私は深夜のホテル街を歩いていた。仕事帰り、タクシーも捕まらず、裏道を急いでいたのだ。すると突然、大きなセダン車が物凄いスピードで私目がけて突っ込んできた。とっさに避けようとしたが、車の方が少しだけ速かった。ハンドルを切った際にバンパーが消火栓に当たり、衝撃は和らいだものの、私は体ごと撥ね飛ばされた。尻餅をつき、路面に置かれたホテルの看板に頭を強く打った。
薄れゆく意識の中で、夫の声が聞こえた気がした。
「ああ、多分息はしてねえよ。計画通りだ。これで死亡保険金も入る」
私は木山美雪。50歳になる夜の世界で働く雇われママだ。夫の徹は年下の46歳で、ベンチャー企業の社長。若い頃から業界のトップランナーとして駆け抜けてきたエリートだ。私たちは都心の一等地にある4LDKのマンションに住み、高級車を2台所有し、一見何不自由ない暮らしをしてきた。娘の牧も大学を卒業し、大手出版社に就職して家を出た。今は夫と私の二人暮らしだ。
徹は昔から仕事人間で、今日も泊まり込みで新規事業のシステム開発をしていると言っていた。朝帰りしても、シャワーを浴びて着替えたらまた出かけるという。「来月になったら海外でゆっくりしよう」と言う優しい夫だった。私も「パスポートを更新しないとね」と応じた。仕事は違えど、家庭の中では至って普通の幸せな家族だと信じていた。
その日の夕方、夫からLINEが来た。「今夜も帰れそうにない。着替えを準備してくれないか? 秘書の波野さんを向かわせるから、プライベート用の車の鍵も渡してほしい」会社の車では行けない場所に、契約のため自分の車で向かわなければならないらしい。
ほどなくして、秘書の波野さんが家に現れた。数年前に一度会ったことがある、華やかな女性だ。うちの店にスカウトしたいと思うほど魅力的な人だった。彼女に着替えの入ったボストンバッグと車の鍵を渡すと、礼儀正しく一礼して去っていった。ただ、その時彼女の口元に浮かんだ微笑みが、妙に不気味に見えたのは気のせいだろうか。仕事柄、相手の表情の変化には敏感な方だ。あの笑みは何か裏がありそうな、怖い微笑みだった。
それから数日後、実家の父が亡くなった。父は難病を患っており、母が他界した後は私一人での介護が難しくなり、施設に入所させていたのだった。死因は免疫力低下による感染症だと言われた。私は夫と娘に連絡を入れ、実家へ向かった。
父は葬儀を最小限にしてほしいと言っていたが、私と夫の仕事柄、それは難しいという結論になった。父と同じ病気と戦う患者会の方々も参列してくれることになり、大きな斎場での葬儀となった。葬儀の手配は初めてのことばかりで慌てそうだったが、夫の秘書である波野さんがてきぱきと動いてくれて、本当に助かった。しかし、彼女は三回忌の参列者に丁寧に挨拶をしながら、私にこう言ったのだ。
「奥様が悲劇のヒロインを演じていらっしゃるのを楽しんで拝見できました」
まただ。あの不気味な微笑みだ。夫が父の介護に一切関与しなかったことを分かっていて、わざと悲しげな顔をして振る舞っているように見えたのは、私だけではなかったらしい。私は彼女が私に敵意を持っていることを確信した。
父の死後、私は遺産相続の手続きを進めることになった。父は施設に入る前に実家の家と土地を手放していたが、その売却益を私が相続することになったのだ。その額を聞いて私は驚いた。弁護士さんに相談し、夫にもこの話をした。夫は相続額を聞いても顔色一つ変えなかった。彼の動かす会社のお金はそれ以上だから、感覚が麻痺しているのかもしれない。
この頃から、私の身の回りで不思議なことが起こり始めた。雨の日に差していた傘がカッターのようなもので切り裂かれていたり、お店の玄関に汚い言葉が書かれた紙が貼られていたりした。この界隈では店同士の嫌がらせは日常茶飯事だ。ただ、私の店はキャリア官僚や芸能界の重鎮、有名企業の社長などが来店するような店だ。店同士の嫌がらせではないと確信していた。引き抜きや客の奪い合いによるホステスレベルでの嫌がらせなら分かる。私はスタッフに注意を促した。
それから数日後、今度は自宅のポストに黒い封筒が投げ込まれた。宛名は私で、差出人はない。中には「気をつけた方がいい」とだけ書かれていた。コンシェルジュデスクに防犯カメラの解析を依頼し、私は警察に被害届を出すことを決めた。
そしてあの夜、お店のクローズが遅くなってしまった。夫が久しぶりに家に帰れると言うので、早めに閉めて帰宅すると約束していたのに、2時間ほど遅くなってしまった。雇いの運転手には先に帰ってもらい、タクシーを呼ぼうとしたが深夜で繋がらず、歩いて帰ることにした。そのことは夫にLINEで知らせたが、既読はつかなかった。
治安が悪いことは承知の上で、私は裏道のホテル街を通り抜けることにした。ひっそりとした道を足早に過ぎ去ろうとしたその時、あのセダン車が猛スピードで迫ってきたのだ。
目を覚ますと、そこは病院のベッドだった。娘の牧が付き添ってくれていた。打撲程度の怪我で、朝の外来時間にCTなどの精密検査をして問題なければ帰宅してもいいと言われた。しかし、警察官が事故のことを聞きたいと言うので、記憶している範囲で話をした。
そこで驚くべきことを知らされた。なんと夫の徹も自動車事故を起こし、別の病院に入院しているというのだ。運ばれたのは朝方で、私が事故にあったのは深夜2時頃。私の事故の知らせを聞いて病院へ向かう途中だったのかもしれない。しかし、事故現場は家から病院へ向かう途中ではない。夫に会いたいと伝えたが、事故の調査があるから無理だと言われた。
頭の中がごちゃごちゃしたまま精密検査を受けていると、徐々に冷静になってきた。打撲以外は異常なしと認められ、私は診断書を受け取って帰宅することになった。そして、その足で病院前の交番に駆け込み、被害届を出すことにした。
車に撥ねられた時、私はとっさにスマホで動画を撮影していたことを思い出した。その動画を警察官に見てもらうと、そこにはなんと夫の車が映っていたのだ。娘の牧も「パパの車だ」と認めた。動画は10分ほど続いており、冒頭から1分ほど過ぎた頃に、あの声が鮮明に録音されていた。
「ああ、多分息はしてねえよ。計画通りだ。これで死亡保険金も入る」
警察官はすぐにどこかへ電話を入れ、「おそらく当分の間、ご主人には会えないでしょう」と告げた。夫が運転する車は昨夜未明、スピードを出し中央分離帯にぶつかる自損事故を起こしていた。しかし、その事故とは無関係の不自然なバンパーのへこみがあったため、調べが進められていたのだ。私が動画を見せたことで、裏が取れたのだった。
警察官から「共犯者がいると思われます。一人での行動は避けてください」と言われ、私は信頼できる弁護士さんの元へ、牧と一緒に身を寄せることにした。弁護士さんが警察に出向き、事情を聞いてきてくれた。
驚くべき事実が明らかになった。以前の嫌がらせについても、私は防犯カメラの映像と共に警察に相談し、被害届を出していた。今回の事故も、もしかしたら一連の犯行かもしれないと、警察は早めに動き出してくれていたのだ。その後の捜査で、ホテル街の防犯カメラには、事故後、車から女性らしき人物が降りてきて路上の男性と話し、二人で車に乗り込んで走り去る姿が映っていた。
そして、夫は病室でついに自白を始めた。私を始末して、私の遺産と父の遺産を奪おうと企てていたのだ。さらに、勝手に私の名義で生命保険に加入し、死亡保険金も狙っていた。共犯者は、不倫関係にあった会社の秘書、波野さんだった。傘や手紙といった嫌がらせは全て彼女の仕業で、彼女が夫の車を運転し、帰りを待ち伏せて私を撥ねたのだ。
本来ならば、運転手付きの車に追突して逃げる計画だったらしい。しかし、私が歩き始めたのを見て、とっさに計画を変更したようだ。ハンドル操作を誤って消火栓にぶつかってしまったので、その痕跡を隠すために夫がわざと自損事故を起こしたというのが真相だった。車をぶつける側を左右間違えてしまったため、証拠隠滅どころか不審さを際立たせる結果となった。夫は怪我をしないつもりだったようだが、エアバッグが開いた衝撃で鎖骨と肋骨を骨折してしまった。
私の証言と提供した動画が夫の供述と一致したため、夫は逮捕された。波野さんは逃亡したが、捕まるのも時間の問題だろう。
私は弁護士さんに離婚届を作成したいと伝え、自分の署名を済ませた。夫に渡して離婚を成立させたいということも伝えた。そして、波野さんへの傷害罪による慰謝料、嫌がらせによる慰謝料、二人への不倫による慰謝料、事故で仕事ができなかったことに対する損害賠償も請求すると伝えた。弁護士さんは、私の知らないところで勝手に生命保険を契約していたことなども含めて、裁判を始めましょうと言ってくれている。
その後、夫や波野さんとは全く顔を合わせていない。全てのことは弁護士に一任した。保険金をかけた轢き逃げ事故の裁判に関しては、私のお店の常連客だった政財界の関係者や著名人たちが、目に見えない力を貸してくれたらしい。未遂だったとはいえ計画性があったことから、夫と波野さんの罪はかなり重いものになった。
私は今回の一件で心身のバランスを崩し、入院することになった。その間も、娘や常連のお医者様が気を使ってくれて、少しずつ元気を取り戻している。お店はこれを機に畳むことにして、明るい時間にできる仕事に切り替えようと決めた。どんな仕事がいいかは、これから考える。
第2の人生を歩んでいくために、まずは体の調子を整えたい。



