ビルのエントランスで背中を押された瞬間、子供の頃の屈辱が鮮明によみがえった。
「やっぱりこのビルは貧乏人の立ち入り禁止にします。あなた方はお引き取りを」
同級生の週一は、あの頃とまったく同じ笑顔でそう言い放った。小学生の頃からずっと、彼は俺たち兄弟を貧乏人と馬鹿にしてきた。そのたびに俺は週一に掴みかかろうとしたが、いつも兄に止められていた。
「逃げたんじゃない。戦う相手じゃないからだ」
当時の俺には兄の言葉の意味が理解できなかった。ただ悔しくて仕方なかった。週一の父親はいくつも不動産を所有する大金持ちで、俺たち家族が暮らしていたボロアパートも、税金対策で彼の父親が購入したものだった。だからこそ、彼は俺をターゲットにするのが楽しかったのだろう。
それでも俺たち兄弟は決意していた。
「俺は絶対、家族全員がいい暮らしができるようにするから。お前は好きなように生きろ」
「何言ってるの兄ちゃん? 僕も同じ気持ちだよ」
互いの苦手を補い合い、得意を伸ばしていく。その戦略のもと、高校、大学へ進学した。大学を卒業した後、俺は一般企業で経験を積み、兄が起業するのに合わせて転職した。兄が社長として会社を引っ張り、俺がサポートに回る形が一番だと気づいたからだ。ベンチャー企業として二人三脚で頑張ってきたら、気づけば二人とも40代になっていた。
今では毎年、新入社員を迎える入社式のためにホテルの会場を借りるまでに成長している。今日もその入社式の前に、大きな案件を片付けようと商用ビルを訪れていた。
「ああ、だめだ。お腹痛くなってきた」
「まだまだ子供だなあ」
「兄貴は平気なのかよ」
「まあ、お前よりは全然平気だな」
兄の無邪気な笑顔を見て、俺も安心した。サポートなら任せろ。誰よりも自信がある。そう思ってビルの中へ進もうとした、その時だった。
「あれ? あれ? もしかして」
聞き覚えのある声。振り返ると、そこには週一が立っていた。かつて俺たちをひたすら馬鹿にしてきた男が、今も同じような嫌味な口調で近づいてくる。
「お二人ってあのお二人? いや、久しぶりですね。こんなところで会うなんて」
俺は兄と顔を見合わせた。意見は一致したようで、無視することにした。しかし、週一は行く手を塞ぐように入り込んでくる。
「そんな久しぶりに会った人に対して挨拶もないんですか? 悲しいなあ」
周囲の通行人がこちらを見ている。仕方なく「久しぶり」と口にしたが、どうしてもイライラして言葉が詰まる。
「は、何緊張してんの? 俺に会ったから? 今度は何言われるんだろうってビビってんの?」
そう言って、週一は俺たちの肩に両手を置いて体重をかけてきた。子供の頃と何も変わっていない。
「ここさ、俺のビルなわけ。父親から社長頼まれちゃってさ。本当社長って大変なんだぜ。知ってるか? いや、知らないか」
彼は同じクオリティのビルを他にも所有していることを自慢し始めた。聞いてもいない話を延々と続ける週一に、俺もうんざりしていた。すると、彼は俺を思いっきり引っ張り、耳元で囁くように言った。
「でもさ、やっぱ今日お前らに会って思ったわ。貸し出す人は選ばないとな」
次の瞬間、思いっきり突き飛ばされた。よろけた俺を兄が支えてくれる。
「ということで、やっぱりこのビルは貧乏人の立ち入りは禁止にします。あなた方はお引き取りを」
週一はそう言って、俺たちを通り抜けようとしない。ゲートへの道を塞がれ、さらに暴言を吐かれ続ける。
「お前らはそこの公園ぐらいがちょうどいいじゃないか。昔よくお前らで遊んでたじゃないか。俺が家で最新ゲームしている時に縄跳びとかしちゃってさ。いくつになっても住む世界が違うから」
帰れよ、さっさと出ていけ。週一は俺たちをビルの入り口へ押し出そうとする。あの頃とまったく同じだ。悔しい。しかし、ふと兄を見ると、何やら考え事をしているようだった。
「ここまで拒絶されては仕方ないな。お、兄貴の方は理解してくれました?」
週一がニヤニヤと笑いながら言う。
「もう2度と君とは会わないで済むようにしよう」
兄がそう言って俺を見た。その表情を見た瞬間、俺はすぐに兄の考えを察した。
「そうだね」
「は、やっとかよ。物分かりがおっせえな」
週一が大声で笑う。だが、その笑顔は数秒後に凍りつくことになる。
「ここの、いや、彼が所有する契約は全て解除しよう。もういくつか候補があっただろう?」
兄は俺にそう問いかける。
「あるよ。少し金額が高めだけど、アクセスがとにかくいいところも候補に残っているから」
「契約は何言ってんの? ああ、あのボロアパートの賃料、もしかして払えてないわけ?」
週一は自分に都合のいいように話を組み立てる。しかし、今日は3年に1度の賃貸契約更新日。俺たちはこのビルに来るために、ここを訪れていたのだ。
「ここは長年利用させてもらっていたし、正直愛着があったから、規模を拡大しても残していきたいと思ってたんだけどね。でも、こんな扱いを受けるなら残す必要はないかな」
「ははは、何言ってんの? 違うよ」
「ここの大半のフロアが同じ会社のコールセンターだろう。ここの賃貸契約の話だよ」
俺が指差した先には、ビルに入っているテナントの名前が書かれた一覧が飾られていた。2階から10階まで、同じ会社が入っている。それが俺たちの会社だった。
ベンチャーから始めた俺たちは急速に成長し、今ではコールセンター業務を主軸に力をつけている。売上は好調で、むしろ規模を拡大したいが場所を確保できていないという問題を抱えるほどだった。週一の会社が保有するいくつかのビルに営業所を構えており、このビルが一番大きな規模で展開していた。
「嘘だ。嘘に決まっている」
週一は見る見る顔面蒼白になっていく。俺たちは名刺を差し出した。そこには「社長」と「副社長」の文字が並んでいた。
「いや、さっきまでのは実は茶番でして……」
無理がある言い訳に、俺たちは思わずため息が出た。
「候補で残してあるテナントの内覧って、今日取れたりする?」
「向こうからどうですかって案内をもらってた場所だから行けると思う。連絡してみるよ」
俺たちは週一に構わず、新しいオフィス探しに切り替える。
「待って待ってください。本当に悪気がなかったんです。まさかこんなご厚意にしていただいていて、追い出すわけないじゃないですか」
猫なで声で態度を変える週一に、俺は寒気がした。すると、兄がしゃがみ込んで週一に言った。
「私はね、一度決めた信念は曲げないんですよ。幼少の頃、絶対この屈辱から脱却しようってここまで来たみたいにね。だから、これまでお世話になりました」
兄はそう言うと、さっきまで週一が俺たちにしていたように、週一の肩にポンポンと手を置いた。
「いやあ、やめてください。どうかご勘弁を」
週一は年甲斐もなく泣き叫んでいたが、俺たちは構わず彼のお望み通りにビルを後にした。会社に戻ると、早速契約更新しない旨を担当者へ通達した。
その後日、週一の会社から契約解除の請求ができないように引き延ばそうとしているという連絡が届いた。どうやら週一が勝手に契約解除をさせないよう、書類を握りつぶしていたらしい。
「こんなことされてるんだけど」
「ああ、めんどくさいことをするんだな。いい大人が」
兄はそう言うと、おもむろにスマホを取り出して電話をかけた。
「どうも、こぼさ汰しております。ええ、実はですね、あなたの息子さんが契約解除をさせないようにって無理に引き延ばしているみたいなんですが、迷惑なのでやめていただけますか?」
電話の相手は週一の父だった。大家と住民だった頃からの付き合いだ。会長である彼は事情を知らなかったらしく、兄の説明を聞くとすぐに動いてくれた。電話越しにも息子に対する怒りが感じられたそうだ。
それからすぐに契約解除の証明書が届き、週一に邪魔されることはなくなった。さらに後日、週一はこの一件で会社から追い出されたという。それまでも傲慢な態度で周りを困らせ続けていたが、ショックだったのは、家からも追い出されて、現在は俺たちが子供の頃に暮らしていたアパートで暮らしているらしい。
同級生たちから久しぶりに連絡が来たと思ったら、「ずっとスウェットでそこら辺を歩き回ってる姿が可愛そうだから見に来いよ」という内容だった。
「誰が見に行くかよ。やっぱりああいう奴は無視に限るんだよな」
そう言って兄がふっと笑い出した。それに釣られて、俺も笑ってしまった。
「戦う相手じゃない。その通りだったね」
子供の頃、兄が取っていた行動の数々が、長い年月をかけてやっと腑に落ちた。
「あいつと同類になっちゃいけない。俺たちはしっかり地に足をつけて、人様に迷惑をかけないようにしないと」
「ああ、そうだ。規模が拡大するんだ。これからも謙虚に真っすぐやっていこうじゃないか」
新しい規模で挑んでいくのに大切な社員たちが入ってくる入社式当日。俺たちはより硬い絆で会社の成長を約束し合ったのだった。



