夫が突然、結婚後初めて里帰りした娘と婿を「二度と来るな」と怒鳴りつけて、家から追い出したんです。つい昨日まで、あんなに娘の帰りを楽しみにしていたのに。何が起きたのか分からない私に、夫は青ざめた顔でこう言いました。「俺は……聞いてしまったんだ」と。夫が駅で偶然聞いてしまった、最愛の娘と婿の会話。それは私たち夫婦の人生を、根本から覆すようなものだったんです。「バカ親って笑えるよな」――愛する娘の…

夫が突然、結婚後初めて里帰りした娘と婿を「二度と来るな」と怒鳴りつけて、家から追い出したんです。つい昨日まで、あんなに娘の帰りを楽しみにしていたのに。何が起きたのか分からない私に、夫は青ざめた顔でこう言いました。「俺は……聞いてしまったんだ」と。夫が駅で偶然聞いてしまった、最愛の娘と婿の会話。それは私たち夫婦の人生を、根本から覆すようなものだったんです。「バカ親って笑えるよな」――愛する娘の...

「二度と来るな。帰れ。」

結婚後、初めて里帰りした娘に、夫が氷のような言葉を突き放した。つい昨日まで、娘の好物を楽しそうに並べていたというのに。

「何が起きたの?あんなに娘の帰りを喜んでいたのに」

理解できない私を前に、夫は顔面蒼白になりながら口を開いた。「落ち着いて聞いてくれ。俺は……聞いてしまったんだ」

夫の口から語られたのは、愛する娘と婿が私たちを裏切っていたという、信じがたい事実。人生の全てを捧げてきた娘に、最も残酷な形で心を打ち砕かれることになった。

私の名前はかよ子。夫の文男とは結婚して30年以上、二人三脚で歩んできた。決して裕福ではなかったが、真面目な会社員の夫と専業主婦の私。二人で力を合わせて働き、穏やかで幸せな日々を送ってきたつもりだった。

そんな私たち夫婦のたった一つの生きがいは、一人娘の美久の成長。自分たちのことは後回しにし、美久の進学や留学など、娘が望むことは何でも叶えてあげたい――その一心で生きてきたのだ。

そんな美久が先日、悠人という男性と結婚した。娘の夢だったお城のような結婚式という願いを叶えるため、私たちは老後の貯蓄のほとんどをお祝いとして二人にプレゼントした。娘の幸せそうな笑顔を見られただけで、胸がいっぱいになったのを覚えている。

そして今日が、その美久が悠人を連れて、結婚後初めて我が家に里帰りしてくる日だった。私は朝から腕によりをかけて、娘の大好物ばかりを準備していた。

「美久、喜んでくれるといいな」

インターホンが鳴るのを今か今かと心待ちにしていた。この後、私の人生で最も幸せなはずの一日が悪夢に変わることになるとは――この時の私は知るよしもなかった。

ガチャリと玄関のドアが開く音がした。てっきり夫が帰ってきたのかと思ったが、聞こえてきたのは娘の元気な声だった。

「ただいま。お母さん、いる?」

「まあ、美久、お帰りなさい」

予定より少し早い到着に驚きながらも、私はエプロン姿で手を拭きながら玄関へ向かった。そこには大きな紙袋を抱えた美久とにこやかに微笑む悠人が立っていた。

「悠人さんも、ようこそ。さあ、上がってちょうだい」

「これ、手土産。有名なケーキ屋さんなのよ」

そう言って美久が紙袋を差し出した――まさにその時だった。

「ただいま」

低い声と共に、仕事から帰宅した夫の footsteps が娘たちのすぐ後ろに立っていた。

「あら、あなた、お帰りなさい。ちょうど美久たちが――」

言いかけた私の言葉は途中で途切れた。夫は娘たちに笑顔を向けることなく、ただ一点、悠人と美久の顔を氷のような目で見つめていたのだ。

悠人の顔から営業用の笑顔がすっと消える。

「お父さん、お邪魔しています」

数秒の奇妙な沈黙。そして、次に夫の口から発せられたのは、地獄の底から響くような低く抑えられた怒りの声だった。

「二度と来るな」

「あ、あなた……!」

「お父さん!」

だが、夫は娘の声など聞こえていないかのように、悠人を睨みつけたまま続けた。

「聞こえなかったのか。その汚い顔を二度と俺の前に見せるな。さっさと帰れ」

ドンッと夫が力いっぱいドアを閉め、美久と悠人を乱暴に閉め出した。テーブルの上には美久の好物ばかりを並べたご馳走が、湯気を失って虚しく並んでいる。

何が起きたのか、全く理解できなかった。夫は玄関に立ち尽くしたまま動かない。その背中は小さく震え、顔色は真っ青な色をしていた。

「あなた、どうしたの?なぜ美久たちを?」

私の声も、自分のものではないように震えていた。夫はゆっくりとこちらを振り返ると、絞り出すように言った。

「かよ子、落ち着いて聞いてくれ。俺は……聞いてしまったんだ」

夫が語り始めたのは、にわかには信じがたい悪夢のような内容だった。会社からの帰り道、駅前で偶然、悠人と美久が話しているのを見かけたらしい。声をかけようとした夫の耳に、信じられない会話が突き刺さった。

「それにしても、美久の親、マジでちょろいよな。結婚式の費用も新婚旅行代も、全部出してくれたし」

「でしょ。おかげであなたの親の借金も返せたんだから、マジ感謝しないとね」

――うちのバカ親たちには。

下品な笑い声が響く。信じられない。あの優しい美久が、私たちのことを“バカ親”と呼んでいる。夫はその場で体が凍りついてしまったという。

だが悪夢はそれだけでは終わらなかった。

「次は開業資金だな。会社作るって言えば、あの父さん、貯金崩してでも出すだろう。とりあえず3000万は引き出させないと」

「うわ、えぐいね。でもそれだけ出してくれれば、結婚してやってもいいかな」

悠人は悪びれずに続けた。

「余裕だって。俺のためじゃなく、可愛い美久のためなら、あのバカどもはほいほい金を出すんだからさ」

夫はその場で二人を怒鳴りつけたい衝動を必死に抑えたという。そして怒りに震えながらも冷静さを取り戻し、真実を私に伝えるため、ここまで帰ってきたのだと、途切れ途切れに語った。

夫の話を、私はどこか遠い世界のことのように聞いていた。あの優しくて紳士的だった悠人さんだけじゃない。私たちのたった一人の愛しい娘、美久までもが――何かの間違いだ。きっと悪い冗談か何かである。そう思いたかったのだ。

だが、その希望はすぐに、最も残酷な形で打ち砕かれることになる。

けたたましく私のスマホが鳴った。画面には「美久」の文字。ほっとした。きっと娘が何かの間違いだと説明してくれるに違いない。私は震える手で通話ボタンを押した。

「もしもし……」

「あなた、一体どういうつもり?いきなり帰れなんて。悠人さんの顔に泥を塗って、あんたたち何様のつもりなの?」

鼓膜を突き破るような娘のヒステリックな声。そこには心配や疑問の色など一切なかった。

「違うの。お父さんの話を聞いて――」

「話なんて聞く価値もないでしょ。お父さん、ただのしがないサラリーマンのくせに」

言葉を失った。しがないサラリーマン――娘の口から、夫を、そして私たちの人生そのものを否定する言葉が飛び出した。

「将来有望な企業家の悠人さんを侮辱するなんて、世間知らずもいい加減にしてよ」

電話の向こうで娘が吐き捨てるように続ける。

「ていうか、まだあんな古臭い家に住んでるの?みっともない。悠人さんのお母さんみたいに、早くタワマンにでも引っ越したら?ま、しがないサラリーマンには逆立ちしたって無理か」

電話の向こうから、娘の軽蔑し切った笑い声が聞こえる。

「とにかく、悠人さんと悠人さんのお母さんに土下座して謝って。話はそれからよ。お母さんも、使えないお父さんをちゃんと躾けておいてよ」

ガチャッと、一方的に電話は切られた。呆然と立ち尽くす私と夫。涙も出ない。ただ心にぽっかりと大きな穴が開いてしまったかのようだ。私たちが人生をかけて育ててきた娘は、もうどこにもいなかったのだ。

それから数日後、事件はさらに悪化することになる。約束もなく、一台の高級外車が我が家の前に停車した。降りてきたのは、悠人と悠人の母、和子。グランドで固めたその姿は、私たちの質素な家にはあまりにも不釣り合いである。

和子は家に入るなり、ハンカチで鼻と口を覆った。

「あら、ごめん遊ばせ。何だか臭くてよ。ちゃんと毎日換気なさってる?」

見下し切った目で、値踏みするように家の中を見回す。

「お上がりください。お茶を……」

私が入れたお茶に、和子は手をつけようともしない。

「結構ですわ。どこの馬の骨とも知れないような方のお茶でしょう。口が汚れてしまいますわ」

そして、ハンカチで顔を覆いながら、わざとらしくため息をついた。

「まず、先日の無礼について謝罪していただきたくて参りましたの」

「謝罪?一体何の話を?」

あまりに予想外の言葉に、私と夫は顔を見合わせた。

「謝罪とは、どういう意味でしょうか?」

すると和子がテーブルをドンッと叩いた。

「どういう意味ですって?オタクのご主人が、我が家の宝である悠人を怒鳴りつけたそうじゃないの。全くだわ。いきなり帰れだなんて言われて、不愉快極まりないわ」

唾を飛ばしながら興奮気味に言葉を畳みかける二人。あまりの非常識さに、私も言葉を失う。

「悠人もすっかり体調を崩してしまってね。将来ある若者の未来に傷をつけたら、どう責任を取ってくださるおつもり?」

「一体何を言っているの?自分の息子が何をしたのか、棚に上げてるの?」

あまりの理不尽さに、私は言葉を失った。夫は怒りを抑え、冷静に訪ねる。

「では、我々がどうすればお許しいただけますか?」

その言葉を待っていたかのように、和子は勝ち誇った顔で言った。

「当然、土下座して謝罪なさるのは当たり前ですが、それだけでは許せませんわ。あなた方のせいでこの結婚が頓挫したら、どうしてくださるの?」

「は、はあ……?」

話が全く通じないことに、混乱を隠せない私と夫。よそに、言葉を続ける。

「そうですよ。美久さんのご両親の誠意が見えなければ、美久さんとの結婚を我が家から“なかったこと”にさせていただきます。そうなってもいいんですね」

「そうですわよ。あなた方だって、可愛い一人娘に“バツ”のレッテルを貼られては困るでしょう。全てはあなた方の態度次第ですのよ」

脅してる。自分たちが原因なのに、全部私たちのせいにして、娘の将来まで人質に取るなんて。

「あなた方は、一体何を言っているんですか?」

夫の呆れたような声にも、彼らは動じない。

「言ってもお分かりにならない。これだから“正民”は」

「まあまあ、母さん。彼らには彼らの誠意の示し方があるでしょう」

その言葉の後、和子は鞄の中から一通の分厚い封筒を取り出し、テーブルに叩きつけた。

「これが我々に対する謝罪の形であり、あなたたちの誠意よ。開業資金3000万円の内訳よ。誠意があるなら、これくらいは当然お支払いいただけますわよね」

恐る恐る中を見ると、そこには信じられない項目が並んでいた。

― 代表取締役用 高級外車 1500万円
― 社員専用 海外視察費 ドバイ ファーストクラス 500万円
― 会社設立記念パーティー費用 一流ホテル 300万円
― 成功祈願神社への奉納金 100万円
― 社長執務室用 高級観葉植物 50万円

それは事業計画書などではなかった。ただの彼らの欲望を書き殴っただけの、出鱈目な要求書だ。私たちを完全に舐め切っている。ただの金ヅルとしか見ていない。その事実が、何よりも心を抉った。

「これは、一体何ですか?」

私の震える声に、いつの間にか後ろに立っていた悠人が鼻で笑いながら答えた。

「見ての通り、俺の会社の開業資金ですよ。これくらい、一括で支払うことできますよね?お父さん、お母さん」

は、謝罪、誠意……。この人たちは本当に何を言っているの?あまりの話に言葉を失う。

「こ、こんなの、私たちが支払う義理はありません。どうぞお引き取りください」

すると、義母が扇子で私をピシャリと叩いた。

「お黙りなさい。これは傷ついた悠人への慰謝料と、家柄の悪いあなた方の娘さんとの婚姻を継続させてあげるための手数料ですわ。支払えますわよね」

「慰謝料、手数料だと……!ふざけるな!」

夫が拳を握りしめたのを、私は慌てて手で制した。

「あなた、やめて」

そして私は氷のように冷たい目で、目の前の傲慢な一家を見据えた。

「お話になりませんわ。どういう神経をしていれば、そんなことが言えるんですの?」

すると義母は下品に大口を開けて笑った。

「あら、怖いこと。でもね、可愛い一人娘にバツのレッテルを貼られて、惨めな思いをさせたくはないでしょう?全てはあなた方の態度次第ですのよ。美久さんも、そう言っていましたわ」

その言葉で、私の心の中で何かがプツリと切れた。娘の美久も、そしてその母親の和子も、全員がグルになって、私たちを計画的に食い物にしようとしていたのだ。私たちの愛情も、これまでの人生も、全てが彼らのための道具でしかなかったらしい。

彼らが帰った後、夫と私は食卓に残された冷たいお茶を前に、ただ黙って座るのみ。涙はもう出なかった。体の奥底から、氷のように冷たい怒りが静かに湧き上がってくるのを感じていた。

――許さない。

夫も同じ気持ちだったのだろう。静かに顔を上げ、私の目をまっすぐに見た。その目にはもう悲しみの色はない。あるのは、傲慢な一家への燃えるような敵意だけだった。

「かよ子、戦うぞ」

「ええ、あなた。絶対にあいつらに思い知らせてやりましょう」

私たちの反撃は、この日静かに始まったのだ。

あの日から、私たちの家はまるで時間が止まってしまったかのようだ。夫と私はほとんど言葉を交わさない。ただ、互いの目の中に同じ色の冷たい炎が燃えているのだけは分かっていた。

数日後、私は意を決して、悠人の母・和子に電話をかけた。受話器を持つ手が、怒りで震える。

「先日は申し訳ありませんでした。主人も少しどうかしていたようです。援助の件……前向きに考えさせていただければと」

わざとか細く、弱々しい声を出す。電話の向こうで、勝ち誇ったような声が響く。

「あら、ようやく分かったのかしら。庶民は庶民らしく、身の丈にあった判断をなさらないと」

電話の向こうで、和子が鼻を鳴らすのが聞こえてくる。

「では、週末にでも改めてお伺いしますわ。お金、きちんと用意しておきなさいよ」

その言葉を合図に、私たちは準備を開始した。来るべき傲慢な一家との決戦の準備である。

――そして、運命の週末。

インターホンが鳴り、私は静かにドアを開けた。そこには、獲物を前にしたハイエナの群れが立っていた。娘の美久、婿の悠人、そしてその母親。三人全員が、隠しきれない欲望と笑みを顔に浮かべている。

「父さん、ちゃんと反省したわけ?」

「まあまあ、美久。父さんも、僕という人間の価値がようやく理解できたんだろう」

一家はずかずかと家に上がり込み、我が者顔でソファーに腰を下ろした。テーブルの上には、夫が置いた一つのジュラルミンケース。もちろん中身は空っぽである。だがハイエナたちの目は、そのケースに釘付けになっていた。ゴクリと、誰かが喉を鳴らす音が聞こえる。

「それで、話というのは?」

夫は無言で頷くと、ジュラルミンケースの隣にもう一つ、何の変哲もない茶封筒を置いた。

「何よ、それ」

「ああ、これか?3000万円という大金だ。渡す前に、いくつか確認しておきたいことがあってな」

夫のその静かな一言で、部屋の空気が変わった。ハイエナたちの顔に、一瞬だけ警戒の色が浮かぶ。夫はゆっくりと茶封筒から書類を取り出し、テーブルの上に広げた。

「悠人君は、起業をしようとしているそうだな」

「は、はい。そうですけど、何を今更……」

「そうか。では、この写真に映っている女性たちも、君の優秀なビジネスパートナーなのかな?」

夫がテーブルに並べたのは、何枚もの鮮明なカラー写真。高級ホテルのラウンジで、ブランドショップで、若い女性と腕を組む悠人の姿。日付は、私たちが結婚祝を渡したまさにその翌週のものだった。

「我々が美久のためにと渡した結納金は、どうやら君の交際費に消えたらしい。この音声データもあるが、聞いてみるか?」

夫がボイスレコーダーを取り出すと、悠人の顔がさっと青ざめた。

「な、あなた、これ、どういうことよ。この女は誰なの?」

「じ、仕事の付き合いだ!」

悠人がしどろもどろに言い訳をすると、すかさず和子が割って入った。

「そうですわよ。男の甲斐性というものですわ。あなたのような庶民の娘には理解できないでしょうけど」

だが、そんな見苦しい言い訳を気にも止めず、夫は次の書類に目を移した。

「次に和子さん。あなた方は“勇正しい家柄”だそうですね」

「そ、そうですわよ。それが何か?」

「ええ、少しだけ。この自己破産準備に関する通知書が、どうしてあなた方の家に届いているのか、不思議でしてね」

夫が読み上げたのは、探偵が突き止めた彼らの隠された台所事情だった。事業の失敗で抱えた数億円の負債、差し押さえ寸前の老舗旅館の抵当、複数の金融業者からの督促状の数々。

「“家柄が違う”とおっしゃいましたね。確かに、これだけの借金を抱えられるのは、我々庶民には到底真似できません。さすがは勇正しいご家柄だ」

夫の言葉には、一切の感情がこもっていなかった。

「な、何を出鱈目なことを!名誉毀損で訴えますわよ!」

和子の声は震え、その顔は先ほどの悠人よりもさらに真っ白だ。悠人は半狂乱で、額の脂汗を拭っている。

「出鱈目?では、これも聞いてみますか?」

夫が再生したボイスレコーダーから、和子が金融機関に走り回る必死な声が響き渡った。

「あそこのバカな庶民から3000万、毟り取れば何とかなるのよ!」

という下品な叫び声と共に、部屋は死んだように静まり返った。今さっきまで私たちをあれだけ見下していたハイエナたちの顔から、血の気が完全に引いていた。プライドも、見栄も、優越感も、全てが剥がれ落ちたのだ。そこにいたのは、ただの哀れな詐欺師の一家である。

「母さん、何で足がつくようなことをしたんだ!」

「あなただって、若い女と遊び回っているじゃないの!」

今度は息子と母親が責任をなすりつけ合う。美久がヒステリックに叫んだ。

「もうやめてよ!」

見苦しい責任のなすりつけ合いが始まった。その醜悪な姿を、私たちは冷ややかに見つめる。夫は静かに立ち上がると、最後の通告を告げた。それは、彼らが最も恐れる“社会的な死”の宣言に他ならない。

「この調査報告書と音声データの一部コピーがある。悠人君の会社や、あなた方の親戚中に“ご相談”という形で送付することも可能ですが、どうしますか?」

部屋には、誰一人声も出せない。ただ屈辱と絶望に顔を歪ませ、カタカタと震えているだけだった。

「もうお帰りください。二度と私たちの前に顔を見せるな」

その言葉を合図に、傲慢な一家はまるで亡霊のようにソファーから立ち上がると、一言も発さず、逃げるように我が家から出ていった。

ドアが閉まり、再び静寂が訪れる。テーブルの上には空っぽのジュラルミンケースと、私たちの勝利を証明する調査報告書だけが静かに残されている。

――あの屈辱的な決戦から数週間が過ぎた。ハイエナ一家からの連絡は一切なく、私たちの生活には嘘のような平穏が訪れる。夫の文男と私は、失われた時間を取り戻すように静かな日々を過ごしていた。だが、心のどこかで分かっていたのだ。あの強欲なハイエナたちが、このまま黙っているはずがないと。

その予感は、最悪の形で現実のものとなる。

ある日、ポストに一通の内容証明郵便が届いた。差出人は、美久と悠人の連名で雇ったという弁護士からのものである。手は震え、心臓が氷水に浸されたように冷たくなっていく。夫が隣で、その忌々しい手紙を読み始めた。

『貴殿らの娘である美久は、現在、悠人の子を妊娠中である。しかし、先日の暴挙による精神的苦痛が原因で、母子ともに危険な状態にある。よって、慰謝料及び今後の養育費として、速やかに金5000万円を支払うことを要求する。支払いに応じない場合、胎児に何らかの影響が出た際は、全て貴殿らの責任であると通告する』

――私たちの責任?

「何だ、これは?!」

夫の声が怒りに震えていた。

「これは要求などではない。生まれてくる孫の命を人質にした、最低最悪の脅迫だ。“この子がどうなってもいいのか”と言っているのだ」

吐き気が込み上げてくる。あの娘は、そしてあの男は、人間の心を持っているのだろうか。自分たちの欲望のためなら、実の親を、そしてまだ見ぬ我が子すら、平気で道具として使うのか。

私は夫に向き直った。もう、私の目に涙はない。

「あなた、あの子たちに連絡して。孫のためだ。話を聞こうと」

夫は私の覚悟を悟ったのだろう。静かに頷くと、すぐに電話をかける。私たちは決戦の場所として、一流ホテルの最上階にあるラウンジを指定した。周囲には人の目がある。ここでなら、奴らも下手な真似はできないだろう。

――そして、約束の日。

ソファーに美久と悠人が、ふんぞり返って座っていた。その顔には、勝利を確信した見苦しい笑みが浮かんでいた。美久のお腹は、少しだけ膨らんでいる。だが、その姿を見ても、もはや私の心は少しも痛まない。

「わざわざ呼んで、何のつもりだ?俺たちは忙しいんだ。金の話なら、さっさとしろよ」

私たちが席につくなり、悠人が足を組みながら言った。

「ああ、そのつもりだ。だが、その前に――美久、お前に聞きたいことがある」

夫は美久の目をまっすぐに見つめた。

「妊娠、おめでとう。ところで、そのお腹の子の父親は、本当に悠人君なのか?」

夫の言葉に、その場の空気が凍りついた。

「は?何言ってやがる?」

「お父さん、いい加減なこと言わないで!」

だが夫はそんな二人を冷ややかに見下ろすと、懐から数枚の写真を取り出し、テーブルの上にばらまいた。それは探偵が撮影した、美久が複数の見知らぬ男性と腕を組み、親密そうにホテルに入っていく姿だった。

「この男たちは誰だ?悠人君の知らない男たちばかりだな」

美久の顔がみるみるうちに青ざめていく。悠人はわなわなと震えながら、写真と美久の顔を交互に見た。

「美久、これ、どういうことだ?!」

「じ、違うの!これは友達で……」

「ほう。友達とホテルに行くのか?それも日を変えて、違う男と」

夫の冷たい追及に、美久はついに逆切れした。

「うるさい!あんたが甲斐性なしだからでしょ!そもそも、あんたの子供かもしれないじゃない!」

その言葉に、一番衝撃を受けていたのは悠人だったかもしれない。

「どういうことだ?俺の子じゃないかもしれないってことか?!」

「知らないわよ!あんたとの子か、他の人の子かなんて、いちいち覚えてないわよ!」

今や、二人の間に味方はいない。悠人は顔を真っ赤にして叫んだ。

「ふざけるな!俺は騙されたのか?!」

「騙されるあんたがバカなのよ!」

見苦しい言い争いが始まった。私たちはその修羅場を、静かに見下ろしていた。やがて私は静かに立ち上がると、最後の言葉を彼らに投げかけた。

「もう、私たちには関係のない話ね。父親が誰かも分からないような子供のために、私たちがお金を出す義理は一切ないわ」

「ああ。当事者同士で解決しなさい」

夫が冷たく言い放った次の瞬間、何が起きたのか。

ドサッと音を立てて、悠人と美久が、示し合わせたかのように床に膝をつき、私たちに向かって土下座を始めたのだ。

「お父さん、お母さん!僕が、僕が全て悪かったです!どうか、この通りです!だから、お金を少しだけでも援助してください!どうか、もう一度チャンスをください!」

「お母さん、お父さん、ごめんなさい!私がバカだったの!この男に騙されただけなのよ!助けて!」

鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった顔で、二人が我先にと謝罪の言葉を並べる。その姿は、醜形で、哀れで、そして何よりも見苦しかった。私はゆっくりと立ち上がると、床に這いつくばる二人を見下ろし、冷たく言い放った。

「見苦しいわね。あなたたちのその涙は、自分たちの未来が潰えたことへの涙でしょう。私たちのことなんて、一度も考えたことすらないくせに」

私の言葉に、二人の動きが止まる。

「もう、あなたたちに情けをかける気は一切ないわ」

そして夫が、最後の通告を告げた。

「顧問弁護士には全て話してある。詐欺罪と脅迫罪で、償いなさい」

夫は冷たく吐き捨てるように続けた。

「その無様な姿が、我々がお前たちを見る最後の記憶だ」

私たちは一円も払うことなく、その場を後にした。背後で響く、ハイエナたちの絶望の叫びを聞きながら。――これが、私たちの完全な勝利の瞬間だった。

あのホテルでの修羅場から数週間が過ぎた頃、夫が雇った弁護士から、ハイエナ一家のその後の顛末が淡々と報告された。

美久と悠人は、すぐに離婚したらしい。当然だろう。嘘と金でしか繋がっていなかった関係だ。もろく崩れ去るのは、必然だった。

悠人は、多額の借金が会社に知れ渡り、即刻首になったという。そして、あの見えっぱりな和子が住んでいた豪邸も、あっという間に差し押さえられた。プライドだけを支えに生きてきた一家は、完全に離散したと聞く。

もちろん、美久の末路も悲惨なものだと聞いた。離婚後に実施されたDNA鑑定の結果、結局、悠人の子ではなかったそうだ。出産後、誰にも頼ることができず、彼女は生まれたばかりの赤ちゃんを、乳児院に預けたそうだ。今は、都会の片隅にある薄汚いアパートで、たった一人で暮らしているらしい。

昼も夜も必死でアルバイトを掛け持ちし、ようやく食いつぐ毎日。そんな中でも、週に一度だけ、施設にいる我が子の面会を続けているという。将来、いつか自分の手で赤ちゃんとしっかり暮らせるようになるため、今はただ、必死に頑張っているらしい。

――自らの行いが招いた。あまりにも当然の、そして過酷な現実だった。

時々、夫と静かに話すことがある。

「娘を甘やかし続けた罰は、私たち自身が受けなければならないのかもしれないな」

「ええ、そうね」

だが、もう振り返らない。あの子が自分の過ちと向き合い、自分の足で立ち、本当に更生する日が来るまで、私たちは私たちの人生を生きる。長い長い子育ては、終わったのだ。

これからは、夫婦二人の穏やかで、そして毅然としたセカンドライフが始まる。私たちはようやく、自分たちの人生を取り戻したのだ。

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