取引先のビルで、営業マンが上司に怒鳴られながらポットを持って歩いてくるのに出くわした。私が会釈すると、その上司は「汚い作業員がうろつくな」と吐き捨て、なんと私に向かってポットの中身を浴びせてきた。100億円規模の契約を控えた私は、その場で商談をすべて取りやめる決断をした。ところが、その直後に信じられないニュースが飛び込んできて……。…

取引先のビルで、営業マンが上司に怒鳴られながらポットを持って歩いてくるのに出くわした。私が会釈すると、その上司は「汚い作業員がうろつくな」と吐き捨て、なんと私に向かってポットの中身を浴びせてきた。100億円規模の契約を控えた私は、その場で商談をすべて取りやめる決断をした。ところが、その直後に信じられないニュースが飛び込んできて……。...

会議室へ向かうエレベーターを降りた瞬間、怒鳴り声が聞こえてきた。五十代半ばで建設会社を経営する私は、新規の取引先である建築資材メーカー「合憲」の本社ビルに、営業本部長代理の原田と共に訪れていた。長年続けてきた公務店を大きくし、今では注文住宅を手掛ける会社の代表だ。

「おい、そんなんじゃ100億以上の取引になる長期の案件なんてお前に任せてらんねえよ。相手は1万人もの社員を抱える大企業様だぞ。お前の土地で商談がパーになったらどうすんだ?」

声の主は、若手社員を怒鳴りながらエレベーターホールへ歩いてくる。その相手をしたいたのは、いつも元気に挨拶をしてくれる営業社員の水野君だった。彼は私の会社の開発部に資材の提案をしてくれていて、見積もりや使用書を丁寧に持ってきてくれる優秀な若手だ。

「なんだあんたら。ここは部外者出入り禁止エリアだぞ。…んだ、あんた。部外者はここに来んなって今言ったよな。なんだよ、その薄汚い服装は。頭に埃つけやがってふざけんな。は、大工らしく犬小屋でも立ててろよ。こちらは今から100億。いや、それ以上の取引が待ってんだ。」

そう言うなり、彼は水野君が持っていたポットをひったくると、私に向かって浴びせかけた。お茶をかけられたのだ。

「汚い作業員がうろつくんじゃねえよ。早く帰れ。おい、水野。床を今すぐ拭いて消毒しとけ。いつらが歩いた汚い床を俺に歩かせるって言うのか。」

私は半ば呆然としながら顔を拭いた。頬が少しヒリヒリするが、火傷がひどくなるような温度ではなかった。彼が準備してくれたのは玉露で、低めの温度だったのが幸いした。

「あなた、お茶をかけましたね。」

やっとのことで声が出た。

「作業服が少しでも綺麗になったろ。」

彼はニヤニヤしながら言うが、水野君は恐縮しながら頭を下げっぱなしだ。

「随分自分勝手な上司を持って水野君も気の毒だな。申し訳ないが100億の契約は、お前の上司と社長に伝えてくれるか?」

私はそう言って、濡れた髪の毛もそのままに、その場を立ち去ろうとした。だが、ズブ濡れの私と原田は、その3分後、1階まで降りたエレベーターを再び4階まで引き返すことになる。合憲の社長に捕まったのだ。

「こんな格好では商談もできないし、したくないので一旦帰ると言ったのですが、このままでお返しすることはできませんと引き止められ、4階フロアにある社長室に通されたのです。」

社長室には三部社長がいた。のんびりとした口調で私達を気遣っていたが、ことの顛末を話すと平謝りの繰り返しとなった。

そして、車内電話で水野君と大西課長を社長室へ呼び出す。

「いや、申し訳ないのですが、謝罪を受けても合憲との取引はなしにします。同様のスペックを提示してくれた会社は他にもあるし、今回は水野君の熱意を買って交渉を進めようと思ったんです。」

水野君は顔を涙と鼻水でグシャグシャにしているし、大西課長はスーツのジャケットとネクタイを変え、髪の毛を整えてきたようだ。そこにズブ濡れでタオルを首から下げた私と原田がいたもんだから、奇妙な顔で三部社長へ苦情を言った。

「こいつらは部外者なのに4階へ入り込んだ奴らですよ。なんで社長室にいるんですか?」

三部社長は、大西課長はステータスホームズとの相談から外れてもらったこと、水野君の方が長年信頼関係を構築してきたこと、大西課長がゴージャス建築さんの案件を専門に担当していたことなどを話した。

「あなたがお茶をかけてしまったから、もうその話はご破算よ。」

水野君が泣きながら再び契約のチャンスを懇願する。

「水野君ごめんな。水野君とだったらいい仕事ができたと思うんだけど、話も聞かずにお茶をかけたり、君を理不尽に怒鳴りつけるような上司がいる会社とは取引はできないよ。俺は大事な部下をここで怪我させてしまったしね。」

「怪我って…ちょっとお湯浴びただけなので怪我のうちに入りませんよ。」

「いいや。うちの会社は労災事故には人一倍気を使ってるんだよ。原田君の顔が赤くなっている。俺の顔もヒリヒリしているのでおそらく火傷を追った。だからこれから一刻も早く病院に行かなきゃならないんだよ。」

「そんな火傷にもならない肌の赤みなんて老衰にならんだろう。」

「そうですね。老衰にはならないでしょう。病院や労基が聞き取りを行った場合、俺と原田は全て包み隠さず答えますよ。そうしたら老災事故どころか傷害事件に発展するでしょうね。」

水野君はさらに泣き崩れた。私は続ける。

「助けられたのは水野君が私のために玉露を準備してくれていたところだよ。温度が低めのお湯を準備してくれたからな。だから大怪我には繋がらなかった。ポットの中身が大西課長のご所望のコーヒーだったらと思うとゾっとするよ。」

「だって作業服が汚れてて埃がついてて、業界第1位の我が社にそんな格好で来るなんて不潔じゃないですか。」

「本社長は仕事人間で有名なのよ。現場で自ら仕事をして品質を保ってるの。それが分かっていないからあなたを商談から外したのよ。それに今回も水野君から手柄を横取りするつもりだったんでしょ?」

三部社長の追及に、大西課長は言い訳を重ねる。

「こいつにはまだ荷が重いでしょ。だから私が代わりに責任者になろうと。」

「あなたがそうやって若手から手柄を奪った商談は全て…失敗してきたでしょ。そうやって部長から課長へ降格の連続なのよ。それに…」

「俺がお茶をかけたっていう証拠なんてありますよ。一部始終をICレコーダーで音声録音していました。大西課長の理不尽なパワハラを訴える準備をしてましたから。僕だけではなく営業部のメンバーの集団訴訟です。他の社員もみんなレコーダーを持ち歩き、あなたの理不尽な要求や言動を録音していました。」

水野君の言葉に、大西課長は言葉を失った。そんな時、スマホの通知音が鳴る。私だけではなく、三部社長や水野君のスマホも同時に通知音が鳴った。

ネットニュースの報道だ。

「『大手住宅メーカー・ゴージャス建築が破産、負債1296億円』。」

私がニュースの見出しを読み上げた瞬間、三部社長が悲鳴をあげた。

「社長、これって…8割以上がうちの未収の売掛け金よ。」

大西課長が真っ青になっている。

「大西課長、あなたゴージャス建築さんの売掛け金回収はどうなっていたのよ。言えませんよね。接待ゴルフや営業さんからの飲み会の誘いで回収をうやむやにしてきましたって。」

同業者の間ではゴージャス建築の経営が傾いているという話はかなり前から噂されていた。一部の資材会社が接待を受けて資材購入代金の支払い分を焦げつかせようとしていたという話も生まれていたほどだ。大西課長が無気力の状態で床に座り込んだので、噂は事実だったことを悟った。

「ではそういうことなので帰りますね。」

社長室にはニュースを見た管理職たちが続々と集まってきていた。巻き込まれる前に合憲から脱出することに成功した。多分合憲の連鎖倒産は確定だろう。

「じゃあ次の会社さんに連絡しますか。」

「それよりも契約前で良かったですね。」

「水野君には悪いが、商談や契約に発展する前で良かったよ。」

私は会社に戻る前に、原田と皮膚科へ行き、診断書をもらい受けてきた。追い打ちをかけるようだが、大西課長の行為は看過できなかったからだ。

そして私は人事部に、合憲に勤務する水野君をヘッドハンティングしてくれないかと依頼した。彼だけはなんとか助け出したいと思ったのだ。商談をまとめ上げることはできなかったが、水野君を救い出すことはできる。君には顕在の知識を生かした仕事についてもらいたかった。

ステータスホームズで検討してきた高品質・低価格の注文住宅はようやくモデルルームを公開し、顧客からの申し込みが着実に増えていった。水野君には我が社の商品開発に携わってもらっている。

やはりゴージャス建築からの負債が大きかったのと、大西課長が商談をぶち壊しにした複数者の契約撤回が原因になったのだろう。合憲も破産申請を行うことになった。

「よかったな、水野君。合憲さんが破産する前に退職していて。」

「そうですね。この会社で働くことになって本当に良かったです。自信がつきました。」

その後の大西がどうなったのか分からないが、まあ取り調べを受けていることは間違いないだろう。

俺たちは大手他者が倒産した煽りに負けない会社作りをするまでだ。売上日本一を目指して頑張ろう。

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