「たった月100万の特許ギアで何を偉そうに」――そう言い放った瞬間、取引先の部長の傲慢な態度はもう限界を超えていた。俺は淡々と「できないことはできません」と告げただけだ。だが、その男は俺の車椅子や中卒という学歴を持ち出して、これでもかと挑発してきた。ついには常識を疑うような要求まで飛び出した。俺は顔を上げ、覚悟を決めた。
俺の名前は小宮、47歳。家庭の事情で中学卒業後すぐに働き始め、機械部品の製造会社で技術者としてやってきた。数年前までは技術部の課長を務めていたが、今は一般社員だ。何か不祥事を起こして降格したわけではない。今の自分の状態では管理職として満足に動けないと判断し、自ら申し出たのだ。給料に変動はない。むしろ以前より上がっているくらいだ。
きっかけは数年前、新入社員の教育プログラムに参加した時のことだ。その中に池田という青年がいた。俺のいる技術部に配属された池田は非常に真面目だった。だがその気真面目さゆえに、必要以上に力が入り、できるものもできなくなっていた。もっと肩の力を抜けば、きっとあっという間に成長するだろう。俺はそう考え、必死にメモを取り復習する池田を温かく見守っていた。
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そんなある日、池田は慣れない社会人生活に苦労しているのか、疲労が目に見えて溜まっていた。
「少し頑張りすぎじゃないか。今日くらい定時で帰ったらどうだ」
「でも……」
「無理をしてもいいことはない。池田君が毎日頑張っているのは、私たちはちゃんと分かっているから」
そう言ってようやく池田は頷いた。フラフラと立ち上がり、会社を出ていく後ろ姿を見送りながら、俺はふとため息をついた。「なんだか心配になってきたな」と。
しばらくして、窓の外を見ると、準備を終えて歩いて帰る池田の姿がちょうど見えた。やはり足取りがおぼつかない。
何か嫌な予感がして、俺は急いで帰り支度を済ませ、池田を追いかけた。帰りの駅までの道は一緒だ。急げば追いつける。
ようやく追いつこうとした瞬間、視界に何かが映り込んだ。池田に向かって、まっすぐ自転車が突っ込んでくる。あの時の光景は、まるでスローモーションのように覚えている。大柄な男性がスマホを片手に、脇も見ずにこいでいた。
「池田君っ」
本能的にそう叫び、俺は池田の背中を押し飛ばした。――激しい衝突音。体全体、特に太ももに激痛が走る。男性の体がそのまま俺にのしかかってきた。
「小宮部長っ」
池田の声を最後に、俺の意識は途切れた。気がつけば病院のベッドの上だった。
結果、太ももから膝にかけての筋肉に後遺症が残った。完全に歩けなくなったわけではない。松葉杖があれば移動はできる。ただし短時間が限界だ。主人と相談し、仕事上では車椅子を使う方がいいという結論に至った。
それからというもの、車椅子は大切な相棒になった。リハビリは正直きつかったが、俺には戻る場所があり、大切な家族がいる。それだけを支えに歯を食いしばった。何より心の奥にあったのは、池田のことだ。
「僕がぼんやりしていたから、小宮さんがこんな目に遭う必要はなかったのに」
事故後、池田は俺の前で涙を流した。「俺が勝手にやったことだ」と言っても、彼は納得しない。だから俺はこう告げた。
「俺は後悔していない。起きたことをなかったことにはできない。だから俺は前を向くんだ。池田君、一緒に前を向かないか」
幸い完全に歩けなくなったわけじゃないし、技術者としての道が途絶えたわけでもない。池田が無事で本当に良かった――そう淡々と告げる俺の言葉は、不器用だったかもしれないが、気持ちは伝わったのだろう。池田はようやく深く頷いてくれた。
会社に復帰してから、池田は自然と俺のサポートに徹することが多くなった。「大丈夫だ」と言っても、やはり気にかかるのだろう。仕事上どうしても必要な時以外は、俺も自然と池田のサポートを受け入れるようになった。
「明日の納品は、僕が同行します」
ある日、池田がそう声をかけてきた。うちの取引先に、とある産業機械メーカーがある。普段は技術者が納品に行くことは少ないが、今回は特許製品が絡んでいた。うちの特許ギア、つまり精密な歯車の製造は業界でも一目置かれている。俺は昔、この特許ギアの開発リーダーを務めていたこともあり、納品の際は説明や確認のために運送に同行することがあるのだ。
「運送の担当者もいるし、そんなに気にしなくても大丈夫だよ」
俺が苦笑しながら返すと、池田は首を振った。
「いえ、明日は手が開いていますし、僕がいた方が対応もしやすいかと」
「そうかい。いつもすまないね」
俺は礼を言いながら、ふと担当の顔を思い浮かべた――足立部長。数年前からうちの担当をしている男だが、何かと問題が多い。こちらを使い捨ての下請けのように見下す態度を全面に押し出す性格だ।俺が中卒だとどこからか聞きつけたらしく、よく学歴を使って嫌味を言ってくる。面倒なので適当に受け流してきたが、一番困るのは、立場を笠に着て急な納期変更や値引き、土壇場での仕様変更を当然のように要求してくることだ。そもそも納品額や期限には、お得意様サービスが反映された上で契約しているのだ。必要以上に対応する理由などない。
しかもだ。俺が職場復帰したばかりの頃、あの足立は車椅子になった俺に向かって、こう言い放ったのだ。
「そんな姿になってまで会社にすがりつきたいかね。まあ、小さな会社と言えども就職活動するよりはマシか。小宮さん、あんた中卒だもんな」
馬鹿にしたように笑う足立に、池田が怒りで震え出したのを覚えている。その時はなんとか池田を静止したが、俺の胸の中は決して穏やかではなかった。
「実はついさっき足立部長から連絡があったんだよ。数料は決まっていると説明したんだけど、またサービスしろとしつこくてね。正直に言えば君が同行してくれて安心するよ」
俺が池田に話しながら思い出すのは、断っても断っても繰り返される足立の好き放題な要求だ。
「どうせ非常用の在庫くらいあるだろ。その分だけでいいからさ。お得意様への日頃の感謝の気持ちってことでよろしく」
――ガチャリ。れで一方的に切られた電話を思い出し、俺は小さくため息をついた。
「何ですかそれ。本当にいい加減な人ですね」
「まあ、決められた分をきっちり納品するだけさ」
俺がそう言うと、池田は同意するように頷いた
. 翌日、俺と池田は予定通り取引先へ向かった。先方に到着すると、「ご苦労さん」と足立が出迎える。運送担当が池田の指示のもと、納品物を丁寧に下ろしていくところで、足立が口を開いた。
「で、昨日話したサービス分はどれくらいだ」
「いえ、ですから、そういうことは出来かねます」
予想していた通りの言葉に、俺は心の中でため息をつきながら答えた。
「はあ」
足立の顔色が変わり、小さく舌打ちが聞こえた。
「なんだよ、本当に融通が利かないな。散々うちの世話になってるくせに」
「そうおっしゃいますが、今までも同じようにお断りしてきましたよね。理由も説明してきたはずです」
淡々と告げると、足立は声を張り上げた。
「今回こそは、と思ったんだよ」
その声に気づき、池田が慌てて駆け寄ってくる。
「どうされたんですか」
俺が事情を簡単に説明すると、池田はいぶかしげな表情で足立を見た。その視線が気に入らなかったのか、足立の表情がさらに険しくなっていく。
「大体な、たった月100万の特許ギア程度で何を偉そうに特許が何だよ。ちょっと品質が保証されているだけだろうが。数量に対して金額が高すぎるんだよ」
「ちょっと品質が保証されているだけ」――その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが冷えていった。普段は大抵の暴言は受け流せる。だが、俺たちが長年磨き上げ、特許として完成させた技術を馬鹿にされることだけは、許せない。
このギアの精度交差を0. 001mm単位で詰めるのに、一体何年かかったと思っているのか。素材の選定だけで試作を何十回も繰り返した。問題が出るたびに一から見直し、やっと量産ラインに載せられるようになるまで、どれだけの時間を費やしたか∘その積み重ねがあって初めて特許として認められた技術だ。それを「ちょっと品質が保証されているだけ」と言い捨てる。この男に言葉を尽くしても、何も届かない∘――奇妙なほど頭が冷えていくのを感じた.

「なんだその目は。使われてる立場のくせに。中卒は黙ってこっちに従えよ」
足立はさらに続ける。
「車椅子に乗ってるからって俺は甘くないぞ。今後金額はそのままで数量10%増量だな。出なきゃ支払いしないからな」
なんてめちゃくちゃな理屈だ∘同じ社会人、いや大人とは思えない∘俺の学歴と教養は全くの別問題で、ビジネスの問題には無関係だ∘挑発のつもりか何か知らないが、朝墓にも程がある∘そもそも数量に関しては、きちんと契約に書いてある◦仮に本当にこちらが応じたとしても、上に知られれば契約を無視するなと叱られるのがオチだ∥
「池田君、待ってくれ」
怒りに震える池田と視線が合うと、俺は心の中で頷いて見せた∥池田はぐっと堪え、引き下がってくれた∥
「なんだ、自分が分が悪いとようやく分かったのか」
俺は首を横に振った∥言葉で届かないなら、行動で示すだけだ∥
「いえ、足立部長のお考えはよく分かりましたので、今日は帰らせていただきます」
「は」
足立がポカンとしている間に、俺は運送担当に持ち帰るよう指示をしてくれと池田に頼んだ∥
「はい、小宮さん、すぐに伝えます」
「何を勝手に」
足立が声を張り上げ、池田の邪魔をしようとしたが、俺は足立を静止し、真正面から睨みつけた∥この男はうちの技術を軽論じた∥それだけではない∥自分たちが上だと思い上がり、契約にない勝手な要求を突きつけてきたのだ∥ただでさえ不快感のある行動が目立っていたのに、もう我慢の限界だった∥
「あなたは、言ってはいけないことを言いました∥金額はそのままで10%増量、寝言は寝てから言っていただきたい∥これは重要な契約違反ですし、あなたに契約内容を変える権限などない∥今日の出来事は、正式なクレームとして報告させていただきます∥私個人に対する暴言も含めてね」
足立が俺に近づこうとした、まさにその時、池田が戻ってくる∥俺と池田に睨まれ、足立の足が止まった∥
「では、そういうことですので、これで失礼いたします」
俺と池田は軽く一礼し、背を向けた∥会社に戻るや否や、俺たちはすぐに上司を通じて社長に報告した∥それから数日が経ち、社長は最初かなり驚いていたが、最終的に先方への契約を決定することにした∥契約を打ち切るという連絡を入れた直後、足立から何度も俺当てに連絡が来たが、俺は無視した∥言うべきことは既に会社を通じて伝えてある∥今更個人的に話す必要などない∥池田や他の社員も、足立が慌てふためいていても取り合わなかった∥
さらに数日が経った日の夕方∥仕事を終えて会社を出てすぐのところで、背後から突然「小宮さん」と名前を呼ばれた∥振り返る間もなく、いきなり車椅子に衝撃が走る∥
「あ——足立部長」
気づけば、足立部長を見下ろしていた∥この時ようやく、足立が車椅子の持ち手部分を掴んでいるのだと悟った∥
「あんた、何度も連絡してるのになんで無視するんだ∥いい加減にしろ」
車椅子は俺の足だ∥その持ち手を力任せに掴まれた瞬間、体の自由を奪われた感覚が全身に走った∥頭では何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない∥
「小宮さん」
池田の声がした∥気がついた時には、池田は足立の腕を掴み、同時に大きな声で警備員を呼んでいる∥
「ちょ、ま、」
これには足立も慌てたのだろう∥池田の叫びで駆けつけた警備員に対し、足立はあわあわと狼狽えていた∥
「騒がしいが、何かあったのか」
騒ぎを聞きつけた社長も姿を現した∥瞬間、足立は顔が真っ青になった∥
「米山社長」
池田がうちの社長の名を呼ぶ∥社長は池田に耳打ちされ、すぐに状況を察した∥
「何だ、小宮君に、か∥このまま警察を呼んでもいいが、まあ、それはしたくないな」
社長がそう呟くと、足立が激しく首を横に振った∥
「待ってください∥話を聞いてください∥今日は、そう、謝罪しに来たんです∥先日の暴言と、取引先担当としてあるまじき行動を、謝罪しに来ました」
たどたどしく、取ってつけたような言葉に聞こえる∥俺以外もそう思ったのだろう∥俺と池田、それから社長は互いに顔を見合わせた∥
「うん亡。そこまで言うなら」
こうして社長はひとまず足立を社長室へ通すことにした∥当事者の俺と池田も同伴する∥
「本当に今回の件は反省しております∥日頃の気さからつい弾みで——あ、あの、実を言いますと、まさか本当に契約が打ち切られるとは思っておらず——」
最初はこうして弱々しい様子で頭を下げていた∥だが、謝っている風で内容はただの言い訳ばかりだ∥どうやらこういうことらしい∥足立としては、ちょっとした軽口を叩いただけで契約覇気につながるとは思っていなかったのだ∥だが、取引先としては、うちの特許ギアは自分たちの製品の心臓部に使用する重要部品で、今のところ代替できる部品はない∥つまり、うちの納品がなくなるのは大打撃なのだ∥そして彼は、再度契約を結びたいと言っている∥
「もちろん契約内容は見直し、本社にふさわしい潤った内容にしますので」
白々しい言動が続き、俺はうんざりした∥足立の軽はずみな行動で、うちから契約覇気を突きつけられた取引先社長の気持ちを思うと、人のことながら心臓が冷たくなる∥だが、この男に公配部長、そして取引担当を任せたことに関しては、責任があるのも間違いない∥
「そうおっしゃいますが、そんなことは承知の上だったのでは∥それなのに弊社の小宮だけでなく、特許ギアに関しても侮辱を」
社長がじろりと足立を見る∥足立は蛇に睨まれたカエルのように、真っ青になって体を縮こまらせていた∥
「それだけじゃありません∥契約に関しても、一見行為を」
池田がそう口にした、まさにその時だった∥
「おい、前から思ってたけど、お前は何なんだよ∥暴言は認めるが、そんな一見行為なんてしてない∥話を盛るのも大概にして貰おうか」
足立は池田を指差し、声を張り上げた∥何度も大きな声を出して、喉は痛まないのだろうか∥俺はやれやれと首を横に振った∥
「彼はご覧の通り私の部下ですよ∥それに納品の場にいた証人でもあります∥ここで発言したって何も不思議ではないでしょう∥それから、事実をねじまげるのはやめていただきたい」
足立はふうと息を荒くし、唇を噛みしめた∥感情のやり場を池田に向けようとしたところで、自分の立場をさらに悪くするだけだということに気づいたのか、足立はさらに続けた∥
「そもそも、なんでこんな車椅子の奴に俺が頭を下げなきゃならないんだよ∥どうせ不注意で事故でもしたんだろ∥そんな惨めな奴が」
抑え込んでいた不快感が、再び沸き上がってくる∥実際は全く違うというか、本題から大きくずれた話だ∥俺がここで感情を露わにしては、足立の思う壺だろう∥俺は黙って足立を見ていた∥
「小宮さんが車椅子を使うようになったのは、私のせいです」
静かに、しかし確かな声で、池田が言った∥
「あなたの言うような理由ではない」
「若造は引っ込んでろ」
池田と足立が互いを睨み合う∥
「それが、足立部長の本心ですか∥やはり謝罪のためにやってきたというのは、嘘だったんですね」
俺が静かにそう言うと、足立がはっとした顔になる∥
「いや、そういうわけでは——」
言い訳を続けようとする足立を遮り、その時、社長が口を開いた∥
「この池田はね、私の身内でね」
その瞬間、足立がポカンとした顔になる∥
「は、でも、米山社長と苗字が——」
「私はおいなんですよ」
足立の顔が、青から白へと変わっていく∥今にも倒れそうな色だ∥
「だからというわけではないですが、私は小宮君たちの報告を信頼していますよ」
社長がにこりと微笑んだ∥俺も事故の後で知ったのだが、池田は時期社長候補として期待されて入社したらしい∥身内と知られると面倒なため、実力がつくまでは限られた人間にしか知らせないようにしているのだとか∥俺の場合は、社長が俺を御人と思ってくれていることもあり、教えてくれたのだ∥
「納品時の言動、謝罪と称して乗り込んできたこと——その後のこの有り様である」
足立は完全に放心状態になり、無表情だった∥
「それより足立部長、一つ教えてください∥なぜそこまで必要に、サービスを要求したんですか」
俺は一番気になっていた部分を尋ねた∥その瞬間、びくっと足立の肩が跳ねる∥しばらく無言でいる足立に、社長が続けた∥
「理由では、何か変わるかもしれませんが」
その途端、足立の口がわずかに動いた∥
「……サービスとして受け取った部品を、内密に横流しにして——小遣い稼ぎをしようと——」
「——はあ」
呆れて物も言えないとは、まさにこのことだ∥俺たちが呆然としていると、足立が情けない声を上げた∥
「正直に言いました∥どうか、内密に——」
「そんなわけにはいかないでしょう」
「何言ってるんですか∥契約はやはり覇気で——」
俺と池田、そして社長の言葉が、ほぼ同時に重なった∥
後日、足立は懲戒解雇になったらしい∥改めて取引先社長から丁寧に謝罪があり、その時にそう教えられたのだ∥取引先で精査した結果、過去にも何件か横流しをしていたことが発覚したらしい∥俺たちには「ミスだ」などと言っていたが、それも嘘だったのだ∥今は法的な話し合いも進んでいるそうだ∥救いようがない∥
池田は今日も、俺の近くで黙々と仕事をしている∥真面目で不器用で、一生懸命な姿が、自分の若い頃と重なって見える∘
俺も池田も、前を向いて進むだけだ∥それは、これからも変わらないだろう∥


