午前2時、子供の泣き声で目が覚めた。雪がベッドの上でガタガタ震えている。額に手を当てると、まるで熱い玉のように燃えていた。体温計は38. 2度を示した。下熱剤を飲ませたが、1時間経っても熱は下がらない。タクシーを捕まえ、大学病院の救急外来へ向かった。
受付を済ませ、案内された診察室のドアを開けた瞬間、さやかの足から力が抜けた。白い医師服を着たその人は、7年前に彼女を捨てて去った元彼、田中健二だった。健二は無表情で「どうされましたか?」と、まるで初対面のように尋ねた。
さやかは娘の症状を伝えた。健二は慎重に診察を始める。「お子さんの名前は?」「佐藤雪です」「何歳ですか?」「6歳です」。健二の手が一瞬止まった。そして「何かアレルギーはありますか?」と尋ねた。「卵アレルギーがあります」。その瞬間、健二の目が大きく見開かれた。卵アレルギーは、健二の家系に特有の体質だった。
さやかが娘を連れて診察室を出ようとした時、健二が呼び止めた。「失礼ですが、お名前は?」。さやかが「佐藤さやかです」と答えると、健二の顔色が変わった。その時、雪が突然言った。「先生、先生と私の目、似てる。ママが言ってた。私の目は特別なんだって」。さやかの顔が青ざめた。雪の目は、明らかに健二の目と似ていた。
さやかは慌てて雪の手を引き、診察室を飛び出した。7年間一人で守ってきた秘密が、ほんの一瞬で崩れ去る危機に瀕していた。薬局で処方薬を受け取り、ロビーの椅子に疲れ果てて座った。さやかの記憶は7年前に遡る。高校3年生の頃、田中健二は初めての恋人だった。2人とも医学の道を目指し、未来を描いていた。しかし、大学受験を控えたある日、妊娠が発覚した。さやかがそのことを伝えると、健二は「まだこんな時に子供なんて…」と怯えた表情を浮かべ、それまでに約束の金を渡すと「ごめん、さやか。僕にはまだ…」と言い残して去っていった。
その後、電話は繋がらず、学校にも現れなくなった。さやかは退学し、実家に帰った。両親は失望し、近所の目は冷たかった。少女だったさやかは全てを失った。
それから7年。彼女は美容師として働きながら、一人で雪を育ててきた。そして今、娘の病気をきっかけに、全ての元凶となった男と再会してしまった。どうすればいいのか。過去に戻るのは怖い。しかし、雪には父親が必要かもしれない。さやかは朝まで答えを出せずにいた。
数日後、弓からの電話で同窓会のことを知らされた。さやかは決意した。「同窓会、一緒に行かない?」。久しぶりにワンピースを着て鏡の前に立った。7年前の臆病な少女はもういない。
同窓会のレストランに到着すると、友人たちが驚きの目で迎えた。しかし、みさが「そういえばこの間カフェであなたと健二を見たんだけど、2人また付き合ってるの?」と、からかうように尋ねてきた。さやかが否定すると、みさはさらに「じゃあ、健二、こっちに来て。さやかと話があるんでしょ?」と大声で叫んだ。全ての視線がさやかに注がれた。みさの執拗な質問に、さやかの我慢は限界に達した。「みさ、やめて。私たちの間に何かあってもなくても、それは私たちの問題よ」。昔の弱気な自分とは違い、さやかは堂々と言い返した。「昔と今は違うの。もうあなたたちが勝手に扱える人間じゃないのよ」。
みさは戸惑いながらも「あの時は若かったの。ごめんなさい」と謝った。さやかは「いいのよ。もう過ぎたことだから。でも2度と人を勝手に判断しないで」と言い残し、レストランを出た。すると、健二が追いかけてきた。「一緒に歩いてもいいですか?」。2人は夜道を歩きながら話をした。健二は「あの時、僕がもっと勇気を持って行動していれば…本当にごめんなさい」と深く謝罪した。さやかは「今更後悔しても仕方ないわ。ただ、雪には同じ過ちを繰り返さないでください」と伝えた。健二は真剣に頷いた。「約束します。今度は必ず守ります」。
それから数週間、健二は定期的に雪と会うようになった。公園で遊び、動物園に行き、少しずつ距離を縮めていった。さやかの心の中にはまだ不安があったが、健二が雪に対して誠実に向き合っていることを感じていた。
ある週末、健二が雪を遊園地に連れて行った日の夜、雪が突然高熱を出した。39. 5度まで上がり、意識が朦朧としてきた。さやかは慌てて大学病院へ駆け込んだ。検査の結果、雪は髄膜炎と診断された。すぐに手術が必要だった。さやかは健二に連絡をした。健二は15分も経たないうちに駆けつけ、「僕が雪の担当をします」と言った。手術が始まり、数時間後、健二が手術室から現れた。「手術は成功しました。雪の状態は安定しています」。さやかは安堵の涙を流し、思わず健二に抱きついた。「本当にありがとう」。健二は「当然のことです。雪は僕の娘ですから」と静かに答えた。
その日を境に、さやかは健二に対する心の壁を少しずつ下ろしていった。雪の回復は順調で、1ヶ月後には完全に健康を取り戻した。ある週末、2人は雪に真実を話すことにした。「実はね、健二おじさんが雪のパパなの」。雪は一瞬驚いたが、「じゃあもうパパって呼んでもいいの?」と尋ねた。健二の目から涙がこぼれ落ちた。「もちろんさ」。雪は「パパ」と抱きついた。さやかはその光景を見て、この選択が正しかったのだと思った。
その後も3人の時間は続いた。健二は雪にとって理想的な父親になろうと努力した。そして、ある夕方、健二が「さやかさん、もしよかったら僕たちももう一度やり直せませんか?」と尋ねた。さやかは「正直に言うと、まだよくわかりません。でも、ゆっくり知っていくのはいいかもしれませんね」と答えた。健二の顔に笑顔が広がった。
それから月日が流れ、健二は雪を映画に連れて行き、さやかを夕食に誘うようになった。さやかも少しずつ心を開いていった。ある夜、静かなレストランでのデートの帰り道、健二がさやかの手を握った。さやかはそれを振り払わなかった。
「本当の家族とは、血の繋がりだけで結ばれるのではなく、互いを理解し、許し、守り合おうとする心で結ばれるのだ」。さやかはそう気づいた。彼女と健二と雪は、今、そんな家族になりつつあった。



