夫が突然、離婚だと宣言してきた。テーブルに叩きつけられた離婚届には、すでに彼の署名がされていた。単身赴任先から戻ってくるなり、夫は私と娘に向かって罵声を浴びせた。
「おい、何をボサッとしてるんだ。お前みたいな専業主婦が俺に逆らえると思ってるのか?早く荷物をまとめて出ていけ!」
彼は私のことを見下し、まるで邪魔者でも扱うように言い放つ。しかし、私も娘も、彼の言う通りに出ていくつもりはなかった。私たちは顔を見合わせ、思わず吹き出してしまった。
「何を笑ってるんだ?」
「パパ、出ていくのはあなたの方だよ。何も知らないんだね」
そう言った私の言葉に、夫は呆気にとられたような顔をする。彼はこの家は自分の父のものだと言い張る。いずれ自分が相続するから、つまり自分の家だとも。
「この家は親父のものだぞ。お前たちこそ出ていけ!」
私は胸の内で笑いをこらえながら、一枚の書類をテーブルに置いた。それは戸籍謄本だった。何のことか分からず、首をかしげる夫に、私は淡々と告げる。
「見たら分かるでしょ?戸籍謄本よ。私はあなたのお父さんと養子縁組したの」
その瞬間、夫の顔色が一変した。彼は、女手一つで自分を育ててくれた父を尊敬している。だからこそ、父が私を養子にし、相続人にしたことが信じられないのだろう。
「なんでお前と親父が!?」
「あなたはさっき、ここは俺の家も同然だと言ったわね。でも、違うの。この家を相続するのは私よ。そして、私が不要だと判断すれば、あなたをここから追い出すこともできるの」
私はさらに続ける。私が離婚を考えていたのは、あなたに言われるずっと前のことだと。既に離婚届も用意してあり、私の署名も済ませてあった。
「お前がそんなことをするなんて。浮気もしてないのに、何が不満なんだ!」
その言葉を聞いて、娘が一歩前に出た。
「パパ、嘘つかないで。浮気してたんでしょ?それで、愛人との間に子供ができたんだよね?」
娘の鋭い指摘に、夫は言葉を失った。ただ、口をパクパクさせるだけで、何も言い返せない。
「証拠がないなら、俺が浮気したって言う証拠を出してみろよ!」
夫は開き直って、そう言い放った。彼は、私たちが彼の単身赴任先のアパートに行った時、そこが異常なほど殺風景だったことを思い出しているのだろう。浮気の証拠が何もなかったから、勝ち誇っている様子だ。
「あなたが私たちを連れて行ったのは、浮気を隠すためのカモフラージュ用の家だったんでしょ。本当に浮気をしている家は別にあるのよ」
私はそう言って、現像した写真をテーブルに並べた。そこには、別のアパートに出入りする夫と、見知らぬ女性の姿が写っている。さらに、彼女の腹部が膨らんでいるのが分かる写真もある。
「どういうことだ…」
夫は顔を真っ青にして、写真を凝視する。彼は、私たちが彼を尾行していたこと、そして娘が勘づいたことで調査を始めたことを知り、驚愕していた。娘が女優に興味を持ち、ドラマの中で“浮気を隠すための偽の家を借りる”という設定を見たことが発端だったのだ。
「なるほどな。趣味がこんな形で役に立つとはな」
娘は誇らしげに笑うが、夫はそこまで考えが及ばなかったようだ。彼はしばらく沈黙した後、観念したように言った。
「そうだよ。俺は浮気してたよ。すみませんでした。これで満足か?」
口では謝罪しながらも、その態度は開き直っていた。さらに、彼は私を指さしてこう言い放った。
「でも、お前にも原因があるんじゃないか?お前みたいな専業主婦より、働きながら子育てもしてくれるレイカの方がいいに決まってる」
彼の言葉に、私と娘は怒りで震えた。私はこれまで、彼の求めに応じて専業主婦として家庭を支えてきたというのに。娘が生まれてからも、働きたいと言った私に、彼は「俺が養ってやるから家にいろ」と言ったのは、彼の方だった。なのに、その仕打ちがこれか。
「よくもまあ、自分の娘にそんなことが言えるわね。パパは全面的に悪いんだから、それを認めて出ていけばいいのに」
娘がそう言うと、夫は「出ていくのはお前らだ!」と怒鳴り返す。彼は、まだ私が養子縁組したことも、この家を相続することも信じていない様子だった。
「どうせ、その書類も偽造したんだろ! 出ていけ!」
そう言って、彼が玄関の扉を指さした、その時だった。ピンポーンとチャイムが鳴る。その音を聞いて、私はこっそりと笑みを漏らした。私が呼んでおいたのだ。夫が扉を開けると、そこには義父が立っていた。夫は驚きの声をあげる。
「な、なんで親父がここに…」
私はテーブルの上に置いてあったスマートフォンを示した。そこには、義父との通話画面が表示されていた。夫が帰宅してから、今までの会話はすべて義父に聞かれていたのだ。夫の浮気のことも、私への暴言も、すべて。
「よくもまあ、そんなことが言えるな」
義父の抑えた怒りの声に、夫は縮み上がる。義父は私に向かって深く頭を下げた。
「申し訳ない。私がしっかり見ていながら、こんなことになるとは。養子縁組の件も、相続の件も、すべて本当のことだ。今後、この家を裕也に継がせることはない」
夫は呆然とするしかなかった。そして、義父が続ける。
「私の前では真面目な顔をしているが、お前がサナさんやミクに向ける目が冷たいのは気づいていた。その感は当たっていたようだ」
「違うんだ、親父!これは全部、サナが…」
「黙れ。お前が何を言おうと、もう決めたことだ」
夫は遂に何も言えなくなった。すると、彼は突然、ふて腐れたように吐き捨てた。
「なんだよ、そっちの肩を持つのかよ。こんなことになるなら、親孝行なんてしなければよかった。やっぱり、全部演技だって言われても仕方ないけどな。遺産を横取りしたかっただけだし」
義父は呆れて、何も言えなくなっている。娘はその様子を見て、ため息をついた。そして、私は夫に言った。
「あなた、勘違いしているみたいね。私はあなたと離婚しても、経済的には何も困らないのよ。むしろ、私の方が収入が多いくらいだから」
「は? 専業主婦のお前が?」
「パパはママが脚本家として大人気だって知らないんだよ。ママはずっと家で仕事してたんだよ」
娘がそう言うと、夫は驚愕の表情を浮かべた。彼は私たちのことを何も知らなかったのだ。素の生活を送ったこともなければ、娘の趣味も知らない。収入が低いと見下していた相手が、実は自分よりも稼いでいたという事実が、彼のプライドを打ち砕く。
「だから、あなたに生活費を渡してあげてもいいのよ。ついさっき、あなたが私に言ったようにね」
夫は顔を真っ赤にして怒鳴ったが、もう遅い。彼は、私の言葉に反論できず、悔しさに唇を噛みしめるだけだった。すると、彼は突然、私が用意していた離婚届にサインをして、足早に家を出て行った。彼の背中を見送りながら、私は義父に言った。
「大丈夫ですよ、お父さん。もう、手は打ってありますから」
義父は首をかしげていたが、私はニッコリと微笑むだけにとどめた。それから数か月後、私のスマホに元夫からの着信があった。私は、予想通りの言葉を聞きたいがために、あえて電話を取った。
「もしもし、頼むよ。助けてくれ」
彼は、恋人だと思っていたレイカという女性に騙されていたと話し始めた。実は、彼女はキャバ嬢で、金目当てで近づいていたのだ。エリートだと偽っていただけで、本当は違っていた。彼女は、彼の貯金を奪って姿を消してしまったらしい。私はそれらを既に知っていたが、黙って聞いていた。
「金を貸してくれ。貯金も尽きて、生活費すら出せないんだ」
「あなた、言ったわよね。『今後一切お前には頼らない』って」
そう言って、私は電話を切った。その後、彼はボロボロになり、見事に転落していった。街中で、すさんだ姿を何度か見かけたが、声をかけることはなかった。彼は自業自得だ。反対に、私と娘は幸せに暮らしている。娘は夢だった女優になることができ、私が脚本を書いたドラマに出演も果たした。義父とも良好な関係を築けている。私は、新しい生活を力強く歩んでいくのだった。



