぶるのはやめてね”——里子がむっとする——“だが,反論はしてこない——“結局2人は,沈黙のまま玄関へ向かった——“ドアの前で高雪が1度だけ振り返る——“そこには,未練も後悔も情けなさも———全部混ざった,不思議な顔があった——“ガチャリと音を立ててドアが閉まり,足音が遠ざかっていく——“それを聞き届けた瞬間,私は大きく息を吐いた——“静かになった部屋に1人きり——“本来なら,泣く場面なのかもしれない——“けれど不思議と,涙は出なかった——“代わりに胸に広がったのは,長い間背負わされていた思い荷物を———ようやく下ろせたような,解放感だった
数週間後——無事に離婚が成立した——“ところが,財産分与と慰謝料について,高雪がごねているらしい——“弁護士に任せているから大丈夫だろうが,早いところ全て終わらせてしまいたい——“そんなことを考えていた仕事帰り,駅で突然後ろから声をかけられた——“はか”——振り返ると,平日にも関わらず普段着の高雪がいた——“なんでここに?”“お前,車持ってなかったし——“ここで待ってればいいつか,会えるかなって”——“目的は何?”——彼はもぐもぐと口ごもり,視線を泳がせてくる——“ここじゃなんだし,俺が奢るから——飯でもどう?“行きたい店ある?”——“慰謝料について,決着をつけたい”——私はしぶしぶ承諾した——“指定した場所は,ファミレスだ——“え,そんな安い店でいいのか?”——“気を遣わせたくないから”——仕事帰りの疲れがまだ肩に残っているが,警戒は解けない——“ファミレスなら,常に人の目があるので少し安心だ——“私は話し合う前から,どっちにしても気を張っていた——“本当は,あのまま無視して帰ってしまいたかった——“けれど,慰謝料や財産分与の件がまだ片付いていない以上,どこかで話をするべきだ——“高雪が何を考えているのかは不明だが,少なくとも逃げ続けるつもりはないのだろう——“だからこそ,私は頷いた——“そして2人で,駅前のファミリーレストランへ向かう——“夕食時を少し過ぎた店内は,ほどほどに賑わっていて,学生や会社員,家族連れの話し声が——あちこちから聞こえてくる——“店内に案内され,窓際の席へ座った——“向い側の高雪は,どこか落ち着きなく,メニューを開いたり閉じたりしている——“その様子を見ているだけで,以前の私なら彼の機嫌を窺い,不安になっていただろう——“しかし今は,何も感じない——“早く要件を聞いて,解決して帰りたい——“そんな気持ちしかなかった——“今日は,あなたにご馳走してもらうために来たわけじゃないから——“そ,そうか”——気まずそうに視線を落とす高雪——“私は随分と,強くなったものだ——“沈黙が流れても,別に困らない——“むしろ,この居心地の悪さこそが——今の私たちの関係を,正しく表している気がした——“やがて注文を済ませると,高雪は両手を組みながら,小さく息を吐いた——“その——元気そうでよかった——“そうも順調なんだろ——“それなりに”——会話が続かない——いや,続ける気がないのだ——“私のそっけない返事に,彼は何度も口を開いては閉じる——“どうにか円やかに話したいのだろう——“それで——“私が先に切り出した——“わざわざ駅で待ち伏せまでして,話したいことって何?”——高雪の表情が曇る——“彼はしばらく俯いたまま黙り込んでいたが,やがて意を決したように顔をあげた——“はるか——“俺さ——“うん——“後悔してる”——店内の雑音の中,妙にはっきり耳に届いた——“高雪の顔は,以前より少し痩せて見える——“目の下には,うっすらクマもできていた——“苦労しているのだろう——“だからと言って,同情する気にはなれなかった——“そうそう——後悔するのは自由だから”——淡々と返す私に,——“高雪は苦しげに顔を歪めた——“俺,本当にバカだった——“それも知ってる——“里子とも,もう終わった——“でしょうね——“むしろ,続いていたら驚く——“高雪と里子の相性の悪さは,あの日数十分見ていただけで——十分に伝わってきた——“高雪は,私の反応に期待していたのか,落胆したように肩を落とした——“なんでそんなに冷静なんだよ——“散々苦しんで——あたふたする時期は,終わったから——“離婚届けを書いた夜,1人で泣いた日——“信じていた人に裏切られた現実を受け入れられず,何日も眠れなかった——“そんな時間は,もう終わっている——“今更後悔されても,私はあの頃には戻れない——“で,本題は”——彼は唇を噛みしめ,震える声で言った——“もう1回だけ——“やり直せないかな”——私は数秒,無言になった——“あまりにも予想通りすぎて,逆に呆れてしまったのだ——“本気で言ってる?”“本気だよ——“浮気して,離婚して,慰謝料をごねてる人が——“復縁要請——“それこそ,“お金目当て”じゃない——“しかも,罪はそれだけではない——“私をゴミ出しに行かせて,その隙に浮気相手を——ベランダから逃してた人が——“今更——“そのどの口が,言ってるの?”——言葉を失う高雪——“ねえ,高雪——“何?”——“あなた,自分が後悔してるからって——“私もまだ,同じ場所にいると思ってる?”——彼からの返事はない——“私は,前に住んでるの——“窓の外では,帰宅途中の人たちが——足早に通過り過ぎていく——“時間は止まらない——“私の人生も,同じだ——“あなたは,失ったことに気づいただけ——“でも私は,失った後どう生きるかを——考えて,ここまで来たのだから——“もう無理——“私ははっきりと言った——“私たちは,終わったの——“これ以上,私の人生を邪魔しないで”——高雪は力なく俯いた——“そっか——“まあ,お前も初詮——そこらの女と同じだよな——“金のない男には,用はないって”——次に飛ばされたのは,吐き捨てるような言葉だった——“これぞ,開き直りだ——“ドリンクバーから戻ってきた高雪は,椅子に深く腰を下ろしながら,わずらしく鼻で笑う——“かつては仕事に自信を持ち,いつも堂々としていた男——“けれど,今の彼は違う——“髭はうっすら伸び,きっちり整えていた髪も——どこか乱れている——“変わっていないのは,口調だけだ——“どういうこと?”——問い返すと,彼はグラスの水を一口飲み,わずかに口角を上げる——“聞いたんだろ,俺の仕事のこと——“まあ,“短く答えながら,私は視線を落とした——“弁護士から,大体のところは聞いている——“高雪は,派遣会社との度重なる不適切な関係が——会社に発覚し,左遷処分を受ける予定だったらしい——“会社側としては,音をかけたつもりだったのだろう——“普通ならそこで反省し,新しい部署でやり直す道もあった——“だが,彼は納得しなかった——“自分は悪くない——“なぜ自分だけが責められるのか——“そんな主張を繰り返し,上層部へ抗議を続けた結果——最終的には,自主退職という形で会社を去ることになったそうだ——“私から見れば,自業自得以外の何者でもない——“それでも,かつて愛した人が転落していく話を聞くのは——決して気分のいいものではなかった——“エリートから一気に無職だわ——“笑えよ”——彼は力なく口角を上げて笑う——“その笑い声は,乾いていた——“自虐のようで,相手に慰めを求めているようにも聞こえる——“私は小さく首を横に振った——“別に,私はあなたがエリートだから——“好きだったんじゃないし——“へえ——“ただ,やたらと見下すのは——やめて欲しかったな——“言葉にすると,結婚生活の中で積み重なっていた感情が——少しだけ浮かび上がってくる——“高雪は,何かにつけて人を順位付けした——“直接馬鹿にするわけではないけれど,“言葉の端々に,自分より下だと判断した相手を——軽く扱う癖が見え隠れする——“それは,私に対しても同じだった——“別に見下したわけじゃないよ——“彼は眉を潜める——“収入が高い方が優遇されるって,当然だろ——“まるで,何を言われているのか理解できないという顔だった——“高雪は本気で,そう思っているのだ——“だからこそ,会社でも失敗したのかもしれない——“じゃあ,今は私の方が上だね——“私がそう言うと,彼は一瞬だけ言葉に詰まった——“しかしすぐに,肩を竦めて笑う——“確かにな——“無職相手なら,お前みたいな低収入でも——“言われるわな——“私は思わず苦笑した——“離婚して何週間も経つのに,この人はまだ何も分かっていない——“結婚していた頃の印象のまま,私を見ている——“私,もう低収入じゃないよ”——彼の方がびくりと動いた——“意味が分からないとでも言いたげだ——“残業続きだったでしょ?“あれね——昇格前の準備だったの——“高雪の顔から,みるみるうちに表情が消えていく——“ショックを受けているのは明らかだ——“今は,役職で言えば部長クラスかな——“年収も,多分あなたが会社員だった頃より上だと思う”——彼の反応を見ても,私は不思議と何の感慨も感じなかった——“彼は一瞬ポカンとした顔をした後,鼻で笑った——“は?何それ?強がり?”——“強がりじゃないけど”——運ばれてきたドリンクに口をつけながら,淡々と答える——“離婚してからというもの,泣いて過ごす暇なんてなかった——“仕事は忙しかったし,弁護士とのやり取りもあった——“先の未来のために,必要以上に落ち込んでいる余裕はなかったのだ——“会社がね,新しい事業を立ち上げる——ことになって——“はあ”——彼は興味なさそうに返事をする——“その責任者に選ばれた,ってだけの話——“はあ——“元々,私それなりに評価されてたでしょ——“会社の業績も上がったみたいで——“いやいや,待て待て——“聞き流していたかと思ったが,しっかり理解できたらしい——“慌てて首を振る高雪—— “責任者って,どこら部長クラス?”——“役職名はないけど,“手当”つくから——そんな感じ——“嘘だろ? ”——“自分より下だと思っている相手が評価されると,彼は決まって“嘘だろ”という——“努力した結果だとは考えない——“運が良くて,誰かに引き上げられただけだと——自分を納得させる——“別に,信じなくてもいいよ——“年収は,聞くのやめておくけど——“私は少し考えてから答えた——“去年の倍くらいかな”——高雪の顔色が変わった——“私が見下していた妻ではなくなったと,ようやく理解したのだろう——“は——“だから,“もう低収収入じゃない”って言ったでしょ——“彼は何度も口を開いては閉じた——“言葉が出てこないらしい——“プライドを傷つけられたとでも思っていそうだ——“彼は,私の仕事をずっと軽く見ていた——“家事をやるだけで金もらえるなんて,楽勝だな——“これまでに,何度も投げかけられた言葉だ——“その度に傷ついたけれど,私は言い返せなかった——“夫婦関係を良好に保つため——張り合っても無駄だろうと,我慢していたからだ——“今思えば,あれは私なりの諦めだったのかもしれない——“お前,俺がいなくても——平気なんだな”——私は予想外のセリフに,目をまたかせる——“何を言い出すのだろう——“彼は力なく笑った——“俺さ,本気で思ってたんだよ——“テーブルを見つめたまま続ける彼は,寂しそうだった——“お前は,俺がいないと生きていけないって——“家事もやるし,真面目で優しい——“でも,要領が悪くて損ばっかりする——“ひどい言われようだ——“だから,俺が守ってやらなきゃって——“思ってたけど——“実際は,逆だったんだな”——すっかり別人のように覇気のない姿は,少しだけ哀れだった——“だが,同情はできない——“彼は,自分で壊したのだ——“悲劇のヒロインモードに,私を巻き込まないでくれる?“あなたは,私を見下し,浮気して,騙した——“これが真実——“バレていなかったら,今でも楽しく浮気してただろう——“ごめん——“謝らなくていいわ——“ただ,慰謝料は譲れない”——静かに告げると,彼は項垂れた——“失ったものの大きさに,ようやく気づいたのだろう——“しばらくの沈黙の後,彼は小さな声で言った——“なあ——“何?“——彼は期待するような目で見上げてくる——“もし俺が,“今は考えられなくても——“何年かして——やり直したい”って言ったら——“無理”——最後まで聞かずに答えた——“彼は苦笑する——“即答でごめんね——“いや,だろうな——“だって,私——“バッグを持って立ち上がる——“窓の外は,すっかり暗くなっていた——“今,すごく幸せだから——“仕事も順調だ——“友人とも,以前より会うようになった——“休日は,好きなことに時間を使える——“誰かの顔色を窺う必要もない——“浮気が発覚した直後は,“人生が終わった”ような気持ちだった——“けれど,終わったのは不幸な結婚生活であって——“人生ではなかったのだ——“ご馳走様——“財布から,自分の分の代金を置く——“はるか”——呼び止められるが,私は振り返らない——“じゃあね——“もう見かけても,声かけないで——“それだけ言って,店を出た——“背後から,追いかけてくる足音はない——“駅へ向かう夜道は少し冷たかったけれど,不思議と足取りは軽かった——“ようやく私は,自分の人生を取り戻したのだから
弁護士によると,彼はその後もなんとか復縁を匂わせるような連絡をしてきたらしい——“けれど,私は1度も返信しなかった——“弁護士を通して,慰謝料と財産分与の手続きは無事に完了——“最後まで,彼は金額に不満を漏らしていたそうだが——“自分が積み上げてきた結果なのだから,仕方がない——“その後の彼については,人づてに少しだけ耳に入ってきた——“再就職先はなかなか決まらず,ようやく入った会社も,以前のような待遇ではなかったらしい——“収入は大幅に下がり,同年代よりもだいぶ低いものになった——“マリナとも里子とも,長続きしなかった——“お互いに刺激や優越感を求めていただけの関係だったのだろう——“現実の生活が始まると,あっという間に破綻したそうだ——“幸い,病気はうつされてなかったらしい——“里子との関係は,“なんだかんだ言って,抑えていたおかげだ”と,高雪が誇らしげに喜んでいたと聞いた——“近所からはあれこれ言われているようだが,本人は気にしていないとのこと——“ある意味,羨ましい性格だ——“ただ,すっかり落ちぶれていた——“一方で,マリナに慰謝料請求すると——即日,振り込まれた——“高収入の男性と結婚したらしいので,慰謝料くらい余裕なのだろう——“ちなみに,里子は完全に請求を無視した——“何度弁護士が連絡しても,スルーしている——“放置すれば,いずれ私が諦めるとでも思ったのかもしれない——“が,世の中は甘く見すぎだ——“少なくとも私は,絶対に里子を許さない——“仕方なく,彼女のご両親に連絡し,片付けてもらった——“里子はものすごく怒られ,近々実家に強制送還されるらしい——“一方の私はと言うと,離婚後に正式な昇進が決まった——“責任は増えたものの,その分やりがいのある毎日を送っている——“何より,家に帰っても誰かの顔色を窺わなくて済むのは——幸せだ——“洗濯も料理も掃除も,相変わらず面倒だけれど——“自分のためだけに行う家事は,驚くほど気楽だった——“人生は,こんなにも軽くなるのかと——今になって実感している——“先日,新しく借りたマンションのベランダで——コーヒーを飲みながら空を眺めている時,不意に思った——“私はずっと,“夫婦生活は我慢が必須”——高雪を優先することで,家庭が成り立つと思っていたからだ——“実際は,“好きだった頃の思い出に——しがみついていた”——のかもしれない——“でも,本当に大切なのは——“誰かに選ばれることではなく——“自分自身を大切にできる環境を——“選ぶことだったのだ



