引っ越し当日、私はダンボールの山に囲まれていました。まだ何も片付いていない薄暗い部屋で、義理の娘・ゆ香さんが冷たい微笑みを浮かべながら、一通の書類を差し出してきたのです。
「年金、全部いただきますね。生活費としてお預かりしますから。管理って大変でしょ?」
それは年金振り込み口座の変更届け。月8万円の年金を全額、息子夫婦の口座に移すという内容でした。
半年前、夫が亡くなった直後、息子は「一緒に暮らそう」と優しく誘ってくれました。家を建てるための頭金として900万円も援助したのです。あの時の笑顔を信じていました。
「このままでは一緒に暮らすのは難しいかもしれませんね」
ゆ香さんはそう言い、私の反応を伺います。私は書類を見つめながら、あることに気づきました。息子夫婦は、私が誰なのか、何も知らないのだと。
二階に案内された部屋は、北向きの小さな五畳間でした。窓は小さく、昼間だというのに薄暗い光しか入ってきません。長年住んだアパートよりずっと狭く感じました。
「手間かもしれませんが、お1人なら十分ですよね?」
そう言ってゆ香さんは私の顔を覗き込みます。南側の明るい部屋のことは、息子夫婦と孫娘・小春の部屋だからと断られました。「音に敏感だろうから静かな方がいい」と、もっともらしい理由をつけて。
階段を降りながら、ゆ香さんは家事の話を始めました。掃除、洗濯、買い物、すべて私にやってもらいたいというのです。保育園の役員で忙しいからと理由をつけていますが、64歳の私にすべてを押し付けるつもりでした。
「お母さん、すごくお元気じゃないですか?それに、一緒に暮らさせていただくんですから」
意味ははっきりしていました。同居させてやっているのだから、家事はやって当然だと。
リビングに戻ると、ソファに座っていた息子の顔も、保育園の送り迎えや習い事の送迎を私に任せるつもりだと頷いていました。そしてゆ香さんは食事の話を切り出しました。ダイニングテーブルは息子夫婦と小春が使い、私はキッチンのカウンターで食べてほしいと。
「お母さんも気を使わなくていいでしょ。家族だけの時間も大切ですし」
家族だけの時間。つまり、私は家族ではないということです。
夕方、狭い部屋にダンボールを運び込みました。積み上げていくと、もう身動きが取れないほどです。一階からは息子夫婦と小春の笑い声が聞こえてきます。その声を聞きながら、私は一人で荷物を片付けていました。
夜、廊下を通りかかると、小春の部屋からゆ香さんの声が聞こえてきました。
「おばあちゃんは古臭い人だから、あまり近づかない方がいいわよ」
「うん、わかった」
孫に祖母を遠ざけるよう教え込む声でした。
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろします。引っ越し初日から、私の立場はっきりしていました。年金を奪われ、家事を押し付けられ、食事も別、そして孫からも遠ざけられる。これが900万円を援助した息子夫婦の家での、私の扱いでした。
窓の外を見ると、隣の家の明かりが見えます。あの家ではきっと家族が団欒しているのでしょう。深く息を吐きました。息子はゆ香さんに流されているだけかもしれない。時間をかければきっと分かってくれるはず。そう自分に言い聞かせながら、眠りに就こうとしました。
翌日の夕方、私は台所で夕食の準備をしていました。ゆ香さんから渡されたメモには、ステーキ、グラタン、サラダと、手の込んだ料理が細かく書かれています。二時間かけて準備を終え、ダイニングテーブルに並べました。しかし、キッチンのカウンターの端に置かれた私の食事は、昨日のカレーの残りと冷めた味噌汁だけ。「もったいないですから、残りから消費してください」とゆ香さんは言うと、ダイニングテーブルに座りました。
私がカウンターで冷めたカレーを食べていると、小春が尋ねました。
「ねえ、ママ、なんでおばあちゃんは違うもの食べてるの?」
「おばあちゃんはお手伝いしてくれる人だからよ。私たちとは違うの。お手伝いさんなんだ」
六歳の孫が、祖母をお手伝いさんと呼ぶように教え込まれているのです。
食事を終え、黙々と食器を洗っていると、背後からゆ香さんの声が聞こえました。
「お母さん、ちゃんと洗剤使ってくださいね」
私は「はい」と答えるしかありませんでした。
洗い物を終えてリビングへ向かうと、ソファには息子夫婦と小春が座ってテレビを見ています。私も一緒に座ろうと足を踏み入れた瞬間、小春が振り向きました。
「おばあちゃん、今テレビ見てるから邪魔」
「おばあちゃんも一緒に」
「やだ、あっち行って」
即答でした。ゆ香さんは小春の言葉を止めることなく、私を見ます。
「お母さん、お疲れでしょ?早めにお休みになった方がいいですよ」
「母さん、明日も早いんだろ?ゆっくり休んでよ」
息子も同じことを言いました。私には家族の輪に入る余地がありません。
部屋に戻ろうと廊下を歩いていると、ゆ香さんが後ろから声をかけてきました。
「あ、そうだ。明日友達が来るんです。お母さんは部屋で待機しててくださいね。気を使わせたくないので」
「わかりました」
翌日、言われた通り二階の部屋で待機していると、ゆ香さんの友人が三人訪ねてきました。ドアを少しだけ開けて、階下の様子を伺います。
「うちの新居どう?広いでしょ?」
「すごい。こんな家、憧れる」
「主人の稼ぎがいいから」
自慢げなゆ香さんの声。「お母さんと同居してるんだっけ?大変じゃない?」
「まあ色々あるけどね。でも家事は全部やってくれるから助かってるわ」
「いいな。無料のお手伝いさんじゃん」
「そうなの?年金も全部もらってるし、こっちは助かってる」
笑い声が響きます。私は静かにドアを閉めました。無料のお手伝いさん。年金を奪い、家事を押し付け、家族として扱わない。それを友人の前で笑いながら話す嫁。そしてそれを黙認している息子。私は深く息を吐き、ベッドに座りました。もう期待するのはやめようと思いました。息子は変わらない。ゆ香さんに流されているのではなく、同じ考えなのです。そう気づいた時、私の中で何かが変わり始めました。それは静かな決意でした。
その夜、ドアがノックされ、ゆ香さんが入ってきます。手にはあの年金振り込み口座の変更届けが握られていました。
「お母さん、年金の件、決めていただけましたか?」
「まだ考えています」
「何を考えるんですか?ここで暮らすなら、これは必要な手続きです。できないなら、別の選択肢を考えないといけません」
「別の選択肢って、つまり同居は難しいということですか?」
「年金も入らない、家事も中途半端では困るんです」
「中途半端?朝から晩まで働いて、それでも中途半端だと言われるのですか?900万円も援助したのに」
「あれは頭金として使わせていただきました。もちろん感謝していますよ。でも年金は別問題でしょ。ここで暮らすなら家計に入れるのが筋だと思いますけど」
ゆ香さんは書類を私の膝に置きました。
「明日の朝までに記入してください。できないなら、荷物をまとめていただくことになります」
そう言い残して、ゆ香さんは部屋を出ていきました。
私は書類を見つめました。サインすれば月8万円は全て息子夫婦の口座に入り、私の手元には一円も残りません。拒否すれば追い出される。窓の外では冷たい雨が降り始めていました。
私は立ち上がり、引き出しから夫の写真を取り出しました。優しい笑顔の誠。誠が生きていたら、きっとこんなことにはならなかったでしょう。誠は人を見下すことを何より嫌っていた人です。
私は深く息を吐き、もう一度書類を見ました。ペンを置こうとした時、手が止まりました。
このまま従えば、私は本当に無一文になる。そして、この扱いはもっとひどくなるでしょう。年金を奪っても文句を言わない人間だと思われれば、さらにされる。それでも、息子夫婦の家に置いてもらえるならいいのでしょうか?
いいえ。違います。
私はもう十分に分かりました。息子は変わらない。阪神から私を見下しているのです。そして、私が誰なのか全く知らない。パート勤めの貧しい老婆だと思っているのでしょう。だからこそ、こんな扱いができる。
しかし、私には彼らが知らない顔があります。それを見せる時が来たのかもしれません。私は静かに微笑み、引き出しから携帯電話を取り出しました。長い間使っていなかった番号を呼び出します。
「立花先生、私です。桜場です」
「桜場様、お久しぶりです。どうされましたか?」
「例の件、全て準備できていますか?」
「はい、もちろんです。不動産、当期、株式、人事関係、全て整っております」
「では、明日の朝九時に息子の家に来ていただけますか?」
「承知しました。しかし、息子さんご夫婦はまだ何もご存知ないんですよね」
「ええ、私が創業家の娘だということも、あの家が誰の名義かということも」
電話を切った後、私は引き出しから古い写真を取り出しました。若い頃の私と父が一緒に映っている写真です。父の桜場健造は、小さな雑貨店から始めて全国チェーンに育て上げたハリネマートの創業者でした。父はいつも言っていました。「すみえ、人を肩書きや金で判断してはいけない。人間の価値はその人の行いで決まるんだ」
私はその教えを守ってきました。だからこそ、夫の誠と出会った時、身分を隠すことを選んだのです。誠のプライドを尊重し、私は夫の姓・森下を名乗り、パート従業員として25年間働き、誰にも正体は明かさなかった。息子にも教えませんでした。普通の人生を歩んで欲しかったから。
しかし、会社の上層部だけは知っています。桜場会長の娘が現場にいることを。そして息子が入社した時、人事部長に密かに伝えました。「特別に配慮を」。息子は自分の実力で昇進したと思っているでしょう。しかし実際は、母親の息子、つまり会長の孫だからこその優遇だったのです。
写真を見つめながら、私は決意を固めました。もう隠す必要はありません。私は書類を破り捨て、ゴミ箱に入れました。明日、全てが変わります。
朝五時に目が覚めました。窓の外はまだ暗く、雨は上がっていました。私は身支度を整えます。そして、もう一度あの古い写真を見つめました。父の教えは今でも私の中に生きています。私は創業家の一人として生まれ、父が亡くなった後、株式の大半を相続しました。現在、全株式の65%を保有しています。総資産は約48億円。高級マンションに住み、優雅な暮らしをすることもできました。しかし私はそれを選びませんでした。誠と出会い、身分を隠して普通の妻として生きることを決めたからです。
しかし今、その息子は私を見下し、金ずるとしか見ていません。私は深く息を吐き、もう一つの番号に電話をかけました。ハリネマート本社の直通番号です。
「桜場会長、お久しぶりです。どうされましたか?」
「すでに内事している都の人事移動。予定通り明日発表してください」
「承知しました。店舗マネージャー職の会認と本社総務部への移動ですね。給与の件も予定通り、約40%限となりますがよろしいですね」
「ええ、構いません」
電話を切りました。息子は明日、人事移動の通知を受けるでしょう。実質的な左遷です。これまでの優遇は全て終わります。
時計を見ると六時を過ぎていました。私は部屋を出て、階に降りました。台所で朝食の準備をしながら、今日のことを考えます。九時に立花弁護士が来る。その時、全てが明らかになるでしょう。
七時になり、息子夫婦が起きてきました。私はダイニングテーブルに料理を並べました。ゆ香さんが眉を潜めます。
「お母さん、今日はカウンターで食べないんですか?」
「今日は家族全員で食べたいと思いまして」
ゆ香さんは不満そうでしたが、仕方なく頷きました。私たち三人で久しぶりに同じテーブルで朝食を取りました。しかし、会話はほとんどありません。
食事を終えると、ゆ香さんが切り出しました。
「お母さん、年金の書類、記入していただけましたか?」
「いいえ、まだです」
「今日が期限ですよ。記入できないなら、荷物をまとめていただくことになりますが」
「分かっています。九時に大切な方が来ます。その後お話ししましょう」
「大切な方?どなたですか?」
「その時に分かります」
八時半になり、私は身支度をえました。普段とは違う、ちんとした服を着ます。鏡の前に立ち、自分の姿を確認しました。64歳の私。25年間パート従業員として働いてきた私。しかし今日から私は元の姿に戻ります。桜場住江として、ハリネマート創業家の娘として、そしてこの家の本当の持ち主として。
九時五分前、玄関のチャイムが鳴りました。立花弁護士が到着したようです。私は深く息を吸い、玄関に向かいました。
リビングには、息子夫婦と小春が集まっています。ゆ香さんは腕を組んで私の方を見ていました。
「で、お母さん、年金の書類は記入していただけましたか?」
「実は、ここを出ることにしました」
ゆ香さんは一瞬驚いた顔をしましたが、すぐに冷たい笑みを浮かべます。
「行く当てはあるのか?」
「もちろんあります。その前に、確認したいことがあります。この家は誰のものだと思っていますか?」
「私たちのものに決まっているでしょ」
私はバックから書類を取り出しました。
「これを見てください」
ゆ香さんが受け取り、目を通します。その瞬間、ゆ香さんの顔色が変わりました。横から覗き込んだ息子も、青ざめた顔になりました。
「どういうことだ?この家の持ち主は俺たちのはずだ」
「あなたたちはローンを組んだつもりだったでしょうね。でも、書類をよく見れば、最初から私の名義だったことに気づいたはずです。頭金の900万円だけでなく、残りの2600万円も、私の資金管理会社が支払いました」
その時、玄関のチャイムが鳴りました。立花弁護士が入ってきます。
「どなたですか?」
「桜場会長の顧問弁護士です」
「会長?」ゆ香さんは混乱した表情で、私と立花弁護士を交互に見ています。
立花弁護士はテーブルに書類を広げ始めました。この不動産が当初から私の名義で購入されていること。残りの2600万円も私の資産管理会社が支払ったこと。そして、私がハリネマートチェーン創業者の娘であること。
ゆ香さんが持っていたカップが手から滑り落ち、床に散らばりました。しかし誰もそれを拾おうとしません。
「私は創業家の一人として、ハリネマート全株式の65%を保有しています。投資資産は約48億円です」
息子は口をパクパクさせて、言葉が出ません。目の前の現実が信じられないという顔をしています。
「でも、母さんはパートの…」
「私は結婚後、夫の希望で身分を隠し、夫の姓を名乗ってパート勤務していました」
立花弁護士が続けました。
「さらにご説明します。都様が勤務されているハリネマート西長は、住江様が実質的なオーナーを務める企業です」
「じゃあ、俺の昇進は…」
「人事部には特別な配慮をお願いしていました。あなたの昇進は実力だけではありません」
息子の顔が真っ青になりました。
「なんで黙ってたんですか!」ゆ香さんが叫びました。
「あなたたちこそ、なぜ私をただの貧乏なパート上がりだと決めつけたのですか?私の過去を聞くこともせず、年金を奪い、お手伝いさん扱いし、部屋に閉じ込めた。それが答えです」
小春が泣き出しました。ゆ香さんは娘を抱きしめます。
「知らなかったんです。知っていたら態度を変えていた」
「つまり、知っていたら態度を変えていたということですね。人をお金や肩書きで判断する人たち。もし最初から私が創業家の娘だと知っていたら、あなたはどんな態度を取っていたでしょうか?きっと丁寧に扱い、豪華な部屋を用意し、家族として迎え入れていたでしょう。しかし、貧しいパートの老婆だと思ったから、こんな扱いができた。それこそがあなたの本質なのです」
息子が立ち上がりました。
「母さん、頼む。話を聞いてくれ」
「何を話すのですか?昨日まで私をお手伝いさん扱いしていたあなたが」
「それは優香が…」
「ゆ香さんのせいにするのですか?あなたも黙認していたでしょ?私が残り物を食べているのを見ても何も言わなかった。家族の輪から排除されているのを見ても何もしなかった」
息子は何も言えなくなりました。
立花弁護士が新たな書類を取り出します。
「そして、ハリネマート本社から都様への人事移動が内事されています。店舗マネージャー職を解し、本社総務部への移動。実質的な左遷で、給与も約40%減となります。発令は一ヶ月後ですが、すでに決定事項です」
息子の膝が崩れました。リビングは静まり返りました。私は窓の外を見ます。晴れた空が広がっていました。
「私にはもう、あなたたちに言うことはありません」
そう告げて、私は二階に向かいました。荷物をまとめる時間です。
背後からゆ香さんの鳴き声が聞こえてきます。
「お母さん、お願いです!全て私が悪かったんです!もう二度とあんな扱いはしません!」
私は振り返りませんでした。もう振り返る理由はないのですから。
「母さん、待ってくれ!」
私は息子を見つめました。25年間育ててきた息子です。小さい頃は優しい子でした。父親が亡くなった時、「母さん、俺が母さんを守る」と言ってくれた。その言葉を信じていました。しかし今、目の前にいるのは母親を見下し、金ずるとして扱う大人でした。
「知らなかった。それで済むと思っているのですか?あなたは私が残りを食べているのを見ていました。キッチンのカウンターで一人食事をしているのも見ていました。それでも何も言わなかった」
「それは…」
「小春ちゃんのためにも、あなたたちは変わらなければなりません。人を見下すこと、金や肩書きで判断すること、それがどれほど愚かなことか、今身を持って学んでいるでしょう」
立花弁護士が新たな書類を取り出しました。
「この家からの退去通告です。所有者である桜場様のご意向により、一ヶ月以内に退去していただきます」
「せめてこの家だけは頼む!」息子は頭を下げました。
「この家は私のものです。出ていってください」
「お母さん、お願いです!小春が…」
「だからこそ、あなたたちは変わらなければならないと言っているんです」
ゆ香さんは泣き崩れました。しかし、私の心は動きませんでした。もう決めたことです。
私は二階に上がり、荷物をまとめ始めました。30分ほどで全ての荷物を玄関に運び終えます。立花弁護士が手配したトラックが到着しました。
私は最後にもう一度リビングを見ました。ソファに座り込んだままの息子夫婦。小春はゆ香さんの腕の中で眠っていました。泣き疲れたのでしょう。
「立花先生、行きましょう」
玄関を出ると、すがすがしい空気が私を包みました。もうあの狭く暗い部屋に戻ることはありません。もう残り物を食べることもありません。もうお手伝いさん扱いされることもありません。
車に乗り込み、私は振り返ることなくその家を後にしました。
三ヶ月が経ちました。私は今、都心の高級マンションの最上階で暮らしています。専属のスタッフが身の回りの世話をしてくれて、毎日が快適です。
立花弁護士から定期的に報告が入ります。息子夫婦は予定通り家を退去し、ゆ香さんの実家の3LDKマンションに身を寄せているそうです。新居より狭く、三人では窮屈だと聞きました。息子は本社総務部で事務作業をしています。店舗マネージャーから転落したプライドの傷は深く、収入は半分以下になったそうです。そしてゆ香さんは近所のスーパーでパート勤務を始めました。かつて見下していたパートのおばさんと同じ立場になったのです。
ある日、マンションに息子から手紙が届きました。
「母さん、本当にすみませんでした。今ゆ香と二人でパートの大変さを知りました。母さんが25年間どんな思いで働いていたか、やっと分かった気がします。いつか許してもらえる息子になりたいです」
その数日後、息子が小春を連れて尋ねてきました。マンションのロビーで息子は頭を下げます。「娘だけでも会ってやってほしい」と。私は小春だけを部屋に呼びました。小春は小さな手紙を渡してくれました。
「おばあちゃんへ。ごめんなさい。ママ毎日疲れてる。おばあちゃんも疲れてたんだね。ごめんなさい」
幼い字で書かれた手紙を読んで、私は小春を抱きしめました。
「月に一回、おばあちゃんに会いに来てくれる?」
小春は大きく頷きました。
「約束してね。人をお金や仕事で決めちゃだめ。パートでも社長でも、みんな同じ人間なの」
「うん。わかった」
小春は真剣な顔で約束してくれました。
数週間後、私は息子に連絡しました。小春の教育費だけは支援すると。月10万円を直接、学校や習い事に支払います。現金は渡しません。息子夫婦には使わせません。
私は今、本当に自由です。時々小春が遊びに来てくれます。小春はこう話してくれました。
「ママがね、『パートって大変で、ちゃんとしたお仕事だ』って言ってた」
私は静かに微笑みました。人を見下していた者が、同じ立場になって初めて理解する。それこそが最も大切な教訓なのだと思います。ゆ香さんは今、毎日パートで働いています。きっと大変な思いをしているでしょう。25年間私が経験してきたことを、今ゆ香さんが経験しているのです。そしてその経験が、ゆ香さんを変えていくでしょう。
私は窓の外を見ました。東京の町がキラキラと輝いています。新しい人生が始まったのです。64年間誰かのために生きてきました。しかしこれからは違います。私が私のために生きる人生です。そして時々孫の小春に会い、正しい価値観を教えていく。それが私にできることなのだと思います。
夕日が沈み、夜景が広がり始めました。美しい光の海を見つめながら、私は静かに微笑みました。これで良かったのだと、そう心から思えるのです。



